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京都物語 160

「昭和五十九年 初秋の野宮神社にて 浅茅しのぶ」
 あとがきはそこで終わっていた。僕はレイナに礼を言い、とりあえず大学ノートを返した。すると彼女はそれを受け取りながら「どう思った?」と聞いてきた。その瞬間、エキゾチックな香水がふわっと香った。
「正直、よく意味が分からないな」と僕は答えた。「何度か読み返さないと理解できないのかもしれないし、何と言っても『藤壺物語』を僕は読んでないからね」
 レイナは亜麻色の大きな瞳をまっすぐに僕に向け、そのうちまぶたを少しずつ狭くして涼しそうな表情になった。
「あたしが引っかかったのは、この文章の不自然さなのよ。まず、どうして浅茅しのぶはこんなところにこんな文章を書かなければならなかったのか?」
 レイナはそう言い、大学ノートのそのページをもう一度開いた。それから自身の筆跡を目でなぞりながら話を続けた。
「しかもね、さらに不可解な事実をつかんだのよ」とレイナは声を低くした。彼女の口の中ののど飴はすでに消滅しているようだった。「このあとがきはね、第2版以降は削除されてるの。つまり、あたしたちが大学の図書館で借りた初版にしか載ってないのよ」
「それって、どういうことなんだ?」
「はっきりとしたことは分からないけど、浅茅しのぶ自身の要望なのか、それとも出版社の判断か、どちらかだね。いずれにせよ、この文章には何らかの事情があるのよ」
 僕はわずかに残ったのど飴をゆっくりとなめた。そうしていると阪急列車は桂駅に停車し、阪急嵐山線に乗り換えるために僕たちはいったん下車することになった。僕は明子の手紙の入ったリュックサックを、レイナは浅茅しのぶの文章を書き写した大学ノートの入ったリュックサックをそれぞれ肩に担いでホームに降りた。桂駅という駅名を聞いたのは初めてだったが、阪急線の乗換駅ということでホームは思った以上に長く、冬の冷たい太陽が線路を輝かせていた。僕たちはいつの間にか手をつないで嵐山線のホームに移動した。列車はすでに僕たちを待っていた。嵐山線の列車のシートに座ったレイナは、浅茅しのぶの文章についてさらに彼女の見解を語りだした。
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京都物語 159

 僕は次のページをめくりながら、ノートの厚みを手に確かめた。どうやらこれはレイナの取材用ノートで、見ると彼女は昨日もおとといも何かの構想を練り続けている。
 その時、不意にあふれんばかりの陽光が差し込んできた。阪急電車が地下トンネルから地上に出たのだ。思わず辺りの景色を見渡すと、住宅地が広がり、ショッピング・モールがあり、ちらほらと畑も見える。いかにもありがちな郊外の風景だが、ここが京都だと思うと、やはり僕の目にはどこか特別に映ってしまう。
 レイナはのど飴を僕にくれ、自身も1粒口に入れた。ハーブの香りが鼻にまで駆け上がってきた。僕は新たなページに書き込まれた浅茅しのぶ氏の文章の続きに視線を落とした。
「青空は自分の心を映している。石川啄木は『空に吸われし十五の心』と詠んだが、彼も同じような感覚を感じたのかもしれない。たとえば、苦しみにさいなまれている時、誰が空を青く美しく感じるだろうか。そういう時、空とはむしろ意地悪なものだ。そして真に意地悪なのは、自分の心なのだと気づくことができればその人は天才だ。
 その日私は美しすぎる空を恨んだ。あるいは羨んだのかもしれない。実は、私はこの『藤壺物語』を書きながら、死神につきまとわれていたのだ。それは文章を書き始めた頃から私をにらみ続けてきた死神だ。そろそろこいつの正体をこの目で確かめる時なのではないか。私はそれまで恐怖のあまり目を覆い続けてきた死神の姿を、意を決して正視した。
 するとそこで私を見下ろしていたのは意外なものだった。死神の正体とは、他でもない、言葉だった。もっと具体的に言うと、言霊(ことだま)だったのだ。
 ご存じの通り、言霊とは、口に出したことは現実に起こるくらいに力をもっているという古来からの言い習わしだ。私の見た死神の正体は、まさにこの言霊だった。
 とは言うものの、『藤壺物語』から撤退するには、私は幼すぎた。こうなれば覚悟を決めて、最後まで書ききろうと逆に思った。藤壺の心を。そして私自身の心を、包み隠さず。
 だが書けば書くほどに死神は執拗に息を吹きかけてきた。そうしてついにこの小説を書き上げた時、私の心と体は完全に限界を超えていた。その時私は心の中で空を見上げた。非の打ち所のない青空だった。だが、その青空は美しすぎて、すぐに目をやられてしまった。瞬く間に何も見えなくなってしまった。青空にかなうアートなどないというのは本当だった。事実は小説よりも奇なり。どんな作り事よりも、その人間が必死に生きた真実の方が人々の心を打つ。芸術とは偽善でも慰めでもない。すなわちこの『藤壺物語』は、現時点における私の全てだ」

京都物語 158

「あとがき?」という言葉が僕の口から漏れた。レイナは横目でこっちを見て小さくうなずいた。彼女はソバージュの髪をかき分けて青紫のピアスを露わにし、外出の時にだけつける香水の香りを漂わせながらリュックサックから分厚い大学ノートを取り出した。それからそこに挟んだ数え切れぬほどの付箋のうちの1枚をつまんで「風邪を引いて寝込んでいる間にメモったんだ」と言いつつそのページを開き、ノートを僕の膝の上に差し出した。興奮気味のレイナの手によって書き写された『藤壺物語』のあとがきが、列車内の蛍光灯に照らされた。
「・・・ジョン・レノンが狂気的なファンの凶弾に倒れた後に語られるようになったオノ・ヨーコの言葉が最近出回り始めている。つぶやきとも詩的表現ともとれる彼女の言葉の中に『空の美しさにかなうアートなんてあるだろうか』という一節を見つけた。
 この言葉が芸術の限界を表しているというのは、きわめて皮相的で凡人的な捉え方だ。この言葉はむしろ芸術に対する挑戦なのだ。彼女が美しい青空を見上げて心を奪われたのはおそらく事実だろう。でも本当にそれだけの感興ならば、誰しもが経験する平凡的事実であり、わざわざ書き残す必要もなかろう。ヨーコ氏は青空に何か他のものを見たのだ。
 この小説を書きながら、私の頭の中には、自分でも恐ろしいくらいにいろんなことが浮かんでは消えていった。これこそが、兼好法師の言う『あやしうこそ、ものぐるほしけれ』の境地なのかもしれない。作家という哀しい仕事を生業とする者には、きっと避けては通れぬ境地なのだ。そう思えば、苦しみも光栄に感じられなくもない。
 そんな私の頭の中に、最近知ったヨーコ氏の言葉が何度も浮かび上がった。そのうち気味が悪くなってきて、ある日私は実際に青空を見上げることにした。その時頭上に広がっていたのは非の打ち所のない完璧な青空だった。窓を開けてベッドに横たったまま小1時間も見つめただろうか。私は奇妙な感覚に囚われた。空の色が変化してきたのだ。青いはずの空は突如として灰色になり、真っ赤になり、紫になった。そのうち私は気がついた。この空は最初から青かったわけではない。私の心が青いと思い込んでいただけなのだ。つまりこの空は私の心をそのまま映しているに過ぎないのだ。
 ヨーコ氏もおそらくは似たような感覚に陥ったはずだ。そして彼女が青空に見たのは、この現実世界だったに違いない。手垢にまみれた道徳、人間の醜さ、そして生きることの矛盾・・・
 ヨーコ氏は思ったはずだ。芸術は決して偽善や慰めなどではない。芸術によって夫が生き返るわけでもないし、彼と出会う前の不幸な男性関係が清算されるわけでもない。芸術とは、むしろ偽善とは対極の、醜さをそのまま受け容れる行為と言っていい。醜さを醜さとして真っ正面から捉え、そこにこそ立ち現れる抜き差しならない人間の真実を表出した作品こそが芸術と呼べるのだ。誰が芸術にハッピーエンドを求めようか?」

京都物語 157

 8:29発の列車の割には、ちらほらと席が空いていた。意外に感じながら腰を下ろすと、そういえば今日は日曜日だったことを思い出した。山口の職場にはおととい電話を入れた。直属の上司である主査は「有給休暇の取得については、その理由は問われない」といかにも彼らしく事務的な前置きをした後で、「君にも事情というものがあるだろうし、私たちも最大限配慮したいところだよ。でも一方で君は職業人でもあるわけだ。2週間以上も仕事を休むことについて、何も感じないというのはどうかと思うよ」と言った。
 僕はこの3年の間有給休暇を取った覚えがない。かと言って仕事に燃えていたというわけでもない。僕は過去に「何もすることがない」という時間を過ごすことの怖ろしさを体験している。僕が社会保険事務所で年金に関わる業務を淡々とこなしている理由はそこだけだ。とはいえ同僚にはそれなりに気を遣ってきたつもりだ。せめて軽蔑されないようにと、その日のタスクを着実にクリアしてきた。だから主査にそういう言い方をされて心苦しくないといえば嘘になるが、今から山口に帰るという選択肢はない。仕事を軸に生活を組み立てざるを得なかった僕にも、何らかの変化というか転機が訪れているのだ。
 阪急電車は地下のトンネルの中を進んでいる。その間、レイナはずっと僕の手を握り、のど飴を口に入れながら無表情を顔面に貼り付けていた。
「少しだけ、教えてくれないかな」と僕は彼女に言った。「君は浅茅しのぶの文章を読みながら、どんなことに気がついたのか」
 レイナは少し間を空けた後で「たしかに『藤壺物語』は読み手を引きつける迫力があった。『源氏物語』のストーリーを軸にして、千年前と今を行き来する小説だった」とあまり唇を動かさずにそう言った。「でもね、それが作者の実生活における苦悩とはどうしても結びつかなかったの。美琴ちゃんの言うことには、浅茅しのぶは『藤壺物語』を書いている最中に精神的な打撃を受けることが重なって、作品を書き上げたのはほとんど命がけだった。授賞式にも参加できずに、長いこと入院することになったのよ。その苦悩の跡が作品の中に見られなかったのよ」
 そこまで話した時、レイナはのど飴を噛み砕いた。そうして飴をすべて呑み込んだ後でこう続けた。
「でもね、ヒントはずっと後にあったわけ。作品のあとがきに何とも意味深なことが書いてあったの」

京都物語 156

 レイナと一緒に過ごす中で、僕は彼女の意思をまず尊重してきた。彼女の言動に対して評価やコメントをせず、常に見守るというスタンスを取ってきた。わかりにくい言葉があったとしても、彼女がきちんと説明するまで待った。だが、今の言葉だけはどうしても聞き返さずにはいられなかった。君の感じている嫌な予感とはどんなものなのかと。
 すると彼女は本願寺に向けられた視線をずらし、横目で僕の方を見ながらこう答えた。
「『予感がした』ということをわざわざ口に出すっていうのは、なんだか矛盾してるよね」
 僕にはよく意味がわからなかった。それでその旨を直接言った。
「つまりあたしは、嫌な予感がしたことをあなたに伝えたかったのよ。具体的に何が嫌なのかはあたしにもはっきりしない。でも、そんな言葉にできない不気味な塊を抱えてるってことをあなたに分かってほしかったの」
「それはなぜ?」と僕が聞くとレイナは「分からない」とすぐさま答えた。「なぜだか分からないけど、とにかくあなたに分かってほしかった」
 そう言った直後にレイナは僕の手を握ってきた。ふっくらとしたそれでいてすらりとした彼女の指が、僕の指の間に入ってきた。彼女はそれらすべての指に力を込めた。ぬくもりが僕の腕全体に伝わったかと思うと、タクシーは烏丸駅に着いた。僕は明子からことづかった手紙の入ったリュックをしっかりと手に取り、それからもう片方の手はレイナとつないだままタクシーを降りた。ワインレッドの阪急列車が目の前に滑り込んできたのは、僕たちがホームに着いてすぐのことだった。その間レイナはずっと僕の手を握りしめていた。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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