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鎌倉物語 99

 サエキ氏は仕事の関係で海外に出ることが多かった。明子も休暇をもらって何度か彼に同行した。フランスやハンガリー、それからオーストリアにも行った。特に印象に残っているのはやはりウィーンだ。目に映るすべてが美しさで研ぎ澄まされていた。
 異国の町を歩きながら人生設計というものを思い浮かべた。もうしばらくこのまま2人だけの生活を満喫したい。孤独に染め抜かれた半生のリハビリはまだまだ必要だ。そのうち心は元気を取り戻すだろう。その時には子供をもうけたい。できれば2人。そのことによって母に対するせめてもの罪滅ぼしができるのではなかろうか。
「明子はこれまで孤独な人生を送ってきたよね。でもその分、幸せになる権利があるはずだ。人生というのはそういうバランスによって成り立ってるんだと僕は思ってるよ」
 彼はよくそういうことを言った。明子にはその熱意こそが嬉しかったし、実際のところ心も次第にほぐれていった。
 しかし結婚して3年目を迎えると同時に、思い描いていた設計とは少し違う方向に人生が歪みはじめた。サエキ氏は新たに開発された高速増殖炉に研究調査員として派遣されることになり、福井に転居することになったのだ。最小限の核燃料で最大限のエネルギーを生み出すという実験的な試みで、実用化にむけて国が推進していた研究事業だった。
「まさか原発に飛ばされるとはね」とサエキ氏はたびたびそう漏らした。彼は目に見えない世界に挑もうとこの分野に足を踏み入れた。大学でも大学院でも研究にすべての情熱を注ぎ込んだ。無我夢中の結果、ふと立ち止まって自らの足下を見てみると、当初の想像とはずいぶんとずれた場所に立っていたのだ。
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鎌倉物語 98

 サエキ氏の就職と同時に都内にマンションを買った。手頃な物件だったがそれまで2人で住んでいた明子のアパートと比べると何から何までがアップグレードされていた。
 朝、彼の出勤を見送った後で部屋の掃除をして洗濯物を干す。それが一息つくとFMのスイッチを入れ、新聞片手にコーヒーを飲む。8時半を過ぎたところで身支度を整えて外に出る。自転車にまたがった瞬間、1日の始まりを意識する。朝の新鮮な空気を全身に浴びながら仕事場へと向かう。
 その頃明子は区立図書館の司書として働いていた。正規採用ではなかったが十分に満足だった。本に囲まれて1日を過ごすというのは幸せなことだったし、図書館の中に立ち込める書籍の香りを鼻に吸い込むだけで心が落ち着いた。
 振り返れば心に闇を抱え続けた人生だった。自分を生んで間もなくこの世を去ったという母の影が心の内側にびったりと貼り付いていたのだ。父はそれについて何も語ろうとしない。「病気だった」の一点張りだ。そうやって周囲が沈黙すればするほど、母は出産の際に何らかの危機に見舞われ生命を賭けてまで自分を生んでくれたのではないかと想像してしまう。心の闇は時に罪悪感となり、またある時には人生のプレッシャーにもなった。
 また父との関係も複雑だった。父は地元の高校を出た後すぐに大手の建設会社に入社した。才覚に恵まれていたのか若くして昇格を繰り返した。東京本社の部長級を務めて地盤を固め、ついに40代半ばで独立した。その会社はたった数年で大企業に発展した。
 幼い頃は何度も転校を繰り返した。父は多忙を極め、ひとりぼっちの時間を過ごさなければならなかった。その間彼女はずっと本を読んだ。
 そういう過去をくぐり抜けてきたからこそ、サエキ氏との結婚生活は信じがたいほどにぬくもりと幸福感に包まれていた。

鎌倉物語 97

 夫であったサエキ氏と明子は高校時代のクラスメイトだった。高校卒業後、2人は大学進学のために揃って上京した。大学は別だったがアパートは近くに借りることにした。大学3年の時に同棲しようという計画がもちあがって現実味も帯びたが、明子の父親が障壁となり、結局卒業まで別々に住むことになった。
「どうせ彼は私の部屋で生活していたんだから同じことなのに」と明子はカクテルを飲みながら微笑んだ。サエキ氏との想い出を話す明子の顔は庭先に咲く春の花を連想させるほどに穏やかで、その瞳は森の奥に湧く泉のようにきらめいていた。
「ほら、よくソウルメイトっていうでしょ。魂の深い所で結ばれた関係のこと。彼はまさにそういう存在だった。そして2人でいればいるほど絆は強くなる。彼は前世なんて信じるタイプでは絶対になかったけど、それでもそれに近いつながりを感じていたはず」
 サエキ氏は国立大の理学部に所属していて、専攻は原子物理学だった。目に見えないモノを見ること。その手段として科学を用いる。それが彼の知的探求における根本理念だった。
「科学っていうのはきわめて信用できる領域だ。僕がやりたいのは人間はどこまで神に近づけるかという挑戦だ。でも『バベルの塔』の失敗は繰り返さない。人間は決して全能なんかじゃないと知っているからね。僕は徹底的に研究して、科学の限界点というものをこの目で確かめてみたいんだよ」
 サエキ氏が大学院に進学した年の秋に2人は籍を入れた。彼は指定研究生として国から奨学金を支給され、そのお金で十分に生活できるというのが父親を口説き落とす決め手となったのだ。
 大学院を出た彼は、国の原子力研究所に就職した。

鎌倉物語 96

「ずっと隠しておくのも、それはそれでつらいことだから」と明子が語りだしたのは、付き合ってから1年近く経ってからのことだった。
 その時僕たちは仙台のホテルにいた。季節は冬で、2人で行く初めての旅行だった。とにかく行ったことのない所へ行きたいという明子の要望に乗ったのだ。
 僕たちは仙台空港からリムジンバスで市内に入り、仙台駅近くのホテルにチェックインした後で、JRで塩釜に向かった。外はちらほらと雪が舞っていて、乗客の様子や喋る言葉からも僕の思い描いていた通りの東北の風情があった。
 塩釜の駅で降車して、港に隣接した大がかりな海産物の直売所で岩ガキを食べた。直売所を出てすぐの所には遊覧船の乗り場があり、その船に乗って松島を巡った。
 明子が封印していた過去を語ったのはその夜のことだった。僕たちはホテルの地階にあるショットバーの隅の席に座り2人でカクテルを飲んでいた。客もまばらでホテルのバーの割にはあまりぱっとしない店だったが、かえってその雰囲気が明子を安心させたのかもしれない。
「あなたはもう知っていることだろうけど、私、結婚を経験してるのよ」と彼女は吐き出すように言った。僕は何も言わずにただ頷いた。
「でも今はもう、その人はいない」
 明子がそう言ってから、とても長い沈黙があった。彼女はその間ずっと僕の右肩あたりに視線を落としていた。今でも忘れることのない、ガラス玉のような瞳だった。
 それから明子は自らが作った沈黙に小さな穴を開けるかのようにつぶやいた。
「亡くなったの」

鎌倉物語 95

 すべてが終わった後で僕たちは並んでシャワーを浴びた。互いの体を拭き、再び客室に戻った時にはキャンドルのラベンダーはよりくっきりとした香りを放出していた。
 明子はベッドにつくやいなや、すやすやと寝息をたて始めた。さすがに疲れたのだろう。彼女は週の半分以上は僕の部屋に来るが1度も泊まったことはない。したがってその寝顔をこんな間近に見るというのはどこか不思議な行為のようにも思えた。
 明子の髪を撫でていると、寿福寺で彼女が何を感じたのかということが再び心の表面に浮上してくる。
 彼女は鎌倉駅前のマクドナルドでこう述懐した。寿福寺のやぐらで声が聞こえて心が軽くなり、目の前が開けたと。気がつけばこれまで見えなかったものが見えるようになった。そして僕の近くには女性が見えた。その女性は今でも僕を思い続けていて、もし僕が手をさしのべれば彼女は僕の元に来る。それはジャズピアニスト、つまり美咲ではないかと彼女は推測したが、僕に思い当たるのは佐織だった。
 どんな声が聞こえたのか気がかりだった僕に「それをあなたに説明するのには、もう少し時間がかかりそう」と応えた。その言葉が今なお胸を重くしている。
 明子、君が寿福寺で聞いたのは何だったんだ? あれから君は何かを調べようとしていたが、それと関係があるのだろうか? 君はもうすぐ僕の元から離れようとしている。そんな予感がしてならないんだ。
 この旅で顕著に見られた感情の起伏にはサエキ氏が絡んでいることは分かっている。君は22歳からサエキアキコという名前になった。君の年金記録にはそう記してあった。そして今なお君はサエキ氏のことを深く愛し続けている。

鎌倉物語 94

 それから僕たちはお互いの身体を舐め合った。明子は隅々にまで献身的な口づけをした後で、最後は胸に顔をうずめてきた。僕はそんな彼女を強く抱きしめた。彼女もそれに応えるかのように手足を絡みつけてきた。
 次に明子を腹這いにさせてその背中に舌を滑らせる。僕の動きに呼応して彼女は軋むような声を上げた。白い背中は窓の外からかすかに差し込む月の光を受けて、いっそう神秘の色を際立たせている。その美しさはこの世のものとは思えないほどだった。海の上でドビュッシーのピアノが聞こえる。演奏はスタニスラフ・ネイガウス。ロシアの芸術至上主義者だ。
 僕はその調べを聴きつつ、満を持して後ろから明子の中に入った。彼女の方もその準備はとうにできていた。彼女は身をよじらせながら全身で僕を受け容れてくれた。
 その時、僕はふと天国を感じた。幼い頃から憧れ続けた無上の境地がまさにそこにあった。僕はいつにもまして扇情的に明子を攻めた。明子の方も同じだった。1回目が終わってすぐに彼女は次を求めてきた。円覚寺での饒舌、寿福寺での明るさ、それからタクシーの中での涙。今日1日で彼女は日頃見ないほどの感情の起伏を繰り返した。それらすべてを統合するかのような激情を僕にぶつけてきたのだ。
 僕には自分の腹の下に顔をうずめているこの女性が果たして明子なのか怪しくさえ思われた。彼女の魂は交換可能なカートリッジを連想させる。彼女の身体に様々な魂がセットされる。それに応じて彼女の人格は変化する。そして今の彼女には強烈な自己主張を帯びた魂がセットされている。
 まさかそれが、彼女の発している哀しみのシグナルであったとは、その時の僕に気付かれるはずもなかった。

鎌倉物語 93

 明子は予期していたよりも早くバスルームから出てきた。どうやらシャワーを浴びただけでバスタブには浸からなかったようだ。彼女は鏡台の前でドライヤーをかけ、それが終わると化粧水と乳液を肌に叩いた。
 彼女がベッドに戻ってきた時シャンプーの香りがふわりと客室に広がった。髪に巻いていたバスタオルを丁寧に畳んでソファの手摺りに置き、ふっと息をついてからハンドバッグの中に手を入れた。取り出したのはキャンドルだった。彼女はベッドを立ち、キャンドルをテレビの横に据えてマッチで火を灯した。
「これがあるとよく眠れるの」と言いつつ、彼女は再びベッドについた。
 電灯をすべて落とした後はキャンドルの明かりだけが灯っている。炎の色に濡らされた壁と天井がゆらゆらと揺れている。間もなくしてほのかな香りが広がる。ラベンダーだ。
「海を見ながら寝ようか」と明子は言う。「覗く人なんていないわよね」
 僕は起き上がってカーテンを開ける。今や全貌を露わにした月はずいぶんと西に傾きつつも夜空に光を当て続けている。その光を見ながら明子のベッドに入る。シングルベッドなのでちょっと寝返りを打っただけで転げ落ちてしまいそうだ。
「このホテルにはダブルベッドがないんだ」と僕は言った。「それにしても、まさかこんなに狭いベッドだったとはな」
 明子は僕の方に顔を向け、「私好きよ、このホテル」とささやいた。「きっと、今日、ここに来るべくして来たんだと心からそう思える」と明子はこの旅で何度か聞いた台詞を言い、静かに身体を寄せてきた。

鎌倉物語 92

 明子は部屋に入ってそのままソファに腰掛け、放心するかのように宙を見つめた。その表情には疲れとも無気力ともつかぬ色がにじんでいる。
「どこに行ってた?」と僕はテレビを見たまま訊いた。すると明子は僕がいることにたった今気づいたかのように、ふっと首を傾けた。
「あ、うん、ちょっと、下にいた」
「下にはフロントと売店とレストランしかなかったと思うけど」と僕は言った。
「そう。フロントとレストランに行ってたの」と明子は答えたが、僕には何のことやらさっぱり分からない。それは自分が酔っているせいだろうかとも顧みたが、どうもそうではないらしい。
「フロントとレストランで何をしてたっていうんだ?」
「調べたいことがあったからパソコンを借りたの。そのついでにちょっとした用事を済ませてたら、遅くなっちゃった」と明子は答えた。相変わらず無機質な表情を浮かべている。
「パソコンはあの支配人に借りたの?」
「うん。でもあの人、たしかにちょっと偏屈なところがあるけど、話してみれば意外とまともな人よ。それに詰所には奥さんもいて、とても気の利く人だったわ」
「なるほど」と僕は言い、さらに質問をしようかどうか考えた。さっきから君は一体何を調べようとしているのか。それは今調べなければならないことなのか。そんな言葉が口先まで上がっていたが、酔いのすさびにしつこく詮索するのも野暮臭く思えたので、直前で思いとどまった。
 その間に彼女はベッドの前を通ってバスルームへと消えた。

鎌倉物語 91

 結構長い間寝ていたような実感がある。
 熱めのシャワーを浴びてもう一度身体の芯から温め直す。その後、バスタオルを羽織ったままバスルームを出る。
 部屋の灯りはさっきよりも落とされ、読書灯だけがテレビの横のスペースをものさびしげに照らしている。僕は明子の名を呼ぶ。だが彼女はいないようだ。僕の声は古びた部屋の中に力無く吸収されてゆく。
 彼女のボストンバッグはベッドの下に置いてある。ちょっとした用事で部屋の外に出たのだろう。
 ルームウエアに着替え、明子が戻って来るまでテレビでも見ようと電源を入れる。それからベッドに横たわってテレビの画面に目をやる。世界の経済情勢はますます悪化し、金融不安は日本にも飛び火するのではないかということをキャスターが眉間にしわを寄せて伝えている。仮に日本国債の利率が上がるようなことになれば国家は破綻しかねない。
 画面右下の時計は23:16を表示している。風呂の中でずいぶんと寝てしまったものだとうんざりしてしまう。
 手持ち無沙汰なので冷蔵庫を開けてみる。ビールはあと1本残っているが、もっとアルコールの強いものが飲みたかった。それで僕は目についたホワイトホースのミニボトルを取り出し、冷蔵庫の上に置いてあるコップに注いで飲んだ。「氷がお入り用の方はフロントに申しつけください」というメモが添えてあるが、あの支配人に頼み事をする気などとうてい起こらないし、冷蔵庫の中でおそらく長いこと冷やされ続けていたのだろう、その必要もなかった。
 明子が部屋に戻ってきたのはウイスキーが身体に浸透しはじめた時だった。

鎌倉物語 90

 バスタブに湯を張っている間にビールをもう1つ空ける。明子は自分のベッドに戻り、そこに腰掛けて携帯電話を見つめている。コートを脱ぎ、帽子も眼鏡も取った彼女はふだんの姿に戻っている。
 テレビでもつけようかとも考えたが、結局窓際のソファに座り、水平線の上に広がる夜空でも見ながらビールを飲むことにする。タクシーの車内で見た時には薄雲に隠れていた月は、今やその上半分を晒している。夜空と接している部分は薄緑の神秘がかった光でにじんでいる。
 小学生の頃、星の光は何万年もかけて地球に届くのだということを知って胸がすくような想いをしたことがあったが、その感覚がふと甦ってくる。だとすれば自分の人生とはいったい何なのだろう? 
 そんなことを考えていると湯を注ぐ音が不協和音のように響きだす。僕は残りのビールを一気に飲み干してからバスルームに向かう。その間、明子はずっと携帯を見つめている。彼女はメールはしない。つまり何かを調べているのだ。
 ユニットバス式の狭い湯船に膝を立てて浸かり、シャワーカーテンを引く。下半身から身体全体に向けて順序よく温まってゆく。オレンジの照明が心身ともに疲れた僕の内部にじんわりと侵入してくる・・・

・・・僕は何者かに迫られている。こんなにもぬくもりのない、それでいて執拗にまとわりついてくるもの。その正体は一体何か?
 ついさっきまで心地よさに包まれていたはずの僕は一転して全く不快な世界に堕ちている。しかもこいつは体温まで奪おうとする。僕は必死にそれを引き剥がそうとする。すると今度は顔に貼り付いてくる。僕の苛立ちを逆撫でするかのようだ。たまらず目を開けると、すっかり冷たくなったシャワーカーテンが絡みついている。
 どうやら湯船の中で眠ってしまっていたらしい。

鎌倉物語 89

 テレビの横にリュックサックを置いてベッドに腰掛けると、明子はそっと窓際に歩み寄りカーテンを開けた。外には夜の湘南海岸が横たわっている。
「ほら、きれいよ」と明子は小さく声を上げる。僕はやおら立ち上がり、彼女の肩越しに海を見る。表情に乏しいペンション風の建物といい、無愛想な支配人といい、予想とはかけ離れているが、目の前に広がる景色だけは期待を裏切っていない。
 僕は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出し、2人で乾杯した。
「それにしても変わった支配人だったね」と明子は漏らした。彼女の顔は窓ガラスにくっきりと映っている。
「ある意味、今回の旅にはおあつらえ向きの支配人かもしれないな」と僕は応えながらソファに腰掛ける。そうして、さっきホテルに入る前に感じた意識と感覚のズレがきれいに取れていることを自覚する。あの支配人のおかげで現実感覚を取り戻すことができたのだ。
 目の前には明子がいて、海を見ながらビールを飲んでいる。僕は彼女の姿を満足げに眺めている。過去も未来も、前世も来世も、すべて「今この瞬間」が起点なのだ。そんなことを想いつつビールを飲む。くっきりとした苦みが全身を駆け上がってゆく。
 それからしばらくの間2人はおのおのの思索の世界に浸る。明子はおそらくは過ぎ去った日々に思いを馳せている。僕はというと、これから先もずっと明子と一緒にいたいという想いを再認識している。
「お風呂に入ってきたら」と明子が振り向いて言ったのは、しばらく経ってからのことだった。缶ビール1つで全身が温かくなるほどに僕は疲労していた。

鎌倉物語 88

「できれば事前に電話でも入れて頂けますと助かるんですがね」と支配人はなじるような調子で言う。開いた口がふさがらない僕を、明子も少々困った表情で見ている。
 僕は支配人をすぐ前にしてチェックインのサインをした。指の動きをいちいち監視されているようでじつに書きづらい。
「朝食はどうされます?」と彼はたった今僕が書いたものに冷淡な視線を落としながら事務的な口調で訊いてくる。明子に尋ねると、彼女は口を結んで答えあぐねている。支配人の視線が刺さっている僕は「とりあえず7時で」と言う。すると彼はぱさついた声で「かしこまりました」と応えた。それから右手を差し出して付け足しのように言った。
「朝食はそちらのレストランでお取りください。ラストオーダーは8時30分ですので、それまでにはお越しくださいますよう」
 支配人はそう説明した後で、シルバーのトレイの上に部屋の鍵を差し出した。僕はそれを受け取り、エレベーターを探す。だがどこにも見あたらない。それもそうだ。このホテルは2階建てなのだ。僕たちは自分で荷物を持って売店の奥の階段を上がることにする。
 部屋は廊下の片側に6つ並んでいる。全ての部屋が南を向くように、つまり海が見えるように設計されているというわけだ。僕たちは一番奥の21号室のドアを開ける。軋んだドアの向こうには真っ暗な部屋がある。やはり独特の埃臭さがつきまとう。
 照明をつけるとアイボリーで統一された客室がふわっと浮かび上がる。ベッドが2つとソファが1つ。それからローボードの上にはテレビが据えてある。年季の入った調度品の中にあって唯一テレビだけが新しく黒光りしていてよそよそしさを身にまといながらそこに佇立している。

鎌倉物語 87

 明子は慌てた様子で僕の腰に手を宛ってきたが、膝の力はすぐに回復したので僕はそれを制した。
「今日はずいぶんと歩かせちゃったから、疲れたのね、きっと」と明子は言った。
 もちろん彼女の言うことは正しかった。だが今あるのは肉体的疲労だけではなさそうだ。明子と並んで玄関へと続く階段を上りながら、自分の意識と感覚の間にズレが生じているのを感じている。今たしかに自分はここにいる。だがその実感がまるで湧かないのだ。まるでもう1人の自分がいて高い所から俯瞰しているような気がする。階段を上っている自分とそれを眺めている自分。一体どちらが本当の自分なのか? 
 冷たい潮風が僕に混乱をもたらせたようだ。何とかそれを鎮めようとゆっくり階段を上がる。
 自動ドアの先にはやわらかな白熱灯に照らされた空間が待っていた。突き当たりにはちょっとした土産を売る一角があり、その右側はレストランにつながっている。テーブルのセットが10ばかり置いてあるが客の姿は見えない。絨毯の埃臭さだけがそこはかとなく漂っている。何から何まで古ぼけた雰囲気だ。
 フロントは入ってすぐ右にある。1人立てば十分なほどの広さだ。呼び鈴を押して少し間を置いてから初老の男性が現れる。白髪はきちんと整えられ、きりっとした目をしている。白いコットンシャツにブラックジーンズといういでたちだ。
「ご予約の方で?」と支配人とおぼしきその男性は言う。僕は頷く。「チェックインはたしか、7時のご予定だったと存じますが」と支配人は言う。いかにも不機嫌な様子だ。
 レストランの壁に掲げられた時計は8時半を過ぎている。

鎌倉物語 86

 それは僕が見た初めての明子の涙でもあった。
 彼女は眼鏡を外し、ハンドバッグから取り出した専用のケースにしまった。それから窓の外に目を遣り、何度か小さく鼻をすすった。その想念の先に僕はいない。明子は見えない何かに向かって無言のうちにつぶやいている。
 彼女の存在を肌で感じつつ窓の外に広がる海に視線を投げる。広く静かな海だ。長い海岸線に沿って続く道路の灯りは漁り火のようにきらめいている。その光景を眺めながらつくづく思う。僕にできるのは待つことだけだと。
 若宮通りは由比ヶ浜海水浴場で突き当たり、タクシーは海岸道路を左に折れる。予約しておいたホテル「NAGISA」はそこから5分もしない所にある。海岸を望むこじゃれたプチホテルをイメージしていたが、実際はどこか古臭さが漂っていてペンションに近い佇まいだ。
 僕に続いて明子もタクシーを降りる。ホテルの灯りに照らし出された彼女の顔はやはり泣いた後のそれだ。
「すてきなホテルじゃない」と明子は2階建ての建物を見上げながら言う。「海だってこんなに近いし」
 ホテルの前は道路を挟んですぐに海岸が広がっている。材木座海岸だ。遊歩道に設置してある外灯が、白砂の滑らかな海岸を目の前に浮かび上がらせている。明子は海に向かって立ちすくみひんやりした潮風を吸い込む。
 僕も彼女にに倣って深呼吸する。ところがそれと同時に立ちくらみに襲われる。膝の力が抜けてよろけてしまう。
「大丈夫?」という声が聞こえる。それは一体誰の声だろうと思う。

鎌倉物語 85

「この道を戻ったら鶴岡八幡宮があるんだよな」と僕は後方を指差して明子に語りかける。すると彼女ははっと目を大きくし「うん、そうだね」といささかつれない返事をする。
 鶴岡八幡宮といえば源実朝が公暁に首を取られた場所でもある。僕は振り向いてリアウインドウ越しの光景を確認する。だが目に飛び込むのはどこまでもまっすぐな道路とその上を走る車のヘッドライト、それから道の両側に連なる街の灯りだけだ。
 明子はそんな僕の姿を見てふっと笑いながらぽつりと漏らす。
「さすがにここからは見えないでしょう」
 僕は前を向き直す。若宮大路は想像以上に長い。この道を築き上げた往時の人々の苦労に思いを馳せる。そうしているとタクシーは道路にそびえ立つ巨大な鳥居の横を通る。つまりこの道路自体が八幡宮の参道になっているというわけだ。
「君は何度か行ったことがあるんだろうね、八幡宮に」と僕は訊く。すると明子は視線を僕の喉元に移して何かを言いかけたが、途中でやめた。それからしばらく彼女はシートにもたれたまま何も言わずにいた。鶴岡八幡宮には何かあるのだろうかと思う。
 するとついにフロントガラス越しに海が見えた。薄い雲には月明かりが透けていて、その光がやんわりと水面に浮かんでいる。初めて見る湘南の海だ。すぐさま明子の方を見る。
 ところが彼女の瞳には涙が浮かんでいる。最初は光の加減でそう見えただけかとも思った。しかし涙の雫は眼鏡の下から顔を覗かせ一筋の線となってゆっくりと頬を伝っていった。
 明子は、何でもないのよ、ちょっと目にゴミが入っただけだからと言い、眼鏡を取ってハンカチを軽く目に当てた。

鎌倉物語 84

 こちらから語らなければならないタイミングだ。このままでは明子が目の前に繰り広げる奇妙な世界に呑み込まれてしまう。
 ジンジャーエールを喉にくぐらせ、息を吐くように言葉を出す。
「君が何を言いたいのか、残念だけどよくわからない」
 明子は一旦僕の方に目を遣ったものの、まもなくして視線を横に滑らした。
「僕が想っているのは君以外にいない。君もよく分かっているはずだ」
 隣の席の女性が僕の方をちらと見たのが分かった。隣は3人家族だ。パパとママ、それから幼稚園児くらいの男の子。いかにも幸せそうな家庭がすぐそこにある。
 僕は声を一段低くしてこう付け加えた。
「君と離れることなど考えられない」
 彼女は大きく息を吸った。それから静かに目をつむった。

 マクドナルドを出ると、風の冷たさが首筋を震わせた。僕たちは駅前でタクシーを拾いホテルへと向かった。海が見たいという明子の要望と、人混みがあまり得意ではない彼女の気質に鑑みて、それらの条件を満たしそうなホテルをウエブサイトで探し予約しておいたのだ。
 タクシーは鎌倉の街を真っ2つに両断するかのような直線の道路を南下する。「若宮大路ね」と明子は窓の外を見ながらつぶやく。「鎌倉幕府が作った大通」
 彼女の言葉を聞き、ここへ来る前に目を通しておいた鎌倉の地図を思い浮かべる。この道を北に進むと、たしか鶴岡八幡宮に突き当たる。

鎌倉物語 83

 僕はストローに口を付けてジンジャーエールを飲んだ。それはまだ十分に冷たかった。明子は伏し目がちに残りのチーズバーガーを食べている。時間をかけて咀嚼し口全体で味わっているかのように。僕は彼女の様子を見ながら自分の食事を取る。
 ハンバーガーを食べきって、コーヒーを飲んだ後で、ようやく明子は顔を上げた。
「すてきな旅だった」と彼女はそよ風のように言う。
 旅だった、という過去形が僕の心に引っかかる。佐織との旅で直感したように、明子もまもなく僕の元から去ろうとしているのではないかという疑念が夏の夕立雲のようにもくもくと広がる。
「ほら、さっき、タカシ君のそばに女の人が見えたって言ったでしょ」
 明子はテーブルの上に両肘を置き、大事な話を思い出したかのような口調で話を再開した。
「その女の人は、あなたの近くにいるよ」
 僕は何も言わない。できれば何も感じたくない。でも息苦しさだけはこらえられない。
「でも、その人には、他に男の人がいる。それでもその人はタカシ君のことを思ってる。あなたのことをずっと思い浮かべながら、その男の人と一緒に暮らしてる。でももしタカシ君が手をさしのべれば、おそらく彼女はタカシ君のもとに来る。時間はかかるけど」
 さっき明子はジャズピアニストの女の子、つまり美咲のことではないかと洞察した。だが思い当たるのは佐織だ。しかし佐織が近くにいるということだけはどうも信じがたい。
 彼女が何を言おうとしているのか、ますます分からなくなる。

鎌倉物語 82

 明子は壁の絵から目を離し、僕の方に視線を戻して話を続けた。
「ああ、その問題はそうやって解けばよかったんだって納得できたのね。自分でもびっくりするくらいにすんなりと。その時タカシ君は山本さんと熱く語ってた。中原中也と源実朝の話だったわ」
 明子はコーヒーに口を付けた。それからカップをテーブルに置くと同時にこう言った。
「でね、あなたの姿をぼんやり眺めてると、女の人の影がふっと現れたの」
 僕は自分でも認識していないくらいに速いペースでポテトを口に運んでいた。残りはあとわずかになっている。
「これまで見えそうで見えなかったものが見えるようになってたのよ」と彼女は付け足した。
 もちろん明子は軽はずみで言っているわけではない。自らの腹にきちんと落ち、なおかつ自らの言葉で発することができるという確信を得ないままその手の話をすることはまずない。それゆえ僕はできるだけ誠実に耳を傾ける。明子は僕の理解を超えた女性だという先入観をもって接した方が、結果的に後悔しないで済むということを僕は体得している。
 僕が何より気がかりだったのはこの話の結論がどこに向かっているのかという1点のみだった。彼女はこの先僕のそばにいてくれるのか。それとも、離れていくつもりなのか。
「君が聞いたっていうのはどんな声だった?」と僕は何食わぬ顔を取り繕って訊いた。すると明子は笑顔を浮かべたままうつむいた。間もなくして、テーブルに向かって語りかけるようにつぶやいた。
「それをあなたに説明するのには、もう少し時間がかかりそう」
 予想したとおりの答えだった。

鎌倉物語 81

 明子は深くかぶっていたキャンバス地の帽子を脱いで自分の横に置き、それから紙ナプキンを指先にあてがった。普段はかけない眼鏡こそしているが、帽子を取ったことでいつもの明子の姿にぐんと近づいた。
「ねえねえ」と明子は髪を軽く整えた後でひそやかに話しかけてきた。
「タカシ君ってさ、ずっと想い続けている女の人がいるでしょ?」 
 あまりに唐突な問いに息が詰まる。彼女から目をそらしてしまう。
「ほら、いつだったか、お互いの過去の話をし合ったことがあったよね。あの時ジャズピアニストの女の子の話してくれたでしょ。あの子のこと?」
 僕は言葉に窮する。
「ううん、いいのよ、何も言わなくて」と明子は僕の動揺を和らげようとした。「もう過ぎ去ったことだろうし、それにタカシ君が誰を想おうと、それは私の干渉すべき範疇じゃないから」
「君は一体何を言おうとしてるんだろう?」
 明子は再びポテトを口に運びつつ壁に掛けられた絵画に目を遣った。色鉛筆で薄く描かれた夕日の海岸の絵だった。砂浜には自転車が1台停まっている。
「さっきの話の続きだけどね、眩暈が去って身体が楽になったと思って辺りを見渡したら、どうも様子が違うような気がしてきたの。うまく言えないんだけど、いろんな方向から声が聞こえてきてね。一体これは何だろうと思って1つ1つに耳を傾けた。そしたら、これまで私が抱えてきた疑問や問題を解決するためのヒントだったの」

鎌倉物語 80

 明子はもう一口ハンバーガーをかじり、それを咀嚼しながら考えている。
「そもそも君がこんな店に入りたがることなんてなかっただろ?」と僕は言った。「特に寿福寺を出てからの君は別の魂が宿ったかのように明るくなった」
 その言葉に明子は静かに反応した。ハンバーガーを片手に持ったままホットコーヒーを口にした後で、彼女は言葉を選ぶように話し始めた。
「あのお寺の中で、急に身体が楽になった」
 明子はそう言って僕の顔を見る。
「タカシ君は何も感じなかった?」
 思わず彼女の瞳を見つめ返す。眼鏡の奥の透き通った眼球が僕を映している。彼女と顔をつき合わせながら寿福寺での記憶を心に再生する。やぐらの中で見た裸の女性、興奮気味にシャッターを切るカメラマン、今なお鼻の奥にかすかに残っている線香の香り・・・
「あの時激しい眩暈に襲われて、倒れるかと思った。ほら、あなたと山本さんが語り合ってたでしょ、あの時のことよ。それからしばらくして、やっと嵐が去ってくれたと思って目を開けたら、今度は別の眩暈がやってきた」
 明子はそう言ってシャツの襟元に手を遣った。細くしなやかな指先だ。
「軽い立ちくらみかなとも思ったんだけど、何か様子がおかしいの。頭痛が取れて身体が軽くなってた。熟睡して目覚めた朝のような感覚だった」と明子は言い、ポテトをつまんで口に運んだ。

鎌倉物語 79

 マクドナルドに入った途端、今鎌倉にいるのだという特別な感慨がふっと消えた。あるのはごく見慣れた風景だ。長めのレジカウンターの前には客が並んで注文を待っている。制服を着た店員は決まり切った言語で応対する。フライドポテトとコーヒーの匂いが漂う。
 だが明子はこの空気を新鮮なものとして捉えたらしい。何から何まで初めての彼女は注文の仕方すらうまくいかなかった。
「一体何をどう頼んだらいいのかわからない」と焦りの表情を浮かべる。そんな彼女の横顔を見ているとどういうわけかほっとする。明子も普通の女性としての一面をもっているのだ。
 僕たちはハンバーガーのセットをトレイの上に載せ、奥の方に空いている4人がけのテーブルに2人で腰を下ろした。ゆったりとした席が意外にも心を落ち着けた。しかも膝を休めるという点においてはとてもいい条件と言えた。
 明子はチーズバーガーを手に取ったまま、それをどうやって食べていいのやら思案を巡らしているようだった。僕は自分のビッグマックにかぶりつくことでお手本を示してやった。それはこれまで食べてきたハンバーガーよりも数段美味く感じられた。それもそのはずだ。これほどの距離を休憩なしで歩いてきたわけだから。
 明子は僕の食べ方を参考にして控えめにかじりつき、唇に着いたトマトケチャップを紙ナプキンで拭きながら「おいしい」とつぶやき、手に持った食べ物をしげしげと眺めた。
 すべてが僕の知らない明子だった。
「教えてくれないかな」と僕はフライドポテトをつまみながら訊いた。「寿福寺で一体何があったのか」

鎌倉物語 78

 結局僕たちは小町通りを往復して再び鎌倉駅前に戻ってくることになった。
「ここだって思うようなお店が見つからなかったね」と明子はため息をついた。日は完全に落ち、通りの灯りが夜の闇に浮かび上がっている。僕としてはとにかく座ることができればどこでもかまわなかった。膝が笑っていてこれ以上は歩けそうもない。
「さっきから気になっているお店があるんだけど」と明子は気を取り直したように言った。遠慮することはないからそこに入ったらいいと僕は応えた。
 明子は「あそこ」と駅前のロータリーに指を差した。ところがその先にはレストランらしきものは見当たらない。ロータリーは雑居ビルに取り囲まれている。コンビニエンスストアとファストフード店、それから銀行や不動産の看板が目に飛び込んでくる。
「よくわからない」と僕が言うと、「ほらあそこ、大きなエムのマークが見える」と明子は僕の耳元で声を上げる。再び彼女の視線の先に目を向ける。
「まさかマクドナルドじゃないよな?」と思わず確かめる。すると明子は「私、これまで一度も入ったことないのよ」言って少女のような笑顔をこっちに向ける。
「いつかは行きたいなって思っていたんだけど、何となく今日がその日なんじゃないかって思うのよ」と言う。昼に「無窓庵」に行った時にも耳にしたような台詞だが全く別の言葉に聞こえてしまう。
「マクドナルドならいつでも行けるんじゃないか」と僕が言うと、明子は首を傾げる。とにかく膝を休めたかった僕は彼女のへんてこな提案に従うしかなかった。

鎌倉物語 77

 明子は扇子を手に取り、彼女と僕との間でぱっと広げた。鮮やかな赤色は外側に向かうにつれて濃くなるように染め抜かれ、全体に可憐なモミジの絵が散りばめられている。
「きれい」と明子は言い、うっとりした様子で優雅に仰いでみせた。その姿を見て僕は再びデジャブの感覚に襲われる。この旅で何度目のことだろう?
 京都。町屋の並びにぽつりと佇む店。佐織はふと足を止め、店頭に飾られた扇子を手に取って仰いだ。それが洛中のどこだったのかすぐには思い出せない。あてもなく歩くだけの旅だったからだ。あの時はたしか二条城から京都御所を通って平安神宮まで歩いたのだ。距離にしてみればけっこうあったはずだ。寒さが頬に貼り付く冬の日だった。佐織は僕にぴったりと寄り添っていた。
 そうだ、あれはたしか西陣の辺りだった。結局佐織はその扇子を手に入れたのだ。白地に淡い紫の花の絵が描かれている扇子だった。藤の花ではなかったろうか。
 1本の糸がほつれることによって次々と全体が解けてゆくかのように、明子が手にした扇子は佐織との記憶を繙いていく。
 明子は心ゆくまで扇子を眺めた後でそれを元あった場所にそっと置き、再び歩き始めた。その店から少しばかり進んだところで「お腹空いたでしょ?」と問いかけてきた。もちろん空腹には違いなかったが、それ以上に膝の痛みの方が深刻だった。どこかに腰を下ろして膝を休めたかった。
「こうもお店が多いと、選ぶのが難しいね」と明子はささやいた。「でも、こうやって歩いているだけで何だか楽しくなる」
 脚の痛みの中で佐織の声を聞いたような気がした。

鎌倉物語 76

 思い当たる所をすべて探したが、名刺は見つからない。一体どこへ落としたというのか。名前だけしか記されていない名刺なのに、こんなにも心を惑わすのはなぜだろう?
 僕の心とは裏腹に横須賀線は快調に進む。窓外の光景が夕闇に透けながら滑らかに流れてゆく。
 建長寺を過ぎて鶴岡八幡宮の森を抜けると、街の明かりが点在するようになる。鎌倉駅の近くに戻ってきたのだ。車のライトやネオンサイン、ビルの灯りが自らを誇示するかのように輝いている。
 かくして再び鎌倉駅に降り立つ。さきほど明子が言っていたとおり、この東口は西口とは様子が全く違う。駅舎も街にふさわしい瀟洒なものであるし、駅前広場にも賑わいがある。目に映る風景を体全体に触れながら、初めて自分の思い浮かべていた鎌倉に来たという実感を得る。
「あそこがメインストリートよ」と明子が示した先には「小町通り」という看板が掲げられている。なるほど駅前にうごめく人々はそこに吸い込まれているようだ。
 小町通りは昔ながらの商店街のような趣があり、実に多くの店が軒を連ねている。土産屋もあれば菓子の店舗もある。有名な鎌倉彫の店があったかと思うと小さな美術館さえある。レストランのたぐいは数え切れない。通りには多くの観光客がひしめいている。外国人もいる。ちょっとした夏祭りを連想させるほどだ。
「なつかしいなあ」と彼女は言う。雑踏に消されそうな声だが僕にはちゃんと聴き分けることができる。
「1つ1つのお店は新しくなってるけど、通りの雰囲気は昔と変わらない気がする」と明子は言い、和風雑貨屋の軒先にある赤い扇子に目をやった。「あの頃は本当に若かった」

鎌倉物語 75

 再び北鎌倉駅に降り立つと、寂寞たる空気ばかりが強調される。同じ鎌倉の地名が入っていながら鎌倉駅とは雰囲気がずいぶんと異なるのがよく分かる。
 コインロッカーを開けて自分の荷物と久々の対面を果たした後、下り線ホームに移動し列車の到着を待つ。そこには僕たちを含めて10人ばかりしかいない。ホーム先の踏切越しには円覚寺の森がある。その様を眺めていると今日という日がずいぶんと長かったように感ぜられる。
 まもなくしてベルが鳴り、列車が入ってくる。列車の中は学生やサラリーマンでごった返している。ホームに漂う寂寥感とは対照的だ。汗や香水の匂いが混ざり合い、人間同士が放射する熱でむんむんしている。人目を憚らずに喋る女子高生、何やら深刻な表情で携帯電話を睨んでいる若い男性、ビジネスバッグを抱えたまま目を閉じているサラリーマン、達磨大師のような厳格な目つきで空間を凝視する初老の男性、窓に映る自分自身に向かって物憂げに語りかける女性・・・
 ここにはカオスが形成されている。同時にそれは生々しい現実の世界でもある。
 ふと明子に目をやる。今まで元気だった彼女もさすがにこの人混みの中で疲れを感じたのか、吊革を両手で握りしめて目を閉じている。ただ口元は安らかだ。彼女は今回の旅で何かをつかんだのだ。もう少し具体的に言えば、さっき寿福寺のやぐらで何かに出会ったのだ。
 それは山本氏ではない。彼は媒介役として重要な役割を果たしたにすぎない。(もちろん彼との出会いにも不思議な偶然を感じるが)
 ポケットに手を入れると、そこにあったはずの山本氏の名刺がなくなっている。

鎌倉物語 74

 寿福寺の総門を抜けると踏切の音がして、列車が走り去った。目の前に薄黒くそびえる山の上には紫色がかった空が広がっている。携帯電話を取り出して時刻を確認すると、あと少しで17時になろうとしている。ということはこの寺に2時間近くもいたことになる。そのことにまず驚く。
 さっき「無窓庵」で入手した「北鎌倉さんぽマップ」を広げると、意外にも鎌倉駅はすぐ近くだということが分かった。僕たちは住宅地の中に続く細い路地を横須賀線の線路に沿ってさらに南下した。寿福寺を出た途端に膝に再び痛みを覚えていたが、すたすたと歩を進める明子を前にして弱音を吐くなんてできない。それにしても日頃は運動などしないはずの彼女がどうしてこうも快調なのか解せないところがある。彼女は朝来た時よりも体調が良くなっているようにさえ見えるのだ。
 すると辺りはたちまち街らしい様相を呈し市役所や税務署の看板も見られるようになってきた。市役所前の交差点には紀伊国屋があり、買い物客で賑わっている。僕が街の風景に気を取られている間に鎌倉駅に着いていた。駅舎は思った以上に小規模でこれといった特徴もない。駅前には小さな広場があるがそこには公衆トイレとこぢんまりとした時計塔が建っているだけだ。ここは西口でメインは東口の方だからよ、と明子は説明したがやはりどこか物足りない。
 僕たちは遠くで焼き鳥の香りが漂う夕暮れの駅から横須賀線に乗り、北鎌倉駅に逆行した。コインロッカーに荷物を預けていたのだ。
「この辺りが出たとこ勝負のつらいところよね」と列車の中で明子は苦笑いを浮かべた。
 彼女の瞳はこれまで見たことのないくらいに明るい。

鎌倉物語 73

「山本さんは?」と僕は辺りをきょろきょろ見回しながら尋ねる。
 明子は僕の顔を覗き込んで「何言ってるの? たった今、そそくさと山の向こうに行ってしまったじゃない」と言い、首を傾げつつ少し笑った。「だいぶ疲れてるようね」
 僕は歩きながら深呼吸する。寿福寺の空気が肺の中に入ってくる。頭が重く響く。脇の下には嫌な汗をかいている。木立の奥で烏が立て続けに鳴く。
 僕たちは何事もなかったかのように来た道を黙って引き返している。明子は前を向き僕は下を向いている。赤い布を着た5体の地蔵が視界に飛び込む。彼らは仲良く並んで合唱でもしているように映る。題名は「この世の終末の歌」だ。
 まもなくして再び山門が現れる。そこから望む本殿の瓦は夕日に輝いている。魚の鱗のようだ。彼女は本殿に向かって手を合わせ頭を下げた。僕はその様をぼんやりと眺める。
 緑のアーチに囲まれたまっすぐな参道を歩きながら彼女は口を開く。
「ここへ来てほんとうによかった。それに、うまく言えないけど、タカシ君と一緒にいるということが、なんだかとてもうれしい」
 その言葉を聞いて心がふっと温かくなるのを感じる。明子がそんなことを口にするのはめったにないからだ。
 しかし手放しで喜びを感じることがどうしてもできない。さっきのやぐらの中に座っていた女性の姿がおそろしいほど現実的に感じられて、心のどこかに暗い影を落としている。彼女はまもなく僕の元を離れるような気がしてならない。
 それに線香の香りも依然としてくすぶっている。

鎌倉物語 72

「ここは長いこと探し求めていた場所のような気がする。やっぱり今日、ここへ来るべくして来たんだわ」
 明子の声は変に澄みわたっている。まるで空の彼方からアナウンスしているようでもある。
 とにかく早く服を着てそこから出るべきだ、と僕はあらん限りの声を振り絞る。君はまだ生きているんだ。人生には哀しみも多いかもしれないが、その分大きな悦びも待っているはずだ。若くして愛する人を失ったことはほんとうに不運だった。残念ながら僕には君の哀しみを共有してやることができない。ただ死んだ人間は二度と戻ってはこないというのは紛れもない現実だ。君には生きる権利が残されているんだ。愛する人の分まで残りの人生を全うするというのも1つの選択肢ではないか?
 しかしいくら叫んだところで声にはならない。声にしようとすればするほど空回りしてしまう。彼女はもどかしさにあがいている僕のことを気にもとめずにやぐらの中にしゃがみ込み、目を閉じようとしている。
「静かだ」髭を生やした男は興奮気味にシャッターを切り続ける。
 こうなれば力ずくで引きずり出すしかない。無我夢中でやぐらに駈け寄ろうとすると急に線香の煙が立ち上がり、むせび苦しんでいる間に彼女の姿は忽然と消えた。
「ここに来たことには何か意味があるのよ。心が不思議なほどすっきりしてるもの」
 咄嗟に声の方向に目をやる。明子は僕の隣にいる。ネイビーのハーフコートを身に纏いベージュの帽子を深くかぶっている。やぐらの中を見ると五輪塔がありコスモスの花が供えてある。

鎌倉物語 71

 もう一度振り向いて実朝のやぐらの中を見る。するとさっきまであったはずの五輪塔はなくなっている。そこには暗闇の中に女性が膝を抱えて座り込んでいる。
 女性は裸だ。そんな冷たいところで何をしているのかと尋ねてみるが何の反応もない。ただ静かにそこに座っているだけだ。死んでいるわけではない。肌は水仙の花のように透き通っていて生気に満ちている。
「生きながら死んでいるんだよ」と隣で男の声がする。紺色のハンチングをかぶり髭を生やした男だ。
「これこそが人間の姿だ」と男は言う。「人は皆死ぬ。つまり死ぬために生きている。でもそれは普通の生き方だ。彼女は違う。生きながら死んでいるのだ。彼女には過去もなければ未来もない。哀しみも不安もない。ただ静かにそこにいるだけだ。そして彼女は自由だ」
 男はおもむろにカメラを取り出し写真を撮り始める。「こうやって記憶に貼り付けておかないとすぐに忘れてしまう。なぜなら俺はまだ抜けていないからだ。俺にはまだ自己を捨て去ることができない。だから怖いんだ。甥に首を取られるかもしれないし、人生に疲れ果てて精神衰弱で狂い死ぬかもしれない。ホラホラ、これが僕の骨だ」
 男は不安をかき消すかのようにシャッターを押す。
 すると声が聞こえる。かすかな声だ。最初それは線香の香りかと思った。しかしそれは紛れもなく声だった。「私はもう抜けてしまったの。そしてここを見つけた。ここには無条件の平安があるの。何物にもとらわれない、安らかな世界が」
 明子の声だった。

鎌倉物語 70

 山本氏がいなくなった後、寿福寺の裏山には再び静寂が訪れた。モミジを揺らす風もそろそろ冷たくなってきている。気がつけば僕たちは元の道を引き返していた。
 最後にもう一度実朝の墓所を顧みる。薄暗いやぐらの奥に五輪塔とコスモスの花が幽かに浮かんでいる。線香の煙はもう見えない。残り香だけが行き場もなく宙に漂っている。息を吸ってその香りを嗅いでみる。ほんのかすかなそれでいてたしかな香りだ。
 その時唐突に、ある疑念が浮かび上がる。これは実際の香りではなく僕の脳裏に染みついた記憶なのではないかと。線香はもう完全に消えてしまっているのだ。
 記憶とは不確定なものだ。それはあたかも叙述的な機能のように思えるが、実はきわめて叙情的だ。記憶とは事実を思い起こすものではなく感受性に貼り付いているのだ。
 僕は心に染み付いた線香の香りを感じながらこれまで自分の生きてきた道を俯瞰する。出会いと別れ、悦びと哀しみ、せつなさとたまらなさ・・・
 断片的な想い出の数々が波のように次から次へと打ち寄せてくる。
 ところがやがてそれらの断片は水飴のようにつながりはじめる。実朝と中也の人生が僕の人生に溶け込んできてそのうち境界線が消滅する。
 隣には明子がいる。明子? ほんとうに明子なのか。ここは京都で隣にいるのは佐織だ。佐織? あの時僕が愛していたのは佐織ではなく美咲ではなかったのか。美咲のピアノに惹かれ彼女に恋した。僕は佐織を裏切ったのだ。だのになぜ彼女と歩いているのだ?
 僕は今どこにいるのだろう? ここでは現在と過去、自己と他者が風と煙のように混ざり合い、線香の香りだけが立ち込めている。  
作者

Author:スリーアローズ
*** 
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とびっきり寂しい旅に・・・

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