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鎌倉物語 158

 そう言われるとあべこべな感じもしてくる。
「古い時代の影響があるのかな」と明子は漏らす。「平等院に行ったことある?」
 僕は首を傾げて考える。京都には何度か行ったことはあるが平等院を見たかどうかはあやふやだ。寺院にはそこまで興味のなかった僕は、頭の中に残っている数々の仏閣を峻別することができない。
「平等院鳳凰堂に安置されている阿弥陀如来坐像は私の中では3本の指に入る仏像だけど、あれもたしか定印を結んでた」と明子は回想する。「あの仏像は『源氏物語』の時代のものだから、浄土宗も浄土真宗もまだなかった頃に完成したのよね。つまり古い密教の影響の下で作られてるのよ」
 そう言って明子はボストンバッグを右手に持ち替えた。
「すべての民衆を救うという浄土宗の教えがまだなかった時代の阿弥陀如来なら、自らが瞑想して行を修めるというのはおかしくないことなのよね」
 すると突然強風が吹いて台座の周りの土埃を巻き上げる。観光客たちが騒ぐ中、明子はジャケットの襟を立てて首をすぼめる。
「こんなにも有名な大仏の印相なのにこれまでは気にもしなかった」と明子は埃が入らないように目を細めて言う。
「もちろんその時はサエキ氏も一緒だったんだね」と僕は強風が木立の中に吸収されて行った後でつぶやく。言わなくてもいい言葉だったがはずみで出てしまった。死者に対する優越があったのかもしれない。
「彼は信仰には興味がなかったけど、仏像は好きだったの」と明子は淡雪のような笑みを浮かべて言った。「そういえば、2人で北鎌倉を歩いている時にたしなめられたことがある。『どうせ人間は寿命が来たら死ぬんだ。今からあれこれ考えたって仕方ない』って」
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鎌倉物語 157

「何度かここへ来たことがある」という明子の言葉が耳に入ると同時にサエキ氏の幻影が脳裏に浮かび上がる。さっき明子は「NAGISA」のレストランで、サエキ氏は鎌倉をこよなく愛していたと語ったが、ここの大仏にも2人で訪れたことは当然あるだろう。昨日の円覚寺だってそうだ。てっきり明子1人で訪れたと決めつけていた僕の心に、突如として重くて暗い風が吹き込んでくる。誰かに嫉妬するだなんて、ましてや死者に嫉妬するような心がまだ残っていただなんて、思いもしなかった。
 明子は拝観受付で手にした寺のパンフレットに目を落としている。そして「このお寺は浄土宗よね」と確かめるようにつぶやく。
「浄土宗の本尊って阿弥陀如来が一般的なの。宇宙の中でもはるか西方にいらっしゃる慈悲深く寛容な仏様よ。この大仏もそうね。でも、それにしては、印相に違和感があるのよ」
「印相?」と僕は言う。
「手の形よ。実は仏像の手の形っていろいろな意味が込められてるのね。私の知る限り、阿弥陀如来像は死者を招き入れるように両手を縦に広げるような印相を結ぶことが多いのよ。それを来迎印って呼ぶんだけどね」
 目の前の大仏はそんな手をしていない。腹の前で両手を上向きに重ね合わせている。そうして人差し指と親指で輪を作っているだけだ。地味で真面目な印象だ。
「これは定印って言って、瞑想している状態を表しているのよ。修行中ってことね。つまり元々阿弥陀如来というのは寛大な心で死者を受け入れる仏なのに、この大仏さんはまだ瞑想中なのよ。なんだか変じゃない」と明子は言う。

鎌倉物語 156

「大仏さんもさぞかし寒いだろうな」と僕は同情を込めて言った。目つきがずいぶんと鋭いからそういう印象を抱くのかもしれない。それに心なしか前屈みになっているために、たとえばストーブの前で暖を取る人のように見えなくもないのだ。
 近くに歩み寄れば、その体は青緑がかっているのが分かる。より寒々しい。そしてその不機嫌そうな仏像の周りでは観光客が写真を撮ったり物珍しそうに指をさしたりしている。動物園のパンダさながらの状態だ。
「仏殿が飛ばされたからこんな目に遭うんだろうな」と僕は言った。
 すると明子は「奈良の大仏だって野ざらしになればこんな風に扱われるのよね」と僕に同調した。「ただ、奈良の大仏は国家鎮護のために作られたわけよ。だから歴代の天皇を始め、将軍や有力寺院もこぞって崇め奉ったのね。おそらく奈良の大仏殿が飛ばされてもすぐに再建されるはずよ。財力があるのよ。逆にこの鎌倉大仏の建立には謎めいた部分が多いの。一説には頼朝が奈良の大仏に憧れて作らせたと言われるけどそれも定かじゃない。おそらく一僧侶の努力で寄付を集めて造られたんじゃないかしら。だからこんな風になってるのよ、きっと」
 僕はいささかあわれにさえ映る国宝の仏像の周りをゆっくりと歩いてみた。びっくりしたのは背面には内部への入口があって、そこに何人かの人が列を作って待っていることだった。僕の知っている国宝というのはたやすく手を触れることができるものではなかった。ところがこの大仏ときたら胎内まで覗かれるのだ。 
 一周して再び正面に戻って来た時、明子は首をひねりながら大仏の手元に目を遣っていた。それから彼女はしんみりと言った。
「何度かここへ来たことがあるけど、今初めて気付いたことがある」

鎌倉物語 155

 その交差点を過ぎると観光客向けの商店がさらに増え、人も賑やかになる。今日は平日だというのに予想以上の人だ。僕はふとホテル「NAGISA」の奥さんが平日にはなかなか客が来なくなったと寂しげに述懐したのを思い出す。
 だとすればこの人たちは一体どんな所に泊まったのだろう? 
 鎌倉にはその知名度の割にホテルは決して多くない。しかも高級なリゾートホテルかユースホステルのような安宿かという二極化が起きている。
 その観点からすれば「NAGISA」はどちらにも属さない。お世辞にも高級ホテルとは呼べないが、かといって価格は安くない。あるのは静かな空間と、ぶっきらぼうながらこだわりをもつ支配人、それから心のこもった接客をする奥さんだ。彼らは古い施設を大切に磨き続けている。そして豪華ではないが彼らにしか作ることのできない料理を客に提供する。明子がホテルを出た後に涙をするようなもてなしがそこにはあった。
 だが「NAGISA」はここにひしめいている観光客からは選ばれない。僕にはそのことが何かを象徴しているように思われた。今の社会において人々が忘れている何かだ。それが何なのかうまくまとまらないが、とにかく僕は「NAGISA」を支持する立場にいたいと思う。
 そんなことを考えながら歩を進めていると、高徳院の朱塗りの仁王門はすぐ目の前に迫っていた。門を抜けると白い石畳がまっすぐに伸び、その先にはお馴染みの大仏が鎮座している。曇天に紛れそうな灰色の体を風にさらしながら鋭い眼光でこちらを見下ろしている。

鎌倉物語 154

 長谷駅のホームに降りると吹き抜ける強風にさらされた。明子は改札に向かう途中で足を止め、ボストンバッグから昨日のベージュの帽子を取り出して深めにかぶった。風で髪がばたつくのを抑えようとしたのかもしれないし、人目を忍ぼうと考えたのかもしれない。
 僕たちが乗ってきた列車が行き去った後、反対側のホームに停まっている車両が目に飛び込む。アイボリーの車体には「明治カール」のロゴが大きく広告されていて、カールおじさんとその子供たちが富士山や大仏のイラストに向かって楽しそうにピクニックしている絵が描かれている。僕が想像していた江ノ電がそこにある。
 駅舎を出ると北側に向かって通りが伸びている。その両側には土産屋や雑貨屋、それから日本料理屋などが軒を連ねている。
「この道が大仏に続くんだな」と僕は言う。狭い歩道には思っていた以上の観光客が歩いているので僕たちはゆっくりと進まなければならない。
「大仏って言うけど、正式には高徳院というお寺なのよね」と明子は周りを歩く人たちに遠慮するかのように淡々と話す。「元々は東大寺みたいな大仏殿があったんだけど、台風か津波かで流されちゃったのよ」
「それで仏像だけがそこに残ったというわけなんだな」と僕は言った。
「つまりこの道は高徳院の参道になってるのね」と明子は道路に視線を落としながらつぶやいた。風は山から海の方向に吹いている。つまり人々は風に向かって歩いているために総じてうつむき加減だ。
 すると「長谷観音前」の大きな交差点に「国宝鎌倉大仏まで徒歩5分」の看板が現れる。

鎌倉物語 153

 ホームにはすでに列車が待っていて、アイドリング音を唸らせている。緑色のソリッドカラーで塗られた車輌はフロントガラスが大きく取ってあり、どこかしらレトロな風格を漂わせている。
 車内は乗客で賑わっているが満席ではない。僕たちはちょうど2人分空いていた席にはまり込む。互いの荷物を揃えて足下に置いたのと同時に発車のベルが鳴り始める。初老の女性が1人、慌て気味に駆け込んできたのを最後に扉が閉まり、列車はのっそりと動き出す。
 駅を出ると窓の外にはどこにでもある住宅地の光景が広がる。家々が間近に迫り、生活の匂いさえ感じられそうだ。座席にもたれると心にはゆったりとした気分が入り込んでくる。
「もちろん、大仏に行くのは初めてじゃないよね」と明子に尋ねる。
「2回か3回は行ったかなあ」と彼女は答える。声が震えているようなのでさっきの涙を引きずっているのかと少し心配したが、どうやら列車に揺られているだけのようだ。
 ほどなくして和田塚の駅に停車する。きわめて簡素なホームが設けてあるものの、周囲は住宅地の路地裏にしか見えない。こんな狭苦しい場所に駅があるということが驚きだ。すると扉が開き、ステッキを持った老人男性と子供を抱きかかえた女性が新たに乗り込んでくる。そして再び列車は走り出す。遊園地の乗り物にでも乗っているような感覚にとらわれる。
 由比ヶ浜の駅を過ぎると住宅地はいったん終了し、辺りは次第に開け始める。道路には車が走っていてレストランやスーパーマーケットも見える。すると隣で明子が「次で降りるのよ」とささやく。長谷駅のホームには何人かの客が僕たちの列車を待っている。

次作のお知らせ

「静かな散歩道」に同行してくださいまして、ありがとうございます。
「鎌倉物語」の次の舞台は京都です。
 今回の旅で何度も「鎌倉と京都はつながっている」と述懐する明子。2人を取り巻く世界は必然的に京都に移っていきます。
 明子の魂の救済を願う僕は、彼女と共に時空をさまよいます。
 千年の都で出会った女性とは?
 2人の旅はいよいよクライマックスを迎えます。
 
 「京都物語」
 どうぞ、ご期待ください。 
                 

 
  

鎌倉物語 152

 タクシーは快調に若宮大路を北上し、ほどなくして鎌倉駅に到着した。平日の午前とあって思ったよりも人は少ない。サラリーマンというよりは一般客の姿が目立つ。車内の時計はもう少しで10時になろうとしているところだ。
 駅前のロータリーに進入した時、昨夜入ったマクドナルドの看板がまず目に飛び込む。明子が寿福寺での話をしてくれた思い出深い場所のはずなのに、一晩過ぎると、どこにでもあるファストフード店にしか見えないから不思議だ。
 その明子はというと、黙って窓の外を見ている。涙は乾いたようだが、そのまぶたは雨上がりの軒先のような風情を醸している。僕はさっきから彼女の涙の意味を考える。感激したのか、それとも哀しかったのか? しかしどれだけ考を巡らせたところで答えは明子にしか分からない。いや彼女自身にも分からないかもしれない。
 タクシーを降り、鎌倉駅の駅舎に入る。始発の時間にここに駆け込んで明子を捜した記憶が脳裏を走る。あの時からするとごく平和な風景の中に僕たちはいる。
「提案があるんだけど」と僕は言う。明子は「なに?」と優しい声を返す。
「せっかくだから、大仏を見たいんだ」
 最初彼女は僕の目をしげしげと見つめて黙っていたが、まもなくして口元をほころばせて「いいよ」と言った。
「で、どうやって行けばいいんだろう?」と僕が言うと、明子はすぐに「江ノ電に乗るのよ」と答え、券売機で切符を購入した。それから短い連絡通路を歩ききった所に江ノ電の乗り場は現れた。

鎌倉物語 151

 チェックアウトを済ませた後、支配人にタクシーを呼んでもらった。その間僕たちは再びレストランの席に座って待つことにした。
「いいホテルだった」と明子はつぶやいた。砂浜に打ち上げる波が白い飛沫をあげている。どうやら風が強くなってきたようだ。空の灰色も濃くなっている。
「鎌倉に来てから、行く所すべてが印象深い」と明子は言う。窓ガラスに書いてある文字を読むかのような口調だ。「偶然とは思えないようなことばかり」
 そうしていると支配人がタクシーが到着したことを告げた。僕たちは揃って立ち上がり外に出た。思っていたよりも風が冷たい。早朝には感じなかった磯の香りが鼻先にまとわりつく。僕は改めて支配人に礼を言う。彼は相変わらず軽石のような表情で直立して「恐縮でございます」とだけ返す。僕と明子は階段を下りてタクシーのそばに立つ。支配人と奥さんも見送りについて来てくれた。
 後部座席に座り、ドアを閉め、支配人に向かって改めて頭を下げる。すると彼の表情はあたかも熱で氷が溶けるかのごとくじわじわと緩んでいく。タクシーが動き出したとき、それは「笑顔」と言ってもいい表情になっていた。僕はその中に少年の顔を見た気がした。
 明子は振り向いて、手を上げ続けている2人に応えている。結局2人は完全に見えなくなるまで僕たちに手を振り続けてくれた。明子は前を向き、大きくため息をついて、「本当にいいホテルだった」と吐き出した。
 彼女の頬にはまた涙が伝っている。これまで涙など見せたことのない明子が、鎌倉に来てこれで3度も泣いたことになる。僕は胸のざわめきを抑えるのに精一杯だった。

鎌倉物語 150

 支配人はふっと顔を上げ「お、これは失礼いたしました」と言って立ち上がり、寿司でも握るかのように手際よく雑巾を絞ってバケツにちょん掛けした。それからポケットのハンカチで手を拭きながらフロントに戻った。
「お世話になりました、いろいろと」と僕が言うと、支配人は表情1つ崩さずに「どうも、ありがとうございました」と例の張りのある声で応じた。早朝に地下のガレージからマークⅡを叩き起こし、鶴岡八幡宮まで送ってくれたことを完全に忘れているのではないかと思わせる反応だ。
 すると奥の詰所からさっき料理を運んでくれた女性が出てきた。支配人の奥さんだ。彼女はぶっきらぼうな主人とは対照的な、ほのぼのとした笑顔をこちらに向けている。「また、よろしくお願いしますね」と、どちらかというと明子の方を向いてそう言った。支配人は少しばかり背中を丸めてお金を数えている。僕はさっきから疑問に感じていることをこの際彼に尋ねてみる。
「今日は僕たちの他にお客はいないんですか?」
 すると支配人は視線を紙幣に落としたまま、「ええ、その通りでございます」と答えた。
「土日には古くからのお客様がちらほらお見えになるんですけどね。今日みたいな平日に来られる方はすっかり減ってしまいました」と支配人の横で奥さんが代弁した。話の内容とは裏腹に表情はにこやかだった。
「すてきなホテルなのに」と明子は嘆くように言った。奥さんは心底嬉しそうな表情を浮かべつつ「でも今は、こういう時代ですから」と言った。

鎌倉物語 149

 それから僕たちはしばらく海を見ていた。おそらく互いに別々のことを考えているのだろう。しかしそこには数学の部分集合のように、どこか重なる領域があるということにも僕は気付いている。だから明子と一緒にいる時にしばしば感じるさみしさを抱くことはない。むしろほのかなぬくもりを共有さえしている。
 フロントに掲げられた古い掛時計は、後少しで9時を示そうとしている。この席に着いてからはや1時間半以上も経過したということになる。もはや明子の顔からは涙の跡は消え、正常な血流が戻ってきたのだろう、顔色も良くなっている。
「そろそろ行こうか」と僕は提案する。海を見ていた明子はゆっくりと視線を僕に向けて、「そうだね」と返す。
「ところで」と僕は続ける。「これからどこへ行こう?」
 それについて明子は考えているようだった。しかし取り立ててアイデアは浮かばないらしい。それで「何時までに君は帰ればいいのだろう?」と僕は聞き直した。
「そうねえ」と明子は言い、握りこぶしを作って唇の下に置いた。「何時までということもないけど、できれば早めに帰ってゆっくりしたいかな。昨日はけっこう歩いたからね」
 明子はそう言ってまぶたの力を緩めた。
 それから僕たちは部屋に戻った。ボストンバッグを床に置いた後で長いこと抱き合った。鶴岡八幡宮での明子とは別人のようだった。彼女の髪を頬で撫でながら、あれは夢だったのではないかと記憶を疑うほどだった。それから荷物の整理をした後、簡単に部屋を片づけて、チェックアウトのために1階に下りた。すると支配人が雑巾で床を磨いていた。

鎌倉物語 148

「かなり複雑な世の中だったんだなあ」という言葉が思わずこぼれる。すると「だからこそ本物の愛が生まれたのかもしれないね」と明子は小さく言う。
「たとえば不倫などの禁断の愛の中にも本物の愛はあると思うの。広い視点でとらえれば、愛がいつもモラルの内側にあるとは限らない。むしろ深い孤独や絶望を抱え込むからこそ心からの愛が芽生えるんじゃないかしら。愛は時にさみしさと表裏一体なのよ」
 明子の話を聞きながら、彼女は今、愛を求めているのだろうかと思う。しかしもしそうだとしても彼女の求める愛の形というものが僕にはつかめない。
「それで、結局静御前は斬られなかったの?」と僕は訊く。明子は「ええ」と言い、軽快な感じで頷く。「それほど頼朝は政子を頼ってたんだろうね。歴史上英雄と呼ばれる人にはたいてい陰で支える女性がいる。彼女たちは時に歴史を左右する助言さえもしている。まさに内助の功ね。まあ、それも1つの愛なのかもしれない」
 明子はそう言って目を細め「基本的に女は強いのよ」としみじみと述懐する。そして「私みたいにどうしようもなく弱い女もいるけどね」と付け加えて諦めたように笑う。それから彼女はうつろな目を海に向ける。灰色の空はいっこうに晴れる気配がない。
「実際に静御前が舞ったのも舞殿の辺りだと言われてるのよ。でもね、ここからは笑い話なんだけど、私がそのことを知ったのは主人が亡くなった後のことなの。結婚式の当日はそんなこと考えもしなかった。とにかく幸せだったから」
 僕はコーヒーを飲みながら湘南の海に長く伸びる逗子の海岸に目を遣る。白く瀟洒な逗子マリーナの建物がうっすらと煙っているのが見える。

鎌倉物語 147

「頼朝の前でそんな歌を詠んだわけだから、激怒されるのは当然のこと。ましてや幕府の拠り所となる八幡宮での出来事とあって、周囲は騒然とするのね。でもその騒ぎを鎮めた人がいる。誰でしょう?」
 分からない、といつもの返事をすると明子は指先の動きをぴたりと止めて答えた。
「北条政子。頼朝の妻で、後に執権政治を始める尼僧ね」
 政子と言えば実朝の母親だ。昨日寿福寺に彼女のやぐらあったのを思い出す。僕がそのことを話すと明子の表情は静止画像のように一瞬固まった。「寿福寺」という言葉に反応したのだ。少し間を置いてから彼女は唾を飲み込み、レモンティに口を付けた後、何事もなかったかのように話を再開した。
「頼朝のことだから、その場で静御前を斬り捨てるくらいのことはできたはず。それくらい彼もぴりぴりしてたのよ。将軍っていうのはそういうものかもしれないね」と、あたかも実体験を回顧するかのように言った。
「その緊迫した場面で政子は頼朝をなだめるの。『私が静御前の立場だったとしても、おそらく同じような行動を取るでしょう』って」
 明子はテーブルに置かれたフォークに優しいまなざしを送る。
「というのも、元々は政子も頼朝の愛人だったのね。彼女の父は朝廷の役人として平治の乱で破れた頼朝を伊豆に置いて監視する立場だったの。政子もその役に当たってた。それが、父の目の届かないところで政子と頼朝は恋に落ちてしまったの。その後朝廷の勢力が弱まって政局が不安定になり、2人は結婚するのよ。そういう経験をしているだけに政子は静御前と義経の境遇に同情するところもあったんだろうね」

鎌倉物語 146

「頼朝から討伐令が出された義経は兵力を建て直すために九州へ逃れようとするの。でも、そううまくはいかない。なにしろ全国指名手配の身だからね。それで一行は奈良の吉野山に身を潜めて機をうかがってた。その時に一緒にいたのが静御前ね。だけどそんな山奥でも追討を受けてしまう。義経はどうにか逃げ切ることができたけど、静御前は捕らえられてしまった。彼女は身重だったのよ」
 明子は両手をテーブルの上に出し、指先を小さく動かしながら話を続ける。
「そうして静御前は一緒に逃げていた母親と共に鎌倉に連行されて取り調べを受けることになる。で、話はここからよ。ある日頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した時に、静御前に舞踊を奉納するように命じるの。白拍子の中でも静御前は名手として知られていたみたい。彼女はそれを固辞する。そりゃそうよね。捕虜の女が政敵の前で舞えるはずなんてないもの」
「拷問みたいなもんだな」と僕はつぶやく。
「で、結局彼女はどうしたと思う?」
「難しい質問だ・・・。最後まで固辞し続けて処刑されるとか?」
 僕がそう応えると、明子はなるほどねと言って頷いた。
「でも答えはその逆。彼女は舞うの。すばらしい演舞をね。そして踊りに合わせて歌を詠むの。『吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき』ってね」
「どういう意味なの?」
「吉野山の雪を踏み分けて消えた義経の跡が恋しいっていう意味よ」

鎌倉物語 145

 そういえば明子は昨日も義経のことを話していた。たしか『源氏物語』から広がったのだがどこでどうつながっていたのか思い出せない。そのことを伝えると明子はざっとおさらいしてくれた。
「光源氏が正妻となる紫の上と出会うのが鞍馬寺よね。で、そこは義経が幼い頃に預けられてたお寺でもあるのよ」
「そうか、京都と鎌倉がつながっていたっていう話だったな」と僕が言うと明子は小さく頷きながら「それと、虚構の物語と現実の世界もね」と付け足した。
 僕は光源氏と源義経の姿を同時に思い浮かべながら残りのバターロールをまとめて口に入れた。
「義経は壇ノ浦の戦いで平氏討伐の最大の功労者だったのに、兄の頼朝はそれを良くは思わなかったのよ。どんどん世評を得てゆく弟が目の上のたんこぶだったのね。それで弟につらく当たるようになって、義経の方も自立を目指すようになった。そしてついに頼朝は義経を殺す命令を下す」
「まさに独裁国家だな」
「将軍ってそういうものよ。逆に言えば、そういうことができた頼朝はカリスマ性をもった指導者だったってことね。戦国時代を生き抜いたリーダーたちはたしかに傑物だった。でもその分多くの犠牲を払うことにもなった。義経もその1人。『判官びいき』って今でも言うけど、その判官っていうのは義経を指すの。彼は悲劇のヒーローなのよ」
 僕は彼女が再び昨日の元気を取り戻しつつあることが嬉しかった。まったく、歴史を語る時の明子ときたら、普段からは考えられないほどに生き生きとしている。

鎌倉物語 144

「鶴岡八幡宮で式を挙げるのは彼のたってからの願いだったの」
 明子がそう言ったところで女性がやってきて、僕のコーヒーと彼女の紅茶に新しいものを注いでくれた。
「ありがとう」と明子は女性に向けて言った。
「オムレツはお召し上がりにならないの?」と女性が尋ねると、明子は「もうじきいただくわ。でももし残すことになったらごめんなさいね。普段朝はあまり食べないから」と応えた。女性は自然な笑顔で頷いた後「ごゆっくり」と言い残し去って行った。この人はおそらく支配人の奥さんだ。明子はフォークでオムレツを小分けにして口に運ぶ。それをゆっくりと咀嚼してから話を続ける。
「あの吹き抜けの建物は舞殿っていうのよ。なぜそう呼ばれるか分かる?」
 僕はわからないと言った。
「じゃあ、静御前って知ってる?」と再び訊いてきた。僕は名前だけは聞いたことがあるが具体的に何をした人なのかはよく分からないと答えた。
 すると明子は「源義経の奥さん」とあっさり言った。「正妻じゃなくて、妾なんだけどね」
 明子はもう一切れオムレツを口にした。僕はバターロールをちぎってイチゴジャムをつけて食べた。
「静御前は白拍子と呼ばれる舞を披露する遊女だったの。『英雄色を好む』って言うけど、義経の心を引きつける魅力的な女性だったんだろうね」

鎌倉物語 143

「主人は日常のすべてを科学に結びつけることで世界を認識する人だった。世の中のほとんどが科学的に証明できるんだってよく言ってたわ。生きることとは死なないことだと捉えてて、だから『医学の進歩』も信じてた」
 明子は依然として目を閉じたままだ。
「でも、限界も知ってたのね。そこが彼のすごいとこ。科学はただの手段にすぎないという諦めもあったわけ。そしてその諦めがさらなるチャレンジ精神に火を点けたの」
 僕にできるのは待つことのみだ。そう念じつつ話を聞く。
「鎌倉に来て海を眺めるってことは、だから研究で疲れた頭をリフレッシュして、人間らしさを取り戻すための大切な儀式だったのよ。彼にとっては」と明子は言い、静かに目を開けた。
「私たちが結婚式を挙げたのはどこだかわかる?」
 急にそんなことを言われたってうまく答えられるわけもないし、答えようと思うはずもない。
「実は鶴岡八幡宮なの」と明子は僕の答えなど期待していなかったかのように言ってのけた。
「ほら、本殿に上がる石段の前に大きな吹き抜けの建物があったでしょ」
 もちろん覚えている。まるで能楽の舞台のようなあの建物だ。
「あそこで挙げたの。式と言っても、身内だけの簡単なものだったけどね。しかも父はそんなちゃちな式には出ないと言い張って参加しなかったし。私の親族といえば横浜にいた伯母さんと従兄弟だけだった」

鎌倉物語 142

「主人のことを思うと、今私はすごくいけないことをしているような気がするの。主人にとっても、それからあなたにとってもよ」
 明子の瞳には再び重い影が落ち込む。僕は自分の発すべき言葉を探してみるが、見つからない。それに山本氏が亡くなっているということを呑み込むこともできない。もし事実だとすれば、昨日の人物はいったい誰だったのだろう?
 明子はもう1度、さっきよりも短くため息をついて海に目を遣った。
「この海をいったいどれくらいの人が眺めたんだろうね」
 しばし間を置いてから彼女はこう続けた。「主人もこの海が好きだったのよ」
 今度は僕の方がため息をついた。
「高校生の頃はなかなか会うのが難しくてね。それで毎日日記を交換してた。父はとにかく厳しい人間で、まともに育てられた記憶なんてないのに、なぜか私を管理して縛り付けるのよ。男女交際なんてもってのほかだって。今思えば、世間体を気にしてたんだろうね」
 明子は話しながらゆっくりと目を閉じ、口元に笑顔を浮かべた。
「大学生になって自由を手にした瞬間、2人でいろんな所に行けるようになった。あの人は鎌倉をすぐに気に入ってね。特に湘南が好きだった。江ノ島で海水浴をしたし、由比ヶ浜の花火大会も毎年見に行った。サザンオールスターズのコンサートにも行ったし、小動の港で魚を釣ったこともある。その小動崎って太宰治が銀座のホステスと自殺未遂を計った場所だったらしく、後になって2人でぞっとしたわよ」

鎌倉物語 141

「そこに載せてある写真を見てると、さっき書いてあったことは嘘じゃないって思えるのよね」と明子はしみじみと言った。
「つまり山本氏は5年前に亡くなったってことか」と僕は比叡山の木々の間に佇む仏閣に目を遣りながら応えた。
「昨日の夜ここでその事実を知った時、この数年間にないくらいに混乱したの。眩暈がして頭がほんとうにおかしくなるんじゃないかって焦ったわ」と明子は言い、パソコンの画面から目を離してレモンティを口にした。「眩暈が落ち着いた後、山本さんに関する情報を集めてみたのね。そしたら気になることが書いてあったの。彼は肺ガンを患ってしまって、奥さんとは若い頃に離婚して親族と呼べる人もいなくて、苦悩に満ちた闘病生活を余儀なくされたって」
 山本氏の身の上は明子のくぐってきた孤独な半生と重なる部分が大きいのだ。
「私思うんだけどね、あの人はきっと怖かったのよ。最後まで『抜ける』ことができなかったんじゃないかしら。それでも自分の死を覚悟せざるをえない運命に直面した。だから苦しみ抜いた。東条英機の話とかしてたわよね。獄中で浄土真宗に帰依したこととか」
 明子は窓の外を物憂げに眺めた。
「実朝や中也の味わった苦悩を彼も体験したわけだ」と僕は言った。
「それで私、心配になったのよ」と明子は続ける。僕は彼女の横顔に目を遣る。「山本さんがこの世に未練を残して今もどこかを彷徨ってるんじゃないかと思うと、胸が詰まるの」と明子は言い、ため息をついた。「亡くなった主人のことを強烈に思い出すのよ」

鎌倉物語 140

「山本耕二の残した写真集としてまず思い浮かぶのはやはり『静かな散歩道』であろう。彼は比叡山延暦寺を拠点として京都の密教寺院を写し続けた。今でこそ天台・真言の仏刹は京都盆地にも点在するが、彼が被写体として選んだものはそうした洛中にある寺院ではなく、どれも原理的な山岳信仰に基づいて建立された山深き地の仏刹である。山本耕二は3年にわたり京都の四季に佇む古刹と、そこに参詣する人々の姿を写し続け、現在における信仰の世界というものを表現し続けたのである」
 この文章を誰が書いたのかは明記されていないが、たしかに山本氏は自らそんなことを言っていたことを思い出す。ただ彼が京都に造詣が深かったということは聞いていない。むしろそれは明子が僕に話した内容だった。彼女は昨日円覚寺から寿福寺に抜ける「亀ケ谷坂の切通し」を歩きながら『源氏物語』の話をし、密教の話題を持ち出したのだ。光源氏が後の正妻となる紫の上と出会ったのが京都北山の鞍馬寺で、そには密教の寺院だったという話だ。
 何はともあれその『静かな散歩道』の画像を見てみる。まず目に飛び込んできた「叡山の朝」という作品には朝靄の参道を老夫婦が手を携えつつ登っている光景が写されている。京都の近郊とは思えないほどの深い森で、古木が屹立し幻想的とも言える世界が夫婦を迎え入れている。それから「雪の横川中堂」という写真には朱色の柱で幾重にも組まれた舞台の上に鶴岡八幡宮の本殿を思わすような楼閣が建ち、雪がそこはかとなく舞っている。
 山本氏の作品にはどれもなつかしさを感じさせる何かがあった。

鎌倉物語 139

「これは今から5年前、つまり山本さんが亡くなった年に撮られた写真で、新聞社が主宰する写真展で特別賞を受賞してるものなのよ」と明子は声を低くした。彼女の説明を聞きながらその題名が目に飛び込んでくる。「静けさ」となっている。
 構図の中心にはやぐらがある。昨日見た実朝の墓だ。空はあまりに青く、湿り気を含むやぐらの内部がいやがうえにも暗く見える。やぐらの奥には五輪塔が建っていて、その両脇にはコスモスの花が生けてある。白とピンクの可憐な花だ。画面の解像度が高ければよりはっきりと見えるのかもしれない。
 写真左上には緑色のモミジが広がっている。男女はモミジに包み込まれるかのように佇立している。そうしてさりげなく頭を垂れている。背格好や着ている服からしても僕と明子であることは間違いなさそうだ。つまりこの写真は昨日山本氏が撮影したものだ。
「これが5年前の写真だというのか?」と明子に質す。すると彼女はこの写真が撮られた年月を表示させる。彼女の言う通りのことがそこに記載してある。
「それでも信じがたいね。写真が昨日の夜にアップロードされた可能性だってあるわけだ」
 僕がそう言うと明子は「私だって同じことを考えたわよ」と言い、マウスをクリックして次のリンクを開く。すると写真愛好者たちの作るウェブサイトが現れる。明子は素早い指さばきで山本氏のページに移動する。そこにはこう書いてある。
「山本耕二は信仰の世界を求めた写真家だった。50代半ばで写真を始め、きわめて禁欲的に写真と向き合い、数々の個性的な作品を残した」

鎌倉物語 138

「それが、山本さん、亡くなってるのよ。今から5年ほど前に」
 明子の目は僕の目をまっすぐに捉えている。最初僕は彼女が何を言っているのかよく分からなかった。中途半端に口を開けて石化した人間のような顔を彼女に向けていたことだろう。
「肺ガンを患っていたらしいわ。苦しい闘病生活だったみたいよ」と明子は付け加えた。
「何かの間違いに決まってる」
「私も初めはそう思ったわ。でもウェブサイトに載っていた写真はどう見ても山本さんだった。髭を生やしてハンチングをかぶり、ジャケット姿でタバコをくわえてる」
「君はだまされてるんだ」
「何に?」
「それは、分からない。たとえば、あの人の悪戯かもしれない」
 僕がそう言うと明子はおもむろに立ち上がり、フロントの奥にいる支配人と何やら交渉を始めた。それからまもなくして例の年季の入ったノートパソコンをテーブルに置き、コンセントを差し込んだ。
 彼女がブラウザを立ち上げる間、僕は窓の外に視線を送った。海岸道路には車が走っている。灰色の海には灰色の波が立ってその上を灰色の海鳥がふわふわと漂っている。すべてが嘘の光景のようだ。
「ほら、ここ」としばらくして明子が見せたのは山本氏の略歴だった。たしかに彼は死んだことになっている。僕が見終わったことを確認してから明子は次のページを開く。今度は山本氏が撮影した写真が掲載されている。
 明子が指し示した1枚の写真を見た時、またデジャブの感覚に襲われる。そこには寿福寺のやぐらの前に立つ男女の姿があった。

鎌倉物語 137

「でもその苦しみを分かってくれるやつなんていなかった。みんな勉強とか部活に一生懸命でそんなことを考えるゆとりがなかったんだろう。だから僕は、表向きはみんなとわいわいやっていても、心の深い部分では孤独を抱え込んでいたんだよ。そんなときふと目に留まったのが源実朝の和歌だった。『大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて 裂けて散るかも』っていう歌だ。そこには何か薄暗くて不気味な世界が感じられたんだ。後で調べてみたら、やっぱり実朝は死を予感しながら生きていた。そして実際に首を取られる。鶴岡八幡宮でだ」
 ふと八幡宮の大銀杏が倒れていたことを思い出す。実朝を暗殺した公暁はあの大木の陰に隠れていたのだ。その時の光景を想像しながら話を続ける。
「寿福寺の門前に立った時、寒気がしてね。実朝はすぐ近くにいるような気がしたんだ。そしたら奥のやぐらには墓があった。偶然足を運んだとは思えないような何かを感じたよ。山本氏に声を掛けられたのはその時だった。あの人は不思議なことを言いはじめた。まるで僕の心の中を見透かしているかのようにだ。実朝は死を怖れていた。だから彼の人生は痛々しいし、死んだ後には不気味な後味が残るのだと主張した。しかも寿福寺は中原中也が最期を遂げた場所でもあると言った。僕にとっては初めて知ることだった。中也の詩や生涯は小学生の時からずいぶんと聞かされていたんだけどね」
 明子は両肘をテーブルに置いて神妙な面持ちをしている。瞳の周りはさっき流した涙の跡が薄く残っている。彼女は小さく息を吐き出し、ぬるくなったであろうレモンティーで唇を潤した。それから口元をすぼめてこう言った。

鎌倉物語 136

 僕は新たに注がれたコーヒーを飲みつつ明子の顔に目を遣る。さっき鶴岡八幡宮で見せた表情からすると、険が取れて落ち着きを取り戻しているようだ。ただ、いつまた変調をきたし僕の前から走り去るのかわからない不安定感を孕んでもいる。
 僕にできることは何か? 再びコーヒーカップを口元に運びながら考える。しかしあらゆる角度から考察してみたところで、結論はやはり1つに絞られる。待つことだ。
 兆しはある。彼女は心に抱えているものを僕に吐き出し始めている。それは彼女自身の力で問題解決するための第1歩となるはずだ。ここまで来ればとことん待ち通すしかない。
「そんなできそこないの私だから、寿福寺に行った時には心がほんとうに温かくなったの」と明子は話を続けた。「あなただって何かをつかんだように見えたよ」
「たまたま足を運んだとは思えないくらいにいろんな出会いがあったな」と僕は応えた。
「それはあなたの過去に関わること?」
 僕は首を縦に振り、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「小学生の時に『ノストラダムスの大予言』っていうのがまことしやかにささやかれててね。1999年に地球が滅びるっていう話だ」
 明子は「知ってるよ」とでも言わんばかりの表情を浮かべた。
「あれを本気で信じた僕は、それをきっかけに自分の消滅について考え込むようになったんだ。折しも中学の時に唯一と言っていいほどの親友がダンプカーに巻き込まれて亡くなり、その直後に親父もガンで死んだ。尊敬できる大きな存在の親父だったよ。その深くて暗い悲しみがようやく受け容れられるようになった時、自分もいずれは死ぬのだという実感だけが残っていた」

鎌倉物語 135

「今話したことは手紙にも書いたし、あなたも十分理解してくれてたことだけどね」と明子は言い、視線を海から離して僕のコーヒーカップに向けた。
「仙台のホテルであなたに過去の話をした時、何だか信じられなかった。まさか誰かに過去を打ち明けることがあるだなんて思ってもみなかったから」
 明子はけだるそうな様子でこめかみにかかった髪をかき上げた。
「しかもあれほどこだわっていたはずの過去なのに、言葉として外に出した途端に重みがなくなってきて、極端な話、自分を苦しめていたのはこの程度のことだったのかとさえ思ったの」
 僕は明子の目を見ながら頷いた。
「でも、1人になってじっくり考えてみると、それはとても怖いことだなって。たぶん、人は皆そうやって過去を中和し、忘れてゆくのよ。だけどそれってとても都合のいいことでもあると思うの。死んでいった者にとっては、忘れられることほど哀しいことはないはず。私たちだってそうじゃない? だから忘れないっていうことは、最低限の礼儀のようなものじゃないかっていう思いも片方であるの」
 明子がそこまで言ったところで、さきほどの女性がやってきて慣れた手つきで僕のカップにコーヒーを注いでくれた。僕は軽く頭を下げた。
「過去を忘れない。だから私はそうやって生きてる」と明子は声を低くして言った。「でも、できそこないの私にとっては、それはそう簡単なことでもなくてね。だから感情は起伏を繰り返し、同じ悩みをいつまでも行ったり来たりしてる」

鎌倉物語 134

 明子はテーブルに置いた左手に自分の頬を乗せた。そうやって海に目を遣りながら静かに声を上げた。「想い出すなあ」
 僕は首を傾げた。
「初めて旅行に行った時のこと。仙台のホテルのバーでお酒飲んだね」
 僕は頷きながら「ああ」と言った。
「私変わり者だから、こうやって外で食事することもほとんどなかった」
「昨日あったじゃないか。無窓庵でビーフシチュー食べたし、夜はマクドナルドにも行った」と僕が言うと、彼女はどこか恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「あなたには迷惑かけっぱなし。いっそのこと愛想を尽かしてくれた方がいいのよ」
 明子はそう言った。その言葉には重みがこもっていた。
「ここ最近になって感情の起伏が激しくなってきてね」と明子は続けた。「年を取るごとに自分をコントロールすることがますます難しくなってきた気がする」と明子は言い、海に向かって灰色のため息をついた。
「だから、あなたにはもう迷惑をかけられないっていうのが本音よ」
 僕はコーヒーを口にした。それからクロワッサンをちぎって口に入れた。バターの香りが口いっぱいに広がった。
「あなたはよく未来を向いて生きなさいって言う。もちろんそれは間違いのないことだし、それができればどんなに素敵だろうっていつも思う。でもね、私は愚かだから、どうしても過去を忘れることができないの」 

鎌倉物語 133

 僕も明子に倣ってポテトサラダをスプーンですくって食べた。それはまだほんのりと温かく、なつかしい甘味が広がり、口の中で自然と溶けてゆくかのような舌触りだった。
 明子はいったんフォークを置いて、大きく取られた窓の外に広がる湘南の海に視線を投げた。空はまんべんなく灰色だ。海面も空と呼応するかのように灰色に波打っている。水平線はぼやけており、南東に向かって長く延びる逗子の海岸線がうっすらと煙っている。まるで蜃気楼のようにも見える。
 そうやってしばらく外を眺めた後で、彼女はティーカップに添えられたレモンを搾って紅茶に少しだけ注ぎ、静かに口元へ運んだ。そして再度海に目を遣った。
「昨日は天気よかったのにね」と明子はつぶやく。彼女の主体的な発言を耳にするのはずいぶんと久しぶりだ。
 明子はバターロールを小さくちぎって口に入れ、それからオムレツの端をフォークで切って食べた。僕はその一部始終をコーヒーを飲みながら眺めていた。
「オムレツもおいしい」と彼女は言い、さらにもう一切れ口にした。そして僕の胸元に目を遣り、「あなたも食べたらいいのに」と続けた。
 僕はコーヒーカップを置き、彼女の言うとおりにオムレツに手をつけた。口元に持ってくるだけで卵の匂いが漂う。舌に乗せると新鮮な素材の味わいとバターの風味がほどよく感じられる。焼き加減も絶妙で、スポンジケーキを思わせるくらいにふんわりとしている。
「あの支配人が時間にうるさい理由も分かるような気がするな」と僕は咀嚼しながら言った。明子は依然として物憂げな顔をしながらも、かすかに頬を緩めた。

鎌倉物語 132

 オムレツの中央には真っ赤なトマトケチャップがかけられている。付け合わせはパセリのみというシンプルな盛りつけだが、皿全体からは自信がみなぎっている。手抜きのない心のこもった料理なのだ。
 つい今まで海を眺めていた明子も目の前の料理に惹かれたようだ。「おいしそう」と彼女は小さく声を上げた。すると先ほどの女性が今度はサラダと飲み物を運んできた。細切りのキャベツの上にキュウリとトマトが乗っていてポテトサラダが添えてあるだけの至ってオーソドックスなサラダだが、1つ1つの素材が瑞々しさに輝いている。
 僕がサラダに見入っていると、料理を持ってきた女性が話しかけてきた。
「すべて自家栽培の野菜なんですよ」
「ここで作ってるんですか?」
「ええ。このホテルの裏側がちょっとした菜園になっておりまして、手作りのビニールハウスもあるんです」と女性は口元に笑いじわを寄せた。「うちの支配人がずいぶんとこだわってるんですよ。農薬も化学肥料も一切使わないんだって」
 僕はまずフォークでキュウリを刺してそれを口に運んだ。軽く歯を立てるだけで十分な水気が口の中にほとばしった。これぞまさしく緑の味だ。思わず明子にも勧める。彼女はあまり食欲がないようにも見えるが、それでもキュウリを少しだけ囓った。
「うん、おいしい」と彼女は納得した表情でそれを呑み込んだ。
 女性は「どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」と言い残して去って行った。女性が厨房に消えた後で、明子はポテトサラダにも口を付けた。 

鎌倉物語 131

 ホテル「NAGISA」のロビーに入った瞬間、再び古い絨毯の埃臭さに包まれた。だが昨夜とは違い、パンやハムの焼ける匂いやコーヒーの香りがその上から漂っている。入って右側のフロントには支配人が立っている。白のコットンシャツにブラックジーンズといういでたちだ。腰に巻いていたエプロンと星条旗の三角巾は外している。
「すみません、少し遅くなりました」と僕が言うと、支配人は無言でこっちを見た。眉間にかすかなしわを寄せ、ちらりと腕時計に目を遣った。
 僕はどう反応をしてよいのやら分からず、当初はボストンバッグを置きに客室に戻ろうと思っていたが、なにはともあれ食事の席に着こうと明子に提案した。彼女はぼうっとしたまま隣についた。僕たちに用意されていた席は窓際の特等席だった。曇り空に覆われた晩秋の湘南海岸が間近に迫っている。所々に上がる波飛沫、空を舞うカモメたち、沖には数艘の船が出ている。その景色を明子はぼんやりと眺めている。彼女の瞳には海の情景がうっすらと映っている。さっきまでの焦点の定まらなかった瞳ではない。
 すると感じのよい笑顔を浮かべた初老の女性が足音を立てずにやってきて、「おはようございます」と言った後で白い皿に載せられたクロワッサンとバターロールを置いた。それから「お飲物はコーヒーと紅茶のどちらにいたしましょうか?」と聞いてきた。僕は明子の方を向き彼女のオーダーを待った。すると明子は「紅茶で」と小声でつぶやいた。僕はコーヒーにした。
 厨房へと去っていった女性と入れ違うようにして今度は支配人がオムレツのプレートを運んできた。それはまるでラグビーボールのミニチュアかと思わせるくらいのふっくらとした厚みがあり、色にも全くムラがない真黄色のオムレツだった。

鎌倉物語 130

「とりあえず、ホテルに戻ろう」と僕は言った。ずっとうつむきながら歩いていた明子ははっと目が覚めたような表情を浮かべ、ここが一体どこなのか見失っているような所作を見せた。いまだに主体性を失っている彼女と一緒に僕はタクシーに乗った。
 車内のデジタル時計は7:23を表示している。若宮大路に立つ無数の信号機がずらりと並んでいるのが一望できる。そろそろ通勤の時間が始まっているようだ。
 隣に座った明子を見る。焦点の定まらない目で虚空をとらえている。昨夜も同じ道をタクシーで走ったが、あの時と同じ女性であるということがまるで信じられない。彼女にしか見えない世界の中に再び迷い込んでいるのだ。
 鎌倉駅を一区画ほど過ぎた信号で停止した時、ちょうど7:30になった。支配人はどんな顔をしているだろうかと想像する。眉間にしわを寄せて貧乏揺すりでもしているかもしれない。それにしてもホテルのガレージからマークⅡをひっぱり出し、消えた明子を追いかけた早朝のどたばたを考えると、この時間に彼女と2人でホテルに向かうこと自体何かの奇跡のように思える。「縁」という言葉が久々に頭に浮かぶ。思わず身震いがする。
 やがて湘南海岸に突き当たり、タクシーは左折する。それからほどなくしてホテル「NAGISA」の看板が見えてくる。こうやって見るとずいぶんと古びた看板ではあるが、建物の方は十分に手入れが行き届いていて、誇らしげにそこに建っている。料金を払いながら時計に目を遣る。7:39になっている。明子は降りようか降りまいか戸惑っているようだ。だが先に降りた僕の持つボストンバッグに目を遣った時、タクシーを降りることを決めたようだった。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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