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京都物語 50

 女は組み合わせていた両手の指をほどき、ソバージュの髪をかき上げた。香水の香りとその奥にあるタバコの匂いがふわっと立ち上がった。
「彼は毎日のようにお見舞いに来てくれたけど、まともに顔を合わせる気にはならなかったわね。もちろん、好きで結婚したんだから、未練たらたらだったわよ。その心の板挟みが何よりもつらかった。せめて、あたしが苦しんでいる姿を見せて、彼に伝えてやろうと思った。お母さんへの発言をすべて帳消しにするくらいのやさしさをずっと待ってたの。ソラブッドのことも忘れるくらいの。ああ、あなたと結婚してほんとに良かったって心の底から思えるくらいの、そんなやさしさをベッドの上でひたすら待ってた。でも、残念だけど、最後まで応えてくれなかったわね。彼は『気分は良くなったか、あまり深く考えるんじゃないよ』という台詞以外何も言わなかった。頭がいかれてたあたしは、彼になじられてるような気がしてならなかった。お母さんなんか一度も顔を見せなかった。そのこともけっこうなダメージだった。おそらく2人ともあたしに対してドン引きだったと思うよ。でもね、彼が本当に誠実な人間なら、あたしの方が何倍もドン引きだったってことに気付いてほしかったのよ。あたしは彼とお母さんだけじゃなく、自分に対しても失望してたの。あの病院の夜ときたらたまらなく寒いんだから。毎晩どこかの部屋で誰かが暴れて奇声が上がるのよ。職員は廊下をどたばた走って眠れるもんじゃない。みじめでみじめで、毎晩泣いてたわ」
 女は空になったペットボトルを手に取って、まるで子猫でもさわるような手つきで撫で回しながら「あたしの恋愛は、全部そこで終わっちゃった」とつぶやいた。
 まもなく新神戸に入りますという文字が車内ディスプレイに表示されていた。
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京都物語 49

「彼のお母さんに受け容れてもらえなかったのよ。彼の実家は京都の大原で老舗の漬物屋をやってて、お母さんはきりっとした昔気質の女性だった。結婚したのは彼となんだから、あまりくよくよするのはよそうって自分に言い聞かせたんだけど、無理だった。今思えばあたしがそんな由緒ある家柄に向くはずがなかったのよ。それに、この顔の傷もどうしても気に入らなかったみたい。バイクでずっこけてできた傷っていうのがね」
 女はそう言って、ミネラルウォーターを最後まで飲み干した。それから龍角散ののど飴をもう1つ口に放り込んだ。
「でもね、一番傷ついたのは、じつは彼の態度だったの。彼は何よりもあたしを優先してくれるって信じてた。タイから帰国したときにも君は僕が守ると言って泣いてくれたんだから。でも実際は微妙にお母さんの肩を持とうとしたのよ。たしかに分かるわよ、その立場。でもすごくショックなのよ。しかもあたし決定的な台詞を聞いてしまったの。ある時お母さんが店の奥の倉庫で彼に話してたの。『お前は間違った女を嫁にもらったもんだ』ってね。『あの子はとんでもない不良じゃないか』って言われた。そしたら彼は何て言ったと思う? 『ごめん』って謝ったの。それを聞いて、頭の中で何かが粉々に砕ける音がして、そのまま電源がぷつんと切れちゃった」
 女はすらりとした両手の指を組み合わせて、太股の上に置いた。
「たしかに彼は誠実だった。でも、誰に対してもいい人だったのよ。結婚する前には全然気づかなかったことよ。それが分かった瞬間、ソラブッドのことが猛烈に恋しくなった。あの人はあたしだけを本当に大切にしてくれた。いつもあたしを守ってくれた」

京都物語 48

「たしかにあたしはひどい女よ。でもね、だからといって自分を責める気持ちはこれっぽっちもないの。そりゃ、あたしみたいな女は世間一般的には非難されるかもしれない。でもね、逆にあたしは一般論なんて信じない。だって、一度しかない大切な自分の人生じゃない? なんで多数決に合わせなきゃいけないのよ。あたしは自分の心に正直に生きようとしてるだけ。もちろんつらいこともあるわよ。でも、後悔はない。しかもそういう生き方してるとね、年を取ることがそんなに苦痛じゃなくなる。自分の人生が深まってゆくのを実感できるから」
 女はそう言って再び僕に顔を向け、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。それと連動して紫のアイシャドウに囲われた瞳が鈍く輝いた。
「あたしみたいな恋を経験してる人って、たくさんいるはずよ」
 僕はiPodを停止して、すっかり小さくなったのど飴を噛み砕いてから呑み込んだ。すると思い出したかのようにシトラスの香水とウイスキーの匂いが立ち上がってきた。女は「さくら」のシートにもたれながら、パソコンの画面に遙かなる視線を送った。
「話にはまだ続きがあるんだけど、聞いてくれる?」
 女がそう言うと、僕は首を大きく縦に振ってみせた。女は安心した顔を浮かべ、一段低い声で話し始めた。
「あたしにとっての結婚は他の人みたいにハッピーじゃなかったのよ」
 パソコンの画面にはどこかの街の路地裏の風景が並んでいる。
「2年も経たないうちに離婚しちゃった」
 女はさっきまでの論調の高さはどこへ行ってしまったのかと思うほどの小さな声でそうつぶやいた。

京都物語 47

 女は真っ赤なスーツケースの上に載せたショルダーバッグに手を突っ込み、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出してそれを飲んだ。その後でタイトジーンズのポケットから龍角散ののど飴をつまみ出して1つ口に入れ、もう1つを僕に差し出した。遠慮した僕の膝の上に女はのど飴をぽんと置いたのだ。礼を言ってそれを口にすると、口の中にはたちまちハーブの刺激が広がり、シトラスの香水とウイスキーの匂いを包み隠した。
「あたしゃひどい女だなーって、その時つくづく思ったね」
 女は口の中でのど飴を転がしながら話を再開した。
「結婚するときに良心の呵責を感じなかったのよ。彼氏に対しても、それからソラブッドに対しても。あったのはとにかくソラブッドをツーリングに誘ったっていう後悔だけ。つまりはソラブッドと彼氏の恋愛を両立してたんだろうね。あの時はちょっと信じられなかった。でも、ほんとに、2人とも好きだったのよ。タイにいるときにはソラブッドのことしか頭になかった。だから日本にいる彼氏からメールが来たときには、心を込めて返信したよ。ばれないようにって一生懸命にね。でも、ソラブッドが死んで、大学に戻る気にはどうしてもなれなくて、1人で日本に帰ったとき、そこには彼氏しかいなかった。それは紛れもない事実だったのよ。彼氏は醜くなったあたしの顔を撫でながら、今日から君は僕が守るって目に涙を浮かべた。その時あたしは思ったの。ソラブッドとのことは永遠に心の中に封印しとこうって。そう思うと、すんなり結婚することができた。マリッジ・ブルーとか、あたしには無縁だった」
 彼女はそう言い、再びミネラルウォーターに口を付けた。

京都物語 46

 僕は思わず女の話に聴き入ってしまっていた。コーヒーを手に取って口に入れると、ぬくもりは半分になっていた。
「逃げようとすればつらくなるだけ。だから目をそらさずにちゃんと恋に向き合おうって、あの時あたしはそう開き直った。そしてソラブッドもあたしを愛してくれた。大学の研究も手に着かないくらいに愛し合って、結局卒業もできなかったけどね」と言って女は苦笑いを浮かべた。「でも全然後悔してないよ」
 岡山に入ると、青空がますます大きくなった気がした。岡山駅のホームに立つ人たちの表情も総じて穏やかなように思われた。
「ただ1つ後悔してるのはソラブッドをツーリングに誘ったこと。あたし好きだったのよ、あの人の背中にしがみついて猛スピードで風を切るの。あの時彼は風邪薬を飲んでた。それでも彼はタフだから全然平気だろうって、たかをくくってしまった。悲劇も思いがけないところから突然襲ってくるってことを、あたしは知らなかったんだ」
 女はそう言い、膝の上のダウンジャケットをきちんと掛け直した。
「聞きにくいことだけど」と僕は言った。しかし女はやはり反応しない。それで女の耳に顔を近づけて、口をはっきりと開けて言った。「その後君はどうなったの?」
 すると女はゆっくりと顔をこちらに向けた。左耳で聞いているというよりは、反対側の耳で聞いたように僕には見えた。そうして「どうしたと思う?」と逆に聞いてきた。僕は分からないということを身振りで示した。すると女は答えた。
「日本に帰って、彼氏と結婚したよ」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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