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京都物語 121

 六条ホテルは西日に濡らされていた。玄関を入ると珍しくそこには千明氏の姿があった。しかし相変わらず客は見えなかった。彼は「お帰りなさいませ」といつもの歯切れの良い声を掛けようとしたが、レイナの姿を見て、少しぎこちない言い方になった。
「部屋は空いてますか?」と僕が聞くと千明氏は折り目正しい笑顔を浮かべて「ええ、空いております」と答えた。
「彼女は僕のちょっとした知り合いなんだけど、訳あって今日は無理して京都に来てもらったんです」と僕は説明し、2人の当面の宿泊費として1万円札を10枚差し出した。千明氏は「こんな大金、めっそうもございません」と前回と同じ反応をしたが、最終的にはいかにも恐縮したふうにそれを納めた。レイナは満天の星空でも振り仰ぐかのようにロビー全体を見渡している。「どうかした?」と問いかけると、「このホテル、なんだかなつかしい匂いがする」と答えた。「さっきの浅茅しのぶの本といい、このホテルといい、まるで私たちを待ち続けてたかのような、何とも言えない愛着を感じる」
 彼女の言葉を聞くと、1週間前に初めてこのホテルに足を踏み入れた時の感覚が鮮明に思い出された。ひょっとして僕たちは似たような感覚を抱いているのではないか。
千明氏は僕の部屋の2つ隣にレイナの部屋を手配した。僕の隣は空き部屋のようだ。というよりこのフロアに宿泊しているのは僕しかいないのだ。「なんでヤマシタ君の隣にしてくれなかったんだろう」とレイナは頬を膨らませて不満げに漏らしつつ、借りた3冊のうち「浅茅しのぶ短編小説集」と「藤壺物語」を持って自室に入った。僕の手には「チャイコフスキーの恋人」が渡された。僕はベッドに横たわり早速ページをめくった。
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京都物語 120

 図書館の内部は本の香りで満たされていた。レイナは「図書館って、やっぱ落ち着くよね」と言い、スーツケースを置いてカウンターの横のパソコンを操作し始めた。彼女は軽快にキーボードを叩いて「浅茅しのぶ」と入力し、「検索」をクリックした。すると3件の著書が五十音順に表示された。
1 浅茅しのぶ短編小説集
2 チャイコフスキーの恋人
3 藤壺物語
 レイナは顔を画面に近づけてそれらのタイトルと対峙し「文学賞を受賞したのはどれだろう」とパソコンに問いかけるようにつぶやき、「いずれにしてもこの3冊は借りて帰ろう」と言った。その後でふっと振り向いて僕の顔を見つつ「ヤマシタ君は何か借りたい本ある?」と聞いてきた。すぐには思いつかなかった僕は、まずはその3冊を読むことから始めようと答えた。レイナは小さく肯いてからすっと立ち上がり、ソバージュの髪を後ろにかき上げながら図書館の中を進み始めた。目的の書物は2階の文学コーナーの奥の倉庫のような書架の深部に身を寄せ合うように並んでいた。
「まるで私たちに見つけ出されるのをここでじっと待ってたみたいね」とレイナは慈しみ深く言いながらそれらの本をそっと手に取った。
 帰りのバスの中でレイナは「ヤマシタ君と同じホテルに泊まることできるかな?」と話しかけてきた。僕は少しだけ考えた後で「できるよ。間違いなく」と答えた。「ちょっと変わったホテルだけど大丈夫?」と聞くと、レイナは微笑みながら右目でウインクした。

京都物語 119

「ねえねえ」とレイナは急に歩みを緩めて言った。「図書館に行ってみない?」
「図書館?」
「うん。いろいろ調べてみようと思って」
 そう言った後、レイナは再び元の速度で歩き始めた。それと連動して真っ赤なスーツケースのキャスターが転がる音がコンクリートの路上に響いた。
「あたしの大学の図書館なら、たしか5時まで開いてるはず」とレイナは言った。腕時計に目を落とすと、あと少しで3時半になろうとしている。明日ゆっくり調べた方がいいのではないかと思いはしたものの、レイナにそれを伝えたところで納得はしないだろう。彼女の第6感が何かを察知したのかもしれない。それとも彼女の乙女心かもしれない。
 早速僕たちは京都駅のバスターミナルから206系統の市バスに乗り、東山七条のバス停で下車した。京都に通学していたレイナの動きには無駄がなく、しかも交通量の比較的少ない時間帯だったので駅から10分とかからなかった。バス停を降りると目の前には京都国立博物館の重厚な建物が飛び込んできた。「京都御所の宝物」という特別展覧会の大きな看板が立てられ、入り口付近には多くの観覧者の背中が傾いた太陽に照らされていた。レイナは博物館とは反対の方を向いて「あそこが三十三間堂よ」と右手を差し出した。塀に遮られて本堂は見えなかったが、彼女はなつかしそうな顔でそちらを眺めていた。
 レイナの通っていた大学は東山七条のバス停から歩いてすぐの緑の中に整然と立ち並んでいた。彼女はすんなりと正門をくぐり、そのまま迷いなく図書館に入って行った。京都の歴史が染みこんだような、味わいのある建物だった。

京都物語 118

「君の乙女心がどういうものか、僕なりに時間をかけて想像してみようとは思うよ。おそらくふつうの女の子とはちょっと違う乙女心が君にはあるんだろう」と僕は言った。「でも、僕と明子のプライバシーに関する話はやめとこう。お互いに何の得にもならないから」
 僕がそう言うとレイナは「その言い方自体が乙女心を傷つけるってことに、まず気づいてほしい」と口をとがらせて、ソバージュの髪に手をやった。
「じゃあ、僕は君の質問に対してどう答えればいいんだろう。正解を教えてほしい」と彼女に求めた。するとレイナは「明子とは寝てないよ。抱きたいと思うことは何度もあったけど、彼女はそういう対象で僕を見てなかったんだ」と僕の声を真似て言った。
「なるほど」と思わず声が出た。要するに彼女を安心させてあげればいいわけだ。
「ねえ、出ましょう」とレイナは切り出し、豆茶を最後まで飲み干した。カレーうどんは食べないのかと聞くと、彼女は黙って首を横に振り「ヤマシタ君だってほとんど手を付けてないじゃん」と僕のごぼううどんを見た。たしかにその通りだった。
 太陽はとっくに南中を越え、空気は夕刻に向かって冷たさを鋭くしている。京都銀行前の十字路を京都駅方面に向かって曲がった時、レイナが口を開いた。
「あたし、もう一度美琴ちゃんに電話して頼んでみるね。でも、それまでに満を持しとかなきゃいけないと思うのよ」
「同感だね」と僕は彼女の右耳に向かってそう言った。
「そこまでやったんならお母さんに会ってもらおうって美琴ちゃんが思ってくれるように、きちんと準備をするべきだと思うの。つまりあたしたちはまだ時期尚早なのよ」

京都物語 117

「寝たっていうのは?」と僕は思わず聞き返した。するとレイナは眉間に小さなヒビのようなしわを寄せて「他に何があるっていうのよ。セックスしたかどうかに決まってるじゃないのよ。レディにそんなこと言わせないでよね」と突っかかってきた。
 僕は「何と答えればいいのか・・・」とたじろいだ。
「ちゃんと答えられるでしょうが。イエスかノーか、二者択一なんだから」
「いや、そういうことじゃなくて、その質問に答えなきゃいけないかどうかっていうことだよ」と応戦すると、レイナは風船の空気が抜けていくかのようにたちまち無表情になり「そういう言い方をするってことは、寝たのね」と伏し目がちに言った。僕は何も答えなかった。
「つまり明子さんはミステリアスな部分をもちながらも、やっぱり普通のオンナなんだ」とレイナは恋愛評論家のような言い方をした。「で、どうだった?」
「何が?」と聞き返すと、彼女は右手の甲の上にあごを載せて「すばらしいセックスだったかどうかってことよ。すぐにいっちゃうくらいの」と今度はさながら女医のように言った。
「君は一体何を聞きたいんだろう?」と僕がため息混じりに漏らすと、彼女は近視の人が遠くを凝視するように目を細めて「ねえねえ、あたしだってこんなこと聞くの、恥ずかしいのよ」とかすれ気味の声で言った。「ヤマシタ君に想像してほしいのは、なんであたしがこんな恥ずかしいことを聞かなきゃならないのかっていうことなのよ」
 そう言われても僕には彼女がうまくつかめない。僕たちはまだ出会って間もないのだ。すると彼女は「つまりはあたしの乙女心よ」と自分で答えを言った。まるで僕の心の声が本当に聞こえているかのような言いぶりだった。

京都物語 116

「それでだ」とレイナは突然女子学生のような甲高い声を上げた。「新幹線の中で、あたしのパソコンに入れといた鎌倉の写真に見入ってたのは」
 僕は何も言わずにうなずいた。レイナの言う通り、彼女の撮影した鎌倉の写真を見ながら僕は明子と2人で眺めた鎌倉の海を思い浮かべていたのだ。
「たしかに鎌倉って、何とも言えない場所だよね」と彼女はしみじみ言い、新たに注ぎ足された豆茶を口に含んだ。「あそこへ行くといつも感傷が癒される気がする」
「感傷」という言葉がレイナの口から発せられたとき、鎌倉の海の香りが鼻先にまとわりついた。かすかな胸の痛みを感じつつ、僕は話の続きを語ることにした。
 鎌倉に入ってから明子は精神的な起伏を繰り返した。亡くなった夫に対して罪悪感を感じていたのだ。彼女の苦しみは僕を愛してくれているからこそだと内心そう捉えていた。だが彼女にとっての人生は過去に生きることだった。翌朝彼女はホテルを飛び出した。僕はすぐに彼女が鶴岡八幡宮にいることを直感した。そこは明子たちが結婚式を挙げた場所でもあったのだ。案の定、彼女は八幡宮の本殿に向けて祈りを捧げるかのように立ちすくんでいた。走り去ろうとする明子の肩に手をやったまま、僕はすべての想いを彼女に吐き出した。そうして最後に叫ぶように訴えた。過去ではなく未来を見てほしいと。明子の心が落ち着きを取り戻した後、僕たちは長谷寺へ行った。その寺は夫の好きだった場所だった。僕たちはかつて2人が寄り添い合った見晴台の上に立ち、由比ヶ浜の海を見ながら物思いに耽った。そうしているうちに魂がつながり合う実感を共有したはずだった。
「ねえねえ」とレイナは身を乗り出しながら小声でささやきかけてきた。「あなたたち、寝たの?」

京都物語 115

「その、ある女性っていうのは、つまりはヤマシタ君が好きな人なのね?」とレイナはすぐに反応した。僕は小さくうなずいた。
「でも、一概に好きな人って言っても、なかなか説明しにくいところもあるんだ」と僕が言うと「説明しにくいからこそ、ほんとうに好きだっていうことでしょ」とレイナは返し、頬杖を着いたまま涼しげに笑った。僕はそれについては何も応えられなかった。
 ただ、もはやこの旅の大切なパートナーであるレイナに明子のことを話さないというわけにもいくまい。そう思って僕は、明子との関わりについてできるだけ正確に話した。彼女は過去に父親を殺害され、最愛の夫も亡くした。夫は原子力の研究者だったが、勤務する原発が事故を起こしてしまい、その事後対応に追われる中で過労死してしまった。夫の死から立ち直れなかった彼女はひっそりと身をやつしながら暮らしてきた。1日の大半を読書をして過ごし、あとは簡単な料理を作ったり、物思いにふけったり、そんな生活を何年も積み重ねてきた。そんな時、彼女は僕の勤務する年金事務所の窓口にひょっこり顔を出した。年金記録の確認だった。今思えばそれが僕と明子の運命の出会いだったわけだ。僕たちはある名状しがたい不思議な力によって、たちまち引き寄せられた。いつの間にか明子は1日における限られた時間を僕の部屋で過ごすようになっていた。僕たちは他愛のない話をしたり、彼女の持ってきたケーキを食べたり、あるいはお互いに別々のことを考えながらぼーっとしたりした。何度か旅行にも行った。印象に残っているのは鎌倉への旅だ。寺社を巡って海を眺めながら、僕たちは魂のつながりを共有し合ったはずだった。だのに明子は鎌倉から戻ってまもなくして、僕の元から忽然と消えてしまった。

京都物語 114

 その時僕はふと、1週間前の新山口駅の朝の情景を思い出した。僕とレイナが出会った時のことだ。彼女の真っ赤なスーツケースがぶつかってきて僕は不快感を抱いた、それが最初だった。そのスーツケースは今、彼女の足下に静かに置いてある。
 僕は新山口駅の情景を思い浮かべながら運命というものについて考えた。僕たちはたまたま同じ時間にあそこを歩いていたにすぎないのか、それとも僕たちがあそこを歩くということは予め定められていたことなのか? 
 いずれにせよ僕たちの出会いには意味があるように思えてならない。僕は今レイナと2人で食事を取り、しかも彼女はきわめて重要なヒントを与えてくれたということは抜き差しならない事実だからだ。人生という得体の知れないものにいくつかの窓があるとすれば、僕はそのうちの1つから中を覗き見たような気がした。出会いは人生の一部であると。
「さて、これからどうしようかしらね?」とレイナは言い、僕を見た。ふと我に戻った僕は、すぐには返答できなかった。
「1つ聞きたいんだけど、ヤマシタ君はなんで美琴ちゃんのお母さんに会いたいの?」
 彼女の質問に僕は言葉が詰まった。大切なことはきちんと説明できない。
「言いにくいことなんだね」とレイナは僕を気遣った。
「でも、君になら話せる気がするよ」と僕は自信をもって言った。「これまで僕が抱え込んできたことは僕にしか分からない。でも、君になら少しは共感してもらえる気がする」
 レイナは両手でほおづえをついて、亜麻色の大きな瞳を僕に向けた。
「橘真琴氏に手紙を渡してほしいって、ある女性から頼まれたんだ」と僕は切り出した。

京都物語 113

 レイナは煙草をつまんで、灰皿の上に文字でも書くようにして火を消した。そうして「まあ、でも、とりあえず前進はしたんじゃない?」と語尾を上げた。
「とりあえずどころの話じゃない。とても大きな前進だ。君には何と言っていいのか分からないくらいに感謝してるよ」と僕は胸が温かくなるのを感じながらそう言った。「それから、君との出会いに何か運命のようなものを感じてる。うまく言えないけど」
 レイナは湯呑みに残った豆茶を最後まですすってから僕に話しかけてきた。
「あたしずっと思ってたんだけど、ヤマシタ君ってさ、何かを言おうとするときに『うまく言えないけど』っていうセリフがけっこう多いよね?」
 僕は口紅のとれかけた彼女の口元に目を遣りつつ「そうかな?」と応えた。
「自分のことは自分が一番よく分かるものだけど、中には他人が見た方がよく分かることもあるんだよ」とレイナは言い、唇の左の端を少しだけつり上げた。「あなたは説明するのがあんまり得意じゃない。でも、そういう所って共感できるよ。世の中のあらゆる事象はきちんと説明できるっていう思想は、うわべだけのものだといつも思う。実際、論理的な話術をもってる人が世の中を上手く渡っていったりするんだけど、あたしはそういうのって疑わしいと思う派だよ。『星の王子様』も言ってるじゃん。『大切なことは目に見えない』って。あれと同じよ。ほんとうに大切なことはきちんと説明できないの」
 レイナはそう言って、もう一度窓の外の往来に視線を投げた。厚手のコートを羽織った人たちが京都銀行の前を歩いているのが見える。「あなたが言う通り、あたしたちは運命で結ばれてる。うまく言えないけど、だからこそほんとうのことなの」

京都物語 112

 そこまで話したところでレイナはふっと肩の力を抜いた。それから、がさつな感じで椅子に掛けてある紫のダウンジャケットのポケットからフィリップ・モリスを取り出し、「悪いけど、一服していい?」と聞いてきた。もちろんかまわないがこの店は喫煙できるのかと僕は質した。京都駅周辺では路上喫煙するだけで罰金が科せられるという看板が立っていたのだ。すると彼女は「ここは昔からあたしのお気に入りの店だって言ったじゃん」と勝ち誇ったように言い、学生アルバイトの店員に灰皿を持ってくるよう申しつけた。そうしてどこかの店の名前が入った紙マッチをこすって火をつけ、慣れた手つきでタバコの先端に持っていった。彼女は喉元を撫でられる猫のような顔で煙を吸いながら話を続けた。
「真琴さんは古典文学の研究者でもあるのよ。別のペンネームを使って書物を著したり、市民講座とか大学の集中講義とかの依頼を受けたりすることもあるみたい。でもそれは体調がいいときに限ってのことで、定期的に行ってるわけじゃないんだって」
 レイナはそう言って灰皿の上に灰を落とした。店内に漂うお香の香りと煙草の煙、それからすっかり冷たくなったカレーうどんの匂いがごちゃ混ぜになって、香りの不協和音ができあがっている。
「つまり真琴さんは今もなお俗世間から一線を画していて、週のほとんどを自宅の仕事部屋の中で過ごしてる。美琴ちゃんは大学を出てすぐに研究室の教官の助手を務めてたけど、今では真琴さんの日常生活の世話とマネージャー業務に専念してるんだって」とレイナは言った。「つまりあたしとかヤマシタ君とかが気軽に訪ねて行って、簡単に会えるような状況にないのよ、真琴さんは」

京都物語 111

「そもそもヤマシタ君がいなかったらこの話はなかったわけだしね」とレイナは自らに言い聞かせるようにつぶやいた。義眼のように乾いていた瞳には潤いが戻りつつあるようだ。
「でも、今から話すことは、ここだけの話にしておいてほしいの。あたしと美琴ちゃんとの関係があるからね」
 そんなことは分かっていると僕は目で訴えた。するとレイナはもう一度豆茶で喉を潤し、長いこと溜めていた息を吐き出すようにして話を始めた。
「橘真琴さんは、あたしの第6感が感じたとおり、美琴ちゃんのお母さんだったよ」とレイナはまずそう言い、それから瞳で微笑んだ。「真琴さんは大学生の頃から小説を書いていて、すでに文壇でも注目されてたみたい。20代の半ばに、期待通り大きな文学賞を受賞した。美琴ちゃんがまだ小学校に上がる前のことだった。ところが受賞作を書いている最中に、じつは精神的に打撃を受けることが重なっていたらしく、作品を書き上げたのはほとんど命がけだったみたい。受賞が決まった時には心身共に疲弊しきっていて、授賞式にすら参加できなかった。でもそのことがミステリアスな印象をもたらして、かえってファンを増やすことになった。皮肉なことにね。それから長いこと入院生活を送ることになってしまった。あたしが入っていたのと同じ種類の病院よ、おそらく」
 レイナはそう言って窓の外に視線を投げた。曇天から漏れる光が路上を照らしている。
「真琴さんに何があったのか、美琴ちゃんは詳しくは教えてくれなかったし、あの子もまだ小さかったからよく分からないのよ。ただ、浅茅しのぶの小説は今でも根強いファンがいるらしく、いろいろな問い合わせがあるみたい。真琴さんは完全に沈黙してるんだって」

京都物語 110

 それからしばらくの間、僕たちのテーブルには沈黙が停滞した。正確に言うと、受話器の向こうにいる相手の話をレイナが聞いていたのだ。彼女は時折「うんうん」という相づちを打っていたが、話が進むに従ってその声はどんどん弱気になっていった。
「で、たとえばの話だけど、お母さんに会ったりすることは・・・無理なんだろうね」とレイナが受話器に向けて話した時、ついに橘真琴の消息をつかんだことを悟った。大きな歯車がまた1つ、心の中でゴトリという音をたてて回ったのを感じた。
「なんだか、久々に美琴ちゃんの声を聞くことができて、なつかしい思いがこみ上げてきたよ。ありがとう。それと、また近いうちに電話することになるからよろしくね」とレイナは僕と話す時にはありえないくらいに慈悲深げな口調で話を締めくくった。
 電話を切った後もなお、彼女は手に持った携帯電話を見つめて放心していた。そのうちかすかなため息を何度かつきながら、電話をハンドバッグにしまった。「鴨南カレーうどん」からゆらゆらと上がっていた湯気はもはや見えなくなっている。レイナは僕の隣の空いた椅子の辺りに視線を投げ、迷路をなぞっているかのような表情で何やら考え込んでいる。電話をかける前まではキラキラしていた瞳はガラス玉のように力を失っている。これもレイナの1つの姿なのだと新たに知らされた気がした。彼女がその口を開いたのはアンティークな鳩時計がどこか間の抜けた声で1つ鳴いたときだった。見ると2時半になっていた。
「あたしの推測は正しかった」と彼女は抑揚なくそう言った。「ただ、話がちと複雑なの」
 レイナはカレーうどんではなく、豆茶の方に口を付けた。
「内密にしておいてほしいって固く言われたけど、やっぱりヤマシタ君には話すわ」

京都物語 109

「つまり、その浅茅しのぶという小説家が、橘真琴というわけだ」
 僕はそう言ってレイナの瞳をまっすぐに見つめ返した。すると彼女は「あくまでも推測だけどね」と声を低くして言い、僕の瞳を見たまま眼差しに力を込めた。その後でほどよくカレーの絡んだうどんをゆっくりと口に入れた。
「でもその推測にはれっきとした信憑性があるように思う」と僕は彼女の小さな胸のふくらみをぼんやりと見つめながら、独り言のようにつぶやいた。
「根拠は?」とレイナは顔を上げた。僕は咄嗟に視線を彼女の肩に滑らせ、「君の第6感がそう伝えているからだ」と答えた。「それは何よりも確かな根拠だよ」
 僕の説明を聞いたレイナは箸を持った手を静止画のようにぴたりと止め、あぶり出しの絵のように微笑みを顔の上にじわりと浮かび上がらせた。
「美琴ちゃんに電話して、確認してみるわ」
 レイナはそう言って箸を置き、ハンドバッグから携帯電話を取り出していささか神妙な面持ちでボタンを押した。僕はその一連の所作を、固唾を呑んで見守った。そうしていると間もなくして電話はつながった。
「あ、美琴ちゃん? あたしよ、レイナ。ずいぶんと久しぶりだね。元気にしてた?」
 彼女は電話する前の神妙さが嘘のように、勢いよく話しかけた。そして数年ぶりに盛り上がる親友同士の会話が一段落ついた後で本題に切り込んだ。
「ところでさ、いきなり話が変わるんだけど、美琴ちゃんのお母さんのこと聞いていい?」と彼女は声の調子を変えることなく言った。「ひょっとして、真琴っていう名前?」

京都物語 108

「もういっぺん言ってみて、その人の名前」とレイナは普段よりも低い声でささやいた。
「たちばなまこと」と彼女にもちゃんと聞こえるように、ゆっくりはっきりと言うと、レイナはたった今運ばれたばかりの鴨南カレーうどんに漠然とした視線を落とした。
「どうかした?」と尋ねると、「それに近い名前の人を知ってる」とレイナは口ごもるように答えた。「橘美琴っていう女の子だけどね」
「ニアピンだ」と僕は苦笑した。彼女はふっと顔を上げ、あたかもそこに飛んでいる虫を目で追うかのように空間をふらふらと見つめた。
「まだ何かある?」
「ほら、あたし、第6感が鋭いっていつも言ってるでしょ。何かを感じるのよ」とレイナは言い、左手で頬杖をついた。
「その人って、君の友達?」
「友達も友達、大学の親友よ。あたしたちは1年の時からずっと同じ研究室で、卒論のテーマもかなり近かったわね。『和泉式部日記』についての研究だった」と言って彼女は静かにうどんを口に運び、じっくりと咀嚼した後で、改めて豆茶に口を付けた。
「だんだん思い出してきた。美琴ちゃんのお母さんのこと。たしか古典文学の研究者で、若い頃は小説家でもあったって話を聞いたことがある」
 レイナは、今度はおでこの裏側でも見ているかのように上を向いて記憶を辿っている。「思い出したわ。浅茅しのぶっていうペンネームだった。まさか聞いたことないでしょ?」
 僕はもちろんないと答えた。するとレイナは「若い頃に大きな文学賞を受賞して以来、完全に沈黙してるっていう話だった」と言い、僕の瞳をまっすぐに捉えた。

京都物語 107

「あたしが喋ったことをロクに覚えてないような人に、『君のブログにはデフォルメされた部分もあるかな』なんて死んでも言われたくないよね」とレイナは言い、萩焼の湯呑みに入れられた豆茶を音を立てずにすすった。それから彼女は「あなたにはあたしのことが全然分かってない。あたしの乙女心というものをまったく理解してない」と続け、頬杖をついていかにもつまらなそうに窓の外に目をやった。紫のジェルネイルだけが指先に光っている。僕はこの次にどんな言葉を継げばよいのやら分からずに、とりあえず豆茶を口にした。やさしい香ばしさが口の中にほのかに広がった。そこへ学生のアルバイトと思しき女性店員が僕のごぼううどんを先に運んできた。箸を付けずに待っていると「いいよ、先に食べて、伸びちゃうから」とレイナは僕ではなくうどんの方に視線をやって言った。
「僕たちってさ」と僕は箸を付けぬまま切り出した。「なんだかずっと前から知り合いだったように思えるのは僕だけかな?」
 すると彼女は「なによ、急にそんなこと言い出して。私の機嫌を取ろうとでも思ってるの?」と訝しげにつぶやいた。
「いいや。率直な実感だ」
 僕がそう言うとレイナは亜麻色の瞳をこちらに向けた。彼女はもうひとくち豆茶を飲み、「で、あなたは京都で何をしようとしてんの?」と一転して落ち着いた口調で聞いてきた。僕は「ある人物を捜してるんだ」と答えた。
「ある人物?」とレイナは首をかしげ、僕の瞳の奥をのぞき込んできた。「3年前に大谷大学の教官だった人で、橘真琴という名前だ」と僕が言うと、彼女の瞳がぴくりと揺れた。

京都物語 106

 古民家風の調度品で統一された店内には、品の良いお香の煙がゆるやかに漂っていた。窓際の席に着いた僕は、ゆったりした気分で外に視線をやった。目の前には京都銀行ビルがそびえ立ち、冬の陽光を余裕のうちに迎え撃つかのようにはね返している。僕は高木氏と会うためにこの銀行の敷居をまたぐ明子の姿を想像してみた。会わなくなって3年経っているからか、その外見をうまく思い浮かべることができなくなっている。彼女のぬくもりは依然として胸深くに染みついているのにだ。今この瞬間も明子は着実に僕から遠ざかっているような気がしてきて、全身がものさみしさに包み込まれる。
「ヤマシタ君はもちろんお昼食べてないよね?」
 レイナは十分に蒸されたおしぼりで手を拭きつつ唐突に聞いてきた。既にカレーを平らげている僕はどう答えれば彼女の気分を害さずに済むかを考える余り、視線を逸らした。
「信じられないよね。昼過ぎに着くって言ったんだから、あたしがお昼を食べられるわけないじゃない」とレイナは僕の心中を見透かすようにそう言った。実を言うと、ここ数日は昼もホテルに籠もることが続いたので、千明氏が気を利かせて簡単な昼食を準備してくれていたのだ。
「軽く食べたけど、君に付き合えないわけじゃないから」と僕は言い、毛筆でしたためられた品書きからごぼううどんを選んだ。レイナは頬を膨らませた後で、老婆のような声を絞り出して「鴨南カレーうどん」と店員に告げた。
「ところで、この店は行きつけだって言ってたけど、君はよく京都に来るの?」と僕が聞くと彼女は心底うんざりした顔で「新幹線の中で話しましたけど、あたし、大学は京都市内だったんです」と言い、「このまま帰っちゃおうかな」と吐き捨てた。

京都物語 105

「今、東寺を過ぎたとこ。あと10分もすれば着くからね」と彼女は大人びた声でそう言った。電話を切った後で、部屋に戻りベッドに座って靴の紐を結び直していると、レイナとはずっと前から知り合いだったような感慨を覚えた。彼女には不思議な愛着を感じるのだ。
 とはいえ、遅刻するとまた何を言われるか分からないので、千明氏にタクシーを呼んでもらうことにした。すると彼はもっと速い乗り物があるからと、外へ出て自転車を持ってきてくれた。おかげで5分もしないうちに京都駅に着いた。改札からあふれ出てくる人々の間に漂う真っ赤なスーツケースを確認したのはそれからまもなくのことだった。
「久しぶり」と彼女は僕を見つけるやいなやそう言った。やはりずいぶんと大きな声だった。僕も軽く手を挙げながら、紫色のダウンジャケットと深くかぶった黒の帽子、それからタイトジーンズに目をやった。何もかもが1週間前のままだ。
 僕のそばにまで来たレイナは「やっぱ京都は寒いわ」と声を震わせ、ダウンジャケットのポケットから手袋を引っ張り出してそれを両手にはめた。
「見たよ、ブログ」と僕は歩きながら言った。
「どうだった?」とレイナは亜麻色の瞳を僕に向けて聞いてきた。
「どうだったって言われても、まあ、味わいのある、なかなかすてきなブログだとは思うけど、中には少しデフォルメされた部分もあるかな」と僕は彼女に聞こえるように応えた。
「何よそれ、デフォルメなんかしてないわよ。あそこに書いてるのは全部真実じゃん」と彼女は即座に言い返してきた。それから僕たちはレイナがよく通っていたという和風のカフェに入った。その店は京都銀行のはす向かいにひっそりとたたずんでいた。

京都物語 104

「その時私たちはたしかにつながってた。私も彼に向かって沈黙の声で語り続けてた。あなたはいったい誰? どうして私たちってこうも意識しあうのかな? 私の声は彼にも伝わってたはず。そんな特別なつながりを共有できる人と出会ったのは、ほんとうに久しぶりのことだったから、なつかしさで胸がいっぱいになった。駅には数え切れない人たちが行き来する。でも、ごくまれに、何億分の1の確率で誰かの人生と交差することがある。そういう出会いを縁とも言うし、運命とも言う。ああ、あなたは今どこで何をしてるのだろう・・・」
 この文章の下には写真が2枚貼ってある。1つはホームで列車を待つ人々の姿だ。モノクロの写真で彼らの表情はぼかしてあり、その効果もあってどこか荒涼とした空気が伝わってくる。これは新神戸駅の情景だ。僕の隣でシャッターを切っていたレイナの横顔を思い出す。
 もう1つは「さくら」の車内を出てゆく人たちの背中だ。人々は一様に重そうなコートを羽織り、どこかうつむき加減に見える。あの時僕の目には彼らがこんなに沈鬱な姿で歩いているようには見えなかった。写真の中の姿が真実なのか、それともレイナのシャッターが人々をそんな姿にさせたのか、興味深いところだ。
 彼女は「沈黙の声で語った」と書いているが、僕にはよく聞こえなかった。あの時僕はむしろいらついていたのだ。だが、かといって彼女の言わんとすることが全く分からないというわけでもない。人生とは予め敷かれたレールの上を進んでいるのだと捉えている僕にとっては、レイナの言葉はむしろすんなりと入ってきた。縁、運命、つながり・・・
 レイナが電話をかけてきたのは、ホテルのレストランでカレーを食べ終えた時のことだった。

京都物語 103

「私は先週、金子みすゞを育んだ空気を肌に感じたくて山口県の小さな港町に滞在した。(詳しくは先週の記事をご覧くださいね!)じつはあの話には続きがある。旅館を出た朝、新山口駅から「さくら」に乗って新大阪まで行ったのだが、その時に不思議な出会いがあった。私がこの仕事を始めてからずっと苦楽を共にしている赤いスーツケースが腕を引っ張るのだ。いったいどこへ行くのよって思っていると、特定の男の人にぶつかろうとする。最初はただの偶然だと思った。でもそのうちそうは思えなくなった。何度も何度もぶつかるのだ。その彼というのは特にイケメンというわけでもおしゃれというわけでもない。どこにでもいそうな、少し時代に乗り遅れてる感じの人。だのにスーツケースはどうしてもその人の所に行こうとする。これは一体何だろうと思いながら新幹線に乗ったら、びっくりした。満席の車内で彼の隣だけが空いてるのだ。座るべきかどうか悩んだ。でも私よりも先にスーツケースが反応して、勢いに負けて彼の隣に座ってしまった」
 やれやれ、と心の中でつぶやいた。これじゃまるであべこべだ。迷惑だったのはこっちの方だ。その文章の下には例のスーツケースの写真が載せてある。使い込んで所々に走っている傷跡がストロボに照らされている。写真の下に記事はまだ続く。
「しばらくの間私たちは沈黙していた。でも私には分かっていた。彼は私に惹かれていると。私は目も耳も不自由だから、沈黙の声を聞くことができる。人間はいつも沈黙の声を発している。普通の人はそれを聞こうとしないだけだ。例えば携帯メールは必ずしも真実を語らない。人間は寂しさをこらえるのが苦手だから、ヴァーチャルの世界に安心を求めるのだ。それに比べて沈黙の声は真実を語る。彼は確かに私に惹かれ、私のことを気にかけていた」

京都物語 102

「冬草や兵どもが夢の跡」
 レイナは誰もいない花園ラグビー場の芝生を見てそんな句を詠んでいた。どう考えても松尾芭蕉の俳句の盗作だが、じっくり味わってみると悪い俳句ではないようにも思える。そんなことを考えながら閑散としたラグビー場の写真をぼんやり眺めている僕のカップに、千明氏がそっとコーヒーを注ぎ足してくれた。僕はふと我に返り、そういえばレイナは僕のことを記事に書いたと言っていたのを思い出した。
 その記事がアップロードされていたのは一昨日のことだった。タイトルは「駅」となっている。そこには近鉄奈良駅の通路の写真が載せられていて、改札へと向かう人々の背中が被写体として捉えられている。
「駅に来るといつも思う。いったい何人の人がここを歩いたのだろうかと。たとえば渋谷にすてきなレストランがあるとする。知り合いに聞いたとしても、そこで食事をしたことがある人なんておそらくは半分もいないだろう。だけど渋谷駅に行ったことのない人なんてまずいない。こんな地方の駅だってそう。数え切れないほどのたくさんの人々がこの地を踏み、中にはどえらい有名人もここを歩いているはずだ。私はその人たちと同じ景色を見てる。駅とはそんな所だ。
 そして時に駅は運命の舞台にもなる。それぞれ別の方向からやってくる2人の人生が交差する場所。もちろんそれはごくまれなことだ。しかし運命とは、そうやっていかにも奇跡のように思わせながら、実はちゃんと必然的に起こっているのだ。私がその人と出会ったのは、4日前のことだった」

京都物語 101

「この辺りの地形は北が低くて南が高くなっているにもかかわらず、当時の中国の都をそのままモデルにして作ってしまったために、トイレからの汚物が天皇たちのいる内裏の方に逆流してしまったらしい。しかも本格的な城壁もなかったので、縦から横から、汚物がとんでもないことになってしまい、都の移築を余儀なくされたんだと彼は熱く語った。とにかく寄生虫の卵は何よりも正確に語るんだって。彼は大仏さながらのひょろ長い鼻髭を生やして、黒縁の汚れた眼鏡をかけてた。そうして話しているうちに興奮して、目が真ん中に寄った。もっと興奮すると目に涙を浮かべた。とにかく変な奴だった。
 でも、私がここに来たかったのは、寄生虫の卵を探したかったわけじゃない。じつは彼が去年亡くなったという連絡をちょっと前に受けたのだ。どうやら車の中で練炭を吸ってそのまま逝っちゃったみたい・・・
 寄生虫の卵を研究するだけじゃ、世の中上手く渡れなかったんだよね。でも私は君の熱いまなざしは好きだったよ。今思えば、もっと話をしとけばよかったな。『トイレ考古学』の話、最後まで聞いとけばよかった。君が夢中になった古代の都を想像しながら、今ここに立ってるよ」
 その記事を最後まで読んだ時、僕はコーヒーが飲みたくなった。千明氏に頼むとすぐに運んできてくれた。その薫り高きコーヒーを飲みながら1週間分の記事に目を通す。あの日彼女は新大阪で降りた後、梅田の街を散策している。翌日は近鉄線に乗って花園ラグビー場に足を運んでいる。彼女の元夫はラガーマンで、高校時代はこのグラウンドでプレーしたこともあるようだ。新婚時代は高校ラグビーを2人で観戦したらしい。

京都物語 100

 六条ホテルに滞在したこの1週間で、他の客の姿を見たのはたったの3人だけだった。中年男性が1人と、夫婦とおぼしきやはり中年の男女が1組。3人とも共通して言えるのは何かを抱えているように見えたということだ。もしかすると中年の男女は夫婦ではなかったかもしれない。今思えば夫婦以上のつながりを共有していたような気もする。
 僕は千明氏からノートパソコンを借り、さっそくレイナの名刺に書かれたURLにアクセスした。するとそこにはアイボリーを基調とした可愛らしい意匠のテンプレートが立ち上がり『ひとりとりっぷ』というブログのタイトルが踊った。さっそく昨日の記事を見てみる。彼女は藤原京の跡地を訪れている。そこには「悲劇の都」という題名が記され、その下には写真が3枚並んでいる。どの写真も曇天に鈍く照らし出された枯野が映っている。1枚目は朱雀大路の跡、2枚目は内裏の跡、そして3枚目は石の上に座って煙草を吹かす少年の姿が捉えられている。おそらくこの少年は未成年だろう。遺跡の奥の方を向いていて顔が確認できないが、か細い二の腕とさみしそうな首筋が彼の未成熟さを物語っている。いかにもレイナらしい写真だ。写真には文章が添えられている。
「1度はここに来てみたいと思ってた。大学の時の友達が『トイレ考古学』のゼミに入っていて、彼は寄生虫の卵のサンプルを夢中になってかき集めてた。和紙に書かれた古文書なんてせいぜい数百年しか持たないが寄生虫の卵は二千年以上も残るらしく、そこから当時の人々がどんなものを食べていたのかがわかるんだと言って、目を真ん中に寄せて興奮してた。彼は藤原京の研究をしてて、なぜ日本で最初の本格的な都が滅びてしまったのかということについて論文を書いてた。彼によるとトイレの位置に問題があったというのだ」

京都物語 99

「つまり、僕たちは会う必要があるということなんだね?」と僕は久々に言葉を発した。
「残念だけどね」とレイナは言った。
「で、どうすればいいんだろう?」
「行くわよ。あなた今、京都にいるんでしょ?」
「いや、でもわざわざ僕のために君の仕事に迷惑をかけることはない」と僕は言った。
「つまり会わなくてもいいってこと、それとも会いたいけど素直になれないだけ? あたしそういうわかりにくい言い方されると、イラッとするの」
 僕は二の句が継げなかった。
「会いたいのか、会いたくないのか、どっちなの?」
 あまりの強引さに口ごもってしまう。だがこんな問答に時間と労力を費やすのは決して賢明ではないと考え直し「会いたいよ」と思い切って口にした。するとレイナは「おっし。よろしい。じゃあ行くわよ、京都に」と言ってきた。「えっとね、奈良といっても今いるのは橿原だから、ちょっと時間がかかるわね。うまくいけば昼過ぎにはそっちに着くかな。京都駅の近くまで行ったら電話するから、その辺にいてくれる? あたし待たされるのあんまり好きじゃないの」
「分かったよ。駅に近いホテルにいるからすぐに駆けつけるよ」と僕が応じると彼女は「オッケー」と言い、「じゃ、また後でね」と締めくくって電話を切った。
 大きな歯車がゴトリと音を立てて1つ進んだような気がした。いくぶんが気が晴れた僕は、レイナを待つ間にブログをチェックしようと思い1階に降りた。ロビーには相変わらず客はおらず、千明氏がモンステラに水を差していた。 

京都物語 98

「そのことについては素直に謝るよ。ごめん、君の言うとおりだ。ブログはまだ見てない」
「ヤマシタ君って素っ気ないように見えて、実はとーっても優しい人なんだろうって密かに思ってたのよ。そういう人、いるじゃない? だからすっごく裏切られた感じ」
 僕はノーガードでパンチを食らうボクサーのように、言われっぱなしだった。
「まあ、いいわよ。あなたは今、女の人のことで頭がいっぱいなんだって分かってるし。新幹線の中で言ったでしょ。あたし、第6感が鋭いのよ」
 レイナの声を聞いていると、彼女はオートバイの事故で左目の視力と左耳の聴力をほとんど失ってしまったことを思い出した。こめかみには大きな傷跡が斜めに横切っていて、それから、これは事故とは関係ないが彼女の胸はとても小さい。
「あたし、あなたが電話してくることを予知してたのよ。だからめったに出ない電話にも出た。どうしても出なければならない運命だったのよ」とレイナは言い、受話器の向こうで何度か咳をした。「で、用件は何?」
 突然の質問に、すぐには言葉が出てこない。なぜ僕は彼女に電話したのだろう? 声が聞きたくなったから? それとも、たまたま彼女の名刺がリュックから出てきたから? はたまた、彼女が今どこで何をしているか気になったから? 
 そうやって考えを辿るうちに、レイナは鼻で笑った息を受話器に当ててこう言った。
「こないだ新幹線の中であたしが言ったこと覚えてる? たぶん覚えてないだろうね」
 彼女の言うとおりだ。たくさん話をした記憶はあるが、具体的な言葉は思い出せない。
「必要ならばあたしたちはまた会えるって言ったのよ」

京都物語 97

「あ、ヤマシタ君だ。久しぶり。やっぱ電話してきたんだ」とレイナはいきなり声を弾ませた。1週間ぶりに話すとは思えぬほどの人なつっこさに、一瞬にして目を醒まされたような気がした。それと同時に、彼女のふっくらとした、それでいてすらりと長い指の感触を思い出した。そういえば僕たちは別れ際に握手をして健闘を誓い合ったのだ。
「正直君が電話に出てくれるとは思わなかったよ」と僕は率直なところを述べた。
「何度か電話した?」と彼女は元々大人っぽい声を少しだけ高くした。
「いや、これが最初の電話だよ」と僕が答えると「へ~、それってすごいかも」と感慨深げにつぶやいた。「あたし、めったに電話に出ないのよ」
 それから僕たちは互いに言葉を詰まらせた。
「ところで君は今、どこにいるの?」と僕は本題に入った。するとレイナは間髪入れずに「奈良」と答えてきた。
「何してんの、奈良で?」と僕が聞くと、「取材に決まってるじゃないのよ。他にすることがあるわけないじゃないの」と今度は怒ったように言った。それから「ブログ、もちろん見てくれたよね?」と口調を元に戻してそうつなげた。ブログといわれても、いったい何のことやら分からなかった。この1週間は明子と橘真琴氏のことで頭がいっぱいだったのだ。
「あ~、さては見てくれてないんだな。それってけっこうショックかも」とレイナはすねるように言った。「せっかくヤマシタ君の記事書いたのに。どうりで何のレスもないと思ったわよ。ずっと待ってたんだからね。かわいそうなあたし」

京都物語 96

 僕は部屋に戻り、「橘真琴様」と書かれた封筒に力のない視線を送った。そのうち、この封筒には僕の過去が透けて見えるような気がしてきた。楽しいと思えることもあったが、それよりも苦しいことの方がはるかに多く詰まった過去だ。どうしようもなくさみしかった。薄暗いアパートの部屋で声を上げて泣いたこともあった。
 僕は自分に嘘をつかずに生きてきたつもりだ。しかしそういう生き方をしようとすればするほど、世間の常識というものから乖離していくのを感じた。そうしてますます孤独の井戸の中に閉じこもってしまうことになった。それはいったいなぜなのだろうかと思う。僕は自分に正直に生きてきたのだ。他人の目も気にしてきた。人生に対して誠実に向き合おうと常に努めてきたはずだ。だがなぜ僕はこうも世の中から離れてしまうのだろう?
 カーテンから漏れる光が少し強くなってきたようだ。そろそろ今日の行動を起こそうと思う。だが、何をどう調べればよいのか、手詰まり状態になってもいる。僕は眠気さえ感じながら明子からの封筒をリュックのサイドポケットに戻した。するとポケットの奥で何かが触った。中を覗いてみると、クシャクシャになった紙切れが押し込まれている。広げてみるとそれはレイナの名刺だった。ふと彼女の真っ赤なスーツケースが思い浮かぶ。そういえば彼女は今頃何をしているだろうか。新大阪駅で別れた後、どこに行ったのだろう? 名刺の真ん中には紫の文字で「reina」と書かれ、下にホームページのURLと携帯電話の番号が記されている。
 まったく不思議な縁だなと心の中で苦笑を浮かべながら、僕はそこにある番号を確かめながら押した。すると、うんざりするほど長い呼出音の後でようやく彼女は電話に出た。

京都物語 95

 千明氏がそこまで言ってくれたことについては、うれしくないはずがなかった。だが僕は少年時代から人に何かを任せることを得意としてはこなかった。特に絶対にミスをしたくないことは自分の手でやらなければどうしても気が済まなかった。同僚や先輩からは幾度となく同じ助言を賜った。もっと手を抜いて生きろよ。おまえみたいな生き方は結局は疲れるだけだぞ、と。僕にはそれらの言葉が届かなかった。その結果彼らから揶揄され、軽蔑され、最後には土足で踏み越えられた。それでも僕はやり方を変えなかった。変えられなかったのだ。ただ1つ言えるのは僕には後悔がないということだ。傷だらけになり、時にはボロボロになったこともある。無気力で立ち上がることができないこともあった。それでも僕は今こうして自分の足でここに立っている。
「せっかくのご厚意ですが、もうしばらく京都に残ろうと思います。仕事の方は有給が残っているので何とかなるはずです」と僕は言い、心配そうな表情を浮かべてたたずんでいる千明氏を見上げた。彼は「かしこまりました。わたくしにできることがございましたら、なんでもお申し付けください」と低い声で応じ、ゆっくりときびすを返した。僕は彼の背中に向けてすぐに言葉を投げかけた。
「この居心地のいいホテルをこれからも維持し続けてくださることと、それから毎朝おいしいコーヒーをいれてくださること。それで十分です」
 すると千明氏は半分だけ顔をこちらに向けて、「光栄に存じます」と返した。彼がフロントの奥に消えると、ロビーには再び静寂が訪れた。京都に残ると言ってはみたものの、探し人を見つけられる手応えは全くなかった。コーヒーはすっかりぬるくなっていた。

京都物語 94

 京都へ来て1週間が過ぎた。僕は六条ホテルの部屋の窓から渉成園を見下ろし、それから遠くそびえる比叡山をぼんやりと眺めた。2月の京都の空気はまるで冷凍庫にすっぽりと包み込まれているかのように冷たく、風景全体を凍えさせていた。
 普段仕事中心の生活を送っていると、1日は長く感じられるが1年はあっという間だと実感することがよくある。しかし旅に出てそんな感慨を抱くのは初めてのことだ。1日はこれほど長く感じられるのに1週間はあっという間だと。
「これは一般論ですが、物事というのは気長に取り組んだ方がすんなりといくことがございます。いかがでしょう、いったん山口に戻られてみては? これも何かの縁です。京都での捜索はわたくしに任せていただけませんでしょうか? 少しでも分かったことがございましたら、すぐに連絡させていただきますので」
 朝食を終えてロビーのソファに座り込んでいる僕に千明氏はそう言ってくれた。もはや実家のようにのんびりできるこのホテルで、膝の上に載せた朝刊に目を通しながら千明氏の入れてくれたコーヒーをすする。ここには来るべくして来たのだと改めて思う。
「ところでずっと気になってたんですが、副支配人の名前、何て読むんですか?」と僕は話をはぐらかした。すると千明氏は胸のバッジに視線を落として「ああ、これですか」と言いながら口元を引き締めて答えた。「チギラと読みます。なかなかない名字でしょう」
「かっこいい響きですね」と僕は率直な感想を伝えた。すると彼は名前のことはどうでもいいという思いをちらと覗かせて「いかがでしょう、任せていただけませんか?」と念を押してきた。
 僕はもう一度コーヒーカップを口元に運んだ。

京都物語 93

 明子は海に模して作られた池の対岸から僕に向かって手招きしていたのだ。僕は定められたレールの上を歩かされている。これまで自分の意志で行動を決定してきたというのは大いなる幻覚だ。今僕は彼女の手招きに従って前に進んでいるのだ。
 六条ホテルの外へ出ると、昼間よりも一段と冷たさを増した空気が頬に張り付いてきた。夕靄がそろそろ京都の街を包み込もうとしている。はやる思いに任せてあてもなく歩いていると、ライトアップされた京都タワーが建物の間に顔を覗かせた。タワーをめがけて進んだというわけでもないが、ふと気がつけば京都駅前の塩小路通に出ていた。今日ここへ来たのはこれで3回目だ。夕空の紺色は時間の経過とともに確実に濃さを増し、間近で見上げる京都タワーの明かりは幽玄の灯を天に向けて浮かび上がらせている。その光景を見たとき、僕は初めてここに立った高校生の時の自分をはっきりと思い出した。今の自分とあの時の自分の間の境界線がどこにも見あたらないように思えてならない。
 僕はタワーに背を向けて塩小路通を東山方面に歩き始めた。すると河原町通に出る手前に「元祖京都ラーメン」という看板が視界に飛び込んできた。その薄汚れた雰囲気の店はかえって僕の心を強く引き寄せた。店内に入ると空席はたったの1つしかなく、そこに押し込められた僕は肩をすぼめるようにしてラーメンをすすった。醤油の味がそのまま伝わってくるシンプルなラーメンだったが、それがまた心に沁みわたった。
 京都へ来て1日も経たないうちに限界に近いものを感じ始めていた。その不安をかき消すべく、次の日もまた次の日も、思いつく限りの捜索をした。しかし労力をあざ笑うかのように、橘真琴という人物に関する情報は何1つとして得られなかった。

京都物語 92

 千明氏との話を終えて部屋に戻った僕は、冷蔵庫に冷やしてあったペットボトルのミネラルウォーターを飲みながら、カーテンを開け、曇天に照らされた窓の外の風景に目をやった。眼下には枯れ木に覆われた渉成園がのっぺりと広がっている。僕はここが「河原の院」と呼ばれていた時代に思いを馳せ、ユートピアを造り上げて耽溺した源融を思った。融は嵐山にある清涼寺の場所にも別荘を構えていたという。僕の意識は過去に佐織と歩いたモノクロームの嵐山の情景にとらわれた。その中で清涼寺の境内にあった燃えるような紅葉だけが鮮やかすぎる色彩をもたらした。その紅はたちまち意識のすべてを染め抜いた。
 もう一度ミネラルウォーターを飲む。冷たい水が体内を駆けずり落ちたとき、こんな所で感傷に浸っている場合ではないと思い直した。仕事を休んでまでも京都に来た理由を忘れてはならない。
 僕はコートを羽織って1階に降り、フロントにいた千明氏にルームキーを手渡した。「お出かけでございますか」と彼は熟練の口調でそう言った。僕は外へと向かう足をぴたりと止めて、念のために明子からことづかった封筒を取り出した。そして橘真琴という人物をご存じかと尋ねてみた。すると彼はあごに人差し指を当てながら封書された明子の文字をまるで問題点でも探すかのようにじっと見つめた。しかし予想通り彼はその女性を知らなかった。僕が女性についての説明をすると、そういえば大谷大学出身の知人がいるから連絡を取ってみましょうと言い、電話をかけてくれた。だが結果はやはり期待を少しも上回らなかった。とはいえ、失望するわけでもない。僕が今ここにいるのは決して偶然ではない。渉成園を見下ろしながら感じたなつかしさが僕に何かを伝えようとしている。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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