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鎌倉物語 20

 明子が僕の勤務していた社会保険事務所を訪ねてきたのはもう3年前のことになる。あれはちょうど5千万件にも及ぶ国民年金の記録データが消失しているという国家的問題が持ち上がっている時だった。資金の管理の方面については普段あまり神経質になることのない明子も、社会保険庁からの度重なる連絡を受けて、しかたなく保険事務所に寄ることになったのだ。
 第一印象というものはぶれない。人との出会いは最初の3秒で決まる。事務所の上司はよくそんなことを言うが、それについては僕もほぼ同感だ。初めて明子を見た時、僕はある不思議な感覚にとらわれた。彼女はこれまで見てきた女性とはどこか違う雰囲気を身にまとっていたのだ。
 まず彼女はどきっとするほど美しかった。しかし美しい女性なら他にもいる。明子が他の女性とは違うのは、つかみ所がないということだ。彼女がふっと笑う。初対面の僕にはそれがうれしいのか哀しいのか、まるでつかめない。年金の状態を説明する僕の顔を彼女は見る。しかし僕を見ているのか、それとも僕と彼女の間に生まれたわずかな空間を見ているのか、分からない。事実僕は何度か彼女に説明が伝わっているのかを確認しなければならなかった。すると彼女は分かったような分からないような反応をするのだ。
 僕はほんの一瞬で彼女に興味をもった。この女性は何か奥ゆかしいものを内面に秘めていると思った。そして彼女の年金記録に目を通した時、やはり僕の直感は外れていなかったと思った。
 彼女には家族というものがなかった。にもかかわらず、彼女は十数年間、仕事に就いた記録が何1つとして残されていなかったのだ。
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鎌倉物語 19

今回の旅で明子についての印象が少しだが変わった。普段明子は多くを語らないし、この世で彼女にしか見えない「たまらなさ」を抱え込んで生きている。僕はその部分も含めて彼女を愛してきた。いやむしろ、そういう部分があるからこそ僕は彼女に対して何かできることはないかと真剣に考え、その分彼女に惹かれてきたのだ。
 しかし鎌倉に来て、その独特とも言える空気にさらされた途端、彼女は僕の見たことのない一面を覗かせた。本来の伸びやかさを取り戻したのだ。それはまるで籠の中から出されて野生に解放された蝶の姿を連想させた。
 しかしだからといって安心することもできない。明るさの裏には必ず暗さが訪れる。明子はその周期の間に、まるでつむじ風に漂う木の葉のように行ったり来たりして彷徨っている。突然思索の世界に迷い込む彼女は、むしろ普段よりも脆くて不安定な存在にさえ見える。
「宗教の世界って、世の中の事象を超越したものがあるのよ。鎌倉時代の末期には僧侶たちもずいぶんと堕落してたようだけど、だからこそ幕府は滅びたと捉える人もいるの。この円覚寺を創建した北条時宗も、それから無学祖元っていうお坊さんも、目の前に起こっている現象にとらわれない、壮大な宇宙観を抱いていたはず。私が求めたのも、そういう世界だった」と言った明子の目には、やはりどこか憂いの色がにじんでいる。
 明子がかつて仏門に憧れた明確な理由は僕にも想像がつく。そして明子の方も、そんな僕の心を理解している。コミュニケーションとは言葉によって行われるものではないということを知ったのは明子と出会ってからのことだ。いや、「コミュニケーション」という言葉自体、なんて実体のない空疎なものだろうとさえ思う。

鎌倉物語 18

「やっぱり鎌倉と京都はつながってたんだね」
 明子は妙香池の説明板から目を離し、息をひとつ吐き出した。
「それって、驚くことなの?」と何も知らない僕は素朴な疑問をそのままぶつけた。
「だって、京都には天皇がいて鎌倉には幕府がある。両者は当然仲がいいはずはないわよね。実際朝廷と幕府の間では何度も争乱が起こってるし」
「そういえば、ある天皇がどこかの島に流されたっていう話を聞いたことがあるな。今じゃ考えられないことだけどね」 
「争い事になるとやっぱり武器の使い方に長ける幕府軍の方が強いのよ。それでも、当時の文化人の多くは京都に残った。藤原定家も鴨長明も、それから兼好法師も。でも僧侶たちは、京都と鎌倉を頻繁に行き来してたのね、きっと」と明子は言い、あたかも絵巻物でも眺めるかのように、改めて池の隅々まで視線を行き渡らせた。
「それにしても君は歴史に詳しいな」と僕はまた思ったことをそのまま述べた。「大学で相当熱心に研究したんだろうね」
 僕がそう言うと明子は苦笑いのようなしわを口元に浮かべて言った。
「そうじゃないわ。大学生だったのはもう20年以上も前のことだし、だいいち歴史と文学というのは似ているようで全然違うのよ」僕は竹で組まれた池の柵を手にしたまま彼女を見た。明子の瞳には再びうつろな色がにじんできていた。
「私が歴史に興味を持つようになったのは、禅の世界に惹かれたのがきっかけよ。タカシ君にも言ったことがあるかもしれないけど、私本気で出家を考えたことがあるから」

鎌倉物語 17

 それから僕たちは円覚寺の伽藍を奥に進んだ。境内には様々な建物が散在していて、一見何かのテーマパークのようにも映った。茅葺き屋根の古びた建物も多く、明子が言ったとおり時代を感じさせる味わいのある風景が重なり合っている。
 仏殿からしばらく歩くと、左手に妙香池という深緑をたたえた池が現れた。池の中にはバームク-ヘンの断面のように層の模様が入った岩肌がむき出しになっている。岩の近くには「虎頭岩」という看板が掛けてある。
「ただの池じゃないな」と僕が立ち止まって言うと、「枯山水の庭園を意識してこしらえてあるんじゃないかしら」と明子は言った。「ちょうど岩の近くで水が湧いていたから、それをうまく利用して庭を造った。禅の世界では庭は宇宙を表現するための1つの方法だから」
 そう言って明子は池の畔に立っている説明板を読み始めた。それから「へぇ、この池は夢窓疎石が作ったんだ」といつもよりも高めの声を上げた。その人物は誰だと僕が聞くと彼女は説明板に目をやったまま答え始めた。
「鎌倉時代の高名な禅僧よ。南禅寺とか、京都でも相当レベルの高いお寺の住職を務めた人よ。庭師としても超一流で、たしか苔寺で有名な西芳寺の庭園にも関わってるはずよ」
明子はやや興奮気味にそう言って、それから再び池を眺めた。元々緑色の水は、周りの木立を水面に映し、よりいっそう深い緑に見える。

鎌倉物語 16

「人間は弱い存在。たしかに、あなたの言う通りね」と明子は漏らした。「だから死ぬまで修行しなければいけないのよ」
 ペナレスの街角の風景を思い起こしていた僕は再び彼女の横顔に目をやることになった。明子はうつろな瞳で釈迦如来像と自分との間の空気を見つめている。
「俺の言葉には別に深い意味なんてないんだからそんなところで引っかからなくていいよと」言おうとしたが、それは思いとどめることにした。彼女は再び自らの思索の中に沈み込んでしまっていた。 
「行きましょ」と明子が言ったのはそれからしばらくしてのことだった。彼女は仏殿を離れ次の順路に向けて進み始めた。相変わらず空は澄んでいて、寺独特とも言える空気感がそこはかとなく漂っている。参拝する人の数もさっきより多くなっているように感じる。
「それにしてもいい天気」と彼女は言い濃紫の眼鏡をかけ直した。予期していたよりも早く思索の世界から抜け出たものだと、隣を歩きながらそう思った。
「仏殿は見るからに最近再建されましたって感じだけど、お寺の奥には鎌倉時代から残っているものもあるのよ。円覚寺の魅力って、伽藍にあると私は思ってる」と彼女は言った。
 今日の明子は僕の知っている彼女とは違う。表情は驚くほどにおだやかで、何より饒舌だ。おそらくこれが本来の姿なのだ。彼女は人生を重ねるごとに、それに押しつぶされ、いつの間にか言葉を発しなくなったのだ。
 円覚寺の魅力は伽藍にあるという彼女の見解は的を射ているように思える。ここを歩いていると深いところで充実感を覚える。すれ違う参拝者の表情もおしなべておだやかだ。寺に来てこんな心持ちになったのは初めてだ。こうして明子と歩いていると、門で仕切られた寺の内と外が、はたしてどちらが本物の世界なのか分からなくなってきた。
作者

Author:スリーアローズ
*** 
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