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鎌倉物語 128

「たしかに思い当たる女性がいないわけじゃない。でも彼女たちが今なお僕のそばにいるとはどだい考えにくいし、何より僕にとってはすでに過去の話なんだ」と僕は続けた。「寿福寺での君は僕の目から見てもまるで別の魂が宿ったかのように明るかった。何らかの霊感が降りてきて視野が広がったというのは本当だろう」
 明子はしおれかけた百合のようにげんなりとしている。あまり尖った言い方にならないよう注意を払う。
「目の前が開けた君には僕のそばにいる女性の影が映った。それは僕がずっと想い続けている人だと言った。その指摘が正しいのであれば、その女性というのはまさしく君だったということになる。そうとしか考えられない。心の中には君以外いないんだから」 
 彼女の閉ざされたまぶたの隙間から一筋の雫がこぼれ落ちた。昨夜のタクシーの中に続いて、僕が見た2度目の彼女の涙だった。
「つまりあの時君の目に映ったのは君自身の姿だったんだ。でもそのことをちゃんとは伝えなかった。僕が過去に付き合った女性だと言って、僕に信じ込ませようとした。わざと嘘をついたんだ。君の心の裏側には僕と別れなければならないという思いが常に貼り付いているからだ」
 どこからともなく誰かが竹箒で地面を掃く音が境内に響き始めた。
「いずれにしても、僕たちは今別れるべきではない」と僕は言い、ボストンバッグを彼女の両手から引き取り肩を抱いた。だが明子はすんなりと応じない。華奢な肩に力を込めて抵抗した。しまいにはすとんとしゃがみ込み、両手を顔に当ててむせび泣いた。曇天が僕たちの上に覆い被さっている。やや湿気を含んだ風が僕と明子の間を通り抜けてゆく。

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鎌倉物語 127

 明子の言葉を耳にした僕は腹の底まで息を吸い、その後でそれを残らず吐き出した。おそらくもう数分もすれば八幡宮の関係者や参詣者が入ってくるだろう。いつまでもここでこうしているわけにはいかない。
「答えは簡単だよ」と僕は言った。「君は死んでなんかいないんだ」
 彼女は首を振るのを止めている。意識的というよりは力尽きてしまったように見える。
「寿福寺の空気を吸い山本氏の話を聞いた君はたしかに『抜ける』ためのきっかけを得たのかもしれない。『抜ける』ということが生きながら死ぬことであれば、君にとってはこれほどすばらしいこともないだろう。死の恐怖もなくなるかもしれないし、何より今なおサエキ氏のことを想い続けている君の宿願を叶えることにもなるだろうから」
 彼女は主体性をもたぬままただただ僕の話の中に立ちすくんでいる。
「でも、もし君がほんとうに『抜けた』のであれば、どうして君は今そんなに苦しまなければならないんだ?」
 本殿にいた鳩が八幡宮の入口に向かって一斉に飛び立って行った。
「それに」と僕は鳩たちの作る影が去ってから言った。「もう1つ、どうしても解せないことがあったんだ。君は寿福寺で僕のそばに女性を見たと言った。それは僕がずっと想い続けている人で僕のすぐ近くにいる。そして僕が手をさしのべればその女性は僕の元に戻ってくると言ったね」
 彼女は無反応だ。僕は唾を1つ呑み込んでからこう言った。
「その女性というのは、君のことじゃないだろうか?」

鎌倉物語 126

「そんな光景を見たのは初めてだった。夢なのか現実なのかさえはっきりしない。ベッドの上で金縛りにかかっている瞬間に近いかな。とにかく僕は目の前の光景をただ丸呑みすることしかできなかった。
 あの時山本氏と思しきカメラマンは、やぐらの中の君を見て『生きながら死んでいるんだよ』と冷静に説明した。それからこんなことも言った。『これこそが人間の姿だ』と。『人は皆死ぬ。つまり死ぬために生きている。でもそれは普通の生き方だ。彼女は違う。生きながら死んでいるのだ。彼女には過去もなければ未来もない。哀しみも不安もない。ただ静かにそこにいるだけだ。そして彼女は自由だ』と。
 その光景を見てたまらなくさみしくなったんだ。何より君のことについて山本氏の方から説明を受けるということが耐え難かった。しかも君は山本氏の説明が全く的を射ているのだということを証明するようにやぐらの中で言ったんだ。『私はもう抜けてしまったの。そしてここを見つけた。ここには無条件の平安があるの。何物にもとらわれない、安らかな世界が』ってね」
 明子は僕の顔を見た。彼女は眼球をわずかに震わせながら、この鶴岡八幡宮へ来て初めて僕の顔を正面から見た。だがしばらくすると、再び力のない視線を僕の喉元辺り投げ捨てた。それからまた首を横に振り始めた。
「どうした?」と僕は訊いた。
 明子は何も言わずに、ひとしきり首を振った後で小さく応えた。
「わからない。何がどうなってるのか、全然分からない」

鎌倉物語 125

「なぜ話を聞きたくないのか、それも分かってる」と僕は言った。「別れられなくなるからだ」
 明子は目を軽く閉じたままやはり首を横に振った。僕は彼女の両肩からそっと手を離す。彼女はもう走り去ろうとはしない。たしかに疲れ果てているのだ。
「でも僕をこの場所に呼んだのは君自身だよ」
 心の中にある言葉を率直に吐き出すべきだと思った。さっきまでの慎重さはどこかに消え、心の中はきちんと整理されている。
「あれほど几帳面な君がどうしてパソコンの履歴を残していたんだろう? 僕の部屋でウェブサイトを見る時でさえきちんと削除して帰るのに」
 明子はふっと目を開けて、僕の喉元辺りに目を遣りつつ何かを言いかけた。しかしその口が開かれる前に僕は次なる言葉を彼女にかぶせた。
「君が僕と別れなければならないと思っているのは本心だろう。でもその裏側には全く逆の思いが貼り付いている。つまり『別れなければならない』と言い聞かせようとするのは『別れたくない』という思いを無理に打ち消そうとするからじゃないか」
 明子は何かを言うのを諦めたように見えた。
「君の手紙を読み、それからインターネットの履歴を見た時、瞬間的にある光景を思い出したんだ。寿福寺のやぐらを出る直前の光景だ。実は僕も声を聞いていたんだ。あの時辺りに線香の香りが立ち込めたかと思うと、裸の君がやぐらの中にしゃがみ込んでいた。そばには山本氏がいて熱心にシャッターを切っていた」

鎌倉物語 124

 その声は小さな社殿の前で乾いて反響した。それから明子は目を閉じて何度か首を横に振り「もう何も考えたくないの」と感情を抑えるように言い捨てた。「疲れ果てた」
 僕たちはしばしの間沈黙を共有した。地面に落ちた葉が風に運ばれる音が耳に入ってくる。辺りは順調に明るくなり、境内を囲む木立の外では車の往来も始まっている。
 明子は依然として目を閉じたまま言った。
「手紙に書いたことがすべて。あなたとはもう会えない。別れなければならないの」
 彼女はそう言ってから唇をさらに固く結び、ボストンバッグを手に取って歩き去ろうとした。「待って」と僕は声を上げた。それでも明子は足を止めない。むしろ足取りを速めながら表参道の方に向かおうとする。僕は先回りして行く手を塞ぐ。彼女はよけて進もうとする。それで僕は彼女の両肩に手を遣り半ば強引に足を止めさせた。小さく肩で息をしている明子はこれまで僕が抱きしめてきた女性とは別人のように思えた。
「別れないと言っているわけじゃないんだ。ただ、このままお別れというのはいくらなんでもさみしすぎるじゃないか。3年間も一緒にいたんだ。もっときちんとした別れ方というものがあるはずだ」
「あなたの言ってることは一般論でしょ。私が感じていることは私にしか分からない」
「だから話を聞いてくれと言ってるんだよ。僕はさっきここに来ながら君の感じていることにやっと寄り添うことができたという実感があるんだ」
 僕がそう言うと明子は肩で息をするのを止めた。そして「聞きたくないの」と弱々しくささやいた。

鎌倉物語 123

 明子は視線を少しばかり下の方に移した。
「そうか、君が抱えてきた闇とはこんな感じのものだったのかって、夢中で足を運びながら目が覚めたような気がしたよ。何でもそうだけど、いったん答えが見えてしまうとそれまで必死になって考え続けたことが嘘のように思える」と僕は続けた。
「そういえば昨日、鎌倉駅前のマクドナルドで話してたね。寿福寺のやぐらで声が聞こえたって。その声は君が抱えてきた疑問や問題を解決するためのヒントだったと。その表現を借りるならば、僕にもその声が聞こえたということなんだ」
 明子は結んだ唇のわずかな隙間から細くため息を漏らした。
「君は寿福寺で『人は死ぬために生きるのだ』という声を聞いたと手紙に書いていたね。それから以前こんなことも話してた。サエキ氏とお父さんを続けて亡くした時、『その人との最大の出会いは死別である』という台詞が身に沁みたんだと。つまり君が死の世界に憧れながらこれまで生きてきた。しかし一方で君には生への憧れもあった」
「だから君は僕と付き合うようになった」と僕は続けるつもりだった。だがその台詞を言うには躊躇するところがあった。それを言おうか言うまいか考えているところに、くさびを打つかのように「ねえ」と明子は声を上げた。
「もう、やめて」

鎌倉物語 122

 僕がそう言うと明子の背筋はごくわずかだがぴくりと伸びた。それから彼女は視線を少しだけ上げた。社殿の扉は開いているものの明かりがないために内部の様子をうかがい知ることはできない。彼女はその暗がりに向けて漠然たる視線を投げた。
「君の心はよく理解できるんだ。たぶんその感覚は君の方にもあったんじゃないだろうか。君は手紙の中で僕はサエキ氏と似ていると書いていたけど、つまりはそういうことなんだろう」
 熱くなってはならない。そう自分に言い聞かせる。言葉とは取り返しのつかないものでもある。特に彼女の場合、心に届く言葉というのは非常に限られている。選択を間違えればその瞬間ジ・エンドだ。僕は息を呑んで丁寧に言葉を選ぶ。
「かと言って、どうしても理解できない部分があったのもまた事実だ。そこがとても微妙で複雑だったがゆえにずっと戸惑いを感じながら君と接してきた。せめて僕にできることといえば、理解できない部分も含めて丸ごと君を理解しようとする、そのプロセスを諦めないことだった」
 彼女は右手に提げていたボストンバッグをすとんと地面に置いた。
「それにしてもきっかけというものは全く予期しないうちにやってくるもんだね。たしかに君が僕の元を離れる予感はあった。でも本当にそうなった瞬間僕はしまったと思った。慌てて手紙を読んで、どこに行けばいいのかも分からないまま無意識に突き進んだ。そしたらね、その無意識の中でこれまで理解できなかった部分がどういうわけかすんなりと腹に落ち始めたんだ。トランプの神経衰弱で面白いように次々とカードが合っていくような感覚だった」

鎌倉物語 121

 僕は石段を途中まで降りたところで歩を止め、彼女に向かって声を出した。
「ここにいることは分かっていたんだ」
 すると彼女はすっと顔を上げ、僕の方に視線を向けた。それから彼女は再び顔を元に戻しため息を漏らすように言った。「あなたとはもう会わないつもりでいたのに」
 僕は石段を降りきり、吹き抜けの建物の横をすり抜けてから明子の立つ小さな神社に歩み寄った。社殿の柱には「若宮」という立て札が掛けてある。生い茂る木の枝には多くのおみくじが結ばれ、賽銭箱の近くには数え切れぬほどの絵馬が奉納されている。
「ねえ」と明子は社殿を見上げながら言った。「ホテルに帰って」
 僕たちを取り囲む木立が風に揺れる。空にかかった雲は厚みを増しているようだ。僕は明子との距離を一定に保ったまま、彼女の横顔に向けて言葉を投げかけた。
「その前に確認しておきたいことがあるんだ」
 明子は微動だにしない。そういえば昨日掛けていた眼鏡を今日は外している。化粧もしていない。少しやつれたような彼女の素顔がいくぶんか強調されている。
「訊きたいことは山ほどあるんだ。できればそれをすべてすっきりさせてから君の元を離れたいというのが本心だ。でも、それは物理的にも精神的にも無理だよ。おそらくますます混乱するだけだ。僕も、そして君もだ。だから質問を絞り込むことにする」
 明子はやはり動かない。
 僕は心を落ち着けてから問いかける。「君はもうすでに死んでるんだね?」

鎌倉物語 120

 ところが確信とは裏腹に石段を登り切って本殿にたどり着いても明子の姿は見えなかった。そんなはずはないと目を皿にして周辺を見回す。明子はここにいなければならないのだ。
 やわらかな朝の光が境内に注ぎ込み、楼閣に塗られた朱色をより鮮やかに見せるようになっている。しかし本殿の内部の様子がはっきりとしてくればくるほどそこには人の気配はないということも明らかになってくる。何羽かの鳩が地面に降り立ち、土をつついては再び飛び去ってゆくだけだ。
 明子の名を呼ぶ。だがその声はたちまちむなしく消えてゆく。
 仕方なくきびすを返すと眼下には今夢中で駆け上がってきた景色が広がっている。ついさっき支配人がマークⅡを停めた大鳥居があり、そこを起点として若宮大路がまっすぐに南に伸びている。段葛の緑も美しい。はるか先には湘南の海が広がる。ふと昨夜ホテルの窓から見えた月明かりを思い出す。
 視線をもっと近くに移せば八幡宮の境内が身近に迫り、緑に埋もれるかのように点在する建物が俯瞰できる。表参道を横切る流鏑馬の道がはっきりと見え、その手前には丹塗りの建物が2つ並んでいる。たった今この石段に足をかける前に通り過ぎた吹き抜けの能楽舞台のような建物と、その隣には小規模ながらも意匠の凝らされた神社がある。
 うつむき気味に立ちすむ明子の背中が見えたのはその小さな神社の前だった。

鎌倉物語 119

 僕は息を大きく吐きながら数え切れぬ人々の魂が染み込んでいる石段を登ってゆく。1歩踏み出すごとにその分だけ本殿が迫ってくる。そういえば実朝が公暁に首を取られたのはまさにこの場所のはずだ。そのことを思い出すと別の胸騒ぎがする。実朝の和歌と初めて出会った高校生の時の血が体内に流れ込んでくるような錯覚を感じる。いやそれは錯覚ではないのかもしれない。あれから月日は流れて様々な経験を重ねているが幾つになっても僕は僕のままなのではないか。だからこそ、何年経っても1首の和歌が心から離れないのだ。
 そんなことを考えながらあの時公暁が身を隠したと伝えられる大銀杏をふと探してみる。ところがそこにあるのは巨大な切り株だけだ。いったん足を止めそこに目を遣る。するとそばに看板が立ててあって何やら記してある。
「長年の間鎌倉の歴史を見守ってきた大銀杏は、平成22年3月10日の未明に倒れてしまいました。千年の樹齢を数え、関東大震災にも生き残った大木が倒れてしまったのは非常に残念です。現在は移植を済ませ、新たな芽が出てくるのを祈るばかりです」
 その文言を2度読み返してから大きく息を吸い込む。今の僕にはその事実に対する感想を持つことはできない。明子を捜し出すこと以外に何も考えられない。僕には確信がある。彼女はこの八幡宮のどこかに必ずいる。
 改めて頭上にそびえる本殿に向かって足を踏み出す。本殿は無表情のうちにも威厳をたたえながらこちらを見下ろしている。背後が明るくなってきたようだ。雲に包まれた朝日がぼんやりと石段を照らし始めている。

鎌倉物語 118

 支配人が去った後、僕は眼前に広がる八幡宮の境内を見渡した。ここはまさに「終着点」という表現がふさわしい。鎌倉につながるすべての道が集結するだけの奥行きと威厳がある。すぐ目の前には池に架かる太鼓橋が大きな半円を描いている。橋を渡ったところから始まる参道の両側には松の巨木が威嚇するかのようにそびえ立っている。橋の上、松の隙間に見えている朱塗りの建物がおそらく本殿だ。ここから見ると、ちょうど目の高さに現れる。鎌倉時代の御家人たちは入口の鳥居をくぐるたびに八幡宮と対面し、鎌倉に来たことを真に実感したのだろう。
 僕は足取りを速めて早朝の表参道を本殿に向かって直進する。両側の木立からは新鮮な朝の空気が立ち込める。風はひんやりと冷たく、木の葉のこすれ合いが緑の香りを運んでくる。北鎌倉の静寂と湘南海岸の爽快さ。その北と南の2面性が重なり合い、ほどよく調和された空間がここにはある。やはり鎌倉の中心地なのだ。
「流鏑馬馬場」と記された道を横切ると目の前はさっと開け、いくつかの丹塗りの楼閣が姿を現し始める。左手には手水舎があり、正面には能楽の舞台のような吹き抜けの建物がある。そこを過ぎると目の前にはいよいよ石段が現れる。頂上では鶴岡八幡宮の本殿がこちらを見下ろしている。
 石段に足をかけようとしたその瞬間、足下がふらつく。どういうわけかたまらなくなってきたのだ。これまでここに足を踏み入れた人は数え切れない。頼朝も実朝も政子も、それから芥川龍之介や東条英機も踏み入れたであろう。そして明子もその人たちの渦の中に含まれるのだと思うとなぜか息苦しさを感じずにはいられなかった。

鎌倉物語 117

 若宮大路の真ん中には車道よりも一段高い所にこしらえられた歩道があり、そこに植えられた並木が鬱蒼と続いている。これがかの有名な段葛だ。たしか頼朝の命で造り上げられた参道だ。対向車はこの道の向こう側を走るために、まるで1車線の道路を走っているような窮屈さを感じることになる。
 その段葛が終わった所には、豪華な朱塗りの鳥居がそびえ立っている。支配人はその鳥居の下でマークⅡを停め、「着きました」とやはり事務的に言った。
「ほんとうに助かりました」と僕は思っていることを素直に言葉にした。支配人は顔を半分だけこちらに向けて「たいへん申し訳ございませんが」と切り出した。「朝食の準備がございますので、私はいったんホテルへ戻ろうと思うのですが」
「もちろん。ここまで運んでくださっただけで十分に感謝してます」
 僕はそう言って頭を下げた。
「それから」と支配人は続けた。「朝食の予約は7時となっております。昨日も申しましたがオーダーストップは一応8時でございます。できれば御予約の時間に間に合うように来て頂ければと存じます」
 僕はスピードメーターの横のアナログ時計を見た。あと少しで6時になろうとしている。「分かりました。何とかそれまでに戻るようにします」と言った。すると支配人は僕の顔を横目で見ながら「あれでしたら、もう30分遅らせてもよろしいですが」と言った。
「それは、正直助かります」と僕は応えた。すると支配人は軽く頷いて「では、7時半にお待ちしておりますので」と言った。それから僕を降ろした後で再びマークⅡを走らせた。その洗練さに欠く排気音で鳥居の下の広場に群がっていた鳩たちが一斉に飛び上がった。  

鎌倉物語 116

 やっとのことで若宮大路に入った時、空がうっすらと白みがかってきたことに気づいた。昨夜はあれほどきれいな月が出ていたにもかかわらず、曇り模様のようだ。慣らし運転を終えたトヨタ・マークⅡの挙動は次第に落ち着きを見せ、ようやく時速40キロほどで走行できるようになっている。
 僕はひとまず胸をなで下ろす。そうして昨夜まさにここを走っている時に明子が泣いたことを再び想起する。それは初めて見た彼女の涙だった。この若宮通りに、あるいは突き当たりに待つ鶴岡八幡宮に何かがあるに違いない。彼女はすべてを僕に話していないのだ。
 間もなく鎌倉駅の標識が視界に飛び込んでくる。僕は星条旗の三角巾をかぶったままの支配人に、いったん駅に寄ってもらうように頼んだ。すると彼は「かしこまりました」と軽快に言い、いかにも重そうなハンドルを左に切った。
 駅前広場の静けさはカーンと冴えわたっている。昨夜の賑わいが嘘のようだ。僕は全力に近いスピードで改札に向けて走った。入場券を手に入れてホームに向かう。まだ薄暗いホームには列車は入っていない。そこにある人影もまばらだ。その中に明子の姿がないことを確認してから駅舎に戻りその中をざっと見渡す。やはり人自体少ない。早出のサラリーマンたちが憂鬱そうな顔をして歩いているだけだ。明子の姿はどこにも見えない。
 それらの観察をやってのけた後で再びマークⅡの後部座席に飛び乗る。ルームミラーの中の支配人に向かって「鶴岡八幡宮に行ってもらえますか」と言う。すると支配人は横目で僕を見ながら「はい」と応え、クラッチを踏み込んでギアを1速に入れる。
 僕たちを乗せたマークⅡは若宮大路を突き当たりに向かって北上する。

鎌倉物語 115

 だが、よろしいはずはなかった。一刻一秒を争う事態なのだ。鶴岡八幡宮へ行きたいのだがそれが最速の交通手段なんですねと追及するように訊く。すると支配人は少し間を置いてから「ええ」と声を低くした。それなら背に腹は代えられないから、やっぱりタクシーを呼んでもらうようにと改めて言うと、支配人は背筋を伸ばしたまま口元を震わせた。
「どうしたんですか?」と僕は訊く。すると支配人は「最速かどうかは保証できませんが、他に手段がないわけではございません」と口ごもり気味に言った。
 それから僕は支配人の後を追って地下のガレージに降りた。そこには車が1台停めてあり、緑のシートが掛けられている。僕たちは2人でそれを取り払った。すると海岸から上がってきたと思われる砂埃が狭苦しいガレージに舞い上がった。シートの中から現れたのは古いワゴンだった。トヨタ・マークⅡというエンブレムが貼ってある。丁寧に使い込んであるのだろう、年式の割にはボディに光沢がある。支配人は運転席に乗り込み、僕は後部座席に座った。室内は昭和の香りがぷんぷんしている。
「問題はこれからだ」と支配人は言い、キーをひねった。バッテリーが作動する音がずいぶん長いこと響いた後で、どうにかこうにかエンジンに点火してくれた。支配人はここぞとばかりにアクセルを踏み込み空ぶかしをした。ガソリンの匂いが室内にまで入ってきた。
「普段あまり乗らないもので、ちゃんとかかってくれるかどうか不安でしたが、今日はすんなりいったようです」と彼は言い、額の汗をぬぐった。
 ところが本当の問題はそこからだった。エンジンの機嫌が悪いのか、舗装された道路上で遊園地の乗り物のように激しくノッキングを繰り返したのだ。

鎌倉物語 114

「お客様」
 その声ではっと我に返る。目の前に立ち僕を見ている男性が誰なのか、一瞬見失う。星条旗の三角巾が視界に入った時になってやっと支配人だということを思い出す。
「バッテリーが切れるのではなかろうかと思いまして。あれでしたら電源コードを差し込まれた方がよろしいかと。なにしろ15年以上使っているパソコンでございまして」
 支配人は相変わらずの事務的な口調でコードを僕に差し出す。しかしもうすぐ終わるからと僕はそれを受け取らなかった。今のこの瞬間に明子は鎌倉から離れるかもしれないのだ。時間をかけるわけにはいかない。
 明子はさらに山本耕二に関するさまざまなページを閲覧しているが、今はそこを深追いすることは止めておく。まず最優先すべきは彼女がどこにいるかを突き止めることだ。
「どこにいるか?」と僕は思わず声を出す。
 もう一度彼女の履歴を見る。「どこ」を表す語は「寿福寺」と「鶴岡八幡宮」の2つだ。そのことに思いついた途端、脳裏に電流が通じる音がした。昨日の夜、マクドナルドを出てこのホテルに向かうタクシーの車内で見た彼女の涙を思い出したのだ。寿福寺を出た時には憑き物がとれたかのように明るかった彼女が急に泣いた。あれは若宮大路を南下している時で、この道は鶴岡八幡宮で突き当たるのだと僕が言った直後のことだった。
 すると予言通りパソコンの電源が力無く落ちた。僕は立ち上がり支配人を呼んだ。そしてすぐにタクシーを呼ぶように頼んだ。すると支配人は眉間にしわを寄せて「鎌倉駅から来るのでしばし時間がかかりますが、よろしいですか?」と言ってきた。

鎌倉物語 113

「もしよければ、そのパソコン、僕にも貸してもらえないでしょうか?」
 わらをもつかむ思いでそう言うと、支配人は下のまぶたをピクリとさせて「もちろん、やぶさかではございませんが」と応えつつ僕の顔を覗き込んだ。彼はまだ何か言いたそうではあるが、こっちには時間がない。その空気を察したのか彼は奥の詰所から仕方ないという感じでノートパソコンを運んできた。ずいぶんと年季の入った代物だった。僕は礼を言ってそれをフロントのカウンターに置いた。レストランのテーブルを使ってもいいですよと言ってくれたが、そんなに時間を取らないからここで使わせていただきますと断った。
 ブラウザを開き履歴をチェックする。そこには昨夜明子が調べたと思われる項目が並んでいる。「東条英機」「東京裁判」「辞世の句」「山本耕二」「寿福寺」「墓」「やぐら」「鶴岡八幡宮」
 それらを注意深く見比べる。どれも昨日1日の体験に関連のあることだ。画面を睨みながら彼女の心に問いかける。君は一体何を調べたかったんだ? しかもそんなにも急いで。
 すると問いかけに返答するかのように手紙の中にあった記述が頭の中に再生される。
「山本さん、不思議な人です。ちょっと、この手紙では説明できないくらいに不思議な人。あの人、いったい何だったんだろう・・・
 私には神のように見える。いや、神っていうのはちょっと違うか。寿福寺に眠る数え切れないほどの魂の代表者みたいな人。あなたには何のことやら、よく分からないかもね」
 条件反射的に「山本耕二」をクリックしてそのページを開く。そこにはこのカメラマンのプロフィールが写真と共に紹介してある。やはり紺のハンチングをかぶり鼻と顎には白髪交じりの髭を生やしている。そうして深海魚のような表情をこちらに向けている。

鎌倉物語 112

 手紙を封筒にしまいながらこの先どうするべきかを考える。だが慎重さを求める心とは裏腹に身体は勝手に動き出す。どこへ行けばいいのかさえわからぬまま照明をすべて消し、財布と携帯電話だけを持って僕は外に飛び出した。
 階段を駆け下りた所にはレストランがあり、フロントから漏れる照明だけがほのかに降りかかっている。大きく取られた窓の外には夜明け前の湘南の海が横たわっている。もはや月の姿はどこにも見えない。明子は昨日の夜ここで僕への手紙をしたためたのだ。
 フロントには人の気配はない。その奥は厨房とつながっているらしく、なにやら料理を作る音が聞こえる。パンの焼ける匂いも漂っている。僕はふと昨夜客室に戻ってきた時に明子が支配人について語ったのを思い出す。
「あの人、たしかにちょっと偏屈なところがあるけど、話してみれば意外とまともな人よ。それに詰所には奥さんもいて、とても気の利く人だったわ」
 そういえば明子は「調べたいことがあったからパソコンを借りた」とも言っていた。
 僕はフロントに駈け寄り呼び鈴を押す。だが厨房にいる人は料理を作るのに夢中なのか気づいてくれない。しかたなく大きな声を出す。すると返事があって、奥から例の支配人が顔を覗かせた。星条旗の三角巾を頭に充て、白いエプロンを腰に巻いている。この人は調理も担当するのかと驚きを感じたが人間観察に時間を割いているゆとりもない。
「昨日の夜、女性が尋ねてきたと思うんですが」と僕は訊いた。すると支配人は表情1つ変えず、「ええ、たしかに。お客様のお連れの方です」と僕の顔を見ながら例のぱさついた口調で言った。「調べたいことがあるからパソコンを貸してほしいとおっしゃいました」

鎌倉物語 111

 文章を書いていると時間の経過を忘れるものね。あなたはもうとっくにお風呂から上がっていることでしょう。そろそろこの辺でおしまいにするね。
 3年前あなたと出会った瞬間、心が大きく波打ったのを覚えています。あなたには言わなかったけど、あなたはあの人と似ているのです。身を隠して生きてきたつもりだったのに、実はあの人と再会できることを密かに期待していた自分にその時気づきました。
 あなたとの時間を過ごしていると、東京や福井での生活を何度も思い出すことができた。そうしていつしか私は以前の自分の一部を取り戻していた。信じられないことだった。だから私はあなたから離れる時機をついつい先送りしてしまいました。
 去年だったかしら、あなたは結婚しようと言ってくれたね。私、素っ気なく断ってしまったけど、実は心が燃え上がるくらいに嬉しかったのよ。正直なところ本気で揺れました。
 でも揺れれば揺れるほど、この国の科学技術の犠牲になったあの人の顔が浮かんできて、やっぱりあなたのやさしさの中に思い切って飛び込むことができなかったの。
 これ以上あなたと一緒にいてはいけないと自分を責めたのはあの時のことだった。でもそれでもどうしてもあなたに会いたくて、心と体がいうことを聞いてくれなかった。甘えがあったのね。一体自分は何をしたいのだと、あなたの部屋を出て家に帰りながら毎日のように自問自答したわ。
 あなたのことは終生忘れられない。忘れられるはずがありません。だけど私はあなたの知らないところに旅立ちます。そうして心静かに自分を見つめ直します。あなたはまだ若い。思う存分人生を楽しみ、幸せというものをつかみ取ってほしいと心から願います。ありがとう。そして、さようなら。  明子 

鎌倉物語 110

 ほら、私って、因縁とか必然性とか、その手のことを信じるタイプでしょ。だから今回、あなたと2人で鎌倉に来たというのも、私の人生にあらかじめ組み込まれていたことだって思えるのよ。すべての場面が印象的だった。でも、特に気持ちがよかったのは、あなたも気付いているとおり、寿福寺なの。
 私、鎌倉には強い思い入れがあるのよ。あなたには内緒にしてたけど、私たちの結婚生活は実はここから始まったの。彼が亡くなった後に訪れていたのは、彼の面影を探すためだった。だのに不思議と寿福寺だけには行っていない。今思えば、それも今日の経験を導くための伏線だったんじゃないかとさえ思えてしまうほどよ。
 山本さん、不思議な人です。ちょっと、この手紙では説明できないくらいに不思議な人。あの人、いったい何だったんだろう・・・
 私には神のように見える。いや、神っていうのはちょっと違うか。寿福寺に眠る数え切れないほどの魂の代表者みたいな人。あなたには何のことやら、よく分からないかもね。とにかく私はあの人の話を聞きながら気持ちよくなったの。特に「抜ける」という言葉。これまで私の中に少しだけ残っていた生と死の間の壁がすうっと取り払われた感じがした。
「人は死ぬために生きるのだ」
 あの時私はそんな声を聴いたのよ。その瞬間、死ぬことが怖くなくなった。あ、でも、心配しないで。何も私は今から死のうとしているわけじゃないから。もっとひたむきに自分と向き合おうと思うの。自分の知らない土地に移って本を読みながら暮らすつもり。この世にはまだ多くの本が眠ってる。私は本の中に生き、そこで多くのことと出会い、そしてその時が来れば静かに死んでいくわ。

鎌倉物語 109

 要するに、私は普通に生きていくのが難しい人間なの。「一般社会」の中に紛れ込んではいけないのよ。いくら説得されてもどうすることもできない。理由だって説明のしようもないし。ただ「自分は生きるのが難しいのだ」という思いがずっと私の中に渦巻いてるだけ。努力とか気力とかで何とかなるものでもないのよ。あなただって分かっているはず。そういう星の下に生まれてきたのだと寂しく笑うしかない。
 若い頃は憤りの中で生きていた。主人は犠牲者だっていう無念がずっとあったから。彼は絶対に死にたくはなかった。ましてやあんな形で。でもこの世に大きな未練を残したまま旅立ってしまった。だから私は、せめて彼を私の中で生かしておいてあげたいって、そんなたまらなさを抱えて生きてきた。
 でもね、時間の経過と共に心というのは少しずつ形を変えてゆくものなのね。何年も同じたまらなさを抱えながら生きるのはつらいもの。それで、苦しみを緩和する方向に心が本能的に動くのかもしれない。
 ある時、彼の死を受け容れている自分に気づいたの。心が不思議なほど穏やかになってたのよ。初めはそんな自分に疑いをもったわ。でもね、いろいろな本を読んでいると、それはごく自然な変化だったんだって思えるようになった。つまり生きることと死ぬことには、そんなに大きな差はないのよ。怖れたりするから死は暗いのよ。そうじゃなくてきちんと受け容れることができれば、死はもっと身近に感じられる。
 そういえば同じようなことを言っていた人がいたわよね。さっき寿福寺で出会った山本耕二っていうカメラマン。あの人は死を受け容れることを「抜ける」と表現していた。

鎌倉物語 108

 それはただの白い封筒だったが僕の手にはずっしりとした重みを与えた。明子を追いかけなければという焦りもあったが、彼女の心情をまず理解するのが先だろうと思い直し、とりあえずベッドに腰掛け封を開けた。指先が震える。中には便箋が3枚入っている。明子らしい端正な細い文字が白い紙の上に整然と並んでいる。僕は大きく息を吸ってから文面に目を通す。

貴史君へ

 突然なことでびっくりしてるだろうけど、私、だいたい分かってるのよ、あなたが感じてること。私たちはじきに別れるんじゃないかってことよ。じつは、私も同じ思いを抱いています。
 別れたいというのではなくて、別れなければならないのよ、私たちは。
 今私はホテル「NAGISA」の1階のレストランにいます。あなたはお風呂に入ってる。たぶん、湯船に浸かってボーッとしてるんでしょうね。
 ここからは夜の相模湾がよく見えるわ。あ、そうそう、あの支配人、たしかにちょっと変わってるけど、話してみるといい人みたいよ。この席だって快く貸してくれたしね。
 ここはとってもすてきなホテルよ。いいホテルをとってくれてありがとう。あなたには感謝しきりです。こんなできそこないの私にずっとやさしくし続けてくれて、とっても嬉しかった。でも、その分申し訳ないっていう思いもあるのよ。
 これ以上あなたのやさしさに甘えるのはよくないわ。あなたの人生を狂わせてしまう。

鎌倉物語 107

 ベッドから跳ね上がりサイドテーブルの時計に目を遣る。4:46という無表情な青い数字だけが闇に浮かび上がっている。フットライトを点灯すると客室の様子がぼんやりと照らし出される。ベッド脇に置かれていた彼女のボストンバッグがまず見あたらない。クローゼットにかけてあったコートも、洗面台の上の化粧品も、それから履き慣れた感じのスニーカーもすべてなくなっている。部屋で履いていたスリッパはきちんと揃えて置いてあり、ソファの上に脱ぎ捨てていた僕の服もそこに畳んである。何から何までが明子の消滅を物語っている。
 僕はまずしまったと思った。慌てて電話をかけてみる。しかし彼女は出ない。出るわけがない。
 つまり予感は的中したのだ。僕はずっとこの瞬間を想像し続けてきた。だが現実と直面した瞬間、予想をはるかに超えた不安に駆られる。だいいち僕は彼女のマンションに行ったことがない。把握しているのは僕のアパートから車で30分の所という情報だけだ。すなわち電話の寸断はとりもなおさず明子との寸断を意味している。僕たちは3年間も一緒にいながら、じつはとても脆いつながりしか共有していなかったことを痛感させられる。今思えばすべて明子の思惑だったのだ。
 しかしだからと言って何もしないわけにはいかない。この時刻だ。明子はまだ鎌倉のどこかにいる可能性が高い。僕はほとんど無意識のうちに服を着、靴下に足を通した。鏡を見るとずいぶんと寝ぐせが立っているようだがこの期に及んで髪になど頓着していられるはずがない。急いでスニーカーを履き外に出ようとしたその瞬間、テレビの横のスペースに封筒が置いてあるのが目についた。明子からのものだった。

鎌倉物語 106

 それにしても鎌倉の夜は静かだ。これまで訪れたどの場所にもない独特の空気が流れているようだ。
 さっき明子が点けたラベンダーのキャンドルが揺れている。その香りに包まれながら、月明かりにうっすらと映し出された彼女の寝顔に話しかける。
「なあ明子、君の口から『孤独』なんて言葉は本当は聞きたくはないんだ。あの夜、仙台のバーで僕はよほど言いたかった。死んでいった人たちの分まで人生を全うしてみてはどうかと。それこそが君の存在意義じゃないかって」
「僕は心に闇を抱えたままの君をまるごと包み込むことができる。なぜかって、それは僕も同じように闇を抱えて生きてきたからだ。僕は小さい頃から死を怖れ、友達とも話題が合わなかった。さみしさを忘れるために愛に溺れ、その結果愛したはずの人を裏切ったことさえある。君にも少しは話したはずだ」
「過去を振り返ると胸が痛くなる。自分は数え切れないほどの嘘をつき、そうして多くの人を騙し、傷つけてきたんじゃないかと思えてならない。君を愛するということは、そんな過去を埋め、今を生きることに専念するってことでもあるんだ。だから僕は君がどうあろうとも心底愛したいと願っているし、またそれができると思っている」
 そこまで話した時、遠くに潮騒の音を聞いたような気がした。
 いつの間にか僕も眠りについていた。

 僕が抱いているのは明子だとばかり思っていた。しかし、懐に包んでいるのは彼女ではなく、不安という名の塊だった。彼女の姿はすでにここにはない。キャンドルは最後まで燃え尽き、ラベンダーの香だけがごくわずかに残っている。

鎌倉物語 105

「つまり私とつながっていた人はすべていなくなったというわけ」と明子は言い、カクテルグラスに視線を落とした。仙台のホテルはやはりどこかひんやりとしていた。「しかもお母さんがなぜ死んじゃったのか、伯母さんですら詳しくは知らなかったの。事実は藪の中よ。秘密にしなければならない何かがあったのよ、きっと」
「お父さんが言うとおり、本当に病気だったのかもしれない」と僕は言った。
「ただ、問題なのはその病気よね。私を生まなければひょっとして母は助かったかもしれない。そういうケースってけっこうあるじゃない」
「もちろん。でも、お母さんは君をどうしても生みたかったんだ。それは命がけの選択だったんだよ」
 僕がそう言うと明子は唇の両側を無理矢理つり上げて、笑顔のような表情を作った。それから頬杖をついてこう言った。
「それは分かってる。私、お母さんの分まで生きなきゃって、いつもそう言い聞かせてるのよ。でもね、そうやって肩に力を入れて生きていると、救いようのないくらいにむなしくなる時もあるのよ」
 僕は彼女の目元の影を見ながら自分のマティーニに口を付けた。
「35歳を越えた頃から、むなしさはどんどん深刻になってきてね。ほら、自分の人生の残り時間というものをそろそろ数えるようになるでしょ。そうするとね、いったい自分は何のために生まれてきたのか、その意味を考えるのよ。私には両親も子供もいない。まったくの孤独。だから自分にはこの宇宙の中における存在意義などないんじゃないかって、そんなふうに思えて仕方なくなるのよ」

鎌倉物語 104

 父を敬愛していたわけではなかった。むしろ敵意のようなものさえ覚えていた。だが、突然の父の死に直面させられた時、再びあの言葉を思い起こすことになった。
「その人との最大の出会いは、死別である」
 伯母は心から慰めてくれ、哀しみを共有してくれた。彼女は父の実姉で、父とは違って人の心の痛みに寄り添うことのできる人だった。しかしもはやその優しさに溺れることもできないと思った。伯母には夫がいて、孫もいる。
 葬儀を終えた後、明子は再び身辺整理をはじめた。新しい土地に移るのは今しかないと思った。それも自分とまったくつながりのない土地に。
 本棚の書物を整理しているとたまたま高校生の時に使っていた地図帳が出てきた。明子はふと手を止めて、それを畳の上に広げた。眼下にはすらりと長い日本列島が横たわっていた。
 直感的に西に行きたいと思った。日差しが降り注ぐ温かな地に。本州を西に向かって指でなぞると、山口に突き当たる。さらに南下して九州に上陸することも考えたが、指は山口で止まったままだった。そこがどんなところか全くイメージできなかった。以前福岡に行った時に新幹線で通過したことはあったが、降り立ったことは一度もない。
 ふと心に浮かぶのは明治維新の時の長州藩だった。吉田松陰や高杉晋作の肖像が脳裏に出てくる。それは俗世を越えた、どこか超然とした表情だった。
 経済的には心配なかった。国に仕えた夫と実業家の父を同時期に亡くしたことで、一生暮らしても有り余るほどの資金が手許に残されていたのだ。ならば、せめてそれらの遺産を大事に使いたいと思った。

鎌倉物語 103

 サイドテーブルの上に置かれた時計は1:25を示している。バスルームでうたた寝をしてしまったので目が冴えて眠れそうにない。
 かすかな寝息を立てている明子の頬に口を付ける。やわらかくてぬくもりに満ちた頬だ。窓から差し込む月の光は彼女の寝顔を青白く浮かび上がらせている。そのさまをぼんやりと眺めていると、明子は半分生きているが、もう半分は死んでいるかのように映る。
「生きているとね、悪いことってけっこう重なるものなのよ」
 仙台のホテルの地階のバーで、明子はぽつりとこぼした。それはサエキ氏についての話が一段落ついた時のことだった。彼女はピーチツリーの入った甘いカクテルを飲んでいた。小さめのテーブルには、たしかチューリップの形をしたステンドグラスのライトが置かれ、寂しげな彼女の顔を幾つかの色で濡らしていた。
「やっぱり、運ってあるんだと思う。そうして、悪い運は次の悪い運を引き寄せる。合併症みたいなものよ。だからそういう時は、できるだけ何も感じないようにして、ひたすら身を縮めて悪い運が去るのを待つしかないのよ」と明子は言った。「紫式部が貫いた立場よ。『渦中の傍観者』っていうスタンスね」
 何のことだかよく分からなかったが、その後に続く話を聞いた時になって、彼女の言いたかったことを呑み込むことが出来た。
 サエキ氏が亡くなって1年も経たないうちに明子は父親を亡くした。何者かによって殺されたのだ。自宅から出たところをピストルで撃ち抜かれた。経営していた建設会社の工事発注に伴う利権がらみの事件のようだった。警察も総力を尽くして捜査してくれはしたものの結局犯人を捜し当てるところまではいかなかった。闇組織の犯罪だったのだ。

鎌倉物語 102

 亡くなる寸前の彼はもはや言葉すらかけられぬほどに憔悴しきっていた。あらゆることに対して絶望しているように見えた。その夜は夕飯にもほとんど口をつけず、シャワーを浴びた後で頭が痛いと訴え始めた。病院に行くことを勧めたが、この頭痛はずっと続いているものでそのうち治まるだろうし、何よりこんな大変なときに休むわけにはいかないからと言って、少量のブランデーをグラスに注いでそれを口にした。
 ブランデーを飲み終えた彼は「疲れたよ。おやすみ」とだけ言い残して寝室に消えた。それが最後の夫の姿だった。

 葬儀を終えた後も、明子は身辺の整理のためにしばらく敦賀の家に残った。今思い起こしても何の記憶もないまさに空白の数日間だった。
 その1ヶ月後に伯母を頼って横浜に移ることにした。仏壇の脇に彼の位牌と遺影を置きそれに手を合わせる日々が続いた。おそろしいくらいに静かな日々だった。その時になって初めて夫は死んだのだという事実を目の前に突きつけられたような気がした。
 再び孤独の淵に突き落とされたことを自覚した途端に、失われたはずの夫の存在が心身の隅々にまで切ないほどに染み渡った。彼との想い出は源泉のように次から次へとあふれ出てくる。意外にも日常のありふれた何気ない場面ほど痛切に胸に刺さるのだった。
 夫の前で手を合わせるうちに、心の中に自らの声を聞くようになった。夫をほんとうに愛するのはこれからなのかもしれないと。すると、それと同時に、中世文学の研究者である大学の教授が過去に言った言葉を連鎖的に思い出した。
「その人との最大の出会いは、死別である」

鎌倉物語 101

 その花瓶というのは実家の物置に長くしまわれていたもので瓜実の形をした青磁だった。明子は割れた破片を拾いながら、嫌なことでも起きなければいいがと心につぶやいた。
 サエキ氏から帰りは遅くなるという電話がかかってきたのは夕方を過ぎてからだった。彼がそんな電話をしてくることなどなかったので何か特別な用事でも入ったのだろうという想像はついた。ところが夜になって、悪いけど今日は帰れそうにないという電話がかかってきた時、ただならぬ事が起きたのだということを事実として呑み込んだ。切羽詰まった彼の声の向こうには、けたたましい喧噪があったのだ。
「何かあったの?」と訊くと、彼はため息をつき、声を一段低くして答えた。
「しゃれにならないことが起きた」
 事故の詳細については記憶が定かではない。何しろ、目には見えない科学の世界で起こったわけだから、どんなに分かりやすく解説されても理解には限度がある。ただ間違いないのは「科学の限界点を見たい」と意気込んでいた夫の身に、皮肉にもそれは崩れかかってきたということだ。彼もいつの間にかバベルの塔を積むようになっていたのだ。
 結局その日から彼は3日間家に帰らなかった。原発の事故ゆえ当然マスコミは狂ったように騒ぎ立てた。明子はテレビの画面をたよりに、必死に奔走する夫の姿を想像するしかなかった。
 事故後はじめて帰宅したとき、彼の頬はやつれ果て顔の半分を髭が覆っていた。目の前にいるのが本当に夫なのか信じられぬほどだった。次の日からまた3日間、彼は家に帰らなかった。そうして次に姿を見た日の夜、彼はベッドの上で冷たくなっていた。

鎌倉物語 100

 せっかく購入したマンションだっがわずか3年で明け渡すことになり、2人は荷造りをして福井に移ることになった。一抹の不安を抱えながらの引っ越しだったが、実際に赴いてみると新天地は予想していた以上に住みやすかった。
 国が2人のために用意していたのは敦賀市の中心にほど近い新築の一戸建てで、最新の家財道具も一通り揃えられていた。2階に上がれば管理の行き届いた公園が眼下に広がり、その向こうには敦賀湾の青さを望むことさえできた。整然とした敦賀の街にも好感が持つことができた。普通に生活するには十分な環境が整っていた。交通の便も思ったほど悪くはなく、特急を使えば京都まで1時間足らずだったし、北陸自動車道に乗れば名古屋も射程圏内に入る。2人で生活するにはむしろ快適であった。
 とはいえ明子には嫌な予感が終始つきまとっていたというのもまた事実だった。もちろん原発そのものに危険性を感じていたのはいうまでもない。しかしそのことよりも気がかりだったのは、サエキ氏の様子に微細ながらも変化が見られるようになったことだった。 
 組織から期待されればされるほど、彼は自らの幅を広げようとしていた。眼光は鋭くなり、会話の大半を仕事の話題が占めるようになった。彼がゆとりを失っているのは明らかだった。
 この世代の男の人が仕事に夢中になるということは世の常であるし、それ自体決して悪でもない。それは明子にも理解できた。ただ彼女の心を曇らせたのは、幼い頃の父親の記憶とオーバーラップする部分を感じたからだ。
 サエキ氏の勤務する高速増殖炉で大事故が起きたのは転勤から2年後の冬のことだった。その日の朝彼を見送った直後に、明子は気に入っていた花瓶を落として割ってしまった。
作者

Author:スリーアローズ
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