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京都物語 370

 真琴氏と出会った日の情景が浮かんでくる。橘美琴の運転するシトロエン。阪急嵐山駅を出る時、空は快晴だった。それが嵐山を過ぎ、化野念仏寺を越えたあたりから突如として雪が落ち始め、愛宕山麓にある橘氏の自宅に近づくにつれその粒は大きくなった。
 真琴氏の黒々とした瞳、オレンジのべっこうの眼鏡。ストーブの炎、窓の外には降り続く雪。あの時僕は、明子も雪を眺めているような錯覚を感じた。いやそれは錯覚と呼ぶにはあまりにも現実的な実感だった。
 中原氏が言うように、明子はあの家を尋ねたのだろうか? もしそうであれば、真琴氏に宛てた手紙にはいったい何が書かれていたのだろう? それらもすべて嘘だったのだろうか? しかもあの1日は、1年だったのだ!
「橘真琴先生に手紙を渡すことができれば、明如さんの心をあなたにより正しく伝えることにもつながると書かれてますね」と中原氏は言った。「それに、あなたが行動する過程において、いろいろなことに気付くことを望んでいるとも書かれています。つまり、明如さんは、間接的にヤマシタさんに思いを伝えようとされたのです」
「何のために? どうしてこんなに手の込んだことを」と僕は漏らした。頭の中は激しく混乱している。1度作り上げたはずのジグソー・パズルがバラバラになっている。
「何のためにって」と中原氏は口元をほころばせ「さっきから申している通り、本当はヤマシタさんに会って、直接謝りたいのに、それができなかったからですよ」と答えた。「明如さんは、あなたに心をきちんと伝えるために、あの方なりの順序に従って、あの方なりのやり方を採られたのです。それほど、あなたのことを深く愛されていたということなのです」

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京都物語 369

 中原氏は心配そうな眼差しを僕に向けている。おそらくひどい顔をしているのだろう。それで、息を1つ吐き出して作り笑いを浮かべると、中原氏も頬を緩めた。そうして「ヤマシタさんの苦しみが分かったからこそ、そして、自分が悪いのだと認識していらっしゃったからこそ、明如さんはあなたに会いたかったのではないでしょうか」と言った。
 その言葉が、この数年間寂しさを抱き続けてきた僕の心に何らかの慰めを与えてくれたのは確かだった。
「明如さんがあなたにどんな苦しみを与えられたのか、もちろん私の知るところではございません。ただ、あの方は取り返しのつかないことをしたと思っていらっしゃった。できることならすぐにヤマシタさんの元に駆けつけて、両手をついて謝りたい。そうして、できることなら、あなたに許してもらいたい。そんなことを念じ続けていらしたのでしょう。でも、それは事情が許さなかった。精神的に行き場をなくした明如さんは、最終的にはこの比叡山に上がり、千日回峰行の中に心身を投じたのではないでしょうか」
 もはや僕は何も言えなかった。
「しかし、僧侶としての姿に身を変えたところで、根源からの救済は得られなかった。あなたへの思いを消し去ることはできなかったのでしょう。明如さんは横川で女人救済のための祈祷を行われていましたが、今思えば、それはあなたへの祈りを捧げていらしたのではないのでしょうか?」
 心がふっと温かくなった。鎌倉の海で実感した感覚が不意に甦ってきた。
「それでも、救済は得られなかった。だから」と中原氏は言い、まぶたを細めた。「最後には、橘真琴先生の元を訪れたのではないでしょうか?」

京都物語 368

「最後のお願い」
 僕はその部分から目が離せなくなった。明子は本心から「最後」だと伝えている。
 すると、中原氏がつぶやきかけてきた。僕はふっと我に返った。
「恋に落ちている女性にとって、最も耐え難いことは何だと思われます?」
 唐突な問いかけだった。
「愛する人を苦しませることなんです」と中原氏は僕の答えを待つことなくそう続けた。「ましてや、悪いのは自分だと分かりきっている場合、取り返しのつかないことをしてしまったのだという自責の念が、自らの首を絞めるのです」
 僕にも愛する人を苦しませた過去がある。大学を卒業した後、佐織を裏切ってしまったのだ。よりによって、彼女の親友だった美咲に心を奪われてしまった。その結果、僕は同時に2人の女性を失った。自業自得だと自分に言い聞かせたところで、何の救いにもならなかった。あれから時間が経った今なお、許されることのない罪を犯したのだという意識が僕を睨み付ける。できることなら誰も傷つけずに生きたい。もしそれが可能なら、生きることとはどれほど楽で幸せだろう。
 しかし明子に置き去りにされた時は、それ以上に救われようがなかった。今思い出すだけで、心の傷が痛み、傷口から膿が出てくるようだ。つまり僕はどこまでもエゴイスティックな存在なのだ。
 鎌倉で魂が同化した実感を得た直後だったからこそ、迷い込んだ闇も深かった。しかも学生時代とは違って、仕事という重荷を背負っていた。どこにも逃げ場がなかった。毎日息を殺しながら目の前の仕事をひたすらこなした。仕事の途中で何度も携帯電話に目を落とした。帰宅すると必ず郵便受けを覗き込んだ。だが明子の匂いのするものは、何1つとして届かなかった。心が死んでしまいそうだった。

京都物語 367

 僕はもう一度手紙を取り出し、明子の言葉1つ1つを改めて捉え直した。穴が開くくらいに何度も読み込んだ手紙のはずなのに、新たな解釈が与えられたように感じられる。
「・・・ひどく憤慨されてもいるでしょう」
「・・・ほんとうにごめんなさい」
「・・・お便りしてよいものかどうか、ずいぶん悩みました」
 明子は僕に会いたかった。しかし、どうしても会いたいと言えなかった。だがらこそ、この手紙を僕に宛てた。これまでそんな視点で読んだことはなかった。本当に大切なことは説明しにくいと話していたレイナの横顔がふと思い浮かぶ。
「女心ですね」と中原氏は隣でつぶやいた。「自分の力ではどうすることもできない女心です。せつない」
「ただ」と僕は、手紙に目を落としたまま言った。「明子が橘真琴先生と接触した理由はどこにも見あたらない」
 すると中原氏はぴたりと静止し、「いえ、それは、まず間違いないでしょう」と言った。「明如さんは、橘真琴先生に会われております。そうするしかなかったのです」
 僕は手紙の中の言葉に再び視線を落とした。
「・・・その方は自身のことは一切語らず、連絡のしようがないのです」
「・・・その方に手紙を渡すことができたなら、そのことは私の心をあなたにより正しく伝えることにもつながるかもしれないというささやかな期待もじつはあるのです」
「・・・あなたが私の願いを叶えようと行動する過程において、いろいろなことに気付いてくださることを遙かに望んでいます」
 つまり明子は僕に嘘をついたというのか?
 すると、手紙の中の一文がふと目に留まった。
「きっと、これが私からあなたへの最後のお願いになるはずです」

京都物語 366

 仏に仕える身らしく穏やかな顔つきで話をする中原氏だが、それでもよく見ると頬は紅潮し、声はうわずっている。まるで、この人自身が恋に落ちているかのようにさえ映る。
 今、中原氏は、明子は僕のことを思い続けていたのだと指摘してくれた。明子に置き去りにされたのだと長いこと失望し続けていただけに、中原氏の言葉は僕を慰めた。たとえ会えなくとも、互いに思い合っているという実感さえあれば、心は落ち着くのだ。
「でも、よく分からないんですが」と僕は引っかかっていることをそのまま吐き出した。「明子が僕に会いたいと思い続けていたということと、彼女が橘真琴先生と接触していたということが、どこでどうつながるんでしょう?」
 すると中原氏は「女の勘です」と即答した。
 僕が何も言えないでいると、「もうちょっと分かりやすく言いますとね、明如さんの手紙全体から醸し出されている空気がそう伝えてるんです」と中原氏は付け足した。
「空気、ですか?」
「そうです。その空気っていうんが、結構大事なんです。だって、私たちの会話の中でも、あの人は空気が読めるとか読めないとかよく言うじゃないですか。本心とは、なかなか言葉にしにくいもの。とはいえ、それを隠し通すことも難しい。だから、どうしても本心は空気で伝わるところが多いんじゃないですか」
 たしかにそう言われてみれば、そういう気もする。
「明如さんの手紙から感じ取れるのは、ヤマシタさんに会いたいという強い思いです。でも、事情があって、会うことはできない。それでも会いたい。だからこそ、思案の末、あんな手紙を送ることになった。そんな空気がぷんぷん漂っております」
作者

Author:スリーアローズ
*** 
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