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鎌倉物語 130

「とりあえず、ホテルに戻ろう」と僕は言った。ずっとうつむきながら歩いていた明子ははっと目が覚めたような表情を浮かべ、ここが一体どこなのか見失っているような所作を見せた。いまだに主体性を失っている彼女と一緒に僕はタクシーに乗った。
 車内のデジタル時計は7:23を表示している。若宮大路に立つ無数の信号機がずらりと並んでいるのが一望できる。そろそろ通勤の時間が始まっているようだ。
 隣に座った明子を見る。焦点の定まらない目で虚空をとらえている。昨夜も同じ道をタクシーで走ったが、あの時と同じ女性であるということがまるで信じられない。彼女にしか見えない世界の中に再び迷い込んでいるのだ。
 鎌倉駅を一区画ほど過ぎた信号で停止した時、ちょうど7:30になった。支配人はどんな顔をしているだろうかと想像する。眉間にしわを寄せて貧乏揺すりでもしているかもしれない。それにしてもホテルのガレージからマークⅡをひっぱり出し、消えた明子を追いかけた早朝のどたばたを考えると、この時間に彼女と2人でホテルに向かうこと自体何かの奇跡のように思える。「縁」という言葉が久々に頭に浮かぶ。思わず身震いがする。
 やがて湘南海岸に突き当たり、タクシーは左折する。それからほどなくしてホテル「NAGISA」の看板が見えてくる。こうやって見るとずいぶんと古びた看板ではあるが、建物の方は十分に手入れが行き届いていて、誇らしげにそこに建っている。料金を払いながら時計に目を遣る。7:39になっている。明子は降りようか降りまいか戸惑っているようだ。だが先に降りた僕の持つボストンバッグに目を遣った時、タクシーを降りることを決めたようだった。
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鎌倉物語 129

 明子がやっとのことで立ち上がったのはしばらくしてからのことだった。くしゃくしゃの顔を見せた時、そこにはどこかふっきれたようなものも感じられた。泣きたいだけ泣いたことによってわずかばかりのカタルシスが得られたのかもしれない。
「とりあえず、行こう」と僕は明子の腰に手を遣った。すると今度は僕の動きに応じてくれた。だがそのおぼつかない足取りに直に触れると彼女はこんなにも深く悩んできたのかということをひしひしと思い知らされることにもなった。これまでずっと近くにいたにもかかわらず、その苦悩は僕の洞察を超えていたのだ。
 ひょっとしてさっきは喋りすぎてしまったのではなかろうかという思いがよぎる。しかしいったん外へ出てしまった言葉は取り返しがつかない。今は過ぎたことを検証する時間ではない。とにかく前に進むことしかできない。それが最善なのだと言い聞かせるしかない。
 僕たちは無言で八幡宮の入口に向かって歩く。前方には大鳥居が見える。歩行者用の信号が青になったことを告げる電子音が遠くで聞こえる。「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ 天神様の 細道じゃ・・・」どこか間の抜けた響きだ。
 歩きながらふっと支配人のことを思い出す。そういえば彼は朝食の予約時間をわざわざ繰り下げて7時30分にしてくれたのだ。携帯電話を取り出して確認すると7:19を示している。ギリギリの時間だ。とはいえまさか明子を急かすわけにもいくまい。
 そのうち僕たちは八幡宮の入口まで戻ってきた。鳥居前の広場では数羽の鳩が地面を突っついている。源平池の水面は曇天を映し、そこには太鼓橋がアーチを描いている。すると鳥居下のスクランブル交差点の脇にタクシーが1台停まっているのが目に入った。

鎌倉物語 128

「たしかに思い当たる女性がいないわけじゃない。でも彼女たちが今なお僕のそばにいるとはどだい考えにくいし、何より僕にとってはすでに過去の話なんだ」と僕は続けた。「寿福寺での君は僕の目から見てもまるで別の魂が宿ったかのように明るかった。何らかの霊感が降りてきて視野が広がったというのは本当だろう」
 明子はしおれかけた百合のようにげんなりとしている。あまり尖った言い方にならないよう注意を払う。
「目の前が開けた君には僕のそばにいる女性の影が映った。それは僕がずっと想い続けている人だと言った。その指摘が正しいのであれば、その女性というのはまさしく君だったということになる。そうとしか考えられない。心の中には君以外いないんだから」 
 彼女の閉ざされたまぶたの隙間から一筋の雫がこぼれ落ちた。昨夜のタクシーの中に続いて、僕が見た2度目の彼女の涙だった。
「つまりあの時君の目に映ったのは君自身の姿だったんだ。でもそのことをちゃんとは伝えなかった。僕が過去に付き合った女性だと言って、僕に信じ込ませようとした。わざと嘘をついたんだ。君の心の裏側には僕と別れなければならないという思いが常に貼り付いているからだ」
 どこからともなく誰かが竹箒で地面を掃く音が境内に響き始めた。
「いずれにしても、僕たちは今別れるべきではない」と僕は言い、ボストンバッグを彼女の両手から引き取り肩を抱いた。だが明子はすんなりと応じない。華奢な肩に力を込めて抵抗した。しまいにはすとんとしゃがみ込み、両手を顔に当ててむせび泣いた。曇天が僕たちの上に覆い被さっている。やや湿気を含んだ風が僕と明子の間を通り抜けてゆく。

鎌倉物語 127

 明子の言葉を耳にした僕は腹の底まで息を吸い、その後でそれを残らず吐き出した。おそらくもう数分もすれば八幡宮の関係者や参詣者が入ってくるだろう。いつまでもここでこうしているわけにはいかない。
「答えは簡単だよ」と僕は言った。「君は死んでなんかいないんだ」
 彼女は首を振るのを止めている。意識的というよりは力尽きてしまったように見える。
「寿福寺の空気を吸い山本氏の話を聞いた君はたしかに『抜ける』ためのきっかけを得たのかもしれない。『抜ける』ということが生きながら死ぬことであれば、君にとってはこれほどすばらしいこともないだろう。死の恐怖もなくなるかもしれないし、何より今なおサエキ氏のことを想い続けている君の宿願を叶えることにもなるだろうから」
 彼女は主体性をもたぬままただただ僕の話の中に立ちすくんでいる。
「でも、もし君がほんとうに『抜けた』のであれば、どうして君は今そんなに苦しまなければならないんだ?」
 本殿にいた鳩が八幡宮の入口に向かって一斉に飛び立って行った。
「それに」と僕は鳩たちの作る影が去ってから言った。「もう1つ、どうしても解せないことがあったんだ。君は寿福寺で僕のそばに女性を見たと言った。それは僕がずっと想い続けている人で僕のすぐ近くにいる。そして僕が手をさしのべればその女性は僕の元に戻ってくると言ったね」
 彼女は無反応だ。僕は唾を1つ呑み込んでからこう言った。
「その女性というのは、君のことじゃないだろうか?」

鎌倉物語 126

「そんな光景を見たのは初めてだった。夢なのか現実なのかさえはっきりしない。ベッドの上で金縛りにかかっている瞬間に近いかな。とにかく僕は目の前の光景をただ丸呑みすることしかできなかった。
 あの時山本氏と思しきカメラマンは、やぐらの中の君を見て『生きながら死んでいるんだよ』と冷静に説明した。それからこんなことも言った。『これこそが人間の姿だ』と。『人は皆死ぬ。つまり死ぬために生きている。でもそれは普通の生き方だ。彼女は違う。生きながら死んでいるのだ。彼女には過去もなければ未来もない。哀しみも不安もない。ただ静かにそこにいるだけだ。そして彼女は自由だ』と。
 その光景を見てたまらなくさみしくなったんだ。何より君のことについて山本氏の方から説明を受けるということが耐え難かった。しかも君は山本氏の説明が全く的を射ているのだということを証明するようにやぐらの中で言ったんだ。『私はもう抜けてしまったの。そしてここを見つけた。ここには無条件の平安があるの。何物にもとらわれない、安らかな世界が』ってね」
 明子は僕の顔を見た。彼女は眼球をわずかに震わせながら、この鶴岡八幡宮へ来て初めて僕の顔を正面から見た。だがしばらくすると、再び力のない視線を僕の喉元辺り投げ捨てた。それからまた首を横に振り始めた。
「どうした?」と僕は訊いた。
 明子は何も言わずに、ひとしきり首を振った後で小さく応えた。
「わからない。何がどうなってるのか、全然分からない」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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