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京都物語 170

「私は自分のしている行為が本当に正しいのかどうか、実は分からないのです。はじめは、このヤマシタ君にただ協力してあげようという、それだけだったんです」とレイナは言い、僕の方に半分だけ顔を傾けた。「でもいつからか私は、深入りせずにはいられなくなっていました。もちろんそれは、ひょんなことから美琴ちゃんが関わったいうのもあります。でも本当のところを言うと、誰のためにやってるのか分からないのです。とにかく、決して逃げることのできない何か大きな力に背中を押されるのです。ただ一点、そのことが真琴さんに大きなご迷惑をおかけするのではないかということのみが、前に進もうとする私をためらわせてきました」
 真琴氏はリクラニングチェアを少しだけ回転させ、ストーブの方に足を向けた。それから怒っているのか笑っているのかさえ判別がつかない表情で、炎が燃える様子に目を遣った。
「ここにおじゃますることになったのは、僕に原因があるんです」と僕は口を挟んだ。「初めまして、ヤマシタと申します」
 泣きたくなりそうなほどに頼りない声だった。
 すると真琴氏は顔だけこちらに向けた。その黒くて深い瞳にさらされた時、思わず尻込みしてしまった。明子からの手紙を持つ手が小刻みに震えた。
「僕の古くからの知り合いが、橘さんに渡してほしいと言って、これを僕にことづけてきたんです」と僕は臆病な心を制しながら言い、真琴氏のそばに歩み寄って封筒を差し出した。真琴氏は僕の顔を確認した後で右手を差し出し、それを受け取った。そうして封筒の裏に書かれた明子の名前を見て「ああ」と声を上げた。
「ここで開けていいのかしら?」と真琴氏は僕に向かって聞いてきた。僕は「どうぞ」と言い、再びソファに腰を下ろした。真琴氏が封を切っている横でレイナが「話の途中で申し訳ないんですけど」と言った。「ここで、例の話をしてもいいってことでしょうか?」
 真琴氏は手をぴたりと止めてすっと顔を上げた。オレンジのべっこうの眼鏡がストーブの炎に一瞬照らされた。
「レイナさん、あなたには感謝してます。大きなきっかけを与えてくださったわけですから。ただ、これはあくまで私の人生。大事だと思うことは、誰かに任せるのではなくて、すべて自分の手でやりたいっていうのが私の昔からの流儀なの」
「私はどうすればいいのでしょう?」
「あなたは、ヤマシタさんと、そこに座っててくれればいい」
「もちろん美琴ちゃんがこの場にいるべきですよね?」
「もちろん」
 2人が何について話をしているのか、僕にはまるで見当がつかなかった。
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京都物語 169

「こんにちは」とその女性は言い、僕たちの方に顔を向けた。低いが艶やかな声だった。真琴氏の声はどこかオノ・ヨーコの声に似ているような気がした。
 部屋の正面には大きな窓が取ってあり、そこには冬枯れた愛宕山の情景があたかも借景のごとくに広がっていた。黒い煙突式のストーブのおかげで部屋の中は温かく、水滴が窓を曇らせていた。真琴氏は籐のリクライニングチェアに深く腰かけて、毛糸のブランケットを膝の上に載せている。
「彼女がレイナちゃん」と橘美琴は母親である真琴氏に向かって言い、レイナの方に手を差し出した。するとレイナは「先日はメールをさせていただいてありがとうございました」と丁重に頭を下げた。この時になって初めて僕は、レイナはメールを介して真琴氏と連絡を取ったのだということを知った。
 真琴氏とレイナは何かの「事情」を共有している。そしてそれは浅茅しのぶ、つまり真琴氏がまだ若かりし頃に書き上げた『藤壺物語』にまつわることだ。その「事情」の裏付けを取ったのが、レイナの知人である坂井という出版社の副編集長だったわけだ。
 真琴氏は腰をかけたまま僕たちにソファに座るように促した。窓とは反対側の壁には時代を感じさせるダークブラウンの本革のソファが置いてある。僕たちがそこに腰を下ろそうとしている時に、橘美琴は「お茶を用意してきますね」と言い残し部屋を出て行った。
 真琴氏は僕たちの方を向いて「遠いところ、ご苦労様」と小さな声で言った。このとき僕は初めて、長いこと探し求めていた女性の顔を正面から見た。髪を後ろで丸く結い、オレンジ色のべっこうの眼鏡を掛けている。厚いレンズの奥には黒々した瞳が深い光を放っている。その黒さは娘の瞳よりも深い。怖いとさえ思うほどだった。
 何はさておき、明子からことづかった手紙を渡そうと絨毯の上に置いたリュックサックに手を突っ込もうとした瞬間、レイナがだしぬけに話し始めた。
「まず、先日私がメールにいろいろと書きすぎてしまったことについて、お詫びを申し上げます」
 真琴氏はその深くて黒い瞳でレイナを捉えた。
 ストーブの炎が静かに燃える音だけが部屋の中に轟いている。

京都物語 168

 僕の幻覚かもしれないが、車を停めた場所から玄関先までのほんの数メートルを歩く間に、空気は冷たくなり、空は暗くなったように思えた。山の奥深くに入り込んだせいで雲も出てはいるが、空自体の青さがさっきよりも重々しく感じられる。ここは僕の知っている、あるいはこれまで思い浮かべていた京都とはどうやら少し違うようだ。
 そんな僕の隣で、レイナが辺りを見渡しながら「なんだか大原の雰囲気と少し似てるね」と口にした。「でも、大原よりもいろんなものを感じる。さっきの化野念仏寺あたりから、体がぞわぞわしてしかたないの。こんなことめったにないよ。ここはあたしの知らない京都っていう感じがする」 
 僕は思わずレイナの横顔を見た。僕たちは共鳴することが多いのだという感覚は、もはや特別なものではない。僕たちの心は言葉を介在せずとも、つながっているのだ。
 ただ、レイナの瞳はふだんは感じられない不安の色を漂わせている。そういえばさっきホテルを出た時に、彼女が何となく嫌な予感がするとつぶやいていたのを思い出す。そしてそのことをどうしても僕に伝えたいのだと言い、寄り添ってきた姿が蘇る。
 すると僕たちの前を歩いていた橘美琴が玄関の鍵を開けた。家屋自体は年季の入った建物だが、玄関の扉だけは新しく交換したようだった。橘美琴は何も言わずにその扉を開けて、僕たちを中に招き入れた。見たところそんなに大きな家ではない。
 玄関の中に特別な物は何もなく、意外にも生活の匂いがあった。ここがかつて文壇を賑わせた作家が隠居している家だとはとても思えない。
 僕たちは靴を脱ぎ、中に入ることを許された。古いがよく磨かれた廊下の左右にはいくつかのドアがあり、橘美琴は一番奥の部屋のドアを控えめにノックした。まもなく「どうぞ」という平板な調子の声が廊下に響いた。
 部屋の中には1人の女性がいた。

京都物語 167

 山はますます深くなり、景色が荒涼さを増してきたところで、左手に「化野念仏寺」と太く書かれた看板が現れた。僕たち3人は無言のうちにその看板を一瞥した。山肌の緑の間から寺院らしき建物の屋根がちらほらと窺えはしたが、道路よりも一段高い所にあるので、境内の全貌ははっきりしない。それでもこの一帯が何かしら畏れ深く忌まわしい土地だということは感じることができる。ここと同じくかつての葬送地だった東山の鳥部山の現在とは正反対だ。
 シトロエンは化野念仏寺を過ぎ、「嵐山高雄パークウェイ」との分岐点の近くにまでやってきた。
「京都に住んでたけど、こっちの方まで来たことはなかったなあ」とレイナは感慨深げに漏らした。すると橘美琴はパークウェイの方を指さして「この道路をひたすら上っていくと、空海ワールドが広がっているのよ」と言った。すぐさまレイナは「高雄に行くんだよね」と相づちを打った。「昔好きだった人が、高雄にある神護寺の紅葉はやばいくらいに見事だから、そのうち一緒に行こうって何度も言ってくれたけど、結局は行かずじまいだったなあ」
 橘美琴はレイナの方を向いて何かを語りかけようとしたが、笑顔の中に言葉をしまい込んだ。彼女にはレイナの過去の恋人が誰なのか、見当がつくのだ。それはつまり、実家が大原にあるという元夫のことに違いあるまい。
 シトロエンは「嵐山高雄パークウェイ」の入口を通り過ぎ、その先の脇道に入った。そこには「愛宕山山道」という汚れた案内板が掲げられていて、橘美琴は慣れたハンドルさばきで車を進めた。この辺りはもう集落のまとまりすら感じられない。いくつかの民家が山の陰に謙虚な様子でぽつぽつと点在しているだけだ。車は舗装されていないみすぼらしい土の道をのろのろと進んでいった。フランス・シトロエン社のエンジニアたちは、自分たちの開発する車がまさかこんな道を走行しようとは想定もしなかっただろう。
 やがて車は荒れた竹藪をくぐりはじめた。日差しが遮られ、朝だというのに夕方のように錯覚された。その竹林を抜けた突き当たりに、平屋建ての邸宅が忽然と現れた。
「おつかれさま。ここが私の家です」と橘美琴は言い、庭先の所定の場所にシトロエンを正確に停めた。外に出ると凍てつくほどの寒さに全身が震えた。レイナは慌て気味に紫のダウンジャケットを羽織った。
 山の高い所で、聞いたことのない鳥の鳴き声が憂いを帯びた感じで響き渡った。

京都物語 166

「今ふと思ったんだけどさ、鳥部山って、どこにあるんだっけ?」とレイナは間の抜けた調子で言った。すると橘美琴は「え」と言い、「清水寺の坂の南側が小高い丘になってるでしょ。その辺りよ」とすんなり答えた。
「ということは、大学の近くだったんだね。今まで気づかなかった」
 レイナはそう言ってのど飴を口に入れた。橘美琴にも差し出したが、彼女は「今は要らないわ、ありがとう」とやんわりとした口調で断った。僕は遠慮なくいただくことにした。ハーブの香りを口いっぱいに感じていると「つまりあのへんは昔は火葬場だったんだね。今じゃ考えられない」というレイナの声が聞こえた。
「今は、そんな忌まわしいことを思い浮かべながら清水の坂を歩く人なんて、まずいないでしょうね」と橘美琴はおかしそうに言い、右にウインカーを上げた。この時間帯、嵐山の通りに観光客の姿は見あたらない。紅葉の季節における賑やかさを思うと、別の街のように思えてしまうほどだ。そうやってぼんやり窓の外を眺めていると、ふいに頭の中で何かと何かがつながった。東山、鳥部山、火葬場・・・
 するとまもなく『源氏物語』の記憶が立ち上がってきた。僕が京都に来たその日、六条ホテルのフロントで千明氏がしてくれた話を思い出した。渉成園のルーツである「河原の院」の跡地と思われる廃院で、物の怪に取り憑かれて絶命した夕顔の亡骸が安置されたのが、たしか東山だったはずだ。
 夕顔が亡くなった夜、遺体の安置場所に到着した光源氏は、生前と変わらずにかわいらしい様子で横たわっている夕顔の手を取り、声も惜しまずに泣いた。恋する人の遺体と対面するというのは、いったいどんな心境なんだろうと千明氏から話を聞いた時僕はそう思った。
 シトロエンは嵐山の観光メインストリートをまっすぐに北上した。左手には天龍寺が見えたが、佐織と天ぷらを食べた割烹料理屋はピンク色のカフェに様変わりしていた。さらに北上すると、野宮神社の小さな看板が見え、そのすぐ後には「竹林の道入口」と記された案内板が現れた。もう少し先に進めば嵯峨釈迦堂、すなわち清涼寺の看板も見えた。このあたりにまで上ってくると人通りはますます乏しくなり、どこか殺伐とした空気さえ漂い始める。
 それでもシトロエンはなおも北上する。清涼寺を通り過ぎたところで急に道幅が狭くなり、カーブが連続する。つい今し方渡月橋を渡り、嵐山の街を通ったことが信じられぬほどの山道になった。シトロエンはくぐもったエンジン音を響かせながら、その道を駆け上がっていった。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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