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京都物語 29

 アパートに帰ってから僕はジンをロックで飲んだ。夕刻に近づいてはいたもののまだまだ日は高く、ことのほかジンが応えた。立て続けに喉に流し込んでいるうちに思考は溶け始め、心に突き刺さっていた氷のとげも徐々に消滅してゆくのを感じた。
 ふと目が覚めたとき日はすっかり落ち、部屋は静寂に包まれていた。ジンのせいで頭が痛み、結花のことで心が痛んだ。携帯電話を手に取って見ると、そこには何の着信も入ってはいなかった。時刻は21:05を示している。
 台所へ行って冷たい水を飲む。頭がいくぶんかシャキッとしたところで服を脱ぎ、熱めのシャワーを浴びた。意識が元に戻り始めても、さっき結花と別れてしまったということだけはどうしても信じられない。彼女のぬくもりはまだそばにあるような気がしてならない。今ならまだ間に合うかもしれないと思うと、ますます意識が冴えてくるようだった。
 濡れた身体にバスタオルをあてがいながら、冷蔵庫を開けてビールを飲んだ。よく冷えたビールだった。それからトランクスを穿き、バスタオルを肩に掛けたまま居間に移動する。そしてテレビの上に置いてある明子からの手紙を手に取る。便箋を広げると、そこには明子の世界がふわっと立ち上がる。僕はその出だしの部分に改めて目を通す。
「秋が深まってゆくにつれて、心の方も枯れてゆくのを感じてしまいます。『心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ』と詠んだ西行の気持ちが、ここにいると身に染みるようです」
 暗記できそうなくらいに読み込んだ手紙だが、読めば読むほどに当初の印象は変わってきている。京都に行くしかないという運命に僕は呑み込まれているのだ。
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京都物語 28

 結局僕たちは揃って「トチの木」を出ることになった。そうして何も言わぬままビルの裏の駐車場まで歩いた。この時になって彼女はめったに見ない厚手のロングスカートを穿いているということに気付いた。
 結花の黄色いマーチのそばまで来たところで僕たちは足を止め、互いに向き合った。僕は彼女を見下ろし、彼女はうつむいていた。
「じゃあね」
 結花は息を吐くようにそう言ってからきびすを返し、そっと車のドアに手をさしのべようとした。いつも近くにあったはずの彼女の背中が哀しいくらいに遠くに感じられた。「ああ、結花は本当にこのまま僕の元を去ってゆくんだな」と真に実感した瞬間、これまでずっとこらえてきたさまざまな感情が轟音を立ててあふれ出し、洪水となって僕をさらった。
 結花の肩に手を掛けた後は何がどうなったのか覚えていない。彼女が持っていたハンドバッグを地面に落とした音だけがその場に鳴り響いた。気がつけば結花は僕の胸の中にいた。なつかしい、結花の身体がそこにあった。心が溶岩のように流れ出してしまいそうだった。
 結花は最初こそ小さく肩を震わせるだけだったが、ある時点を過ぎてからは声を上げて泣いた。僕のシャツはまたたく間に結花の涙で濡れた。そして僕の目からも涙が流れ出していた。僕たちは真昼の駐車場の真ん中で抱き合って泣いた。そうして2人とも自分の思いを最後まで言葉にできぬまま、ただ時間だけが経過した。
 結花のマーチが静かな排気音を立てて駐車場を去った後、僕は1人で立ちすくんだ。太陽がまぶしすぎて痛みさえ覚えるほどだった。表通りからは車たちの行き交う音がまるで前世からの声のように暗示的に耳に入ってきた。

京都物語 27

「私は・・・」と結花はさみしそうな声を上げ、すぐに目を伏せた。ほんのりと口紅の塗られた唇はわなわなと震えていた。彼女は歯を食いしばって必死に涙をこらえていたのだ。結局その後に続けようとしていたはずの言葉も外に出さずに踏みとどまった。
 僕は彼女がそれ以上何も言わないのを見て、ああ、これで僕たちは本当に終わるんだなと悟った。焼けるような嫉妬に噛み殺されそうになっている今、結花を目の前にするとますます苦しくなるばかりだった。この場からすぐに立ち去らなければとても身がもたなかった。最後の最後まで僕は卑怯だったのだ。
 明子のことをきちんと説明することができればどれほどよかっただろう。そうすれば結花も少しは分かってくれたかもしれない。だが明子と僕の関係はそう簡単に説明できるようなものではない。魂、宿命、因縁・・・そんな言葉を散りばめたところで何が伝わろう。ますます結花を混乱させるだけだ。
 たしかに僕は卑怯だったが結花のこれからのことを考えると、卑怯なまま、恨まれる存在としてこの場を去るというのも1つの選択肢として有意義だと思った。意を決して席を立とうとしたその瞬間、結花は震える口を開いた。
「最後だけは、きちんとしときたかったんだ」
 それは紛れもなく彼女の本心だった。だが本当に言いたかった言葉はまだ別にあったことだろう。その証拠に彼女の表情には愁いを帯びた大人の女性の色がにじみ出ていた。
「あなたには、言葉にならないくらい、感謝してるんだよ」
 結花はそう続けて、再度作り笑いを浮かべてみせた。歪んだ笑顔だった。

京都物語 26

「今ね、声を掛けてくれる人がいるんだよ」
 僕は結花が何を言ったのかすぐには呑み込めなかった。それで頭の中で何度も今の言葉を再生した。5回以上繰り返したところでようやく意味がつかめた。それと共に全身から血の気が引いてゆくのを感じた。結花はさっきまでの無理矢理な作り笑いではなく、きちんと血の通った笑顔を僕に向けた。窓から差し込む秋の日差しに似つかわしい笑顔だった。
「それがおもしろいのよ。高校の時の同級生なの。フェイスブックに入ってきたの」と結花は言い、すっかり氷の溶けた水を少しだけ口に含んだ。「最初は名前を見ても誰だか分かんなかったけど、いろんな思い出話を書き込んできて、やっと気付いたの。そういえば私、高校を卒業する前に告白されてたんだよ、その人に。不思議な縁だね」
「会ったの?」と僕は思わず訊いた。はしたない言葉だという認識はあったものの、だからといって黙っておくわけにはいかなかった。その質問に結花はゆとりのある瞳を向けて「もちろんまだだよ」と答えた。それからまた沈黙が訪れた。
 苦しくて、息が詰まりそうで、胸が炎上しそうだった。指先は震え、足腰はガクガクした。すぐにでも席を立ち上がって結花を抱きしめなければ心が本当に壊れてしまいそうだった。おそらく僕はとんでもなくひどい表情をしていたことだろう。今思えばすべてが僕の卑怯さの代償だったのだ。結花は目を細めて、「そんなにさみしそうな顔をしないで」と言ってきた。すると僕の喉から「違うんだ」という言葉が荒々しく出てきて、店内に響いた。なぜそんなことを言ったのか自分でも分からなかった。これまで経験したことのないほどの窮境にはまりこんでしまった僕は、必死でそれをかき消そうとしたのだろう。

京都物語 25

「あなたのことが好きじゃなくなったってわけじゃないのよ」と結花は続けた。「ただ、ほんの、ちょっとしたことなの」
 結花はあえて遠回しな言い方をしたが、僕には彼女の思いが痛いほどに伝わっていた。しかし残念ながら彼女の思いに応えるべく言葉をその場で考えつくことはできなかった。結花は僕からの言葉を待っているのだろうと勝手に思い込んでいたために、彼女からの予想外の言葉に対応することができなかったのだ。僕はただミイラのように口を中途半端に開けて固まるばかりだった。
 それでもやはり結花は待ち続けているかのようだった。それはたぶん彼女にとっては最後の望みだったはずだ。だがすっかり枯れ果ててしまった僕の顔としばらく対面しているうちに諦めがついたのだろう、薄笑いと共にため息をつき、小さくこう言ったのだ。
「楽しかったね」
 それから結花は再び窓の外に目をやった。
 その言葉は乾ききったはずの僕の心を激しく揺さぶった。そうして「タッくんといると楽しい」という以前の無邪気な結花の声が頭の中で不協和音のように響き渡った。
 かといって「今でも結花のことが好きなんだよ」ということも言えなかった。そう言ったところで続きがなかったからだ。まして明子のことを説明できるはずもなかった。
 窓の外にあるあらゆる事物を眺め尽くした結花は、おもむろに僕の方に顔を向け、カルボナーラに手をつけないのかとやさしい口調で尋ねてきた。僕は「うん」という曖昧な返事しかできなかった。
 すると彼女はまた予想外の話をしてきた。

京都物語 24

 料理が運ばれるまでの間、僕たちは黙り続けた。まるでお見合いでもしているかのような気まずさだった。結花は片方の手で頬杖をついたまましきりに窓の外を気にするような仕草を見せた。窓の外に注目すべき何かがあったわけではない。僕の顔を正面から見ることができなかったのだ。
 僕は改めて結花が好きだと心の底から実感していた。おそらく結花も同じ感覚を心に浮かべているだろうということもちゃんと伝わっていた。歯痒かったのは、こんなにも好きな女の子をこんなにも苦しめておきながら、この子を安心させる言葉を掛けてやることができないということだった。しかもそれはどんな言葉なのか僕には分かりきっていた。にもかかわらずどうしてもその言葉を口にすることができなかった。仮に同じ状況が100回訪れたとしても、その言葉を外に出すことは絶対にないだろうという確信すらあった。
 そういう意味において僕は冷静だった。そしてその冷静さがますます結花の心にダメージを与えるであろうことも分かっていた。つまり僕は悪人なのだ。結花のような理想的とも言える女の子に愛される資格などない。はなから不釣り合いだったのだ。結花は僕と別れた方が幸せになれる。そう考えると心が少しは慰められる気がした。
 間もなくして結花のハンバーグと僕のカルボナーラが運ばれてきた。彼女はようやく前を向き、小鳥がエサを啄むかのようにして、好きだったはずの料理を少しずつ口に持っていった。だが半分も食べないうちにうつむいて、ナイフとフォークを静かにテーブルに置いた。
「これまで、ありがとう」
 結花は顔を上げて突然そう言い、さっきの作り笑いをもう一度浮かべてみせた。僕はピストルで胸を射抜かれたような気分になった。

京都物語 23

 その日は3日ぶりの青空だった。2月にしては珍しいほどの温かな昼下がりで、乾いた空気の匂いが路上に漂っていた。
 「トチの木」の店内に入ると客はまばらだった。たしか2年前に結花と来た時には多くの客で賑わっていたはずだ。なにしろここは老舗レストランとして知られているのだ。そういえば表通りに新しくできたファミリーレストランは食事時になるとどこも人であふれかえっている。2年の間で街もずいぶんと様変わりしてしまった。
 結花は窓際の一番奥の席に座り、両肘をテーブルに置いたままスマートフォンを指でなぞっていた。髪は目元を隠すまでに伸びている。頬はずいぶんとやつれたような印象だ。すべては僕のせいだ。
 僕が結花の前に座ってもなお彼女はスマートフォンに視線を落としていた。彼女はそのまま「久しぶり」とだけ言った。僕も同じ言葉を低い声で返した。
「ごめんね、呼び出しちゃって。用事があったんでしょ?」と言いながら結花はスマートフォンをバッグにしまった。去年僕が買ってあげた吉田カバンのショルダーバッグではなく、見たことのない古いハンドバッグを今日は持ってきていた。「用事はないよ」とそのバッグに目をやりながら言い、冷水の入ったグラスを口にしたとき、結花の目元にふっと影が落ち込んだのが分かった。しかし彼女はすぐに唇の両端をつり上げて笑顔のような表情を作ってみせた。「用事はない」という言葉が彼女の心にどれほどダメージを与えるのか、無神経な僕は前もって気付かなかったのだ。
 結花は特製ハンバーグステーキを注文した。2年前に食べた料理だ。彼女はここのハンバーグがまた食べたいとずっと話していたのを今になって思い出した。

京都物語 22

 あの時僕は孤独の淵に突き落とされ、失意の日々を送った。もう誰も愛せないと固く信じることで何とか感情の均衡を保っていた。そんな時、奇跡の光を差し向けてくれたのが結花だった。結花を愛したのは、つまりごく自然な流れだったわけだ。だが明子が再び僕に寄り添い始めた今、過去に苦しみ抜いた分だけ、明子の占める割合がじわじわと大きくなるのを感じずにはいられなかった。しとやかな笑顔、柔らかな肌、清潔な香り・・・忘れていた感覚が次第に蘇ってくるようだった。
 同時に結花への思いは罪悪感へと形を変え始めた。今の苦境をどう伝えればいいのかその手段がまったく思い浮かばず、八方塞がりの状態にはまってしまった。
 久しぶりに結花からメールが届いたのは、そうやって僕が頭を抱えている最中のことだった。
「元気にしてますか? 久しぶりにランチでもとりませんか? あなたに連れて行ってもらった『トチの木』に行きたいです。次の日曜の昼の1時でどうでしょう?」
 僕はそのメールを胸がふさがるような思いで眺めた。まずこれまでならふんだんに散りばめられていた絵文字が1つも使われていない。それに「タッくん」という呼び方が「あなた」にすり替わっている。彼女が僕に指一本触れさせなかった時代に逆戻りしたかのような文面だった。不自然なまでに素っ気ないメールで結花が何かを伝えようとしているのは明らかだった。だが僕には彼女の意図を洞察する気力も体力も残されていなかった。
「トチの木」といえば初めてのドライブの時に寄ったレストランだ。結花がなぜあの店を選んだのかを想像すると恐ろしくもあったが、かといってさんざん悩んで送ったであろう彼女のメールを無視するわけにもいかなかった。
 僕はずいぶんと考え込んだ後で返信を送った。

京都物語 21

 それからというもの何をやっても上の空だった。仕事も手につかず、単純なミスを何度も繰り返した。フラメンコに誘ってくれたカナという同僚が結花の話を引っ張り出すことを常に案じ、自ずと彼女から遠ざかりがちにもなった。
 心は真っ2つに割れていた。これから結花との関係をどうすればいいのかという悩みが半分を埋め、もう半分は明子のことが占めていた。僕にはカメレオンの目のように1度に複数の対象を捉えることなどできない。だからいつも結花か明子のどちらかの幻影が意識の中に立ち現れ、両者の間をあてもなく行ったり来たりするだけだった。夜も寝覚めがちで、頭がぼんやりし、そろそろ理性的な判断が難しくなっているのを感じ始めていた。
 信じがたいことだったが、僕は同時に2人の女性を愛していたのだ。もしそれが他人の身に起こったことなら、きっと嘲笑するにちがいない。だが今は苦しさの余り身動きが取れなくなっている自分の姿がここにあるのだ。
 ところが、明子からの手紙を受け取って2週間ほど経った頃、心の中のシーソーがぐらついてきた。「人生とは過去の積み重ねだと思うの」と明子がよく言っていたのを思い出したのだ。その言葉通り彼女は過去に囚われながら生きてきた。僕としてはそういう生き方から脱却して、何とか将来の生活を指向してほしいと静かに願い続けてきた。
 だのに今、僕は過去の沼に引きずり込まれそうになっている。3年前、明子は僕の元から忽然と消えた。置き去りにされたのだ。僕たちは魂の深いところで愛し合っていたはずだった。少なくとも僕にはその実感があった。だからこそ明子の失踪がどうしても理解できなかった。
 あの時の胸が締め付けられるかのような痛みが4年の時を経て再び目を覚まそうとしていた。

京都物語 20

 結花はいつもと同じ時刻に僕の部屋のドアを開けた。彼女の笑顔と対面したとき、自分の顔がおそろしく歪んでいるのをありありと自覚した。明子についての悩みを結花に出すわけにはいかないと焦るあまり、全く別の膜を顔面にびったりと貼り付けていたわけだ。
 土曜の夜は僕が夕飯をこしらえて仕事帰りの結花と2人で食べるのが通例になっていたが、チャーハンの味付けはいつもよりも濃く、スープは逆に何の味もしなかった。これが自分の作った料理なのかとあきれるばかりだった。純粋な結花の感覚がそんな苦し紛れの道化に気付かないはずがなかった。何の罪もない彼女は、チャーハンを食べながら浮かない面持ちで横目がちに僕を見た。心配してくれていたのだ。今朝の僕ならそんな結花がますます愛おしくなり、迷わず抱きしめていただろう。ところが心のど真ん中に罪悪感という巨大な塊を抱えた今は、感情が枯渇している。どうすればいいのやらただ戸惑うだけで必死の道化を演じるのが精一杯だった。
 食事の後は必ずセックスをすることになっていた。1週間分の愛情を慰め確かめ合ったのだ。この日も僕たちはベッドの上で裸になった。結花はいつもと変わらぬふうに心のこもったフェラチオに時間をかけ、それが終わると自らの中に僕を入れて踊った。しかしいくら結花が尽くしてくれたところで、今抱いているのが結花だということがどうしても信じられないでいた。
 そのうち結花はいつもよりも甲高い声を上げ始め、乳房を僕の顔に何度も近づけた。僕の変調を自らの力でかき消そうとするかのようだった。僕もどうにかそれに応えようと努めてはみたが、どうしてもこれまでのようにはいかなかった。心と体がバラバラだった。
 結局、それが結花とのラストダンスになってしまった。

京都物語 19

 僕はその手紙を3回繰り返して読んだ。1回目は大まかな筋を、2回目は1字1字を凝視しながら、3回目は行間にも注意を払い集中して読み込んだ。しかし読めば読むほど頭がごちゃごちゃするだけだった。率直なところを言うと、明子が僕のことをどう思っているのかが知りたかったのだ。4年前には彼女に愛されているという実感が僕にはあった。たしかに文面の端々に彼女らしい配慮を感じないわけでもない。だが今なお彼女が僕を愛しているという確信をもつには至らないのが何より残念に思えた。
 次に気になったのは今明子はどこにいるのかということだった。手紙の冒頭「西行の気持ちがここにいると、身に染みるようです」とある。こことはどこか? 真っ先に想像できるのは京都だ。ただもし彼女が京都にいるのならどうして橘真琴なる人物を自分で捜すことができないのかという疑問が必然的に浮かび上がってくる。
「秋が深まってゆくにつれて、心の方も枯れてゆくのを感じてしまいます」「私にはもう時間がありません」「きっと、これが私からあなたへの最後のお願いになるはずです」
 これらの表現は一体何を意味しているのだろう? まさか死のうとしているとでもいうのか? それとも僕を試しているのか? ただ、僕の知る限り、明子は駆け引きなどをするような女性ではない。
 ソファにもたれながら僕は頭痛を感じた。ほとんど数年ぶりのなつかしい痛みだ。秋の夕暮れは早い。窓の外ではさっきまで青かった空に金色が混ざり始めている。少しだけ開けた窓からはひんやりとした風が吹き込んでくる。僕は立ち上がり、サッシ戸を閉める。時計は4時を回ったところだ。そろそろ結花が来る時間だった。

京都物語 18

 ただ、その方に封筒を渡すことができたなら、ひょっとして私の心をあなたにより正しく伝えることにもつながるかもしれないというささやかな期待もじつはあるのです。
 とは言うものの、すべてが私の身勝手だということももちろん分かっているつもりです。あなたの元を離れて、そうしてこの手紙を書いてみて、ますます自分の愚かしさがよく見えるような気がします。それを承知の上でさらにあなたにお願いをするわけですから、もうつける薬がない状態だということなのです。
 もしそれでもあなたが私の願いを聞いてくださるなら、あなたのお仕事や生活の上でいろいろなご迷惑もかかりましょう。おそらく宛名の方は京都の中にいらっしゃることと思います。ですから手紙を渡すには京都に足を運ぶことになると思います。
 京都タワーの裏手に京都銀行の京都駅前支店があります。そこの貸金庫にわずかばかりの必要経費を預けてあります。すでに代理人登録が済ませてあり、暗証番号は「akiko-0317」となっています。高木さんという事務部の次長にことづけてありますので、その方に問い合わせてみてください。それと、受け取る際には身分証明が必要ですから、免許証などをくれぐれも忘れないようにしてください。
 本来なら私がやらなければならないことを、よりによってあなたに押しつけてしまい、ほんとうにごめんなさい。きっと、これが私からあなたへの最後のお願いになるはずです。あなたが私の願いを叶えようと行動する過程において、いろいろなことに気付いてくださることを遙かに望んでいます。
 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 明子

京都物語 17

貴史さんへ
 秋が深まってゆくにつれて、心の方も枯れてゆくのを感じてしまいます。
「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」と詠んだ西行の気持ちが、ここにいると身に染みるようです。
 貴史さん、お元気ですか? 
 分かってます。唐突にお便りしてびっくりされてるでしょうし、おそらくひどく憤慨されてもいるでしょう。でも今の段階では、私には心から謝ることしかできないのです。ほんとうにごめんなさい。ただ、どれだけ言葉を重ねたところで、許してもらえないことは十分に承知しています。だから私は別の形であなたへの謝罪の心を表すしかないと考えています。いずれは分かってもらえるように・・・
 もちろん、お便りしてよいものかどうかずいぶん悩みました。いきなりあなたの元を去ってしまったわけですから。あなたはこの手紙を見てさえくれないかもしれない。それも承知です。にもかかわらず今回お便りしたのは、折り入ってあなたにお願いがあるからです。それはこの世であなた以外には頼むことのできないお願いなのです。
 あなたへの手紙と一緒にもう一通封筒を同封しました。それをその方に渡して頂きたいのです。その方は3年前に、京都の大谷大学大学院文学研究科の客員教授でいらっしゃいました。私はそこでその方と出会い、大きな学恩を受けました。ところがその方は自身のことは一切語られなかったために、連絡のしようがないのです。私にはもう時間がありません。だからあなたに託すしかないのです。

京都物語 16

 あえて封を開けないという手もなくはなかった。そのままシュレッダーにかけてしまえば明子のことを封印し、残された人生を結花と送ることができるのだ。その方が何よりも尊い「ありふれた幸せ」を得ることができるというのは自明の事実だった。僕は手紙を持ったままあらゆる想像を巡らしながら、封を開けるか開けまいか悩みに悩んだ。
 座って考えるだけでは埒が開かないので、台所に戻ってコーヒーを入れ、それから簡単にトイレの掃除もした。外に出て青空を見上げればいいアイデアが浮かぶかもしれないと思い、アパートから目と鼻の先にある果物屋に行って艶のいいグレープフルーツを1つ買ったりもした。その後再び居間に戻ってソファの上に放置されたままの封筒を改めて眺めた。だが依然として心は晴れなかった。何の変哲もない事務的にさえ見える封筒がかえって明子らしい。封筒は沈黙のうちに語りかけてくる。「あなたには封を開けないことはできない」
 僕が我慢比べに勝てるはずはなかった。このままずっと考え込んだところで答えが変わるわけでもない。僕は仕方なく封筒を手に取り、ソファに腰掛けた。緊張で息が詰まった。溺れている時のように何度も息つぎをしながらやっとのことで封を開けた。
 中には2通の封筒が入っていて、1つは僕宛で、もう1つには「橘真琴様」と見覚えのない名前が記してあった。とりあえずその封筒を横に置き、僕に宛てられた封筒の方をもう一度慎重に開封した。
 封筒にはきちんと折られた白い便箋が2枚収められていた。その上に整然と書き連ねてある明子の字と久しぶりに対面したとき、ああ、これでひとつのファンタジーが終わったんだなという実感が心を重くした。それは同時に、次なるファンタジーの入口をも意味するのだということも僕には分かっていた。

京都物語 15

 かくして「その日」は音も立てずにやってきた。結花とつきあい始めて1年と半年が経っていた時だ。
 それはよく晴れた土曜の午後で、ちょうど昼食の片づけを終え、ソファに寝転がってテレビでも見ようかと思っていた矢先のことだった。すると玄関ドアに備え付けられたポストに郵便物が投げ込まれる音が響いた。覗いてみると、スーパーマーケットの特売を知らせるダイレクトメールや銀行からの通知の中に、大きめの茶封筒が1通含まれていた。
 今冷静に考えれば、封筒の裏に記された差出人の名前を見るまでそれが明子からの手紙であることに気付かなかったというのも驚くべきことだった。つまり結花との生活は、あれほどまでに僕の心を激しく揺さぶり続けた明子のことをも忘れさせていたということなのだ。以前の僕からすると奇跡に近いことだった。
 そこには住所は添えられておらず、名前だけが心細そうに記されていた。端正で少し角張ったそれでいて控えめな感じのする明子の字をおよそ4年ぶりに目の当たりにしたとき、僕は非常な不意討ちを喰らうことになった。後ろから木刀で殴られたような錯覚を感じ、思わず床に落としてしまった封筒を拾うことすら戸惑うほどだった。
 それから居間に入り、ソファに腰をうずめ、手紙を持ったまま石のように固まった。中にどんなことが書き連ねてあるかを想像するだけで全身が震えた。正直なところを言うと、どうすればいいのかと途方に暮れていたのではなく、結花に対して心から申し訳ないという思いが一瞬のうちに心のすべてを暗くしていたのだ。折しも、結花はそろそろ僕と結婚したいという思いを、ふとした仕草を通して僕に伝え始めていた時だった。

京都物語 14

 今、こうして振り返ってみると、あの時僕たちはファンタジーの中にいたのだとつくづく思う。この僕があれほどまでに満たされたのは、つまりはそういうことだったのだ。
 ただ、何もそのことを否定的に捉えているわけではない。ファンタジーこそがほんものの世界だと感じる瞬間もよくあるからだ。単なる僕の願望だと言われればそれまでかもしれない。だが、毎日職場でデスクワークに追い立てられ、つかの間の休日には疲労で外に出る気すら起こらずに1人部屋の中でだらだらと過ごすという生活パターンの繰り返しに、いったいどれほどの現実感覚があるというのだろう? もしそれが僕にとっての現実であるならば、生きることとは何と無味乾燥な行為なのかとため息しか出ない。
 結花と出会いファンタスティックな時間を共有できたのは、そういう観点からするときわめて幸せなことだった。おそらく僕は死ぬまで結花と過ごした甘美なひとときを忘れることはないだろう。死んでもなお、僕の魂はあの時の記憶を含みながらさまよい続けるはずだ。結花は僕にとっての永遠の恋人なのだ。
 もちろん、これから死ぬまでずっと結花と暮らすことができればどんなに幸せかと思う。事実、僕たちは心からそれを望んでいた。まして結花の方はほぼ決まりかけていた結婚を止めてまで僕の懐に飛び込んできたわけだ。彼女に強い思いがないはずがなかった。
 つまり問題はやはり僕の方にあった。結花との時間を1日ずつ大切に重ねようと言い聞かせながら、一方で戦々恐々とし続けたのも、長年の間僕が直面してきた問題の重さを自認していたからにほかならない。
 いつかは「その日」が来るかもしれないと恐れていると「その日」はほんとうに来る。哀しいことに、僕にとっての人生とは、そういう意味では常に思い通りになるものなのだ。

京都物語 13

 あくる日の日曜は2人でディズニーランドを歩いた。東京へは仕事でよく来るが、ここに入るのは初めてだった。それも8つも年下のレギンスの似合う女の子と手をつないで歩くとは予想だにしなかったことだ。人生は時に思ってもみない方向へ進むこともあるものだと実感させられるばかりだった。
 感心したのは、すべての建造物に手が込んでいて洗練されていることだった。アトラクションも地方の遊園地などとは比べものにならないほど充実していた。入園してすぐに僕もすっかり童心に返ってしまっていた。結花はそんな僕以上に足取りを弾ませた。
「これまで何度も来たけど、今日が一番楽しい」と甲高い声で繰り返し言い、愛を込めた眼差しで僕を見上げた。それは昨夜の艶やかな女性とはまるで別人に見えるほどの、少女の瞳だった。日曜ということで普通に歩くのも難しい人の多さだったが結花は何度もキスをねだってきた。それで花壇や樹木の陰に隠れては唇を合わせた。
 山口に戻ったのはその日の最終の飛行機でだった。そうして結花はその足で実家に戻った。次の日から介護福祉施設での新たな仕事が待っていたのだ。
 2週間ぶりに1人で自分の部屋のソファに座った僕はハイボールを飲みながらひたすら結花のことだけを考えた。彼女は付き合えば付き合うほどにいとおしいと思わせる。付き合ってから時間が経てばとかく嫌な部分も目についたりするものだが、結花は違った。新たな恋の花火が毎日心のどこかで上がっては、愛の海に溶けていく。もう誰も愛せないと悟っていた日々がまるで前世での記憶に思えるくらいだった。
 その時確かに僕は結花を深く愛していた。満たされるというのはこういう感覚なのかと初めて教わった気がした。

京都物語 12

 僕の動きに呼応するかのように結花はかすれた声を上げた。彼女は眼下に広がるディズニーランドに向かって「ねえ、私たちをちゃんと見て、私たちここで愛し合ってるから」と叫んでいるかのようだった。僕は後ろから結花の乳房を手に包み、乳首を指の間に挟みながら下半身を合わせた。すると彼女は背筋を反らせて子猫のように鳴いた。それはもう少女の声ではななかった。
 結花はこのまま大人の女性への階段を1歩ずつ上がっていくのだ。そんな予感が青黒いインキのようにゆらゆらと広がった。もし僕と出会わなかったら無邪気な女性のままでいることができたのかもしれない。
 僕の脳裏にはこれまで関わってきた女性たちが思い起こされていた。もはや学生時代の甘酸っぱい恋のひとときを再現することなどできない。思い浮かぶのはどれも重くて暗い想い出ばかりだ。
 大学を卒業するのと同時に世界は寛容さを失った。付き合っていた佐織が故郷に帰ってしまったのが始まりだった。実家のごたごたが表向きの理由だったが、無職の僕と同棲するには不安もあったろうし、何より僕の受験勉強に気を遣ってくれたのだ。そうして彼女はずっと待っていた。司法試験に合格すれば僕の所へ戻って来る。そういう約束だった。ところが僕は美咲という女性と恋に落ちてしまった。彼女は佐織の親友で、ジャズシンガーを目指して大学近くのジャズハウスで歌っていた。僕は美咲の魔力の虜になってしまったのだ。寂しかった美咲も僕に抱かれることを拒まなかった。気が付けば佐織はいつしか僕から離れていた。そのうち美咲もニューヨークへと旅立った。孤独の淵に叩き落とされた僕はもう誰も愛せないだろうと悟り、結局試験も投げ捨てて沈黙の日々を過ごした。
 ところがそれらの別れはただの前触れに過ぎなかった。

京都物語 11

 翌週の土日には東京に行った。「都会は好きじゃないって言ってなかったか?」と尋ねると「東京は住むとこじゃないけど、遊ぶのには最高なのよ」とあっさり答えた。
 土曜日は都内のテレビ局を巡らされた。汐留の日本テレビではちょうど屋外ロケの最中で、結花は有名人がすぐそこにいると言って大はしゃぎだった。それからスマートフォンを高く掲げて、たて続けにシャッターを切りはじめた。
 夜はディズニーランドのオフィシャルホテルに宿泊した。わずかばかりの退職金が出たからとグレードの高い部屋を結花が予約していたのだ。僕たちはミッキーマウスのシルエットが至る所に施されたレストランでディナーを取り、部屋に戻ってミッキーマウスの形をしたバスタブに2人で浸かってから、洗面台の鏡の前でセックスをした。
 それからやはりミッキーマウスの形に縁取られたベッドに裸のまま座り、ビールを飲んだ後で2度目のセックスをした。もはや結花には隠すものなど何もなかった。僕に触れることさえ許さなかった数ヶ月前の姿が嘘のようだった。2度目のセックスの後、シャワールームでお互いの身体をローズの香りのボディーソープで洗い、バスタオルで拭いてからようやくベッドに入った。ところが僕の腕枕に横たわっていた結花はそのうち下の方に潜り込み、またフェラチオをしてきた。僕が完全に勃起してしまったのを確かめてから彼女はするりとベッドを抜け出し、窓際に立ってカーテンを全開にした。僕は後ろから結花を抱きながらゆっくりと中に入ってやった。彼女の中は十分すぎるほどのぬくもりに満ちていた。
 大きく取られた窓の外には眠りにつく前のディズニーランドが天上庭園のように広がっていた。うっすらとライトアップされたシンデレラ城がその中心にそびえていた。

京都物語 10

 婚約の破棄と同時に結花はそれまで勤務していた整形外科を辞職した。その後2週間ほど無職の状態が続いていたが、職業安定所の仲介により医療法人が経営する介護福祉施設への再就職をすんなりと決めた。高校を卒業した後で専門学校に通い医療事務関係の資格を数多く取得していたのが有利に働いたのだ。
 その無職だった2週間の間、結花は僕の部屋で生活すると言い始めた。家の人は大丈夫なのかと訊いてみたが、彼女は涼しい顔で「心配ないよ」と言った。父親は中学生の頃に離婚しているし、小学校教師の母は毎日忙しく、成人した娘のことだけに拘泥するわけにはいかないのだという説明だった。この話がどこまで真実なのかよく分からないところもあったが、本人がそう言うのだから仕方がなった。しかも「私と一緒に暮らすのが嫌なの?」などと言われるとますます可愛く思え、許してしまうのは当然のことだった。
 夕方仕事を終えて自分の部屋に帰るとそこには料理を作る結花がいた。エプロンを腰に巻き、髪を後ろに束ねて台所に立つ姿はフラメンコを踊る時とはまた違う魅力を醸し出していた。彼女は家庭的な料理を好んで作ってくれた。僕が隣に立って手伝ったりするとキスを求めてきて「こういうのって、憧れてたのよね」と満足そうに言った。そうして彼女のこしらえた料理を2人で食べた。ままごと遊びのようでもあった。
 最初の連休は三重の遊園地に行った。日本最大級のジェットコースターに前から乗りたかったのだという結花の希望だった。おかげで僕はおよそ10年ぶりにそのけったいな乗り物に乗ることができた。なされるがままにことごとく振り回され、やっとのことで停止した時、腰が立たなくなってしまっていた。結花はそんな僕の姿を見て腹を抱えて笑った。

京都物語 9

 見た目よりもずっとやわらかな結花の乳房を両手に収め、野いちごのように尖った乳首を唇に挟んだ時、この上ない安らぎが僕のすべてを包み込んだ。そうやって彼女に触れながら僕はふと学生時代の風景を思い起こし、そこに立つ自分の姿を見つけた。
 大学の正門から続く並木道、キャンパスの風景、雨上がりの太陽に照らされた緑。僕は仲間たちと一緒に教養部の中庭でよくキャッチボールをした。暑い日は上半身裸になって芝生の上に寝ころんだ。それから何人かの女の子と手をつないで歩き、互いの部屋でふざけるように抱き合ってセックスを楽しんだ。駆け引きのない無邪気な恋愛の日々だった。何もかもが手の届くところにあった。
 そんな心象風景に包まれながら、僕は長く憧れ続けた結花の身体を全身でたしかめた。彼女の方も子猫がじゃれつくかのように僕の身体にすり寄ってきた。
 少女でも大人でもない結花の表情を見ながら、次に立ち上がってきたのはフラメンコパーティーの光景だった。挑発的とも言える濃いピンクのドレスを全身に巻き付け、真っ赤なルージュを輝かせながら腰をくねらせる彼女のダンスは他のダンサーとは一線を画していた。あの夜僕はダンスとは生き方を象徴するものだと知った。そうして結花の躍動感あふれる、それでいて妖艶さ漂うダンスは彼女の過去と未来が同時に体現されていると直感し、うっとりとした眼差しを送った。
 そして今、結花はドレスをすべて脱ぎ捨てて僕の身体の上で踊っている。それが現時点における彼女の姿だ。ならば結花はこれからどこへ行くのだろう? できることならこの素晴らしい女性と一緒に未来を歩みたい。下半身から染みわたる結花のぬくもりを意識しながら、何度も心の中でそう叫んだ。

京都物語 8

 僕は今でも初めて目の前に晒された彼女の裸をはっきりと思い起こすことができる。その光景はおそらくこれからもずっと心に残り続けるだろう。そうやって僕はもう取り返しのつかなくなった過去に感傷的な眼差しを向けながら、虚しさとともに生きていくのだ。
 結花と出会って3ヶ月の間、僕は彼女に触れたいという衝動に駆られながら、寸前で抑圧し続けてきた。もう彼女を抱くことはないかもしれないと諦めかけてもいた。そうでもしないと正常な心のバランスが保てないところまできていたのだ。だからこそ結花が初めてキスを許してくれた時、僕はたちまち非現実の谷底に堕ちてしまった。そうして欲望のすさびに任せて彼女の唇をむさぼった。彼女と唇を合わせながらTシャツをまくり上げブラジャーを剥ぎ取り、それから手こずりながらもショートパンツのボタンを外し、レギンスと一緒にパンティを脱がせた。すべてが3ヶ月分の衝動から来る無我夢中の為せる業だった。
 かくして僕が恋し続けた女性はオレンジの白熱球の下でようやくすべてをさらけ出してくれた。結花の肌は思い描いていたよりも遙かに白く瑞々しかった。その息を呑むほどの美しさはとうてい言葉では言い尽くせない。だからこそ記憶として鮮明に焼き付くことになった。
 結花は僕にも服を脱ぐように促した。そうして僕たちは安物のソファの上で強く強く抱きしめ合った。それは恋が愛に転化した瞬間でもあった。あの時僕は確かに結花を愛していた。結花も同じだった。彼女は医師との婚約を投げ捨ててまでも僕との愛を選んだ。決断するまでの間、僕に指一本触れさせなかった。それは婚約者だけにではなく僕への気遣いでもあったはずだ。深く知れば知るほどますます好きになる。結花はそんな女性だった。

京都物語 7

 結花が婚約を取りやめにしたのはそれから2ヶ月も経たないうちのことだった。
「私には都会の生活は向いてないって、ずっと思ってたんだ」と彼女はけろりと言った。
 その日結花は初めて僕の部屋に来てくれていた。
「それにしても、タッくんらしい部屋だね」
 彼女は僕が10年近く使い込んでいるアイボリーのソファに腰を下ろして室内を概観しながら話題を変えた。僕らしい部屋とはどんな部屋なのかと訊くと「いろんなものが置いてあるけど、余計なものは何もない」と結花は答えた。それについて僕は考えてみた。「つまりおもしろみがない部屋ってことか?」
 すると結花は「ううん、逆。私から見たら、そこがまたおもしろいよ」と言う。よく分からないと僕は言いながらモスコミュールを両手に持って彼女の隣に腰を下ろす。それから2人で乾杯した。フラメンコのパーティーから3ヶ月以上経っていたが、彼女とこんなに近くに座るのは初めてのことで、心はかすかに波打っていた。
 最初のひと口を飲んだ後、僕たちは前を向いたままそれぞれの思考に沈んだ。次に何を話せばいいのかお互いに考えていたのだ。僕はやおら立ち上がりステレオシステムに接続したipodの音楽を再生した。ビル・エヴァンスのピアノは何の変哲もない僕の部屋をたちまち叙情の色に染め抜いた。それから再びソファに戻りもう一度モスコミュールを口に付けた。すると隣で結花は長いため息を吐いた。
「タッくんと出会ったのはほんとにいいタイミングだったよ」と彼女は漏らして、どこかうつろな視線を空間上に向けた。瞳は白熱球のオレンジに濡らされていた。

京都物語 6

「おもしろいって言われても、褒められてるのかどうか分かんないな」と僕はハンドルを握ったままつぶやく。心の深いところでは、いずれ僕は置き去りにされるのではないかという疑念を抱えたままだ。
「いいじゃん、おもしろい人って、素敵だよ」と結花は言う。
「ただ、結花が言うほど僕はおもしろいか?」
「おもしろいっていうか、楽しい。一緒にいるとすごく安らげるんだ」
 結花はフロントガラス越しに広がる青空を眩しそうに見つめながら言う。僕はもう少し詳しく訊きたいと思う。彼女は僕をどう評価しているのか。そしてこれから僕とどう付き合っていこうとしているのか。彼女の心を少しでも知る手掛かりがほしい。
「どういうふうに楽しいの?」
「どういうふうにって言われても難しいんだけど」と結花は言う。たしかにその通りだろう。「タッくんって、一生懸命だもん。そういう人って見ててすごく興味深いし、そういう人の言動にはやっぱ心を打たれるよ」
 僕はアクセルを緩めて助手席の結花を見る。僕の動きに呼応して彼女もこっちを見る。胸がゾクッとするほどに結花は美しい。張りのある唇はリップクリームが塗られてよりきらめいている。僕はこの子にキスしたくなる。今すぐにでも車を停めて抱きしめたいという強い衝動に揺り動かされる。でも彼女は何かを言いたげなふうに目を細めながら笑うだけで、やはり一線を越えようとはしない。僕はそこに何とも言えない虚しさを感じる。しかしその虚しさは心の奥に燃える恋の炎をますます激しくすることにもなる。

京都物語 5

 僕たちはケーキとハーブティーを楽しんだ後、店を出て湖の周りを車で走ることにした。道路脇には鮮やかなツツジの花が太陽をふんだんに浴び、水量豊かな湖面には青空と新緑がくっきりと映っていた。山間部の鄙びた場所なだけに他に走る車はほとんどなく、それで僕たちは窓を開け景色を肌に感じながらゆったりとドライブすることができた。
 結花は車の中で僕の聴く音楽に興味を示した。僕は10年近く前にジャズと出会った。大学を卒業して司法試験の勉強をしていた浪人時代にジャズシンガー志望の女の子と付き合っていた時期があったのだ。当時は勉強そっちのけでジャズハウスに通いウイスキーを飲んで現実逃避したものだ。結局彼女も試験も手にすることはできなかったが、ジャズだけは心の中に残ったという次第だ。
 この日はあまりに天気が良く、ビル・エヴァンスのピアノは少し重すぎた。それでカルロス・ジョビンのジャズ・サンバを聴いていた。
「アントニオ・カルロス・ジョビン。すごい横文字の名前だね」と結花は愉快なふうに言った。本音では結婚話をもっと詳しく聞きたかったが、彼女の笑顔を見ていると心が暗くなるようなことをわざわざ今考える必要もなかろうという気にもなった。
 カルロス・ジョビンはボサノヴァの創始者で世界的な音楽家だよ、と僕が言っても彼女はただにやけるだけだった。今やビートルズに次いで2番目に世界中で流れてるんだと言っても同じだった。彼の音楽からはブラジルの香りがしてくるのだとしみじみ語ると、「コーヒーとか?」と真顔で訊いてくる。いや、そっちじゃなくて、太陽とか海とか大地の香りだよと言うと結花はまた笑う。「タッくんって、ほんとにおもしろい」

京都物語 4

 だから僕はどうしてもはっきりさせておかなければならなかった。もしこのまま結花に置き去りにされて同じ痛手を被ることになれば、立ち上がれなくなってしまう。
 4回目のドライブの時、湖畔のログハウスでピッツァを食べている結花に思い切って尋ねてみた。すると彼女はピッツァにかじりつくのをぴたりとやめて、伏し目がちになり、「カナさん、話してたんだ」と低くつぶやいた。カナさんというのは例の同僚の女性だ。
 僕は結花の服装にこの上ない充足感を覚えていた。彼女はミニスカートやショートパンツを好み、その下には必ずと言っていいほどレギンスを穿いていた。すらりとしたそれでいてやわらかさを感じさせる脚線美にはいつも心を奪われた。失われたはずの青春を再び取り戻したかのような昂揚が全身を駆け抜けたものだ。
 だからその時結花の愁いを帯びた表情を初めて目の当たりにして、複雑な感情が入り込んできた。彼女もこれから大人の女性への階段を着実に上がっていくという予感が心に影を落としたのだ。彼女にはずっと純粋なままでいてほしい。それが僕の願望だった。(もちろんそれは極めて身勝手な願望でもあると薄々自覚していたつもりだ)
 結花はつぶやいてから間もなくして表情を元に戻し、笑みさえ浮かべた。そして「タッくんといると、楽しいんだよ」と結婚話には関心がないような言い方をして食べかけのピッツァをぺろりと口に入れた。
 僕は新緑に囲まれた湖面を背景にピッツァをほおばる結花を漠然と眺めた。そうして彼女の方からの説明を胸を詰まらせながら待ち続けた。しかし彼女は店も料理も大満足だという話をひたすらするだけで、本題に触れる気配を微塵も感じさせなかった。

京都物語 3

 結花がもうすぐ結婚するという事実を知ったのは3回目のドライブに行った直後のことだった。フラメンコに誘ってくれた同僚の女性との会話の中にふと出てきたのだ。「結花ちゃんは可愛いし、性格もめちゃいいから、男の子たちも寄って来るみたいよ」
 彼女が隣市の整形外科の医療事務員として働いているのは本人から聞いていた。同僚によれば彼女の相手というのはその病院の医者らしく、彼は近いうちに横浜の大学病院に赴任することが内定しているらしい。
「要するに玉の輿に乗ったってことよ。医者であろうと何であろうと、結花ちゃんみたいな子をみすみすほっとくなんてしないわよ」
 同僚はパソコンのキーを弾きながら、まるで自分の妹の自慢をするかのように言った。そうして僕は、結花が一線を越えようとしない理由がよく呑み込めた。
 それでも僕たちは週末や仕事が早く片づいた平日の夕方に連絡を取り合って、ドライブや食事に行ったりする関係を保っていた。恋心を抱いていた僕は、彼女と会って気のおけない話ができることに安堵感を得ていた。しかし彼女への思いが強くなればなるほどに積み上がってゆく不安も併せて感じずにはいられなかった。結花が今僕のことをどう思ってくれていようと、彼女はそのうち横浜へ行ってしまう。そして医者の妻として安定した生活を送ろうとしている。そうなった時、僕は確実に置き去りにされる。
 置き去り―――
 僕がもう誰も愛することはないと固く言い聞かせながらこの数年を過ごしてきたのは、二度と置き去りにされたくないという恐怖心の現れだったのだ。

京都物語 2

 フラメンコのショーが終わったその夜、皆で打ち上げをすることになった。僕たちは地下にある垢抜けたバーのボックス席に陣取った。職場の同僚の男が3人と、女性はダンサー5人が勢揃いだった。その時結花はたまたま僕の前に座った。彼女はメンバーの中でもひときわ若く、その表情は輝きに満ちていた。ショーの舞台上では濃いピンクの衣装を振り乱し、はちきれんばかりの瑞々しさを際立たせていた。
 結花を前にした時、まずなつかしいときめきを抱いたのをはっきりと覚えている。1次会が終わった後でカラオケボックスに行き夜通し歌って酒を飲んだが、僕だけはマイクを握る気にはなれず、ジントニックを飲みながら人知れず彼女の動きを目で追いかけていた。
 それを機に僕たちはフラメンコのパーティーに参加するようになり、いつしか僕は結花と2人でドライブするほどの仲になっていた。僕の方が8つ年上ということもあってか最初彼女は丁寧な言葉遣いをしていたが、3回目のドライブで福岡の水族館に行ったのを境に、くだけた話し方をするようになった。その時彼女は助手席で何度もこう言ったのだ。「タっくんと一緒にいると、すごく楽しい」
 恋、とでも言うのだろうか。僕はほとんど風化しかけていた感情を何年かぶりに思い出すことになった。結花と会えば会うほど心が癒され、同時に胸が焦がれるような息苦しさを感じずにはいられなくなった。
 ところが彼女は僕と2人で会うことを繰り返しながらも、一線を越えることに関してはきわめて慎重だった。僕はキスどころか手をつないだり肩を抱くことすらできなかった。
 というのも、その時彼女には結婚するつもりで付き合っていた彼がいたのだ。

京都物語 1

「あなたのことが好きじゃなくなったってわけじゃないのよ」と結花は言った。「ただ、ほんの、ちょっとしたことなの」
 その言葉だけで彼女が何を言おうとしているのかが十分に伝わった。僕はテーブルに置かれたグラスの中の氷に視線を落としながら、次に出てくる言葉をじっと待った。
 すると結花は「楽しかったね」と小さくはっきりと言い、窓の外に目を向けた。3日ぶりに顔をのぞかせた晴れ間は日曜の午後の街を淡々と照らしている。表通りはカップルや家族連れの車で賑わっているが、この裏通りに入ると交通量は途端に少なくなる。結花はそんな味気ない人々の往来をガラス玉のような瞳で眺めている。「楽しかったね」という今の彼女の言葉は山奥の池に落ちた枯れ葉の作る波紋のように、僕の心を静かに震わせている。
「タっくんと一緒にいると、すごく楽しい」
 僕たちの関係がまだうまくいっていた頃、結花はよくそう言った。そうして僕はその「楽しい」というどこにでもあるはずの言葉に何度も励まされたものだ。
 思い起こせば、彼女と初めて出会ったのはフラメンコのパーティーだった。職場の同僚の女性がダンスサークルに入っていて、今度舞台に立つからと招待券をもらったのだ。僕はフラメンコに興味など持っていなかったが、その夜もこれといってすることがなかったので、他の同僚と一緒にさくらのつもりで誘いに乗ったまでのことだった。
 ショーは市内のさびれたライブハウスで行われた。観客は満席で、ダンスも予想を遙かに上回るものだった。赤や黒や紫の衣装を身に纏ったダンサーがスペイン人のギターに合わせて扇情的に舞う姿からは、現実とは思えぬほどの妖艶さがゆらめき立っていた。

鎌倉物語 190

 ふと明子に目を遣る。彼女は窓側に頭を傾けてすやすやと眠っている。深めにかぶった帽子はシートに引っかかって脱げそうになっている。「なあ明子」と僕は心の中で彼女に向かってつぶやく。「今回の旅でいろんな人と出会ったけど、その中での1番は君との出会いだったかもしれないな」
 僕はそう唱えて帽子の向きをそっと整えてやる。
 それから再びボールペンを手に取り記録を再開する。ホテル「NAGISA」、鎌倉大仏、長谷寺。紫陽花の株、見晴台、十一面観音、地蔵に囲まれた小さなスペース。そこで僕たちはキスを交わした。ついさっきのことだ。魂が溶け合って1つになったような感覚は今でも胸を温め続けている。
 そういえば明子はここへ来る前に僕の部屋でこんなことを言っていた。「鎌倉って不思議な街なのよ。北と南で全然違うの」と。実際に足を運んでみると彼女の見解には深くうなずける。鎌倉は北と南で全然違う。それがこの街の特徴であり魅力だ。だが南北を通して変わらないものもある。その部分に触れることができたという実感が僕にはある。一方明子はここへ来る前からすでにその世界を体験していたのだ。
 のぞみは名古屋駅に停車する。僕たちの車両からも多くの人たちが降車し、その後で同じくらい多くの人たちが新たに乗り込んでくる。彼らは訓練された鳥のようにさくさくと自分の席に着き、各々に時間を潰し始める。
 手帳にはあっという間に数ページ分の記録が出来上がっている。僕は1枚1枚をめくりながらこの手帳に表題を付そうと思う。少し考えてから水色の表紙に「鎌倉物語」と書き記す。
 のぞみは再び静かに動き出す。「次の停車駅は京都です」というアナウンスが何かの暗示のように耳に入ってくる。   

( 鎌倉物語・了 )  
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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