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京都物語 212

 結局僕たちは最後まで黙々と可愛らしい弁当を食べた。橘美琴とレイナがテーブルを片付けた終えた後は、再び静かなひとときが訪れた。僕もレイナも橘美琴も、真琴氏が何かを話し出すのを待つしかなかった。それで僕たちは中国茶を飲みながら、思い思いの空想に耽った。
 庭では2輪の牡丹が仲睦まじく咲き並んでいる。濃い紫色と薄い黄色が、白い雪に霞んでいる。その様子を眺めていると、ふと明子の姿が頭に浮かぶ。彼女が今、幸せのただ中にいるとはどうしても思えない。京都のどこかで寒さに震えているのだろう。明子もこの雪を見ているのかもしれない。いや、きっと見ているはずだ。
 京都へ来たのは明子を探し出すためだった。しかし、そのための手がかりとして真琴氏に会うことに腐心するあまり、本来の目的がすり替わってってしまった感は否めない。
 だが、今、雪の色に埋もれてしまいそうになっている牡丹を見ながら、僕は明子に会いたいと思った。彼女のぬくもりをもう一度この胸に感じたいと強く思った。
 不意に真琴氏を見る。彼女はオレンジのべっこうの眼鏡の奥の瞳をやわらかく閉じている。すると、僕の心の動きが伝わったかのように、真琴氏は目を閉じたまま話し始めた。
「源氏と結ばれた後になって、藤壺は強い罪悪感に駆られた」
 その瞬間、部屋の中の空気はぴりっと張りつめた。
「でも、それは完璧な罪悪感というわけでもなかった。なぜなら、心のどこかに諦めがあったから。こうなることは最初から分かっていた。必死に運命に抗おうとしたけど、やはりそれはできなかった。しかし、だからと言って、その感情はたやすく処理できるようなものでもなかった。これまで経験したことのないくらいに藤壺を苦しめた」
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京都物語 211

 そこまで話したところで、真琴氏の表情からはすうっと力が抜けた。そして、橘美琴に向かって、「ねえ」と呼びかけた。うつむいていた橘美琴は浅い眠りからたたき起こされたように顔を上げ、「あ」と答えた。2人の間では会話が成立したらしい。
「お昼を用意してるの」と橘美琴は言いつつ、ゆっくりと立ち上がった。
 僕たちは氷のように冷たい廊下を玄関の方に歩き、新たな部屋に通された。中はすでにエアコンが効いていて、十分に温かかった。曼陀羅のような模様の描かれた赤いペルシャ絨毯の上には、重厚な黒い唐木のダイニングセットが置いてある。席に着いて、橘美琴の入れた中国茶を飲んでいると、玄関先で声がした。出前で折り詰めが運ばれてきたらしい。
「これも何かの縁。せっかく来ていただいたのだから、お昼くらいご一緒しましょう」と上座に座った真琴氏は言い、手を合わせた。朱色に塗られた折の蓋を取ると、中は9つに仕切られていて、その1つ1つに手の込んだ、可愛らしい料理が収められていた。レイナは「きれーい」と声を上げた。
「このお弁当はね、さっき通った、嵐山高雄パークウエイの入り口にあるお料理屋さんにお願いしたんだけど、古くから母とおつきあいがあって、何かとひいきにしてくださるのよ」と橘美琴は静かに言った。僕はまず、ゆず味噌のかかったごま豆腐に箸を付けた。それを口に含みながら、大きく取られた窓の外に目を遣った。オープンデッキの先には庭が広がっているが、そこに植えてある木々はどれも冬枯れしている。その中に、濃い紫色と薄い黄色の花がひときわ目立っている。牡丹だ。僕はその花を眺めながら、出汁の染み込んだ湯葉を口に入れた。
 それにしても全く会話がない。すべての音が消滅してしまったかのようだ。外には雪が舞っている。

京都物語 210

 真琴氏はストーブの炎に目を遣ったまま訥々と話を続けた。
「美琴には、お母さんはお父様の熱意に押されて結婚したのだと言って聞かせてきたけど、じつは、少し違うのよ。出会った時から、私は、お父様に夢中だった。美琴も知ってのとおり、お父様は16歳も年上で、前の奥様を病気で亡くされていた。そして、貴博さんを連れていらした。あの時貴博さんはすでに高校3年生だった。でも、そんなこと、全く気にならなかった。どんな障壁が道を塞ごうとも、お父様を愛することができるのなら、それ以上何もいらなかった。今思えば、失恋の影響もあった。あの時の胸が塞がるような苦しさが、お父さんへの思いをますます加速させたのね。出会って1年も経たないうちに、私たちは一緒に暮らすようになった」
 今まで正座していた橘美琴は、ようやく足を横に流した。彼女はうつむいたまま、スカートの裾を整えている。
「お父様は、ほんとうに、思いやりに満ちた方だった。将来は研究者の道を進むようにと、大学院の博士課程を勧めてくださった。私が気持ちよく研究に打ち込むための環境も整えてくださった。仏像について語られるときは、まるで別の魂が宿ったかのように、威厳に満ちていらした。休日には旅行に連れて行っていただいた。日本全国を巡るのも、そう遠い日はではなかろうと思っていた。小説の世界へ誘ってくれたのも、お父様だった。研究の基本は所与の文献を読み込むことだが、発想の転換のためにも創造的な自己表現の場が必要だと。初めて書いた『月と京都タワー』という短編を、お父様はたいそう褒めてくださった。それからというもの、恐ろしいくらいに筆が進んだ。ああ、これが、幸せというものなのだと、心から実感した」

京都物語 209

 その話を聞いた時、僕は『チャイコフスキーの恋人』を思い出した。若き日のチャイコフスキーの肖像画に恋して、サンクトペテルブルグを訪れる主人公。彼女は幻想の中でチャイコフスキーと出会い、激しく愛し合う。
「でも、先生は届かぬ存在だった」という真琴氏の物寂しげな声で、僕は我に返った。「あの時先生はまだ結婚されていなかったけど、私から見て、結婚して家庭をもつことには縁のない人に見えた。それでも、卒業式の日、思い切って手紙を渡した。清水の舞台から飛び降りるよりもはるかに勇気の要る、私にとっては命がけの直談判だった。手紙の最後には自分の住所と電話番号を記して、返事を待った。ひたすら。大学生になった後も。でも、結局返事はなかった。失恋したのね。決して生やさしい失恋ではなかったわ。あの失恋は後の人生になにがしかの影響を与えている。はっきりそう思う」
 『藤壺物語』を語っている時よりも、いくぶんか穏やかな顔つきで真琴氏は話した。
「私は、過去に、3回恋に落ちた。先生は、その最初の人だった」
 真琴氏がそう述懐した時、少し顔を上げていた橘美琴は、再び深くうつむいた。真琴氏はそんな娘の姿を横目で意識している。
「お父様と出会ったのは、美琴も知ってのとおり、大学院の時のこと。その時私は中古文学の絵巻物を研究していた。お父様は仏像研究の第一人者で、博物館の学芸員をなさっていた。とにかく博覧強記な方だった。しかも、根幹には深い人間愛があった。お父様は全国各地を飛び回って、お寺の奥から埃にまみれた仏像を掘り起こしては、丁寧に再生された。そうして、千年近くも前にその土地で必死に生きた民衆たちの魂までをも蘇らせようとなさった」

京都物語 208

 窓の外では大粒の涙のような雪が、しとしと落ちている。
 真琴氏は「出会ってしまった時点で、もう、どうすることもできなかった」と虚ろな瞳で言った。一体誰に向かって言っているのだろうと僕は思った。「逃れることなどできない。自分の力をはるかに超えている。これじゃいけないと思う。何度も思う。だから苦しい。こんなに苦しいことはない。かと言って、誰かに打ち明けることができるようなものではない。だから、深い孤独に陥ってしまう」
 真琴氏はそんなこまぎれの言葉を並べた後で、唇を固く閉じ、僕の頭上に目を遣った。冬の星座でも見上げるかのような瞳だった。
「藤壺の魂は、私の魂だった。そうして私は、あの物語を書かされたの。言霊に導かれて」と真琴氏は静かに声を荒げた。それから、呼吸を整えながら話を続けた。
「小学生の頃、私は平凡な少女だった。成績がいいわけでもなく、運動ができるわけでもない。しいて言えば、ピアノをよく弾いていた。でも、私の場合、どこかのコンクールに出て賞を狙うという欲はなかった。私のピアノの聴き手は、私自身だった。私は、寂しくなると決まってピアノを弾いた。そうして自分の弾くピアノの音色とメロディに癒された」
 今までうつむいていた橘美琴がほんの少しだけ顔を上げた。
「初めて恋に落ちたのは、高校1年の秋だった。普通の女の子の感覚からすると、ずいぶんと遅い初恋なのでしょう。でも、それは紛れもない事実。私は、高校の美術の先生に恋に落ちた。今でもはっきりと覚えている。先生は私のデッサンを褒めてくださった。描写が細かくていい、その描写力は、君の内面に裏打ちされているんだよって言われた。生まれて初めて、私は誰かに認められた気がした。それからというもの、先生は心の中でずっと優しく微笑んでいてくださった」

京都物語 207

「自分が『選ばれし者』だと自覚している人間は、決して多くを語らないもの。ましてや、自らを主張したりしない。すべてから一線を引いてる。だけど、自分にはかなわないと認めた人には、あっけないくらいに従順になっちゃうのね」とレイナがつぶやいた。「もしその人が同姓だったら、どこまでも尊敬する。逆に異性の場合は、恋に落ちる」
 レイナの言葉に、真琴氏は「そう」と同調の声を上げた。それから「それも、とても激しい恋に落ちるの」と付け加えた。
「光源氏は、非の打ち所のない藤壺を改めて近くに感じることによって、さらに深い恋に落ちた。この人はどうしてこうも完璧なのかと」
 真琴氏はそう言った後で、ずり落ちかけていた毛糸のブランケットを膝の上にきちんと掛け直した。そしてストーブの炎に視線を向けた。レイナは「さすがの光源氏も、雷に打たれてしまったわけか」と独り言のように後に続いた。
 すると真琴氏は「運命で結ばれた2人は、その瞬間、同じことを考えていた」と言った。「でも藤壺は光源氏のように、思ったことを上手く言葉にしたり、心の中で整理したりするのがあまり得意ではない。それでも彼女は、美しく頼もしい光源氏を間近で見て、自らの隠せない恋心を真に悟った」
 レイナは遠くを見つめているかのように茫然としている。彼女がさっきから何を考えているのか、実はよく分からなくなってきている。ここへ来るまではあれほど深く共鳴していたはずだったのにだ。彼女は僕の知らない世界を彷徨っているかのようだ。
「それから2人は、なだれ込むかのようにして、深い契りを交わした」と真琴氏は話を核心に近づけた。「それまで抑え続けていた感情が2人の倫理を完全に取り払った。でも光源氏は依然として夢の中にいるようで、どこか切なかった。藤壺は、ああ、これで自分はもう元には戻れないのだと、心のどこかでそう嘆いた。しかし、彼女の絶望感には底があった。なぜなら、いつかはこうなるのだという諦めを抱き続けていたのだから」

京都物語 206

 籐のリクライニングチェアに深く腰掛けていた真琴氏は、いつの間にか背筋を伸ばし、身を乗り出すようにしている。毛糸のブランケットがずり落ちそうになっているが、それに気を払う様子すらない。
「たしかに藤壺は苦悩の表情を向けた。しかしその姿にはどこか親しみがこもり、可憐な様子は消えてはいなかった。だからといって気安く打ち解けるふうでもなく、つつみ深ささえ感じられる。何を言わなくとも、こちらが恥ずかしくなるような物腰が、やはり、これまで見てきたどの女性とも違っていらっしゃるということを、光源氏は改めて気づかされるばかりだった」と真琴氏は言い、ほとんど氷水になったカルピスをストローで吸い上げた。橘美琴は新しいものを持ってこようかという身振りを母に示したが、真琴氏は右手を軽く挙げてそれを制した。橘美琴は再び正座に落ち着いた。
「フリードリヒ・ニーチェは、『ツラトゥストラ』の中で、傍らの木を指さしてこう語る。この木は山の中に1人さみしく立っている。人間と動物を超越して高々と立っている。たとえこの木が何かを語ろうとも、理解できるものは誰1人としていない。それほど、この木は成長したのだ。そして、この木は今、待ちに待っている。この木が待っているもの。それは、稲妻に打たれ、自らを破滅させることだ」
 そう言って真琴氏はふうっと息を吐いた。そうして目を細めつつ話を続けた。
「光源氏はまばゆいばかりの青年に成長した。だが、ここで彼は、さらに非の打ち所のない藤壺の姿を目の当たりにすることになった。この女性がどこか足りない部分を持っていれば、こんなにも深く愛することはなかったろう。藤壺の完全性を、光源氏は恨みさえした」

京都物語 205

「足音は急に小さくなり、代わりに、かすかに廊下の軋む音が近づいてきた。藤壺は御簾の内側でじっと待っていた。すると間もなく、音すら立てずに彼が入ってきた。片手で御簾をかき上げる仕草、美しく澄んだ瞳、着物に染みこんだほのかな香の香り。すべてに品格の漂う光源氏を前にすると、もはや本心を隠し通すことなどできそうにない。今まで罪の意識におののいていた藤壺の心は一瞬にしてぐらついた。かと言って、そう簡単に心を許すこともできない。自分はこの美男子の義母であり、帝の妻でもあるのだから」
 真琴氏の眼光は非常に鋭くなっている。
「以前、宮中で彼が御簾をくぐってきた時に、強い自責の念に苦しめられたことを思い出そうとした。彼を拒むなら、今が最後だと何度も心に叫んだ。しかし、心では分かっていても、身体が言うことをきかない。藤壺はどうすればいいのか分からず、ただ目の前の光源氏を見上げるばかりだった」と真琴氏は言った。窓の外に再び落ちている粒の大きな雪が、僕には涙のように見えた。さっき真琴氏は「世界は全て言葉から成っていた」と言ったが、今の僕には、世界は涙から成っているように感じられる。
「光源氏の方も、藤壺への恋心でたちまち全てが熱くなった。しかし、依然として夢の中にいるような感覚は消えない。この女性とは夢の中でしか愛することができないのだと思うと、たまらないほどに切なく感じられた」と真琴氏は言い、さらに表情を険しくした。「光源氏は藤壺のか細い両肩に手を掛けた。少し汗ばんでさえいる藤壺は、力のない視線を向けてきた。その表情を間近に見た時、急に不安が襲ってきた。愛しき人はひどくつらそうだった。情けないという思いがにじみ出ていた」

京都物語 204

「徐々に近づいてくる光源氏の足音を聞いた途端、『あくがる』状態だったはずの藤壺の心には、どうしたことか、冷静な魂が舞い戻ってきた。これからしようとすることのあまりの恐ろしさに、思わずおののいてしまう自分を抱えていた。でも、おののいている割には、それをやめようとする意志は働かない。つまり彼女は、逃れることのできない何かによって背中を押されていた」と真琴氏は声を低くした。それから、唾を飲み込んだ後で、こう続けた。「その藤壺の魂は、千年以上経ってから、私の心にも乗り移った」
 今、真琴氏の言った『私』が、真琴氏自身をさすのか、それとも『藤壺物語』の主人公である『私』をさすのか、僕には分からなかった。
「あの時、私は、目の前に起ころうとしていることが、現実の出来事なのか、はたまた自分が書き続けている物語の中での出来事なのか、判別がつかなくなってしまっていた。つまり、私の魂も藤壺と同じく『あくがる』状態だった」と真琴氏は再び呪われたような声を出した。
 レイナは橘美琴に視線を流した。さっきからじっと正座をしている彼女は、滝に打たれる修行僧のように、黙ってうつむいている。
「言霊の世界においては、現実と作り物の区別などない」と真琴氏はさっきと同じことを繰り返した。「あの時、私は完全にその言霊の世界に呑み込まれてしまっていた。世界は全て言葉から成っていた。そうしてそれらの言葉はどれも力をもっていた。しかも霊的な力だった。彼らは暗い声で私にささやきかけてきた」
 真琴氏の口からは次から次へと言葉が出てくるようだった。

京都物語 203

 夢という言葉を口にした直後に、真琴氏はべっこうの眼鏡の中の瞳をそっと閉じた。そうして「近づいてくる足音が光源氏のものだということに、藤壺は気づいていた」と艶やかに言った。「その時、彼女もまた、光源氏と同じような感覚に囚われていた。この逢瀬を心から求めていたはずだったのに、いざとなると冷静な自分が表に出る。御簾をかいくぐって突入してきた光源氏を必死に制した時、もう二度と彼とは会ってはならないと強く心に言い聞かせたつもりだった」
 真琴氏は目を閉じたまま、ため息を吐いた。
「にもかかわらず、王命婦から密会の話を聞くと、瞬く間に胸が熱くなった。気がつけば、首を縦に振っていた。ほとんど本能のなせる業だった。あれからずっと、彼女は物思いに耽っていた」
 真琴氏は、ふわっと目を開けて、窓の外に目を遣った。重く灰色の空からは再び雪が地表に向かってひらひらと舞っている。雪でさえも真琴氏に操られているかのようだ。
「『あくがる』という言葉がある」と真琴氏は雪たちに語りかけるように言った。「魂が身体から離れてさまようという意味の古語」
 僕の隣でレイナがゆっくりと髪をかき上げた。
「今では『あこがれる』っていうわね。あの言葉の原義がこの『あくがる』。里に下って療養していた藤壺の魂は、まさに『あくがる』状態だった。そうして、それぞれに宙をさまよっていた光源氏と藤壺の魂は、王命婦によって引き合わされた」と真琴氏は言った。「でも、それを実現したのは、ほんとうは、王命婦の力ではない」

京都物語 202

「それはとても静かな夏の夜だった。彼は従者を門の外に待たせ、1人で邸の中に忍び込んで行った。あれほどまでに切望した藤壺との密会なのに、いざ、こうして実際に足を運ぶ段になると、不思議なまでに心は落ち着いていた。光源氏にとっては、意外な心持ちだった。たっての願いが叶うとはこういうことなのだろうかと、若くて聡明な彼は歩を進めながら戸惑いすら覚えた。そのうち彼の頭の中は、いろいろなことの境界線がはっきりしなくなってきた。今どこへ行こうとしているのか、そうして自分は誰なのか、すべてがおぼろげになってきた。王命婦に執拗に頼み込んで実現したせっかくの逢瀬なのだ。どうして何も感じないのだろう? 藤壺のいない宮中でのあの胸を燃やすような思いはどこへ消えてしまったのだろう? 
 夢だと思った。これは夢なのだ。自分は今から、父である帝がこよなく愛する妻の部屋に向かっている。それは決して許されることのない、おそろしい恋だ。そんなことがどうしてこうも平然とできるのか?
 答えは簡単だ。夢を見ているのだ。自分は藤壺のことをずっと想い続けてきた。こんなにも誰かを好きになることなど、もう2度とあるまい。なぜなら、これは運命の恋だからだ。自分たちは前世からの縁で結ばれた、どうしようもない2人なのだ。前世では深く愛し合う夫婦だったのかもしれない。いや、人には言えない恋に落ちてしまい、来世でまた会おうと約束した身なのかもしれない。いずれにせよ、藤壺と自分は宿世の因縁によって運命づけられている。ここで逢瀬を遂げるために母は亡くなり、父は藤壺を妻として迎えた。そうして今、この夢の中で自分たちはようやく再び愛し合うのだ。この、はかない夢の中で」

京都物語 201

 さっきから抱き続けている違和感が次第に膨らんでゆく。というのも『藤壺物語』の主人公である『私』がどこへ行ったのか分からなくなったのだ。さっき真琴氏は「言霊の世界の中では、作り物と実話の区別など存在しない」と言った。つまりは『私』と真琴氏の間に差はないということなのだろうか? ただ、真琴氏は「藤壺は紫式部であり、そして私自身でもあった」と言いもした。ということは、真琴氏は『私』であると同時に、藤壺でもあり、さらには紫式部でもあるというわけだ。果たして、そんなことがあり得るのだろうか?  
「藤壺が里に下っている間、光源氏は、昼間は何も手につかなくなった」と真琴氏は言った。「宮中に藤壺がいない寂しさと、どうにかして彼女との密会を遂げたいという思いで、頭の中は埋め尽くされていた。日が暮れると、藤壺の侍女である王命婦(おうみょうぶ)に詰め寄り、今のうちに藤壺と会えるように、何とか取り計らってほしいと頼み込んだ」
 真琴氏の頬は再び紅潮し、呼吸も荒くなってきた。千年前に書かれた物語を語っているとはとうてい思えないほどに切羽詰まった様子だ。
「王命婦は、いったいどのようにして算段をつけたのだろうか? 相手は藤壺。帝の寵愛を受ける后。きっと王命婦でなければできなかったはず。それほどまでに藤壺はこの侍女を信頼していた。それに・・・」と真琴氏は言い、睨むような目つきで僕を見た。「じつは藤壺の方も、光源氏のことを想い続けていた。一目でいいからその姿を拝見したいと、夜な夜な胸を焦がしていた。女はしたたかなもの。いくら繊細な感覚をもつ藤壺とて、その本質はやはり同じだった。彼女は療養中も光源氏を求めていた」
 真琴氏はまぶたを細めてそう語った。黒々とした瞳はたちまち能面のように鋭くなった。その顔で「かくして密会は果たされてしまった」と吐き捨てるようにつぶやいた。

京都物語 200

 ふと橘美琴に目を遣ると、彼女もレイナと同じように背筋を伸ばして母の話に耳を傾けている。ただ彼女はソファに腰掛けている僕たちとは違って、ずっと正座をしている。よく足がしびれないものだと不思議にさえ感じられる。おそらく長年の訓練によって正座が苦にならない身体を獲得しているのだ。
「とはいえ弘徽殿女御はしたたかな女性だった」と真琴氏は言った。「いや、女性の本質とはしたたかなもの。表に顕れる性質は人によって違いはあるけど、本質は同じ。女性はしたたか。しかも弘徽殿女御は、帝の正妻格であるし、何より父は右大臣で、一国の首相のような地位にいる人物だったから、彼女はしたたかさを全面に出すことができた。それゆえ、宮中にいる人たちは、この女性だけは敵に回したくないと思っていた。だからこそ、彼女からじわじわと攻撃を受けた桐壺更衣も藤壺も、精神的な消耗は相当なものだった」
 真琴氏は実体験でも語るようにしみじみと言った。
「しかし藤壺は桐壺更衣のように殺されやしなかった。体調を崩した彼女は、すぐに里帰りを許された。桐壺帝は、最後まで宮中に置いていた桐壺更衣があっけなく死んでしまった教訓から、藤壺に配慮したのかもしれない。でも、この判断こそが、全ての始まりであり、同時に、すべての終わりでもあった」と真琴氏は言い、下唇を噛んだ。
「藤壺の里帰りを聞いた光源氏は、いてもたってもいられなくなる。御簾1枚で隔てられた宮廷生活を考えれば、藤壺との密会を果たす願ってもないチャンスだった。聡明な彼は、父の帝が藤壺を心配していることくらい承知していた。しかし熱い恋心で埋め尽くされている彼の魂は、完全に抜けてしまっていた。とても理性的な判断ができる状態ではなかった」

京都物語 199

 窓の外では順調に雲が広がり、気がつけば空一面に行き渡っていた。灰色はみるみる濃くなり、再び雪が舞いそうな気配を感じる。さっきの陽光が夢の中の出来事のようだ。
「ある日藤壺は体調を崩してしまった」と真琴氏は天候の変化に頓着する様子もなくそう言った。「先帝の娘である彼女は、桐壺更衣よりも恵まれた境遇にあるはずだった。だがそんな彼女でも、宮中では何かと気苦労が多く、特に桐壺帝の正妻格である弘徽殿女御(こきでんのにょうご)からの妬みは、耐え難いものがあった。弘徽殿女御といえば桐壺更衣を極限まで追い込んだ人物の1人だった」
 僕はふと、レイナが、平安時代の天皇は複数の女性を妻に取ることができると言っていたのを思い出した。あの時僕は、一国の主である帝には好色が許されるのだと解釈した。しかし実際はそう単純な話ではなく、多くの皇族を残さなければならない使命が帝にはあったのだとレイナは説明した。それゆえ帝は、高貴な身分でかつ優秀な遺伝子をもつ女性と結ばれなければならなかった。あの時レイナは、天皇も哀れなものだと言った。僕も全く同感だった。
 それを考えると、桐壺更衣への愛は規格外だった。彼女の父は大納言という身分であり、帝の妻となるには十分な位ではなかったのだ。にもかかわらず桐壺帝が妻にしたのは、つまりは純愛だったということだ。そうして真琴氏はその純愛を「運命」と位置づけた。桐壺更衣は光源氏を産み落とすためだけに、そのようなロマンスが与えられ、そうして役割を終えるとあっけなく死んでしまった。
「ただ、さすがの弘徽殿女御も、藤壺はそうあからさまに攻撃できなかった」と真琴氏は言った。「彼女でさえも『人笑へ』を恐れていたから」

京都物語 198

「光源氏への想いを綴った部分は、大切にしまっておきたかった。だが、何かの拍子で桐壺帝の目にさらされる危険を思うと、捨てざるを得なかった」と真琴氏はしんみりと言った。それから机の上の観葉植物の角度を陽に当たるように変え、いとおしげにその葉をさすった後で、こっちを向いた。真琴氏の顔はやはり影になっていて細かい表情まではうかがえない。言葉には悪魔が宿ると真琴氏は指摘したが、今の真琴氏の顔にも悪魔が宿っているように見えなくもない。さっきまではやつれが感じられたが、どうやら静かな迫力が復活しつつあるようだ。陽光が真琴氏に力を与えたのかもしれない。
「しかし、藤壺が日記を反古にした理由はそれだけではない」と真琴氏は話を続けた。「彼女は言霊の怖ろしさにそれとなく気づいていた」
 レイナは背筋を反らすように伸ばして話の中に入り込んでいる。
「書かれた言葉が現実に起こる。もちろん、そのことは、光源氏を愛している藤壺の心を密かにときめかせもした。だが、彼女の心は、それ以上に世の『人笑へ』となることを恐れていた。桐壺帝の正妻である自分が、まさかその皇子に現を抜かしているだなんて。もしそれが明るみに出たとしたら、これ以上の笑い草もなかろう。そうなればいっそのこと死んだ方がましだ。藤壺はそこまで考えた。だからこそ、日記を破棄する覚悟が沸き上がった」
 陽光は再び翳りを見せ始めた。窓の外の空には再び雲が広がろうとしている。風も出てきたようだ。木の枝に積もった雪がゆっくりと払い落とされている。
「ところが、藤壺の考えは甘かった」と真琴氏は言った。「すでに彼女は言霊に呑み込まれていた。密かに記した言葉は、やがて現実のものとなっていく」

京都物語 197

「その頃藤壺は密かに日記を綴っていた。それは孤独の言葉を吐露することのできる唯一の場だった。平安朝の女流貴族にとって、日記を書くことは特別なことというわけでもなかった。しかし帝の妻である藤壺には、他とはまた違う意味合いがあった」
 背後から降り注ぐ日差しのせいで、真琴氏の表情は影になっている。ストーブの炎を反射するオレンジのべっこうの眼鏡だけが、存在感を保っている。
「いつしか藤壺の日記には、光源氏への切ない恋心が綴られるようになった。不思議なことに、言葉がひとたび紙の上に落ちると、あとは次から次へと言葉が生まれ、やがて数珠のように連なっていった。文章となった想いを読み返してみると、いかに自分が光源氏を愛しているかが恥ずかしいくらいによく分かり、体が熱くなった。藤壺には幼い頃の光源氏の記憶が深く染みこんでいた。そうして時とともに頼りがいのある男性に成長してゆくさまを間近に見るにつけ、心がぐらぐらと揺れた。それから、御簾1枚で隔てられてしまった今の苦しさと、何度かそれをくぐり抜けて突入してきたあの方の腕のぬくもりが蘇ってきた。その時は必死に抵抗するしかなかった。だがこうやって日記の中の言葉と対面してみると、本心はまた別のところにあったのだと痛切に感じた」
 真琴氏はそこまで話したところで背後を振り返り、眩しそうに窓の外を見た。その首筋にはこの女性がこれまで堪え忍んできた人生の跡が刻まれていた。「浅茅しのぶ」というペンネームは真琴氏にふさわしいと納得した。
「言葉の中では藤壺は自由だった。愛する人と2人きりになり、談話を交わし、抱き合うことができた。そして最後には光源氏と1つになった。あたたかく、やさしさに満ちた世界だった」と真琴氏は外の光に目を遣ったままそう言った。

京都物語 196

「つまり人間の欠落を埋めるのは、悪魔の宿る言葉、ということになる」
 そう結論づけた真琴氏は大きくため息を吐いた。ずいぶんと消耗している様子で、表情にも疲れが見て取れる。だが瞳だけは黒々としている。最後まで語り抜くのだという決意が表現されている。すると机上に並べられた辞書たちが突如として光に照らされた。さっきまでの吹雪は落ち着きを見せ、愛宕山の木々に積もった雪がきらきらと陽光に輝いている。それにしても短時間でずいぶんと雪が降ったようだ。橘美琴のシトロエンはこの雪道を走破することができるのだろうか?
「でも、人間の欠落を補うのが悪魔の言葉だということに気づいた時には、すでに手遅れだった。もう後戻りなどできなかった。あの時私は、全身全霊を込めて『藤壺物語』に傾注していた」と真琴氏は絞り出すように言った。
「藤壺は光源氏を求めていた。次にあの方がこの御簾の中に入ってきたとしたら、もはや退けることはできまいと恐れていた。どうして桐壺帝の妻になったのだろうと、自らを問い詰めた。帝と出会わなければこのような許されぬ恋に落ちることもなかった。そう考えると、呪うべきは運命だとも思えた」
 真琴氏はそう言って、再び飲み物を要求した。橘美琴はさっと立ち上がり、デキャンタに残った最後のカルピスを注いだ。真琴氏はストローでゆっくりと吸い上げ、味をたしかめるように飲んだ。
「藤壺は苦しみの中で桐壺更衣の声を聞いた気がした。桐壺更衣の人生への悔恨は、死してもなお冷めることはなかったのだ。彼女は帝に愛される苦悩を藤壺に託すことで、せめてその魂を現世に残そうとした。その声を藤壺は聞き取っていた」と真琴氏は言い、膝の先端に目を落とした。
「しかし、藤壺の苦悩は、桐壺更衣とは根本的に異なっていた。彼女は桐壺更衣の産んだ皇子を愛してしまったのだから」

京都物語 195

「ただ、言葉が人間の欠落を補うと言ってしまうと、いかにも聞こえがいい」と真琴氏はあくまで話を先に進めた。「しかし、聞こえのいい言い方というものは信用できない。そもそも人間の欠落とは、そんなに単純ではない」
 レイナも橘美琴も固唾を呑んで話に耳を傾けている。2人はまるで真琴氏の思いのままに操られている人形のように見える。僕は、同じように真琴氏の話の虜となったであろう明子の姿を2人に重ねて想像した。
「人間とは科学では説明しきれない」と真琴氏は言い切った。「もちろん、猿だって科学では説明しきれない。そもそも科学が万物を説明できるという思想自体、青ざめている」
 いつだったかレイナが僕に向かって同じようなことを言ったのをふと思い出す。大事なことは言葉では説明できないと。
「だが、人間は猿よりもはるかに非科学的だ。なぜなら科学とは人間が作り上げた自己完結的な言葉だからだ。科学とは1つの便宜的な物差しでしかない。あるいは便宜的な比喩だ。つまり、どこまでも謎めいた人間を、人間の作った言葉できちんと説明しようとすること自体矛盾している」
 真琴氏の理論は僕にとっては抽象的に過ぎる。しかし2人の才媛にはしっかりと伝わっているようだ。橘美琴はついさっき母親に食ってかかりそうになったことが何かの間違いだったかのように、従順な眼差しを向けている。それは信者の瞳にさえ見える。
「だとすれば、人間の欠落を補うのに、科学以外の言葉が必要になる。便宜上の言葉ではなく、重みのある真実の言葉だ」と真琴氏は言い、2人に向けて力のこもった視線を投げかけた。
「ほんものの言葉とは、それ自体呼吸をしている。そこには神的なものが宿っている。古代から我々はそのような言葉の中で生きてきた。そして時に悪魔が宿ることもある。だが、悪魔の宿る言葉こそが、真実の言葉なのだ。なぜなら、人生の本質は苦悩だからだ」

京都物語 194

 そういえばこの部屋には時計がないことにふと気づいた。ここへ来ていったいどれくらいの時間が経っただろう。あっという間だったようにも思えるが、ずいぶんと長いこといるような気もする。僕は真琴氏にことわりを入れてソファを立ち、御手洗を借りることにした。ドアを開けて廊下に出た途端、凍え上がるほどの冷たさに攻め囲まれた。十分に磨かれた廊下の突き当たりには窓がある。だが、吹雪模様の外界から光は入ってこない。とはいえ、冷気にさらされると、新鮮な空気が脳の中に取り戻されたように感じられる。
 僕は一体何のためにここに来ているのだろうと、立ち戻って考えてみる。すると明子の細い首筋がぼんやり浮かび上がってくる。そうだ。僕は失われた過去を埋めるためにここへ来ているのだ。だが、そう考えれば考えるほど、今自分の立っている場所がひどく見当違いのようにも思われる。僕の目的はほんとうに明子なのだろうか? むしろ彼女を一応の道標としながら、実はもっと別の場所に導かれているのではないか?
「縁とはほんとうに異なもの」とさっき真琴氏の口から出た言葉が、不気味な説得力を持って囁きかけてくる。洗面台に付けられたすりガラスの向こうでは、雪が競い合うかのように地表に向かっている。
 再び部屋に戻った時、もわもわした暖気に包み込まれた。橘美琴の手によって満水にされたやかんは、せっかちに水蒸気を吹いている。
「人間は猿よりも不完全なもの」と真琴氏は強めの口調で言った。僕が外へ出ていた間にも話は進んでいたようだ。「たとえば猿は無意味な殺し合いなどしない。彼らは本能的に種の保存を優先する。それに拒食も過食もない。必要な食料だけを必要な時に食べる」
 レイナも橘美琴も、真琴氏の話にじっと耳を傾けている。
「人間の不完全さは、何かによって補われなければならない。もちろん猿が持ち得ないものによって」と真琴氏は言った。「それは何か?」
 レイナも橘美琴も神妙な面持ちで考え込んでいる。僕はその隙を見てソファに腰を降ろした。すると真琴氏は自らで答えを言った。
「それは、言葉」

京都物語 193

「宮中に居座ることは認められた光源氏も、藤壺の御簾の内側に入ることまでは許されなかった。元服を済ませて結婚までしていたのだから。彼は毎晩その薄い布越しに聞こえてくる琴の音や、かすかな話し声に、熱い思いをたぎらせるばかりだった。思いはたった1つ。どうにかして自分の恋心に気づいてほしい。ただそれだけだった。光源氏には、藤壺も自分を恋慕しているはずだというかすかな手応えがあった。それゆえ、宮中でたまたますれ違った時など、藤壺の仕草が期待に満たないことがあれば、それだけで胸が焼き焦げそうだった。あなたはもはや私のことを忘れてしまったのですか、と心の底から叫びたくなることがしばしばだった。だがそんなことがまさかできるはずもない。それで処理できぬ苦しみを抱えて寝ることとなった。毎晩のように目覚めがちになり、昼間も意識がしゃんとしないことが続いた。彼の理性はそうやって少しずつ崩れていった」と真琴氏は言い、窓の外に遣っていた視線を再びストーブの炎に戻した。
「ところがもう1つ問題があった」と真琴氏は声をより低くした。「藤壺の方も自らの恋心に苦しんでいた。光源氏は世間の評判どうりに輝きに満ちていた。欠点を探しても見あたらない。あえて言うなら欠点がないことが唯一の欠点だった。光源氏のような人物と出会ったのは初めてのことだった。これほどの人物とは二度と出会うことができないだろうという寂寥感は、思慮深いはずの藤壺の心に青白い炎を燃やした。光源氏を思えば思うほど、藤壺はそのあふれんばかりの思いを冷静な表情の中に封じ込めるようになった。いつしか彼女は感情を失った人間の顔を持つようになった。そのことが光源氏の不安をますますあおり、彼を恋の深みに落とし込んだ。もはや2人は、決して抗うことのできない運命の螺旋階段を一緒になって転げ落ちていた」

京都物語 192

「光源氏は、妻である葵の上の方にはどうしても足が向かない。藤壺のことで頭の中が埋め尽くされていた。葵の上の家である左大臣邸には週に2、3回通い、その他は宮中にいるという生活を送った」
 真琴氏がそう言ったところで、レイナが「平安時代は通い婚といってね、夜になって夫が妻の元に通うというスタイルだったの」と僕に向けて注釈を加えた。彼女はいつかも同じことを言った。平安時代の貴族の女性たちは、だからひたすら待たなければならなかったと。その風習は、決して幸せとは言えなかったレイナの結婚生活の記憶とどこかで重なるのかもしれない。
 真琴氏はそんなレイナを横目で意識しながら語りを再開した。
「光源氏は、皇室から降下させられた身であるわけだから、宮中に居続けるというのは特例中の特例だった。それを認めたのは、桐壺帝だった。彼は息子である光源氏が可愛くて仕方なかった。その盲目的とも言える愛が後になって大きな仇となることに、帝は気づくはずもなかった。つまり彼は極めて人間らしい帝だった」 
 そこまで話すと真琴氏は顔を窓の外に向けた。雪が窓に叩きつけられていることに何の興味も持たないかのごとく冷淡な顔つきだ。あるいは、窓と自分との間にできた空間を見ているのかもしれない。
 橘美琴はそんな母親の横顔を心配そうに観察している。阪急嵐山駅で初めて会った時の瞳の輝きは、もはやどこかへ消えてしまったようだ。
「つまり、藤壺と光源氏は御簾によって隔てられた」と真琴氏は窓ガラスを見ながらしみじみとつぶやいた。「それにしても御簾という仕切りは、何と心を乱すものでしょう。向こうが透けて見えるほどの薄い布が男女を隔てるというのですから」

京都物語 191

「どれだけ愛し合っているかなどということは、当人たちには見えにくい。むしろ、小さなことでくよくよしたり、逆に安心したりという感情の起伏を繰り返すのが愛する2人というもの」と真琴氏は実体験でも語るかのように漏らした。
「だが、周りにいる者には、2人の関係はよく見える。この頃、光源氏は、そのまばゆいほどの美しさに『光る君』と呼ばれた。そして藤壺の方は、光源氏といつも並んでいて、しかも帝の格別な寵愛も受けているということで『輝く日の宮』と称された。恋をしている男女は、自分たちも気づかぬところで特別の輝きを放っている」
 外に吹く風が窓を叩き始めた。空はもうほとんど黒色と言った方がいいくらいで、雪が窓ガラスに打ちつけられている。外が暗くなればなるほど、この部屋の明るさが際立ってくる。
「だが、『光る君』とか『輝く日の宮』と称した周囲の者たちは、光源氏と藤壺の睦まじさを手放しで賞賛したわけではない。美しいものの影には必ず醜いものが存在する。明るさの影には闇がある。人間というものは、輝かしい瞬間から堕落が始まる。そんな人間の原理を周囲の人たちはそれとなく感じ取っていた。だからこそ彼らはきらびやかな言葉をあえて光源氏と藤壺に充てた」と真琴氏は言い、籐のリクライニングチェアをゆっくり回転させてストーブの方に体を向けた。炎がべっこうの眼鏡に再び映り始めた。
「だから、光源氏が元服を済ませ、葵の上という権力者の娘と結婚した時、藤壺の心は複雑だった。これまでのように気安く戯れることが出来なくなると思うと、もの寂しさがこみ上げてきた。しかし、一方で安心もしていた。自分は帝の正妻なのだから、これを機に身のほどをわきまえなければならないと、気を引き締めた。ところが、そんな藤壺の心境とは裏腹に、光源氏の心は乱れるばかりだった。藤壺はもはや自分のものではないという虚しさは、かえって恋心を駆り立て、激しく燃えさかり始めた」

京都物語 190

「宮中に上ったばかりの藤壺の姿は、当然ながら亡き桐壺更衣と重なる。ほとんど一致すると言ってもいい」と真琴氏は言った。まったく、物語を語る時の真琴氏にはまるで別の魂が宿ったかのように強い生命力がみなぎる。頬は紅潮し言葉には静かな迫力が感じられる。知らず知らずのうちに物語の世界に引き込まれてしまう。
「そして、藤壺の姿はもう1人の女性と重なる」
 真琴氏はそう続け、にぎりこぶしを口元にあてがって軽く咳払いをした。
「紫式部ですね」とレイナはすぐに答えた。真琴氏はやはり瞳だけレイナの方に向けた。レイナはソバージュの髪を耳の後ろにかき上げ、真琴氏に注目した。シルバーのピアスがきらきらと光り、香水の甘い香りがふわりと立ち上がった。胸はかすかに膨らんでいる。
「入内することは、紫式部にとっては不本意だった。主人には先立たれていたし、当時の女性としては高齢でもあった。紫式部は、宮中で、深い孤独と同居することになる。たしかに、そんな紫式部に比べると、物語の中の藤壺は若い。しかし、その孤独な魂は一致している」
 真琴氏はそう言って、音を立てずに息を吐き出した。
「桐壺帝は、藤壺に、光源氏の実母のように睦まじく接してほしいと願う」と真琴氏は話を先に進めた。「光源氏は、春には花が咲いたと、秋には木の葉が色づいたと、四季折々の風物にかこつけて、自分の恋心を藤壺に伝えようとした。この世のものとは思えぬほどに美しい光源氏の姿を間近に見るにつけ、藤壺は胸が切なくなることもありはしたが、まさか自分が帝と亡き前妻との間に産まれた子を心から愛するなどとは思いもせず、元服を目前に控えた光源氏との戯れの中に身を投じた。しかし、2人には、決して抗うことのできぬ運命の影がじわじわと忍び寄っていた。そのことに2人はまだ気づいてはいなかった」

京都物語 189

「もちろん明子さんが藤壺のことを知らないはずはなかった」と真琴氏は言った。「だから『藤壺物語』を語って聞かせた時点で、私の過去にどんなことが起こったのか、そのあらましを呑み込んだのもうなずけた。ただ、明子さんは単にあらすじを理解しただけではなかった。言霊の世界を肌で感じ取っていた。彼女もまた、言葉の世界の恐ろしさを、身をもって体験していた。そういう意味では、私たちはつながっていた。そんな感覚を共有したのは、明子さんが初めてだった」
 真琴氏はそこまで話してから娘の方にくるりと顔を向け、「悪いけど、冷たい飲み物をもってきてちょうだい。喉が乾くの」と声をかけた。橘美琴は、トレイの上に置いていたワインを入れるのに適していそうなデキャンタを持って、母親のグラスにゆっくりと注いだ。溶けかけていた氷たちがグラスの中で転がる音が部屋に響いた。
「亡き桐壺更衣のことを片時も忘れることのなかった桐壺帝は、なにもかもが嫌になりかけた頃、藤壺の存在を知る。彼女は不思議なまでに桐壺更衣に似ている上に、高貴な身分の出ということもあって、ごりっぱな様子でいらっしゃる。その非の打ち所のない女性に、桐壺帝も次第に心を慰められてゆく。喪失の悲しみを埋めるには、新たな愛を見つけ出すしかなかった」と真琴氏は淡々と語り出し、ストローでカルピスを飲んだ。
「光源氏も帝について藤壺の元を訪れるたびに、他の女御の中に身を隠すようにしている義母の姿を垣間見る。そこにいる女性たちはそれぞれに皆きれいだったが、その中でも藤壺は本当に若く、かわいげな様子で、光源氏は自然と目がいってしまうのだった」
 真琴氏はそう言って、毛糸のブランケットを膝に掛け直した。
「光源氏には母の記憶はないが、その母に似ていると周りから言われるのも嬉しくて、いつも一番近くで姿を見ていたいと幼心に思った」と真琴氏は語り、視線を再び僕の頭上に向けてこう言った。「それが藤壺と光源氏の運命のはじまりだった」

京都物語 188

「ママ」
 今まで肩に力を入れて正座していた橘美琴が突然口を開いた。
「さっきのお父さんの話、それから、ママが過去に罪を犯してしまったっていう話、そして、藤壺の人生こそママの人生だっていう話、それをちゃんと聞きたい」
 真琴氏はストローでカルピスを最後まで吸い上げた。だが、橘美琴はさっきまでとは違って母親をじっと見つめているだけだ。
「私は、こう見えてもいっぱしの小説家だった」と真琴氏はまぶたの力を緩めてそう言った。「私は今、私のストーリーを語っている途中。脱線しているように聞こえる話も、じつはちゃんと意図されている。私の文脈に従って語らなければ、私のストーリーはきちんと伝わらない。小説というものは、結末よりも途中こそが重要なの。だから、あなたには最後まで黙って聞いていてほしい」
 橘美琴はよほど何かを言いたそうに唇に力を込めた。彼女は話の結末を急いでいる。しかし長年の間母に忠誠を尽くしてきた経験が彼女を踏みとどまらせている。彼女は母を尊敬しているのだ。2人の間には誰にも踏み込むことができないほどの強いつながりがある。
 すると真琴氏は僕の方に黒々とした瞳を向け、「ヤマシタさん」と声を掛けてきた。心の奥にまで不気味に響き渡りそうな声だった。
「じつはもう1つ嘘をついてしまった」と真琴氏は言った。「過去に自分の犯した罪を誰にも打ち明けたことがないと言ったけど、よくよく思い起こせば、1人だけ打ち明けた人がいた」
 真琴氏は笑顔のような表情を浮かべて「明子さん」と言った。「彼女は私に強い興味を持った。じつに勘の鋭い女性だった。私には誰にも言えない過去があることもすぐに見抜いた。もちろん、私はそれを隠し通すつもりだった。でも、いつしか、この人には話さなければならないような気がしてきた。彼女もまた、私と同様、深い闇に迷い込んでいた」
 明子の物憂げな顔が真琴氏の姿の中に甦ってきた。
「私は明子さんに『藤壺物語』を語って聞かせた。そうして、この物語こそ私の人生だと注釈を加えた。驚くべきことに、彼女はそれだけで大体のことを理解した」

京都物語 187

「紫式部は、日常的儀式として占いを登場させたのではない」と真琴氏は言い切り、再び僕の頭上に視線を遣った。「『源氏物語』における運命性を強調しようとしたのだと思う」
 真琴氏はそう言って、何度か小さくうなずいた。
「『源氏』という姓は、天皇の子でありながら、やむをえず臣下に降りることになった者に与えられた。つまりそれだけで敗者を意味する。桐壺帝は、高名な占い師の観相を参考にして、身分の高くない桐壺更衣との間に産まれた子にあえてこの姓を与え、皇室から離脱させた」
「ということは、『源氏物語』というタイトルがすでに、敗者の物語を表しているんですね」とレイナはしんみりと言った。

おほやけのかためとなりて、天の下を輔弼(たす)くる方にて見れば、またその相違ふべし

 真琴氏はさっき暗唱したばかりの一節を繰り返した。僕にはそれが何かの呪文のように聞こえた。その後で真琴氏は「天皇になると国が乱れる。だからといって補佐役というわけでもない」と自らその部分を訳した。
「この観相結果には矛盾が含まれるように聞こえる。でも、それは決して間違いではなかった。光源氏は天皇にはなれなかったが、やがては天皇の父となった」と真琴氏は語気を強めた。
 『源氏物語』も『藤壺物語』も読んだことのない僕には、真琴氏が何を言っているのか全く分からなかった。天皇にならない者が、どうして天皇の父親になれるというのだろう?
「高麗の相人の観相結果は光源氏の人生を見事に予言する。それはすなわち、物語全体を包み込む運命だった。ならばどうしてこんな重要な判断を、帝ではなく、占い師にさせたのか?」と真琴氏は言い、深遠な瞳を僕に向けた。「藤壺の登場が運命によって引き起こされたことを暗示しようとしたのだ」

京都物語 186

「光源氏は7歳で読書始という儀式を行った。美貌に加えて、世にないほどの聡明さに、桐壺帝は「恐ろし」とさえ思われた。桐壺帝が、この子をどのような地位に置けばよいものかという判断を占い師の観相に委ねたのも、その時のことだった」
 今まで自らの過去について語っていた真琴氏は、話の矛先を少しだけずらした。するとレイナは「高麗の相人のことですね」と相づちを打った。
「もちろん、平安時代において占いは日常生活の上で欠かせないものだった。ましてや貴族の間では、様々な節目において活用された」と真琴氏は言い、左手の甲を右手でさすり始めた。
「安倍晴明が有名ですよね」
 レイナがその名前を口にすると真琴氏は「彼は隠陽師として今でも崇められている」と珍しく同調した。
「で、光源氏には、どんな占いの結果が出たんですか?」と僕は思わず聞いた。すると真琴氏は僕の顔をしばらく凝視した後で、静かに目を閉じ、『源氏物語』の一節をゆっくり、かみしめるように朗読した。

国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。おほやけのかためとなりて、天の下を輔弼(たす)くる方にて見れば、またその相違ふべし

 僕が何も言えないでいると、レイナが簡潔に訳してくれた。
「帝王になる相があるが、そうなると心配すべき乱れが国に起こる。かと言って、政治を補佐する相というわけでもない」

京都物語 185

「ご主人は、たしか、京都国立博物館の副館長でいらっしゃったんですよね?」とレイナは言ったが、真琴氏は、ただ、炎を見つめるばかりだった。真琴氏はそのままの表情で「お父様が亡くなられてから、私の人生は大きく変わってしまったと、あなたにはずっとそう言い続けてきた」と娘だけに向けてそう言った。そうしてストローに口を付けてカルピスを飲んだ。その姿は僕に蝶を連想させた。小学生の頃に開いた図鑑のページに載っていた、オレンジ色の斑点のついた優美な蝶だ。
 真琴氏はグラスを台上に戻し、僕と橘美琴の間にできた空間を見つめつつ、「あれは、厳密に言うと、正しくなかった」とつぶやいた。「私の人生が思いもよらぬ運命に引き込まれていったのは、じつは、お父様が亡くなる前からだった」
 そう言って真琴氏は再び目を閉じた。べっこうの眼鏡も、部屋の風物も、彼女が目を閉じた途端に生気がなくなってゆくようだ。
 橘美琴はすっと顔を上げ「嘘をついてたということ?」と首を傾けた。
 真琴氏は依然として目を閉じたまま、「そう、嘘をついていた」と娘と同じ声で答えた。レイナは親友に何か言葉をかけようとしたが、直前でそれを呑み込んだ。
「レイナさんがおっしゃった通り。藤壺の人生は紫式部の人生であり、そうして、私自身の人生でもあった。そして・・・」と真琴氏は言い、目を開けた。「私も藤壺と同じく、過去に罪を犯してしまった。それは誰にも打ち明けなかった。もちろん、あなたにも、お父様にも」
 窓の外は、降り続く雪で一面真っ白になっていた。

京都物語 184

「私が『藤壺物語』に惹きつけられたのも、そんな世界が伝わってきたからです」とレイナは彼女らしいハスキーな声を出した。「さっきも言いましたが、『藤壺物語』を読んでいるうちに、それは藤壺の心なのか、自分の心なのか、区別がつかなくなっていきました」
 大きく取られた窓の前には無垢材でこしらえられた机があり、ブックシェルフには分厚い辞書が何冊か並んでいる。日本語だけでなく様々な言語の辞書が揃えられている。それらの横には小さなポットに生けられた観葉植物が白熱灯の光をけなげに反射している。そんな風物たちが今頃になって視界に入ってきた。
 すると真琴氏は「そもそもなぜ私が『藤壺物語』を書き始めたのか、じつはその動機すら定かではない」と今のレイナの発言を素通りして言い、それからようやく目を見開いた。同時に、オレンジのべっこうの眼鏡が息を吹き返したかのように瞳の周りで輝き始めた。
「桐壺更衣が光源氏を産んだ後にあっけなく葬られたのと同じように、私の人生にはあの作品を書き上げることが、予め決められていたのかもしれない」
 そう言って真琴氏は薄く笑った。今まで思い詰めていた何かをふっと諦めたような笑いだった。
「ねえ、美琴」
真琴氏はかたくなに正座している娘の方を向いた。橘美琴はピストルに撃ち抜かれたかのごとくびくりと体を震わせ、そののちにゆっくりと顔を上げた。
「お父様のこと、覚えてる?」と真琴氏は表情を変えずにそう言い、カルピスで口を潤した。
「忘れるわけないじゃないですか」と橘美琴は声をうわずらせた。すると真琴氏は「ほんとうに素晴らしいお父様だった」と続け、ストーブの炎に目を遣った。外では風が出てきたらしく、せっかく積もりかけた木々の雪を払い落としてしまっていた。

京都物語 183

 真琴氏は僕の頭上の空間を漠然と眺めているようで、じつはその視界に娘の姿を捉えている。「藤壺の人生こそ真琴先生の人生」というレイナの言葉が真琴氏の心に何らかの影響を及ぼしたのは間違いない。
 凍りつくかのような沈黙がしばらく続いた後で、真琴氏は瞑想するかのように静かに瞳を閉じ、肩の力をゆっくりと抜きながら、再び口を開いた。
「『藤壺物語』の『私』は、原文の朗読に専心するうちに、作品世界にぐいぐい引き込まれてゆく。そうしていつしか『私』の心は藤壺の心と重なってゆく」
 橘美琴は座禅を組むかのようにじっと正座して母親の言葉に傾聴している。
「私が浅茅しのぶという名前で小説を書き始めた頃は、まだ野心があった。『チャイコフスキーの恋人』は、それを胸に燃やしながら書き上げた。その時の私には冷静な判断などできなかった。だから、言霊の世界に呑み込まれてしまっていたことにも気づなかった。『藤壺物語』の執筆が中盤にさしかかった頃には、野心などということは、ほとんど意識の外に追いやられていた。私はもう自分を失っていた」
 真琴氏は依然として目を閉じたままだ。
「だから、あの作品が賞を受賞したと聞いた時には・・・もはや私の心と体はボロボロだったのだが・・・実に意外に思われた。あの作品は、後で読み返してみると、『源氏物語』を訳したものにすぎなかった。それゆえ、なぜそんなものが評価されたのか、かえって変な思いがした」と述懐した。浅茅しのぶはやはりこの人だったのだというあたりまえのことを、僕は今になって正式に諒解した気がした。
「あの作品は作り物語の仮面をかぶった実話だった。レイナさんが今おっしゃった通りのこと」と真琴氏は言った。「言霊の世界の中では、作り物と実話の明確な区別など存在しない。そこが、読み手に不思議な感動を与えたのだと思う」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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