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キラキラ 271

「奈月?」と僕は尋ねた。この野宮へ来てから何度彼女の名前を呼んだことだろう。だが彼女は、これまでとは違って、僕の声など聞こえていないようだ。
「私は、先輩が私に会いに来てくれる日を夢見て、ずっと待ってたんです。そのことによって、麻理子さんが怒り出そうが、東山君に殴られようが、全然かまわなかった。先輩が私の名前を呼んで、私の手を取って、どこかへ連れて行ってくれれば、すべての問題は解決できたんです」
 僕の心に海水のように染み込んできた感覚が、僕を深いところで揺さぶり始めた。頭では、それは危ない揺れだということは分かっている。だがそれは、僕の意志で制御できるようなものでもなかった。僕は、頭の中で鳴り響く警告音を聞きながらも、ただ流れに身を委ねるしかできなかった。 
「でも、先輩は、来てくれなかった。麻理子さんを選んだんです。いえ、もしかしたら、麻理子さんが東山君に耳打ちしたように、他に愛する人がいるのかなって思ったこともありました。だって、私がどんなにメッセージを発しても、先輩は全く気づいてくれなかったんです。まるで、大きな岩のように動かなかった。でも、だからこそ、私は憧れたんです。いつか先輩が私の方を向いてくれることを」
 奈月の洞察通り、あの時僕の心の中にいたのは、他でもない幸恵だった。僕は麻理子と一緒にいながら、幸恵のことを考えていたのだ。だから僕は麻理子と同じ布団で寝ながらも、彼女を抱くことはめったになかった。それでも僕の隣にいたがる麻理子に対して、罪悪感を感じていた。でも、僕はどうしようもなかった。もちろん、その事実を奈月が知るよしもないし、今さら伝える必要もない。
「私は毎晩、東山君の隣で、先輩のことを考えていました。先輩と2人で生活することができたら、どれほど幸せだろうかと思いました。それに、これはあまり言えないことですが、麻理子さんを見返してやりたいという思いもありました。ひょっとしてあの人に殺されるかもしれないとも思いましたが、先輩が私を選んでくれたなら、怖くはありませんでした」
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キラキラ 270

 奈月は急に声色を変えた。呪われたような、おそろしい声だった。本能的に背筋をのけ反らすほどだった。奈月は、僕の方にまっすぐな視線を向けている。さっきまでの、別の魂の宿った奈月に逆戻りしてしまったかのようだ。
 すると奈月は、今度はうって変わって、甘くやさしい声で「先輩」と話しかけてきた。僕は返事すらできなかった。
「ずっと、待ってたんですからね」
 その言い方は、親しげだった。
「私は麻理子さんに、身も心もボロボロにされてしまったんです。苦しさで胸が引き裂かれそうになった時、私の隣にいたのは東山君でした。あの人は、なぜ私が寂しそうにしているのか、その理由を知っていました。すべては麻理子さんの思惑通りでした。東山君は、きっと私よりも、もっと傷ついていたことでしょう。とにかくもう、めちゃくちゃだった」
 過去のことを話しているはずなのに、あたかも現在の苦悩を語っているのかのように聞こえる。
「だから私は待つことしかできなったんです」
 その時、僕の心の知らない部分で、何かがぐらりと動き始めたような感覚があった。たった今感じた目の前の女性に対するおそろしさが、少しずつ形を変えているような気がする。危ない、と僕は心の中で声を出した。でも、その感覚は、まるで砂にしみこむ海水のように、じわじわと確実に勢力を広めていった。
「問題を解決する方法は、たった1つだけありました。だから私は、そうなるのをひたすら待っていたんです。長かった・・・」

キラキラ 269

「俺はやさしくなんかないよ」と思わず言葉がこぼれた。奈月は「やさしいですよ、先輩は」と繰り返した。今の僕の言葉と同じくらいに実感の重みのある言葉だった。僕は、これ以上何も説明する必要はなかろうと思った。真実を知らない方が幸せなこともある。むしろ、何でも言葉を尽くして説明すればいいというわけでもない。
 すると奈月は「えっと、さっきどこまで話しましたっけ?」と言った。僕もすぐには思い出せなかった。すると彼女は「前回、東山君と2人でここへ来た時のことでしたね」と小さく言った。
 僕は、内心、これ以上奈月の話を聞くのが怖かった。彼女がまだ何か、重大な秘密を隠しているのではないか、もちろんそこには僕も絡んでいる、それを聞くのが怖かったのだ。奈月がこの長い話をし始めたそもそものきっかけは、僕がした2つの質問だった。1つめは、なぜ奈月は六条御息所の言葉をまるで自分のもののようにはっきりと覚えているのか、それから2つめは、奈月はこの野宮に来て何をしようとしているのか。奈月は、2つの質問を個別に答えるのではなく、彼女自身の方法で答えたいと言ったが、今の話は、僕の質問が踏まえられているのだろうか?
 そんなことを考えていると、奈月は「前に東山君とここへ来た時、私は胸が塞がるように苦しかったんです」と深刻な声色で話し始めた。「先輩が私からどんどん離れていくようで、それがすごく怖かったんです。その頃、毎晩のように、先輩と麻理子さんが楽しそうに夜を過ごしている光景を想像しました。東山君はそんな私を見て、ますます機嫌を悪くしました。たしかに私はあの人のことが好きでした。でもその思いは、あの人が私に手を上げて以来、脆いものだったんだと気づいていました。私はただ、東山君が逆上しないように、偽っていただけです。あの日、竹林の道を歩きながら、頭の中は先輩のことでいっぱいでした。そうして、私から先輩を引き離して優越感に浸っているであろう麻理子さんを殺してやりたいと思っていました」

キラキラ 268

 僕は幸恵のそんな考え方に心地よさを覚えたものだ。そういえば、彼女はこんなことも言っていた。自分を責めすぎてはいけない。なぜなら、自分は常に「状況」の中心に立たされているから。後で悔やむような言動をついしてしまうのも、そのせいなのだと。
 僕は、大きく深呼吸した。夜明け前の緑の香りが鼻の奥にまで入り込んでくる。
 僕と奈月の孤独な魂は、これまでは決して理解し合うことはなかった。だがそれはお互いに自分のことで精一杯だったからだ。あの頃僕たちは、それぞれの「状況」に立たされていた。幸恵の文脈に沿って捉え直すと、そんなふうに解釈することもできる。
「でも、結局、東山君の方から、別れ話を持ちかけてくることはありませんでした。今思えば、彼もいろいろと悩んでいたんでしょう。とにかく、あの人とのことは、過ぎ去った思い出ですよ」と、僕の心を知らない奈月はさらりとそう言った。彼女も少しは落ち着いてきているようだ。
「お父さんが病気で倒れた時も、もちろん東山君も心配してくれたけど、私が一番に頼って相談したのは、やっぱり先輩でした。あの時はもう麻理子さんはアメリカに渡っていたので、以前よりは相談しやすくなってましたしね。でも、先輩と麻理子さんの関係がどうなったのかは知らなかったし、何というか、トラウマみたいなものも残っていたので、深入りしすぎちゃいけないなって、ずっと言い聞かせてたんですよ。だけど、実際、先輩のアドバイスは的確だったから、どうしても頼ってしまったんです」
「そうだったかな?」と僕は久しぶりに言葉を口にした。
「そうですよ。先輩は私の話をちゃんと聞いてくれて、私の置かれた状況を踏まえた上で、考えを尊重してくれました。自己解決に導いてくれたんです。先輩は、本当にやさしい人です」と奈月は言った。
僕は、あれっ、と思った。僕は奈月の本当の苦しみを理解していなかったのだ。しかもその時は自分のことで精一杯だった。だのに今、奈月は僕のことを「やさしい」と言ったのだ。

キラキラ 267

 あぁ、これで僕と奈月の仲も終わりだな、と僕は悟った気がした。僕は何も知らないまま麻理子や奈月と過ごしてきたのだ。そうしてその途上において、たくさんの大切なものを見落としてきたのだ。もはや奈月に合わせる顔などない。
 これまで僕は何度も絶望感にさいなまれてきた。恋のこともそうだし、仕事のことも、それから今後の生き方のことも、考えれば考えるほど迷宮にはまり込み、逃げ場のない人生という強風に背中を押されながら、どこかへたどり着くしかないのだというあきらめの中に自らを投じてきた。なおかつ、それらの苦しみを僕独自のものだととらえることで、ささやかな慰めを得てきた。
 だが、奈月の口から真実を聞いた時、僕は自分という立方体の狭い部屋に閉じこもっていただけだったということを思い知った。そして、自らの悩みにとらわれるあまり、身近な存在だった奈月の苦しみにすら気づかなかった。
「でも、人間って、そんなものなのよ」
 突然声が聞こえた。他でもない幸恵の声だった。いつだったか、幸恵は、彼女の運転する赤いBMWのセダンの中でそう言った。
「どうしてあの人はやさしくないんだろうって、心底がっかりすることってあるでしょ? でも、それって、その人がやさしくないというわけじゃないと私は思うの」
 幸恵は2人きりになると、よくそんなたぐいの話をしてきた。
「もちろん、やさしさを完全に忘れてしまった人間もいるわ。でも、私たちは、そんな人にははなからやさしさなんて期待しないでしょ。がっかりさせられるのは、やさしさを期待できる人に裏切られた時よね。じゃあ、どうしてその人がやさしくしてくれないのかっていうことなんだけど、その理由は意外と簡単なの。その人に、他の人にやさしくするだけのゆとりがないのよ。つまり、自分のことで精一杯なのよ。そして、それが人間っていうものなんだって、私は思うわ」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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とびっきり寂しい旅に・・・

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