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京都物語 151

 坂井氏から連絡があったのは、それから3日後のことだった。その時僕は四条大宮のブックストアで雑誌を立ち読みをしているところだった。突然ポケットの電話が鳴って「作戦会議をしたいの」とレイナが言ってきた。彼女にしては冷静な口調だった。
 急いでホテルの部屋に戻った時、彼女はベッドに腰掛けて、窓の外の渉成園を見つめながらグレープフルーツジュースを飲んでいた。
「さすがに今日はビールじゃないんだね」と僕が言うと「考え事に集中したいのよ」とレイナは窓ガラスに映る彼女自身に語りかけるように答えた。ここのところ曇りの日が続いていたが、今日は雲の割れ目から青空が顔を覗かせている。
「で、どうだったの、坂井さんからの報告は?」
 僕がそう聞くと、レイナはくるりと顔を向けて「うん、あたしの直感通りだったよ」と口元を引き締めた。「でね、早速なんだけど、美琴ちゃんにもう1回電話してみようと思うの。この件はあなたに依頼されたことだから、一言断っておこうと思って」
「ありがとう。よろしく頼むよ。僕には何がどうなってるのか、全然見えないけどね」
 レイナはペットボトルに口を付けて、何だか痛そうな顔をしてグレープフルーツジュースを飲んだ。そうしてキャップを締めながら「あたしね、実は変な感じがしてるんだ」と低くつぶやいた。「はじめはヤマシタ君のために何とか橘真琴さんを捜そうっていう一心だったのね。何であたし、あなたのためにこんなに一生懸命になるんだろうって、何度も思ったくらいよ。もちろん、あたしたちは出会うべくして出会ったんだって、今でもそう思ってる。新山口駅で初めて出会った時点で、あたしたちの物語はすでに始まってたの」
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京都物語 150

 京都駅八条口のレンタルサイクルに戻ってきた時、夕刻から急に厚みを増してきた雲の端にはほのかな茜色が滲んでいた。そのまま京都駅の表口に出ると京都タワーが紺色の街にさみしげにライトアップされていた。
「1日なんてあっという間だね」とレイナは言い、六条ホテルのソファに腰を下ろした。フロントには暖房が十分に効いていて、冷えきった手と身体がじんじんとしびれた。
 千明氏はコーヒーでも持ってきましょうかと気を遣ってくれたが、さっき飲んだばかりだからと言って断った。すると彼は自家製のホットジンジャーを入れてくれた。彼の人柄をそのまま味わっているかのような口当たりだった。それを飲みながら僕たちはおのおのの思考の中に沈んだ。レイナはソファにもたれて軽く目を閉じ、頭の中にあることを整理しているようだった。おそらく橘真琴に関すること、具体的には『藤壺物語』を読んでいて彼女の心に引っかかった何かについて思いを巡らせているのだろう。
 僕はというと、そんなレイナを目の前にして、今日1日の行程を振り返っていた。京都駅を起点に、東山、廬山寺、京都御所、紫野を結ぶいびつな楕円形を描いたことになる。そうして今、紫式部という女性の人生が残り火のように胸中にくすぶっている。橘真琴がまだ浅茅しのぶというペンネームを使っていた頃、彼女もきっと僕とレイナのたどったいびつな楕円を歩いている。まだ見ぬ橘真琴という女性が紫式部の人生を媒介として、僕と何らかのつながりをもちはじめているような気がしていた。
 その夜僕とレイナはまた同じベッドで寝た。しかし昨夜とは違って僕たちはしっかりと抱き合った。冷え切ったお互いの身体はあっという間に汗ばむほどになった。

京都物語 149

 紫野には、京都における平凡的風景が広がっていた。細い道路の両側には塀が連なり、古民家が建ち並び、マンションがある。マンションといってもどれも低く押しすくめられていて、その上には大きな空が見える。こんぶを専門に扱う店とか眼鏡屋とか交番もある。それらはみな京都の冬の空の色と調和しているように映った。まるでそこに含まれる全ての対象物が一同に申し合わせて「京都の冬における平凡的風景」を造り上げているようだ。
 僕たちは「一休さん」で有名な大徳寺の広大な敷地を過ぎて嵐山方面に向かった。しかし不運にもその途中で小雨がぱらついてきた。仕方なくたまたま目についた古いカフェで小休止することにした。「京都における平凡的カフェ」とも言えそうな店だった。常連と思しき客が数人、それぞれの夕刻を思い思いに過ごしている。僕たちは窓際の席に座り「紫ブレンド」という深煎のコーヒーをすすりながら、雨が紫野の情景を濡らす様子をぼんやり眺めた。しかし雨はなかなか止んでくれない。そのうちレイナは小腹がすいたと言ってホットケーキを追加注文した。分厚くてふかふかのホットケーキだった。一口切り分けてもらったが、バターの香りが口の中に広がってサイクリングの疲れを解きほぐしてくれるような味わいだった。
 雨が小降りになると同時に再び外に出ると、空気がまた一段と冷たくなっていた。時刻は5時を大きく過ぎている。息を吸い込むと鼻の奥まで凍り付きそうだ。
「さすがに嵐山まで行くのは無理だね」とレイナは言い、不本意そうにサドルにまたがった。やむなく僕たちは堀川通を京都駅に向かって戻ることにした。途中レイナは何度か自転車を止めて、夕暮れの堀川通に向けてシャッターを切った。行き交う車たちの間から、夕飯のかぐわしい匂いがそこはかとなく立ちこめていた。




京都物語 148

「浅茅しのぶが文学賞作品を書き上げることができたのは、彼女が紫式部の人生を自らに投影しきったからに間違いないわ。今、ここに来て確信した」
「今?」
「そう。たった今。紫式部が源氏物語を書いたと伝えられるこの場所に立ってみて、あたしの第6感が動いた。間違いなく浅茅しのぶもここへ来て、あたしと同じようなことを感じているわね」
 レイナは『藤壺物語』のことを言っているのだろうが、その作品を読んでいない僕には彼女の言わんとすることが理解できない。おまけに彼女はそれ以上のことを説明しようとはしない。その代わりに境内の風景をまるで昔の映画でも見るかのようなノスタルジックな表情でしばらく眺めていた。彼女の心のスクリーンにはいったい何が映っているのだろう?
 彼女は何枚か写真を撮り、デジカメをしまってから廬山寺を後にした。遠くで枯れ草の焼けるような匂いがした。そろそろ夕刻が近づいている。
 門の外に出た途端に、空気が変わった気がした。しばしのタイムスリップを終えて、今という時間に帰還したようだった。再び自転車にまたがるとおしりの辺りが痛んだ。その痛みが妙に現実的なものとして感じられた。
 僕たちは京都御所をすいすいと北に進んで今出川通に出た。それから堀川の交差点をさらに北上した。堀川通といえば、京都に来た日に大谷大学へ行くために市バスで通った道だ。1週間前が1年前のように感じられる。そんな感慨に浸っているところにレイナが話しかけてきた。「この辺りは紫野って言ってね、紫式部が生まれた場所だと推定されてるのよ」

京都物語 147

「つまり紫式部という女性は、思いの外つらい人生を送ったんだなあ」と乾いた京の空を見上げながら言うと、レイナは「本物の小説家だったんだね」と寄り添ってきた。
「でも、何がそんなにつらかったのかは、結局は分からないわけだ」
 僕がそう続けると彼女はまぶたを軽く閉じてうなずいた。それから廬山寺の出口に向かって1歩ずつ進み出した。
「だけどそれは決して悪い事じゃないと思うのよ」とレイナは歩きながら言った。「真実というものは、どうせ正しくは伝わらないから」
 僕はレイナの顔を見た。廊下の軋む音が耳に飛び込んでくる。
「まして記録として残ってることが必ずしも真実とは限らないわ。人間の真実なんてそう簡単に記録できるもんじゃないもの。だから、どっちみち紫式部の苦しみは彼女にしか分からない。ヤマシタ君が1人で好きだった女性を追い求めてるのと同じようにね」
 出口に近づくにつれて線香の香りが遠ざかり、代わりに古木の匂いが存在感を増す。
「かといって紫式部の真実は全く理解できないっていうわけでもない」とレイナは靴箱に入れておいた黒いニューバランスのスニーカーを履きながら言った。
「というと?」と僕が聞くと、「想像するのよ」とレイナは答えた。
「辛うじて残された記録をたよりに、紫式部の心を想像するの。自分の心を無にして、彼女の中に入り込むのよ。そうして紫式部の人生を感じるの。そういうやり方は昔から多くの優れた文学者によってなされてきた。中には独創的な方法でそれをやった人もいる」
 レイナはそう言ってふと足を止めた。「浅茅しのぶもその中の1人よ」

京都物語 146

 レイナはそこまで話してから再び縁側に出て「源氏庭」の白砂を眩しそうに見渡した。さっきの女性2人組はすでに畳の間を去って、阿弥陀三尊像の安置されている内陣の前で正座をし、小さな歓声を上げている。おそらくは遠くからの観光客だろう。
「そういえば、紫式部が藤原道長に頼まれて初めて宮中に出仕した時に、象徴的な歌を詠んでいたわね」とレイナは言い、リュックサックの中からスマートフォンを取り出して慣れた手つきで画面をなぞり始めた。

身のうさは 心のうちに したひ来て いま九重に 思いみだるる

 レイナはその歌を静かにゆっくりと2回朗読した。それから「自分の身の上をつらいと思う気持ちは捨ててきたつもりだったが、ふと気がつくと心の中に隠れてこの宮中までついてきている。今、宮中で幾重ともしれぬ物思いに、心が乱れるばかりです」と、まるで紫式部の言葉を代弁するかのようにつぶやきながら、再び庭を眺めた。
「宮中の華やかな舞台に上がることは女性たちにとっては憧れだったはず。でも紫式部は違った。出世して思わぬ幸運をつかんだ女性もいるにはいたけど、藤原道長が政権についてからはそううまくはいかなくなっていたの。そういう夢を持ってしまうと、若い貴公子にもてあそばれてしまうおそれもある。紫式部はすべてお見通しだった。男性たちの前に顔をさらす宮仕えなどしないほうがましだと達観していた。彼女はすでに経験していたの。痛い目に遭っていた。それでも宮仕えをしなければならなかった。だからつらかった」

京都物語 145

「そりゃ、だって、仕方ないよね。紫式部はなにしろ千年以上も前の人なんだから、彼女についてのまともな記述が残ってるわけないのよ。あたしも大学の図書館に閉じこもってずいぶんと書籍を探したけど、全てが推定止まりだもん。源氏物語だって、あれほどの長編小説でしょ。しかも当時は印刷なんてないんだから、全部手写しじゃん。写してる人が間違えたり、勝手にストーリーを変えたりしている可能性だってあるわけよ」
「紫式部本人が書いた原本は残ってないの?」
「源氏物語の草稿と原本はもちろん存在してたはずだけど、残念ながら現存してないわね。もし見つかったら超ド級のスクープになるわよ」とレイナは目を輝かせた。「そういえば、彼女の謎について、今ふと思い出したことがあるわ。さっきの話に戻るけど、紫式部は推定年齢たしか26歳で結婚したことになってるの」
「それがどうして謎なの?」
「平安時代の女性はね、12~3歳で裳着の式をすませると大人扱いになって、14~5歳で結婚するのが通例だったの。だって当時の平均寿命は50歳に満たなかったんだから。そう考えると紫式部は非常に晩婚だったということになる。貴族の娘は今と違って結婚は避けては通れないものだったのね。だとすれば、紫式部はそんな年齢まで何をしてたのかっていう謎が浮かび上がる。しかも夫である藤原宣孝は45歳前後だったといわれてるの。つまり親子ほど年の違う人との結婚だったわけ。理解しがたい部分が多いだけに、初婚ではなかったのかもしれないと考えられたり、あるいは20歳前後の時期に、何か特別な男性関係があったのではないかという意見もあるの」

京都物語 144

 今いる場所に紫式部が住んでいたということを想像すると、僕の意識は平安時代にタイムスリップしたような錯覚を感じた。いやそれは錯覚と呼ぶにはあまりにもリアルな感覚だった。レイナが紫式部の「めぐり逢ひて・・・」の和歌を説明してくれている時、僕は紫式部のひとりごとを聞いているような気がしてならなかった。彼女は1語1語をゆっくり丁寧に発した。だが、その言葉全体から漂うのは、さみしさだった。彼女は話し相手を求めていたのだ。それも、気のおけない話ができる心からの親友を。彼女は話すべき多くのことを抱えていた。
 ある月夜の晩、紫式部はその人の訪問を知らせを聞く。しかしその人は彼女と対面する間もなく気忙しく帰ってしまった。彼女にとっては、心の闇を晴らすまさに月のような存在に違いなかった。かくして彼女は再びさみしさの淵に逆戻りすることになる。
「なぜ紫式部はさみしさかったんだろう?」と僕はそろそろ西日の差し始めた「源氏庭」を後にしながら尋ねた。するとレイナは縁側の手すりをいとおしげにさすりながら「人生の苦しみを味わったんだと思う」とつぶやいた。
「あたし大学時代に中古文学のゼミに入っててね、いろんな書籍を繙いてみたんだけど、紫式部の人生ってどうも謎の部分が多いのよ。彼女は藤原為時という中流貴族の娘だとされてるんだけど、おそらく小さい頃に母を亡くしてるのね。で、その後藤原宣孝と結婚して大弐三位を産むんだけど、その夫とも早くに死別してしまうの。彼女は父の影響で小さい頃からずいぶんと本を読んでたみたい。で、その才能はかの藤原道長に認められて、道長の娘で一条天皇の后である彰子という女性に仕えることになるわけ。でもね、夫の死を経験して、宮に仕えるようになったその頃から紫式部の人生は謎めいてゆくんだ」

京都物語 143

(紫式部のひとりごと)
 
 私は月を待っていたのでございます。
 夜はあまり好きではありません。さみしくなるばかりですから。

 だから、あなたがいらっしゃるという噂を耳にして、久しぶりに胸が躍りました。明かりを灯して、書を読みつつ、あなたと久しぶりに語らう瞬間を楽しみに待っておりました。

 だのにあなたはあっという間に去って行かれました。
 私のこの胸はたちまち抜け殻のように寒々しくなってしまいました。

 今夜の月は明々としております。しかしあなたが去って行かれるのと同時に、雲の間に隠れてしまいました。

 ああ、またあなたと語り合いとうございます。
 そうして私のこのさみしさを慰めてほしいと遙かに願っております。
 


 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな   

京都物語 142

「なんだか、それって、恋の歌だなあ」と僕が顔を上げたところにレイナの亜麻色の瞳があった。彼女は「恋の歌だよ、正真正銘の」と僕の言ったことを復唱した。
「平安時代の貴族は通い婚と言ってね、夜になって夫が妻の家に足を運ぶというシステムになってたのよ」
「ということは、普段は別々に住んでるってこと?」
「そう。昼間は皆内裏に上がって公務を行ってるから。権力闘争を強いられた彼らは必死よ。でも、ほら、その頃って今みたいに照明がないから夜が早くて長いのよ。仕事が終わってから、恋の時間がたっぷりあるわけ」とレイナは言った。「だから月明かりがとても貴重なのね。彼らは月の動きに注意を払い、満月の夜にはいろんなドラマが起こる」
 僕は平安時代の夜を思う。夜風が吹き、草が揺れ、土の匂いがし、鈴虫が鳴く。
「天皇には有能な世継ぎを産むために一夫多妻制が認められてたのね。でも、その思想は貴族たちにも下りてきて、彼らは正妻の他にも愛する女性を持ったの。要するに恋に寛大な時代だったわけ。だからこそ、さまざまな苦悩が生まれることにもなった。特に女性の場合は、携帯もメールもない時代に、夜、ずっと待たされるの。お化粧して、身支度をして、御簾の内側でずっと愛する人との逢瀬を夢見ながら待ち続ける。何日も待たされて、そのまま放置されたことだってあった」
「今の時代にそれをされたらつらいだろうな」と僕はつぶやいた。夜風が吹き込むように明子の記憶が胸に入ってきたのだ。3年前彼女が突然僕の元から失踪した時、僕にできることといえば待つことのみだった。僕はひたすら待ち続けた。その途中で結花と出会いほんものの愛を交わした。しかし、折しも愛が成熟しかけた時になって明子から手紙が届いた。置かれた境遇こそ違え、大弐三位の和歌にはわけもなく共感できるところがあった。

京都物語 141

 僕は庭園に目をやりながら縁側を歩いた。白い砂利の上に岩と苔と松の木が意図的に配置され、静けさの漂う空間にしつらえられている。どうやら「源氏庭」と呼ぶらしい。
「夏になるとね、ここは桔梗の花でいっぱいになるのよ」と僕の視線の先を見ながらレイナが言った。「桔梗ってどんな花だっけ?」と聞くと、彼女は「紫色した可憐な花よ」と穏やかに答えた。この庭が桔梗の花に彩られる光景を想像するだけで心が紫色に染められるようだった。
 内陣から2つ隣の畳の間には、源氏物語絵巻や絵合の貝殻、それから扇形の色紙の上に流麗な筆でしたためられた和歌が2首、ガラスケースの中に並んで陳列されている。
 
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする  大弐三位   

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな  紫式部 

「2首とも有名な和歌だね」とレイナは膝に手をついて見入っている僕の肩の上からそう言った。「百人一首にも入ってるしね」
「どう訳せばいいんだろう?」
「まず大弐三位っていうのは紫式部の娘で、藤原賢子のことね。有馬山って分かる? 神戸に有馬温泉ってあるでしょ。あそこの笹の葉がそよそよと風に揺れているの。まったくそうよ。あなたは私の心変わりを不安がって久しぶりに手紙をよこしてきたけど、私の心が変わるわけないですわ。よくもまあ今になってそんなことが言えますわね、っていうくらいの訳かな」

京都物語 140

「中に入ってみる?」とレイナは言って僕を見た。もちろん僕は首を縦に振った。紫式部の名前を耳にした時、六条ホテルにチェックインした直後に千明氏がしてくれた話をはっきりと思い出した。ホテルの部屋から見渡せる渉成園は、平安京の頃、造営主である源融が他界してからというもの幽霊屋敷としての噂が立ってしまった。そしてその不気味で広大な庭園は源氏物語の舞台にもなった。すっかり荒れ果ててしまったこの別荘に光源氏は夕顔を連れ込んで一晩中戯れ合うのだが、翌日彼女は物の怪に取り憑かれて息絶えてしまう。
 門の周辺にいくつか掲げてある紫式部という文字を気にしながら、やや緊張気味に境内に足を踏み入れる。最初に立ち寄った手水場の梁には短いつららがいくつもぶら下がっている。レイナは「すごおい、つららだ」と見たことをそのまま口にしながら、手袋を外して手元を清めた。手袋をはめない僕の手には水は痛いくらいに冷たかった。
 手水を付けた後で廬山寺の本堂に入った。寺というよりは武士の邸宅のような趣だ。内部を見渡すと、下関にある功山寺という寺を思い出す。あそこは高杉晋作が奇兵隊を出陣させた地として知られているが、晋作が住んでいたこともあって和風の住まいになっている。そんな記憶を辿りながら縁側に出ると、枯山水風の細部まで手入れの行き届いた庭園が透き通った冬の日差しに照らされている。中央付近の石には「紫式部邸宅跡」と彫ってあるのがよく見える。僕たちはいかにも品のあるお香の香りを感じながら、黒く磨き上げられた縁側を進んで内陣の前まで来た。奥には本尊である阿弥陀三尊像が安置されている。レイナは清水寺の時と同じように正座して両手を合わせた。しばらくして立ち上がり、「紫式部という女性は、きっとつらい人生を歩んだんだね」とつぶやきながら縁側を戻った。

京都物語 139

「あれこれ考えたところで何も始まりそうになかったから、昨日の夜はビール飲んで、シャワー浴びて、さっさと寝たわ。あなたの隣でね。でもよく眠れなかった。何度も目が覚めて『藤壺物語』の場面がリアルに浮かんでくるの。つまりあの物語はやっぱり何かを比喩してるのよ。だとすればそれは何だろうって頭の中が異様に熱くなった。でね、朝ベッドから出てテレビを見ながらビールを飲んだ瞬間、ふっと解けたの。最初は単なる邪推に過ぎない気もしたけど、やっぱり謎がどんどんつながっていくようで、そのうちそうとしか思えなくなった。だから坂井さんにいろいろ調べてもらおうと思い立ったんだ」
 レイナはそう言い、高瀬川の裸の桜越しに見える民家や旅館の方にちらと視線を送った。
「具体的にどんな謎を解いたんだろう?」と僕は聞いてみた。しかしまたもやレイナの耳にはきちんと届かなかったらしい。彼女は依然として高瀬川の方を見つつ自転車を押している。改めて聞き直そうとしたが、焦ることもなかろうとすぐに思い直した。彼女は僕のために一生懸命になってくれている。不安を感じる必要などない。言葉は最小限にとどめておく方が賢明だと最近よく思う。それでも、どうしても余計なことを言ってしまうのが現実だ。
 レイナはひとしきり話し終わると弾みをつけてサドルに飛び乗った。それからしばらくの間僕は彼女の後ろ姿にひたすらついて行った。太陽が上がっても空気は冷たいままだ。かじかむ手をポケットで温めていると、御所の近くにまで来ていることに気がついた。レイナはスピードを緩め、古い寺の前でブレーキをかけた。門には「廬山寺」と毛筆で書かれている。「紫式部は実在しなかったっていう説もあるのよ」とレイナは門を見上げながらそう言った。「で、もし彼女が実在したのであれば、ここに住んでたと言われてるの」

京都物語 138

 八坂神社から南座にかけての祇園の商店街はあまりの人の多さに自転車を押して歩くことさえ困難だった。それでレイナは鴨川に架かる四条大橋を渡ってすぐに細い道に逸れた。「木屋町通」と記されたこの路地には車も人も少なく、悠々と自転車をこぐことができた。
「ねえ」とレイナは僕の横に並んで聞いてきた。「さっきから何ぼーっとしてんの?」
「ぼーっとしてるかな?」と僕はすぐに聞き返したが、彼女の耳には声が届かなかったようだ。レイナは結花の面影を思い浮かべたさっきの僕の顔を見てそう言っているのだ。
「過去のちょっとした想い出が甦ったんだよ」と僕は声を大きくして答えておいた。するとレイナは「過去に付き合ってた女の人をふと思い出したのね」と言い、しんみりと笑った。
「君の方こそ、ずっと何かを考え込んでるんじゃないの?」と応酬すると、レイナは急に真面目な顔になって「当たり前じゃない」と張りのある声を出した。「あたしは昨日の夜からいろんな妄想を浮かべ続けてるんだから」
「どんな妄想?」と思い切って尋ねると、彼女は逆に「他に何を考えるっていうのよ」とよく通る声で言い返してきた。そのつぶらな亜麻色の瞳を見てようやく、彼女は橘真琴のことを真剣に考えてくれているのだということが腹に落ちた。それで僕は「君には何か思い当たる節があるんだね」と発言を軌道修正した。レイナはブレーキをかけて自転車を降りた。
「受賞作の『藤壺物語』を読んだんだけど、どうしても腑に落ちなかったの」とレイナは話し始めた。彼女の肩越しには高瀬川沿いの桜の木が寒そうに並んでいる。「あの文章を書く時に浅茅しのぶは大きな苦しみを抱えていた、そして命がけで完成した、美琴ちゃんはそう言ってたけど、小説の内容と作者の苦しみがどう関連してるのか全然分からなかったの」

京都物語 137

 道幅は狭いが京都の情緒が存分に漂う路地の両側には、箸や扇子などの京雑貨を売る店や、煎餅や和菓子やちりめん山椒を扱う店がずらりと並び、観光客がひっきりなしに足を止めている。
「ここへ来るの初めて?」とレイナは久々に普段通りの口調で話しかけてきた。僕は初めてだと答えた。清水寺のすぐ近くにこんな通りがあっただなんて意外に思う。
「この産寧坂は祇園に続くんだけど、いかにも京都っていう雰囲気で大好きなのよ」とレイナは言いながらリュックサックからデジタルカメラを取り出してシャッターを切り始めた。そして彼女は画像をチェックしつつ「この写真はブログ用じゃなくて、プライベート用だね」とつぶやき気味に漏らした。
 それから僕たちは坂の途中にあるイノダコーヒーに立ち寄り、ブレンドコーヒーを飲んでサンドイッチを食べた。昼を過ぎると人が押し寄せてくるから少し早めのランチを取ろうとレイナが提案したのだ。深煎りのコーヒーを口に含みながら窓の外に広がる日本庭園を眺めている僕に、レイナは「大学の時にいろんな所に行ったけど、京都ってやっぱりこういう場所がいいなって思う」としみじみ言い、スクランブルドエッグとチーズの入ったサンドイッチの端を少しだけかじった。さっきから気になっているが、彼女の口からは離婚した夫との思い出話が出てこない。実家が大原にあったのなら何度も2人で訪れているはずだ。もう忘れてしまったのかもしれない。あるいは忘れられないのかもしれない。
 その後僕たちは高台寺を過ぎて祇園に辿り着いた。八坂神社から東大路通りに出て、歩いて駐輪場まで戻ってきた時にはさすがに靴擦れができていた。再び自転車に乗った時「ヤマシタ君と遊ぶの、楽しいわ」とレイナの方から言ってきた。どこかで聞いたことのあるセリフだと記憶を辿ると、そういえば結花がよく言っていたのを思い出した。

京都物語 136

 僕たちは別々の思考に沈みながらあふれかえる観光客の中を歩いた。レイナは参道の真ん中を進んだ。しかも他の通行人を避けようとはしなかった。にもかかわらずすいすいと前に足を運んでいたのが驚きだった。僕はというと通りの端っこの方を、他の人とぶつからないように歩いた。歩き方1つにもそれぞれの人生が象徴されているようだった。
 ふと顔を上げると、鮮やかに朱塗りされた仁王門が店の間からちらほらと姿を見せ始めていた。その仁王門をくぐると今度は三重塔が冬の日差しを受けながらそびえ立っていて、さらに進むといよいよ清水寺の本堂が現れる。僕たちは手水の列に並び、それを終えてから靴を脱ぎ本堂の内陣に入った。どこか野性味を帯びた線香の香りが充満し、薄暗く厳かな空気が張りつめている。本尊の千手観音像は秘仏のために厨子に納められていたが、レイナは正座して静かに手を合わせた。僕も彼女に倣った。そういえば美咲とこの寺へ来た時には舞台に立つことに気を取られるあまり、こうして礼拝することはなかった。ただそれはおかしな事でもない。おびただしい数の参詣客の中で、わざわざ内陣に入って正座する人は思ったよりも少ない。
 僕たちは再び靴を履いて内陣から出て、2人並んで清水の舞台に立った。眼下には洛中の町並みが一望できた。京都タワーが小さく見え、その先には近代的な京都駅ビルを垣間見ることができる。僕は出会って間もないレイナとこうしてここに立つということがどうも信じられないでいた。彼女はやはり物思いに遠くを眺めている。目の前に広がる冬の京都の景色に自らの過ぎ去った日々を重ね合わせているようだった。
 清水寺の境内を一通り巡った後で、レイナは参道から北側に折れる路地に進んだ。そこは長く緩やかな下り坂になっていて、風情のある通りだった。看板には「産寧坂」とある。

京都物語 135

 レイナは束ねた髪を風になびかせながら「気持ちいいー」と叫んだ。「ちと寒いけど、この寒さがまた京都らしいのよ」
 彼女は僕に話しかけているというよりは風と対話しているようだった。
 七条河原町の交差点を北上して2分も経たぬうちに五条河原町まで上がってきた。レイナはここで東に進路を変え、鴨川を渡った。「弁慶と牛若丸が出会ったって言われる五条大橋ね」と彼女は橋を通りながら少しだけ顔をこっちに傾けた。冬の青空はうっすらと白みががっていて、そこに薄灰色の雲がたなびいている。青空を映している鴨川の水面は所々に雲の影で暗くなっている。北の空には粉砂糖のような雪をまぶした比叡山が接している。川の両岸に並ぶ桜の木はすべて丸裸で、この季節の京都の情景をよく表している。
 五条大橋を渡り終えると道幅が大きくなり交通量が増える。その緩やかな長い坂を上りきったところで東山通と交差する。東山通に入ったところで僕たちは揃って自転車を降りた。観光客がごった返していたのだ。
 僕は「さては清水寺に行くんだな」と言った。しかしあまりの混雑にレイナの耳には僕の声が届かなかったようだ。彼女は自転車を押しながら「なんだかんだ言って、やっぱりここに来てしまうのよね」と坂の上を眩しそうに仰ぎ見た。
 僕たちは清水坂の駐輪場に自転車を預け、そこから徒歩で参道を進んだ。この坂を上るのは2度目のことだ。前回は年末だったので人々は一様に気忙しそうに見えたものだ。あの時美咲は店頭に並ぶ和雑貨を手に取っては声を上げた。それとは対照的にレイナは道の真ん中を物思いに歩いている。離婚した夫との想い出を踏みしめているのかもしれない。彼の実家は京都の大原だったとレイナが新幹線の中で話したのをふと思い出したのだ。

京都物語 134

 僕たちは歩いて京都駅の八条口に回り込み、新・都ホテルの裏手にあるレンタルサイクルを訪ねた。そこは月極駐車場の一角に設けられたこぢんまりとした店だったが、どうやらレイナの行きつけらしく、奥から出てきた男性店員と彼女はいきなり懇意に話し始めた。彼女は髪を後ろに束ねたまま黒のニット帽を深くかぶっている。紫のダウンジャケットにタイトジーンズ。初めて出会った時と全く同じ姿だが、こうして自転車の横に立ってカメラの入ったリュックを颯爽と背負うと、やはりいっぱしのブロガーに見える。
 僕はずいぶんと久しぶりに自転車のサドルにまたがって、レイナと共に再び八条通に出た。京都駅のホームにはちょうど博多方面へ向かう新幹線が入ったところだった。
「どこか行きたいとことかある?」とレイナは横に並んで聞いてきた。そういえば京都に入って自由に動き回るのは今日が初めてだ。自由になるとかえって行きたい場所が思い浮かばなくなる。それで僕は「君に任せるよ」と、風で消えてしまわないように大きな声で言った。レイナは「オッケー。今日は天気もいいし、あたしのおすすめプランっていうことでいいね」と声を弾ませた。それにしても2月の京都はただでさえ冷たいのに、自転車で風を切ると手がハンドルに凍り付いてしまいそうだ。それを知っているレイナはちゃんと手袋をはめているが僕は素手だ。時折ハンドルから手を離してポケットに手を突っ込みながらのサイクリングとなった。
 まもなく八条通を横断し新幹線の高架をくぐって再び京都駅の表口に出た。そしてそのままのスピードで冬の日差しに照らされた七条河原町の交差点を通過した。すると左手に白壁の長い土塀が現れた。「渉成園よ」とレイナは教えてくれた。つまりあっという間に六条ホテルの通りまで戻ってきたわけだ。

京都物語 133

 朝食を終えた後でレイナは早速自分の部屋に戻り、出版社の副編集長をやっている坂井という人物に電話でコンタクトを取った。思ったよりも長い電話だった。その間僕は自分の部屋で日頃はまず見ることのない朝のワイドショーを何となしに眺めていた。普段は全く興味の起こらないはずの芸能人の離婚や不倫騒動が、どういうわけか今日ばかりは目に飛び込んできた。結局番組の最後まで付き合うことになった。
 次のテレビショッピングが始まった時、ようやくレイナがノックした。ドアを開けると開口一番「オッケー、用件はきっちり伝えたよ」と言い、右手の親指を立てた。
「それにしても長い電話だったね」と僕は言いながらテレビの前の椅子に戻った。レイナは冷蔵庫の中からコロナビールを取り出して栓抜きで抜いた。
「そりゃ、大事な電話だもん。それに坂井さんと話をするのも久しぶりだしね」
 レイナはビールを飲みながらそう言った後で「ヤマシタ君も飲まない?」と軽く瓶を掲げた。この10年の間、朝から酒を飲むことなどなかったが、今日は飲みたい気分だった。僕はかすかな胸の痛みを感じていた。過去に密会していたという2人が1時間以上も何を話したのかが気になっていたのだ。どうやら僕は彼女に愛着を覚えているらしい。よく冷えたビールが喉に染みわたり、たちまち全身を駆け巡った。
 午後からは2人で京都の町に出ることにした。この日はちょうど休日で、市内はいつも以上の観光客で賑わっていた。京都駅前にひしめき合うバスも嬉しい悲鳴を上げていた。「こういう時に一番効率的な乗り物は何だか知ってる?」とレイナは駅へと歩きながら聞いてきたが僕には分からなかった。すると彼女は「チャリよ」と答えた。

京都物語 132

 僕たちが揃ってレストランに入った時、珍しく今朝は他の客の姿があった。黒のスーツを着たサラリーマン風の男性が新聞を読みながら食後のコーヒーを飲んでいる。おそらくは僕と同年代だろう。それから隅っこの席では萌葱色のスカーフを巻いた中年女性が黙々と食事を進めている。2人ともやはりこのホテルの客に共通の何かを抱え込んでいるように見える。そこへもってくるとレイナの存在は際だっている。昨夜はあまり寝てないはずなのに、いかにも美味しそうに白ご飯とみそ汁を食べている。髪を後ろに束ねているために左目からこめかみにかけての古傷が目立っているが、それに頓着する気配すらない。
「さっきの話の続きだけど」と僕はハムエッグの黄身を潰しながら話しかけた。レイナはみそ汁をすすりつつ僕を見た。「コンタクトを取りたい人がいるって言ってたけど」と言うと、彼女は口の中の物を咀嚼しながら「こういう時に頼れる人がいるのよ、1人」と応えた。「別れた旦那の親友なんだけどね、その人だけはあたしを見切らなかったの。今は東京で出版社の副編集長やってて、いろんな人脈をもってるんだ。その人ならあたしが頼んだことは誠意を持ってやってくれるはず」とレイナは言い、小皿に載せられた梅干しを箸でつまんで口に入れた。「昨日の夜、浅茅しのぶの本を読みながら思い当たることがあってね。それをどうしても確かめときたいの」とレイナは口をすぼめながら話した。
「君の人脈はすごいな」と僕が感心して言うと、「その人、あたしのことをずっと大切にしてくれてたのよ」とレイナは言い、梅干しの種を小皿の上に戻した。
「結婚した後も、じつは何度か会ったりしてたんだ」と彼女は寂しそうに微笑んで「人生って、どこでどうつながってるのか、ほんとに分からないものよね」とつぶやいた。

京都物語 131

 僕が体を起こすと同時にレイナが「おはよ」と声をかけてきた。彼女は椅子の上で膝を立てて朝のニュース番組を見ている。僕がおはようと返したとき自分の首筋が変にこわばっているのを感じた。無理な体勢で寝たために身体のあちこちに負担がかかったのだ。その甲斐あって、どうやら彼女のお尻に下腹部を当てることはなかったようだ。
「よく寝れた?」とレイナは言い、手に持ったコロナビールをラッパ飲みした。おそらく昨日の夜にコンビニで買ったのだろう。僕は「うん、まあまあ寝れたかな」と答えてベッドを降りた。そのまま洗面所に向かおうとするとレイナが「ねえねえ」と言って僕の足を止めた。彼女はビール瓶を床に起き、髪を後ろに束ねながら「ヤマシタ君が昨日読んだ小説の内容を教えてほしいんだけど」と言った。僕は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してそれを飲みながらベッドに座って「チャイコフスキーの恋人」のあらすじを紹介した。作者自身が登場するノンフィクションに近い文章だが、現実と虚構が複雑に入り混じっていて、作者とチャイコフスキーが濃密な性を交わし合う場面が幻想的に描かれている。つまり題名の「恋人」とは浅茅しのぶ自身を指しているのだ。
 僕の説明を聞いたレイナは「うん、だいたいあたしの予想と一致してるね」と言い、今束ねた髪を黒のシュシュで結んだ。それからコロナビールを最後まで飲み干した後で「今日どうしてもやっときたいことがあるんだけど」と真剣な瞳を僕に向けた。彼女は「チャイコフスキーの恋人」を手に取って装丁をざっと眺めながら、「コンタクトを取りたい人がいるの」と言った。それから「あたしの思い通りに事が進めば10日以内に会えるかもしれないよ、橘真琴さんに」と言い、束ねた髪を満足げに手で触った。

京都物語 130

 レイナは背中を向けたまま、お尻を少し突き出すような格好で横になっていた。最初僕は彼女に触れないように細心の注意を払っていたが、六条ホテルの狭いベッドは身体のあちこちに力を入れなければ落ちてしまいそうだった。それで体勢を保つために彼女の肩に手を当て、脚を軽く絡めた。とにかく下腹部が彼女のお尻に密着しないように腰だけは引いていた。たった今セーターとジーンズを脱ぎ捨てたレイナは、その下に着ていた長袖のシャツとロングタイツ姿で寝ている。
 レイナの肩を抱いて間もなくして、彼女は幸せそうな寝息を立て始めた。ボリュームのあるソバージュの髪からはヘアリンスの香りがほんのりと立ち上がっている。まだ完全に乾いていないということは、彼女はずっと浅茅しのぶの本を読んでいて、その後でシャワーを浴びたのだろう。僕はレイナの髪にそっと指を通した。
 それにしてもベッドの中は心地よいぬくもりに包まれている。女の子と寝るときに共通するぬくもりだ。ふと僕は結花を思い出す。彼女と過ごした青く輝く日々。若くてしかも気配りのできる彼女とこうして一緒に寝たことが、遙か過去のことのように思われる。そんなすばらしい女の子を僕は傷つけてしまった。結花はフェイスブック上で中学の同級生と再会したという。今頃彼女はその人と上手くやっているだろうかと思う。いくら新しい幸せを手に入れたとしても僕と過ごした日々の想い出だけは心のどこかに刻み込んでおいてほしい。そんなことを想いつつ僕はレイナの頭を撫で続けた。「しかたないんだ、予め敷かれた運命にはどうしても逆らえないんだよ」とつぶやいているとそのうち眠りについていた。
 明くる朝目覚めた時、レイナは椅子に座ってビールを飲みながらニュースを見ていた。

京都物語 129

 僕はなすすべなくベッドの横に立ちすくんだ。カーテンの隙間から真夜中の京都の明かりが幻のように浮かび上がっているだけで、部屋の隅々までが暗闇に包まれていた。そうしているうちにレイナが「ねえ」と声を上げた。暗闇に慣れてきた僕の目は彼女の黒い頭がこちらに向いたのをうっすらと確認した。「何してんの?」
「何してんのって、僕はいったいどうすればいいんだ?」
「寝ようよ、一緒に」とレイナは何の問題もなくそう言った。事故で左目の視力をほとんど失ったはずの彼女だが、僕よりも暗闇の中で物がよく見えているようだった。
「いや、そりゃまずいよ」と僕は言った。するとレイナは「何が?」と言ってきた。
「何がって、いちいち説明しなくても、まずいものはまずい」
「そっか、ヤマシタ君は言葉で説明するの苦手だもんね」とレイナは穏やかに言った。「でも、よく考えてみて。あたしたちが一緒に寝ちゃいけないっていう理由なんてないよ」
「いや、やっぱりまずい」と僕は繰り返した。そうとしか言いようがなかった。
 レイナは鼻先でフフフと笑った。
「今はまずいかもしれないけど、何日かすれば何の抵抗もなくなるわよ。だってあたしたちはそういう運命なんだから、逆らいようがないよ」
 僕は何をどう言えばいいのか分からなかった。レイナの言い分にはなぜか説得力があるように思えた。
「一緒に寝よう。でもさすがに今日はルールを決めとこうね。ヤマシタ君は布団の中で添い寝してくれればいい。おしりとかおっぱいとか、まさかあそことかは触っちゃダメよ」
 かくして僕たちは同じベッドで眠ることになった。

京都物語 128

「今からそっちへ行っていい?」とレイナはだしぬけに言ってきた。思わず僕の口からは「え?」という声が漏れた。
「何? だめなの?」とレイナは訝しげに言ってきた。
「だめとかじゃなくて、明日の朝でもいいんじゃないか? だってもうこんな時間だ」
 僕がそう言うと受話器の向こうは急に静まりかえった。モスクワの冬のようだった。
「おい」と僕は呼びかけざるを得なかった。すると小さな咳払いの音が聞こえて、その後で「あたし、ずっと引っかかってることがあんの」と言ってきた。
「何が?」と僕はできるだけ彼女を刺激せぬように柔らかめに言った。
「あたし一体、何やってるんだろうって」とレイナは吐き捨てるように言った。「1週間前にたまたま出会った人のために、なんでこんなに一生懸命にならなきゃいけないのよ」
 君は昼にカレーうどんを食べながら僕たちは運命で結ばれてるって言ってたじゃないかという言葉が喉元まで出てきたが、寸前で止めた。代わりに「君には感謝してるよ」というセリフを口にした。それはもちろん本心でもあった。
「そう言う割には冷たくない? あたしの頼みを聞いてくれないじゃない」
 レイナが僕の部屋に入ってきたとき、タイトジーンズに薄手の黒いセーターという昼間と全く同じ格好をしていた。かたや僕はスエットの上下に着替えていた。彼女はいきなり「電気を消して」と要求してきた。「全部消すのよ」
 彼女は完全な暗闇の中で服を脱いでいるようだった。それからためらうことなくベッドに入り「寝ましょう、もうこんな時間だから」と僕に誘いかけてきた。

京都物語 127

 あまりに熟睡していたがために最初それが電話のベルだとは気づかなかった。たとえば遠くで火の気でも上がって僕の知らない人たちが大騒ぎしているのだろうと夢の中でたかをくくっていたほどだ。だがよく聞いてみるとそのベルは何やらメッセージ性を帯びている。しかも1回ずつ近づいてきているようでもある。はっと目を覚ました僕は、条件反射的に受話器を取る。頭の中では浅茅しのぶとチャイコフスキーが性交を繰り広げている。
「なにしてんの?」と受話器の向こうで声がする。僕はもつれてしまった頭の回路が自動的に修復されるのを待つ。「なんでもっと早く電話取れないのよ」
 その言葉を聞いて正常な重力を取り戻した。
「今何時?」とつぶやきながら僕はベッドに組み込まれたデジタル時計に目を遣る。そこには2:37という青白い数字が浮かび上がっている。
「ひょっとして寝てたの?」とレイナは言う。僕の顔をのぞき込んでくるような彼女の亜麻色の瞳がすぐそこにあるようだ。
「さすがに寝るだろ、この時間なんだから」と僕は反論する。
「本読んだ?」とレイナは僕に頓着するふうもなくそう聞いてきた。僕は「読んだよ、いちおう」と答えた。
「で、なにか手がかりはあった?」
「ううん、手がかりっていうほどのことでもないが、浅茅しのぶという作家の1つの傾向みたいなのは見えたような気がする。君の方は?」
 僕がそう聞くと、レイナは「あったよ。やっぱ図書館に行っといて正解だった」と言い、鼻をすすった。

京都物語 126

 その後「私」はサンクトペテルブルグのプルコヴォ空港からシベリア航空を使ってモスクワへと旅立つ。飛行機に乗っている間、彼女はヘッドフォンステレオで交響曲第6番『悲愴』に聞き浸り、涙する。
「交響曲が始まると、彼は目を覚ます。苦悩を噛みしめている彼の声を聴けば、彼を可愛らしいとさえ思うようになり、その分だけ恋は深くなる。恋とはそういうものだ」
 厳寒のモスクワに降り立ってからは、音楽家として活躍するチャイコフスキーの生き様にスポットが当てられるようになる。僕はストーリーを読み進めながらある違和感を感じる。この小説はノンフィクションの色が濃く、作者自身も登場するわけだが、最後の場面では彼女はチャイコフスキーと性交を成就する。現実と幻想が不思議に絡み合っているのだ。
「モスクワの街を歩き、彼の訪れた場所を実際にこの目で確かめていると、私はこの旅の本当の目的を知る。私には傷ついた彼の心を癒すことができるのだ。彼の苦しみを少しでも和らげてあげたい。そう思って私は、はるばるこの共産国に足を踏み入れたのだ。ホテルの部屋に戻ってシャワーを浴び、明かりを落とすと、そこには疲れ果てた彼がソファにもたれかかっていて、寂しげに私を見つめている・・・」
 その後に続く描写を読んだ時、浅茅しのぶは一種の精神異常を来しているようにさえ感じられ、気味が悪くなってきた。小説は2人の濃密な性交の場面で幕を下ろす。彼女はそれを「運命」と呼ぶ。
 僕は本を閉じ、ベッドから起きあがって、冷蔵庫のビールを飲んだ。いくぶんか頭が軽くなってから再びベッドに横たわった。しかし小説の異様な世界は頭から離れなかった。
 内線電話のベルが鳴ったのは、深い眠りに入ってからだった。

京都物語 125

 やがてピョードル・チャイコフスキーはモスクワに進出し作曲家としての名声を得るようになるわけだが、「恋人」たちと関係を結ぶことはやめなかった。むしろさらにエスカレートさせたようだ。浅茅しのぶの文章にもずいぶんと熱情が込められている。まるでチャイコフスキーと恋人との性を描写しながら彼女自身もそのシーンに入り込んでいるようにさえ感じられた。そのリアルさが読む者の好奇心をますます駆り立てる。
 37歳の時、チャイコフスキーは形だけの結婚をし、もちろんうまくいくわけもなく、自殺を図るが未遂に終わる。それでもなお彼は「恋人」との交遊に自らを溺れさせた。ヴェリノーフスキーという若い士官と交際している時、弟の妻との三角関係に陥ってしまった。逃げ場を失ったヴェリノーフスキーはピストルで自分の頭を撃ち抜く。
「ところが、チャイコフスキーという作曲家は、苦悩に見舞われるほどにすぐれた音楽を創り上げたのだ」と浅茅しのぶは興奮気味に記している。「彼の美貌に恋い焦がれた私がさらに深くはまり込んでしまったのは、その天賦の才能とも言える資質に胸を射抜かれたからにほかならない。芸術に関していろいろと論じる評論家たちがいる。彼らがどんな説教を垂れたところで私は動じない。芸術とは日常生活すなわち道徳からはみ出したところにしか生まれないと信じているからだ。誰でも道徳的に生きたいと願う。だが、人間である以上、常に道徳の内側にいることができるとは限らない。むしろそこから逸脱してしまった時こそ人間としての真実が立ち現れるのだ。そして真の芸術家となるための資質とは、生きることの苦悩をどこまでも噛みしめ、そして受け容れた上で、独自の表現に昇華させるということに尽きる。芸術とは人間の真実そのものなのだ!」

京都物語 124

「つまりピョードルは、ゲイだったのだ」という記述を皮切りに、ピョードルと恋人との生活が物語の軸となっていった。ピョードルは法律学校に通っていた10代の間に少なくとも3人の青年と交際した。浅茅しのぶは何かに取り憑かれたかのように彼らの性的描写を書き重ねている。「その日の夕刻、ピョードルはキレ-エフを自室に呼び、いつものように目の前に跪かせた。その行為はもはや彼らの日常の儀式となっていたのでためらいなどは微塵もなかった。ピョードルは机の前に立て掛けてあるキレ-エフの写真に時折視線を送った。この恋人の肌に触れることができるだけで欲望は高まり呼吸は速くなった。キレ-エフの方も自分の求められている行為が何なのかをちゃんと心得ていた。彼はピョードルの穿いているズボンのボタンを外し勿体ぶるようにファスナーを下ろした。それからゆっくりと下着を膝までずり下げた。その時ピョードルからは吐息混じりの声が漏れた。キレ-エフは完璧に勃起したピョードルのペニスを上目遣いに見つめた後で、それを喉元まで一気にくわえ込んだ。ピョードルはやるせない声を出しながら、キレ-エフのブロンズの髪を両手で包んだ。それからキレ-エフは長い時間をかけてピョードルのペニスを口に含み続けた。
 そんな毎日を繰り返しているとピョードルの頭からはキレ-エフのぬくもりがひとときも離れなくなった。法律学校へ行っている時には性欲を抑えることが完全に不可能だった。彼らの学校は上級生と下級生が交友関係を結ぶことが固く禁じられていたにもかかわらず、2人は人目を忍んで密会を続けた。夏の宵には毎日のように裏庭で性交した。制服のままのキレ-エフと愛を交わす時、ピョードルの興奮は絶頂に達した。誰にも言えない恋を実行しているという感覚の共有こそが、彼らの愛にますます火をつけたのだった」

京都物語 123

「チャイコフスキーの恋人」を読み始めてからあっという間に1時間が経っていた。ベッドに組み込まれたデジタル時計は18:25を示している。そろそろ空腹を感じた僕は内線を使ってレイナの部屋に電話してみた。するとどうやら彼女はまだ読書に集中しているらしく、夕食は要らないと言ってきた。千明氏に頼めば食事を部屋に運んでくれることを伝えると、レイナは「お腹がすいたらコンビニに行って適当に済ませるから気にしないで」と言って、電話を切った。僕はしかたなく千明氏に電話して夕食が準備できるかどうか聞いてみた。すると彼は快く「できます」と答えた。19時にレストランに足を運ぶと、テーブルにはオムライスと野菜サラダ、それからポタージュスープが用意してあった。「レイナ様のご夕食は本当によろしいのでしょうか?」と千明氏は僕のグラスに冷水を注ぎながら言ってきた。「彼女は今集中してるところなんです」と僕は答えた。そういえば千明氏に橘真琴氏の所在がつかめたことを説明していなかったことに気づいた。それで今日の調査の進展具合を報告すると、彼は表情を緩めて「それはすばらしいことです」と自分のことのように喜んだ。「では、レイナさんは橘氏に会うための糸口を見つけようと、必死に本を読んでらっしゃるんですね」と千明氏は言った。彼の言葉に頷きながら「チャイコフスキーの恋人」の冒頭に書かれてあった「私にとっての奇跡とはすなわち出会いである」というフレーズが頭に浮かび、京都へ来てからのありがたい出会いの数々を想った。
 食事を済ませた後でまっすぐ部屋に戻り、再び続きのページをめくった。「私はどうしてもピョードルに愛されたいと願った。しかしそこには大きな壁が立ちはだかっていた。つまりピョードルは、ゲイだったのだ」

京都物語 122

「サンクトペテルブルグの空港に降り立った瞬間、不気味な震えが私を襲った。たしかに空港の温度計は氷点下16℃を示しており、以前訪れたことのある網走の寒さをより厳格にしたような容赦なきものだった。だが、私は何も寒さに震えたわけではない。この胸に奇跡を感じ取ったからこそ私の体は震えたのだ。
 奇跡。いくら端くれとはいえ物書きである以上、こんな言葉を安直に使うつもりなどない。つまり決して虚飾などではない。私はその時、生まれて初めて、奇跡を感じたのだ!
 奇跡とはすなわち出会いである。日本に生まれた私がこの共産圏の都市に降り立つということが奇跡でなくて一体何であろう? この時私の意識を完全に支配していたのは1枚の写真である。それは1863年に撮影された、ピョードル・イリイチ・チャイコフスキー23歳の姿だ。私は彼のシンフォニーに魅せられたわけではない。その神秘さ漂う美貌の虜となってしまったのだ!
 彼に恋い焦がれてからというもの、私の世界は瞬く間に彼の世界となった。私は彼のありとあらゆる音楽に浸った。シンフォニー、ピアノコンチェルト、オペラ・・・それらすべてを体内に染みこませた。そうしてある真実を発見するに至った。その繊細なまでの美しき音楽は彼の美貌にすべて収斂されるということだ。
 私は毎晩ピョードルに抱かれながら眠りについた。そして何度もエクスタシーに到達した。そこは私にとって最後の楽園だった」
 浅茅しのぶこと橘真琴氏の小説はいきなりこんな文章から始まる。若かりし彼女はチャイコフスキーを追いかけて当時のソ連に赴く。どうやらこの小説はそこで彼女が出会ったことが書かれているらしい。いわばノンフィクションに近い文章のようだ。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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