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京都物語 180

「桐壺更衣は亡き父の分まで必死になって育ててくれた母北の方に心から感謝していた。だからこそ、宮中に上がることに、苦しみ抜きながらも踏み切ったのだ。しかし皮肉なことに、母の期待に応えることによって、彼女は誰にも打ち明けることのできない孤独の淵にたたき落とされ、ついには人生を終えることになってしまった。結果的に彼女を死に追いやったのは、他の女性たちからのねたみやそねみだったのは間違いではない。だが最後まで心の奥底に潜んでいたのは、自らの人生に残してしまった大いなる悔恨だったのだ」
 真琴氏はそこまで話した後で、膝の上に組み合わせていた指をほどき、ほとんど冷たくなったであろうオレンジペコーを最後まで飲み干した。
「『源氏物語』では語られなかった桐壺更衣の思いを、『私』は原文の朗読によって感じ取るんですよね」とレイナが目を細めて言った時、橘美琴は母親に向かってティーポットを掲げた。すると真琴氏は「冷たい飲み物をちょうだい」と命令した。橘美琴は「はい」と返事をして立ち上がり、ドアの向こうに消えていった。彼女の足音が遠ざかった後で、真琴氏の瞳が僕を捉えた。
「ねえ、ヤマシタさん」
 思わず背筋がピンと伸びた。
「運命っていうのは、恐ろしいものね」
 真琴氏の言葉に、僕はどう返答してよいのやら分からなかった。
「『藤壺物語』の主人公はね、桐壺更衣の死について、こう結論づけるの」と真琴氏は言い、僕の頭の上の空間に目を遣った。「桐壺更衣を殺したのは、他でもない、紫式部だったのだ」
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京都物語 179

「光源氏を産むことが、なぜ、運命といえるのか?」と真琴氏は言った。粒の大きくなった雪が真琴氏の肩越しにちらほらと舞っている。太陽は高くなっているはずなのに気温はまるで上がる気配を見せず、ストーブの小窓から覗く炎がますます赤く感じられる。
「『私』は『源氏物語』の朗読を繰り返しながら、哀しい気持ちになる。光源氏を産んで間もなくして死んでしまう桐壺更衣の思いが、次々と胸に入り込んでくる。彼女は他の女御や更衣からの嫉妬によって心身共に疲弊しきっていた」
 真琴氏はそう言って膝掛けのブランケットの上に手を置き、指を組み合わせた。
「桐壺更衣は産んだばかりの光源氏にこの上ない愛情を覚える。でも、その一方で、なつかしい過去を忘れられないでいた。
 彼女が宮中に上がってしまった後、幼なじみとの交流は完全に絶たれてしまった。ましてや帝の后となった以上、彼には彼女を思うことすら許されなくなっていた。あの人は今頃何をしているだろうか? もう自分のことを忘れてしまっただろうか? 桐壺更衣の胸は物思いで塞がるばかりだった。自らの立場をわきまえなければならないと言い聞かせるほどに、ずっと心を許してきた存在が遠ざかってゆくような気がしてならず、それが何より切なかった。
 彼女は最愛の我が子を抱きかかえながら、毎晩涙した。その姿を見て、桐壺帝は妻を不憫に思い、さらなる寵愛を施した。それはこの上なくありがたいことだった。宮中においては帝の寵愛以外に頼りにするものはなかったのだ。だが、その愛こそが、じつは彼女には重く、苦しくもあった。彼女は実家に帰りたいと願い続けた。いっそのこと、時間ごと元に戻してほしいと月を見上げては溜め息をついた」

京都物語 178

「光源氏の母である、桐壺更衣という女性、ご存じ?」と真琴氏は問いかけてきた。名前だけは聞いたことがあるが、ほとんど知らないに等しいと答えると、「『藤壺物語』は桐壺更衣が桐壺帝の愛を一心に受ける場面から始まる」と真琴氏は言った。
「『源氏物語』を研究している大学生の『私』は、桐壺更衣は桐壺帝を本当に愛していたのだろうかと疑念を抱き、その謎に迫るために様々な文献に当たる。しかしどんな書物にも彼女の納得できる答えを見つけ出すことができない。彼女は思案に暮れる。ところがある晩、夢の中で何かの声を聞く。目が覚めたとき、胸の奥には『言霊』という言葉だけが残っている」
 真琴氏は久しぶりにオレンジペコーに口を付けた。その行為は、紅茶を味わうためではなく、喉を潤すためのようだった。
「彼女は『言霊』という言葉に誘われるように『源氏物語』の原文を声に出して朗読し始めた。3週間ほど繰り返した時、ある不思議な感覚に囚われた。言葉と言葉の間から、桐壺更衣の声にならぬ思いが浮かび上がってくるような気がしてきたのだ。たしかに桐壺更衣は桐壺帝からの愛をありがたいものと感じていた。しかし彼女には密かに心を寄せる人がいた。実家の近くに住む、幼なじみだった。桐壺更衣はその人の飾らないやさしさに甘えることが好きだった。父親を早くに亡くしてしまったがために、何かにすがりつくという人間としての本能を、いつのまにかその人に託していたのだ。しかし母である北の方は、娘をどうしても宮中に入れたかった。父親を早くに亡くしてしまったのは、自分が前世に犯した過ちのせいだと自らを責め、仏に手を合わせ続けた。彼女の心には『娘の宮仕えを必ず実現させよ」という夫の遺言が常にあった」
 そこまで話した時、真琴氏はふっと息をついた。すると隣でレイナが僕に向かって言った。
「いちおう言っとくけど、今の話は『源氏物語』にはないからね」
「今の話っていうのは?」
「桐壺更衣が桐壺帝の愛情を一心に受けたというくだりはあるよ。だけど、桐壺更衣の過去については『源氏物語』では語られていない。そこは『藤壺物語』に出てくる大学生の『私』の想像の世界ね」
「なるほど」と僕は言った。「それにしても妙にリアルな話だな」
「それ以来、母北の方は、女手一つで娘を教育し、恥をかかぬように、女性として必要なあらゆる儀式を取り計らった。やがて念願の入内を果たし、ついに帝からの愛を受けることとなった。かくして桐壺更衣はたぐいまれなる運命に包み込まれた」と真琴氏はしんみりと語った。「その運命とは、光源氏を産むということだった」

京都物語 177

「つまり『源氏物語』なのに、主人公は光源氏ではないというのですか?」と僕は思わずそう聞いた。
 真琴氏はオレンジのべっこうの眼鏡を両手で掛け直しながら「そう」と口を動かさずに言った。真琴氏の肩越しに広がる窓の外の景色がより寒々しくなってきている。ここへ来る時、今が朝なのか夕方なのか分からなくなるほどの空だったが、その色合いは濃さを増すばかりだ。よく見れば、埃のような粉雪が舞い始めている。枯れた木の枝が空に向かって弱々しく伸びる様子は、苦しみからの解放を願う人々の手のようにも見える。
 すると橘美琴がやおら立ち上がり、ストーブの上に載せたやかんを手に取って部屋を出て行った。僕が橘美琴の後ろ姿を見送っていると、真琴氏が「『源氏物語』の主人公は光源氏ではない」と僕が言ったのと同じことをつぶやいた。「だからこそ『藤壺物語』が必然的に書かれることになった」
「ということは、『源氏物語』の主人公は藤壺というわけですか?」と僕が問うと、「それも少し違う」と真琴氏は答えた。「ただ彼女はとても重要な女性であることに違いはない。光源氏よりもはるかに重い役割を与えられている」
「だとすれば、いったい本当の主人公とは、誰なのですか?」と僕は聞いた。真琴氏はその黒曜石のような瞳でストーブの炎を見つめた。そうして燃え上がる炎と対話するかのように「私は、紫式部だと思う」と言った。僕にはその意味が全く分からなかった。
 頭の中が混乱しかけている所に、橘美琴が重そうなやかんを手に提げて戻ってきた。彼女がそれをストーブの上に置いた時、水蒸気が上がる音が部屋中に響き渡った。橘美琴は音が収まるのを確認したのち、再びドアの前の定位置について静かに正座した。
「『源氏物語』の真の主人公は、紫式部」とレイナは今の真琴氏の言葉を口に出した。まるで墓石に刻まれた銘文を読み上げているような口調だった。レイナの声を聞くと、先週2人で訪れた廬山寺の情景を思い出した。畳の部屋のガラスケースに収められた紫式部の和歌も甦ってきた。

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな 

 紫式部は当時の女性からすると不自然なほどの晩婚だった。しかも結婚の相手は20歳以上も年上の中流貴族で、娘を授かった後、ほどなくして死別の悲しみを味わうことになった。その後藤原道長の要請で宮中に上がることとなるが、彼女の心は失意に支配されていた。『源氏物語』は、その憂鬱と孤独の中で書かれたのだ。
 すると僕の心には、紫式部が宮中に入る際に詠んだ和歌が、重苦しい音楽のように流れ込んできた。

身のうさは 心のうちに したひ来て いま九重に 思いみだるる

京都物語 176

「ところでさ」と僕はレイナにささやきかけた。「僕はまだ『藤壺物語』を読んでないんだけど」
 その瞬間、ストーブの小窓から覗いている炎がより赤く燃え上がり、ぼおというくぐもった音がかすかに部屋の空気を震わせた。
「ヤマシタさん、だったわよね?」
 僕は真琴氏に顔を向けて「はい」と答えた。
「たった今、縁とは異なものだと言ったけど、この場にあなたがいることこそ不思議な縁ね」と真琴氏はしみじみとつぶやいた。「明子さんからの予期せぬ手紙を拝読させていただいて、あなたがどういう方なのか、そしてどうしてあなたが今ここにいるのか、大まかに分かってるつもりではあるけれど」
 僕には真琴氏に話したいことが山ほどあるはずだった。しかし実際にこの女性と面と向かうと、喉が石化したかのようになって、言葉が固まってしまう。
「ヤマシタさんは『源氏物語』はご存じ?」と真琴氏は話の矛先を変えた。僕は「恥ずかしながらほとんど分かりません」と正直に答えた。すると真琴氏の黒い瞳には慈悲深げな色が滲んで「これほど有名な作品にもかかわらず、多くの日本人が読まずに人生を終えてゆく。それが実情なのでしょう」と寂しげに言った。
「あの物語の中には、軸となるストーリーを取り囲むようにして様々な短編が含まれていて、その1つ1つには必ず女性が登場する。そしてその軸をなすストーリーにおける重要人物が藤壺という女性」と真琴氏は続け、籐のリクライニングチェアに、さらに深く腰をうずめた。
「そうしてその藤壺こそ、言霊の世界に生きる女性だった。『藤壺物語』に描かれているのはまさにその世界。でもあの物語は、じつは私の意志で書いたものではない。私は1つの媒介となって、あの作品を書かされたにすぎない。たとえるなら私は霊媒師のような役割を与えられて、言霊の世界から具体的な言葉を選択させられ、物語として体系化させられただけ」
 真琴氏の瞳には再び呪われたような色が滲み始めた。
「そうして気がつけば私もその言葉の世界に引きずり込まれ、結果的に葬られてしまった」
 真琴氏が唾を飲み込む音が僕の耳に不気味に響いた。
「正直なところを言いますと、藤壺という女性も知りませんでした。主人公が光源氏という男性であるという知識くらいしかありませんでした」と僕は言った。そう言ってしまった後で、何とも的外れなことを言ったように思えて、恥ずかしさで身体が熱くなった。橘真琴の前では、口先だけの言葉は意味をなさない。彼女は言葉の世界に生きているとはっきり自認しているだけあって、言葉の価値を瞬時に見抜く力をもっている。そのことがありありと伝わってくる。
 すると真琴氏は「光源氏ですか」とため息を吐くように言い、「光源氏は『源氏物語』の真の主人公ではない」と言い切った。
「源氏は敗北者。彼はありとあらゆる運命を背負わされ、最後には無惨にも崩壊してしまう、いうなれば憐れむべき人物です」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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