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キラキラ 160

 僕の中にあるのは記憶の断片だ。しかも1コマ1コマの記憶には、相当のばらつきがある。たとえば、前回の旅で明石から京都に入った時の風景はまるで残っていないのに、この嵐山に来た途端、あの時食べたソフトクリームの味まで思い出すことができる。奇妙といえば奇妙だ。
 そうして今、渡月橋を渡りながらホテルに向かっているのだが、今度はその瞬間の記憶が見あたらない。あの時僕たちは、奈月と東山を含んだサークルの仲間たちとこの橋を渡ったはずなのだ。
 そんな僕の隣で、奈月が「夕方の風は心地いいですね」とさわやかに声を上げた。彼女は歩みを緩め、ソフトクリームをなめながら鴨川を見ている。花柄のシュシュが僕の目の前にある。
「今日はかなり歩きましたからね、風に癒されますね」と奈月は風と戯れるように言った。
 彼女の肩越しには京都市街の遠景がうっすらと広がっている。前回も見ているはずなのに、やはり初めての風景のように感じられる。それと同時に、今晩僕はこの子と同じ部屋に泊まるのだという実感が増大してくる。これから何やらドラマが待ち受けているような予感がじわじわと広がる。
 そのうち、これまでの旅は序章にすぎなかったのではないかとさえ思えてくる。須磨寺を訪ね、海浜公園に佇み、明石海峡大橋を越えて明石に戻った。そこで明石の入道の生き様と光源氏と明石の君との恋物語を辿り、今この嵐山を歩いている。それらはすべて、これからの時間の伏線だったのではないか? 
 あるいは、こうも思う。大学時代、僕は奈月を妹のように慕ってきた。彼女は同じ学科の後輩で、研究室も隣だった。おまけにサークルまで同じだったわけだ。自分の学生生活を振り返る時、もしかすると最も親密な仲間だったと言えるかもしれない。
 だが、こうやって2人で渡月橋を歩いていると、その学生時代の出会いから今までの奈月との時間そのものが序章だったのではないかとさえ思えてくる。もしかすると、奈月を妹のような存在だととらえていたこと自体が、僕の勝手な思い込みだったのかもしれない。
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キラキラ 159

 そんなことを考えつつ、改めて大堰川の川面をぼんやりと眺めていると、突然奈月が「先輩、ソフトクリーム食べません?」と提案してきた。「ほら、そこのお店の抹茶ソフト、そそられるんですけど」
 奈月は乙女のような瞳を店先に向けている。そこはまさに、前回ここに来た時、僕がバニラ味のソフトクリームを買ったその店だった。小さなみやげ屋といった風情で、軒下にはソフトクリームの模型が堂々と据えられている。クリームの部分が深緑色に塗られた抹茶ソフト仕様の模型だ。
「いいよ。じゃあ、ふたつ頼んでくれないか」と僕はコインケースをひっぱり出しながら応えた。すると奈月は「先輩、何味がいいです? 抹茶とバニラとマーブルと・・・」と聞いてきた。
 少し考えた上で抹茶がいいと答えると、奈月は小気味よい返事をした。それから僕たちは揃ってソフトクリームをなめながら、いよいよ渡月橋に足を踏み掛けた。彼女の手元を見ると、白色のソフトクリームが持たれている。
「さっきは抹茶ソフトにそそられるって言ったのに、結局バニラにしたの?」と思わず尋ねると、奈月は「なんか急に、バニラの方を食べたくなっちゃったんです」と答え、うれしそうに口を付けた。
 僕は奈月と同じ色のソフトクリームをなめながら歩いたあの日の自分の姿を辿りつつ、手に取った抹茶ソフトをゆっくり口に含んだ。思った以上に濃厚なほろ苦さが、たちまち広がった。
 渡月橋を歩いていると、スニーカーの底に木のぬくもりが伝わってくる。車道を車が通過するたびに、ガタゴトと振動も起こる。こうして歩いて橋を渡るということ自体、ずいぶんと久しぶりのことだ。
 歩みが進むにつれて、せせらぎの音も近くなる。目の前には金色がかった空を背景にした山々が黒く取り囲み、その所々には寺の屋根も見える。橋の真ん中あたりまで来ると、大堰川を抜ける風が心地よく感じられる。左手には鴨川が広く流れ、のっぺりとした京都市街の風景へとつながっている。
 橋を渡りながら、今から自分の知らない世界に足を踏み入れるような錯覚を感じ始めていた。

キラキラ 158

 その瞬間、光源氏の帰りを都で待つ紫の上のことをふと思い出した。そういえば彼女は、夫との別れの際に、「鏡」を和歌に詠み込んだ。たしか「別れても鏡の中にあなたの影が残るのであれば、せめてもの慰めになるでしょう」という切実な思いが詠まれていたはずだ。
 大堰川の水面に映る空を見ていると、幸恵のことだけを頭に浮かべながら歩いたあの時の光景が甦ってくる。不思議なことだ。明石から京都に入った時には、前回の記憶がきれいに消えてしまっていたのだ。それが、今こうしてここを歩くと、まるで1ヶ月前の出来事のように鮮明に想起することができる。
 渡月橋の袂にはこぢんまりとしたみやげ屋がある。あの時僕はここでソフトクリームを食べたのだ。抹茶ソフトの看板が出ているが、どうしてもバニラ味が食べたかった。そのソフトクリームをなめるうちに、麻理子への罪悪感がしだいに和らぎ、ますます幸恵のことしか考えられなくなったのを思い出す。
 あの時僕は幸恵にがまくちを買った。真っ赤な生地に薄いピンクの模様が入ったがまくちだった。僕はそれを大事に持ち帰り、彼女に渡した。彼女は少女のような顔をして「まぁ、かわいい」と声を上げてくれた。今振り返れば、何とも恥ずかしいことをしたと思うが、あの時はとにかく必死だった。部屋に飾るものよりも、常に携帯するものを選んだのもそういうことだ。
 大堰川のせせらぎが耳に入ってくる。夕方とはいえ熱気を帯びた風が汗で濡れたTシャツに触れる。奇しくもたった今、奈月は消滅と再生の話をした。鏡のような川面を見た時、そこには僕の過去が映し出されているような気がした。それは、麻理子と幸恵の、消滅と再生の記憶だった。
 だが僕は幸恵を手に入れることはできなかった。そして彼女への思いを断ち切って以来、僕は誰も愛することができないでいる。臆病になっているのかもしれない。いや、全てを焦がすほどの恋に出会っていないだけなのかもしれない。あの恋は再生されていない。一生再生されないかもしれないとさえ思う。心の鏡はずっと曇ったままだ。

キラキラ 157

「六条御息所が消滅するって、彼女は死んじゃうの?」と僕はバス停を降りて少し歩いてから聞いた。
 奈月はその質問に対して即答せずに、「『源氏物語』は消滅と再生の物語だって東山君が書いてましたよね。役目を終えた女性は物語から退場させられて、その後に、新しい女性が再生されるんです。で、ここでは明石の君と光源氏の仲が親密になればなるほど、それまで愛人だった六条御息所の影が自ずと薄くなってゆくわけです」と、彼女が示唆した「消滅」の内容を明らかにしないままそう応えた。
「でも、光源氏の愛人って、六条御息所だけじゃなかったよな?」
「まあ、そうなんですけど、明石の君は六条御息所によく似ているって『源氏物語』にもはっきりと書かれてますし、何より、六条御息所が源氏から離れるために伊勢に下った直後の出会いですしね。つまり御息所はいらなくなっちゃうんです。ちょっと残酷な言い方ですけど。だけど、そんなことって現実にもありますよね。たとえば絶対に忘れられない人でも、新しい恋にのめり込んでいくと自然に忘れるものじゃないですか。恋の苦しみは新しい恋を見つけることでしか解決できないんです」
 奈月は思いの外饒舌に語った。婚約者のことを強く思うことによって、東山との破局で負った痛手を忘れたのだろうかと僕は考えた。だが、今朝明石で再会した時から一貫して、奈月は婚約者のことを詳しく話したがらない。結婚を間近に控えているはずなのに、新生活への希望が感じられない。だいいち奈月は今、僕と2人でここにいる。そのことを婚約者は知ってるのだろうか?
 昔から奈月は心の真ん中にあることを上手に隠すことが得意ではなかった。もし本当に婚約者のことを強く思っているのであれば、その思いは自ずと表に現れるに違いないのだ。
 そんなことを考えながら僕は隣を歩く奈月の存在を意識した。彼女の髪をまとめる花柄のシュシュが夕日に照らされている。そのうち僕たちは嵐山の商店街にたどり着いた。この時間にもかかわらず、まだまだ通りを歩く人は多い。左手には渡月橋が現れ、鏡のように澄んだ川面が空をくっきりと映している。

キラキラ 156

「そういえば、海女が海辺で焚く火に投げ木を入れるっていう和歌がなかったっけ?」と僕は聞いた。奈月は、「えっと、誰でしたっけ、『投げ木』という言葉に、心の『嘆き』を掛けたんですよね」と言いながら、しおりのページをさかのぼった。
「あ、ありました。藤壺と朧月夜がその表現を使ってますね。それから、光源氏が六条御息所に返した和歌の中にも心の『嘆き』という言葉が詠まれてます」
「つまり、海女が浜辺で焚く火には、心の『嘆き』がちらほらと見え隠れしてるわけだ。きっと、明石の君ともなると、そのへんのことをしっかり踏まえた上で、さっきの和歌を詠んでるな」と僕は仮説を立てた。
「あなたは『そのうちまた会えるだろう』とか言って都に帰られるけど、明石で待つ私は、ずっと未練の炎をくすぶらせながら嘆いてるんですよ、っていう思いをそれとなく和歌に込めたんでしょうね。女心だ・・・」と奈月はしみじみと語った。
「で、それでも光源氏は都に帰っちゃうわけだ」と僕は聞いた。
「ですね。それは源氏の宿願でもあったわけですから」
「それに、住吉の神の導きでもあった」
 僕がそう続けると、奈月は「やっぱり先輩、東山君っぽくなってきましたよ」と目を丸くした。そのうえで「光源氏と明石の君は、最後の夜、琴を弾き合うんです。思えば、2人の恋物語は源氏と明石の入道との琴のセッションから始まりましたよね。琴の音色が物語を包み込むようですね」と言った。
「でも、源氏と明石の君との物語には、まだまだ続きがあるんだよな」と僕は確認した。すると奈月は「ですね。ただ、それは、切ないことに、六条御息所が消滅する物語と引き替えなんです」と答えた。
 バスは嵐山の停留所に停まった。外に出た時、太陽は西の山にずいぶんと近づいていた。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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とびっきり寂しい旅に・・・

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