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京都物語 240

 真琴氏はたった今橘美琴がかけたレースのカーテンに目をやった。そこに描かれているスイセンの柄を値踏みするかのような見方だった。
「さっきの話に戻るけど、お父様の前の奥様である橘忍は『比叡に消ゆ』という小説を書いて、恋に破れた主人公を比叡山の仏道修行の中に逃げ込ませた。私はその作品を少なからず意識して『月と京都タワー』という小説を作って、千絵という名の主人公を『源氏物語』の世界に逃げ込ませた。しかし千絵の人生は幻想の世界で終わらなかった。彼女は『源氏物語』の登場人物のように、自らの人生の物語を、最後まで完結させようとした。でも、その後私が作家としての経験を重ねて振り返ってみると、千絵の生き方は必ずしも人間の真実ではないと思った。窮地に追い込まれた時、人間とはそのような前向きで潔い選択ができるものではない。少なくとも、文学の世界では、人間とは、もっとずるくて醜い存在だと私は気づいたの」
 真琴氏はそう言って、大きく息を吐きながら天井を見上げた。
「私のお腹に懐妊の兆しがあった時、私は冷静に納得できるところがあった。言霊の世界に含まれていた私は貴博さんと夜を共にした時点で、この運命を予測していたから。お医者さんに行って、妊娠3ヶ月という診断を下していただいた後、私の残された道は1つしかないと思った。でもその前にどうしてもやっておきたいことがあった。『藤壺物語』を完成したかったの。あの作品は私の人生の証であり、同時に遺書だと考えていた。だから私は妊娠の事実を誰にも打ち明けずにひたすら筆を走らせた。その甲斐あって、予定よりも大幅に早く『藤壺物語』は完結した。ただ、その代償は決して小さくはなかった。気がつけば私は意識を失っていた」
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京都物語 239

「いえ、慰めというより、あの時私は『源氏物語』の中に生きていたと言った方がいいのかもしれない」と真琴氏はうつむき気味に述懐した。「貴博さんを愛していた現実の世界と、藤壺が光源氏と密会した作品の世界の区別は、私にはなかった。だからこそ、無我夢中で『藤壺物語』を書き上げることができたの。あの時の私の感覚はこうだった。『源氏物語』も『藤壺物語』も、そうして逃げ場を失った私の人生も、それから藤壺という女性を作り出した紫式部も、すべて同じ世界に含まれていた。それはさっきから何度も言っているように、言霊の世界だった」
 そこまで話した時、真琴氏は娘に声を掛けた。「レースのカーテンを閉めてもらえないかしら。眩しくて目が疲れてきたの」
 橘美琴は、最初は少し慌てたようだったが、真琴氏の要求を聞いてからすぐにその通りに動いた。スイセンの花の模様が薄く入ったレースのカーテンが、大きく取られた窓を覆った。降り続く雪はカーテン越しに透けて見える。外の景色が白くなるにつれて、真琴氏は眩しさを感じたのだろう。橘美琴は自分の席に戻る際に、アロマミストの水がなくなっていることに気づいた。彼女は木製のキャビネットの中から交換用のリフィルを取り出し、本体にセットした。するとまもなくして再び霧が蒸散し始めた。この部屋にも正常な時間の感覚が戻ってきたように思われた。橘美琴が席に着くのを横目で確認して、真琴氏は話を続けた。
「光源氏との密会の後、藤壺は懐妊する。それは夫である桐壺帝の子ではなく、光源氏との不義の子だった。事実を知らない桐壺帝は、並々ならぬ様子で喜ばれた。そして新たに産まれた皇子と光源氏を比べて、『優れている者同士はなるほどよく似るものだ』とさえお思いになられた。藤壺の苦悩は、当然、深くなるばかりだった」

京都物語 238

「あの夜ベッドの中で、貴博さんから、お父様がいない時にはこうして一緒に寝てほしいという要求があった。普段は意地を張って私に素っ気ない態度をとっているけど、本心では胸が張り裂けそうなのだと、彼は告白してきた」
 真琴氏はそう言って目を細め、後ろで丸くまとめた髪にそっと触れた。その後で、さきほどと全く同じく、両手をテーブルの上に組んだ。
「私は貴博さんを愛していたわけだから、そのことを聞いて、率直に嬉しく思った。できることなら、私もそうしたかった。でも、その時の私は、返答できなかった。意図的にしなかったというのではなく、どう返してよいのやら分からなかったの。すると、貴博さんは、どうして答えてくれないのかと聞いてきた。でも、そうやってプレッシャーをかけられると、かえって口は動かなくなった。貴博さんは、私の態度に不安を覚えたようだった」
 真琴氏の話を冷静な姿勢で聞いていた橘美琴は、花がしおれるように少しばかりうつむいた。そのうえで弱々しくため息をついた。
「貴博さんの要求に応じたいと思う自分と、もしそんなことになれば、ほんとうに取り返しのつかないことになってしまうと恐れる自分が、双方から声を掛けてくる。さっきも言ったとおり、一番の不幸は1つ屋根の下に住んでいるということだった。私には逃げ場がなかった」
 真琴氏は、娘が今ついたのと同じため息をついた。そうして、こう続けた。
「私にとって、『源氏物語』こそが、唯一の心の慰めだった」

京都物語 237

 真琴氏は頬杖をついていた左手でオレンジのべっこうの眼鏡をかけ直し、それからその手を再び頬杖に戻した。
「貴博さんを愛してしまっていると自覚してからというもの、本心を抑えることに対して、どんどん自信がなくなっていった。しかもその時彼は夏休みに入っていて、家にいることも多かった。私は1日中貴博さんに縛られて生活していた」
 アロマミストが蒸散しなくなったために、部屋の空気が乾燥している。コンタクトレンズを装着している僕の目もぱさつきはじめた。
 この家に来てからというもの、まともな時間の感覚を失っている。まともな時間? 僕はふとそんなところに引っかかった。まともな時間とは何だろう? 
 この部屋の時間は真琴氏中心に動いている。この人が時間を牛耳っているように感じるのは僕だけだろうか? いや、時間だけではない。窓の外に降る雪も、水が切れて停止してしまったアロマミストも、それから、敬虔な信者のように話を聞いているレイナも橘美琴も、すべて真琴氏の掌中で操られているように思えて仕方がない。
 そして僕もだ。だが僕には、なぜ自分が真琴氏の時間に含まれているのか、その意味が分からない。これも明子の望むことなのだろうか?
「気がつけば、あれほどまでに苦しめられた恐怖はなりをひそめ、私はどうすればよいのやら、ほんとうにわからなくなっていた」と真琴氏は錯乱気味に言った。そうして頬杖をやめて、中国茶を最後まですすった。
「お盆を過ぎた、月のきれいな夜だった。その日はお父様は上京され、私は貴博さんと2人きりだった。そうして私たちは初めて、2人で寝た」と真琴氏は言った。

京都物語 236

「でも、その恐怖も、時間とともに形を変えていった」と真琴氏は言い、唾を飲み込んだ。「不幸なことに、私たちは1つ屋根の下で暮らさなければならなかった。私は貴博さんと毎朝挨拶を交わし、お父様の朝食を作る。貴博さんは朝食も取らずに学校に行く。お父様に尽くさなければと思いながらも、貴博さんを見送らなければならない。その、何気ない日常の行為が、私の心をずたずたに切り刻んだ。そうやって私はお父様と貴博さんの間で板挟みになって、ぐらぐら揺れた。そのたびに疲弊し、心のエネルギーが著しく消耗してゆくのを感じた。もちろん、お父様のことは尊敬し、愛していた。それは間違いのないこと。でも、それ以上に貴博さんへの思いが心をえぐった。この人のことを好きになってはならないという思うこと自体、すでに愛してしまっているのよね。『源氏物語』の中にこんな和歌が引用されている」

思はじと 思ふも物を 思ふなり 思はじとだに 思はじやなぞ

「あの人のことを忘れてしまいたいと思うこと自体、強く愛している証なのだという複雑な心情を詠んだ歌ね。その時の私の心には、痛いほど染みたわ」と真琴氏は言い、黒い唐木のテーブルの上に左肘を置き、頬杖をついた。真琴氏の頬杖姿は、なぜかこの人を若く見せた。
「私は貴博さんの聡明さに憧れさえ抱いていたし、その瞳だってどこまでも優しかった。何より、彼には、未来を感じさせられた。いったいこれからどんな人生を送ってゆくのかワクワクさせられるの。願わくば彼の近くでずっと見届けたいと思わせる、そんな魅力に満ちていた」

作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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