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京都物語 230

「藤壺?」とレイナが突然、ハスキーな声を出した。その声は部屋の中に不思議な響きをもたらした。そういえば、真琴氏以外の声を聞いたのは、ずいぶんと久しぶりだ。
 真琴氏はレイナの方に視線だけ送った。だがレイナはそれ以上話を続けるふうもなく、静かに座っている。さっきから何かを言いたそうにしては我慢しているレイナの口から、思わず言葉が漏れたのだろう。真琴氏は「そう、藤壺」とレイナの声に呼応するかのようにつぶやいた。「密会の夜、契りを交わした後で、光源氏は藤壺に和歌を送ったという話は、さっきした通り。もう2度と会えないのならば、いっそのこと、このままあなたと夢の中に消えてしまいたいという心情を詠んだものだった」
 真琴氏はそう言って、さきほど読んだ光源氏の和歌をもう一度繰り返した。

見てもまた あふよまれなる 夢のうちに やがてまぎるる わが身ともがな

「そうして藤壺の方も、光源氏の思いに対応する歌を返した」と真琴氏は低く言い、その和歌を、まるで吐息でも漏らすかのようにして朗読した。

世がたりに 人や伝へん たぐひなく うき身を醒めぬ 夢になしても

「どうしようもないくらいにつらい私の身が、たとえ覚めることのない夢の中のものといたしましても、今回の過ちは世の語りぐさとなるのではないでしょうか」
 真琴氏はそう訳した後で、強固に組んでいた手をほどいた。
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京都物語 229

 真琴氏は組んでいる手をぐっと強固にした。
「その後貴博さんは、ますます私を避けるようになっていった。朝は事務的な会話を必要分交わすだけだったし、夕食も自分の部屋で食べた。お父様はそのことについて不思議に思われなかった。大学入試の受験生なのだから、そこまでして当然だという認識でおられたのではないかしら。食事が済むと貴博さんは1人で台所に立って後かたづけをする。それは私が執筆する時間と重なっていたから、私たちが顔を合わせる場面などなかった。私は密かに、そのことをつらく思っていた。貴博さんからの、暗黙のメッセージとしか思えなかった。彼は私にどんなことを伝えたいのだろうと、邪推に邪推を重ねた」
 ラベンダーのアロマミストが切れたようだ。紫色のパイロットランプは点灯しているものの、蒸気は発散しなくなっている。部屋の沈黙は、もう一段深くなったように思われた。橘美琴はそちらに頓着することなく、というより気づかずに、母親の話を黙って受け容れようとしている。
「私は孤独について深く考えさせられた」と真琴氏は話を続けた。「ああ、これが本物の孤独というものなのかと、あの歳にして初めて思い知らされた気がした。私は貴博さんのことを強く意識しつつも、その得体の知れない感情への対処法を知らなかった。かといって、何もせずにじっとこらえていれば、そのうち軽くなってくれるような感情でもなかった。ともすれば、発狂してしまいそうなほどだった。だから私は、その孤独を慰めるためにも『源氏物語』の朗読に専心した。その世界は私の心に優しく語りかけてきた。そうして、いつのまにか、私は藤壺の魂と同化してしまっていた」

京都物語 228

 自分の手を見つめる真琴氏は、さながら水晶玉を覗き込んでいる占い師のようだ。水晶玉の中には真琴氏の過去が映し出されている。ずっと封印してきた過去だ。
 部屋の空気があまりに張りつめているがために、僕はさっきから自分がこの場にいていいのかどうか分からなくなっている。その思いが表情に出てしまったのだろうか、真琴氏はいきなりこんなことを言ってきた。「いいのよ。ヤマシタさん、そんなに遠慮しなくても。さっきも言ったけど、あなたがこの場にいらっしゃることは、縁なのだから。つまり、私たちにとっても、それからあなたにとっても、何らかの意味があるの」
 その言葉が一体誰に向けられているのか、最初はよく分からなかった。間もなくして、僕は背中につららが刺さるような冷たい痛みを覚えた。レイナも橘美琴も揃って僕を見た。あたかも真琴氏の言うことは自明の事実なのだとでも言わんばかりの様子で。そんな僕の動揺を尻目に、真琴氏は自らの過去の封印を、再びゆっくりと解き始めた。
「率直に言うと、その日から私は貴博さんを強く意識するようになった。でも、歯痒いことに、その非常に強い感情が一体何なのか、判然としないの。まさか、彼のことを好きになってしまったのか、それとも嫌いでしかたないのか? これは愛なのか、それとも憎しみなのか? あるいは全く別の感情なのか? とにかく、私がそれまで経験してきたどんな感情とも全く異質のものだった。あえてたとえるなら、何かの感染症に冒されたようだった」
 真琴氏はつい今し方、僕に話しかけたことを完全に忘れたかのように、水晶玉の中の世界に没頭している。
「ただ1つはっきりしていたのは、それはとても恐ろしい感染症だということ。そうして、なぜそれが恐ろしいのか、おぼろげながら私には分かっていた」

京都物語 227

 レイナは何かを言おうとして唇の先を少しだけ尖らせた。読書量豊かな彼女はもちろん中上健次の小説も読んでいるはずだ。それについて真琴氏に物申したいことがあったのだろう。だが、結局彼女は言葉を出さずじまいだった。真琴氏の真剣な面もちが安易に言葉を挟むことを許さなかったのだ。真琴氏は依然としてテーブルに組んだ指を眺めながら、いや、眺めると言うよりは睨み付けるようにして、鉄の扉のような口を開いた。
「猪突猛進な愛が許されるのですね、と貴博さんが言った後のことは、正直よく覚えていない。とにかく、ふと我に返った時には、私は椅子ごと倒れていた。そうして私の顔のすぐ前には貴博さんの端正な顔があった。私は完全に気が動転してしまっていた」
 左耳が聞こえないレイナは、真琴氏の口の動きに注視しているように見える。それほど集中して話を聞いている。一方橘美琴は、冷静な表情の中に全ての感情を封じ込もうとしているようだが、さすがに目元の力は抜け、唇は細かく震えている。僕は自分がこの場に含まれていることの違和感をますます大きくしている。
「私は咄嗟に貴博さんを腕で払いのけた。おそらくそれは、私の持つ力の全てを出し尽くすほどの勢いだっはず」と真琴氏は話の内容とは裏腹に、淡々とした口調で語った。「貴博さんは、私の抵抗に面食らったようで、すぐに起きあがり、倒れたままの私を見下ろしながら、寂しそうな表情で何かを考えていた。しばらくして彼は目を閉じて大きく息を吐き、『すみませんでした』と弱々しくつぶやいて自分の部屋に戻っていった」
 その後で真琴氏は、組んだ指を占い師のように見つめながらこう言った。
「それを境に、貴博さんを見る目が全く変わってしまった」

京都物語 226

「でも、その文章題を見て、私は首をかしげてしまった。それは中上健次の小説の一部で、さして難解な文章というわけでもなく、設問が捻ってあるわけでもなかった。私はすんなり問題を解き、貴博さんに解説した。ところが彼は私の解説など聞いてはいない。冷め切った顔でこっちを眺めるだけだった」
 真琴氏はテーブルの上に両手を組み、自分の指をまるで何かの鑑定をしているように眺めた。橘美琴はざわめく胸の内をなんとか表情に出すまいと必死になっている。レイナはそんな母と娘を冷静に捉えている。今まで明子のことを考えていた僕は、この空間に自分が含まれていることについて、違和感を覚えずにはいられなかった。
「その時、初めて私は貴博さんの顔を間近で見た。彼には三物も四物も与えられていたけど、その顔立ちもとても端正だと改めて思った」と真琴氏は言い、橘美琴を見た。「今思えば、貴博さんが共通一次試験の問題につまずくはずなんてなかったのよね」
 真琴氏は微笑んだ。この女性の笑顔らしい笑顔を初めて見た気がする。
「私の解説を最後まで聞いた後で、貴博さんはこんなことを言ってきた。中上健次の文章が大学入試に出題される意味をこそ僕は知りたいのだと。さすがに私も困ったわね。それは出題者に聞いてみないと答えられないことだったから。でも、純粋な心をもつ彼にそんな返答をすると、失望されるに違いない。いくら血がつながっていないとはいえ、私はこの子の母親なのだ。そう思い直して、精一杯の説明をした。でも、やはり彼はガラス玉のような目で私を見下ろしているだけ。そうして、こう言った。中上健次の小説に描かれるような猪突猛進な愛は、これから研究の道に進もうとする学生にも許されるというわけですねと」 
作者

Author:スリーアローズ
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