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京都物語 159

 僕は次のページをめくりながら、ノートの厚みを手に確かめた。どうやらこれはレイナの取材用ノートで、見ると彼女は昨日もおとといも何かの構想を練り続けている。
 その時、不意にあふれんばかりの陽光が差し込んできた。阪急電車が地下トンネルから地上に出たのだ。思わず辺りの景色を見渡すと、住宅地が広がり、ショッピング・モールがあり、ちらほらと畑も見える。いかにもありがちな郊外の風景だが、ここが京都だと思うと、やはり僕の目にはどこか特別に映ってしまう。
 レイナはのど飴を僕にくれ、自身も1粒口に入れた。ハーブの香りが鼻にまで駆け上がってきた。僕は新たなページに書き込まれた浅茅しのぶ氏の文章の続きに視線を落とした。
「青空は自分の心を映している。石川啄木は『空に吸われし十五の心』と詠んだが、彼も同じような感覚を感じたのかもしれない。たとえば、苦しみにさいなまれている時、誰が空を青く美しく感じるだろうか。そういう時、空とはむしろ意地悪なものだ。そして真に意地悪なのは、自分の心なのだと気づくことができればその人は天才だ。
 その日私は美しすぎる空を恨んだ。あるいは羨んだのかもしれない。実は、私はこの『藤壺物語』を書きながら、死神につきまとわれていたのだ。それは文章を書き始めた頃から私をにらみ続けてきた死神だ。そろそろこいつの正体をこの目で確かめる時なのではないか。私はそれまで恐怖のあまり目を覆い続けてきた死神の姿を、意を決して正視した。
 するとそこで私を見下ろしていたのは意外なものだった。死神の正体とは、他でもない、言葉だった。もっと具体的に言うと、言霊(ことだま)だったのだ。
 ご存じの通り、言霊とは、口に出したことは現実に起こるくらいに力をもっているという古来からの言い習わしだ。私の見た死神の正体は、まさにこの言霊だった。
 とは言うものの、『藤壺物語』から撤退するには、私は幼すぎた。こうなれば覚悟を決めて、最後まで書ききろうと逆に思った。藤壺の心を。そして私自身の心を、包み隠さず。
 だが書けば書くほどに死神は執拗に息を吹きかけてきた。そうしてついにこの小説を書き上げた時、私の心と体は完全に限界を超えていた。その時私は心の中で空を見上げた。非の打ち所のない青空だった。だが、その青空は美しすぎて、すぐに目をやられてしまった。瞬く間に何も見えなくなってしまった。青空にかなうアートなどないというのは本当だった。事実は小説よりも奇なり。どんな作り事よりも、その人間が必死に生きた真実の方が人々の心を打つ。芸術とは偽善でも慰めでもない。すなわちこの『藤壺物語』は、現時点における私の全てだ」
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作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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