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京都物語 280

 その時誰かがため息を漏らした。真琴氏だった。この人は写実主義の画家の描く肖像画のように、部屋の中の風景と調和しながら静かに座っている。だからこそ、そのため息には、特別な意味があるように思えた。橘美琴は前を向いたまま、そんな母親を気にかけた。だが何も言ってこないと見えると、ゆったりと話を再開した。
「それからしばらくの間、貴博兄さんは、不滅の法灯の照らす内陣の前に立ちすくんでいた。堂内はお香の香りと煙とに包まれていたから、お兄さんの姿は、神秘的にさえ映った。ここにいると時間を忘れてしまうんだとお兄さんは言った。何時間でも何日でも何年でも、僕はここにいることができるって」
 真琴氏がもう1度ため息をついた。その瞬間、再び橘美琴の話が止まった。
「私もそのうち、心地よくなってゆくのを感じ始めた」と、しばし間を置いてから橘美琴は言った。「お父様が亡くなった時から、死ぬことがすごく恐ろしくなっていた。それが、不滅の法灯に照らされた瞬間、生と死の区別が曖昧になってきて、これまで感じたことのない安らぎに包まれたの。そして、私と同じようなことをお兄さんも感じていた。根本中堂を出て、森の中の坂道を戻りながら私がそのことを話したら、お兄さんはこんなふうに答えてきた」
 そこまで話された時、真琴氏は呼吸をぴたりと止めたのが分かった。
「僕は美琴ちゃんの心に共感するよ。僕と美琴ちゃんには、同じ魂が宿ってるんだから」と橘美琴は貴博氏の言葉を再現した。「お母さんの打ち明け話を聞きながら、真っ先に思い出したのがその言葉。まさか、お兄さんは、私の本当のお父さんだっただなんて・・・」
 そう言った後、橘美琴はうつむき加減に口をつぐんだ。
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京都物語 279

 橘美琴は白いブラウスの襟元を指先で軽く整えた後で、「私がほの暗い内陣の中をぼんやりと見つめていると、隣で貴博兄さんが、あの炎を見てごらんってつぶやいてきたの」と話を続けた。「あの炎は誰が熾したか知ってるかいって。初めて比叡山に上がった私が知るはずがなかった。でも、きっと、かなり昔に熾されたのだろうという予測だけはついた。そうやって私が炎を見つめたまま考えているとね、お兄さんは先に答えを言ったの。あの炎は、最澄が熾したんだよって」
 しばらくの沈黙の後、レイナが「不滅の法灯ね」と言った。その瞳はうつろだ。
「そう」と橘美琴はレイナに向かって首を縦に振った。「あの炎は約1200年前から灯されているんだって、貴博兄さんは耳元でささやいたの。その時私はすぐにお父様との記憶が浮かんだの。小さい頃、鴨川を渡りながら、お父様は比叡山を指さしては最澄という名前を出されていたことを」
 橘美琴は悲しそうに唇を噛んだ。
「不滅の法灯を見ているうちに、今度はお父様のお葬式の時のことが甦った。あの日私は魂が祭壇に吸い込まれるような不思議な感覚を覚えた。その時と同じ感じがしたの。お父様がすぐそこにいるように思われて、胸が詰まって、もう少しで泣きそうになった。そんな私の横で、貴博兄さんは和歌を口ずさんだ。最澄の詠んだ歌だった。

あきらけく のちの仏の み世までも 光り伝へよ 法のともしび

その和歌が心の中に入ってきた時、私には、生きていることと死んでいることの区別がなくなってきたの。最澄の魂はすぐそこにあるような気がしてならなかった」

京都物語 278

 橘美琴は「怖いと思った」という部分だけ、声を小さくした。その時の心が伝わってくる言い方だった。
「堂内は薄暗かった。それでいて、まるで雲の中にいるようだった」と橘美琴は小声で続けた。「その薄暗さの中には、鼻を突くような匂いが立ちこめていた。つまりお香が焚いてあったのね。それにしても、ものすごい量の煙だった。薄暗かったのに、はっきりと見えたんだから」
 深く腰掛けていた真琴氏がわずかに動いた。そうして、長いこと閉じていた目をやおら開けた。何かを言いたそうなふうに見える。この人のことだから、延暦寺には何度か訪れているはずだ。そのことを娘に伝えたかったのかもしれない。とはいえ、そう簡単には口を挟めない。娘の話には貴博氏が登場している。さっき真琴氏が『源氏物語』について語る時、天皇の子でありながら臣下に降った光源氏のことを、「敗者」と位置づけた。だが今、嫉妬とも無念ともつかぬ表情をにじませながら、娘の話の顛末をただ聞くことしかできない真琴氏こそ、僕には敗者に見えた。重ね重ね、皮肉なことだった。
「そのうち次第に目が暗さに慣れてきて、本堂の広さが分かるようになってきた。お兄さんは天井を貫く黒い丸柱をいとおしげに撫でながら、『こんなにも太い檜は、もう日本では採れなくなっているんだよ』とおっしゃった。その寂しそうな言い方に、中学生だった私は、2度と戻ってくることのない時間というものを感じた。気がつくと、お兄さんは、本尊が安置してある内陣の前に立たれていた。私が隣に歩み寄った時、『僕は、ずっと、ここへ来たかったんだよ』って興奮気味にささやいた。内陣の奥には金色の仏像が暗闇に安置されていた。その手前に3つの灯籠が吊され、中には炎が揺らめいていた」

京都物語 277

 橘美琴は薄く目を閉じたまま、眉間にかすかなしわを寄せた。彼女の魂は今、延暦寺の中にあるのかもしれない。そんなことを思わせる表情だ。
「根本中堂の門に足を踏み入れた時、突然空気が変わった気がした。夏目漱石が『門』という小説の中で、鎌倉の円覚寺の山門をくぐった途端に、俗世から離れて厳粛な世界に入ったというふうな描写があったでしょ。その場面が心の中に浮かんできたの」と橘美琴は言った。それにしてもかなりの記憶力だ。というより、彼女も何かの力によって語らされているようにも見える。
「美琴ちゃん、好きだったもんね。夏目漱石」とレイナがうつろな瞳でつぶやいた。
「そう。私の読書生活が始まったのは、小学生の時に、『夢十夜』と出会っのがきっかけだから」と橘美琴は応えた。「レイナちゃんには、何度も話したことだけどね」
 レイナは、笑っているのか悲しんでいるのか区別のつかない顔で微笑んだ。
「門をくぐるとね、本堂の周りを回廊がぐるりと一周しているの。真正面から入るのではなく、わざと遠回りしてから本堂に入るようになっているのね。私は、何にも言わない貴博兄さんの背中についていきながら、門の内側の静けさを全身に感じていた。見上げると空は本当に青くて、いろんな所から聞こえる小鳥のさえずりが響き渡っていた。雨上がりのような湿っぽさが立ちこめていて、緑の匂いに包まれていた。ただ、どういうわけか、足の震えだけは止まらなかった。うまく言えないんだけど、私はお兄さんと2人であっちの世界に入っていくんじゃないかって、不安すら覚えていたの」と橘美琴は言い、ゆっくりと目を開けた。
「扉を開けて、いよいよ堂内に入った時、まず最初に、怖いと思った」

京都物語 276

 薄く目を閉じた橘美琴は、その時における比叡山の風景を忠実に再現しようとしているかのように、ゆっくりと噛みしめながら話を続けた。
「駐車場から続く下り坂の両側には、大きな杉の木立が見下ろせたんだけど、そこは濃い霧に包まれていた。周囲はカーンと冷えわたっていて、半袖では少し肌寒かった。それでも貴博兄さんはおだやかな表情で辺りを見渡しながら、美味しそうに鼻から空気を吸い込んだ。今思い返してみても、あそこには特別な時間が流れているようだった」と橘美琴は言った。彼女の話に真摯に耳を傾けているはずのレイナの横顔には、寂しそうな笑みが染み込んでいる。どうやら彼女自身の世界に再び入り込んでしまったようだ。親友である橘美琴の話が何かしらの媒介となって、深遠な世界にいざなったのかもしれない。
「その、長くて急な坂を下りたところに、延暦寺の根本中堂があった。深い森の中に、静かに鎮座しているという感じだった。小さい時、お父様が教えてくださったお寺の前に私は立っているのだと思うと、胸が震えた。お兄さんは隣で大きく深呼吸した。そうしてお兄さんも『身震いがするなあ』とつぶやいた。私は思わず、ここへ来るのは何回目なのかと尋ねた。お兄さんは、よく覚えてないなって答えた。なんだか私の質問をはぐらかすような素っ気ない答え方だったから、少し寂しい気持ちになったのを覚えている。でも、今思えば、それは幼い捉え方だった。お兄さんは、ロシアとアメリカを転々とする中で、どうしても延暦寺の空気に触れたかったの。だから私の質問に答えるのは2の次だった。お兄さんって、そんなところがあるから」
 真琴氏は目を閉じて娘の話を聞いている。
「お兄さんの後に付いて、いよいよ本堂に入ることになった時、今度は足が震えた」
作者

Author:スリーアローズ
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