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鎌倉物語 90

 バスタブに湯を張っている間にビールをもう1つ空ける。明子は自分のベッドに戻り、そこに腰掛けて携帯電話を見つめている。コートを脱ぎ、帽子も眼鏡も取った彼女はふだんの姿に戻っている。
 テレビでもつけようかとも考えたが、結局窓際のソファに座り、水平線の上に広がる夜空でも見ながらビールを飲むことにする。タクシーの車内で見た時には薄雲に隠れていた月は、今やその上半分を晒している。夜空と接している部分は薄緑の神秘がかった光でにじんでいる。
 小学生の頃、星の光は何万年もかけて地球に届くのだということを知って胸がすくような想いをしたことがあったが、その感覚がふと甦ってくる。だとすれば自分の人生とはいったい何なのだろう? 
 そんなことを考えていると湯を注ぐ音が不協和音のように響きだす。僕は残りのビールを一気に飲み干してからバスルームに向かう。その間、明子はずっと携帯を見つめている。彼女はメールはしない。つまり何かを調べているのだ。
 ユニットバス式の狭い湯船に膝を立てて浸かり、シャワーカーテンを引く。下半身から身体全体に向けて順序よく温まってゆく。オレンジの照明が心身ともに疲れた僕の内部にじんわりと侵入してくる・・・

・・・僕は何者かに迫られている。こんなにもぬくもりのない、それでいて執拗にまとわりついてくるもの。その正体は一体何か?
 ついさっきまで心地よさに包まれていたはずの僕は一転して全く不快な世界に堕ちている。しかもこいつは体温まで奪おうとする。僕は必死にそれを引き剥がそうとする。すると今度は顔に貼り付いてくる。僕の苛立ちを逆撫でするかのようだ。たまらず目を開けると、すっかり冷たくなったシャワーカーテンが絡みついている。
 どうやら湯船の中で眠ってしまっていたらしい。
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鎌倉物語 89

 テレビの横にリュックサックを置いてベッドに腰掛けると、明子はそっと窓際に歩み寄りカーテンを開けた。外には夜の湘南海岸が横たわっている。
「ほら、きれいよ」と明子は小さく声を上げる。僕はやおら立ち上がり、彼女の肩越しに海を見る。表情に乏しいペンション風の建物といい、無愛想な支配人といい、予想とはかけ離れているが、目の前に広がる景色だけは期待を裏切っていない。
 僕は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出し、2人で乾杯した。
「それにしても変わった支配人だったね」と明子は漏らした。彼女の顔は窓ガラスにくっきりと映っている。
「ある意味、今回の旅にはおあつらえ向きの支配人かもしれないな」と僕は応えながらソファに腰掛ける。そうして、さっきホテルに入る前に感じた意識と感覚のズレがきれいに取れていることを自覚する。あの支配人のおかげで現実感覚を取り戻すことができたのだ。
 目の前には明子がいて、海を見ながらビールを飲んでいる。僕は彼女の姿を満足げに眺めている。過去も未来も、前世も来世も、すべて「今この瞬間」が起点なのだ。そんなことを想いつつビールを飲む。くっきりとした苦みが全身を駆け上がってゆく。
 それからしばらくの間2人はおのおのの思索の世界に浸る。明子はおそらくは過ぎ去った日々に思いを馳せている。僕はというと、これから先もずっと明子と一緒にいたいという想いを再認識している。
「お風呂に入ってきたら」と明子が振り向いて言ったのは、しばらく経ってからのことだった。缶ビール1つで全身が温かくなるほどに僕は疲労していた。

鎌倉物語 88

「できれば事前に電話でも入れて頂けますと助かるんですがね」と支配人はなじるような調子で言う。開いた口がふさがらない僕を、明子も少々困った表情で見ている。
 僕は支配人をすぐ前にしてチェックインのサインをした。指の動きをいちいち監視されているようでじつに書きづらい。
「朝食はどうされます?」と彼はたった今僕が書いたものに冷淡な視線を落としながら事務的な口調で訊いてくる。明子に尋ねると、彼女は口を結んで答えあぐねている。支配人の視線が刺さっている僕は「とりあえず7時で」と言う。すると彼はぱさついた声で「かしこまりました」と応えた。それから右手を差し出して付け足しのように言った。
「朝食はそちらのレストランでお取りください。ラストオーダーは8時30分ですので、それまでにはお越しくださいますよう」
 支配人はそう説明した後で、シルバーのトレイの上に部屋の鍵を差し出した。僕はそれを受け取り、エレベーターを探す。だがどこにも見あたらない。それもそうだ。このホテルは2階建てなのだ。僕たちは自分で荷物を持って売店の奥の階段を上がることにする。
 部屋は廊下の片側に6つ並んでいる。全ての部屋が南を向くように、つまり海が見えるように設計されているというわけだ。僕たちは一番奥の21号室のドアを開ける。軋んだドアの向こうには真っ暗な部屋がある。やはり独特の埃臭さがつきまとう。
 照明をつけるとアイボリーで統一された客室がふわっと浮かび上がる。ベッドが2つとソファが1つ。それからローボードの上にはテレビが据えてある。年季の入った調度品の中にあって唯一テレビだけが新しく黒光りしていてよそよそしさを身にまといながらそこに佇立している。

鎌倉物語 87

 明子は慌てた様子で僕の腰に手を宛ってきたが、膝の力はすぐに回復したので僕はそれを制した。
「今日はずいぶんと歩かせちゃったから、疲れたのね、きっと」と明子は言った。
 もちろん彼女の言うことは正しかった。だが今あるのは肉体的疲労だけではなさそうだ。明子と並んで玄関へと続く階段を上りながら、自分の意識と感覚の間にズレが生じているのを感じている。今たしかに自分はここにいる。だがその実感がまるで湧かないのだ。まるでもう1人の自分がいて高い所から俯瞰しているような気がする。階段を上っている自分とそれを眺めている自分。一体どちらが本当の自分なのか? 
 冷たい潮風が僕に混乱をもたらせたようだ。何とかそれを鎮めようとゆっくり階段を上がる。
 自動ドアの先にはやわらかな白熱灯に照らされた空間が待っていた。突き当たりにはちょっとした土産を売る一角があり、その右側はレストランにつながっている。テーブルのセットが10ばかり置いてあるが客の姿は見えない。絨毯の埃臭さだけがそこはかとなく漂っている。何から何まで古ぼけた雰囲気だ。
 フロントは入ってすぐ右にある。1人立てば十分なほどの広さだ。呼び鈴を押して少し間を置いてから初老の男性が現れる。白髪はきちんと整えられ、きりっとした目をしている。白いコットンシャツにブラックジーンズといういでたちだ。
「ご予約の方で?」と支配人とおぼしきその男性は言う。僕は頷く。「チェックインはたしか、7時のご予定だったと存じますが」と支配人は言う。いかにも不機嫌な様子だ。
 レストランの壁に掲げられた時計は8時半を過ぎている。

鎌倉物語 86

 それは僕が見た初めての明子の涙でもあった。
 彼女は眼鏡を外し、ハンドバッグから取り出した専用のケースにしまった。それから窓の外に目を遣り、何度か小さく鼻をすすった。その想念の先に僕はいない。明子は見えない何かに向かって無言のうちにつぶやいている。
 彼女の存在を肌で感じつつ窓の外に広がる海に視線を投げる。広く静かな海だ。長い海岸線に沿って続く道路の灯りは漁り火のようにきらめいている。その光景を眺めながらつくづく思う。僕にできるのは待つことだけだと。
 若宮通りは由比ヶ浜海水浴場で突き当たり、タクシーは海岸道路を左に折れる。予約しておいたホテル「NAGISA」はそこから5分もしない所にある。海岸を望むこじゃれたプチホテルをイメージしていたが、実際はどこか古臭さが漂っていてペンションに近い佇まいだ。
 僕に続いて明子もタクシーを降りる。ホテルの灯りに照らし出された彼女の顔はやはり泣いた後のそれだ。
「すてきなホテルじゃない」と明子は2階建ての建物を見上げながら言う。「海だってこんなに近いし」
 ホテルの前は道路を挟んですぐに海岸が広がっている。材木座海岸だ。遊歩道に設置してある外灯が、白砂の滑らかな海岸を目の前に浮かび上がらせている。明子は海に向かって立ちすくみひんやりした潮風を吸い込む。
 僕も彼女にに倣って深呼吸する。ところがそれと同時に立ちくらみに襲われる。膝の力が抜けてよろけてしまう。
「大丈夫?」という声が聞こえる。それは一体誰の声だろうと思う。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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