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京都物語 290

「そろそろ、失礼しましょうかね」と切り出したのは、レイナだった。さっきまではうつろな顔をしていた彼女だったが、いくぶんかすっきりしているようだ。「ずいぶん長いことここにいましたね」
 橘美琴は涙を拭きながら、最後に温かいお茶でも持ってこようかと言ったが、レイナはそれを制した。外はまだ明るさを残してはいるものの、夕刻は着実に足音を近づけているようだ。
「ただ」とレイナは言い、僕の顔を見た。「ヤマシタ君は、目的を達成したの?」
 僕は返答に窮した。ここへ来た目的というのは明子の居場所をつかみ、失われた過去を取り戻したいということだ。明子は僕の元から離れて真琴氏と出会い、この人の影響を強く受けた。そして、おそらくは言霊の世界に含まれながら、今もこの京都のどこかにいる。しかし、今、それ以上のことを聞き出そうとするのもひどく場違いな気もする。早くこの場から立ち去りたいという思いが上回っているのかもしれない。ここへ来て、決して抗うことのできない宿命というものを体感した。それでもう十分にも思えた。
 僕が逡巡としているところに、険しい表情をした真琴氏が「明子さんは、比叡山に上がってらっしゃるわ」と言ってきた。「彼女は出家して、延暦寺にいます。つまり藤壺と同じ道を選んだ。私が踏み切れなかったことを彼女はしたの」
「比叡山」とつぶやいたのもレイナだった。「なぜ?」
 真琴氏は表情1つ変えずに、「ヤマシタさんには、すべて伝わっているはずです」と冷淡なまでに言った。
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京都物語 289

 その瞬間、真琴氏の顔色は急変し、凍りついたかのようになった。それでも橘美琴はあくまで自身のペースで話そうとしている。
「その日お兄さんは、たしか夕方までに東京に帰らなければならない用事があった。それで、帰り際に電話番号を教えてくれたの。『電話に出られる時間はきわめて限られているから、もし何かあれば、着信を入れておいてくれればかけ直すよ』って。そして新幹線の改札を抜ける直前に、ふと思い出したように振り向いて、今日のことは、お母さんには内緒にしておいてほしいんだと言って、私が頷いたのを確かめてから、改札の向こうに消えて行った。私は電話番号を登録しながら、ここにかけてもいいのかどうか、分からないでいた。それが、3日も経たないうちに電話がかかってきたの」
 真琴氏の表情は険しさを増してきている。橘美琴はそんな母親の姿を横目で感じながらも「それを機に、私たちは、会うようになったのよ」と気まずさを押し殺して言った。
「あなた、東京に行ったの?」と真琴氏は追及しにかかった。その声は明らかにうわずっていた。娘は黙って頷いた。
「今まで、ずっと会い続けてるの?」
「お兄さんは1年のうちの大半を外国で過ごされるから、そうそう頻繁に会っているわけじゃない。ただ、日本に帰ってこられて時間ができたときに、私が東京に行ったり、京都にあるお兄さんのマンションに行ったり、一緒に旅行へ出かけたりしてきた」と橘美琴は正直に答えた。
「あなた、まさか、貴博さんと」と真琴氏は最も自身を惑わせているであろう質問を投げかけた。すると橘美琴は、再び涙をこぼし始めた。

京都物語 288

 前のめりになって話を聴いている真琴氏は、さらにオレンジのべっこうの眼鏡を両手でかけ直した。
「なんだか今、いろいろと思い出してきたわ。あの時私は、あんこのたっぷり詰まった鯛焼きをほお張りながら、宇治川に浮かぶ中之島を眺めていたの。そこにはかわいらしい橋も架かっていたし、有名な十三重石塔も見えた」と橘美琴は言った。空想の中にいるかのようだった彼女の表情に、力強い現実感が戻ってきた。
「そしたらね、『美琴も大人になったんだから、もう話してもいいだろう』というようなことを貴博兄さんは口走ったの。私は、歩きながら次の言葉をずっと待っていたんだけど、先に平等院に着いちゃった」
「結局、何も話さなかったの?」と真琴氏は結論を急かすように言った。
「それがね、平等院に着いた瞬間に、お兄さんの話のことを忘れてしまったの。ずっと京都に住んでいながら、あそこに行くのは小学校の遠足以来だったから、興奮してしまったのね」
 橘美琴はあくまで彼女の順序に従って話を進めようとしている。
「で、長い列に並んで本尊の阿弥陀如来座像を間近で拝んだ後、境内をひととおり歩いてから、そろそろ帰ろうと思った時、突然お兄さんは『美琴のお母さんは理想的な女性だよ』ってつぶやいたの。それから『僕は、美琴のお母さんのことが、本当に好きだったんだ』とも言った。なんだか、昼のドラマみたいな話だなって、その時は思った。でも、冗談として笑い飛ばせなかった。お兄さんの目は本気だったの」
 真琴氏は肩の力をふっと抜いた。安堵したかのようだ。
「さらに、こんなことを言ってきたの」と橘美琴は続けた。「『今の美琴は、お母さんとよく似ている。恐ろしいくらいにね』って」

京都物語 287

 橘美琴はうっとりとした目でカーテン越しの雪景色を眺めながら話をしている。空想の中で貴博氏と歩いているかのような表情だ。
「宇治は思ったほど人は多くはなかった。私たちは、シャッターの下りたお店の目立つ駅前の商店街をふらっと歩いた。この日も本当に天気がよくて、商店街を進むにつれてお茶の匂いなんかが漂ってきた。ああ、宇治に来たんだなあって実感したわ。そして、お兄さんと一緒にいると、やっぱり心が安らいでゆくのも感じていた」
 そういえば僕はまだ宇治に行ったことはない。真っ先に思い浮かぶのは10円硬貨だ。そこに描かれた平等院鳳凰堂。平安時代のある有力貴族が極楽浄土に憧れて造営したといわれる夢の寝殿だ。
「商店街は宇治川で突き当たる。あの川の流れはいつも急なの。川には大きな木造の橋が架けられていて、たもとには紫式部の銅像がある。宇治は『源氏物語』の最後を飾る宇治十帖の舞台でもあるから、至る所に物語にまつわるものと出会うのね。その独特な宇治の空気を吸い込んでいると、お兄さんは和菓子屋に立ち寄って、鯛焼きを買ってくれた。で、鯛焼き片手に、秋晴れの川沿いの道を歩きながら、ママのことを話してきたの」
「それは、どんなことかしら?」とたまらず真琴氏は言った。橘美琴は何かを考えた後で、「ママへの想い、かな」とどこか煮え切らない言い方をした。椅子に深く腰掛けていた真琴氏は、心なしか前のめりになった。
「じつは、はっきりとは覚えてないの。比叡山の時と同じように、風景は鮮明に焼き付いているんだけど、会話の記憶はあまりないの。ただ、おぼろげながらに覚えているのは、お兄さんはママのことが本当に好きだったというようなことを言った気がする。そのときの私には、冗談半分にしか聞こえなかったけど」

京都物語 286

「テレビで見たとおり、貴博兄さんは、新しく鼻髭を生やしていた。カフェの椅子に座ってそんなお兄さんの顔をそれとなく眺めていると、『お母さんは、元気にしてるかい?』って聞いてきたの。昔からママとお兄さんの間には、微妙な関係があることに気づいてはいたけど、まさか連絡を取ってないとは思ってなかったから、その言葉が変に感じられたわ」と橘美琴は言い、レースのカーテンの方に視線を投げた。さっきと比べると雪の粒は小さくなってきたように見える。太陽もさすがにいくぶんか傾いてきただろうか。
「それに、一緒に比叡山に上がった時、そういえばママの話を一言も口に出さなかったことを思い出して、違和感もあったのね。だからこそ、その言葉が心に引っかかったの」
 娘の話に、真琴氏はつとめて落ち着いた姿でいようとしている。
「『ママは元気よ』って答えると、お兄さんは瞳の奥を覗き込むような目でこっちを見つめてきた。私の言葉に裏がないか、入念に確かめているようだった。もちろん嘘なんかついていなかったから、それがちゃんと伝わったみたいで、ほっと胸をなで下ろすような顔でコーヒーカップを鼻髭の下に持っていった。私たちはいろいろと話をしてからカフェを出て、京都駅で奈良線に乗って宇治まで行った」
 橘美琴がそこまで話した時、真琴氏の首筋に亀裂のような力が入ったのが分かった。話の続きが気になっているように見える。
「特に目的があるわけでもなかったの。ただ、時間的にも距離的にも、宇治に行くのがその時の私たちに適していたというだけだった」と橘美琴は続けた。「列車の中でお兄さんは、一緒に延暦寺に参詣したときのことを話した。記憶は細部にまで行き渡っていて、空想の世界で比叡山を歩いているように錯覚するほどだった。もう一度お兄さんと不滅の法灯を見たいなあって、胸が温かくなった」
作者

Author:スリーアローズ
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