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京都物語 410

 ふと顔を上げると、新幹線はちょうど広島駅を出たところだった。次の停車駅は新山口ですという車内アナウンスに目を覚ましたようだ。見渡すと、指定席にはまだまだ乗客の姿がある。だが、通路越しの席に座っていた井伏鱒二に似た男性の姿はもう見えない。
 浅い眠りのはずだったのに、知らぬ間に1時間以上も経っている。首筋にはぐっしょりと汗をかいている。不滅の法灯が見えた直後に、深い眠りに落ちてしまったのだ。
 それにしても不思議な夢だった。目を開けてもなお夢から覚めた心地がしない。前の夜に飲んだウイスキーの香りが口の中にはっきりと残っているような感覚に近い。
 最澄が語りかけてきた時のおののきが依然として僕の中にある。畏れ多く、それでいてぬくもりにも満ちている。全ては時間の中に包括される。明子もその中に1つになっている。彼女は『藤壺物語』によって、平安時代に連れて行かれたのではないかという馬鹿げた話が、どういうわけか胸を圧迫する。
 しかしその圧迫感はしだいに意味合いを変えていく。それはあきらめに近かった。もうこの腕に明子を抱きしめることはないだろう、僕はそう実感した。だがそうやってあきらめた途端、次なる扉が見えてきたような気がした。
『月と京都タワー』の主人公は、『源氏物語』に登場する心憂き女性たちの人生に自らを投影した。その主人公の心に今なら共感できる。千年前に生きた人とつながることができるということは、ある種の安らぎを与えてくれる。やがて自分にも訪れる死への恐怖すら緩和してくれるようなそんな安らぎだ。
 明子をこの腕に抱くことはあるまい。だが、これから先、不滅の法灯の光の中で、明子と1つになることはできる。そんな予感がした。 
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京都物語 409

 僕は浅い夢を見た。いかにも不可思議な夢だ。もう1人の僕が、眠っている僕を冷静に見下ろしているかのような奇妙な感覚。僕は今、指定席に腰掛けて、少しまどろんでいる。窓の外にはのっぺりとした田園地帯が続いている。その風景を横にして僕はうとうとしている。そうして夢を見ている・・・
 すると、声が聞こえる。比叡山に上っている最中にも同じように声が聞こえたのを思い出す。あれはいつのことだっただろう? 時間の感覚があやふやになる。しかたない。これは夢なのだ。
 だが、声の主だけはっきりと分かる。最澄だ。最澄といえば、弟子の円仁の夢に現れて、唐に渡るように指南したと伝えられる。円仁は師のお告げを聞いて、遣唐使船に乗り込み、荒波にもまれながらも東シナ海を西へと進み、やがては宿願を達成する。
 ところが今最澄が話しかけているのは円仁ではなく、僕だ。
 あまりの畏れ多さに、身動きすらとれない。まして僕に何を伝えようとしているのか、聞き取られるはずもない。にもかかわらず、伝説の高僧はしだいに迫ってくる。瀬戸内の日差しだと思っていた光も、いつの間にか最澄から発せられる光背にすり変わっている。
 夢の中で僕は、異様な眩しさを感じた。あまりに眩しすぎて、金縛りみたいになった。まもなくして、その光はだんだんとやわらかくなってきた。気がつくと、僕は延暦寺根本中堂の堂内をさまよっていた。内陣には不滅の法灯が照らされている。それは全てのものを照らす灯だ。過去も未来も、苦しみも楽しみも、すべては炎の中に1つになっている。その明かりに、しだいに心地よくなってゆく。
 なるほど、と僕は思った。千年という時間はすぐそばにあるのだな。最澄が伝えたいのは、そういうことなのかもしれない。

京都物語 408

 真琴氏の作品に共通するのは自らの実体験を基に描かれているということだ。さらに、それらは、実体験の少し前に発表されている。つまり、言葉が人生を予言する格好になっている。
 文字通り、真琴氏は言霊の世界に生きた。なかんずく、集大成である『藤壺物語』は、まさにこの作家の人生そのものだと言える。
 藤壺は義理の息子である光源氏との禁断の恋によって子供を産む。そのことが藤壺に罪悪感と恐怖心を与え、彼女は最終的には出家の道を選ぶ。この関係は、とりもなおさず真琴氏と貴博氏の秘密の恋に一致する。
『藤壺物語』は、原作である『源氏物語』に独自の心理描写を与え、あたかも今、禁忌の恋に落ちているかのような緊迫感を描き出した。
 とはいえ、1つだけ真琴氏の人生と異なるところがある。真琴氏は出家していないということだ。ここで僕は思う。真琴氏は自分の人生を明子に仮託した。すなわち自分の代わりに明子を出家させた。
 ただ、それは真琴氏が意図的に仕組んだことでもないような気もする。いくら真琴氏とはいえ、そこまで全能な存在でもなかろう。すなわち作者の力ではなく、この人が作り上げた言葉の力が、明子を物語の中に巻き込んでしまったのではないか。
 突然ipodの音楽が停止した。どうやら充電が切れてしまったようだ。それも仕方あるまい。1年間も起動しなかったのだ。僕はイヤホンを外し、再びシートに深くもたれかけた。通路を挟んだ隣の席では、井伏鱒二に似た初老の男性が口を開けて眠っている。そこに瀬戸内の日差しがふんだんに降り注いでいる。
 明子は本当に『藤壺物語』の中に連れ込まれてしまったのだろうか? 
 不毛とも言える想像を巡らすうちに、僕にも眠りが襲ってきた。

京都物語 407

 そういえば、レイナは神上寺を歩きながら、「言霊」という言葉に改めて思いを馳せていた。きっと、彼女の胸にも強く響いたのだろう。
 言葉には本来霊的な力が宿る。言葉にしたことは、時に現実の世界にさえ起こりうる。そして明子も、真琴氏が作り上げた言霊の世界に何らかの形で連れ込まれてしまった。それが僕とレイナの見方だ。
 真琴氏が浅茅しのぶとして活躍した期間は、思った以上に短い。従って、その作品も限られている。レイナの大学の図書館で借りた『短編集』と『チャイコフスキーの恋人』、それから『藤壺物語』だ。
 まず『短編集』には、処女作品である『月と京都タワー』が含まれる。この小説は、真琴氏の夫の前妻が著した『比叡に消ゆ』に対抗して書かれた作品だ。恋に破れた主人公が『源氏物語』の中の登場人物に深く共感し、どんなに哀しくとも自らの人生を全しようとする心境に至った過程が丹念に綴ってある。
 続く『チャイコフスキーの恋人』には、貴博氏への愛の憧れが描かれている。若き日のチャイコフスキーに病的なまでの恋をした女性が、最後にはその幻影と結ばれるという、どこか現実離れした展開に、作者の実体験が色濃く投影される。
 こうやって見てみると、『藤壺物語』は作家としては短命に終わった浅茅しのぶの集大成とも言える作品だ。貴博氏との禁断の愛の成就が描かれていて、光源氏と藤壺の秘密の恋を2人に重ね合わせる。『源氏物語』の周密な現代語訳のような印象も受けるが、至る所に、原作から一歩踏み込んだ、生々しい心理描写が刻まれる。
 僕はふと、これらの作品には共通点があることに気づく。
 新幹線は西明石を通過した。

京都物語 406

『ドリーマー』は明るくて、どこか牧歌的な曲だ。太陽の日差しが大地に染みこむ時の香りさえ想像される。それを、小野リサが歌うことによって、かすかな哀感を帯びる。
 京都を出た途端に青空が濃くなってきた。曇った僕の心と反比例するかのようだ。新幹線の速度が上がるにつれて、なんだか、現実の世界に引き戻されているような気がする。さっきの警察官の言葉にこだわっているわけでもないが、たしかに「催眠術」から徐々に解き放たれているような錯覚を感じる。
 西へ進めば進むほど、日差しがきらめいてくる。京都にいた間ほとんど忘れかけていた潤沢な明るさだ。真琴氏の家の窓の外に降り続いていた雪が、まるで異国での出来事のように遠く感じられる。
 まもなく新神戸に到着した。六甲山の合間に作られた、薄暗い駅。ダーク調のコートを身にまとった人々の往来を見ていると、どうしても明子のことが思い出される。彼女はいったいどこへ消えてしまったのだろう?
 頭の中には、横川での記憶が立ち上がる。中原氏の話によれば、千日回峰行に出たのが明子の最後の姿だった。彼女は修行の途中でどこかへ消えてしまったのだ。中原氏は、そこに真琴氏が絡んでいると予測した。僕もそう思っている。だが、氏は不可解なことも話していた。明子は平安時代に生きていた。
 それこそ馬鹿げた話だ!
 とはいえ、あっさり反故にもできない。なぜなら、レイナもブログの中で同じようなことを言っていたからだ。
「・・・もしかして、明子さんは、藤壺?」
 ありえない! シートから体を起こして、僕は頭を掻きむしった。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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