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キラキラ 310

 その後で奈月は、にわかに哀しげな表情を浮かべた。タクシーの車内には、エアコンの吹き出し口から出る冷房の音が断続的に響き、車外からは、不機嫌そうなディーゼルエンジンの音が聞こえる。
「先輩も、東京で頑張ってるだろうなって、何度も思いました。このしおりを見て」
 奈月がそう続けた後、彼女の表情はさらに哀しくなった。おそらく、タクシーの運転手がいなければ泣いていだたろう。とはいえ、運転手の方も、おし黙っている。後部座席の空気を読んでいるようだ。
「奈月」と僕は呼びかけた。すると彼女は、次に出てくる僕の言葉を塞ぐかのように、口を開いてきた。
「でも、もう、このしおりはいらないです。捨てて帰ります」
 僕は奈月の横顔を見た。そこからは、たとえば軽はずみでそんなことを言ったとは決して思えない深刻さがありありと見て取れた。
「そんなことを言わなくてもいい」と僕は、できるだけ感情を抑えながらも、思いをそのまま口にした。そのうえで「そのしおりには、大切な想い出がたくさん詰まっている」と続けた。
 すると奈月は意外にも「そうです。大切な想い出なんです」とあっさり返してきた。その勢いで次の言葉が出てくるかと待っていると、一転して何も言わない。僕たちはいつのまにかちぐはぐな関係になっている。もちろん僕は、奈月に何か言ってほしかった。サーブ権は、あくまで奈月の方にある。
 その時、運転手がギアを入れ、タクシーは工事中の道を、まるで眠りから覚めた老犬のようにがたがたと進み始めた。その振動が奈月を刺激したのか、彼女はここで「長い1日でしたね」と話の矛先をそらした。
 僕はまた彼女の横顔を見た。哀しげだったその顔は、少しさっぱりしているようだった。今のわずかな間に、過去を諦めたのかもしれない。そんな横顔を見ると、僕の方が哀しくなってきた。
「普通、楽しいことって、早いはずなのに、この1日は、ほんとうに長かった」
 奈月は、笑みさえ浮かべながらそう述懐した。
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キラキラ 309

 その時、奈月は、ふと思い出したかのように、自分の白いトートバッグの中に手を入れた。彼女の細い手がいったい何を取り出すのだろうかと注視していると、出てきたのは、東山が作った旅行のしおりだった。それは、驚くほどにくたびれて、しわくちゃになってしまっていた。
「昨日はまだ新しい感じだったけどな」としおりを見ながら率直なところを述べると、奈月は「そうでしたかね」と、どこかとぼけたかのように返しつつ、まるで、自分で焼いた器でも眺めるかのような、いとおしげな視線をしおりに向けた。
「この旅で、何度も引っ張り出して読んだからな」と僕は言いながらも、たった1日でこんなにも古めかしくなるものだろうかと不思議に思いもした。
「これまで、つらいこととか、独りぼっちになった時には、このしおりを見て、いろんなことを思い出して、それで何とか頑張ってきたんです」と奈月はしみじみと回想した。「教員試験にチャレンジしている時も、これを見ると、やる気が出てきたものです。旅行に行ったみんなも頑張ってるんだから、私だけ弱音を吐くわけにはいかないって」
「奈月は、十分頑張ってきたよ」
 そう言った直後に、この旅の中で奈月が話してくれたことが思い出された。東山のこと、麻理子とのこと、お父さんの病気、それから、僕のこと。彼女はこれまで必死で生きてきた。弱音など吐かずに。
 だが奈月は僕からのねぎらいに応えることなく、やはり薄く笑いながら、しおりに目を落としている。
 すると、タクシーは車折神社の前で止まった。そういえば、ここは昨日バスで来る時に、工事中だった地点だ。今はまだ朝が早いということで、簡易式の信号機が建てられているだけだ。赤信号の下には待ち時間がデジタル表示されている。そこには赤い文字で「1:39」とあり、そこから1秒ずつ減っている。
「このしおりは、私が私らしくあるための、よりどころみたいなものでした」と奈月はつぶやいた。

キラキラ 308

 僕も足を止めた。疲れの色にまみれている奈月は、それでも瞳だけは黒々としている。
 どうした? と僕が話しかけるより前に、彼女は瞳を閉じて、キスをせがんできた。僕は彼女の乾いた唇に、自分の唇を押しつけた。もはや、危ない、という声すら聞こえない。
 ただその瞬間、これからも奈月と一緒に歩くことができるという思いが、ぐらぐらと傾いた。キスをしながら僕はそんな不安を覚えていた。いや、絶望感と言った方がいいのかもしれなかった。
 ただ、それにしても、さっきまでとは違い、静かな、そして、自然なキスだった。僕たちは、もう、大学時代までの関係ではない。次第に強さを増す陽光が、じりじりと竹林に照りつける香りがほのかに立ちめるのを感じた。
 ホテルに戻ってきた時には、背中は汗でぐっしょり濡れていた。部屋に入ってもう少しゆっくりしていこうと強く提案したものの、奈月は黙って笑いながら首を振るばかりだった。
 僕たちは、タクシーを使って京都駅に戻ることにした。
「楽しかった」と窓の外を見ながら奈月はつぶやいた。まだ朝が早いために、嵐山の町には人通りはない。陽光だけが、存分に降り注いでいる。
 気安く言葉をかけることができないくらいに、奈月の横顔は物憂げだ。昨日よりも首筋が細く見える。この旅をするうちに、奈月はぐっと年齢を重ねたように映る。
 いや、昨日までの奈月とは、別人になったのかもしれないとさえ思う。奈月の抜け殻に、誰かの魂が宿っているのではないだろうか? そう疑った途端、陽光が顔面に照りつけ、すべてをくらました。
「そんなに急いで帰る必要はない」と僕は、目を細めながら、さっきから何度も言っていることを改めて口にした。だが奈月は、その言葉には何ら反応せず、ただ、乾いた笑顔を窓の外に投げかけるだけだった。奈月との距離は触れることができるほどに近いのに、とてつもなく遠く感じられた。

キラキラ 307

 早朝の竹林の道を小走りで進みながら、そういえば、ここへ来る時にはまだ夜も明けておらず、空気もひんやりとしていたことを思い出した。あれからいったい何年経っただろうかと思う。
 いや、よくよく考えてみると、ほんの数時間しか経っていないのだ。僕は思わず両手の手のひらを広げて見た。今はいったいいつなのだろうと思う。そうして僕はいったい誰なのだろうと思う。不安になってふと顔を上げると、いつの間にやら奈月の隣に追いついている。その瞬間、心が少し落ち着いた。
 昨日はずっと奈月の隣を歩いた。それはとても自然な感じをもたらした。
 大学時代、僕たちはよく2人で歩いたものだ。僕は正門から学部キャンパスに続くけやきの道が好きだった。特に梅雨の晴れ間の風情には、何度も気分を良くしてもらった。地表から立ちこめる水気を含んだ空気が、けやきの緑をより鮮やかに浮かび上がらせるように思われた。授業が終わった後、僕はその道を奈月と歩いたものだ。あの時も奈月は決まって僕の少し前にいた。そうして、時折振り返りながら、いろんなことを、まるで少女のように楽しそうに話した。僕はそんな奈月の話を半分くらいにして聞いた。だからか、彼女が何を話したかはほとんど覚えていないが、その時の光景だけはくっきりと思い出すことができる。
 そうして、僕は今、やはり奈月と歩いている。大学を卒業して会うことのなかった時間の長さを実感することのないくらいにありふれた自然な光景だ。
 これからもこうして一緒に歩くことがあるに違いない。僕はそう思った。今回の旅が僕たちにどんな意味をもたらすことになろうとも、僕たちの関係は途切れることはない。そう考えるとすっと背筋が伸びた。それと同時に、辺りを囲む竹林のみずみずしい香りが鼻の奥に入り込んできた。
 もう少し奈月と一緒にいたい。離ればなれになった光源氏と六条御息所が文通したように、これからも気軽に連絡を取り合う関係でいるために、話をしておきたい、そう思った途端、奈月はふと足を止め、僕の顔をまっすぐに見上げてきた。

キラキラ 306

 その、竹箒が石畳を掃く音は、憎らしいほど軽快に境内に響き渡り、すっかり明らんだ空へと抜けていく。杉の枝にはガラスフレークのような陽光が散りばめられている。
 奈月は最後にもう一度、僕の胸に深く顔をうずめた。そうして、しばらくしてから、深くて短いため息をつき、「行きましょう」と小さく言った。
「とりあえず、ここを出ようか」と僕は、箒を手にした神官に一瞥して同調した。だが心は今にも割れて砕けんばかりだ。奈月は何も応えずに、いかにも名残惜しそうに空を見上げている。上からは蝉の声が、足下からは虫の声が聞こえる。奈月に何かを言おうとしているようだ。
 黒木の鳥居をくぐり、境内の外に出た瞬間、また何かの境界を越えたような気がした。明石海峡大橋を過ぎた時とはまた違った感覚だ。境界線を越えたというよりは、ページが1枚めくられて、次の場面にさしかかったような感じだった。
寂しかった。もう前のページには2度と戻ることができないと分かりきっているからこそ、寂しさは絶望的だった。「生きることって、こんなにつらいんですか?」という奈月の言葉が心の奥から聞こえる。それは奈月の声でありながら、僕の声でもあった。
 少し先を歩く奈月の背中を見ていると、この距離感自体が僕たちを象徴しているような気がしてならない。僕よりも若い奈月は、僕よりも生きることの苦悩を、しかも僕の気づかぬうちに経験していたのだ。そうして僕は、奈月が経験してきた苦悩を、自分のものとして後からなぞっている。
 昨日から奈月は『宿世』という言葉を何度も口にしている。ひょっとして、僕にとって、この旅は、奈月の苦悩に気づき、そうしてそれを追いかける旅だったのではないかと思えてきた。だとすれば、それはいったい何のためだろうかとも思う。というのも、昨日から、この世に無意味な出来事などないのではないかと思い始めている。
 気がつくと、奈月の背中はぐんと遠くなっている。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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