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京都物語 182

「しかし桐壺更衣は里帰りした日の夜、息を引き取る。彼女は運命の中にあっけなく葬られてしまった」と真琴氏は言った。その時、橘美琴がノックをして部屋に入ってきた。彼女は僕とレイナのティーカップを下げ、それと引き替えに氷の入ったカルピスを置いた。
「気を遣わないでちょうだい」とレイナが言うと、橘美琴は口を真一文字に結びつつも、かろうじて笑顔を作った。改めて彼女を近くで見ると、目元こそ真琴氏に似ているが、髪質と顔の輪郭は別の遺伝子の影響を受けているように思う。
 真琴氏はグラスから伸びたストローに口を付けて、その白い飲み物を口に含んだ。
「桐壺更衣の人生に救いがないのはなぜか? 『藤壺物語』の主人公の『私』は、そこに引っかかる。しかし答えは意外と簡単に見つかる。つまり、桐壺更衣の役割とは光源氏を産み落とすことだけだった」と真琴氏は言い、おしぼりを軽く口元にあてがった。「だから彼女はあっけなく殺された。紫式部の手によって」
 すると横でレイナが小さな唸り声をあげた。彼女の黒い薄手のセーターの胸元がほんのわずかだけ膨らんでいる。
「つまり桐壺更衣の死は、物語の始まりを意味する。そうして彼女に代わる女性が必然的に登場することになる」と真琴氏は語気を強めた。
「藤壺ですね」とレイナは真琴氏よりも先にそう言った。すると真琴氏はさっきと同じように瞳だけレイナに向けた。
「紫式部は桐壺更衣について語らなかったことを、藤壺に託した。『私』は、藤壺の中に紫式部の人生を読みとる。そこには決して打ち明けることのできない、暗黒の運命の声が聞こえてくる」
「そうして」とレイナは言った。「藤壺の人生こそ、真琴先生の人生なんですね」
 その瞬間、部屋の温度が下がったような錯覚を感じた。橘美琴はガラス玉のような瞳で、空間上の一点を茫然と見つめている。
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京都物語 181

「桐壺更衣は、殺されたんですか?」と僕は思わず語尾を上げた。橘真琴は依然として僕の頭上に目を遣ったままだ。
「桐壺更衣の過去は最後まで語られなかった。もちろん、それは不自然なことではない。そんなことをすればたちまち『人笑へ』の対象になりかねない。まして彼女は帝の后であり、光源氏の母親だった」と真琴氏は言った。「しかし、そこにはまだ他に意図があると私は思う。つまり、あえて何も語らないことで、かえって桐壺更衣という女性を表現したかった」
 橘真琴はそう言い、小さく咳払いをした。品格の漂う咳払いだった。窓の外では、愛宕山麓の枯れた木々の枝に雪が積もり始めている。

限りとて わかるる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり

 真琴氏は低く艶やかな声でいきなり和歌を朗読した。大学の教壇に立つだけあって、心地よい響きで耳に入ってきた。明子も真琴氏の朗読に聞き浸ったのかもしれない。
「今のは桐壺更衣の詠んだ唯一の和歌。彼女は死の間際になってやっと念願の里帰りを許される。その時、最後まで愛してくれた桐壺帝に向けて、息も絶え絶えこの和歌を詠んだ。ここで彼女はこう言っている。限りのある命だとは分かっておりますが、死別はやはり悲しいのです。あの世に行きたいのではなく、この世に生きたいのです」

京都物語 180

「桐壺更衣は亡き父の分まで必死になって育ててくれた母北の方に心から感謝していた。だからこそ、宮中に上がることに、苦しみ抜きながらも踏み切ったのだ。しかし皮肉なことに、母の期待に応えることによって、彼女は誰にも打ち明けることのできない孤独の淵にたたき落とされ、ついには人生を終えることになってしまった。結果的に彼女を死に追いやったのは、他の女性たちからのねたみやそねみだったのは間違いではない。だが最後まで心の奥底に潜んでいたのは、自らの人生に残してしまった大いなる悔恨だったのだ」
 真琴氏はそこまで話した後で、膝の上に組み合わせていた指をほどき、ほとんど冷たくなったであろうオレンジペコーを最後まで飲み干した。
「『源氏物語』では語られなかった桐壺更衣の思いを、『私』は原文の朗読によって感じ取るんですよね」とレイナが目を細めて言った時、橘美琴は母親に向かってティーポットを掲げた。すると真琴氏は「冷たい飲み物をちょうだい」と命令した。橘美琴は「はい」と返事をして立ち上がり、ドアの向こうに消えていった。彼女の足音が遠ざかった後で、真琴氏の瞳が僕を捉えた。
「ねえ、ヤマシタさん」
 思わず背筋がピンと伸びた。
「運命っていうのは、恐ろしいものね」
 真琴氏の言葉に、僕はどう返答してよいのやら分からなかった。
「『藤壺物語』の主人公はね、桐壺更衣の死について、こう結論づけるの」と真琴氏は言い、僕の頭の上の空間に目を遣った。「桐壺更衣を殺したのは、他でもない、紫式部だったのだ」

京都物語 179

「光源氏を産むことが、なぜ、運命といえるのか?」と真琴氏は言った。粒の大きくなった雪が真琴氏の肩越しにちらほらと舞っている。太陽は高くなっているはずなのに気温はまるで上がる気配を見せず、ストーブの小窓から覗く炎がますます赤く感じられる。
「『私』は『源氏物語』の朗読を繰り返しながら、哀しい気持ちになる。光源氏を産んで間もなくして死んでしまう桐壺更衣の思いが、次々と胸に入り込んでくる。彼女は他の女御や更衣からの嫉妬によって心身共に疲弊しきっていた」
 真琴氏はそう言って膝掛けのブランケットの上に手を置き、指を組み合わせた。
「桐壺更衣は産んだばかりの光源氏にこの上ない愛情を覚える。でも、その一方で、なつかしい過去を忘れられないでいた。
 彼女が宮中に上がってしまった後、幼なじみとの交流は完全に絶たれてしまった。ましてや帝の后となった以上、彼には彼女を思うことすら許されなくなっていた。あの人は今頃何をしているだろうか? もう自分のことを忘れてしまっただろうか? 桐壺更衣の胸は物思いで塞がるばかりだった。自らの立場をわきまえなければならないと言い聞かせるほどに、ずっと心を許してきた存在が遠ざかってゆくような気がしてならず、それが何より切なかった。
 彼女は最愛の我が子を抱きかかえながら、毎晩涙した。その姿を見て、桐壺帝は妻を不憫に思い、さらなる寵愛を施した。それはこの上なくありがたいことだった。宮中においては帝の寵愛以外に頼りにするものはなかったのだ。だが、その愛こそが、じつは彼女には重く、苦しくもあった。彼女は実家に帰りたいと願い続けた。いっそのこと、時間ごと元に戻してほしいと月を見上げては溜め息をついた」

京都物語 178

「光源氏の母である、桐壺更衣という女性、ご存じ?」と真琴氏は問いかけてきた。名前だけは聞いたことがあるが、ほとんど知らないに等しいと答えると、「『藤壺物語』は桐壺更衣が桐壺帝の愛を一心に受ける場面から始まる」と真琴氏は言った。
「『源氏物語』を研究している大学生の『私』は、桐壺更衣は桐壺帝を本当に愛していたのだろうかと疑念を抱き、その謎に迫るために様々な文献に当たる。しかしどんな書物にも彼女の納得できる答えを見つけ出すことができない。彼女は思案に暮れる。ところがある晩、夢の中で何かの声を聞く。目が覚めたとき、胸の奥には『言霊』という言葉だけが残っている」
 真琴氏は久しぶりにオレンジペコーに口を付けた。その行為は、紅茶を味わうためではなく、喉を潤すためのようだった。
「彼女は『言霊』という言葉に誘われるように『源氏物語』の原文を声に出して朗読し始めた。3週間ほど繰り返した時、ある不思議な感覚に囚われた。言葉と言葉の間から、桐壺更衣の声にならぬ思いが浮かび上がってくるような気がしてきたのだ。たしかに桐壺更衣は桐壺帝からの愛をありがたいものと感じていた。しかし彼女には密かに心を寄せる人がいた。実家の近くに住む、幼なじみだった。桐壺更衣はその人の飾らないやさしさに甘えることが好きだった。父親を早くに亡くしてしまったがために、何かにすがりつくという人間としての本能を、いつのまにかその人に託していたのだ。しかし母である北の方は、娘をどうしても宮中に入れたかった。父親を早くに亡くしてしまったのは、自分が前世に犯した過ちのせいだと自らを責め、仏に手を合わせ続けた。彼女の心には『娘の宮仕えを必ず実現させよ」という夫の遺言が常にあった」
 そこまで話した時、真琴氏はふっと息をついた。すると隣でレイナが僕に向かって言った。
「いちおう言っとくけど、今の話は『源氏物語』にはないからね」
「今の話っていうのは?」
「桐壺更衣が桐壺帝の愛情を一心に受けたというくだりはあるよ。だけど、桐壺更衣の過去については『源氏物語』では語られていない。そこは『藤壺物語』に出てくる大学生の『私』の想像の世界ね」
「なるほど」と僕は言った。「それにしても妙にリアルな話だな」
「それ以来、母北の方は、女手一つで娘を教育し、恥をかかぬように、女性として必要なあらゆる儀式を取り計らった。やがて念願の入内を果たし、ついに帝からの愛を受けることとなった。かくして桐壺更衣はたぐいまれなる運命に包み込まれた」と真琴氏はしんみりと語った。「その運命とは、光源氏を産むということだった」

京都物語 177

「つまり『源氏物語』なのに、主人公は光源氏ではないというのですか?」と僕は思わずそう聞いた。
 真琴氏はオレンジのべっこうの眼鏡を両手で掛け直しながら「そう」と口を動かさずに言った。真琴氏の肩越しに広がる窓の外の景色がより寒々しくなってきている。ここへ来る時、今が朝なのか夕方なのか分からなくなるほどの空だったが、その色合いは濃さを増すばかりだ。よく見れば、埃のような粉雪が舞い始めている。枯れた木の枝が空に向かって弱々しく伸びる様子は、苦しみからの解放を願う人々の手のようにも見える。
 すると橘美琴がやおら立ち上がり、ストーブの上に載せたやかんを手に取って部屋を出て行った。僕が橘美琴の後ろ姿を見送っていると、真琴氏が「『源氏物語』の主人公は光源氏ではない」と僕が言ったのと同じことをつぶやいた。「だからこそ『藤壺物語』が必然的に書かれることになった」
「ということは、『源氏物語』の主人公は藤壺というわけですか?」と僕が問うと、「それも少し違う」と真琴氏は答えた。「ただ彼女はとても重要な女性であることに違いはない。光源氏よりもはるかに重い役割を与えられている」
「だとすれば、いったい本当の主人公とは、誰なのですか?」と僕は聞いた。真琴氏はその黒曜石のような瞳でストーブの炎を見つめた。そうして燃え上がる炎と対話するかのように「私は、紫式部だと思う」と言った。僕にはその意味が全く分からなかった。
 頭の中が混乱しかけている所に、橘美琴が重そうなやかんを手に提げて戻ってきた。彼女がそれをストーブの上に置いた時、水蒸気が上がる音が部屋中に響き渡った。橘美琴は音が収まるのを確認したのち、再びドアの前の定位置について静かに正座した。
「『源氏物語』の真の主人公は、紫式部」とレイナは今の真琴氏の言葉を口に出した。まるで墓石に刻まれた銘文を読み上げているような口調だった。レイナの声を聞くと、先週2人で訪れた廬山寺の情景を思い出した。畳の部屋のガラスケースに収められた紫式部の和歌も甦ってきた。

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな 

 紫式部は当時の女性からすると不自然なほどの晩婚だった。しかも結婚の相手は20歳以上も年上の中流貴族で、娘を授かった後、ほどなくして死別の悲しみを味わうことになった。その後藤原道長の要請で宮中に上がることとなるが、彼女の心は失意に支配されていた。『源氏物語』は、その憂鬱と孤独の中で書かれたのだ。
 すると僕の心には、紫式部が宮中に入る際に詠んだ和歌が、重苦しい音楽のように流れ込んできた。

身のうさは 心のうちに したひ来て いま九重に 思いみだるる

京都物語 176

「ところでさ」と僕はレイナにささやきかけた。「僕はまだ『藤壺物語』を読んでないんだけど」
 その瞬間、ストーブの小窓から覗いている炎がより赤く燃え上がり、ぼおというくぐもった音がかすかに部屋の空気を震わせた。
「ヤマシタさん、だったわよね?」
 僕は真琴氏に顔を向けて「はい」と答えた。
「たった今、縁とは異なものだと言ったけど、この場にあなたがいることこそ不思議な縁ね」と真琴氏はしみじみとつぶやいた。「明子さんからの予期せぬ手紙を拝読させていただいて、あなたがどういう方なのか、そしてどうしてあなたが今ここにいるのか、大まかに分かってるつもりではあるけれど」
 僕には真琴氏に話したいことが山ほどあるはずだった。しかし実際にこの女性と面と向かうと、喉が石化したかのようになって、言葉が固まってしまう。
「ヤマシタさんは『源氏物語』はご存じ?」と真琴氏は話の矛先を変えた。僕は「恥ずかしながらほとんど分かりません」と正直に答えた。すると真琴氏の黒い瞳には慈悲深げな色が滲んで「これほど有名な作品にもかかわらず、多くの日本人が読まずに人生を終えてゆく。それが実情なのでしょう」と寂しげに言った。
「あの物語の中には、軸となるストーリーを取り囲むようにして様々な短編が含まれていて、その1つ1つには必ず女性が登場する。そしてその軸をなすストーリーにおける重要人物が藤壺という女性」と真琴氏は続け、籐のリクライニングチェアに、さらに深く腰をうずめた。
「そうしてその藤壺こそ、言霊の世界に生きる女性だった。『藤壺物語』に描かれているのはまさにその世界。でもあの物語は、じつは私の意志で書いたものではない。私は1つの媒介となって、あの作品を書かされたにすぎない。たとえるなら私は霊媒師のような役割を与えられて、言霊の世界から具体的な言葉を選択させられ、物語として体系化させられただけ」
 真琴氏の瞳には再び呪われたような色が滲み始めた。
「そうして気がつけば私もその言葉の世界に引きずり込まれ、結果的に葬られてしまった」
 真琴氏が唾を飲み込む音が僕の耳に不気味に響いた。
「正直なところを言いますと、藤壺という女性も知りませんでした。主人公が光源氏という男性であるという知識くらいしかありませんでした」と僕は言った。そう言ってしまった後で、何とも的外れなことを言ったように思えて、恥ずかしさで身体が熱くなった。橘真琴の前では、口先だけの言葉は意味をなさない。彼女は言葉の世界に生きているとはっきり自認しているだけあって、言葉の価値を瞬時に見抜く力をもっている。そのことがありありと伝わってくる。
 すると真琴氏は「光源氏ですか」とため息を吐くように言い、「光源氏は『源氏物語』の真の主人公ではない」と言い切った。
「源氏は敗北者。彼はありとあらゆる運命を背負わされ、最後には無惨にも崩壊してしまう、いうなれば憐れむべき人物です」

京都物語 175

「ママ」と橘美琴は再度そう言った。
「だからあなたは口を挟まなくていいのよ」と真琴氏はさっきと全く同じ口調で娘に釘を刺した。だが橘美琴はその言葉を乗り越えて「ママはいったい何を言おうとしてるの?」と真琴氏の遺伝子を受け継ぐ瞳に力を込めた。
 すると真琴氏は「私が体験してきた、言葉の世界の恐ろしさを告白しようとしているの。あなたにさえ話したことのない内容もあるかもしれないけど、今がいいきっかけなんだから、もうしばらく黙って聞いておきなさい」ときっぱりと言った。
 いきおい立ち上がりかけていた橘美琴は、母親の静かなる迫力の前に再び膝を畳んで正座せざるを得なかった。
「レイナさんは、『藤壺物語』を最後まで読んでくださったのね?」と真琴氏は元の口調に戻って話しかけた。レイナは明瞭な発音で「はい」と答えた。
「恥ずかしい質問だけど、気に入ってくださった?」
「私は小さい頃から文章を読むことが好きで、これまでにいろんな本と出会ってきましたが、その中でもあれほど強く惹きつけられた作品はちょっと思い浮かびません」
 レイナがそう言うと真琴氏は初めて頬を緩め、「それは光栄なこと」と口にした。「作品に惹きつけられるという評価は、作家にとっては何よりもうれしい」
 真琴氏はそう言った後で、今度は音を立てて紅茶を飲んだ。レイナは半身を乗り出すようにして話し始めた。
「あの物語で描き出されている藤壺女御の心が、読んでいるうちに、彼女のものなのかそれとも自分自身なのか、分からなくなっていきました。彼女が千年前に作り上げられた人物だとは思えないほど、深く共感してしまいました。それほどすばらしい描写でした」
 そのように語ったレイナの瞳は、まさしく心から文学を愛する者のそれだった。
「『源氏物語』ほど謎に満ちた作品はこの世に存在しない。そもそも誰がどのようにして書いたのかということさえもはっきりとは解明されていないし、内容にしても実にいろんな読み方ができる。そうやって、誰にも正しくつかむことができないところに『源氏物語』の本当の魅力がある。魅力というのは少し違うかもしれない。私は魔力だと思っている」と橘真琴はレイナの亜麻色の瞳に向けてそう言った。「だからあの物語は今なお私たちの心を強く惹きつけるの」
「浅茅しのぶという作家は」とレイナは返した。「『源氏物語』における謎を『藤壺物語』の中に見事に描き出したように思います」
 すると真琴氏はずいぶんと間をおいた後で「藤壺は紫式部であり、そして私自身でもあった」と一転して低い声で言った。何かに呪われたような声でもあった。

京都物語 174

 真琴氏の年齢は50代半ばというところだろう。20代で文学賞を受賞し、それから30年近く経っているのだ。だが、彼女の容姿から年齢を推測するのはそう簡単ではない。40代にも見えるし、逆に60代にも見える。もっと大胆に言えば、30代にも見えなくはない。丹念に施された化粧は表情に品格を与え、黒々とした瞳の輝きは、老いというものからは無縁のように見える。永久に劣化することのない黒曜石のような瞳だ。
 そして彼女が過去を回想すればするほど、その頬は紅潮するのが分かる。全身からは瑞々しささえ漂い始めている。真琴氏は『藤壺物語』について語ることによって、当時の彼女に戻っているのだ。過去のことはもう忘れたと言っていたが、その魂は年を経ても変わりようがないのだ。
「私が書いた初めての小説は、短編だった。あの時の私には短いものしか書けなかった。続きを書くのが怖かった」
「書くことが現実に起こるのではないかと、常に恐れられたんですね」とレイナは言った。真琴氏はやはり瞳だけレイナの方に向けた。
「そのうち編集の担当者から、もっと深く掘り下げたものを書いてほしいという要求があった。そのためには必然的に長いものを書かなくてはならない。あの頃の私にはまだ野心があった。この世界に名を馳せたいと思っていた。読み手の要求に応じることができなければ職業作家としては生きていけないことくらい百も承知だった。それで私は『チャイコフスキーの恋人』という作品に取り組んだ」
 僕が六条ホテルの部屋で読んだあの小説が、目の前の女性によって書かれたと思うと、なんとも不思議な感覚に囚われた。
「これは誰にも言っていないことだけど」と真琴氏は前置きをし、ティーカップを指さして娘の美琴に新しい紅茶を注がせた。そうして、再び音を立てて飲んだ後で、「あの小説は世間的にはノンフィクションとして捉えられたようだけど、実は真っ赤な嘘。あれは完全なる作り物。私はチャイコフスキーの幻影に病的に恋した女性になりきって、その心情を描写したまでのこと。実生活から離れたものでなければ、怖くて書けなかった」
 真琴氏がそう言うとレイナは再び体をぴくりと動かし、「サンクトペテルブルグに行かれたのも嘘なんですか?」と訊いた。真琴氏はレイナに顔を向けて、「実際に現地に行ったのはほんの10年前のこと。驚くことに、私が思い描いていたとおりの場所だった」と、どこか誇らしげに言った。
「ママ?」と橘美琴は突然不安げな声を上げた。すると真琴氏は「いいのよ、何も問わなくても。そのうちすべてがつながるから」と少し声を大きくして、娘を制した。
「私の予想に反して『チャイコフスキーの恋人』は、当時の文壇にしては新奇な作品として評価された。幻想的でありながら極めて現実的だとまで言われた。ただ、私は心の奥ではそういう評価に納得する部分もあった」と真琴氏は言い、今度は音を立てずに紅茶を口にした。
「私はチャイコフスキーに会ったことなどない。でも、病的に好きだった人はいた」

京都物語 173

「私は30年近くもの間、そういった女性たちのような生活を志してきたつもり。誰にも気づかれないように、ひっそりと生きてきた。だのに、今、ここであっけなく打ち明け話をしている。あれほど固く閉ざしてきたはずなのにね。そう考えると、縁って、ほんとうに不思議」
 真琴氏はそう言って、再びティーカップに口を付け、かすかな音を立てて紅茶を飲んだ。おかしなもので、お茶を飲む時に音を立てるのはどことなく品を損なうような印象があったが、真琴氏の場合はまた特別のように感じられる。すすって飲むのが正しい紅茶の飲み方なのだと納得させられそうなほどに、全ての所作に品格が宿っている。
 本来なら僕は、明子の手紙を真琴氏がどのように読んだのかということを気にかけているはずだった。しかし、真琴氏が口を開けば開くほどに緊迫感を増すこの部屋の空気の中にいると、いつの間にか、真琴氏は一体何を言おうとしているのかということで頭がいっぱいになっていた。
「私が小説を書き始めたきっかけは、ほんの些細なことだった。思い出すことすらできないほどのこと。でも、実際に文章を書いていると、そのうち何だかおかしな心持ちがしてきて、しまいには恐ろしいほどの感覚につきまとわれるようになった」
 レイナはすかさず「言霊、ですね?」と言った。真琴氏は目だけレイナの方に向けて「私の文章をずいぶんと細かい部分まで読み込んで下さってるのね」とつぶやき、唾を飲み込んだ。その言い方にはむしろ敵意のようなものが込められているように僕は感じた。
「『藤壺物語』の出版が決まった時、編集の担当者からあとがきを書くように頼まれた。だけど私はその時入院していた」
 真琴氏がそう話した時、僕は再び大きく取られた窓の外に目を遣った。彼女が青空を仰いだのは実は病室の窓だった。
「レイナさんがどこまでご存じなのかは分からないけど、私はあの小説の執筆中に心身共に疲弊しきっていた」と真琴氏は話を続け、ティーカップの取っ手を指でつまみ、少しぬるくなったであろう紅茶を飲んだ。娘の橘美琴はティーポットを少し持ち上げて、新しいものを注ぐかどうかを無言のうちに問うたが、真琴氏は右の手のひらを娘に向けて今は要らないという意思表示をした。
「つまり私はあのあとがきを病室のベッドの上で書いた。だからあんな支離滅裂な、つぎはぎみたいな文章になった。でも、あんな文章でも趣旨のようなものはちゃんとあった。今レイナさんが言ったとおり、言霊の怖ろしさということ」
 そう言った後で真琴氏は静かに目を閉じて、こう言った。
「あの時私を苦しめたのは、自分は言葉の世界に完全に含まれてしまっているという実感だった」

京都物語 172

「平安時代の、とりわけ教養のある女性たちが何よりも恐れたのは、『人笑へ』になることだった」と真琴氏はどこか気品の漂う語り口で、突然そんなことを言った。レイナは真琴氏の言葉に反応するかのようにぴくりと顔を動かした。その動きを察知したのか、真琴氏はレイナの方に視線だけ送った。2人はまるで牽制し合っているようだった。
「レイナさんも美琴も、大学で学んでいることだろうけど、そういった女性たちは、世間の人たちの物笑いの対象にならないようにと、ひっそり身をやつして暮らしていた」
 真琴氏はそう言って再び窓の外の空に目を遣った。いつの間にか雲は厚みを増し、今にも小雪が舞いそうなほどになっている。
「もちろん、『人笑へ』を恐れる女性たちには、共通項があった。それは過去に何らかの過ちを犯してしまったってこと。だからこそ、それが世間の人に知れ渡ることのないように、自らの胸に秘密をしまい込んで、身を隠す。深海に棲む魚のように、彼女たちは息を殺して自分を忘れようとした」
 僕がカップに残ったオレンジペコーを最後まで飲み干すと、橘美琴は床に膝をついたまますぐに新しいものを注いでくれた。レイナは僕の隣で真琴氏の話に聴き浸っている。左の耳にぶら下げたシルバーのピアスが、自立した生命を持つかのようにキラキラと揺れている。
「レイナさんは『藤壺物語』を読まれたとおっしゃったわね?」と不意に真琴氏が問いかけると、レイナは慎重な感じで首を縦に振った。「あの中に出てきた藤壺女御も、それからもっと後に出でくる六条御息所も、やはり『人笑へ』を恐れていた。私が『藤壺物語』に情熱を傾けたのも、・・・もうすっかり忘れてしまったことだけど、きっと彼女たちの身の施しように深い共感を覚えたからだと思う。いや共感というよりは、憧れに近かったのかもしれない」
 レイナは何かを言いたそうだ。僕にはそれがどんなことなのかだいたいの察しがつく。それはきっと真琴氏が過去に犯してしまった過ちに関係することだ。

京都物語 171

 僕たち3人が共有していた沈黙に区切りをつけたのは、乾いたノックの音だった。橘美琴が漆塗りのトレイの上にティーカップとティーポットを載せて部屋に戻ってきた。彼女は何食わぬ顔でソファの前のローテーブルにトレイを置き、カップに紅茶を注ぎ入れた。
「いい香り」とレイナは言った。「オレンジペコーね」
 すると橘美琴は「そう」と答えた。「おととい三条の商店街に出た時に買ってみたのよ」
「あたしって、目と耳が悪いでしょ。その分、香りには敏感なんだよね」とレイナは言いながら、青紫の花が描かれた優雅な形のファインボーンチャイナを手に持ち、それをゆっくり口に運んだ。
 その間真琴氏は明子からの手紙にじっと目を落としていた。まるでろう人形のように彼女は動かなかった。それにしてもずいぶんと長い手紙のようだ。中にはどんなことが書き連ねてあるのかを想像するだけで僕の心拍数は上がった。
 真琴氏に手紙を渡すことは僕が明子の心中を理解することにつながるかもしれないと明子は書いていた。だが、具体的に何がどうつながるのかは想像もつかない。あとは待って流れに身を任せるしかない。それは僕の生き方そのものだと言える。僕は予め決められたレールの上に乗り、そこを歩かされているだけなのだ。
 僕がオレンジペコーをティーカップの半分ほど飲み、お茶請けとして用意された英国製のクッキーを1枚食べた時、真琴氏はちょうど手紙を読み終え、それを封筒に戻した。そして表情を何一つ変えぬまま、広く取られた窓の外に視線を遣った。この部屋から見る空はずいぶんと近く低く感じられた。そういえば真琴氏は『藤壺物語』の執筆中に何度も青空を見上げたとあとがきに記してあった。まだ若かりし彼女は、この部屋から空を眺めたのだろうか? 真琴氏はティーカップにそっと口を付けた後で口を開いた。
「縁って、ほんとうに、異なもの」
 橘美琴もレイナもそれから僕も、一斉に真琴氏の口元を注視した。真琴氏はオレンジのべっこうの眼鏡の奥の黒くて深い瞳をペルシャ絨毯の敷かれた床に向けた。

京都物語 170

「私は自分のしている行為が本当に正しいのかどうか、実は分からないのです。はじめは、このヤマシタ君にただ協力してあげようという、それだけだったんです」とレイナは言い、僕の方に半分だけ顔を傾けた。「でもいつからか私は、深入りせずにはいられなくなっていました。もちろんそれは、ひょんなことから美琴ちゃんが関わったいうのもあります。でも本当のところを言うと、誰のためにやってるのか分からないのです。とにかく、決して逃げることのできない何か大きな力に背中を押されるのです。ただ一点、そのことが真琴さんに大きなご迷惑をおかけするのではないかということのみが、前に進もうとする私をためらわせてきました」
 真琴氏はリクラニングチェアを少しだけ回転させ、ストーブの方に足を向けた。それから怒っているのか笑っているのかさえ判別がつかない表情で、炎が燃える様子に目を遣った。
「ここにおじゃますることになったのは、僕に原因があるんです」と僕は口を挟んだ。「初めまして、ヤマシタと申します」
 泣きたくなりそうなほどに頼りない声だった。
 すると真琴氏は顔だけこちらに向けた。その黒くて深い瞳にさらされた時、思わず尻込みしてしまった。明子からの手紙を持つ手が小刻みに震えた。
「僕の古くからの知り合いが、橘さんに渡してほしいと言って、これを僕にことづけてきたんです」と僕は臆病な心を制しながら言い、真琴氏のそばに歩み寄って封筒を差し出した。真琴氏は僕の顔を確認した後で右手を差し出し、それを受け取った。そうして封筒の裏に書かれた明子の名前を見て「ああ」と声を上げた。
「ここで開けていいのかしら?」と真琴氏は僕に向かって聞いてきた。僕は「どうぞ」と言い、再びソファに腰を下ろした。真琴氏が封を切っている横でレイナが「話の途中で申し訳ないんですけど」と言った。「ここで、例の話をしてもいいってことでしょうか?」
 真琴氏は手をぴたりと止めてすっと顔を上げた。オレンジのべっこうの眼鏡がストーブの炎に一瞬照らされた。
「レイナさん、あなたには感謝してます。大きなきっかけを与えてくださったわけですから。ただ、これはあくまで私の人生。大事だと思うことは、誰かに任せるのではなくて、すべて自分の手でやりたいっていうのが私の昔からの流儀なの」
「私はどうすればいいのでしょう?」
「あなたは、ヤマシタさんと、そこに座っててくれればいい」
「もちろん美琴ちゃんがこの場にいるべきですよね?」
「もちろん」
 2人が何について話をしているのか、僕にはまるで見当がつかなかった。

京都物語 169

「こんにちは」とその女性は言い、僕たちの方に顔を向けた。低いが艶やかな声だった。真琴氏の声はどこかオノ・ヨーコの声に似ているような気がした。
 部屋の正面には大きな窓が取ってあり、そこには冬枯れた愛宕山の情景があたかも借景のごとくに広がっていた。黒い煙突式のストーブのおかげで部屋の中は温かく、水滴が窓を曇らせていた。真琴氏は籐のリクライニングチェアに深く腰かけて、毛糸のブランケットを膝の上に載せている。
「彼女がレイナちゃん」と橘美琴は母親である真琴氏に向かって言い、レイナの方に手を差し出した。するとレイナは「先日はメールをさせていただいてありがとうございました」と丁重に頭を下げた。この時になって初めて僕は、レイナはメールを介して真琴氏と連絡を取ったのだということを知った。
 真琴氏とレイナは何かの「事情」を共有している。そしてそれは浅茅しのぶ、つまり真琴氏がまだ若かりし頃に書き上げた『藤壺物語』にまつわることだ。その「事情」の裏付けを取ったのが、レイナの知人である坂井という出版社の副編集長だったわけだ。
 真琴氏は腰をかけたまま僕たちにソファに座るように促した。窓とは反対側の壁には時代を感じさせるダークブラウンの本革のソファが置いてある。僕たちがそこに腰を下ろそうとしている時に、橘美琴は「お茶を用意してきますね」と言い残し部屋を出て行った。
 真琴氏は僕たちの方を向いて「遠いところ、ご苦労様」と小さな声で言った。このとき僕は初めて、長いこと探し求めていた女性の顔を正面から見た。髪を後ろで丸く結い、オレンジ色のべっこうの眼鏡を掛けている。厚いレンズの奥には黒々した瞳が深い光を放っている。その黒さは娘の瞳よりも深い。怖いとさえ思うほどだった。
 何はさておき、明子からことづかった手紙を渡そうと絨毯の上に置いたリュックサックに手を突っ込もうとした瞬間、レイナがだしぬけに話し始めた。
「まず、先日私がメールにいろいろと書きすぎてしまったことについて、お詫びを申し上げます」
 真琴氏はその深くて黒い瞳でレイナを捉えた。
 ストーブの炎が静かに燃える音だけが部屋の中に轟いている。

京都物語 168

 僕の幻覚かもしれないが、車を停めた場所から玄関先までのほんの数メートルを歩く間に、空気は冷たくなり、空は暗くなったように思えた。山の奥深くに入り込んだせいで雲も出てはいるが、空自体の青さがさっきよりも重々しく感じられる。ここは僕の知っている、あるいはこれまで思い浮かべていた京都とはどうやら少し違うようだ。
 そんな僕の隣で、レイナが辺りを見渡しながら「なんだか大原の雰囲気と少し似てるね」と口にした。「でも、大原よりもいろんなものを感じる。さっきの化野念仏寺あたりから、体がぞわぞわしてしかたないの。こんなことめったにないよ。ここはあたしの知らない京都っていう感じがする」 
 僕は思わずレイナの横顔を見た。僕たちは共鳴することが多いのだという感覚は、もはや特別なものではない。僕たちの心は言葉を介在せずとも、つながっているのだ。
 ただ、レイナの瞳はふだんは感じられない不安の色を漂わせている。そういえばさっきホテルを出た時に、彼女が何となく嫌な予感がするとつぶやいていたのを思い出す。そしてそのことをどうしても僕に伝えたいのだと言い、寄り添ってきた姿が蘇る。
 すると僕たちの前を歩いていた橘美琴が玄関の鍵を開けた。家屋自体は年季の入った建物だが、玄関の扉だけは新しく交換したようだった。橘美琴は何も言わずにその扉を開けて、僕たちを中に招き入れた。見たところそんなに大きな家ではない。
 玄関の中に特別な物は何もなく、意外にも生活の匂いがあった。ここがかつて文壇を賑わせた作家が隠居している家だとはとても思えない。
 僕たちは靴を脱ぎ、中に入ることを許された。古いがよく磨かれた廊下の左右にはいくつかのドアがあり、橘美琴は一番奥の部屋のドアを控えめにノックした。まもなく「どうぞ」という平板な調子の声が廊下に響いた。
 部屋の中には1人の女性がいた。

京都物語 167

 山はますます深くなり、景色が荒涼さを増してきたところで、左手に「化野念仏寺」と太く書かれた看板が現れた。僕たち3人は無言のうちにその看板を一瞥した。山肌の緑の間から寺院らしき建物の屋根がちらほらと窺えはしたが、道路よりも一段高い所にあるので、境内の全貌ははっきりしない。それでもこの一帯が何かしら畏れ深く忌まわしい土地だということは感じることができる。ここと同じくかつての葬送地だった東山の鳥部山の現在とは正反対だ。
 シトロエンは化野念仏寺を過ぎ、「嵐山高雄パークウェイ」との分岐点の近くにまでやってきた。
「京都に住んでたけど、こっちの方まで来たことはなかったなあ」とレイナは感慨深げに漏らした。すると橘美琴はパークウェイの方を指さして「この道路をひたすら上っていくと、空海ワールドが広がっているのよ」と言った。すぐさまレイナは「高雄に行くんだよね」と相づちを打った。「昔好きだった人が、高雄にある神護寺の紅葉はやばいくらいに見事だから、そのうち一緒に行こうって何度も言ってくれたけど、結局は行かずじまいだったなあ」
 橘美琴はレイナの方を向いて何かを語りかけようとしたが、笑顔の中に言葉をしまい込んだ。彼女にはレイナの過去の恋人が誰なのか、見当がつくのだ。それはつまり、実家が大原にあるという元夫のことに違いあるまい。
 シトロエンは「嵐山高雄パークウェイ」の入口を通り過ぎ、その先の脇道に入った。そこには「愛宕山山道」という汚れた案内板が掲げられていて、橘美琴は慣れたハンドルさばきで車を進めた。この辺りはもう集落のまとまりすら感じられない。いくつかの民家が山の陰に謙虚な様子でぽつぽつと点在しているだけだ。車は舗装されていないみすぼらしい土の道をのろのろと進んでいった。フランス・シトロエン社のエンジニアたちは、自分たちの開発する車がまさかこんな道を走行しようとは想定もしなかっただろう。
 やがて車は荒れた竹藪をくぐりはじめた。日差しが遮られ、朝だというのに夕方のように錯覚された。その竹林を抜けた突き当たりに、平屋建ての邸宅が忽然と現れた。
「おつかれさま。ここが私の家です」と橘美琴は言い、庭先の所定の場所にシトロエンを正確に停めた。外に出ると凍てつくほどの寒さに全身が震えた。レイナは慌て気味に紫のダウンジャケットを羽織った。
 山の高い所で、聞いたことのない鳥の鳴き声が憂いを帯びた感じで響き渡った。

京都物語 166

「今ふと思ったんだけどさ、鳥部山って、どこにあるんだっけ?」とレイナは間の抜けた調子で言った。すると橘美琴は「え」と言い、「清水寺の坂の南側が小高い丘になってるでしょ。その辺りよ」とすんなり答えた。
「ということは、大学の近くだったんだね。今まで気づかなかった」
 レイナはそう言ってのど飴を口に入れた。橘美琴にも差し出したが、彼女は「今は要らないわ、ありがとう」とやんわりとした口調で断った。僕は遠慮なくいただくことにした。ハーブの香りを口いっぱいに感じていると「つまりあのへんは昔は火葬場だったんだね。今じゃ考えられない」というレイナの声が聞こえた。
「今は、そんな忌まわしいことを思い浮かべながら清水の坂を歩く人なんて、まずいないでしょうね」と橘美琴はおかしそうに言い、右にウインカーを上げた。この時間帯、嵐山の通りに観光客の姿は見あたらない。紅葉の季節における賑やかさを思うと、別の街のように思えてしまうほどだ。そうやってぼんやり窓の外を眺めていると、ふいに頭の中で何かと何かがつながった。東山、鳥部山、火葬場・・・
 するとまもなく『源氏物語』の記憶が立ち上がってきた。僕が京都に来たその日、六条ホテルのフロントで千明氏がしてくれた話を思い出した。渉成園のルーツである「河原の院」の跡地と思われる廃院で、物の怪に取り憑かれて絶命した夕顔の亡骸が安置されたのが、たしか東山だったはずだ。
 夕顔が亡くなった夜、遺体の安置場所に到着した光源氏は、生前と変わらずにかわいらしい様子で横たわっている夕顔の手を取り、声も惜しまずに泣いた。恋する人の遺体と対面するというのは、いったいどんな心境なんだろうと千明氏から話を聞いた時僕はそう思った。
 シトロエンは嵐山の観光メインストリートをまっすぐに北上した。左手には天龍寺が見えたが、佐織と天ぷらを食べた割烹料理屋はピンク色のカフェに様変わりしていた。さらに北上すると、野宮神社の小さな看板が見え、そのすぐ後には「竹林の道入口」と記された案内板が現れた。もう少し先に進めば嵯峨釈迦堂、すなわち清涼寺の看板も見えた。このあたりにまで上ってくると人通りはますます乏しくなり、どこか殺伐とした空気さえ漂い始める。
 それでもシトロエンはなおも北上する。清涼寺を通り過ぎたところで急に道幅が狭くなり、カーブが連続する。つい今し方渡月橋を渡り、嵐山の街を通ったことが信じられぬほどの山道になった。シトロエンはくぐもったエンジン音を響かせながら、その道を駆け上がっていった。

京都物語 165

「じゃ、さっそくだけど、行きましょうかね」と橘美琴は言った。「母も待ってることですし」
 僕たちは駐車場に停めてあったライトグリーンのシトロエンに乗り込んだ。
「そういえばあたし、美琴ちゃん家に行くの、初めてだね」
 シトロエンが発進して嵐山駅を出たところで助手席のレイナはふとそう言った。すると橘美琴は自然な笑みを浮かべて「ちっちゃい頃から自分の家にお友達を招いたりすることはなかったのよ」と返した。僕はルームミラーに映る彼女の黒い瞳にちらと目を遣った。
「でも美琴ちゃんがこのへんに住んでるってことだけは聞いてた気がする。『あだし野念仏寺』が近くて、何となく不気味なところに家があるって言ってたよね」
「たしか『徒然草』の授業の時でしょ。テキストの中に『あだし野』っていう地名が出てきたんだよね。そこを読んだ時に、ついそんなことを言っちゃったのよ。だってほら、近所の寺が古典作品に登場するって、なんだかびっくりするじゃない」
 橘美琴がそう言うとレイナは「大学時代がなつかしいね」とつぶやき、窓の外に流れる大堰川に視線を投げながら『徒然草』の一節を口ずさんだ。 

 あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ・・・

 言葉の連なりが古い音楽のような響きをもって胸に染みるようだった。その時ちょうどシトロエンは渡月橋を渡った。深い山の間隙を縫って大堰川がうねる情景が橋上の僕たちに迫ってくる。
「今の文章、だいたい訳せる?」とレイナは後部座席の僕の方に顔を半分向けて聞いてきた。僕がほとんど訳せないと答えると橘美琴は「古典を訳すってことは日常生活の中じゃ、めったにやらないですからね」と品良く言った。
 するとレイナは視線を前方に戻して今の部分を説明してくれた。
「あだし野っていうのは、古くからの墓所。鳥部山っていうのは、東山にあった有名な火葬場ね。つまり、あだし野のお墓の露が消えることなく、そして鳥部山の火葬場の煙が立ち去らないでいるように、この世の中の人々がいつまでも生きることができるならば、どんなにか情趣もないことだろう。人はいつ死ぬかわからないからこそ、人生とは味わい深いものなのだって兼好は言ってるのね」
 それを聞いて僕は、つい今し方阪急嵐山駅の空を見上げつつ、儚い人生の意義について疑問を抱いたことを思い出した。まるでレイナは僕の心中を見透かして今の話をしたような気がしてならなかった。

京都物語 164

 阪急嵐山駅に降り立って駅前広場を見渡した時、夢から覚めたような妙な感覚にとらわれた。前回佐織と訪れてから10年という時間が過ぎてしまったことがどうも信じられなかったのだ。浅茅しのぶの文章が頭にこびりついているのか、僕は思わず青空を見上げた。空はいささか冷淡な表情で、広く僕を見下ろしている。君は10年という時間を過大評価しすぎているのではないかねと語りかけてくるようだ。「紫式部がここに立って空を見上げたのは、もうかれこれ1000年前のことなのだよ・・・」
 10年なんて、ほんの一瞬なのだ。だとすれば人生に与えられた時間だって同じことだ。ならば僕たちは一体何のために生きているというのだろう? 死はあっという間に訪れるのだ。そして死んだら僕は消滅するのだ。だのに僕は今苦しみながら生きている。何のために苦しんでいるというのだ? 
 浅茅しのぶが言うように、たしかに空は意地悪だ。
 そんなことを考えながら空を見上げていると、隣でレイナが声を上げた。その先には橘美琴がいた。その女性は赤いダッフルコートを着て、厚手の茶色いスカートを穿いている。ショート・ボブの黒髪を古風な感じでまとめていて、いかにも京都の知的な女性という雰囲気を漂わせている。僕の思い浮かべていた姿とほぼ合致した女性だ。久しぶりに再会した割には2人は落ち着いた様子で、両手でしっかりと握手を交わした。
 レイナはさっそく橘美琴に僕を紹介してくれた。「運命の人なの」と最後に付け足したので、僕は若干取り乱してしまった。「何よ、そのリアクション、傷つくじゃないのよ」とレイナは瞳を鋭くした。すると「大丈夫。分かってますから。レイナちゃんはこういう人なんです」と橘美琴は口先に手を当てて笑いながら言った。彼女の顔ときちんと対面した時、僕はどういうわけかどきっとした。まさか恋心を抱いたというわけではない。橘美琴の瞳があまりに黒々としているがゆえに胸中を見透かされたような気がしたのだ。彼女の瞳は、たとえば、森の奥の神聖な泉のような深みをたたえて、僕の姿を捉えていた。

京都物語 163

 あの文章、どこか、暗示めいてるって思わない?」
「暗示?」と僕は言った。大堰川の風景はいつの間にか閑静な住宅に遮られている。
「一体あの文章って、誰に向けてた書かれたんだろう? 読めば読むほど、それがはっきりしなくなるのよ」とレイナは続けた。「少なくとも、私たち一般読者に向けられて書かれたとは思いがたい」
「じゃあ、一体誰に向けて書かれたっていうんだ?」
 僕がそう訊くと、レイナは、「誰か特定の人がいるんじゃないかって思えて仕方ないのよ」とすぐに返した。「そう考えたら、あの文章が初版で削除されたっていうこともうなずけるのよ」
「つまり浅茅しのぶは、あとがきを利用して、誰かにメッセージを送ろうとしたってことか」と僕は彼女に同調した。
「それも、あたしたちには分かりにくかったあの文章の意味が、一読しただけで伝わる誰かね。だから浅茅しのぶは、その目的を達成すると同時にあとがきを削除したのよ」
 再び大堰川の流れが近くになったと思ったところで、列車は減速を始めた。嵐山駅に着いたのだ。到着のアナウンスが流れ、席に座っている乗客たちが一斉に動き始めた。からし色のレギンスをはいた女の子も携帯電話をバッグにしまいながら、どこか不機嫌な表情を浮かべてゆっくり立ち上がった。ドォルザーク似の巨漢も、まるで新しい交響曲のメロディを思案しているかのような深刻な表情を浮かべたままのっそりと体を起こした。
「ただ、もうあたしの中ではある程度の整理がついてるんだ」とレイナは言いつつ、全ての乗客の最後に立ち上がった。「坂井さんがきちんと調べてくれたからね」

京都物語 162

「たとえば、苦しみにさいなまれている時、誰が空を青く美しく感じるだろうか。そういう時、空とはむしろ意地悪なものだ。そして真に意地悪なのは、自分の心なのだと気づくことができればその人は天才だ」とレイナは浅茅しのぶの書いた『藤壺物語』のあとがきの一節を暗唱した。きっと彼女は全文を暗記するくらいに読み込んでいるのだ。
「空は意地悪。でも、ほんとうに意地悪なのは自分の心」
 レイナは鼻歌でも歌うかのように繰り返した。浅茅しのぶの言葉というよりはレイナ自身の思いをしみじみと述懐しているようにも聞こえた。
 窓の外には大堰川が見えてきた。すると僕の心は一瞬にして大学4年の晩秋に戻った。結果的にあれが佐織との最後の旅行になったわけだ。あの日僕たちは市バスで嵐山を訪れ、天龍寺の前の割烹で天ぷらを食べて大堰川に架かる渡月橋を渡った。それから阪急嵐山駅で折り返して再び渡月橋を北上し清涼寺まで歩いたのだ。清涼寺といえば光源氏のモデルの1人とされる源融の山荘の跡だ。そういえば、融は六条ホテルの前に造営されている渉成園も所有していた。そうしてその壮大な庭園は彼の死んだ後幽霊が出ると噂され、平安朝の人々は近づかなくなってしまった。『源氏物語』にも渉成園は登場する。「中の品の女性」として光源氏が惹かれる夕顔という女性は、その廃院で物の怪に取り憑かれて絶命する。物の怪は光源氏を愛する他の女性の心に生じた激しい嫉妬の念だった。
 僕は大堰川が青空を反射させる様を見ながら、佐織と歩いたあの時の光景を鮮明に思い出し、それから清涼寺の境内を彩っていた燃えるような紅葉の紅にしばし心を染められた。
 間もなくして阪急列車は松尾駅に止まり、松尾大社に参詣するであろう人たちがちらほらと下車していった。目の前で寄り添っていた老夫婦も揃って席を立った。からし色のレギンスの女の子は相変わらず足を組んだままメールを打っている。すると今空いたばかりの彼女の隣の席に大きな男がどっかりと腰を据えた。くたびれた感じの黒のスーツを着ている割には、表情に迫力がある。りっぱな顎髭を蓄えていて、顔はドヴォルザークによく似ている。レギンスの女の子は携帯電話に目を落としたまま、3センチほど男から遠ざかった。
 松尾駅を出た時「次は嵐山、終点でございます」というアナウンスが流れた。レイナは「あの文章が不自然な点はまだあると思うの」とさっきの話を続けた。彼女の声を聞いて、ついさっきまで大学4年生だった僕はたちまち今現在の自分に戻った。

京都物語 161

「ヤマシタ君は今、浅茅しのぶのあとがきを読んで意味が分からないって言ったけど、あたしはそれを聞いて、やっぱりなって思ったよ」とレイナは言い、シートに上半身をもたれた。「すべてが不自然なのよ、あの文章は」
 レイナがそうつぶやいた時、発車のベルが鳴り、年配の3人組の観光客が乗車したのを最後に扉が閉まった。そうして阪急嵐山線は桂駅のホームを出て典型的な住宅地の中を徐々に加速し始めた。
「そもそも順序が不自然なのよね」とレイナは話を続けた。
「順序?」
「そう、順序。あの文章はオノ・ヨーコの言葉で始まってるけど、おそらくそれが最初じゃない。事の発端は浅茅しのぶが青空を見上げたっていうことに始まるのよ。執筆中も、それから完成した後も、彼女はいろんな場所で青空を見上げたのよ。きっと、苦しくて、青空を求めた。青空しか求めるものがなかったの」
 そう言いながらレイナはそっと僕の手を取り、スマートフォンをなぞるような指遣いで手の甲をさすりはじめた。
「そうやって青空を見上げながら、ふと出てきたのがオノ・ヨーコの言葉だった」
「『空の美しさにかなうアートなんてあるだろうか』ってやつだね」と僕は言った。
「そう。たぶん浅茅しのぶは、夫であるジョン・レノンを亡くしたオノ・ヨーコの苦悩に共鳴するところがあったんだと思う。内容こそ異なるけど、苦悩を抱えてるってことについては共通してたのよ。だからあの言葉に自分なりの解釈を加えた。もちろん、その解釈は正しいのかもしれない。なぜなら彼女は他人の心の中に入り込むことができるから」
 僕たちの前の席では、若い女の子がメールを打っている。彼女はからし色のレギンスをはいた足を組んで座っている。その隣には老夫婦が仲良く腰を下ろしている。首に一眼レフのカメラを提げた夫の横にいる婦人の側頭部には日光が降り注いでいるが、彼女はそれに頓着することなく夫に寄り添っている。ジョン・レノンが声を嗄らして唄わなくとも十分に平和な光景だ。
「浅茅しのぶは紫式部の心の中に入り込んで『藤壺物語』を書き上げた。率直なところを言うと、私はあの作品を夢中になって一気に読んだ。それほど惹きつけられたの」とレイナは隠し事を打ち明けるかのような口調で言った。「なぜそんな文章が書けたのか、それは簡単よ。浅茅しのぶは紫式部と同じような経験をしてたからよ」
「つまりどんな経験をしたんだ?」と思わず僕は聞いた。すると彼女はほくそ笑み、「そこからが最大のミステリーだったのよ。それであたしは坂井さんっていう秘密兵器に頼ったわけ」と言い、僕の手を自分の手の中に包み込んだ。もっと詳しく聞きたかったが、レイナはそれ以上話そうとしないので、例によって僕は黙って待つことにした。

京都物語 160

「昭和五十九年 初秋の野宮神社にて 浅茅しのぶ」
 あとがきはそこで終わっていた。僕はレイナに礼を言い、とりあえず大学ノートを返した。すると彼女はそれを受け取りながら「どう思った?」と聞いてきた。その瞬間、エキゾチックな香水がふわっと香った。
「正直、よく意味が分からないな」と僕は答えた。「何度か読み返さないと理解できないのかもしれないし、何と言っても『藤壺物語』を僕は読んでないからね」
 レイナは亜麻色の大きな瞳をまっすぐに僕に向け、そのうちまぶたを少しずつ狭くして涼しそうな表情になった。
「あたしが引っかかったのは、この文章の不自然さなのよ。まず、どうして浅茅しのぶはこんなところにこんな文章を書かなければならなかったのか?」
 レイナはそう言い、大学ノートのそのページをもう一度開いた。それから自身の筆跡を目でなぞりながら話を続けた。
「しかもね、さらに不可解な事実をつかんだのよ」とレイナは声を低くした。彼女の口の中ののど飴はすでに消滅しているようだった。「このあとがきはね、第2版以降は削除されてるの。つまり、あたしたちが大学の図書館で借りた初版にしか載ってないのよ」
「それって、どういうことなんだ?」
「はっきりとしたことは分からないけど、浅茅しのぶ自身の要望なのか、それとも出版社の判断か、どちらかだね。いずれにせよ、この文章には何らかの事情があるのよ」
 僕はわずかに残ったのど飴をゆっくりとなめた。そうしていると阪急列車は桂駅に停車し、阪急嵐山線に乗り換えるために僕たちはいったん下車することになった。僕は明子の手紙の入ったリュックサックを、レイナは浅茅しのぶの文章を書き写した大学ノートの入ったリュックサックをそれぞれ肩に担いでホームに降りた。桂駅という駅名を聞いたのは初めてだったが、阪急線の乗換駅ということでホームは思った以上に長く、冬の冷たい太陽が線路を輝かせていた。僕たちはいつの間にか手をつないで嵐山線のホームに移動した。列車はすでに僕たちを待っていた。嵐山線の列車のシートに座ったレイナは、浅茅しのぶの文章についてさらに彼女の見解を語りだした。

京都物語 159

 僕は次のページをめくりながら、ノートの厚みを手に確かめた。どうやらこれはレイナの取材用ノートで、見ると彼女は昨日もおとといも何かの構想を練り続けている。
 その時、不意にあふれんばかりの陽光が差し込んできた。阪急電車が地下トンネルから地上に出たのだ。思わず辺りの景色を見渡すと、住宅地が広がり、ショッピング・モールがあり、ちらほらと畑も見える。いかにもありがちな郊外の風景だが、ここが京都だと思うと、やはり僕の目にはどこか特別に映ってしまう。
 レイナはのど飴を僕にくれ、自身も1粒口に入れた。ハーブの香りが鼻にまで駆け上がってきた。僕は新たなページに書き込まれた浅茅しのぶ氏の文章の続きに視線を落とした。
「青空は自分の心を映している。石川啄木は『空に吸われし十五の心』と詠んだが、彼も同じような感覚を感じたのかもしれない。たとえば、苦しみにさいなまれている時、誰が空を青く美しく感じるだろうか。そういう時、空とはむしろ意地悪なものだ。そして真に意地悪なのは、自分の心なのだと気づくことができればその人は天才だ。
 その日私は美しすぎる空を恨んだ。あるいは羨んだのかもしれない。実は、私はこの『藤壺物語』を書きながら、死神につきまとわれていたのだ。それは文章を書き始めた頃から私をにらみ続けてきた死神だ。そろそろこいつの正体をこの目で確かめる時なのではないか。私はそれまで恐怖のあまり目を覆い続けてきた死神の姿を、意を決して正視した。
 するとそこで私を見下ろしていたのは意外なものだった。死神の正体とは、他でもない、言葉だった。もっと具体的に言うと、言霊(ことだま)だったのだ。
 ご存じの通り、言霊とは、口に出したことは現実に起こるくらいに力をもっているという古来からの言い習わしだ。私の見た死神の正体は、まさにこの言霊だった。
 とは言うものの、『藤壺物語』から撤退するには、私は幼すぎた。こうなれば覚悟を決めて、最後まで書ききろうと逆に思った。藤壺の心を。そして私自身の心を、包み隠さず。
 だが書けば書くほどに死神は執拗に息を吹きかけてきた。そうしてついにこの小説を書き上げた時、私の心と体は完全に限界を超えていた。その時私は心の中で空を見上げた。非の打ち所のない青空だった。だが、その青空は美しすぎて、すぐに目をやられてしまった。瞬く間に何も見えなくなってしまった。青空にかなうアートなどないというのは本当だった。事実は小説よりも奇なり。どんな作り事よりも、その人間が必死に生きた真実の方が人々の心を打つ。芸術とは偽善でも慰めでもない。すなわちこの『藤壺物語』は、現時点における私の全てだ」

京都物語 158

「あとがき?」という言葉が僕の口から漏れた。レイナは横目でこっちを見て小さくうなずいた。彼女はソバージュの髪をかき分けて青紫のピアスを露わにし、外出の時にだけつける香水の香りを漂わせながらリュックサックから分厚い大学ノートを取り出した。それからそこに挟んだ数え切れぬほどの付箋のうちの1枚をつまんで「風邪を引いて寝込んでいる間にメモったんだ」と言いつつそのページを開き、ノートを僕の膝の上に差し出した。興奮気味のレイナの手によって書き写された『藤壺物語』のあとがきが、列車内の蛍光灯に照らされた。
「・・・ジョン・レノンが狂気的なファンの凶弾に倒れた後に語られるようになったオノ・ヨーコの言葉が最近出回り始めている。つぶやきとも詩的表現ともとれる彼女の言葉の中に『空の美しさにかなうアートなんてあるだろうか』という一節を見つけた。
 この言葉が芸術の限界を表しているというのは、きわめて皮相的で凡人的な捉え方だ。この言葉はむしろ芸術に対する挑戦なのだ。彼女が美しい青空を見上げて心を奪われたのはおそらく事実だろう。でも本当にそれだけの感興ならば、誰しもが経験する平凡的事実であり、わざわざ書き残す必要もなかろう。ヨーコ氏は青空に何か他のものを見たのだ。
 この小説を書きながら、私の頭の中には、自分でも恐ろしいくらいにいろんなことが浮かんでは消えていった。これこそが、兼好法師の言う『あやしうこそ、ものぐるほしけれ』の境地なのかもしれない。作家という哀しい仕事を生業とする者には、きっと避けては通れぬ境地なのだ。そう思えば、苦しみも光栄に感じられなくもない。
 そんな私の頭の中に、最近知ったヨーコ氏の言葉が何度も浮かび上がった。そのうち気味が悪くなってきて、ある日私は実際に青空を見上げることにした。その時頭上に広がっていたのは非の打ち所のない完璧な青空だった。窓を開けてベッドに横たったまま小1時間も見つめただろうか。私は奇妙な感覚に囚われた。空の色が変化してきたのだ。青いはずの空は突如として灰色になり、真っ赤になり、紫になった。そのうち私は気がついた。この空は最初から青かったわけではない。私の心が青いと思い込んでいただけなのだ。つまりこの空は私の心をそのまま映しているに過ぎないのだ。
 ヨーコ氏もおそらくは似たような感覚に陥ったはずだ。そして彼女が青空に見たのは、この現実世界だったに違いない。手垢にまみれた道徳、人間の醜さ、そして生きることの矛盾・・・
 ヨーコ氏は思ったはずだ。芸術は決して偽善や慰めなどではない。芸術によって夫が生き返るわけでもないし、彼と出会う前の不幸な男性関係が清算されるわけでもない。芸術とは、むしろ偽善とは対極の、醜さをそのまま受け容れる行為と言っていい。醜さを醜さとして真っ正面から捉え、そこにこそ立ち現れる抜き差しならない人間の真実を表出した作品こそが芸術と呼べるのだ。誰が芸術にハッピーエンドを求めようか?」

京都物語 157

 8:29発の列車の割には、ちらほらと席が空いていた。意外に感じながら腰を下ろすと、そういえば今日は日曜日だったことを思い出した。山口の職場にはおととい電話を入れた。直属の上司である主査は「有給休暇の取得については、その理由は問われない」といかにも彼らしく事務的な前置きをした後で、「君にも事情というものがあるだろうし、私たちも最大限配慮したいところだよ。でも一方で君は職業人でもあるわけだ。2週間以上も仕事を休むことについて、何も感じないというのはどうかと思うよ」と言った。
 僕はこの3年の間有給休暇を取った覚えがない。かと言って仕事に燃えていたというわけでもない。僕は過去に「何もすることがない」という時間を過ごすことの怖ろしさを体験している。僕が社会保険事務所で年金に関わる業務を淡々とこなしている理由はそこだけだ。とはいえ同僚にはそれなりに気を遣ってきたつもりだ。せめて軽蔑されないようにと、その日のタスクを着実にクリアしてきた。だから主査にそういう言い方をされて心苦しくないといえば嘘になるが、今から山口に帰るという選択肢はない。仕事を軸に生活を組み立てざるを得なかった僕にも、何らかの変化というか転機が訪れているのだ。
 阪急電車は地下のトンネルの中を進んでいる。その間、レイナはずっと僕の手を握り、のど飴を口に入れながら無表情を顔面に貼り付けていた。
「少しだけ、教えてくれないかな」と僕は彼女に言った。「君は浅茅しのぶの文章を読みながら、どんなことに気がついたのか」
 レイナは少し間を空けた後で「たしかに『藤壺物語』は読み手を引きつける迫力があった。『源氏物語』のストーリーを軸にして、千年前と今を行き来する小説だった」とあまり唇を動かさずにそう言った。「でもね、それが作者の実生活における苦悩とはどうしても結びつかなかったの。美琴ちゃんの言うことには、浅茅しのぶは『藤壺物語』を書いている最中に精神的な打撃を受けることが重なって、作品を書き上げたのはほとんど命がけだった。授賞式にも参加できずに、長いこと入院することになったのよ。その苦悩の跡が作品の中に見られなかったのよ」
 そこまで話した時、レイナはのど飴を噛み砕いた。そうして飴をすべて呑み込んだ後でこう続けた。
「でもね、ヒントはずっと後にあったわけ。作品のあとがきに何とも意味深なことが書いてあったの」

京都物語 156

 レイナと一緒に過ごす中で、僕は彼女の意思をまず尊重してきた。彼女の言動に対して評価やコメントをせず、常に見守るというスタンスを取ってきた。わかりにくい言葉があったとしても、彼女がきちんと説明するまで待った。だが、今の言葉だけはどうしても聞き返さずにはいられなかった。君の感じている嫌な予感とはどんなものなのかと。
 すると彼女は本願寺に向けられた視線をずらし、横目で僕の方を見ながらこう答えた。
「『予感がした』ということをわざわざ口に出すっていうのは、なんだか矛盾してるよね」
 僕にはよく意味がわからなかった。それでその旨を直接言った。
「つまりあたしは、嫌な予感がしたことをあなたに伝えたかったのよ。具体的に何が嫌なのかはあたしにもはっきりしない。でも、そんな言葉にできない不気味な塊を抱えてるってことをあなたに分かってほしかったの」
「それはなぜ?」と僕が聞くとレイナは「分からない」とすぐさま答えた。「なぜだか分からないけど、とにかくあなたに分かってほしかった」
 そう言った直後にレイナは僕の手を握ってきた。ふっくらとしたそれでいてすらりとした彼女の指が、僕の指の間に入ってきた。彼女はそれらすべての指に力を込めた。ぬくもりが僕の腕全体に伝わったかと思うと、タクシーは烏丸駅に着いた。僕は明子からことづかった手紙の入ったリュックをしっかりと手に取り、それからもう片方の手はレイナとつないだままタクシーを降りた。ワインレッドの阪急列車が目の前に滑り込んできたのは、僕たちがホームに着いてすぐのことだった。その間レイナはずっと僕の手を握りしめていた。

京都物語 155

 あくる朝目が覚めた時、僕はソファに横になっていた。サイドテーブルの上には空になったアーリー・タイムスのミニボトルが置かれ、iPodが転がっていた。どうやら酒を飲みながらそのまま寝てしまったらしい。暖房が効いているので寝冷えはしていないようだが、喉は乾燥しきっている。窓の外には奇跡のような青空が広がり、僕は思わず目をこらした。渉成園の緑も今日ばかりは鮮明に輝いている。ベッドの上では黒々したレイナの髪が布団の外に大きくはみ出している。
 ベッドに組み込まれた時計は7:14と表示している。待ち合わせは今日の午前中に設定してあると言っていたのを思い出した僕は、布団を剥いでレイナを起こした。彼女は横たわったまま景気よく背伸びをした。彼女の小さな胸に思わず視線が行った。
「おはよう」とレイナはかすれた声で言った。僕は「おはよう」と返した後で、「ところで待ち合わせは何時だっけ?」と聞いた。すると彼女は「嵐山駅に9時だけど、今何時?」と聞き返してきた。僕が時刻を教えると彼女は「そりゃ少し急がないとね」と言ったが、その割にはずいぶんと緩慢な動作でトイレに入って行った。
 レストランで千明氏の作ってくれたベーコンエッグと野菜スープ、それからロールパンを口に詰め込んだ後、さっと身支度をして六条ホテルを出た。外は快晴にもかかわらず寒さは冴え渡っていた。僕たちはタクシーで烏丸駅を目指した。レイナは「いよいよね」と自らを奮い立たせるように言った。「君のおかげだよ」と僕は応えた。車窓からは東本願寺の御影堂が威厳をもってそびえている様がはっきりと見える。レイナはその方向を見ながらつぶやいた。「なんだかね、さっきから嫌な予感がしてるんだよね」

京都物語 154

 巣の中のひな鳥のように安心しきって眠るレイナの体に触れていると、かえって上手く眠られなかった。それで僕はベッドを抜け出して冷蔵庫の上からアーリー・タイムスのミニボトルを手に取り、キャップを空けてストレートで飲んだ。2口ほど飲んだ後で、レイナを起こさないようにそっとカーテンを開けた。眼下にはひっそりと眠る渉成園の緑が黒く広がっている。
 僕はリュックサックのポケットからiPodを抜き出し、音楽を再生した。イヤフォンから流れてきたのは小野リサの「ドリーマー」だった。奇しくもレイナと初めて出会った時、「さくら」の中で聴いた曲だ。バーボンウイスキーを飲みながら、音楽とは形而上的だとつくづく思う。同じ曲を聴いてもあの時よりも哀しく感じられるのはなぜだろう?
 願望というものは手に入らないと思えば思うほどかえって強く渇望するものだ。ところが何かの拍子でそれが手に入りそうになった途端、胸を焦がすような思いは瞬く間に醒めてしまう。まるで虹をつかもうとしているのと同じだ。
 明日僕は橘真琴氏に会う。明子からの手紙をもらってから3ヶ月経った。諦めかけた頃には1日がとても長く感じられたのに、こうしてみるとあっという間だったように思う。レイナは「運命」だと言った。だとすればこの先僕たちはいったいどこに連れて行かれるというのだろう? 幼い頃、僕は幸せになりたいと願っていた。僕にとっての幸せとは「怖くない人生」のことだった。しかし今僕が立っている場所は、きわめて謎めいた心細い世界だ。あの頃の無邪気でかわいらしい自分に戻れるものなら戻りたいと、ウイスキーを飲み、「ドリーマー」を聴きながら、僕は心底哀しくなった。

京都物語 153

「運が良かったのは、美琴ちゃんのお母さんは、今は体調がいい時なんだって」とレイナは親友から返しの電話のあった日の夜、ベッドの中でそう言った。
「それにしても一体君はどんなマジックを使ったんだ?」と僕は聞いた。するとレイナは「マジックなんかじゃないわよ。そんなこと言っちゃうと、そもそも地球が浮かんでること自体がマジックじゃない」といかにも彼女らしい言い方で答えた。
「私はね、どんな言葉をどんな順序で投げかければ美琴ちゃんのお母さんの心の真ん中に届くだろうって、ひたすら考えたの。でも焦りはなかったね。絶対に作戦は成功すると思ってたから」
 すでにレイナの風邪は治っていた。表情にも明るさが戻っている。
「つまりマジックじゃなくて、運命なのよ。美琴ちゃんのお母さんがあたしたちと会うことは予め決まっていたの。あたしはたまたまその引き金を引いただけのことよ」
 レイナはそう言って僕の胸に頬をすり寄せてきた。たちまち彼女のぬくもりが体内に入り込んできた。すると彼女はだしぬけに「ねえ」とささやいてきた。「セックスしたい?」
 僕はソバージュのかかった髪を撫でる手を止めて「そりゃ、したいよ。僕だってこう見えて男なんだから」と正直なところを吐露した。
「すっごく知りたいんだけど、そういうのって、我慢できんの?」
「あくまで憶測だけど、君とセックスすることが習慣になっていれば、この状況まできて我慢しろっていうのは無理だと思う。でも僕たちはまだ1度もしてない。だから、我慢するというよりは、今は何もせずに君の心をじっと観察してるっていう感じかな」
 レイナは含み笑いを浮かべた。そうしてその表情のまま眠りについていった。

作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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