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キラキラ 170

 僕はビールを置き、奈月に続いて縁側の椅子に腰掛けた。僕を前にした奈月は、浴衣の裾のつまを指先でぴたりと合わせた。
「大丈夫。今は今だし、それから、奈月はちゃんと奈月だよ」と僕は彼女を励ますように言った。窓の外には、今奈月が形容した通り、外灯に照らされた渡月橋が闇夜に白く浮かび上がっている。さっきまでの青空がまるで嘘のような、静寂に包み込まれた夜の風景だ。
 すると奈月はだしぬけに「たとえば、私は明石の君じゃないですか?」と言ってきた。僕はその問には答えられなかった。全く予期せぬ質問だったからだ。
「いやそれとも、紫の上かもしれないです。愛する人を信じて、ひたすら待つ女性」
 それを聞いた時、佐賀の実家で東山を待っていた奈月の姿が想像された。だがその甲斐もむなしく、あいつは都会の女性とあっけなく結婚して上海に渡ってしまった。たしかに奈月には、光源氏を待つ紫の上の姿に重なるところがあるのかもしれない。
「いいや、それとも、六条御息所かもしれないですね」と奈月はさらにそう続けた。
 だが僕にはあの女性だけは奈月と重なるところがないように思われた。光源氏の最初の妻である葵の上に嫉妬を抱くあまり、魂が身体から抜け出し、無自覚のまま生霊になった女性。それでもなお六条御息所は、源氏が自分のところに戻ってくれることを夢見て待ち続けた。しかし願いは叶わなかった。たしかに不運もあったが、それを嘆いても仕方なかった。
 それで御息所は心を鬼にして娘と一緒に伊勢に下った。知らせを聞いた源氏は、やっと会いに来てくれた。その夜、互いの変わらぬ思いを確かめ合いながらも、翌朝源氏は御息所の元を去った。舞台は嵯峨野の野宮だった。
「さすがに、奈月が六条御息所と重なるところはないだろう」と僕は言った。久しぶりに何かを喋ったような気がした。
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キラキラ 169

 そんな表情を浮かべながらも、奈月は「分かりきってるじゃないですか。私はどこにいても楽しく過ごしてますよ」とかろうじて答え、刺身をつまんでビールを飲んだ。それから、浴衣の胸元をもう一度指で引っ張り上げて整えた。
 その後、部屋の中には沈黙の煙が立ちこめた。僕たちは膳の上に彩られた料理をそれぞれにつまんだ。
 接客係が揚げ物を運んできた後で、奈月はやおら立ち上がり、窓際に歩いてカーテンを開けた。
「きれいですね」
 彼女は窓枠に両手を置いてしみじみとつぶいやいた。
「渡月橋、見える?」と僕が聞くと、奈月は「見えますよ。外灯に照らされて、大堰川の上に浮かび上がってます」とすんなり答えた。それから少し間を置いて「なんか、夢みたいな光景ですね」と漏らした。
 僕はえび茶色の浴衣を着た奈月の後ろ姿をぼんやりと眺めた。東山とお揃いのジーンズやパーカを着ていたあの時よりも、ひとまわり小さく見えるのは気のせいだろうか? あるいは佐賀に帰って父の介護をするうちにやつれてしまったのかもしれない。いや、髪を後ろに小さくまとめているから、すっきりした印象なのかもしれない。ただ、浴衣の裾から出ている、高校時代体操で鍛えたふくらはぎには瑞々しいハリがある。奈月はまだまだ若い。これから幸せな人生をそのしなやかな脚で歩んでいくのだろう。
 そんな後ろ姿を眺めつつ、僕は手ずからビールをグラスに注ぎ入れ、それを飲んだ。
「ここは、明石の君と関係が深い場所なんですよね」と奈月は窓に映った彼女自身に語りかけるように言った。「東山君がこの辺のホテルに泊まりたかったのも、そういう事情があったんですよ」
 奈月はそう続けた後、窓際に置かれた籐の椅子に腰掛けた。
「なんだか、今が今じゃないみたいです。っていうか、私は私じゃないみたい。やっぱり、頭、おかしいですかね?」

キラキラ 168

 奈月の忠告は、僕の心を少なからず揺すぶった。
 もう先輩ったら、自分だけの感情で突っ走らないでくださいよ。その人がいつまで先輩と一緒に遊んでくれるかなんて、分かんないですよ。女って、男の知らないところで傷ついてるものなんですから!
 奈月の目に見つめられていると、さらにそんなことを言われているような気がした。僕はまさに、そのようにして麻理子を失ったのだ。幸恵に夢中になっている間、麻理子が傷ついているとことに僕は気づかなかった。
 僕がビールを飲み干すと同時に、奈月は「あー、でも、うらやましいですね。東京での生活かぁ、楽しいですか?」と話題を切り替えた。僕はグラスを置き、改めて奈月の黒い瞳と向き合った。
「俺思うんだけどさ、人間って、状況に適応してゆく生き物なんだよ。最初は、まさか俺が東京に出るなんて、思いもしなかったよ。東京の、しかも本郷に住むことになるとはね」
「本郷、ですか?」
「そう。東大がすぐ近くにあって、ちょっと歩けは上野にも出るし、南に降りたらお茶の水にも行ける。お茶の水界隈は、特に俺が好きなところで、いわゆる都心だ。そんな所にいきなり出て行ったわけだから、最初はドキドキだったさ。でも、そのうち慣れたね。なにしろ人が多いわけだから。何て言うんだろう、とりあえず何かに紛れていれば、どこかにたどり着けるっていう感覚かな」
 奈月は、興味深そうに話を聞いている。その時、彼女の周りに、うちわに描かれた佐賀のバルーンフェスティバルの光景が浮かびあがった。
「楽しそうだけど、なんとなく、楽しくなさそうな気もしますね」と奈月はつぶやいた。
「で、奈月の方はどうなんだよ。俺なんかよりも、もっと楽しい生活をしてるんだろ?」
 僕がそう問うと、彼女ははっと我に戻ったような表情に戻り、悲しそうに笑った。

キラキラ 167

「やっぱり、先輩って、独特ですよね」
 奈月は浴衣の袖に手を添えてビールをゆっくりと注ぎながらそう言った。
「だから言ったじゃないか、俺は女性にとって魅力的じゃないって」
「いや、魅力的かどうかっていうのは先輩が決めることじゃないですよ。そうじゃなくって、私には及びもつかないところがあるってことです。じゃあ、1つ聞きますけど、先輩はその人のこと、好きなんですか?」
 その質問を受けた時、学生時代の僕たちの距離感が戻ってきたのを感じた。単刀直入に本質に迫ってくる質問は、僕のことを理解してくれている奈月だからこそできるのだ。彼女はいつもそうやって僕を困らせたものだ。とはいえ僕は、答え方を心得ている。奈月にごまかしは通用しないということだ。
「彼女といると落ち着くのはたしかだね。でも、だからといって、それが好きという感情かどうかはよく分からない」
「いかにも先輩らしい回答ですね」と奈月は言い、ビールを口にした。「でも、それって、やっぱり好きなんですよ。好きじゃなかったら、2人きりでどこかに行こうだなんてまず思わないですよ」
 僕は何も答えずにいた。これ以上話を続けたところで、奈月は僕の心の機微を理解できない。
 僕にとって、好きという感情は相対的なものさしで計られるものだ。そうなったのは、幸恵への恋の経験が影響している。全身を焦がすような恋を経験した以上、あの思いに匹敵するほどの感情に支配されない限りは好きだとは思えなくなっている。奈月は幸恵のことを知らない。だから、この心情を説明することなどできない。
「あまり偉そうなこと言えませんけど、先輩、その人のこと、傷つけちゃいけませんよ。大事にしてあげてくださいよ。その人は先輩のことめちゃくちゃ好きですよ。私には十分に伝わります」 

キラキラ 166

 奈月のグラスにビールを注ぎ返した瞬間、彼女は「うわぁ、ありがとうございます」と、心底うれしそうに礼を言ってきた。今彼女が入れてくれたばかりのビールを口にすると、エビスビールらしい爽やかな苦みが舌の上に染みわたった。
「元気かな、麻理子さん、今頃何してるんだろ?」
 奈月はそう言った後、僕が注いだビールを飲んだ。左手でグラスを持ち、右手はグラスの底にそっと触れている。上品な飲み方だ。そんな大人びた所作に感心の目を向けていると、今度はいきなり表情を変え、「で、今の彼女さんって、どんな人なんですか?」と聞いてきた。
「だから、べつにそんな、彼女っていう特別な意識はないよ」と僕は答えた。
「意味分かんないです。それなら、さっき彼女はいないって答えればよかったじゃないですか」
「それがけっこう親しかったりもするんだ。一緒に食事をして、映画やライブを見に行って、箱根とか鎌倉とか、ちょっとした旅行にも行ったりする仲なんだ」
 僕がそう説明すると、「すごーい、どう考えても彼女じゃないですか」と奈月は目を丸くした。
「いや、でも、それが、お互いに付き合おうって言ったわけじゃないし、ちゃんと付き合ってるという実感もないんだ。ひょっとして、彼女には僕の他にれっきとした彼氏がいるかもしれない」
 奈月はグラスを膳に置いて、首をかしげた。
「彼氏がいるかどうかくらい、ちゃんと確かめればいいじゃないですか。その人だっていろいろ聞いてほしいんだと思いますよ」
「ただ、これはきっと奈月には理解してもらえないだろうけど、もしその人に彼氏がいたとしても、俺にとっては特に問題っていうわけじゃないんだ」
 そう言ってグラスのビールを飲み干すと、奈月は再び瓶を取って注いでくれた。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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