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鎌倉物語 30

 「無窓庵」という店の名前からして、店内には窓が存在しないのだろうかと思ってみたりしたが、実際は縁側に大きな窓が取ってあり、風情のある竹林が青空を背景に揺れる様が見えていた。そういえばどこかで同じような光景を見た気がする。ゆっくりと記憶を辿ってみると、それはハイアット・リージェンシー京都のレストランだったということを思い出す。その時僕はまだ24歳で、目の前には美咲が座っていた。
 僕には大学時代から付き合っていた佐織という女性がいた。卒業後も僕たちは遠距離恋愛を続けていた。美咲は佐織の親友で、美咲の彼氏も含めてダブルデートをしたこともあった。卒業と同時に郷里に戻った佐織とは対照的に、美咲は卒業後もこれといった定職に就かず、音楽の勉強に励んでいた。彼女はジャズピアニストを目指していたのだ。僕もその頃はまだ司法試験に挑戦する身だったので、大学に残って受験勉強に取り組むという道を選択していた。
 互いに大学周辺に住んでいた僕と美咲はちょくちょく連絡を取り合った。同級生がすべて大学を出て行くというのも、何ともさみしいものだったのだ。そのうち僕たちは2人で食事をとるくらいの仲になった。
 美咲は週に3回ほどジャズハウスで演奏していた。ソロの時もあったし、トリオの一員として舞台に立つこともあった。彼女は50年代から60年代の、いわゆる全盛期のジャズを得意としていて、主にビル・エヴァンスやデューク・ピアゾンなどを弾いていた。普段の彼女は天真爛漫さが残るヴァイタリティに富んだ女性だったが、いざピアノの前に座るとたちまち大人びたふうになり、その腕の運びはどこかエロティックにさえ映った。そのうち僕は受験勉強を忘れて、ほとんど毎回彼女の演奏を聴くために店に足を運び、ウイスキーを飲むようになった。
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鎌倉物語 29

気がつけば「あじさい寺」として多くの人に知られる明月院の入口にまで来ていた。腹が減っていることにはちがいないが明子と歩いていると時間を忘れる。明子の方も、時折乾いた青い空を見上げたりしながら彼女の時間軸の中で散歩を楽しんでいるようだった。
 明月院の入口を過ぎると歩道の幅はいくぶんか狭まり、その分車の往来が近くに感じられるようになる。標識には鎌倉駅と鶴岡八幡宮の文字が見える。このまま進むと鎌倉の中心地に出るのだ。それまでにどこかで食事をとりたいと思ったところに、古い木切れで作られた看板が目に飛び込んできた。そこには「無窓庵」とあり、看板の下には紫陽花のイラストの入った和紙にメニューがしたためてある。ビーフシチューやスパゲッティがそこには載っている。明子の方を向く前に彼女は「ここだね」とささやきかけてきた。
 看板の矢印通りに進むと石段があり、山側の斜面はツワブキの黄色で彩られている。石段を登ると、竹藪の中に民家を改築したような古びた味わいのある店が現れた。
 あと少しで2時になろうとしているにもかかわらず、店内には客の姿があった。僕たちは靴を脱いで座敷に上がり、座卓に並べられた座布団の上に腰を下ろした。腰がずしっと重かった。さすがに歩き疲れたのだ。
 隣の席には年配の夫婦がいて、彼らはちょうどビーフシチューを食べ終わるところだった。店内に漂うデミグラスソースの香りからしても、どうやらこの店の一押しはビーフシチューらしかった。僕たちも同じものをオーダーした。僕はライスで明子はパンをとることにした。「いかにも鎌倉らしいお店ね」と明子は言い、冷水を口にした。

鎌倉物語 28

 この鎌倉街道は、幕府時代に将軍と御家人の間に結ばれた、いわゆる「御恩と奉公」の関係にゆかりの深い道だということは、さっき新幹線の中で読んだガイドブックのどこかに書いてあった。鎌倉で有事が起こると御家人たちは「いざ鎌倉」と口を揃えてこの道をひた走るのである。ただ、当時は鎌倉を中心に放射状に多くの道が張り巡らされていて、今僕たちが歩いているのは現存している数少ない道の1つだと明子は新幹線の中で補足説明した。
 歴史において道とはとても重要な意味をもつ。情報が今のような形をとらない時代においては、まさにそれは人間同士がつながるための重要な設備だった。特に戦国時代ではどこに要塞を築き、そこからどうやって道を張り巡らせるかということは、まさに幕府の価値観を示す1つの指標にもなった。何も日本だけではなく、たとえば中国の秦・漢の時代から積極的に作られるようになった道路や、ローマのアッピア街道などを見ても同じことが言える。
 道と並んで重要なのが橋である。戦国時代はできるだけ自然の地形を利用して防御機能を高めようとするわけだから、川や海に囲まれているというのが要塞を置くための地理的条件の1つだった。その時、領地の「端」に作られるのが文字通り「橋」だった。したがってどこに橋を架けるかということも軍の命運を握るほどのことだったし、それを作り上げる技術も求められた。歓迎すべき人物と排斥すべき人物の取捨選択の場が橋だったというわけだ。今では考えられないことではあるが。
 明子は新幹線の中でそう説明した。あたかも往時を懐かしむような口調で。その時代に彼女は存在していたのではないかと思わせるほどの話しぶりだった。
 明子が言うとおり道が人間同士のつながりの場なのであれば、今歩いている鎌倉街道も僕と彼女をつないでくれればいい。そんなことを考えながら、1歩ずつ踏みしめるように歩を進めた。

鎌倉物語 27

 再び北鎌倉駅に出ると、ちょうど横須賀線が鎌倉方面に向かって発車したところだった。駅の前には県道21号線が走っている。そこには「鎌倉街道」という標示が立っている。僕たちは道路に沿って続く歩道をこれといった目的もなく東に向かって歩き始めた。
 ほんの少しだけ進んだところにさっそく東慶寺入口という看板が見えた。
「この辺りは、まるで寺の博物館みたいだな」と僕が言うと、明子は歩きながら僕の方を見つめた。
「それより、お腹空いたでしょ?」と彼女は言った。僕は「もちろんぺこぺこだ」と応えた。
 東慶寺を過ぎたあたりから道路に軒を連ねる店も増えた。黒や茶色のアンティークな店が多いようだ。
「どんなものが食べたい?」と彼女は問うてきたが、これといって思い浮かばなかった。軽食ではなくしっかりしたものが食べたいと言うと、明子は少し考えた後で、
「じゃあ、歩いてみて、気に入ったお店があればそこに入ろう」と言った。
 明子は何かをする時に周到な計画を立てるというタイプではない。僕はその逆だ。だから彼女と一緒にいると、自分にはない新鮮な発想に触れることができる。僕はわくわくさえしながら昼食を取るべき店を探す。旅における昼食は全体のクオリティに関わるものだと考える僕には、どの店も甲乙つけがたく、もう少し歩けばさらにお誂え向きの店に出会えるだろうという期待も相まって、結局鎌倉街道をずいぶんと歩くことになった。
「鎌倉時代の御家人みたいね、私たちは」と明子は微笑を浮かべながら言った。

鎌倉物語 26

 楓に覆われた石段を降りると目の前はぱあっと明るくなり、再び北鎌倉駅の踏切が見えた。その瞬間僕は軽い眩暈を感じた。非現実から現実の世界に戻ってきたような(あるいは現実から非現実の世界に戻ってきたような)感覚に襲われたのだ。これと似たような感覚はふだんよく感じる。夕方、明子が僕の部屋から出て行った後に残るあの余韻だ。
 僕たちはこれまでに2度ほど旅行に行ったことがある。1つは長崎、もう1つは仙台。その時のほかには明子は僕と一緒に夜を明かしたことはない。彼女は毎回決まって自分のマンションに帰ってゆくのだ。
 彼女は家族をもたない。両親も僕と付き合う前にはすでに他界していた。全くの独り身なのだ。その気になれば僕の部屋に住むことだってできるはずだし、事実僕はそれを願っている。
 ただ彼女は大きな問題を抱えているということも僕には分かっている。彼女のはまっている深みは彼女以外の人間には決して共感できないのだ。
 過去を捨てて残された人生に目を向けてほしい。それはすなわち彼女の人生を僕に預けてほしいということに他ならない。だが強要はしない。逆効果だということも分かっている。長いこと海底に潜む2枚貝が開くには内発的な安心感が必要なのだ。だから僕はその時が来るまで彼女を急かさぬようにじっと待っている。
 それでも明子は週に2、3度は必ず僕の部屋に来てくれる。他愛のない話をし、テレビを見たり、休日には読書をしたり、あるいはジャズを聴いたり、そしてセックスしたりする。僕たちはそれなりに濃密な時間を過ごす。だからこそ彼女が去っていった後の僕の部屋には、ある説明しがたい余韻が残る。
 円覚寺の森を抜けた時、同じような余韻を感じたことがなんともおかしい。でも大丈夫だ、明子は僕の隣にいる。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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とびっきり寂しい旅に・・・

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