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キラキラ 140

 京都外大を通過したあたりでふと車内を見渡すと、乗客は少し減ったように思えた。つい今まで世間話をしていた中年女性たちも、それから学校の話題で盛り上がっていた女子高生たちも、いつのまにやら姿を消している。吊り輪にぶら下がっている人はまだまだ多いが、それでも心なしか、車内は静かになったような気がする。
「源氏と関係を持った明石の君は、もう後戻りはできなくなってました」と奈月は話を続けた。その声はよりはっきりと僕の耳に届くようになっている。
「それなのに、光源氏の思いが前ほど感じられなくなってしまって、明石の君はつらい時間を過ごします。『女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身も投げつべき心地する』。つまり、恐れていた通りの展開になってきたので、明石の君は、今こそほんとうに身を投げてしまいたいほどの気持ちになっているのです」
「せつないな」と僕はさすがに明石の君に同情した。 
「このへんの明石の君の姿は、やっぱり六条御息所と重なりますよね」と奈月は言った。「ただ、さっきも言いましたが、この後、明石の君と六条御息所は全く別の運命に生きるんですけどね」
 奈月はそう続け、さらにしおりに目を落とした。三菱重工の前を通過したバスは、ほどなくして西大路にさしかかった。この辺りは、交通の流れも比較的スムーズだ。大きな交差点を右折する瞬間、奈月の身体がより密着した。バスはそのまま西大路を北上した。
「明石の君にとっては初めての恋の苦しみでした。これまでは父の明石の入道だけを頼りに、ただ何となしに、これといった苦しみを感じずに生きてきました。それにひきかえ、男の人を本気で好きになるっていうのは、こんなにも苦労の多いことなのかと、想像していた以上に悲しい気持ちを抱きながら彼女は生活することになります。それでも、たまに源氏に逢う時なんかは、その思いを抑えて、穏やかな憎げのない様子で接するんです。偉いですよね、彼女」と奈月は今度は明石の君の肩を持った。
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キラキラ 139

「そんな都合のいい光源氏に対して、紫の上は、大人の対応をします。彼女は源氏への返事を『何心なくらうたげに』、つまり、何のこだわりもないようなかわいらしい様子で書いたのです。もちろん、内心は穏やかじゃないんですよ」と奈月はあくまで紫の上をかばうように言った。
「で、どんな内容なの、その手紙は?」と僕は話を急かした。
「まず彼女は『忍びかねたる御夢語につけても、思ひあはせらるること多かるを』と書き出します。訳すと、私に隠すことのできない夢語(ゆめがたり)を聞いて、あなたのことが信用できなくなるのですが、という意味です。夢語とは、夢の内容を目覚めた後に語ることで、ここでは光源氏が明石の君と関係を持ったことを指します。つまり、紫の上は源氏に失望したことを遠回しに伝えてるんです。その上で、和歌を返します。

うらなくも 思ひけるかな 契りしを 松より浪は 越えじものぞと 
 
 思えば、うっかり安心してしまっていました。あれほどまでに強く約束したんですもの。まさか、裏切られることはないものとばかり思っていました。そんな女心を詠んだ和歌です。しかも『うら(浦)』とか『松(待つ)』とか『浪』など、海を感じさせる言葉をあえて散りばめてます。うまい反撃ですね」
 その和歌に、麻理子の声を聞かされているような気がした。彼女との恋はすでに時効を迎えたものとばかり思っていた。だが、よくよく考えれば、時効だなんて、ただの便宜にすぎない。僕が彼女を裏切ったという事実は消えやしない。
「紫の上の手紙は『おいらか』な書きぶりでした。『おいらか』とは、心が広いという意味ですね。源氏には、それがかえって胸にしみるんです。それで彼は、いつまでも手紙を手に取って眺めます。そしてその後は、明石の君へのお忍びの泊まりをしなくなったんです」

キラキラ 138

 僕には光源氏に共感するところがあった。明石の君と関係をもったことを、紫の上に報告しなければ済まないという気持ち。それは、前回、嵐山で幸恵のことだけを考えて歩きながらも、その前に麻理子に電話しなければ済まなかったという心境によく似ている。
「結局、紫の上に打ち明けたことで、紫の上自身も、それから明石の君も、2人ともが傷つくことになるんです。すっきりしたのは源氏だけですよ」と奈月は追い討ちをかけた。まるで僕がなじられているように聞こえた。
「しかも、紫の上への手紙の書きぶりがまた、許せないんですけど」と奈月は続け、源氏が読んだ和歌を声に出した。

しほしほと まづぞ泣かるる かりそめの みるめはあまの すさびなれども

「あなたのことを思い出すと、しおしおと泣けてくるのです。かりそめに他の女性を抱いてしまったのは、海人(あま)の戯れごとのようなものにすぎません。ただ、どうしても止められなかったのです。それでももちろん、私はあなたのことを思い続けていますよ」と奈月は和歌を訳してくれた。
「で、その和歌の中で『しほしほ』とか『かりそめ』とか『あま』という言葉を散りばめてるでしょ。ほら、須磨という地には『うきめ刈る海女』とか『藻塩垂る海女』なんていう言葉が隠されてたじゃないですか。好きな人を思いながら密かに涙を流すっていう意味の言葉ですよ。源氏はこの期に及んで、紫の上の和歌に、海辺に流れた人の恋心を込めたんです。ほんと、虫がよすぎますよね、この男」
 奈月はそう吐き捨てた。その時バスは四条大宮の停留所で止まった。降車した人と同じ数だけの乗客が新たに車内に乗り込んできた。僕は話の続きが気になった。

キラキラ 137

「なんだか話がややこしくなってるんだな」と僕は言い、奈月のふくらはぎにちらと目を遣った。
「ですね。明石の君が京都に上がってくるまでには、いろんな紆余曲折があったんですよ。彼女と光源氏と紫の上との、いわば三角関係ってやつですね」と奈月はしおりに目を落としたまま応えた。
 バスは堀川通を通過した。次はようやく四条大宮だ。自転車を使った方が間違いなく早いだろう。だが、夕刻に向かって流れる京都の時間を眺めながらバスに揺られるのも悪くはない。
 気がつけば、車内は乗客であふれ返っている。ただ、吊り輪につかまっている人たちも、おそらくはこの混雑に慣れているのだろう、特に苦にしているとしているというふうもなく、思い思いの時間を過ごしているように見える。中年女性たちは扇子を手にして巷の噂話をしているし、女子高生たちは部活動の人間関係の話に盛り上がっている。車内は、意外と賑わっている。
 そんな中、僕と奈月は隅の方でじっとしている。ひまわり畑に紛れてしまった違う種類の花のようだ。学生時代、奈月はひまわりのような存在だったことを考えると、やはり時間の経過を感じずにはいられない。それは、世の中に流れる客観的な時間ではない。佐賀の実家に帰り、父の介護をし、そして東山と別れた後で小学校教師への夢を諦め、パート勤めの会社の奥さんに紹介してもらった人ともうじき結婚を控えている、奈月の内面に刻まれた誰にも共有することのできない時間の流れだ。
 そんなことを考えると、思わず奈月の髪を撫でてやりたい衝動に駆られる。
 すると彼女はふっと僕の方を見て、「やっぱり光源氏って身勝手ですね」とつぶやきかけた。
「明石の君を抱きたい衝動を抑えられずに、彼女の部屋に強引に侵入しておきながら、その後になって急に罪悪感に責められるんです。しかも、そのことが紫の上の耳に入ったらまずいと思って、彼女に手紙を書くんですよ。なんか、ありえないですよね」とあきれ顔で笑った。
 だがその話を聞いて、僕の胸には何かつっかえるものがあった。

キラキラ 136

「ということは、そのうち明石の君は、都に住むことになるんだな」と僕は推測した。
「結論から言うと、そうなりますね」と奈月は答えを言った。膝の上のうちわのカラフルなバルーンの写真がこっちを向いている。
「でも、明石の君が都に上がるまでには、さまざまないきさつがあったはずです」
「明石の入道が娘を離そうとしなかったとか?」
「詳しいあらすじは、しおりを見てみないとちゃんと思い出せませんが、とにかく明石の君は、源氏と関係を持った後も、まあ、予想通りですが、苦しんだんです」と奈月は穏やかな顔で返してきた。
「それから、たしか、源氏の妻である紫の上も微妙に絡んでたと思いますよ」と奈月は続け、足元のトートバッグにうちわをしまい、それと引き替えにしおりを取り出した。「とにかく、前回バスに乗ってホテルに行く途中、東山君はそんな話をしてたような気がします」
 四条烏丸の交差点を左折したバスは、四条通を西へと進んだ。等間隔に設けられたバス停に必ず停まるために、ずっと低速ギアでの走行だ。気がつけば、西の空の色は薄くなりはじめている。
 奈月はバスに揺られながらしおりを見ている。肘から肩にかけて僕の腕に触れていることに彼女は気づいているのだろうかと思う。すると、彼女は口を開いた。
「明石の君と会うようになった後、さすがに源氏も紫の上に対して申し訳なさを感じるんです。自分を信じて都でひたすら待っている紫の上が、風の便りにでも明石の君とのことを耳にすることがあれば、もちろん気の毒だし、恥ずかしいと思います。東山君は、源氏のこの思いを妻への情愛だと解釈してるみたいですが、私はそうは思いませんね。源氏は恋の駆け引きにはまって、奥さんのことをほったらかしにしてただけですよ。明石の君も可哀想ですが、それ以上に紫の上の方がずっと気の毒です」
 奈月はそう言い、脚を組んだ。彼女の筋肉質なふくらはぎが露わになった。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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