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鎌倉物語 190

 ふと明子に目を遣る。彼女は窓側に頭を傾けてすやすやと眠っている。深めにかぶった帽子はシートに引っかかって脱げそうになっている。「なあ明子」と僕は心の中で彼女に向かってつぶやく。「今回の旅でいろんな人と出会ったけど、その中での1番は君との出会いだったかもしれないな」
 僕はそう唱えて帽子の向きをそっと整えてやる。
 それから再びボールペンを手に取り記録を再開する。ホテル「NAGISA」、鎌倉大仏、長谷寺。紫陽花の株、見晴台、十一面観音、地蔵に囲まれた小さなスペース。そこで僕たちはキスを交わした。ついさっきのことだ。魂が溶け合って1つになったような感覚は今でも胸を温め続けている。
 そういえば明子はここへ来る前に僕の部屋でこんなことを言っていた。「鎌倉って不思議な街なのよ。北と南で全然違うの」と。実際に足を運んでみると彼女の見解には深くうなずける。鎌倉は北と南で全然違う。それがこの街の特徴であり魅力だ。だが南北を通して変わらないものもある。その部分に触れることができたという実感が僕にはある。一方明子はここへ来る前からすでにその世界を体験していたのだ。
 のぞみは名古屋駅に停車する。僕たちの車両からも多くの人たちが降車し、その後で同じくらい多くの人たちが新たに乗り込んでくる。彼らは訓練された鳥のようにさくさくと自分の席に着き、各々に時間を潰し始める。
 手帳にはあっという間に数ページ分の記録が出来上がっている。僕は1枚1枚をめくりながらこの手帳に表題を付そうと思う。少し考えてから水色の表紙に「鎌倉物語」と書き記す。
 のぞみは再び静かに動き出す。「次の停車駅は京都です」というアナウンスが何かの暗示のように耳に入ってくる。   

( 鎌倉物語・了 )  
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鎌倉物語 189

 年季の入ったマークⅡワゴン、鶴岡八幡宮、倒れた大銀杏、それから昨日とは打って変わった灰色の空。あの時僕は失意の真っ只中にいた。ああ、やっぱり明子は僕から離れていくのだと半ば諦めてもいた。でもだからこそ開き直ることもできた。僕は思いのすべてを彼女にぶつけた。過去ではなく未来を見つめてほしいと主張した。なぜなら明子は僕のことも愛してくれているというかすかな光明を感じてもいたからだ。彼女はサエキ氏への罪悪感と格闘しているだけだと僕は捉えている。そしてそんな彼女のすべてを包み込もうと前から腹をくくっている。その思いを彼女にぶつけた。
 明子は空の色と同じ表情を浮かべながらホテルに戻った。そんな彼女の心を解きほぐしてくれたのが、あの支配人の作った朝食だった。心のこもったサラダとオムレツを口にした彼女からは再び言葉が出てくるようになった。彼女はやはり「生きながら死ぬ」という方向に足を踏み入れようとしていた。山本氏は既に亡くなっているのを知ったのもこの時だった。彼は新聞社の写真展で受賞した実績を持っていた。そこに写っていたのは僕と明子だった! 山本氏は比叡山延暦寺を撮った『静かな散歩道』という写真集を残してこの世を去った。その信じがたい事実は明子の指向する生き方をおそらくは後押ししたのだ。
 待てよ、と僕はボールペンを止める。こうして記録を残してみると今回の旅には意外にもホテル「NAGISA」が絡んでいるように思う。旅というのはどこに行くのかが大きな意味をもつのは言うまでもないが、そこで誰と出会うのかということが結構大事なのかもしれない。そう考えるとこの旅では実にいろいろな人と出会うことができた。もちろん生きている人もいれば死者もいる。歴史上の人物の魂に触れることもできた。

鎌倉物語 188

 この手帳は僕が勤務する社会保険事務所で年金のキャンペーン用に配られたものの余りだ。捨てるにはもったいなくて何かに使うこともあるだろうとひそかにリュックに忍ばせておいたが、まさかこんな所で役に立とうとは思ってもみなかった。
 僕はまず水色の表紙をめくり、白いページの一番上の行に「北鎌倉駅」と書く。するとあの簡素な駅舎が辺りの緑の香りとともに甦る。円覚寺、鎌倉街道、無窓庵。その店でビーフシチューを食べながら僕は美咲と歩いた京都を思い浮かべ、佐織のことを考えた。
 無窓庵を出てから亀ケ谷坂の切通しを抜けて北鎌倉を後にし、寿福寺の閑散とした山門をくぐった。多くのやぐらが集中し、実朝と政子の墓もあった。山本氏という不思議なカメラマンが現れ、寿福寺は中原中也の最期の場所でもあるのだと教えてくれた。そこを去ろうとした時、突如として線香の煙が立ち込め、やぐらの中で裸でしゃがみ込む明子の幻影を見た。山本氏はシャッターを切りながら彼女は生きながら死んでいるのだと説明した。そしてその山本氏はすでにこの世にいない人物だと分かったのが今朝のことだった。
 寿福寺を後にした僕たちは鎌倉駅前のマクドナルドで夕食をとった。明子は憑き物がとれたかのように明るかった。ところがホテルへ向かうタクシーの中で彼女は急に泣いた。
 ホテル「NAGISA」、古い絨毯、磯の香り、へんな支配人。僕たちはラベンダーのキャンドルを点け、月明かりの中でセックスをした。それはどこか形而上学的な味わいのセックスだった。月明かりに照らされた明子の寝顔を眺めながら僕もいつの間にか眠りについた。だが目が覚めた時彼女はいなかった。テレビの横の手紙。サエキ氏への追慕。僕は着の身着のままで部屋を飛び出した。助けてくれたのはあの支配人だった。

鎌倉物語 187

 明子は疲れている。僕もそうだ。だから彼女がどんなことを考えていたのかはよけいに分からないし、詮索したってしようがない。えてして疲れているときにはどうしても物事を悪い方に捉えがちだ。だから彼女の心の中については何も考えずにこのままそっと寄り添っておこうと思う。そうして僕も彼女の手を握りながらまどろもう。
 僕は細く息を吐き出してからシートにもたれ、軽く目をつむる。のぞみは振動音をたてながら猛スピードで西へと向かっている。
 ところがどうしてもうまく眠りにつくことができない。目を閉じた途端この2日間のさまざまな記憶が次々と額の裏側に甦ってきて、かえって頭が冴える。それらの心象風景はより現実味を帯びて僕に迫ってくる。山本氏やサエキ氏が近くでささやきかける。この新幹線に乗っているどの乗客よりも生命感を放っている。
 僕はいったん目を開けて大きく息を吸い込む。それから軽くこめかみを押さえた後で再びまぶたを閉じる。すると今度は明子と2人で訪れた寺々が迫ってくる。建物はもちろんのこと寺に漂う空気さえも鮮明に再現することができる。これは一体どういうことだろうと思う。僕たちにとっての鎌倉はそこを離れた後になってますます強く印象に訴えかけてくる。
 ふとアイデアが浮かぶ。この旅で出会ったものを手帳にしたためておこう。僕と明子にとっておそらくは決して忘れることのないであろうこの旅を今のうちにできるだけ正確に記録しておこう。
 僕はつないだ手を離して席を立ち、荷台に置いたリュックサックを膝の上に降ろした。そうしてサイドポケットに入れていた水色の手帳を取り出した。

鎌倉物語 186

 車両入口の上にある電光掲示板が「ただいま熱海駅を通過」と表示した時、明子は「そろそろ富士山が見えるかな」とつぶやいた。そういえば昨日来るときには2人とも富士山を見過ごしてしまっていた。「でも、この天気だから見えないね、きっと」と彼女は窓に映る自分自身に語りかけるように言う。
 まもなく三島駅を通過する。富士山を眺める絶好のポイントのはずが、全く姿を現さない。そこに何かがあること自体が信じられないほどに曇天が厚く覆い被さっている。
「ねえねえ、知ってた」と明子は外を見たまま言う。「三島由紀夫ってね、この三島駅の富士山の雪を見て思いついたペンネームなのよ」
「三島って、皇居に向かって割腹自殺したあの人?」と僕が訊くと彼女は「そう」と応えた。
「一緒に新幹線に乗ってた彼の恩師が、窓の外の富士山の雪を見て『君が作家になるんなら三島由紀夫でいったらどうだい』って提案したらしいよ」
「じゃあもしその時富士山に雪が積もってなかったら三島富士夫だったかもしれないな」と僕が言うと、明子は僕の方に顔を向けておかしそうに笑った。
 浜松を通過した時、もう富士山は見えないだろうと諦めがついた。明子も少し残念そうな様子で窓の外を眺めている。僕は後ろからそっと声を掛けようとする。「また次来たときに見られるといいな」と。しかし彼女の横顔を見ていると、単に富士山が拝めなかったことに落胆しているだけではないような気がしてきた。窓ガラスに映る明子の瞳はどこまでも虚ろだった。
 そうしていつの間にやら彼女は顔を窓に向けたまま眠りについてしまった。
 僕は彼女の手を静かに握りしめた。

作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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