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鎌倉物語 188

 この手帳は僕が勤務する社会保険事務所で年金のキャンペーン用に配られたものの余りだ。捨てるにはもったいなくて何かに使うこともあるだろうとひそかにリュックに忍ばせておいたが、まさかこんな所で役に立とうとは思ってもみなかった。
 僕はまず水色の表紙をめくり、白いページの一番上の行に「北鎌倉駅」と書く。するとあの簡素な駅舎が辺りの緑の香りとともに甦る。円覚寺、鎌倉街道、無窓庵。その店でビーフシチューを食べながら僕は美咲と歩いた京都を思い浮かべ、佐織のことを考えた。
 無窓庵を出てから亀ケ谷坂の切通しを抜けて北鎌倉を後にし、寿福寺の閑散とした山門をくぐった。多くのやぐらが集中し、実朝と政子の墓もあった。山本氏という不思議なカメラマンが現れ、寿福寺は中原中也の最期の場所でもあるのだと教えてくれた。そこを去ろうとした時、突如として線香の煙が立ち込め、やぐらの中で裸でしゃがみ込む明子の幻影を見た。山本氏はシャッターを切りながら彼女は生きながら死んでいるのだと説明した。そしてその山本氏はすでにこの世にいない人物だと分かったのが今朝のことだった。
 寿福寺を後にした僕たちは鎌倉駅前のマクドナルドで夕食をとった。明子は憑き物がとれたかのように明るかった。ところがホテルへ向かうタクシーの中で彼女は急に泣いた。
 ホテル「NAGISA」、古い絨毯、磯の香り、へんな支配人。僕たちはラベンダーのキャンドルを点け、月明かりの中でセックスをした。それはどこか形而上学的な味わいのセックスだった。月明かりに照らされた明子の寝顔を眺めながら僕もいつの間にか眠りについた。だが目が覚めた時彼女はいなかった。テレビの横の手紙。サエキ氏への追慕。僕は着の身着のままで部屋を飛び出した。助けてくれたのはあの支配人だった。
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鎌倉物語 187

 明子は疲れている。僕もそうだ。だから彼女がどんなことを考えていたのかはよけいに分からないし、詮索したってしようがない。えてして疲れているときにはどうしても物事を悪い方に捉えがちだ。だから彼女の心の中については何も考えずにこのままそっと寄り添っておこうと思う。そうして僕も彼女の手を握りながらまどろもう。
 僕は細く息を吐き出してからシートにもたれ、軽く目をつむる。のぞみは振動音をたてながら猛スピードで西へと向かっている。
 ところがどうしてもうまく眠りにつくことができない。目を閉じた途端この2日間のさまざまな記憶が次々と額の裏側に甦ってきて、かえって頭が冴える。それらの心象風景はより現実味を帯びて僕に迫ってくる。山本氏やサエキ氏が近くでささやきかける。この新幹線に乗っているどの乗客よりも生命感を放っている。
 僕はいったん目を開けて大きく息を吸い込む。それから軽くこめかみを押さえた後で再びまぶたを閉じる。すると今度は明子と2人で訪れた寺々が迫ってくる。建物はもちろんのこと寺に漂う空気さえも鮮明に再現することができる。これは一体どういうことだろうと思う。僕たちにとっての鎌倉はそこを離れた後になってますます強く印象に訴えかけてくる。
 ふとアイデアが浮かぶ。この旅で出会ったものを手帳にしたためておこう。僕と明子にとっておそらくは決して忘れることのないであろうこの旅を今のうちにできるだけ正確に記録しておこう。
 僕はつないだ手を離して席を立ち、荷台に置いたリュックサックを膝の上に降ろした。そうしてサイドポケットに入れていた水色の手帳を取り出した。

鎌倉物語 186

 車両入口の上にある電光掲示板が「ただいま熱海駅を通過」と表示した時、明子は「そろそろ富士山が見えるかな」とつぶやいた。そういえば昨日来るときには2人とも富士山を見過ごしてしまっていた。「でも、この天気だから見えないね、きっと」と彼女は窓に映る自分自身に語りかけるように言う。
 まもなく三島駅を通過する。富士山を眺める絶好のポイントのはずが、全く姿を現さない。そこに何かがあること自体が信じられないほどに曇天が厚く覆い被さっている。
「ねえねえ、知ってた」と明子は外を見たまま言う。「三島由紀夫ってね、この三島駅の富士山の雪を見て思いついたペンネームなのよ」
「三島って、皇居に向かって割腹自殺したあの人?」と僕が訊くと彼女は「そう」と応えた。
「一緒に新幹線に乗ってた彼の恩師が、窓の外の富士山の雪を見て『君が作家になるんなら三島由紀夫でいったらどうだい』って提案したらしいよ」
「じゃあもしその時富士山に雪が積もってなかったら三島富士夫だったかもしれないな」と僕が言うと、明子は僕の方に顔を向けておかしそうに笑った。
 浜松を通過した時、もう富士山は見えないだろうと諦めがついた。明子も少し残念そうな様子で窓の外を眺めている。僕は後ろからそっと声を掛けようとする。「また次来たときに見られるといいな」と。しかし彼女の横顔を見ていると、単に富士山が拝めなかったことに落胆しているだけではないような気がしてきた。窓ガラスに映る明子の瞳はどこまでも虚ろだった。
 そうしていつの間にやら彼女は顔を窓に向けたまま眠りについてしまった。
 僕は彼女の手を静かに握りしめた。

鎌倉物語 185

 のぞみは静かに加速し始める。それに伴って新横浜駅周辺のビル群がドミノのようにぱたぱたと後ろに倒れてゆく。その窓ガラスには雨粒が頬を伝う涙のように転がり、やがて弾き飛ばされる。
 僕はシートをいくぶんかリクライニングさせ、車内の様子を目で追う。指定席の乗客はおしなべて大人しい。新聞を読んだりスマートフォンを指でなぞったり、思い思いに時間を潰している。車両入口のドアの上では電光掲示板がさっそくニュースを流し始める。飲酒運転で爆走した車が通行人を次々とはねたり、北朝鮮がミサイル実験をしたり、どこかの銀行が破綻して大騒ぎになっているということを伝えている。
 僕にはどうしても目の前に広がる現実の方がよほど幻のように思えてならない。周りに座っている人たちは誰だろう? 少なくとも僕は彼らと同じ新幹線に今乗っている。何かの縁があるのだ。ならば僕たちはこのハイテクマシンで一体どこに行こうとしているのか。
「人生はつかの間の灯さ」とサエキ氏の声が脳裏にささやかれる。「永遠に続く時間の中で、人は極めて限られた瞬間を生きている」
 人生とはこの新幹線のようなものではないかという仮説が耳の奥に走る。見ず知らずの他者とつかの間の移動をする乗り物。進む方向は同じだが下車駅は人それぞれだ。そして僕たちは山口に帰り日常の生活に戻ろうとしている。
 僕はつないだ明子の手を意識する。彼女の手はよけいにか細くそれでいてぬくもりに満ちている。これまで僕はどちらかといえば1人で生きることを好んできた。だがこうして新幹線の中で明子と手をつないでいると、彼女がいてくれることのかけがえなさを感じずにはいられない。

鎌倉物語 184

 新横浜駅に着いた途端に行き交う人の数が格段に増えた。平日ということもあってスーツを着たサラリーマンたちの姿がまるで黒い荒波のように渦巻いている。僕たちは人混みを避けながらどうにかみどりの窓口に辿り着き、新山口駅行きの切符を手にした。
 新幹線のホームへと上るエスカレーターに運ばれながら、僕と明子は顔を見合わせてため息をついた。お互いに夢から覚まされたような気分を共有していた。
 夢・・・
 いや僕たちは本当に夢の中にいたのかもしれない。さっきまでの記憶はもはや幻の色を帯びた心象風景となっている。
 幻・・・
 エスカレーターがようやく真ん中まで来たとき、僕はまた眩暈に襲われる。鎌倉での体験は幻だったのではないかと本気で考えているうちに天と地がひっくり返ったような錯覚を感じる。というのも、今度は目の前の現実こそが幻のように思えてきたのだ。
 前向きに生きなければならない。そう言い聞かせながら何とか眩暈を調伏しようとする。その時エスカレーターは終わり、殺伐としたホームの光景が姿を現す。
 僕たちは自動販売機で緑茶を買い、ほどなく滑り込んできた「のぞみ」に乗り込む。指定席はほぼ満席だ。明子を窓際に乗せた後で僕は通路側の席に腰を下ろす。車内は空調が効いているもののどことなく湿気の香りが漂っている。
 新幹線が動き出す前から僕たちは手をつないだ。さっきの長谷寺での感覚は依然として心を温めている。目の前の情景が幻であろうが何であろうが、このぬくもりだけは消えない。明子の方を向くと、彼女も僕を見る。彼女は多少疲れをにじませながらも笑みを浮かべる。

鎌倉物語 183

 明子は僕の胸から顔を一旦離し、キスを求めてきた。彼女は自らの舌を僕の口の中に挿し入れ、僕の舌の上にじっとりと這わせた。これが本当に明子なのかと疑うほどに彼女は積極的だった。前向きに生きたい。もしかすると明子はさっきから僕と同じ思いを抱いていたのかもしれない。
 僕は彼女の舌を心を込めて舐め返す。明子は声にならない声を立てながらさらに僕の中に入ってくる。僕たちはお互いの舌を介してこれまで心に抑え込んでいた思いを確かめ慰め合った。その時、魂は完全に1つになったなと実感した。そうして僕たちが鎌倉に来たのはこの感覚を共有するためだったのだと真に得心した。この旅が最終的に暗示していたのはこの魂の一致にあったのだと僕は思った。
 下の「経蔵」の方で何やら人の声がする時まで僕たちはずっと抱き合っていた。
「こんなたくさんのお地蔵さんに見つめられてたなんて、気付かなかった」と彼女は体を離した後で足元を見ながらそう言った。
「僕は知ってたよ」と返すと、彼女はどこか恥ずかしそうに笑った。それは本来の明子の笑い顔だった。

 長谷駅から江ノ電に乗り、再び鎌倉駅に戻ってきた時には、雨は本降りになっていた。僕たちはちょうどホームにいた11:09発の横須賀線に乗った。駅名標示板の「鎌倉」の文字が発車と同時にゆっくりと後ろに流れて行くのを僕は最後まで見送った。
 北鎌倉駅に停車した時には円覚寺の森が雨に濡らされているのが見えた。昨日とは対照的な空模様ということもあって、ここを訪れたのはずいぶん前のことのように思われた。

鎌倉物語 182

 明子はそう言った後でゆっくりと僕の顔に視線を移す。そうして彼女はもう一度、僕にしか聞こえない心の声で「あなたは、私にとってはかけがえのない人。それはもう、隠せない」と繰り返す。やがてその言葉は僕の魂に反響しはじめる。
 彼女をこの胸に抱きしめたい。由比ヶ浜を前にそうすることができればどんなにすばらしいだろう。しかし辺りには多くの参詣者がいる。僕は大きく息を吐く。
 すると明子は落ち着いた笑みを浮かべながら再び観音堂の方向に歩み出す。この寺の配置図を熟知しているかのようなためらいのない足取りだ。観音堂を左に抜けて竹林の方に逸れた途端人の数も急に少なくなる。竹林の通路を挟んで反対側には萩がちらほらと顔を覗かせている。その淡い花たちは静寂を紫色に染めている。
 まもなく明子は「経蔵」という小さな建物の裏手に入る。この区域は墓地になっていて、長谷寺とは思えぬほどに閑散としている。むしろ寿福寺の雰囲気に近い。そこからさらに奥に進むと石段が現れ、その両側は紫陽花の株で覆い尽くされている。株たちは緑の香りを漂わせながら開花の時期までひっそりとここで控えている。
 石段を登り切ったところには6畳ほどの展望スペースが用意されていて、見晴台よりも高い地点から由比ヶ浜を見渡すことができるようになっている。その隅には多くの地蔵が置いてある。大きさや古さによってきれいに整理整頓して並べてある。
 明子は地蔵に囲まれたその場所の真ん中で僕の胸に顔をうずめる。僕は彼女の頭を撫でながらその体を自分の胸にあてがう。彼女のぬくもりが押し寄せる波のように体に浸透する。2つの魂は溶け合って1つに結実してゆくのを感じる。

鎌倉物語 181

 明子は海底の石のように何も言わずじっとしている。でも僕はその沈黙の中に確かなものを感じる。サエキ氏と明子がそうだったように、僕と明子もまた魂の深いところで結ばれているのだ。
「とにかく今思うのはこの旅を『暗示めいたもの』として終わらせたくないってことだ。つまり、これから先のことをちゃんと考えたいんだよ」
 常に過去を見つめながら生きる明子には、僕の思いは伝わらないかもしれない。でも僕はもっと自信をもたなければならない。変わらなければならないのは僕の方なのだ。
「君は手紙の中でサエキ氏への罪悪感について触れていたね。でも、何度も言うけどもっと未来に目を向けてほしいんだ・・・」と僕がそう言おうとした矢先だった。
「そのことだけど」
 明子は次に出る僕の言葉を制するかのように不意に口を開いた。彼女の向こうからは秋の朝の風が吹いてくる。潮の匂いや草の匂いも一緒に運ばれてくる。
「あなたがどんなことを感じ、考えてたのか、分かってる」と明子は言葉を継ぐ。その声は風の中の様々な匂いと混ざり合いながら僕に届く。「私も今、この由比ヶ浜を見ながら、あなたの魂とつながっているような感覚を感じたのよ」
 明子はすうっと顔を上げ、僕の肩の辺りにやわらかな視線を向ける。
「あなたは、私にとってはかけがえのない人。それはもう、隠せない」

鎌倉物語 180

「それに、君と歩きながらこの旅そのものが何かの暗示じゃないかと思うことがけっこうあってね。それは一体何だろう、この旅は僕に何を語ろうとしてるんだろうって、ずっと考えてた。そして今になってやっと分かったよ。この旅は君の魂を象徴してたんだ。君は心に傷を負いながらも、今でもサエキ氏を愛している。死者を愛するだなんて一般的には理解できない。でもそれは理屈なんかじゃ説明できない。君たちは魂の深いところで結ばれた関係なんだ。君を理解するということはそういうことだったんだ」
 明子は口元に疲れた含み笑いを浮かべながら靴先に視線を落としている。
 前向きに生きたい。これまでは彼女を傷つけまいと言動を慎んできた。もちろんそれは間違いではなかった。だからこそ今僕たちは一緒にここにいる。しかし、そのことが3年にも及ぶ停滞をもたらしたのもまた事実だ。それに僕は彼女を傷つけたくないと常に思いながらも、実は自分が傷つくことを怖れていただけではないかとも思う。
「長谷寺に来て良かったよ。君がよく言うように、ここに来たことには意味があったんだと思ってる。僕は君と2人で由比ヶ浜を見ながら、魂が開放されたような感覚があった。そして十一面観音と対面してみて、言葉には言い表せないほどのぬくもりを感じたんだ。どちらも初めての体験だった」
 明子は依然何も言わずに地面の土を踏みしめている。前向きに生きたい。明子は過去に生きている。だからこそ僕は未来を指向していたい。
「君の方も同じような感覚があったんじゃないか?」

鎌倉物語 179

 太陽は高くなっているのに空も海も来た時から変わることなく灰色だ。ただ潮風だけが心地よく通り過ぎてゆく。
「いい旅だったよ」と独り言のようにつぶやく。携帯電話を取り出すともう10時を過ぎている。さっき明子はできるだけ早く山口に戻りたいと言っていたのを思い出す。
「私も、来てよかった」と彼女はレンゲ畑にでも立っているかのように健気な言い方をする。この旅もそろそろ幕を閉じようとしていることを全身で感じる。
 最後に長谷寺と由比ヶ浜の情景を瞳に焼き付けておく。次に訪れるのはいつになるだろう? そんな名残惜しげな視線を向けたところで風景は何の同情もしてくれない。
 今明子は「来てよかった」と言った。どんな了見でそう言ったのかは分からない。だがたとえ彼女が何を考え何を抱え込んでいようとも、僕は前向きに生きればよい。十一面観音はそう語りかけてくる。
「明子」と彼女の名を呼ぶ。少しだけ山門の方に体を傾けていた彼女はやおらこちらを向く。
「君と一緒に鎌倉に来れてほんとうに良かったよ。僕にとっては何から何まで暗示めいた旅だったけどね」と言う。明子はさっきまでと同様穏やかな表情を浮かべつつも、すうっと足下に視線をそらす。地面は霧雨に湿っている。「たとえばだけど、実朝の和歌がずっと心に残っていたのはこの旅を暗示してたんじゃないかって、妙に納得できるところがあったりするんだ」

鎌倉物語 178

 政子が落飾したのは頼朝の死後だった。そうしてダミーの将軍を立てながら、自らは執権として政治の実権を握ったのだ。
「なんだかへんな感じ」と明子は言う。「出家して仏門に入った女性が政治を司るなんて、矛盾してない?」
「つまり出家した人間は俗世を絶つのが原則だってこと?」
「だね」 
 それについて考えてみる。たしかに政子の立ち位置はどっちつかずでもある。
「政子も生きながら死んでいたんじゃないかしら」
 ふと明子の方を見る。それに連動して彼女もこっちを向く。今何か言ったかと尋ねるが明子はきょとんとした顔でこちらを見上げているだけだ。
「『政子は生きながら死んでいたんじゃないか』っていう声が聞こえたんだけど」と僕が確認すると、彼女はそんなこと言ってないとくすくす笑う。
「でもほとんど同じことを考えてたよ」と彼女は笑顔の合間に真面目な顔をのぞかせる。
 僕にはこの「生きながら死ぬ」という境地が朧げながら実感できるようになっている。たとえばこの由比ヶ浜はそれを象徴しているように思う。義経と静御前の子供はここに沈められた。つまりこの浜は少なくとも800年の間あり続けている。その間数え切れないほどの命を呑み込んできた。「ここには生と死の明確な区切りがないんです」とガンジス川の現地ガイドが言っていたことがこの由比ヶ浜でより身近に感じられる。
 そのうち鎌倉という地自体が生と死を大きく包み込む存在のように思われてくる。

鎌倉物語 177

 観音堂を出た僕たちは境内をひととおり見て回った。その間明子はこの寺にまつわるいろいろな話をしてくれた。実は長谷寺の発祥は奈良で、クスノキの霊木で彫った2体の観音像の1つを本尊として祀ったことに始まる。もう1体を海に流したところ鎌倉に漂着し、この長谷寺が興ったという伝説が残っている。敦賀に住んでいた頃に奈良の長谷寺に行ったことがあるが、ちょうど桜の季節で満開の花に彩られていた。そういえばあの寺は吉野の近くで、義経と静御前が生き別れた場所と近い。義経も長谷寺のことは当然知っていただろう。やはりこの旅は何から何までつながっている。まるで1つの物語のよう。明子はそんなことを話した。彼女の話を聞きながら、僕は観音堂で感じたぬくもりに浸っていた。強く生きたいという思いが踏み出す1歩ごとに胸に刻まれる。
 本殿の周りをそぞろに歩いた後、再び見晴台に戻ってくる。相変わらず空はけだるい様子で、その影響を海にも及ぼしている。
「ねえ」と明子は由比ヶ浜を見ながら言う。「話は戻るんだけどね、よくよく考えたら、北条政子ってすごい女性だと思わない?」
 その言葉を聞き表情を見ただけで、明子がどんなことを考えているのかが手に取るように分かる。彼女は政子の人生に自らを重ね合わせている。夫に続いて息子までも殺された悲しみに共感しているのだ。だが政子は悲嘆に暮れるのもつかの間、亡き将軍たちの遺志を受け継ぎ幕府政治を絶やさなかった。執権政治を開始して陰で政治の安定を図った。
「政子は尼将軍って言われてたのよね」
 明子はタイミング良くそう言った。心の中で僕たちは会話を交わしていた。

鎌倉物語 176

 見晴台を離れてすぐに目に飛び込んできたのは観音堂だった。この建物は長谷寺の本殿で、内部には十一面観音菩薩立像が安置してある。さっき明子が言っていた日本最大級の木造観音像だ。それにしてもエキゾチックな印象の外観だ。反り返った瓦葺きの屋根、ギリシャ神殿を彷彿とさせる丸柱、白の漆喰で丁寧に仕上げられた外壁、唐様の意匠をあしらった窓。まるで竜宮城のように見えなくもない。
「この建物って京都の高台寺と何かが似てるように思うのよね」と明子は言う。「あの寺はねねが秀吉を弔うために造営されてるから、どこか女性的って言うか、おしゃれな感じがするのよ。この長谷寺もモダンよね。円覚寺とは全然違う」
 明子は満足げな視線で本殿を見上げながら「しかも関東大震災後の再建だから比較的新しいのよね」と言って3段ある入口の石段に足をかけた。外から見ると堂の中は薄暗いが、観音像の金色だけはすでにうかがえる。中に足を踏み入れると線香の煙の中に十一面観音は静かに鎮座している。まず僕はその大きさに圧倒される。言葉を失うほどだ。明子も「わぁー」と綿飴のように繊細な声を上げる。観音像は右手に杖を左手には花を挿した瓶を持っている。鎌倉大仏の定印の生真面目さとは対照的だ。
 その慈悲深い表情にさらされた時、ふわりと宙に浮いたような感覚にとらわれる。次の瞬間、明子のことがほんとうに好きだという実感がことごとく僕を包み込む。僕たちがここに来たのは偶然なんかじゃない。僕たちはここに運ばれてきたのだ。だから僕は自信をもってもいいのではないか。
「大丈夫?」と明子は僕の顔を覗き込む。僕はもちろん大丈夫だと応えた。十一面観音は鈍い金色の光を発し続けている。

鎌倉物語 175

「結局静御前は愛する義経と再会することはなかったの」と明子は切り出す。「義経は静御前と生き別れた後、以前自分をかくまってくれた藤原秀衡を頼って平泉に逃げるの。平泉は奥州という土地にあって独自の発展を遂げていた、いわば桃源郷のような場所だったのね。中尊寺金色堂を見ればそれは分かるよね。でね、秀衡は頼朝に対抗して平泉を守るために義経を将軍に立てたかったの。でも彼は志半ばで亡くなってしまう。しかもその後を受けた息子の泰衡は義経を庇護することには懐疑的だった。勢力の強い頼朝軍についた方が賢明だと判断したのね。それで義経は泰衡に殺されてしまうのよ」
 明子はそう言ってジャケットの一番上のボタンを留める。
「泰衡は義経の首を差し出すことによって平泉の平和を守ろうとしたけど、頼朝は容赦なく攻め入って征伐してしまう。義経の子供さえも殺すわけだから、それくらいのことは平気でできてしまうのよね」
「そして静御前はこの由比ヶ浜に沈んだ」と僕はつぶやく。たまらなさが胸に入ってくる。
「それも一説にすぎないのよ。ただ、もしそれが本当だとしたら、せつねいね」
 ヨットたちは何の執着もなく海面に浮かんでいる。その光景を最後に僕たちは見晴台を離れて境内へと歩み始める。
「鎌倉って、ほんとうに何とも言えない場所ね」と歩きながら明子は漏らす。彼女はどこか輪郭のぼやけた瞳で目の前の空気を見つめている。僕たちだけ風景から切り取られたような感覚は依然として胸を温め続けている。

鎌倉物語 174

「そんな静御前を最後まで憐れんだ人物がいるのよ」と明子はつぶやく。「北条政子だ」と僕がすぐさま答えると彼女は「すごおい、正解」と目を大きくする。
「鶴岡八幡宮で義経を思う和歌を詠んだ時に、静御前を弁護したのが政子だったからね」と少し得意になって言うと、彼女はそれに応えるかのように軽やかに話を続ける。
「すべてを失った静御前は京都に戻されるの。その時政子は多くの宝物を持たせたみたい。静御前がきちんと自立できるようにと配慮したんだね」
 疲弊の限度を遙かに超えた静御前の姿が思い浮かぶ。それはまるで海岸に打ち上げられたボロ布のように哀れだ。宝をもらったところで何の慰めになったというのだろう?
「で、それからどうなったの、静御前は?」
「それがはっきりしたことが分からないのよ。なにしろ動乱期の出来事だからきちんとした記録が残ってないの。それでも諸説あるみたいで、赤ん坊を追ってこの由比ヶ浜に入水したっていう説もどこかで聞いたことがあるわね」
 もしそうだとすればこの海は多くの傷ついた命を受け容れてきたことにもなる。僕はふと学生時代に友達とふらりと立ち寄ったペナレスの風景を思い出す。ガンジスの畔には死体が焼かれる炎と異様な臭いが立ちこめていて、焼かれた後の灰はボランティアの手によってスコップでそのまま川に流される。沐浴をしている人々はその水を全身に浴び、中には口に含む人さえいた。そこには生と死の明確な区切りはなく、ガンジスはそれ自体輪廻転生を表現していると言う人もいる。
 長谷寺の見晴台から由比ヶ浜を見下ろしながら、どこかで山本氏のしゃがれた声を聞いたような気がした。

鎌倉物語 173

 常に死と隣り合わせだった武将たちは仏の世界に憧れた。そうして北鎌倉には禅の寺院が造られるようになる。僕は昨日明子と歩いた円覚寺を思い出す。荘厳な山門、端正な伽藍、美しい池もあったし一番奥の塔頭には種田山頭火の俳句も立て掛けてあった。
「山の色 澄みきつて まつすぐな煙」
 そこに表現されていたのは実朝の和歌とは対極の世界だった。
「ところでさ」と僕は言う。「義経の子供は男だったの、それとも女だったの?」
 僕の問に明子はしばらく時間を置いてから答えた。
「うん、それが男の子だったのよ」
「ということは、殺された?」
 明子は静かに首を縦に振り、「かわいそうだけどね」と添えた。
「静御前は、あたりまえのことだけど、体を張って抵抗した。ただ、娘の身を案じた静御前の母親が赤ん坊を引き渡したの。おそらく母親にもいろんな考えがあったんじゃないかしら。これ以上動乱に巻き込まれることに耐えられなかったのかもしれないね」と明子は達観したように言う。それからさらに一段声を低くして続ける。
「でね、その子が沈められたのが、じつはこの由比ヶ浜だったのよ」
 それを聞いた時、背筋がひやりとする。この地で繰り広げられた血なまぐさい歴史を見つめ続けてきた海は表情1つ変えることなく目の前に横たわっている。

鎌倉物語 172

 頼朝は自分が暗殺されることを予感していたのだという話を聞くと、実朝の和歌を思い出さないわけにはいかない。
「大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも」
 実朝にとって磯にとどろく波とは死の暗示にほかならなかった。われてくだけて裂けて散る波に自らの運命を感じ取ったのだ。自分は心安らかに死ぬことなどできないと幼くして悟り、その予感通り彼は公暁に首を取られる。27歳の冬のことだった。実朝の死は当時の世の中に「異様な印象」を与え、100人以上の御家人が出家するという前代未聞の事態を引き起こす。実朝の暗殺によって源氏の将軍は途絶え、後は頼朝の妻で実朝の母でもある北条政子が執権政治を開始する。彼の死は1つの時代の幕引きでもあった。
 今僕の目の前にある由比ヶ浜の海はどこまでものっぺりと広がっている。やわらかな風がほのかな潮の香りさえ運んでくる。とても「われてくだけて裂けて散る」ふうではない。
 そういえば明子の父もピストルで襲撃されたのだ。父の死について彼女は多くを語りたがらないが。鎌倉時代からすると、今は人口も格段に増え社会システムも複雑になっている。しかしそこに生きる人間にはどれほどの差があろうかと僕は思う。
「常に謀反や暗殺と隣り合わせだったからこそ、その時代を生きた武将は孤独を感じ、そしてその分深く女性を愛したのよ」と明子は言い切った。霧雨はいくぶんか和らぎ、彼女の帽子の濡れ具合もさっきからひどくなってはいない。
「それから」と彼女は付け加える。「だからこそ彼らは仏の世界に憧れたのよ」
 僕は彼女の横顔に再び目を遣る。やはりそれは美しかった。

鎌倉物語 171

「頼朝は日本で初めて幕府を築いた人物だから、いかにも強そうなイメージがあったけど、実はけっこうビクビクしてたんだな」と僕は言う。すると明子は顔を上げて沖の方に目を遣る。
「私ね、小さい頃に1度だけ父の会社の旅行で別府に行ったことがあるの。会社がまだまだ小さかった頃のことよ」と彼女は述懐し始める。
「別府温泉に入る前に高崎山に寄って猿を見たんだけど、そこに思わず目を奪われるような猿がいたのね。体が大きくて威厳もある。猿の王様という風格たっぷりなんだけど、どうも元気がないのよ。妙に悟ってるっていうか。近寄ってみたら、片目がつぶれてるの。そこだけものすごい傷になってるのよ」
「権力闘争で負けたんだな」と僕は言う。
「猿山の頂上に君臨してたのは若くて体の引き締まった猿だったわ。高崎山のガイドは、ちょっと前にボスが入れ替わったんだって説明してくれたけど、私の目には、その没落した元のボスが哀れに見えてね。彼は猿山の影に身を潜めてるのよ」
「それが猿の世界の暗黙のルールってわけだ。強い者が勝ち、敗者は潔く負けを認める」
 僕はそう言いながら再び霧雨がけむり始めたことに気付く。東屋に入ろうかと提案したが彼女はこれくらいの雨に打たれるのはかえって気持ちがいいと言って、見晴台から離れようとしない。僕はどちらでも良かった。明子がそばにいてくれるだけで十分だった。
「結論から言うと、後に頼朝は暗殺されるのね。馬から落ちて死んだという説もあるけど、一国の将軍がそんな無様な死に方をするというのも不自然でしょ。頼朝が義経の息子を怖れたというのも自分が暗殺されることを常に予感してたからじゃないかしら」

鎌倉物語 170

「静御前が頼朝に捕らえられた時、彼女は身重だったって話はしたっけ?」と明子は話しかけてくる。聞いた覚えがあると僕が応えると彼女は安心したように微笑んで「囚われの身だった彼女に出産の兆しが見られるのよ」と続ける。
「ということはずいぶん腹が大きいまま彼女は逃げてたんだなあ」と僕がコメントすると、「戦乱の中で2人は深く愛し合ったのね」と明子は呼応するかのように言う。
「武将って、えてしてそんなものなのかもしれないわね。織田信長にも女性の存在があったし、秀吉だってねねという女性を愛してた。京都の高台寺はねねが秀吉を弔うために建てた寺で、その周辺の町名にもなってるほどよ。明治維新の志士たちだってそう。たとえば高杉晋作にも愛人があったけど、彼女も晋作が死んだ後に東行庵を建ててる。もっとも晋作の死には謎めいた部分が多くて、いろんなところで女性の影がつきまとってるけどね」
「その東行庵っていうのは、下関の寺だよね?」と僕が言うと明子は小さく頷く。
 明子が縁もゆかりもない山口に移り住んだのはサエキ氏と死別した後のことだ。したがって彼女が東行庵を参詣した時は1人だったはずだ。たしかあの寺は菖蒲の花が有名だ。僕は彼女が1人でその花の中を歩く姿を想像する。この長谷寺で満開の紫陽花の中をサエキ氏と歩くのとは対照的な情景だ。
「静御前の出産に際して、頼朝はある怖れを抱き始めるの」と明子は話を前に進める。「産まれてくる子供が女なら生かしてやるが、もし男の子だったら、即処刑すると言い出すの。将来自分を恨んで逆襲してくると予感したのよ」  

鎌倉物語 169

「何のために僕たちは今こうして生きているのか」という言葉が何度も心の中にこだまする。すると、ある不思議な感覚が、あたかも水が砂浜に染み込むかのようにじわじわと胸に入ってくる。僕たち2人だけがこの風景から完全に切り取られているような感覚とでも言おうか。それはたとえば「連帯」などという言葉を遙かに超える深く神秘的なつながりだった。
 ふと明子に目を遣る。彼女は何かを考えつつ海を眺めている。もしかしたらサエキ氏との想い出に浸っているのかもしれない。いや、きっとそうだ。過去に2人はまさにこの場所に立ち、一緒に海を眺めたのだ。その時の幸せに満ちた甘美な時間を明子は僕の隣で追憶しているのだ。だが彼女が何を考えていようとも、神秘的なつながりの実感は消えることはない。
 人を愛するということはこういうことだったのかと、初めて体得した気がした。
 それからしばらくの間僕たちは同じ風景の中に含まれた。海はどこまでも灰色だった。
「ねえ」と明子が口を開いたのはずいぶん経ってからのことだった。「静御前の話、覚えてる?」
 僕は彼女の横顔に目を遣り「覚えてるよ、義経の奥さんだろ」と応えた。
「さっきの話にはまだ続きがあるのよ」
 明子はそう言い、見晴台の手すりに上半身をもたれて、まるで潮風と戯れるかのような表情を浮かべながら海を望んだ。その横顔は美しい。人は天国に憧れるという。僕だってそうだ。彼女がこのまま僕のものになればどんなにすばらしいだろうと胸のすくような思いがする。

鎌倉物語 168

「どうしたの?」と明子は戸惑い気味に言う。だが彼女は無理に僕から離れようともしない。人一倍周囲の目を気にするはずの明子なのに、この時ばかりは腹が据わっているように見えた。
 それから僕たちは見晴台に立って湘南の海を見渡した。西の海岸には逗子半島が伸びていて、ホテルからも見えた逗子マリーナのリゾートホテルがより目立っている。視線を南に移せば半島は遠ざかり、代わりに輪郭のはっきりしない水平線がのっぺりと続く。海面にはヨットの白い帆が幾つか立っており、その合間を縫って水上バイクが水しぶきの線を引きずっている。灰色の空から舞い散る霧雨はそれらの風景すべてを灰色にぼやかしている。
「これが由比ヶ浜ね」と明子は僕にしか聞こえないような声で言い、目で海の方を指した。僕はというと彼女が隣に立っているということがどうもうまく信じられないでいる。いや、うまく信じられないのは、自分が自分であるということかもしれない。
 僕は一体誰だろう? 僕はちゃんと生きてるのだろうか? 僕は僕ではなくもしかしたらサエキ氏なのかもしれない。
 そんなことが頭の中で堂々巡りを繰り返しているうちに、さっきサエキ氏に訊きたかった質問内容をこの期に及んで思い出す。彼は「人は死んだ後になって初めて人生の意味を知るのだ」という僕にとってはいささか不可解なことを言った。そこで僕はサエキ氏に問いたかったのだ。「だったら人生の意味とは何なのか」と。生きることが「つかの間の灯」なのであれば、何のために僕たちは今こうして生きているのか?

鎌倉物語 167

 明子を見失った僕は見晴台を見上げる。だがそこにも彼女はいない。ましてやサエキ氏の姿も見えない。何人かの参拝者たちが海の方を眺めたり写真を撮ったりしているだけだ。
 僕が砂嵐を堪え忍んでいた間に明子はどこかに行ってしまったのだという後悔が一瞬のうちに僕のすべてを暗くする。彼女はサエキ氏のいる世界に溶け込んでしまったのではないかと思うと背筋が震えた。
 それでも無我夢中で足を前に運ぶ。本堂へと続く石段を駆け上がりながら、早朝に支配人のマークⅡで鶴岡八幡宮に向かったことを思い出す。あの時には必ず明子を見つけ出せるという確信があった。しかしサエキ氏と寄り添う姿が脳裏に張り付いている今、彼女を見つける自信がない。そもそも僕はふとしたことで自信過剰になり、また逆にちょっとのことで自信を失う質なのだ。
 見晴台は想像した以上に広く、多くの人がいた。テーブルも何台が出してあり、そこでコーヒーを飲むこともできる。もっとも今日は雨模様なので1人もいない。
 僕は見晴台の端まで行き、さっきサエキ氏が手を掛けていた手すりまで歩み寄る。そこから境内をくまなく見渡してみるがやはり明子の姿は見えない。もうだめかもしれない。彼女は1人でここを去り僕の知らない世界へと消えてしまったのだ。
 か弱いため息をついた時、僕の腰元に手が触れる。控えめな感触だ。振り向くとそこにはベージュの帽子をかぶった女性が立っている。僕は目を凝らしてその女性を見る。動転するあまり本当に明子かどうかさえ分からなかったのだ。
 気が付けば人目も憚らずに彼女を抱きしめていた。彼女のやわらかなぬくもりが荒んだ心のひだに入り込み、傷を癒してくれるようだった。

鎌倉物語 166

 ところが砂嵐はそう簡単には行き過ぎてはくれない。我慢していればそのうち去ってくれるだろうとどこかでたかをくくっていた僕は、その分だけ余計に痛手を被ることになった。砂嵐に襲われながら、これ見よがしに寄り添う明子とサエキ氏の姿がまるで前世からの因縁のような象徴性を帯びて瞳の奥に張り付く。正視できぬほどの光景は因果応報のしるしなのかもしれない。僕は過去に数え切れぬほどの嘘をつき、大切なはずの人を裏切ってきた。これはその報いなのだ。憂いの香りのする佐織の首筋がすぐそばに感じられる。「私は今でもあなたのことをふと思い出すのよ。そうしてあなたを思えば思うほど、どうしようもなく切なくなる」
 眩暈はますますひどくなる。無秩序に叩く鉄琴の音が容赦なく響く。僕はいつの間にか気を失い、その場にしゃがみ込んでいた。誰かが肩に手をやって何度も声を掛けてくる。目を開けるといかにも人のよさそうな老婦人が、畳んだ傘を手に持って心配そうな顔を向けている。僕はふらりと立ち上がり、老婦人に大丈夫ですと応えた。彼女はほっとした表情をにじませ、少し休まれた方がいいですよと言い、傘を開いてから、連れ歩いていた男性と共に参拝者の中に紛れ込んで行った。
 長谷寺の境内には霧雨がけむり、紫陽花の株をうっすらと湿らせている。遠くで線香の匂いもする。意識が正常になるにつれて、白黒だった風景に具体的な色が落とされてゆく。池の周りには参拝者が歩いている。年配の夫婦もいれば若いカップルもいる。女性同士で訪れている人の姿もけっこうある。そんな風景を肌で感じるうちに心は次第に落ち着きを取り戻す。ただ胸の奥の痛みだけは依然として疼いている。
 やっとのことで砂嵐から解放された僕は近辺を見回す。しかし明子の姿は見あたらない。

鎌倉物語 165

 ためていた言葉をまさに吐き出そうとしたその瞬間、ぐっと息が詰まる。心の中には言葉などないのだ。あろうことか僕はサエキ氏に問いたかったことを失念してしまっていた。
 彼はそんな僕に薄ら笑いを浮かべながら言う。
「さっきも言ったけど我々は自由に交流できる。生と死には仕切りなどないから。大切なのはそれを信じるかどうかだ」と唇を動かさずに言う。「我々はここで出会えた。つまり君には素質がある。君の魂は少しずつ開放され始めている」
 一体僕は何を訊こうとしていたのか、必死に思い出そうとする。しかしどうしても出てこない。仕方なくため息をついた時、僕は奇跡を目の当たりにする。さっきまで咲いていなかった紫陽花が色とりどりに咲き誇っているではないか! 
 何度も瞬きを繰り返す。だが、すればするほど青や紫は鮮やかさを増し美しく見える。まったく、驚き呆れるほどの色彩だ。
 そうしてあっけにとられていると、今度はバッドで殴られたよう衝撃が走り、眩暈に襲われる。歪む景色の中で何とか瞳を凝らす。するとおぼろげながらに人の姿が立ち上がる。紛れもなくそれはサエキ氏と明子だった。彼らは紫陽花の中を寄り添いながら歩いている。そうして本堂へと続く石段をゆっくりと登った後で、揃って見晴台に立ち海を眺め始める。
 僕の心はピストルで撃ち抜かれる。嫉妬という言葉では言い表せぬ感情が全身を駆け巡り、そのうち呼吸すら難しくなる。やはり明子が真に愛していたのは僕ではなかったのだという思いが絶望に誘う。まるで砂漠の砂嵐だ。僕にできるのはそれが完全に走り去るまで頭を抱え息を殺してひたすら待ち続けることだけだ。

鎌倉物語 164

「明子は今言ったことをきちんと自分の腹に落としている」とサエキ氏は言い、見晴台の手すりにもたれて再び海の方に視線を投げる。さっきまでの霧雨はぴたりと止み、沖の空はうっすらと明るくさえなってきている。
「初めから死という言葉なんてない」と彼は続ける。「そんな言葉があるから生きることに対して矛盾を感じるようになる」
 そう言ってサエキ氏は鋭い目をさらに細くする。
「だったら」と僕は思い切って言葉を出す。彼への対抗心があったのかもしれない。「あなたが今になって僕の前に現れているのはなぜですか?」
 サエキ氏は表情一つ変えずに、相変わらずの眼光で風と向き合っている。さっき見たばかりの高徳院の大仏の顔つきとどこか通じるものを感じる。
「我々は自由に交流することができる」と彼は言う。
「答えになってません」と僕は反論する。
「なってる。君が真面目に理解しようとしないだけのことだ」
 サエキ氏はあっさりとそう言った後、冷淡な瞳を改めてこちらに向けた。特に威圧的というまなざしではない。だのに僕はその視線に圧倒されそうになる。しかしここで負けるわけにはいかない。僕は自らを奮い立たせてさらに口を開く。「あなたはいまだに生きることへの未練があるんじゃないのでしょうか?」
 サエキ氏の肩越しに広がる空がどんどん明るくなっている。それは僕に勇気をもたらす。これまでずっと心にためておいたことを訊くなら今しかないと思い、僕は唾を飲み込む。

鎌倉物語 163

「このお寺はね、梅雨の時期になると紫陽花でいっぱいになるのよ」と明子は歩きながら言う。山門を抜けたところには美しい池が2つ並んでいて、彼女の言うとおり紫陽花の株が池の周りいっぱいに広がっている。僕はサエキ氏と明子が寄り添いながら満開の紫陽花の中を歩く姿を思い浮かべる。それは2度と戻りはしない遠い光景のはずだ。しかしどうしたことか、手を伸ばせば届きそうなほどすぐ近くにあるようにも思える。
「そんなに深刻になるなよ」と乾いた声が高台から聞こえる。サエキ氏は長谷寺の見晴台に立ち、そこから湘南の海を眺めている。「あれこれ考えたって仕方ないんだ。人は皆死ぬ。夏目漱石は自らの死に思い悩んで円覚寺に籠もったんだ。胃潰瘍になるくらいに思索して、その結果寿命を縮めたんだ。漱石が死んでからとっくに100年以上経ってる」
 サエキ氏は茶色がかった前髪をかき上げる。肩には白いセーターを引っかけている。
「たとえば1000年っていう単位で考えてみなよ。そうすれば今現在の正しい立ち位置というものが見えてくるから。人生はつかの間の灯さ。永遠に続く時間の中で極めて限られた瞬間を生きてるだけだ。つまり人は生きてるようで死んでるのさ。これこそが大きな矛盾だ」
 彼は初めて僕の方を見る。その瞳はどこか冷淡にさえ映る。
「でも、実は生と死は矛盾しないのだと気付く時がくる」とサエキ氏は言う。「死んだ時だ。人は死んだ後になってはじめて自らの人生の意味を知る」
 僕はサエキ氏に向かって尋ねてみる。
「それは明子にも伝えたことなんですね?」

鎌倉物語 162

 はたしてこれまでの人生の中でこんなにも息が詰まるくらいに人を好きになったことがあっただろうか?
 僕はふと佐織のことを思う。あの頃たしかに僕は佐織を愛していた。そうして彼女も僕を愛してくれていた。佐織は一見弱そうで実は芯の強い女性だった。しかし芯の強い女性というのは脆さを抱え込んでいるものだ。僕は彼女のそういう部分が好きだった。だのに僕は大学を卒業したもの寂しさの中で美咲に恋に落ちてしまった。瞬く間に心を奪われたのだ。そのことでどれほど佐織を傷つけただろう。
 明子は佐織とどこか似たところがある。しかし明子の抱えている闇は佐織の脆さとは異質のものだ。その深さは計り知れない。そして何より彼女が僕をどう思っているかのかが見えない。
 とはいえこの2日間で僕たちの距離は確実に縮まった。明子を理解するということは彼女の抱え込んできたたまらなさを理解することと同じだ。そうしてそのたまらなさの世界に入り込んでゆくことで、僕は彼女をより激しく愛するようになった。愛とは安定や均衡の中にあるのではなく、哀しみや孤独に近いところにある。それゆえ僕はこの長谷寺でサエキ氏との想い出に浸ろうとしている明子に対して胸が焦がれるくらいのやるせなさを覚え、その分狂おしいほどに彼女を求めているのだ!
「このお寺の見所っていろいろあるんだけど、やっぱり日本最大級の木造の観音様よね」と明子は僕の心にまるで気付いていないように言った。それから彼女は本堂の方を振り仰いだ。というのもこの寺は山を切り開いた場所に建てられているために、主要な伽藍は山門よりも高いところに並んでいるのだ。
「なつかしいなあ」と明子は少しだけ声を高くした。

鎌倉物語 161

 高徳院の参道である「大仏通り」をしばらく南下していると「長谷観音前」の交差点が現れる。それを右に曲がれば老舗風の旅館や和風料理店やオルゴール館などがずらりと軒を連ねていて、その道の突き当たりに長谷寺の山門が姿を見せる。背後は山に囲まれているあたり円覚寺を思い起こしもするが、あの寺の山門ほどは威光を放ってはいない。かといって寿福寺の山門ほど素っ気なくもない。
「昨日円覚寺に行った時に、禅寺にとって山門は修行者の覚悟を試すために威厳をもたせてあるんだって言ってたね。あれからいろんな寺を巡ったけど、君の言うとおり門はその寺をよく表してるってことが分かる気がするよ」と僕は言った。
 山門には提灯が1つぶら下がっている。雷門の縮小版といった趣だ。門だけ見てもやはり北鎌倉の寺院とは違った風情を醸している。明子は穏やかな表情でうなずいて、「それにしても円覚寺に行ったのが昨日のことだなんて信じられないわね」と抑揚のない言い方をした。 
 じつは僕も同感だった。明子と過ごした鎌倉での2日間は、長いというよりは深い時間だった。僕たちにとっては大切なきっかけにもなったはずだ。
 この3年間均衡を保ち続けてきた僕たちの関係は、今回の旅を経てどこかに向かって動き出そうとしている。その「どこか」とは2つしかない。1つは僕と明子はこれからずっと一緒に暮らすという道だ。そしてもう1つは、サエキ氏を未だに愛している明子が僕の元を離れるという道だ。そうなった場合、僕はこれまでの自分でいられるかどうか分からない。というのも、鎌倉に来てから僕は明子の心の闇をより身近に感じるようになっている。そうしていつの間にか以前にも増して切ないほどの恋心を抱くようになっているのだ。

鎌倉物語 160

 そういえば鎌倉に来てからというもの、頭痛や眩暈に襲われたりデジャブの感覚にとらわれたりすることが多くなっている。そうして現実感覚がぼんやりと崩れそうになるたびに何らかの暗示を感じ取っていた。それが何を示すのかつかめそうでつかめなかったのだが、山本氏の姿が入り込んだ今になって「生と死にはきちんとした仕切りなんてないのだ」という声がはっきりと耳の奥に響く。最初は山本氏の声だろうと思った。しかし時が経つにつれて別の人間の声のようにも聞こえてくる。聞き覚えがあるが結局誰の声か分からずじまいだ。それでも僕はもやもやが少し晴れたような気がした。
 すると明子が「ねえ」と話しかけてくる。幻聴かと思ったが彼女がこっちを向いたのでそれと気付いた。「もう1カ所だけ寄りたいところがあるんだけど」
 霧雨のせいで風がひんやりと感じられるものの雨粒は大きくなってはいない。むしろ降っているのかどうか空を見上げなければ分からないほどだ。
「こっちは問題ないけど、君の方はできるだけ早く帰りたいんじゃなかったのか?」と僕は言った。明子はとぼとぼ歩きながら「うん、でも、せっかくここまで来たわけだし。このすぐ先のお寺なんだけど、海が見えて私のお気に入りの場所だったの。何十年かぶりに見ておきたいの」と言った。
「お気に入りの場所だった」という言葉の中には、過去にサエキ氏と一緒に訪れたことがあるということが含まれていることくらい僕にも分かった。彼女は「NAGISA」のレストランで、サエキ氏は鎌倉の海が好きだったと言っていたのだ。つまり彼女はサエキ氏が好きだった場所に行って、彼との想い出にもう一度浸りたいのだ。

鎌倉物語 159

 大仏に別れを告げて再び高徳院の仁王門を抜けようとした時、ついに小雨がぱらつき始めた。霧雨と言った方がよさそうなほどの微細な粒だったが、参道を登ってくる人たちの中では雨傘の花もちらほらと咲き始めていた。
 明子は僕に、傘を持っているかと気遣ってくれた。これくらいの雨じゃまだ傘は必要ないだろう、もし強くなれば長谷駅前のコンビニで買えばいいと答えると、彼女は安心した様子で「そうだね」と言った。
 僕は最後にもう一度振り向いた。仁王門の間からは、人だかりに囲まれた大仏が不機嫌そうに定印を結んで座しているのが見える。そこにこの雨である。ますます寒そうに映ってしまう。
「どうせ人間は寿命が来たら死ぬんだ。今からあれこれ考えたって仕方ない」というサエキ氏の台詞が頭の中でくすぶっている。原子力事故で若くしてこの世を去った人間の言葉だけに、生前のサエキ氏を知らない僕でさえ深く重いものを感じる。いくら達観していたとはいえ、サエキ氏は死にたくはなかったはずだ。そう考えるとこの僕だっていつどうなるか分からない。明子はというと「生きながら死ぬ」という境地に憧れている。
 高徳院の参道を歩く人々。そこにけむる霧雨。今から800年前には名もない民衆がこの場所に集い命がけで大仏建立に尽力したのだ。彼らは何を夢見たのだろう?
 この道を歩きながら僕は生と死の間に一体どれほどの差があるのかと考えた。するとすきま風のように山本氏の記憶が心に侵入してくる。彼は5年前に亡くなっているという。だとすれば昨日僕たちに語りかけてきたのは一体誰だったというのか。雨の参道を下りながら、僕はまた頭痛を覚え、眩暈に襲われる。
作者

Author:スリーアローズ
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