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京都物語 210

 真琴氏はストーブの炎に目を遣ったまま訥々と話を続けた。
「美琴には、お母さんはお父様の熱意に押されて結婚したのだと言って聞かせてきたけど、じつは、少し違うのよ。出会った時から、私は、お父様に夢中だった。美琴も知ってのとおり、お父様は16歳も年上で、前の奥様を病気で亡くされていた。そして、貴博さんを連れていらした。あの時貴博さんはすでに高校3年生だった。でも、そんなこと、全く気にならなかった。どんな障壁が道を塞ごうとも、お父様を愛することができるのなら、それ以上何もいらなかった。今思えば、失恋の影響もあった。あの時の胸が塞がるような苦しさが、お父さんへの思いをますます加速させたのね。出会って1年も経たないうちに、私たちは一緒に暮らすようになった」
 今まで正座していた橘美琴は、ようやく足を横に流した。彼女はうつむいたまま、スカートの裾を整えている。
「お父様は、ほんとうに、思いやりに満ちた方だった。将来は研究者の道を進むようにと、大学院の博士課程を勧めてくださった。私が気持ちよく研究に打ち込むための環境も整えてくださった。仏像について語られるときは、まるで別の魂が宿ったかのように、威厳に満ちていらした。休日には旅行に連れて行っていただいた。日本全国を巡るのも、そう遠い日はではなかろうと思っていた。小説の世界へ誘ってくれたのも、お父様だった。研究の基本は所与の文献を読み込むことだが、発想の転換のためにも創造的な自己表現の場が必要だと。初めて書いた『月と京都タワー』という短編を、お父様はたいそう褒めてくださった。それからというもの、恐ろしいくらいに筆が進んだ。ああ、これが、幸せというものなのだと、心から実感した」
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京都物語 209

 その話を聞いた時、僕は『チャイコフスキーの恋人』を思い出した。若き日のチャイコフスキーの肖像画に恋して、サンクトペテルブルグを訪れる主人公。彼女は幻想の中でチャイコフスキーと出会い、激しく愛し合う。
「でも、先生は届かぬ存在だった」という真琴氏の物寂しげな声で、僕は我に返った。「あの時先生はまだ結婚されていなかったけど、私から見て、結婚して家庭をもつことには縁のない人に見えた。それでも、卒業式の日、思い切って手紙を渡した。清水の舞台から飛び降りるよりもはるかに勇気の要る、私にとっては命がけの直談判だった。手紙の最後には自分の住所と電話番号を記して、返事を待った。ひたすら。大学生になった後も。でも、結局返事はなかった。失恋したのね。決して生やさしい失恋ではなかったわ。あの失恋は後の人生になにがしかの影響を与えている。はっきりそう思う」
 『藤壺物語』を語っている時よりも、いくぶんか穏やかな顔つきで真琴氏は話した。
「私は、過去に、3回恋に落ちた。先生は、その最初の人だった」
 真琴氏がそう述懐した時、少し顔を上げていた橘美琴は、再び深くうつむいた。真琴氏はそんな娘の姿を横目で意識している。
「お父様と出会ったのは、美琴も知ってのとおり、大学院の時のこと。その時私は中古文学の絵巻物を研究していた。お父様は仏像研究の第一人者で、博物館の学芸員をなさっていた。とにかく博覧強記な方だった。しかも、根幹には深い人間愛があった。お父様は全国各地を飛び回って、お寺の奥から埃にまみれた仏像を掘り起こしては、丁寧に再生された。そうして、千年近くも前にその土地で必死に生きた民衆たちの魂までをも蘇らせようとなさった」

京都物語 208

 窓の外では大粒の涙のような雪が、しとしと落ちている。
 真琴氏は「出会ってしまった時点で、もう、どうすることもできなかった」と虚ろな瞳で言った。一体誰に向かって言っているのだろうと僕は思った。「逃れることなどできない。自分の力をはるかに超えている。これじゃいけないと思う。何度も思う。だから苦しい。こんなに苦しいことはない。かと言って、誰かに打ち明けることができるようなものではない。だから、深い孤独に陥ってしまう」
 真琴氏はそんなこまぎれの言葉を並べた後で、唇を固く閉じ、僕の頭上に目を遣った。冬の星座でも見上げるかのような瞳だった。
「藤壺の魂は、私の魂だった。そうして私は、あの物語を書かされたの。言霊に導かれて」と真琴氏は静かに声を荒げた。それから、呼吸を整えながら話を続けた。
「小学生の頃、私は平凡な少女だった。成績がいいわけでもなく、運動ができるわけでもない。しいて言えば、ピアノをよく弾いていた。でも、私の場合、どこかのコンクールに出て賞を狙うという欲はなかった。私のピアノの聴き手は、私自身だった。私は、寂しくなると決まってピアノを弾いた。そうして自分の弾くピアノの音色とメロディに癒された」
 今までうつむいていた橘美琴がほんの少しだけ顔を上げた。
「初めて恋に落ちたのは、高校1年の秋だった。普通の女の子の感覚からすると、ずいぶんと遅い初恋なのでしょう。でも、それは紛れもない事実。私は、高校の美術の先生に恋に落ちた。今でもはっきりと覚えている。先生は私のデッサンを褒めてくださった。描写が細かくていい、その描写力は、君の内面に裏打ちされているんだよって言われた。生まれて初めて、私は誰かに認められた気がした。それからというもの、先生は心の中でずっと優しく微笑んでいてくださった」

京都物語 207

「自分が『選ばれし者』だと自覚している人間は、決して多くを語らないもの。ましてや、自らを主張したりしない。すべてから一線を引いてる。だけど、自分にはかなわないと認めた人には、あっけないくらいに従順になっちゃうのね」とレイナがつぶやいた。「もしその人が同姓だったら、どこまでも尊敬する。逆に異性の場合は、恋に落ちる」
 レイナの言葉に、真琴氏は「そう」と同調の声を上げた。それから「それも、とても激しい恋に落ちるの」と付け加えた。
「光源氏は、非の打ち所のない藤壺を改めて近くに感じることによって、さらに深い恋に落ちた。この人はどうしてこうも完璧なのかと」
 真琴氏はそう言った後で、ずり落ちかけていた毛糸のブランケットを膝の上にきちんと掛け直した。そしてストーブの炎に視線を向けた。レイナは「さすがの光源氏も、雷に打たれてしまったわけか」と独り言のように後に続いた。
 すると真琴氏は「運命で結ばれた2人は、その瞬間、同じことを考えていた」と言った。「でも藤壺は光源氏のように、思ったことを上手く言葉にしたり、心の中で整理したりするのがあまり得意ではない。それでも彼女は、美しく頼もしい光源氏を間近で見て、自らの隠せない恋心を真に悟った」
 レイナは遠くを見つめているかのように茫然としている。彼女がさっきから何を考えているのか、実はよく分からなくなってきている。ここへ来るまではあれほど深く共鳴していたはずだったのにだ。彼女は僕の知らない世界を彷徨っているかのようだ。
「それから2人は、なだれ込むかのようにして、深い契りを交わした」と真琴氏は話を核心に近づけた。「それまで抑え続けていた感情が2人の倫理を完全に取り払った。でも光源氏は依然として夢の中にいるようで、どこか切なかった。藤壺は、ああ、これで自分はもう元には戻れないのだと、心のどこかでそう嘆いた。しかし、彼女の絶望感には底があった。なぜなら、いつかはこうなるのだという諦めを抱き続けていたのだから」

京都物語 206

 籐のリクライニングチェアに深く腰掛けていた真琴氏は、いつの間にか背筋を伸ばし、身を乗り出すようにしている。毛糸のブランケットがずり落ちそうになっているが、それに気を払う様子すらない。
「たしかに藤壺は苦悩の表情を向けた。しかしその姿にはどこか親しみがこもり、可憐な様子は消えてはいなかった。だからといって気安く打ち解けるふうでもなく、つつみ深ささえ感じられる。何を言わなくとも、こちらが恥ずかしくなるような物腰が、やはり、これまで見てきたどの女性とも違っていらっしゃるということを、光源氏は改めて気づかされるばかりだった」と真琴氏は言い、ほとんど氷水になったカルピスをストローで吸い上げた。橘美琴は新しいものを持ってこようかという身振りを母に示したが、真琴氏は右手を軽く挙げてそれを制した。橘美琴は再び正座に落ち着いた。
「フリードリヒ・ニーチェは、『ツラトゥストラ』の中で、傍らの木を指さしてこう語る。この木は山の中に1人さみしく立っている。人間と動物を超越して高々と立っている。たとえこの木が何かを語ろうとも、理解できるものは誰1人としていない。それほど、この木は成長したのだ。そして、この木は今、待ちに待っている。この木が待っているもの。それは、稲妻に打たれ、自らを破滅させることだ」
 そう言って真琴氏はふうっと息を吐いた。そうして目を細めつつ話を続けた。
「光源氏はまばゆいばかりの青年に成長した。だが、ここで彼は、さらに非の打ち所のない藤壺の姿を目の当たりにすることになった。この女性がどこか足りない部分を持っていれば、こんなにも深く愛することはなかったろう。藤壺の完全性を、光源氏は恨みさえした」
作者

Author:スリーアローズ
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