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京都物語 250

 僕が「桐壺院?」と口走ると、レイナが横目でこっちを見て「この時、桐壺帝は、正妻である弘徽殿女御との間に産まれた朱雀帝に皇位を譲っていたの。それで、自らは院として、1歩下がったところで発言するようになっていたのね」とささやいた。頭の中で人物関係を整理している僕を尻目に、真琴氏は話を続けた。
「まだ『藤壺物語』を書いている時、私は桐壺院崩御の場面を何度もこだわって朗読した。どうしても気になるところがあったの。人一倍分別をわきまえたはずの藤壺が、なぜ弘徽殿女御を押しやってまでも桐壺帝の最後を看取ろうとしたのかということ。もちろん彼女には深い罪の意識があった。光源氏との不義の子は、東宮として次の皇位を約束される地位にいたのだけど、そのことがどこまでも自分を責めた。東宮は帝の子供ではないのだから」
 橘美琴の泣き声は心なしかおとなしくなっていた。
「それゆえ、この場面で、藤壺には危機感があった。政敵である弘徽殿女御よりも前に出なければならなかった。死を間近にした桐壺院と、光源氏と東宮の前で、もし何かつらいことを言われたりすれば、桐壺院は死んでも死にきれないだろう。だからこそ、どうしても自分が1番前に出て余計な発言を制さなければならなかった。藤壺は必死だったの」と真琴氏は説明した。「でも幸いなことに、最後まで藤壺の危惧することにはならなかった。あの弘徽殿女御でさえ、藤壺の静かなる迫力に遠慮してしまった。そして桐壺院は、自らの臨終に及んで、高麗の相人による観相結果を持ち出し、『光源氏には帝になる相があったのだが、あえて人臣の立場で国務を任せようとしたのだ』と言い残して、亡くなっていった」
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京都物語 249

 橘美琴がついに泣き崩れた。その姿は波にすくわれた砂の城をイメージさせた。彼女は椅子に座ったまま頭を深く垂れ、臆面もなく声を上げた。僕は同情せざるを得なかった。この女性とは今日初めて出会ったとは、もはや思えなくなっていた。
「お父様が亡くなられた時のことは美琴もよく覚えているはず」と真琴氏は泣いている娘に向けてそう言った。「ただ、あの時、私と貴博さんは、あなたとは全く違う境遇に立たされていて、あなたが想像もしなかったことで胸を重くしていたの」
 真琴氏はそう言ってから、ようやく娘を見た。どういうつもりか、至極落ち着いた表情だった。
「だから長い間私を苦しめていたのは」と真琴氏は声を一段低くした。「お父様がすべてをご存じだったのではないかという恐怖だった」
 アロマミストの蒸気が再び出なくなっている。なんとも不思議なことだ。さっき補充したばかりなのに、こんなにも早く切れるものだろうか? それともタイマーが起動して、自動的に停止したとでもいうのだろうか? 
 ただ、そんなところに首をかしげている場合ではなかった。
「貴博さんに向けて『自分を許してやりなさい』とおっしゃった言葉が呪いのように頭から離れなかった。真琴も知ってのとおり、お父様が亡くなった後、私は心を病んで入院することになったけれど、そこにはそんな理由があったのよ。でも、絶望の淵で私を救ってくれたのも、やはり『源氏物語』だった」と真琴氏は言い、息を吐いて天井を見上げた。「桐壺院の崩御の場面での藤壺の姿が、私を慰めてくれた。彼女は全てをさらけ出したの」

京都物語 248

 僕の口から溜め息が漏れた。言葉では説明しようのない暗さがすべての光を覆い隠して、僕を深い影の中に落とし込んだ。
 僕はふと、橘美琴の方を見た。思わず視線が行ってしまったのだ。彼女は背筋を若干丸め気味にして、静かに座っている。だがよく見てみると、目の下は濡れている。レースのカーテンから漏れるやわらかな日差しが涙を照らしている。それを見た時、僕にのしかかってきた影がよりいっそう暗くなったように思えた。
 真琴氏が娘の涙に気づいていないはずはない。世界はこの人によって作り上げられているのだ。しかし真琴氏は冷淡ともとれる表情で前を向いたまま、口を閉ざしていた。すると、予期せぬところから、久しぶりにレイナが口を開いた。
「ぶしつけなお話ですが、ご主人は亡くなっておられますね?」
 僕はレイナの横顔を見た。豊かなソバージュの髪、金色のピアス、紫のダウンジャケット。それらが改めて息を吹き返したかのように主張し始めている。真琴氏は目だけレイナに向けて、「美琴が小学生の時に亡くなられた。ご病気だった」といかにも冷静に言った。だがその口調とは裏腹に、眼鏡の奥の瞳には憂いの色がにじんできた。
「息を引き取られる直前のことだった。それまで苦しみに顔を歪ませていらしたお父様は、急に慈悲深い表情になったの。まるでそこだけ西日が差すかのようだった。私は奇跡を目撃したような気すら覚えた。お父様は目をやさしく開けられて、『貴博と美琴ををよろしく頼む』と私に言われた。そうして、今度は貴博さんに向けて『貴博、自分を許してやりなさい』とおっしゃった。突然の言葉に、私が胸を射抜かれた思いで立ちすくんでいると、お父様は静かに息を引き取られた」

京都物語 247

 そう言った後で、しばしの間、真琴氏は言葉を失った。口を中途半端に開けたまま、静物のようにそこに固まっていた。
 それにしても、この完璧なまでの静寂は何だろうと思う。外に降り続く雪もアロマミストの霧も、すべて静寂の中に含まれている。世界の主は真琴氏だ。真琴氏以外のものは、この人の手によって作り出されたものにすぎない。実に不可思議な感覚だ。明子もこうやって真琴氏の世界に包み込まれたのだろう。
 明子はしたたかさと脆さを併せ持った女性だ。固く心に決めたことは誰に何と言われようと決して変えないが、裏側には危ういまでの不安定さを抱える。その非常な脆さが、真琴氏の神秘的な世界に引き寄せられたことは十分に想像できる。
「お父様はあの時、産まれたばかりの美琴を眺めながら、この子は亡くなった前の奥様の面影を持つと、しみじみとおっしゃった」
 真琴氏は今言ったばかりの言葉を、静かに復唱した。
「その、お父様の言葉が耳に入った時、ああ、終わったな、と思った。もちろんお父様は真実を知っていたわけではない。美琴が前妻の面影を引きずっているという第一印象を、口に出さずにはいられなかっただけのこと。そのことは、お父様にとっては、むしろ嬉しいことだったの。だからこそ『笑い話』として聞き流してほしいとおっしゃった。でも、その『笑い』の内容は、お父様と私では天国と地獄ほどの違いがあった。たしかに美琴が私と貴博さんの間に産まれたという事実自体、『笑い話』と言えるかもしれない。でも、私は、笑うことなどできなかった。それどころか、まともに息をすることすらできなかった」

京都物語 246

 真琴氏はレイナの回答にほんの少しだけうなずき、それからまた、ゆったりと話を続けた。
「あの時、私が死のうか生きようか逡巡としているうちに時間だけが経ってしまって、結局死ぬことができずに、実家で美琴を産むことになった」
 そう言って真琴氏は左手で頬杖をついた。さっきもそうだったが、この人の頬杖はこの人をより若く見せる。
「お父様は早く娘の顔が見たいと、何度も電話で急かされたけれど、私は少しだけ待ってほしいと言って、拒んだ。1つには私の疲弊があった。予想以上の難産だったから、身体はボロボロで、そんな姿をお父様にさらすわけにはいかなかった。ただ、もちろんそれだけではない。あなた方はもう十分にご承知でしょうけど、心の整理をつけるために、ほんのわずかの間でもいいから、私には時間が要ったの」
 真琴氏はそう言って頬杖をやめ、その手で首筋を軽く掻いた。
「初めて美琴と対面した時、感激で胸がいっぱいになって、涙がこみ上げてきた。この子は、どんなことがあっても私が守らなければという思いがマグマのようにわき上がってきた」と真琴氏は娘から視線を逸らして話した。僕も橘美琴の方を向くことはできなかった。彼女が一体どんな顔で母親の告白を聞いているのか、想像するだけで申し訳ない気がした。
「美琴が産まれてから3日後、とても蒸し暑い梅雨のさなかだったけど、お父様は私の実家を訪ねられた。ある程度気持ちの整理はついたたはずだったのに、お父様の姿を見た途端に恐ろしくなってきて、体中ががくがくした。お父様は美琴を抱きかかえながら、突然こんなことをおっしゃった。
「あくまで笑い話として聞き流してほしいんだが、この子には死んだ橘忍の面影が感じられるよ」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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