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キラキラ 120

「悪いけど、もういっぺん読んでくれないかな、明石の君の和歌を」と頼むと、奈月は「ちゃんと聞いてくれるんですか?」と少女のような目で、念を押すように言った。もちろんだよ、と応えると、「さっきの光源氏の和歌に対する返歌ですよ」と予め注釈をつけた後で、小さな声で読み始めた。

明けぬ夜に やがてまどへる 心には いづれを夢と わきて語らむ

「あなたさまは今、私と話すことで憂き世の悪夢も少しは覚めるのではないかと詠んでくださいましたけど、私の方は、明けることのない長夜の闇の中にそのまま迷い込んでいるのでございます。そのような身において、いったいどれが夢なのかさえ見分けることすらできない状態です」
 奈月は和歌の意味を、そう解説してくれた。
「以前、明石の君が手紙の中で初めて詠んだ和歌は、たしか『まだ会ってもない私のことを、どうして思うことなどできるのですか?』という感じの内容だったよな」と僕は言った。「その歌を詠んだ時からすると、彼女は、恋に落ちていることをはっきりと自覚するようになったわけだ。『やがてまどへる 心には』っていうのは、そういうことを言ってるんだ」
「きっと、明石の入道は、源氏が訪問することを娘に予告してなかったんでしょうね。だからこそ、明石の君はほんとうに戸惑ってるわけです。手紙をやりとりする時には、言葉を選ぶだけの時間がありますもん。それが、恋の相手が突然現れたわけですから、どうしても本心が出ちゃったんでしょう。先輩が言うとおり、明石の君は、すっかり源氏に恋してるのです。というか、自分なんかが光源氏のことを好きになってもいいのかって自問自答しているはずです。『いづれを夢と わきて語らむ』というのは、どうしていいのか分からないという、女心の表れです。で、そんな明石の君の姿を目の当たりにした源氏は、意外なことを考えます」
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キラキラ 119

 その時、「次の停車駅は、京都」というアナウンスが車内に流れた。奈月の話に耳を傾けているうちに、新幹線は動き出していたのだ。前回の旅では、僕たち3人は明石駅から須磨に戻り、そこで海水浴を楽しんでいた他のサークル仲間と合流してから、JRの新快速列車に乗って皆で京都に入った。
 それが、今回は新幹線を使っている。奈月も僕も社会人となり、時間的なゆとりがなくなった分、経済的にはゆとりができた。つまりはそういうことだ。ただ、「次の停車駅は、京都」という声を聞いた途端、どういうわけか、交通手段だけではなく旅全体が前回とはまるで違っているという実感が駆け抜けた。
 さっきから僕の心には、漠然とした、それでいて、統一感もある黒い渦のようなものが絡みついている。きっとそれは、「宿世」という言葉と関連が深い。すべてが今という瞬間に引き寄せられているような感覚。光源氏も、明石の君も、明石の入道も、それから六条御息所も紫の上も、みんな今につながっている。そうして、その渦の中心にいるのは、僕と奈月だ。それから東山も近くにいるかもしれない。あいつもほんの1週間前に、明石を訪れているのだ。
「先輩?」
 ふとそんな声が聞こえた。
「もぉ、ちゃんと聞いてます?」と奈月が頬を膨らませた。僕が「聞いてるよ」と生返事のように言うと、彼女は「先輩が聞きたいって言ったから『源氏物語』の話をしてるんですよ」と鋭く返してきた。
「もちろん聞きたいよ。ただ、なんだか心地よくなってきて、夢でも見るような気分になって、それでいろんなことを考えてたんだ」と僕は本心を言った。
 すると奈月は僕の言葉にふっと笑い、「それって、私が今読んだ明石の君の和歌を踏まえてるんですか?」と聞いてきた。和歌を聞いていなかった僕には、何のことやらよく分からなかった。その思いを表情に出していると、奈月は「先輩って、ほんとマイペースですね」とうんざりした顔をして頬だけ緩めた。

キラキラ 118

 気がつくと、新幹線は新大阪駅に停車していた。新神戸よりも多くの乗客が入ってきたのを見て、初めて気が付いた。きょろきょろしている僕とは対照的に、奈月はあくまで彼女のペースで、話を続けた。
「明石の君は、六条御息所と同じように、葛藤を抱えたまま源氏の動きを待ちます。とはいえ、こんなに近い距離で源氏に気を許してはいけないと、固く心を閉ざしてもいます。その思いは、六条御息所よりもずっと強かったはずです。なぜなら、これは終わりではなく、始まりだからです」
 奈月はそう言って唾を呑み込み、改めてしおりに目を落とした。
「源氏の方はというと、そんな明石の君の態度を見て、ちょっとしたパニックになります。これまで何度もこんな場面を経験してきた源氏でしたが、ここまで意地を張られたことはなかったからです。ひょっとして自分は都から流れて落ちぶれた身だから、明石の君に見くびられているんじゃないかとさえ思います。無理に彼女に迫るというのはやめておいた方がいいような気がするけど、だからといってこのまま根比べに負けて引き揚げるというのは、それこそみっともない。それで源氏は、得意の和歌を使って彼女に歩み寄ります。野宮で六条御息所に近づいた時と同じやり方です」
 そう言って奈月は、源氏の和歌を口にした。その小さな声は雑踏の中でもはっきりと耳に届いた。

むつごとを 語りあはせむ 人もがな うき世の夢も なかばさむやと

「親しく話をする人がほしいのです。それによって、憂き世の悪夢も少しは覚めるのではないかと思っています、という気持ちを詠んでます。なんというか、うまいですね。何も俺は君を抱きたいというわけじゃないんだ。ただ、話を聞いてほしいんだ。なぜなら、俺は寂しいんだ。だから、こっちを向いてくれないだろうか。そんな言い方をして、明石の君の心の緊張を徐々に解こうという魂胆ですね」

キラキラ 117

 光源氏と六条御息所の話を聞いていると、この2人もまた、深い「縁」でつながっていたのだと僕は思った。人生においては、どうしても避けられない恋がある。
 僕の場合、麻理子との出会いも、そうして結果的にそれを終わらせることになった幸恵との恋も、今思えば、決して避けることはできなかった。あの時僕は、黒くて大きな竜巻に呑み込まれていたのだ。息を殺し、ただひたすらそれが去るのを待つことしかできなかった。だとすれば、これから僕はどんな恋に落ちるのだろう。心の平安を得る瞬間が来るのだろうか?
 窓の外では、立ち並ぶビルや工場それにマンションや学校などが猛スピードで後ろに流れていく。僕にはこの光景が何かを暗示しているように思えてならなかった。僕は今から一体どこに行くのだろう? どこに連れて行かれるというのだろう?
 そんな感覚にとらわれている横で、奈月が話し始めた。
「六条御息所と光源氏にとって、野宮は最後の舞台でした。本当は別れたくはない。でも別れなければならない。2人は何も言えぬまま、夜明けを迎えます。さっきも言ったことですけど、平安時代の恋愛においては、夜明けは別れを意味しました。六条御息所は、自らの歌の中で、『松虫よ、泣かないで。私の涙も止まらなくなるから』という思いを詠みました。そして光源氏が去った後、彼女の悩みはますます深くなります。でも、最後には、心を鬼にして伊勢に下る決心をします。彼女には、最も苦しい道を選ぶことしか残されていなかったのです」
 そこまで話した後で、奈月はふっと我に戻ったような顔をしてこっちを見た。
「明石の君が住む岡辺の家も、月がきれいで、虫が鳴いているんですよね。光源氏と明石の君が出会った時の情景は、やっぱり野宮での別れの場面の続きみたいに描かれてますよね」
 奈月はこれまでの話をまとめるようにそう言った。

キラキラ 116

「久しぶりに源氏と逢った六条御息所は、物憂げな様子で柱にもたれたまま座っていました。それで源氏は、神に供える榊の枝を折って、彼女にに差し出しながら、自分の気持ちは変わっていないという思いを和歌を詠みます。でも六条御息所は、すぐには受け容れません。そりゃそうでしょう。彼女が源氏を待っていた間、どんな思いをしていたか。それに対して、源氏はあまりに虫がよすぎますよね?」
 僕は何も返さずに、ただ微笑んだ。
「そうして六条御息所は、あなたが思ってらっしゃるのは本当にこの私なのでしょうか? と静かに詠み返します。その後しばらくして落ち着きを取り戻した彼女は、源氏にたくさんの恋の恨み言をぶつけます。そのうち御息所の心からは、長年の間積もりに積もったうらめしい気持ちが消え、やはり恐れていた通り、源氏と別れたくないという思いがわき上がり、伊勢に下ろうとする決心がぐらついたのです」
 須磨から明石へ来る時に電車の中でも聞いた話だが、何度聞いても胸に沁みる。東山が六条御息所に惹かれたのは、この女性に同情したからではないかとさえ思われる。
「野宮は、伊勢に下る女性たちが禊(みそぎ)をして心身共に清める、とても神聖な地でした。そこで男女が逢瀬を重ねるなんて、タブー中のタブーです。だのに、品位あるはずの六条御息所でさえ、それを犯してしまいます。2人は、美しい月の下、会えなかった長い時間を埋めるかのように、語り合い、抱きしめ合い、愛し合いました」と奈月は続けた。
 そういえば、学生時代、奈月は東山と一緒に野宮神社に行ったと話していた。しおりを見ることなく、奈月の口からすらすらと出てくるこの話は、きっとその時に東山から聞いたものなのだろう。
「翌朝の別れの場面はさらに切ないですよね。次第に明けてゆく空は、まるで2人のためにしつらえられたかのように悲しく美しいと描かれてありましたね。なんていうか、ずっと疎遠になっていた2人でも、再会した瞬間に元の関係に戻るってこともあるんじゃないでしょうか」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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