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京都物語 59

 僕と佐織はすっかり近代的に様変わりしていた京都駅の烏丸口を出て、駅前のバスターミナルから市バスに乗り、嵐山へ向かった。僕としては高校生の時に行きそびれていた京都を代表する名刹を巡りたくもあったが、佐織は2人で京都を歩きたいのだと言ってきた。普段めったに自己主張しない佐織の思いを尊重し、嵐山に行ってのんびり散歩でもしようということになったわけだ。
 それにしても、晩秋の嵐山の紅葉は息を呑むほどに美しかった。紅葉の名所なら山口にもある。しかし嵐山の紅葉はどこか趣を異にしていた。これが京都なんだなという感興に誘われながら歩いていると、佐織はぴたりと僕に寄り添ってきた。人目を気にする佐織だけに、それも珍しいことだった。あの時僕たちは天龍寺の前の割烹で天ぷらを食べ、歩いて渡月橋を渡り、阪急嵐山駅で折り返して再び渡月橋を通って清涼寺まで歩いた。その寺の名前は聞いたことはなかったが、じつは『源氏物語』の光源氏のモデルのうちの1人とされる人物の山荘跡なのだという佐織の説明を聞いて印象に残るようになった。その清涼寺の境内を彩る紅葉は炎のように紅く燃え上がっていた。
 ホテルは東山に取っていたので、あくる日は清水寺にも銀閣にも行くことができたし、哲学の道も踏破して、僕も満足することができた。それはもうかれこれ10年ほど前のことで端から記憶が風化しはじめているが、2人でかなりの距離を歩いたということと、清涼寺の燃えるような紅葉だけは心にはっきりと焼き付いている。
 僕が京都を訪れた3回目の時に隣を歩いていたのは佐織ではなく美咲という女の子だった。あの時僕は隣にいるのが美咲であることがどうしても信じられないでいた。

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京都物語 58

 2度目に訪れた京都の街は紅葉によって金色に彩られていた。あの時隣には佐織がいた。彼女は僕が愛した初めての女性だった。僕たちは大学1年生の時にたまたま同じ授業を取っていた。それが、どちらからというわけでもなく、あたかも梅のつぼみがほころびるかのように、自然につき合うようになっていた。
 佐織は物静かな女の子だった。そうして話を聞くのが上手だった。佐織への恋は、それまで僕が経験していた胸が激しくときめくようなものではなく、2人の時間を共有すればするほどに自分にとってこの女性は必要なんだと実感させる、そんなものだった。
 大学の授業が終わった後、僕は毎晩のように佐織のアパートに行き、ビールを飲みながら話を聞いてもらった。佐織に話をすると、僕が過去に抱え込んできた問題の1つ1つが具体的に浮かび上がった。そうしてそれらの問題は口に出した瞬間、穏やかな佐織の表情の中にすうっと昇華されていった。付き合って半年も経たないうちに、もはや僕の心は信じられないほどに軽くなっていた。佐織がすべてを聞いてくれていたのだ。
 彼女が突然京都に行きたいと言い出したのは大学4年の晩秋だった。その頃ちょうど僕たちは翌年の身の振り方を決めたところだった。僕は司法試験に向けて大学に残って勉強するという道を選んだ。佐織は実家に戻り脳の病気を患う父の介護をしつつ、図書館の司書のアルバイトをするという道を選んだ。ずっと寄り添いながら生きてきた佐織と離ればなれになることについて、僕にはさしたる不安はなかった。佐織の心はいつでも自分のそばにあると思っていたからだ。だが佐織の方は少し違うようだった。結果的に僕たちは別れることになるのだが、そのことをすでに予感していたのかもしれない。

京都物語 57 

 高槻を過ぎると辺りにはのんびりした風景が広がる。ビルが建っているわけでもなく、かといって住宅街があるわけでもない。民家や工場がぽつぽつ散らばり、その間には田畑が敷き詰められている。遠くの山麓にはサントリーの蒸留所も見える。ウイスキーの香りが記憶の中に漂い、レイナを思い出す。そういえば僕にだってウイスキーが手放せない時期があった。
 次第に濃くなる空の灰色を見上げながら、ふと過去に京都を訪れた時の自分に思いを馳せる。京都の地を踏んだことはこれまでに3回ある。初めて来たのは高校1年の夏だった。あの時僕は家出をしたのだ。僕は中学生の時に父を病気で亡くした。長い闘病生活の末だったのである程度の心の準備はできていたはずだったが、やはり父の死は思春期の僕に暗くて重たい衝撃を与えた。だが僕以上に憔悴したのは母だった。ふさぎ込みがちになり、家から一歩も出ようとせず、夕方には必ず酒を飲むようになった。僕には5つ年上の姉が1人いて、彼女は短大を出て早々に東京に進出した後アパレルメーカーに就職してアジアを飛び回っている。結婚して平凡な暮らしを送るよりも仕事に賭ける人生を選んだのだ。それで姉が短大に入学した後は母と2人で暮らすことになったわけだが、毎晩のように酒に浸る母との時間を耐えることに限界を感じ、ある夏の午後に家を飛び出したのだ。JRを乗り継ぎ、その夜に辿り着いたのが京都だった。
 初めての京都は想像していたよりずっと暗かった。駅ビルも当時はまだ古かったし、周りの情景にしても思い描いていた華やかな都の風情は微塵も感じられなかった。ただ駅前の京都タワーだけが人々の悲しみを集約した灯のように夜空に向かってわびしく伸びていた。あの時僕は金閣も清水も見ぬまま翌朝の列車に乗った。山口に帰りたくなったのだ。

京都物語 56

 そのうちレイナは出口へと続くエスカレーターに足をかけた。そしてそのまま人混みとともに下方に運ばれ、ほどなくして消えた。今日の予定は新大阪駅に降りてから決めると言っていた彼女の横顔をふと思い出す。きっと気ままに歩いているうちに彼女にしか見えないものに目が留まり、それをブログなりエッセイなりに表現してゆくのだろう。僕はリュックのサイドポケットに入れていた彼女の名刺を取り出し、ひとしきり眺めた後で再びしまった。
 新大阪駅では乗り込む人よりも降りてゆく人の方が多かったためにレイナの座っていた席は空いたままになった。「さくら」がいよいよ京都に向けて進み出すと、僕はその空席にリュックを置き、「さて」と心の中で声を出した。今度は僕の番だ。明子を捜す旅。僕の過去を取り戻す旅。さしあたり京都に着いてからの動きを考えなければならない。
 明子からの手紙をリュックから取り出し、その端正な文面に改めて目を通す。まず最初にやるべきことは京都タワーの裏手にある京都銀行に立ち寄り、高木という部長と面会して貸金庫に預けてある資金を受け取ることだ。そのことには何かしらの意味があるものと僕は踏んでいる。明子の消息をつかむための手がかりが金庫に預けてあるかもしれない。あるいは高木という人物が何かを知っているということも考えられる。明子がその人物とつながっている可能性もある。彼女は人を選ぶ。特に失敗できないことについては石橋を叩いて渡るはずだ。
 そんなことを考えるうちに新幹線はグングン加速し、あっという間に高槻を通過した。京都に近づくにつれて雲の色が濃くなっていく。冬の京都らしい空になってきたなと僕は思う。ついに京都に入るのだという実感が、背筋に緊張を走らせる。

京都物語 55

 僕は印象の中で今見たばかりのレイナの小さな胸を思い起こしていた。どうやら彼女の胸に惹き付けられてしまったようだった。それは理性などではどうすることもできない強い力をもって僕の印象に訴えかけてきた。
 そんな僕をよそにレイナは静かにシートに座るばかりだった。窓の外には日本の都会を象徴するような特徴のないビル群が整然と建ち並び、「さくら」はそれらの隙間をすり抜けるように減速をはじめた。新大阪に着いたのだ。
「おしっ」とレイナは言って勢いよく立ち上がりかけたが、その途中で思い出したかのように僕の方を向き握手を求めてきた。「なんだかしら、ヤマシタ君に会えてよかったわ」とレイナはほんのりとウイスキーを香らせながら言った。僕が握手に応えると彼女はきゅっと手を握り返してきた。ぬくもりはたちまち僕の手にも伝わり、彼女の紫のジェルネイルが鮮やかさを増した気がした。それからレイナはそっと手を離し「健闘を祈る」と言って立ち上がった。その時「さくら」がゆるやかに曲がった拍子に真っ赤なスーツケースが僕の膝にガツンと当たった。「あなたに引き寄せられているのはあたしだけじゃないみたいね」とレイナは言い、見えていないはずの左目でウインクした。
「じゃ、また」と僕は言った。レイナも「また」と返し、その言葉を最後に彼女は席を離れた。新幹線が完全に停まるまで彼女は席の間の通路に立って待ち続けていたが、その間1度も僕の方を振り向かなかった。その後「さくら」を降りて新大阪駅のホームを歩くレイナの姿を目で追い続けたが、やはり彼女は自分のペースで淡々と歩くだけでこちらを顧みようとする気配すら感じられなかった。ただ真っ赤なスーツケースだけが僕を見ているようだった。

京都物語 54

「ということは、君はブログで生計を立ててるの?」と僕は率直なところを聞いてみた。さっきまで感じていたレイナへの話しにくさは、彼女が自身の過去を話してくれたことによってずいぶんと解きほぐれていた。
「だといいんだけどねえ」とレイナはぼやくように返した。「ブログだけで生活しようと思ったら、結構面倒くさいこともやらなきゃいけないのよ。たとえばスポンサーの広告塔になるとかね。あたしは人から強制されたりやりたくないことを無理してするのはできないたちなの。だからブログについては自分の思い通りにやろうと割り切ってる」
 レイナはそう言ってハンドバッグの中から黒のニット帽を取り出してそれを深めにかぶった。するとたちまち新山口駅で僕にぶつかってきたときの彼女と近い外見になった。
「それでもあたしのブログには旅行代理店とか知り合いのショップなんかがスポンサーに付いてくれてるのよ。ほんとにありがたいわ」とレイナは言い、慣れた手つきで座席のリクライニングを元に戻した。
「ブログの他に単発でバイトとかもしてるんだけど、仕事としてずっと続けてるのは雑誌にコラムやエッセイを書くことね。雑誌といっても地方の情報誌が主だからそんなに大きな仕事じゃないけど、まあなんとか食いつないでいくくらいの収入にはなってるかな」
 レイナはそう言って膝に掛けていた紫のダウンジャケットを羽織った。彼女が袖に手を通そうとして僕の方に上半身を傾けてきた時、彼女の胸元が目の前に迫ってきた。レイナの胸は黒の薄手のセーターをほんの少しだけ膨らませていた。それを僕が横目でちらりと見た直後に、レイナはジャケットを着て元の位置に座り直した。

京都物語 53

 彼女の指は見た目以上にふっくらとしていて、しかもすらりと伸びやかだった。それはこれまで僕が握ってきたどんな手とも違うさわり心地だった。
「ま、これも何かの縁だから、気が向いたら連絡ちょうだい。もしその時に必要ならばまた会えるだろうし、会えなかったらつまりは必要じゃなかったってことだから」とレイナは言い、握った手をそっと離した。「それから」と彼女は続け、僕の目を覗き込んだ。真っ正面から見ると亜麻色のとてもきれいな瞳をしていた。
「これも気が向いたらでいいから、ブログも覗いてみて。その訪問者数が結構大事だったりするのよ。まあ、今のはビジネスの話だけどね」とレイナは言いつつパソコンの電源を切り、それをソフトウレタンのケースに大事そうにしまった。そして座席のテーブルを元に戻しながらこう続けた。
「自慢じゃないんだけど、あたしのブログのクオリティは高いと思ってるんだよ。時間をかけて作ってるし熱心なリピーターもついてくれてるしね」
「どんなブログなの?」と僕は聞いた。だがよく聞こえなかったようなので改めて大きな声で言い直すと彼女は「あ、うん、つまりは旅行記よ。でも、ありきたりなものじゃなくて、ちょっぴりマニアックなの。その土地のマイナーな話題や知る人ぞ知るようなお店を紹介したり、もちろん食べ物やホテル、それから印象的な景色や秘話なんかも載せてある。普段仕事や家事なんかでなかなか旅行に出られない人が、ふらりと出かけたような気分になる。分かりやすく言えば現実逃避ができるようなブログね」と説明した。「だめかな?」
 必死になって働く人の心を癒すことのできるすばらしいブログだと言うと、レイナはいかにも嬉しそうに微笑んだ。

京都物語 52

 女はそう言ったのを境に話すのをぴたりとやめた。あまりの急変ぶりに、どうしたものかと僕は思った。そうしている間に「さくら」はトンネルの中に勢いよく潜り込んだ。僕は窓ガラスにくっきりと映る自分の顔と肩越しにある女の横顔を同時に視界に入れた。女はパソコンの画面を凝視しているようで実は何も見ていない。
 長いトンネルを抜けたところに現れるのが新神戸駅だ。つまり今、六甲山をくぐり抜けたのだ。この駅に停車するたびにいつも物足りなさを覚える。というのも、ここからは神戸の街が全く見えないのだ。大都市の駅としては異例の風景ではなかろうか。僕がいまいち神戸の街を身近に感じられないのはこのことが影響しているのだろう、というようなことを考えていると「さくら」は停車した。女はハンドバッグの中で手をごそごそと動かして中から小さなデジカメを取り出した。それからホームの情景や「さくら」の車内に向けてシャッターを切り始めた。そこにあるのはどう考えてもありきたりの風景だった。にもかかわらず女は立て続けに撮影した。僕の目には見えない何かが女には見えているのかもしれない。
 新たな乗客を乗せた「さくら」は再び動き出し、新神戸駅を出て間もなくしてまた次のトンネルに突入した。女はデジカメをバッグにしまい、それと引き換えに財布を出して、中から名刺を抜いて僕に渡した。その真ん中には紫の文字で「reina」と書かれ、下にホームページのURLと携帯電話の番号が記されていた。「レイナさんって言うんだね」と僕は名刺に目を落としながら言った。さほど大きな声を出したわけではなかったが彼女はちゃんと聞き取れたようだった。それから「あなたは?」と聞いてきた。僕は「ヤマシタです、よろしく」と答え、軽く頭を下げた。レイナは握手を求めてきた。

京都物語 51

 女は、ふうーっと長いため息を吐き、瀬戸内の沿岸に続く都市の情景に向けてだるそうな視線を投げた。岡山では快晴だった空には次第に薄雲が増えてきたようだ。
「ずいぶん長いこと話しちゃったね」と女は自嘲気味に言った。「なんでこんなディープな話をしたんだろ?」
 女はそうつぶやいてから両手の手のひらに視線を落とした。すらりとした指にはシルバーが輝いている。それから左手だけをゆっくりと握りしめながら「なんでだと思う?」と質問の矛先を僕に向けてきた。
「同時に2人を好きになることができるんだっていう話だったよね」
 僕は女の横顔に向けてそう答えた。だが女は反応しない。それでもう一度大きな声で言い直した。すると女よりも先に通路越しの席に座っていた中年女性が振り向いた。女性はいかにも怪訝そうな表情を僕に向けた後で、手にしていたガーデニングの雑誌のページに再び戻っていった。
「あなたがあたしに話をさせたのよ」と女は前を向いたまま冷淡な感じで言った。「この話、他の誰にも話したことがないんだから」
 女はそう続けた後で少しだけ体を僕の方に傾けた。
「あたしの過去の経験は、今のあなたの境遇とどこかで重なり合ってるんじゃない? あたしがここであなたと出会って話をしたことはただの偶然じゃなく、必然だった。あたしの第六感はそんなことを言ってるよ」

京都物語 50

 女は組み合わせていた両手の指をほどき、ソバージュの髪をかき上げた。香水の香りとその奥にあるタバコの匂いがふわっと立ち上がった。
「彼は毎日のようにお見舞いに来てくれたけど、まともに顔を合わせる気にはならなかったわね。もちろん、好きで結婚したんだから、未練たらたらだったわよ。その心の板挟みが何よりもつらかった。せめて、あたしが苦しんでいる姿を見せて、彼に伝えてやろうと思った。お母さんへの発言をすべて帳消しにするくらいのやさしさをずっと待ってたの。ソラブッドのことも忘れるくらいの。ああ、あなたと結婚してほんとに良かったって心の底から思えるくらいの、そんなやさしさをベッドの上でひたすら待ってた。でも、残念だけど、最後まで応えてくれなかったわね。彼は『気分は良くなったか、あまり深く考えるんじゃないよ』という台詞以外何も言わなかった。頭がいかれてたあたしは、彼になじられてるような気がしてならなかった。お母さんなんか一度も顔を見せなかった。そのこともけっこうなダメージだった。おそらく2人ともあたしに対してドン引きだったと思うよ。でもね、彼が本当に誠実な人間なら、あたしの方が何倍もドン引きだったってことに気付いてほしかったのよ。あたしは彼とお母さんだけじゃなく、自分に対しても失望してたの。あの病院の夜ときたらたまらなく寒いんだから。毎晩どこかの部屋で誰かが暴れて奇声が上がるのよ。職員は廊下をどたばた走って眠れるもんじゃない。みじめでみじめで、毎晩泣いてたわ」
 女は空になったペットボトルを手に取って、まるで子猫でもさわるような手つきで撫で回しながら「あたしの恋愛は、全部そこで終わっちゃった」とつぶやいた。
 まもなく新神戸に入りますという文字が車内ディスプレイに表示されていた。

京都物語 49

「彼のお母さんに受け容れてもらえなかったのよ。彼の実家は京都の大原で老舗の漬物屋をやってて、お母さんはきりっとした昔気質の女性だった。結婚したのは彼となんだから、あまりくよくよするのはよそうって自分に言い聞かせたんだけど、無理だった。今思えばあたしがそんな由緒ある家柄に向くはずがなかったのよ。それに、この顔の傷もどうしても気に入らなかったみたい。バイクでずっこけてできた傷っていうのがね」
 女はそう言って、ミネラルウォーターを最後まで飲み干した。それから龍角散ののど飴をもう1つ口に放り込んだ。
「でもね、一番傷ついたのは、じつは彼の態度だったの。彼は何よりもあたしを優先してくれるって信じてた。タイから帰国したときにも君は僕が守ると言って泣いてくれたんだから。でも実際は微妙にお母さんの肩を持とうとしたのよ。たしかに分かるわよ、その立場。でもすごくショックなのよ。しかもあたし決定的な台詞を聞いてしまったの。ある時お母さんが店の奥の倉庫で彼に話してたの。『お前は間違った女を嫁にもらったもんだ』ってね。『あの子はとんでもない不良じゃないか』って言われた。そしたら彼は何て言ったと思う? 『ごめん』って謝ったの。それを聞いて、頭の中で何かが粉々に砕ける音がして、そのまま電源がぷつんと切れちゃった」
 女はすらりとした両手の指を組み合わせて、太股の上に置いた。
「たしかに彼は誠実だった。でも、誰に対してもいい人だったのよ。結婚する前には全然気づかなかったことよ。それが分かった瞬間、ソラブッドのことが猛烈に恋しくなった。あの人はあたしだけを本当に大切にしてくれた。いつもあたしを守ってくれた」

京都物語 48

「たしかにあたしはひどい女よ。でもね、だからといって自分を責める気持ちはこれっぽっちもないの。そりゃ、あたしみたいな女は世間一般的には非難されるかもしれない。でもね、逆にあたしは一般論なんて信じない。だって、一度しかない大切な自分の人生じゃない? なんで多数決に合わせなきゃいけないのよ。あたしは自分の心に正直に生きようとしてるだけ。もちろんつらいこともあるわよ。でも、後悔はない。しかもそういう生き方してるとね、年を取ることがそんなに苦痛じゃなくなる。自分の人生が深まってゆくのを実感できるから」
 女はそう言って再び僕に顔を向け、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。それと連動して紫のアイシャドウに囲われた瞳が鈍く輝いた。
「あたしみたいな恋を経験してる人って、たくさんいるはずよ」
 僕はiPodを停止して、すっかり小さくなったのど飴を噛み砕いてから呑み込んだ。すると思い出したかのようにシトラスの香水とウイスキーの匂いが立ち上がってきた。女は「さくら」のシートにもたれながら、パソコンの画面に遙かなる視線を送った。
「話にはまだ続きがあるんだけど、聞いてくれる?」
 女がそう言うと、僕は首を大きく縦に振ってみせた。女は安心した顔を浮かべ、一段低い声で話し始めた。
「あたしにとっての結婚は他の人みたいにハッピーじゃなかったのよ」
 パソコンの画面にはどこかの街の路地裏の風景が並んでいる。
「2年も経たないうちに離婚しちゃった」
 女はさっきまでの論調の高さはどこへ行ってしまったのかと思うほどの小さな声でそうつぶやいた。

京都物語 47

 女は真っ赤なスーツケースの上に載せたショルダーバッグに手を突っ込み、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出してそれを飲んだ。その後でタイトジーンズのポケットから龍角散ののど飴をつまみ出して1つ口に入れ、もう1つを僕に差し出した。遠慮した僕の膝の上に女はのど飴をぽんと置いたのだ。礼を言ってそれを口にすると、口の中にはたちまちハーブの刺激が広がり、シトラスの香水とウイスキーの匂いを包み隠した。
「あたしゃひどい女だなーって、その時つくづく思ったね」
 女は口の中でのど飴を転がしながら話を再開した。
「結婚するときに良心の呵責を感じなかったのよ。彼氏に対しても、それからソラブッドに対しても。あったのはとにかくソラブッドをツーリングに誘ったっていう後悔だけ。つまりはソラブッドと彼氏の恋愛を両立してたんだろうね。あの時はちょっと信じられなかった。でも、ほんとに、2人とも好きだったのよ。タイにいるときにはソラブッドのことしか頭になかった。だから日本にいる彼氏からメールが来たときには、心を込めて返信したよ。ばれないようにって一生懸命にね。でも、ソラブッドが死んで、大学に戻る気にはどうしてもなれなくて、1人で日本に帰ったとき、そこには彼氏しかいなかった。それは紛れもない事実だったのよ。彼氏は醜くなったあたしの顔を撫でながら、今日から君は僕が守るって目に涙を浮かべた。その時あたしは思ったの。ソラブッドとのことは永遠に心の中に封印しとこうって。そう思うと、すんなり結婚することができた。マリッジ・ブルーとか、あたしには無縁だった」
 彼女はそう言い、再びミネラルウォーターに口を付けた。

京都物語 46

 僕は思わず女の話に聴き入ってしまっていた。コーヒーを手に取って口に入れると、ぬくもりは半分になっていた。
「逃げようとすればつらくなるだけ。だから目をそらさずにちゃんと恋に向き合おうって、あの時あたしはそう開き直った。そしてソラブッドもあたしを愛してくれた。大学の研究も手に着かないくらいに愛し合って、結局卒業もできなかったけどね」と言って女は苦笑いを浮かべた。「でも全然後悔してないよ」
 岡山に入ると、青空がますます大きくなった気がした。岡山駅のホームに立つ人たちの表情も総じて穏やかなように思われた。
「ただ1つ後悔してるのはソラブッドをツーリングに誘ったこと。あたし好きだったのよ、あの人の背中にしがみついて猛スピードで風を切るの。あの時彼は風邪薬を飲んでた。それでも彼はタフだから全然平気だろうって、たかをくくってしまった。悲劇も思いがけないところから突然襲ってくるってことを、あたしは知らなかったんだ」
 女はそう言い、膝の上のダウンジャケットをきちんと掛け直した。
「聞きにくいことだけど」と僕は言った。しかし女はやはり反応しない。それで女の耳に顔を近づけて、口をはっきりと開けて言った。「その後君はどうなったの?」
 すると女はゆっくりと顔をこちらに向けた。左耳で聞いているというよりは、反対側の耳で聞いたように僕には見えた。そうして「どうしたと思う?」と逆に聞いてきた。僕は分からないということを身振りで示した。すると女は答えた。
「日本に帰って、彼氏と結婚したよ」

京都物語 45

「それって」と僕はささやきかける。「君の経験則なんだね?」
 女は微動だにしない。その無関心さ漂う横顔を見ている時にふと思い出した。女は左耳の聴力がないのだ。さっきから僕の言葉はほとんど聞こえていない。
「バイクで事故ったとき、じつは日本に彼氏がいたのよ。あたしなんかにゃもったいないくらいに誠実な人だった」と女は自ら語り始めた。「あたし、京都の私大を出た後で2年ほどバンコクのチュラロンコーン大学に留学してたの。つまり遠距離恋愛だったわけ。もちろん彼氏のことはすごく好きだったから、まさかタイで、しかもタイの男に恋するなんて思ってもみなかったね。それが、出会って1秒以内にドキュンって撃ち落とされたんだから」
 女は眩しそうな表情を浮かべて2本目の水割りを最後まで飲み干し、缶の真ん中を手でつぶしてからコンビニの袋の中に入れた。
「ソラブッドはワイルドで、しゃれにならないくらいにやさしかった。包容力もあったね。今考えれば、やさしさに飢えてたのよ、その時のあたしは。彼氏はたしかに誠実な人だったけど、逆に言えばそれ以外にはとりたててこれというものがなかった気がするなあ」
 窓の外にはビルがちらほらと見られるようになってきた。岡山に着いたらしい。女はそんなことお構いなしに話を続けた。景色が視界に入っていないのかもしれない。
「恋って、思いがけない所から突然襲ってくる。そしてひとたび恋に落ちりゃ理性が働かなくなる。頭では分かってても、体が言うこと聞かない。頭よりも体の方が正直なんだね。頭の中で『この恋はだめだ』って言い聞かせようとすればするほど、体は反対の方に行こうとする。だから恋は厄介だし、深いんだ」

京都物語 44

「ところでさ」と女は言った。「どこに行こうとしてんの?」
 その質問が腹に落ちた時、一気に現実に引き戻された気がした。
「京都に」と答えると女は何度か小さくうなずきながら、紫のジェルネイルの指でキーを叩いて次の画面を開いた。そこには都市の路地裏の風景がずらりと並んでいた。
「君は?」と聞き返してみた。女に何かを質問するのには思いの外勇気が要った。女は「ああ」と言い、「まだ決めてない」といかにも無関心なふうに答えた。
「とりあえず大阪で降りて、そこから考えるわ」と女は続け、さらに次のフォルダを開いた。やはり路地裏の薄汚れた風景の連続だ。ただそれらの写真からは温かみも感じられた。
「山口の人?」と思い切って聞いてみる。女はだるそうに首を横に振る。そうしてそれ以上何も言おうとしない。すると音量を絞っていたiPodの音楽が思い出したかのように耳に入ってくる。気に入っているはずの「想いあふれて」が流れているが、どうもぴんと来ない。曲が山場にさしかかったとき女は再び口を開いた。
「厄介な恋にはまってるようだね」
 咄嗟に女の横顔に目をやる。ソバージュの髪からは鼻と口が覗いているだけだ。
「年を取ると、同時に2人を好きになることができるんだって、経験から実感するようになるのよね」と女はつぶやくように述懐した。「恋の苦しみの始まり」
 僕に言っているのか、それとも女が自身に向けて言っているのかよく分からなかった。
「愛と恋を比べたときに、深くて激しいのはじつは恋の方なんだってことが痛いほどに胸に突き刺さるのよね。だから厄介なんだ」

京都物語 43

 耳だけではない。左の耳から額にかけて大きな傷跡が斜めに横切っている。こめかみの辺りには皮膚移植の跡と思しきデコボコさえある。思わずぞっとするほどだった。女は僕の驚きようにも全く動じることなく「なかなかのもんでしょ」と言ってソバージュの髪を元に下ろした。「タイにいたとき、バイクでずっこけちゃったのよ」
 そう言って女は美味そうにウイスキーを口に入れた。シトラスの香水とウイスキーの香りが混じっていたが、そんなにひどい匂いでもなかった。互いに中和し合っていたのだ。
「あたしはバイクの後ろに乗ってたの。しかもノーヘルで。ほら、あっちの国って、けっこうノーヘルするじゃない。それに救急車で担ぎ込まれたのがチェンマイのボロ病院だったから、こんな傷跡が残っちゃったのよ」と女は言い、パソコンの画面の中の鎌倉の写真にとろりとした視線を送った。
「どーでもいいことだけど、あたしその時かなり激しい恋に落ちてたのよ。ソラブッドっていうタイ人だった。マッチョな身体をして、心が溶けちゃうんじゃないかって思うくらいにやさしかった。で、バイクを運転してたのが彼。彼もノーヘルでね、路肩に突き出た岩で頭をばっくり割って死んじゃった。あたしはソラブッドがクッションになってくれて助かった」
 女は酔っていた。作りごとを語っているのかと思ったほどだ。
「だからこの傷は整形してきれいにしようとはずっと思わなかったのよ。ソラブッドのことを忘れたくなかったからね。でもね、人間って薄情なもので、どんなに傷ついても時が経っちゃえばそれなりのものになるのよ。最近、美容整形のテレビとか見ると、そろそろあたしもきれいに直してもらおうかしらって思うようになってね」と女は言い、クールに笑った。

京都物語 42

 女は再びウイスキーを喉に流し入れ、その後で臆面もなく舌を使って歯の間に残ったアーモンドを取り除き始めた。シトラスの香水がより具体的に鼻にまとわりついてくるような気がした。
 口の中が一通り落ち着いたのだろう、女は左の小指と中指と人差し指にはめたシルバーを1つずつ確かめるようにはめ直しながらこう言ってきた。
「なかなかおもしろい旅をしてるんですね」
 それはどういう意味なのか分からなかった。まさか明子の手紙を盗み見でもしていたのだろうか?
「君がそういう旅をしてるってことかな?」と僕は聞いてみた。すると女は表情ひとつ変えずに鼻で笑った。
 コーヒーをすする。カップに保温加工が施してあるのでまだ十分に熱い。僕たちの間に横たわった沈黙にコーヒーの香りが漂う。僕は膝の上に置いていた明子からの手紙を再びリュックの中にしまった。女は再びパソコンと対峙した。
「あたし、自慢じゃないけど、第六感が鋭いの」
 女は画面を見ながらだしぬけにそう言った。それとなく女の方に顔を向けると女はこう続けてきた。「これも自慢じゃないけど、左の耳がほとんど聞こえないの。左目もあんまり見えない。事故っちゃってね。それでますます第六感が発達したのよ、きっと」
 女は指の動きをぴたりと止めて僕の方を見た。一重まぶたのきりっとした瞳の周りは紫のアイシャドウがうっすらと塗られている。それから女はソバージュの髪をかき分けて左耳を出した。それはできそこないのギョーザのように醜く縮み上がっていた。

京都物語 41

 明子のことを回想している間にも、女は新たな画像を開き続けた。どうやらそのフォルダには鎌倉の風景がまとめてあるようだ。新月が輝く江ノ島の宵、湘南の海を背景に停められたハーレー・ダビッドソン、古いバーの建物の前に寝そべる猫、明月院の紫陽花の中を抱き合うようにして歩く男と女・・・
 そこにある画像はどれも「ひねり」が加えられているように思えた。鎌倉の街を斜めから捉えた撮影者の感性は、少なくとも僕の目には新奇に映った。熱いコーヒーを唇の間に通しながら、女の繰り出す画像に釘付けになっている自分の姿がそこにはあった。そうやって僕は明子と歩いた鎌倉をまるで昨日のことのように思い起こしていた。
「好きなんですか、鎌倉?」
 突然低めのハスキーな声が耳に入ってきた。聞き取りようによってはとてもセクシーな声でもあった。僕は女の方を見たが、画面に目を遣ったままで動かない。だったらそれがどこから聞こえたのか一瞬分からなくなるほどだった。
「いいっすよね、鎌倉」
 女はそう続けてアーモンドを口に放り込んでから水割りの缶を開け、ウイスキーを飲んだ。それから初めて僕の方を見た。アーモンドを囓る音が耳に届いた。
「食べます?」
 女はアーモンドの袋の開封口を僕に向けた。もちろん僕は断った。この女に何と言っていいのやら、適当な言葉が見つからなかった。おそらく僕はずいぶんとへんてこな表情を浮かべていたことだろう。

京都物語 40

 女は買ったばかりの水割りをモバイルパソコンの横に置き、再び画面をのぞき込みながらキーボードを叩き始めた。さっきまでは気づかなかったが、指先には紫色のジェルネイルが施してあり、照明を受けてきらきらと光っている。いかにもふっくらとした、それでいてすらりと長い指だ。女はそれらの指をまるでピアノでも弾くかのように滑らかに動かしている。僕はその時になって初めて女が何をそんなに夢中になっているのかが気になった。それで思わずパソコンの画面に流し目を送った。
 するとそこには何枚もの画像がきれいに並べられていた。どこかの町並みやおいしそうな料理、それから自然の風景が写されていた。おそらくこの女は写真を撮って歩いているのだ。しかもどれもよく撮れている。たとえばCDのジャケットなどに使ってもよさそうな都会的で洗練された画像もいくつかある。
 女は次々とフォルダを開き、数ある画像を1枚ずつ吟味しているようだった。僕はコーヒーを飲みながら、彼女の表示する画像を興味深く見つめた。するとそれらの中に見覚えのある光景があることに気づいた。それは湘南の海岸を走る江ノ電の写真だった。どうやら秋から冬の間に撮影されたもののようだ。海の色がどこかどんよりとしているし、海には人が少ない。江ノ電は真夏の海が似合うと思っている僕にとっては、新鮮に映った。
 そういえば明子と2人で鎌倉に行ったのはもう4年前のことになる。あれも晩秋のことだった。彼女は僕との最後の旅になるのだと腹を据えていた。たしかに僕たちは魂の深いところで交流していた。しかし彼女が本当に愛していたのは僕ではなく、亡くなった夫だったのだ。

京都物語 39

 僕は明子からの手紙に改めて目を落としながらこの旅の全体像を具体的にイメージしてみる。とにかく目的は橘真琴なる人物を捜し当て、明子からことづかった手紙を渡すことだ。「その方に封筒を渡すことができたなら、そのことは私の心をあなたにより正しく伝えることにもつながるかもしれないというささやかな期待もじつはあるのです」と明子はここに書いている。さらに「あなたが私の願いを叶えようと行動する過程において、いろいろなことに気付いてくださることを遙かに望んでいます」と最後に記してもいる。
 明子はこの旅において僕に何かを伝えようとしている。それが何なのか現段階では分からない。ただそれは明子の心に関わることであることはほぼ間違いない。彼女が突如として姿を消してからというもの、僕は明子の心中を想像し続けた。だが、どんな想像も僕を納得させることはなかった。きっと橘真琴という人物が明子の心を解き明かす上でのキーパーソンになるはずだ。
 あの昼下がり、明子からの手紙を受け取ったとき、僕は文面に隠された想いを感じ取った。明子は言葉の力を信じている。だからこそ多くを語ろうとしない。そんな彼女のコミュニケーションのとり方を理解するまでにかなりの精神的な試行錯誤を要したものだ。だがその結果僕たちは魂の深いところでつながり合うことができるようになった。
 明子は僕を試している。この旅自体がメッセージなのだ。
 車内販売が回ってきたので、ホットコーヒーを買うことにする。僕は目を覚まさなければならかった。女性の販売員がコーヒーの入ったカップを僕に渡そうとしたとき、不意に隣の女が水割りはあるかと言いだした。その時僕は久々に無神経な女の存在を思い出した気がした。

京都物語 38

 そのうち女はバッグの中からモバイルパソコンを取り出し、テーブルを倒してその上に据えた。そして何かのソフトを立ち上げてUSBメモリーを本体に差し込み、画面を眺めた。女が何をしているのか僕には全く興味はなかった。そんなことよりも女の肘が時折僕の腕に触るのが不快でならなかった。僕はiPodのボリュームを上げた。ちょうど「おいしい水」を再生しているところだった。その魅惑的なメロディは普段は心を弾ませてくれるものだが、女を横にした今はただの音の連なりにしか聞こえなかった。
 次に女はスーツケースのフックに引っかけた買い物袋の中に手を突っ込んだ。女が取り出したのは何と缶の水割りだった。朝っぱらからウイスキーを飲むなんて信じられない気がしたが、横目で確認すると間違いなく「サントリー・リザーブ」と記してある。さらに買い物袋からアーモンドを出して慣れた手つきで封を開けて口の中に放り込み、その後で本当に水割りを喉に流し入れた。僕の席はまたたく間にウイスキー臭に包まれることになった。
 できることなら他の席に移りたかった。我慢はほぼ限界にまで達していた。だが不幸なことにどの席も埋まっている。心を無にして時の経過を待つしかなかった。これも1つの精神修行かもしれない。そういえば明子は般若心経の世界に憧れていたのをふと思い出す。「色即是空、空即是色」。この世のすべては空である。すべては滅びるし、そう考えればすべては最初から存在しないのと同じなのだ。
 僕はリュックの中にしまっていた明子からの手紙を取り出し、静かにそれを開く。彼女の端正な筆跡がささくれていた心を慰めてくれる。苛立っている場合ではない。京都に着いてからの計画を立てなければいけない。「さくら」は尾道駅を通過した。

京都物語 37

 わざわざ顔を上げるまでもなかった。そこにはさっきのタイトジーンズの女が立っている。女は「おいしょっ」と息を吐くように言った後で、明るい紫のダウンジャケットを立ったまま脱いだ。その間、スーツケースはずっと僕の足下に転がったままだ。女はそのことに頓着する様子など全く見せずに、つい今まで教授風の男が座っていた席に腰を下ろし、脱いだばかりのジャケットを膝の上にひらりと掛けた。その後になってようやくスーツケースを自分の近くに移動させた。もちろん僕に気を遣う素振りなど全くない。
 女の愚鈍さに苛立ちを募らせていると「さくら」は広島駅に停車し、今降りて行った人と同じくらいの数の乗客が新たに車内に入ってきた。どうやら自由席はどの車両も満席らしく、入り口付近のスペースで立つ人もいる。女から顔を背けようとホームに目を遣れば、人々が慌ただしく往来する光景が自ずと飛び込んでくる。まるでマジシャンの手によってシャッフルされるトランプのカードのようにも映る。大学教授風の男性はさっき着たくすんだ茶色のコートを身に纏い、ずいぶんと使い古した風合いの革のカバンを手に提げて、あたかも魚が海底の岩場に入っていくかのように出口の階段の奥に消えて行った。
 再び「さくら」が動き始め、広島の街並みが窓の外に広がった時、横目でちらと女を意識した。彼女はくたびれた感じのショルダーバッグの中に手を突っ込んで何やらゴソゴソしている。バッグの横には実にいろいろな物がぶら下がっている。ハートのシルバー、手編み風のミサンガ、小さなミッキーマウスのぬいぐるみ、木彫りのドクロ・・・
 それにシトラス系の香水の匂いも僕の鼻にさわる。その奥でタバコの匂いも感じられる。ありえない、と僕は心につぶやく。

京都物語 36

 快調に進む「さくら」に身を委ねていると、タイムマシンに乗っているような錯覚はますます強くなる。そのうちこの乗り物が前に進んでいるのかそれとも後ろに進んでいるのかさえよく分からなくなってくる。僕はこれからどこへ向かおうとしているのだろう? それが京都だということは頭では分かっている。しかしその実感がまるで湧かない。僕は大きなカオスに向かって突き進んでいるように思えてならない。
 リュックのサイドポケットからiPodを取り出し、イヤホンを耳にあてる。窓の外に広がる冬の瀬戸内の穏やかな青空を見ていると、カルロス・ジョビンのボサノヴァが聴きたくなる。彼のアルバムの中からiPodがシャッフルして再生したのは「ドリーマー」だった。悪くない選曲だ。独特の軽快なメロディが体内に入ってくるうちに、奇しくも結花の笑顔が想い出される。初めて出会った頃、彼女は日本のポップスしか聴こうとしなかったが、今ではボサノヴァやジャズを好んで聴くまでになっている。知らず知らずのうちに彼女は僕の色に染まり、僕は彼女の色に染まっていたのだ。
 新幹線が進めば進むほど結花の面影は遠ざかってゆく。僕は彼女を置き去りにしてここへ来たのだ。結花と過ごした幸せな日々は意識の中でたちまち色褪せ、代わりに強烈なノスタルジアが胸を締め付ける。
 すると隣の大学教授風の男性が分厚い本をぱたりと閉じた。同時に新幹線は減速を始めた。広島に着いたのだ。男性はけだるそうに立ち上がり、荷台に突っ込んでいたくすんだ茶色のコートを羽織った。それから席を離れて出口へ歩いて行った。ほどなくして、僕の膝に何かがゴツンとぶつかってきた。見ると、真っ赤なスーツケースだった。

京都物語 35

 ホームに上がると、乗車口の前にはすでに人の列ができあがっていた。下の階を歩く人たちはコートを着たビジネスマンが目立つように思えたが、ここでは意外にもいろいろな人たちが混ざり合っていた。彼らは皆で申し合わせたかのようにグレイやネイビーのダーク調の上着を羽織り、病院の待合室にでもいるような表情を一様に浮かべて「さくら」を待っている。天気自体は悪くないのにホームはどんよりしているのはそのせいだ。
 僕が自由席の乗車口に移動している間に、到着を知らせる電子音が鳴り、アナウンスが流れた。市場で魚を競り落としている人のようなせわしない喋り口だった。ようやく3号車の乗車口まで辿り着いた時、真新しい「さくら」の車体が姿を現した。平安男子の駅員が教えてくれた通り、座席はすでに多くの乗客で埋まっていて、所々に歯が抜けたように空席が窺えるだけだった。僕は他の乗客にもまれながら「さくら」の車内に入り、貴重な空席の1つに腰を下ろした。それは車両中央付近の2人がけの席で、窓際が空いていた。隣は大学教授風の初老の男性で、彼は僕を席に通した後で不機嫌そうにして分厚い本に目を落とした。
 シートに腰を下ろして長いため息を吐くと、駅に入ってきた時に感じたノスタルジックな感慨を再び思い出した。たかが旅行じゃないか、と僕は心につぶやいてみる。しかも京都はさほど遠くはない。何もそんなに気負うことはないのだ、と。
 そのうち新幹線はゆっくりと動き出した。最新の車両だけあって振動も騒音も最小限に抑えられている。その乗り心地に心が落ち着けられた僕は、そっと目を閉じて、ここ最近に起こった様々なことを思い浮かべた。するとどうしたことか妙な錯覚に陥った。今僕は過去へとさかのぼるタイムマシンにでも乗っているように思えたのだ。 

京都物語 34

 そのいかにも無神経な女性に遅れてようやくエスカレーターを上り切った僕は、みどりの窓口に入り、カウンターに控えていた駅員に次発の列車を尋ねた。担当者は平安絵巻にでも描かれそうな色白でふっくらとした頬をした若い男性だった。彼は細いフレームの眼鏡を通してパソコンの画面に目を遣り、最も近いのは7:41発の「さくら540号」ですが新大阪で乗り換えなければなりませんね。京都まで直通で行こうとすれば20分後に「のぞみ10号」があります、と案内してくれた。おそらく鉄道が好きでこの職に就いたのだろう。話しぶりにそのことがにじみ出ている。次に彼は、両方とも空席は少なくなっていますがどちらかと言えば「さくら」の方が余裕があります、と指南してくれた。それで僕は「さくら540号」の自由席を買うことにした。先の見えない旅になるのだから、削ることのできる出費は抑えておいた方が賢明だろう。
 僕は駅員に礼を言ってから手にしたばかりの乗車券を財布にしまった。ここに来るまでに悩むことも多かったが、ついに未知なる旅に出かけることになったのだ。明子を追う旅。過去を取り戻すための旅。
 それから朝食を買うために同じフロアにあるハート・インに足を運んだ。すると店に足を踏み入れた瞬間、瞳に刺激が走った。見覚えのある真っ赤なスーツケースが視界に入ったのだ。見ると、さっきのタイトジーンズの女性が飲み物の棚の前に立って何やら品定めをしている。明るい紫のダウンジャケットに黒いマフラーを巻き、ソバージュの掛かったロングヘアの上から毛糸で編んだ帽子を深めにかぶっている。再び不快感を思い出すことになった僕は、たまごの入ったサンドイッチとホットコーヒー、それから板チョコとガムを買って、そそくさと店を出ることにした。

京都物語 33

 出発の日の朝は、いかにも2月らしいキリッとした寒さが地表に覆いかぶさっていた。新山口駅に着くとそこには月曜日の早朝を歩く人たちの姿があった。大半がトレンチコートを羽織ったビジネスマンたちだ。帆布地のリュックサックを背負った僕はその中に紛れるように進んだ。
 この旅に必要な携行品は何かを考えたとき、数え切れないほどの物が思い浮かんだが、それらをすべて持っていけば大荷物になってしまう。ならば優先度の高いものだけを精選しようとすると、今度は下着と洗面用具だけで十分だとも思えてくる。要するに実際に京都に着いて1週間ホテル暮らしをしてみないことには分からないのだ。服が汚れたらコインランドリーに行けばいいし、生活用品のほとんどはコンビニで揃う。寒ければユニクロでインナーを買えばいい。そうやって開き直った結果すべての荷物は1つのリュックサックの中に収斂されたというわけだ。
 それにしても、普段見慣れているはずの駅の光景が、今日ばかりは少し違って見えるのはどうしたことだろう? 目に飛び込んでくる物が一様にノスタルジックな色彩を帯びている。あらゆる風物がいとおしいのだ。まるで2度とここには戻らないかのような物寂しさに裏打ちされているかのようだ。
 そんな感覚に囚われながら新幹線のホームへと続くエスカレーターを上っていた時のことだった。突然背後から何かが激しくぶつかってきて、リュックサックが揺れた。僕が振り返る間もなくすぐそばを女性が駆け上がって行った。彼女は真っ赤なスーツケースを左手に抱えている。それが襲いかかってきたらしい。彼女は謝るどころかこちらを顧みることすらせず、少しもペースを落とさぬまま無責任に2階へと消えて行った。不快を感じた僕の脳裏にはタイトジーンズを穿いた彼女の後ろ姿だけがくっきりと焼き付いた。

京都物語 32

 京都に行くにあたってやはり一番大きな障壁となるのが仕事だった。目下僕は社会保険事務所で年金業務の事務処理をしている。「消えた年金」の問題をマスコミが叩かなくなってからというもの、夜遅くまで残業を強いられるということは減ったが、それでも長期の休みを取るとなるとさすがに気がひける。ただ僕はこの数年の間有給休暇をほとんど使ったことがない。同僚から白い目で見られることもおそらくはないはずだ。
 ずいぶんと考えたあげく、しばらく実家に帰る必要ができたのでまとめて1週間ほど休みをもらいたいという旨を、あくる日に思い切って課長に伝えた。彼はパソコンを打つ手をぴたりと止めて、細い眼鏡越しに不機嫌そうな視線を僕に向けた。
「そりゃ、有給休暇は労働上の権利だから問題はないが、お父さんの体調でも悪いのかね?」と彼は聞いてきた。今の職場についてはや10年近くが経とうとしているが、時に宿命的とも言える胡散臭さを感じることがある。そういう時僕は決まってやるせない気持ちになる。ちなみに僕の父は中学生の時に亡くなっている。たしか課長には話したことがあるはずだ。「自分の身は自分でいたわってやらないと、誰も助けてくれんよ」と忠告してくれたのは僕が初めてこの仕事に就いた際の新人教育担当の上司だった。彼は4年前に早期退職して今は実家で農業を営んでいる。仕事に穴を開けることには後ろめたさがあるものの、かといってそれを理由に京都に行かないという選択肢があるかといえば、それはノーだ。結花を失ってまでも選んだ道だ。自分の身は自分でいたわるしかない。
 休暇申請を行った後、アパートに帰ってさっそく荷造りをした。僕に与えられた時間は土日を入れて7日間しかない。予測のつかない旅ではあるが、胸騒ぎもする。

京都物語 31

 缶ビールを1つ空けると腹が減ってきたのを感じた。僕は台所へ行き、冷蔵庫からうどんと豚肉、それから適当な野菜を取り出して、ごま油を引いたフライパンでさっと炒めた。最後にソースと鰹節をふりかければちょっとした焼きうどんが出来上がった。
 思いつきで作った割にはなかなかの味だった。こしのあるうどんを噛みしめていると結花が僕の料理をおいしいと言ってくれていたのを思い出す。ダイニングの向かい側には必ず彼女の笑顔があった。
 冷蔵庫からビールをもう1本取り出して、静かに飲んだ。それから一旦箸を置き居間に置いてある携帯電話の着信を確認した。だがそこには何も入っていない。途端に沈黙に呑み込まれる。思わず「結花」と呼んでみる。しかし返事はない。そんなあたりまえのことがどうしようもなく哀しい。いったい俺は何をしてるんだろうという思いが今更ながら心をぐらつかせる。もう誰も愛することはないだろうと固く誓った3年前の心境がはっきりと思い出される。
 携帯電話に保存されている着信履歴は結花からのメールでいっぱいになっている。そのうちの1つを開くと、星やハートが散りばめられたメールが今でも輝いている。無心で返信ボタンを押して本文入力画面を立ち上げる。そして「結花のことがどうしても好きなんだ。好きで好きで死にそうなんだ」と書いてみる。それから「送信」ボタンに親指を宛てる。これを押すことができればどんなに楽になるだろう! 
 それでも僕は歯を食いしばりながら電話を閉じ、ビールを飲み焼きうどんを口に入れた。京都に行くしかないと思った。過去を取り戻すために、それから結花への思いを少しでも忘れるために、今の実生活から降りなければならない。 

京都物語 30

 手紙を通じて明子が要求しているのはごく分かりやすいことだ。ことづかった封筒を橘真琴なる人物に渡すだけだ。ただ、それがどうやらそう簡単でもないらしい。
「その方は自身の情報は一切語らず、連絡のしようがないのです。私にはもう時間がありません。だからあなたに託します」という文面がそれを語っている。
 つまり明子は時間の許す限りその人物を捜したのだ。にもかかわらず行方がつかめなかった。唯一の手掛かりは、その人物は3年前に京都の大谷大学の客員教授だったということだけだ。ただ、明子が大学側に連絡を取っていないはずがない。それでもその人物は見つからなかったわけだ。
「おそらく宛名の方は京都の中にいらっしゃることと思います。ですから手紙を渡すには京都に足を運ぶことになると思います」と明子は書いている。もちろん、この記述だけではその人物が京都にいるという確証はない。ただ、明子は単なる思いつきでこんなことを書くような女性ではない。文面には表れない確信があるのだ。その人物は京都のどこかにいると言い聞かせながら、僕は部屋着を着て、再び冷蔵庫の中のビールを空ける。
 結花と別れてしまったことの痛みは脇腹の辺りに疼いている。その一方で明子からの依頼を何とか叶えたいと意気込む自分もいる。僕には予感があるのだ。明子の依頼はあくまで橘真琴氏を捜して欲しいということではあるが、それは僕にとっては失われた時間を取り戻すためのチャレンジにもなるのだと。「人生とは過去である」と明子は言っていた。かつて僕は、過去は変えることができないという点に不毛さを感じていた。ところが今は、過去は変えることができるのではないかという初めての感覚を抱いている。

作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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