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京都物語 200

 ふと橘美琴に目を遣ると、彼女もレイナと同じように背筋を伸ばして母の話に耳を傾けている。ただ彼女はソファに腰掛けている僕たちとは違って、ずっと正座をしている。よく足がしびれないものだと不思議にさえ感じられる。おそらく長年の訓練によって正座が苦にならない身体を獲得しているのだ。
「とはいえ弘徽殿女御はしたたかな女性だった」と真琴氏は言った。「いや、女性の本質とはしたたかなもの。表に顕れる性質は人によって違いはあるけど、本質は同じ。女性はしたたか。しかも弘徽殿女御は、帝の正妻格であるし、何より父は右大臣で、一国の首相のような地位にいる人物だったから、彼女はしたたかさを全面に出すことができた。それゆえ、宮中にいる人たちは、この女性だけは敵に回したくないと思っていた。だからこそ、彼女からじわじわと攻撃を受けた桐壺更衣も藤壺も、精神的な消耗は相当なものだった」
 真琴氏は実体験でも語るようにしみじみと言った。
「しかし藤壺は桐壺更衣のように殺されやしなかった。体調を崩した彼女は、すぐに里帰りを許された。桐壺帝は、最後まで宮中に置いていた桐壺更衣があっけなく死んでしまった教訓から、藤壺に配慮したのかもしれない。でも、この判断こそが、全ての始まりであり、同時に、すべての終わりでもあった」と真琴氏は言い、下唇を噛んだ。
「藤壺の里帰りを聞いた光源氏は、いてもたってもいられなくなる。御簾1枚で隔てられた宮廷生活を考えれば、藤壺との密会を果たす願ってもないチャンスだった。聡明な彼は、父の帝が藤壺を心配していることくらい承知していた。しかし熱い恋心で埋め尽くされている彼の魂は、完全に抜けてしまっていた。とても理性的な判断ができる状態ではなかった」
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京都物語 199

 窓の外では順調に雲が広がり、気がつけば空一面に行き渡っていた。灰色はみるみる濃くなり、再び雪が舞いそうな気配を感じる。さっきの陽光が夢の中の出来事のようだ。
「ある日藤壺は体調を崩してしまった」と真琴氏は天候の変化に頓着する様子もなくそう言った。「先帝の娘である彼女は、桐壺更衣よりも恵まれた境遇にあるはずだった。だがそんな彼女でも、宮中では何かと気苦労が多く、特に桐壺帝の正妻格である弘徽殿女御(こきでんのにょうご)からの妬みは、耐え難いものがあった。弘徽殿女御といえば桐壺更衣を極限まで追い込んだ人物の1人だった」
 僕はふと、レイナが、平安時代の天皇は複数の女性を妻に取ることができると言っていたのを思い出した。あの時僕は、一国の主である帝には好色が許されるのだと解釈した。しかし実際はそう単純な話ではなく、多くの皇族を残さなければならない使命が帝にはあったのだとレイナは説明した。それゆえ帝は、高貴な身分でかつ優秀な遺伝子をもつ女性と結ばれなければならなかった。あの時レイナは、天皇も哀れなものだと言った。僕も全く同感だった。
 それを考えると、桐壺更衣への愛は規格外だった。彼女の父は大納言という身分であり、帝の妻となるには十分な位ではなかったのだ。にもかかわらず桐壺帝が妻にしたのは、つまりは純愛だったということだ。そうして真琴氏はその純愛を「運命」と位置づけた。桐壺更衣は光源氏を産み落とすためだけに、そのようなロマンスが与えられ、そうして役割を終えるとあっけなく死んでしまった。
「ただ、さすがの弘徽殿女御も、藤壺はそうあからさまに攻撃できなかった」と真琴氏は言った。「彼女でさえも『人笑へ』を恐れていたから」

京都物語 198

「光源氏への想いを綴った部分は、大切にしまっておきたかった。だが、何かの拍子で桐壺帝の目にさらされる危険を思うと、捨てざるを得なかった」と真琴氏はしんみりと言った。それから机の上の観葉植物の角度を陽に当たるように変え、いとおしげにその葉をさすった後で、こっちを向いた。真琴氏の顔はやはり影になっていて細かい表情まではうかがえない。言葉には悪魔が宿ると真琴氏は指摘したが、今の真琴氏の顔にも悪魔が宿っているように見えなくもない。さっきまではやつれが感じられたが、どうやら静かな迫力が復活しつつあるようだ。陽光が真琴氏に力を与えたのかもしれない。
「しかし、藤壺が日記を反古にした理由はそれだけではない」と真琴氏は話を続けた。「彼女は言霊の怖ろしさにそれとなく気づいていた」
 レイナは背筋を反らすように伸ばして話の中に入り込んでいる。
「書かれた言葉が現実に起こる。もちろん、そのことは、光源氏を愛している藤壺の心を密かにときめかせもした。だが、彼女の心は、それ以上に世の『人笑へ』となることを恐れていた。桐壺帝の正妻である自分が、まさかその皇子に現を抜かしているだなんて。もしそれが明るみに出たとしたら、これ以上の笑い草もなかろう。そうなればいっそのこと死んだ方がましだ。藤壺はそこまで考えた。だからこそ、日記を破棄する覚悟が沸き上がった」
 陽光は再び翳りを見せ始めた。窓の外の空には再び雲が広がろうとしている。風も出てきたようだ。木の枝に積もった雪がゆっくりと払い落とされている。
「ところが、藤壺の考えは甘かった」と真琴氏は言った。「すでに彼女は言霊に呑み込まれていた。密かに記した言葉は、やがて現実のものとなっていく」

京都物語 197

「その頃藤壺は密かに日記を綴っていた。それは孤独の言葉を吐露することのできる唯一の場だった。平安朝の女流貴族にとって、日記を書くことは特別なことというわけでもなかった。しかし帝の妻である藤壺には、他とはまた違う意味合いがあった」
 背後から降り注ぐ日差しのせいで、真琴氏の表情は影になっている。ストーブの炎を反射するオレンジのべっこうの眼鏡だけが、存在感を保っている。
「いつしか藤壺の日記には、光源氏への切ない恋心が綴られるようになった。不思議なことに、言葉がひとたび紙の上に落ちると、あとは次から次へと言葉が生まれ、やがて数珠のように連なっていった。文章となった想いを読み返してみると、いかに自分が光源氏を愛しているかが恥ずかしいくらいによく分かり、体が熱くなった。藤壺には幼い頃の光源氏の記憶が深く染みこんでいた。そうして時とともに頼りがいのある男性に成長してゆくさまを間近に見るにつけ、心がぐらぐらと揺れた。それから、御簾1枚で隔てられてしまった今の苦しさと、何度かそれをくぐり抜けて突入してきたあの方の腕のぬくもりが蘇ってきた。その時は必死に抵抗するしかなかった。だがこうやって日記の中の言葉と対面してみると、本心はまた別のところにあったのだと痛切に感じた」
 真琴氏はそこまで話したところで背後を振り返り、眩しそうに窓の外を見た。その首筋にはこの女性がこれまで堪え忍んできた人生の跡が刻まれていた。「浅茅しのぶ」というペンネームは真琴氏にふさわしいと納得した。
「言葉の中では藤壺は自由だった。愛する人と2人きりになり、談話を交わし、抱き合うことができた。そして最後には光源氏と1つになった。あたたかく、やさしさに満ちた世界だった」と真琴氏は外の光に目を遣ったままそう言った。

京都物語 196

「つまり人間の欠落を埋めるのは、悪魔の宿る言葉、ということになる」
 そう結論づけた真琴氏は大きくため息を吐いた。ずいぶんと消耗している様子で、表情にも疲れが見て取れる。だが瞳だけは黒々としている。最後まで語り抜くのだという決意が表現されている。すると机上に並べられた辞書たちが突如として光に照らされた。さっきまでの吹雪は落ち着きを見せ、愛宕山の木々に積もった雪がきらきらと陽光に輝いている。それにしても短時間でずいぶんと雪が降ったようだ。橘美琴のシトロエンはこの雪道を走破することができるのだろうか?
「でも、人間の欠落を補うのが悪魔の言葉だということに気づいた時には、すでに手遅れだった。もう後戻りなどできなかった。あの時私は、全身全霊を込めて『藤壺物語』に傾注していた」と真琴氏は絞り出すように言った。
「藤壺は光源氏を求めていた。次にあの方がこの御簾の中に入ってきたとしたら、もはや退けることはできまいと恐れていた。どうして桐壺帝の妻になったのだろうと、自らを問い詰めた。帝と出会わなければこのような許されぬ恋に落ちることもなかった。そう考えると、呪うべきは運命だとも思えた」
 真琴氏はそう言って、再び飲み物を要求した。橘美琴はさっと立ち上がり、デキャンタに残った最後のカルピスを注いだ。真琴氏はストローでゆっくりと吸い上げ、味をたしかめるように飲んだ。
「藤壺は苦しみの中で桐壺更衣の声を聞いた気がした。桐壺更衣の人生への悔恨は、死してもなお冷めることはなかったのだ。彼女は帝に愛される苦悩を藤壺に託すことで、せめてその魂を現世に残そうとした。その声を藤壺は聞き取っていた」と真琴氏は言い、膝の先端に目を落とした。
「しかし、藤壺の苦悩は、桐壺更衣とは根本的に異なっていた。彼女は桐壺更衣の産んだ皇子を愛してしまったのだから」
作者

Author:スリーアローズ
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