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京都物語 239

「いえ、慰めというより、あの時私は『源氏物語』の中に生きていたと言った方がいいのかもしれない」と真琴氏はうつむき気味に述懐した。「貴博さんを愛していた現実の世界と、藤壺が光源氏と密会した作品の世界の区別は、私にはなかった。だからこそ、無我夢中で『藤壺物語』を書き上げることができたの。あの時の私の感覚はこうだった。『源氏物語』も『藤壺物語』も、そうして逃げ場を失った私の人生も、それから藤壺という女性を作り出した紫式部も、すべて同じ世界に含まれていた。それはさっきから何度も言っているように、言霊の世界だった」
 そこまで話した時、真琴氏は娘に声を掛けた。「レースのカーテンを閉めてもらえないかしら。眩しくて目が疲れてきたの」
 橘美琴は、最初は少し慌てたようだったが、真琴氏の要求を聞いてからすぐにその通りに動いた。スイセンの花の模様が薄く入ったレースのカーテンが、大きく取られた窓を覆った。降り続く雪はカーテン越しに透けて見える。外の景色が白くなるにつれて、真琴氏は眩しさを感じたのだろう。橘美琴は自分の席に戻る際に、アロマミストの水がなくなっていることに気づいた。彼女は木製のキャビネットの中から交換用のリフィルを取り出し、本体にセットした。するとまもなくして再び霧が蒸散し始めた。この部屋にも正常な時間の感覚が戻ってきたように思われた。橘美琴が席に着くのを横目で確認して、真琴氏は話を続けた。
「光源氏との密会の後、藤壺は懐妊する。それは夫である桐壺帝の子ではなく、光源氏との不義の子だった。事実を知らない桐壺帝は、並々ならぬ様子で喜ばれた。そして新たに産まれた皇子と光源氏を比べて、『優れている者同士はなるほどよく似るものだ』とさえお思いになられた。藤壺の苦悩は、当然、深くなるばかりだった」
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寒い夜です

 今年も残すところあとわずかになりました。
 皆様も、学校や仕事に縛られない、思い思いの時間を過ごされていることでしょう。

 そういえば今年の3月に、比叡山延暦寺を訪れました。延暦寺といえば、毎年大晦日に「ゆく年くる年」で除夜の鐘を突く光景が映されるあの名刹です。
 私が訪れた日も、とても寒く、冷たい雨が杉の大木を濡らしていました。
 本堂である根本中堂には、約1200年前に開祖である最澄が熾したと言われる「不滅の法灯」が今なお灯されています。根本中堂の内部は、密教寺院らしく薄暗いのですが、その中にぼんやりとゆらめく炎を見ていると、1200年という時が、手に取るように短く感じられました。それと同時に、最澄の魂はまだそこに生きているようにも思え、寒気すら覚えました。
 
『源氏物語』にも、比叡山延暦寺は登場します。葵の上が六条御息所の物の怪に取り憑かれたとき、それを調伏するために祈祷をしたのはやはり比叡山の高僧でした。
 
 最澄は国の支えとなるような人材を育成するために、密教道場として延暦寺を造営しました。そこは、想像を絶するほどの厳しい修行の場でもありました。
 それと同時に、比叡山は平安京のちょうど北東にあたり、都の鬼門を抑えるという意味もあったようです。平安京の人々もこの霊山を見上げては、自らの魂を震わせたことでしょう。

 比叡山延暦寺では、今頃、年越しの準備をしているところでしょうか。それにしても、このお寺は、やはり年の瀬の冷たい夜がよく似合います。
 
 皆様、どうぞ、よいお歳を。 

京都物語 238

「あの夜ベッドの中で、貴博さんから、お父様がいない時にはこうして一緒に寝てほしいという要求があった。普段は意地を張って私に素っ気ない態度をとっているけど、本心では胸が張り裂けそうなのだと、彼は告白してきた」
 真琴氏はそう言って目を細め、後ろで丸くまとめた髪にそっと触れた。その後で、さきほどと全く同じく、両手をテーブルの上に組んだ。
「私は貴博さんを愛していたわけだから、そのことを聞いて、率直に嬉しく思った。できることなら、私もそうしたかった。でも、その時の私は、返答できなかった。意図的にしなかったというのではなく、どう返してよいのやら分からなかったの。すると、貴博さんは、どうして答えてくれないのかと聞いてきた。でも、そうやってプレッシャーをかけられると、かえって口は動かなくなった。貴博さんは、私の態度に不安を覚えたようだった」
 真琴氏の話を冷静な姿勢で聞いていた橘美琴は、花がしおれるように少しばかりうつむいた。そのうえで弱々しくため息をついた。
「貴博さんの要求に応じたいと思う自分と、もしそんなことになれば、ほんとうに取り返しのつかないことになってしまうと恐れる自分が、双方から声を掛けてくる。さっきも言ったとおり、一番の不幸は1つ屋根の下に住んでいるということだった。私には逃げ場がなかった」
 真琴氏は、娘が今ついたのと同じため息をついた。そうして、こう続けた。
「私にとって、『源氏物語』こそが、唯一の心の慰めだった」

京都物語 237

 真琴氏は頬杖をついていた左手でオレンジのべっこうの眼鏡をかけ直し、それからその手を再び頬杖に戻した。
「貴博さんを愛してしまっていると自覚してからというもの、本心を抑えることに対して、どんどん自信がなくなっていった。しかもその時彼は夏休みに入っていて、家にいることも多かった。私は1日中貴博さんに縛られて生活していた」
 アロマミストが蒸散しなくなったために、部屋の空気が乾燥している。コンタクトレンズを装着している僕の目もぱさつきはじめた。
 この家に来てからというもの、まともな時間の感覚を失っている。まともな時間? 僕はふとそんなところに引っかかった。まともな時間とは何だろう? 
 この部屋の時間は真琴氏中心に動いている。この人が時間を牛耳っているように感じるのは僕だけだろうか? いや、時間だけではない。窓の外に降る雪も、水が切れて停止してしまったアロマミストも、それから、敬虔な信者のように話を聞いているレイナも橘美琴も、すべて真琴氏の掌中で操られているように思えて仕方がない。
 そして僕もだ。だが僕には、なぜ自分が真琴氏の時間に含まれているのか、その意味が分からない。これも明子の望むことなのだろうか?
「気がつけば、あれほどまでに苦しめられた恐怖はなりをひそめ、私はどうすればよいのやら、ほんとうにわからなくなっていた」と真琴氏は錯乱気味に言った。そうして頬杖をやめて、中国茶を最後まですすった。
「お盆を過ぎた、月のきれいな夜だった。その日はお父様は上京され、私は貴博さんと2人きりだった。そうして私たちは初めて、2人で寝た」と真琴氏は言った。

京都物語 236

「でも、その恐怖も、時間とともに形を変えていった」と真琴氏は言い、唾を飲み込んだ。「不幸なことに、私たちは1つ屋根の下で暮らさなければならなかった。私は貴博さんと毎朝挨拶を交わし、お父様の朝食を作る。貴博さんは朝食も取らずに学校に行く。お父様に尽くさなければと思いながらも、貴博さんを見送らなければならない。その、何気ない日常の行為が、私の心をずたずたに切り刻んだ。そうやって私はお父様と貴博さんの間で板挟みになって、ぐらぐら揺れた。そのたびに疲弊し、心のエネルギーが著しく消耗してゆくのを感じた。もちろん、お父様のことは尊敬し、愛していた。それは間違いのないこと。でも、それ以上に貴博さんへの思いが心をえぐった。この人のことを好きになってはならないという思うこと自体、すでに愛してしまっているのよね。『源氏物語』の中にこんな和歌が引用されている」

思はじと 思ふも物を 思ふなり 思はじとだに 思はじやなぞ

「あの人のことを忘れてしまいたいと思うこと自体、強く愛している証なのだという複雑な心情を詠んだ歌ね。その時の私の心には、痛いほど染みたわ」と真琴氏は言い、黒い唐木のテーブルの上に左肘を置き、頬杖をついた。真琴氏の頬杖姿は、なぜかこの人を若く見せた。
「私は貴博さんの聡明さに憧れさえ抱いていたし、その瞳だってどこまでも優しかった。何より、彼には、未来を感じさせられた。いったいこれからどんな人生を送ってゆくのかワクワクさせられるの。願わくば彼の近くでずっと見届けたいと思わせる、そんな魅力に満ちていた」

京都物語 235

「貴博さんが自分の部屋に戻った後、気味の悪い静けさに包まれた。それは束の間の静けさだった。まもなく、私の心に嵐が襲いかかった。それも、ちょっとやそっとの嵐ではない。私の全てを粉々に打ち砕いて吹き飛ばすような、真っ黒な砂嵐。本当に音が聞こえたの。それはもう、すさまじい音だった」と真琴氏は言い、両手で耳を塞いだ。真琴氏が落ち着きを取り戻すのに、しばらく時間を要した。真琴氏は息を1つ吐いてから、改めて藤壺の和歌を口ずさんだ。

世がたりに 人や伝へん たぐひなく うき身を醒めぬ 夢になしても

「藤壺の本心は『うき身』にあるのだと解釈していた私の頭は、その砂嵐によってごちゃごちゃにかき乱された。そうして、その轟音の後に残ったのは『世がたりに 人や伝へん』という言葉だったの」と絞り出すように言った。
「嵐が去った後、私は放心していた。気がつけば、貴博さんへの恋心は、すべて恐怖へと変わっていた。ある程度諦めはついていたはずだったけど、実際に彼とそういう関係になってしまった時、取り返しのつかないことをしてしまったという念に責め立てられた。私はもはや過去の私ではなくなっていた。私が踏み外した階段の下には、これまでとは全く違う私が待っていた。まず私は、お父様に知られることを何よりも恐れた。もしそうなれば、死のうと腹を括っていた。それから、貴博さんが、たとえばクラスメイトに話したりする可能性もあった。私が愛した人は、まだ高校生だったの」
 真琴氏はさっきは耳にやっていた手を、口にあてがった。

京都物語 234

 真琴氏は童謡でも口ずさむかのように、藤壺の和歌を再度朗読した。

世がたりに 人や伝へん たぐひなく うき身を醒めぬ 夢になしても

 真琴氏は和歌の余韻を表情に引きずりながら話を続けた。
「私は、本心では貴博さんを待っていると自覚していた。貴博さんが私に冷たく当たれば当たるほど、思いは張り裂けそうだった。彼がもう一度私の部屋に入ってくる瞬間を、お腹の底でじっと待っていた。でも、まさかお父様が家にいらっしゃる時にはあり得ないでしょう。だから私は、お父様にも貴博さんにも、自分の心を見透かされないようにと、いつも緊張していた」
 部屋の中は完全に静まりかえっている。
「それが、ある夏の真夜中のこと。苦しみを『藤壺物語』の執筆で慰めている時、部屋の中に誰かが入ってきた。先に寝床についていらしたお父様が起きてこられたのだろうと思って振り向くと、そこにはお父様よりも大きな影が立っていた。その影はゆっくりと私の上に覆いかぶさってきた。私は、初めて彼が部屋に来た時と同じく、何が何だか分からなくなった。でも、あの時とは違って、私は抵抗する力を持たなかった。どうしても体が言うことを聞かなかった。貴博さんはそんな私を抱きかかえ、それから後は、記憶がない」
 部屋は、地底深くの鍾乳洞にいるような沈黙に包まれた。

京都物語 233

 魂は心と違って自分でコントロールできない。身体に染みついて、心よりもはるかに深いところで自己を司っている。時にそれは、他人の魂に共鳴することもある。それぞれの魂は、だから自己を越えたところで強く引かれ合う。その時、心とは、ほとんど無力に近い。
 引きこもりの状態から抜け出し、就職して結花を愛した時、僕はそんなことを突き詰めて考えた。そして、そんな時代が自分にもあったことを、僕は真琴氏の話を聞きながら、まるで他人事のように思い出した。
 すると頬を紅潮させた真琴氏は一気に話を進めた。
「藤壺の本心を聞き分けた時、私はなにやら心地よい気分に包み込まれていた。光源氏を愛する藤壺の思いは、まさしく私の思いだという一体感を感じたの。つまり私は、貴博さんを愛してしまっていた」
 橘美琴は一見何事もなかったかのような姿で座っているが、瞳だけは生気が抜け落ちてしまっている。真琴氏の言う「本心」とは、僕の捉えるところの「魂」に限りなく近いのだと橘美琴を見ながらそう思った。
「貴博さんに倒されたあの夜から感じていた得体の知れない強い感情とは、彼への愛に他ならなかった」と真琴氏は言い直し、残りの中国茶を最後まですすった。「自分の本心をはっきりと認識した時、まず私は、怖いと思った。なぜなら、私は完全に主体性を失ってしまっていたから。私は言霊の力に従属するだけの存在になりさがっていた。私は藤壺と同じ運命を辿るのだという諦めが、私のすべてを黒く塗りつぶした」
 レイナはスローモーションのような動作でボリューム豊かな髪をかき上げた。香水の甘い香りが、思い出したかのように、ほのかに立ち上った。

京都物語 232

 僕はふと、アパートの部屋に長いこと引きこもっていた時代を思い出した。大学を卒業してすぐに、佐織を裏切る形になってしまった時のことだ。佐織は父の介護のためにいったん実家に帰り、僕の司法試験の合格を待ってくれていた。だが僕は、彼女の親友である美咲を愛してしまった。結局、美咲もジャズシンガーになるという夢を叶えるために単身ニューヨークに渡ってしまい、僕は完全な孤独に陥ってしまったわけだが、あの時どうしようもない無気力にうちひしがれていた僕は、不思議な感覚を感じた。心の深いところにある、何かの声を聞いたのだ。
 当時僕は、「自分」とは「心」に他ならないと捉えていた。心、すなわち頭の中にあるものこそが自分なのだという認識に立っていた。だから、心のエネルギーが限りなくゼロになった時、自分の消滅を覚悟した。しかし、心の奥にはまだ何かが眠っていた。それこそが魂と呼ばれるものなのだと気づいた時、身体に正常な重量感が戻ってきた気がした。魂は宿命的に身体に染みついている。つまり「自分」とは「身体」であり「魂」なのではないか。そう考えると、心とは気まぐれで表層的な動きでしかない。
 だとすれば、どこまで堕ちようとも所詮僕は僕でしかない。そう開き直った。自力でアパートから抜け出し、再び社会生活を送るために歩き出すことができたのはそのためだ。
 封印されていた過去を話す真琴氏を見ていると、不意に魂という言葉が浮かんできた。この人が浅茅しのぶを名乗っていた頃から相当の時間が経っているが、その身体に染みこんだ魂はまったく色褪せてはいない。真琴氏は浅茅しのぶのままなのだ。さっき真琴氏は、僕がここにいることを縁だと言った。ひょっとしてこの人は、この瞬間をここでじっと待ち続けていたのではないかとさえ思われた。すると変な胸騒ぎがしてきた。

京都物語 231

「私は、その2つの和歌を何度も何度も声に出して読んだ。光源氏の思いと、藤壺の思い。もう2度と会えないのなら、このまま夢の中に消えてしまいたいという、藤壺との永遠の愛に憧れる光源氏に対して、いくら夢の中に消えてしまおうとも、世の『人笑へ』になることをどこまでも恐れた藤壺。両者の思いの間には隔たりがあると最初私は捉えていた」
 真琴氏はそう言って、ほどいた手を膝の上に置き、ちらっと窓の外に目を遣った。雪はいくぶんか小降りになっているが、黄色と紫の牡丹の花は、しばらく降り続いた雪の重さでげんなりしている。真琴氏は再び視線をテーブルの上に戻して話を続けた。
「しかし、何度も何度も読んでいるうちに、『うき身を醒めぬ 夢になしても』と詠んだ藤壺の思いが、私の心の中に違った響きをもって入ってくるような気がしてきた。藤壺は自分自身のことを『うき身』と表現した。ここにはつらいという意味の『憂き』と、夢の中をさまようという『浮き』の2つの心情が掛けられている。でも、どちらかと言えば『憂き』の方が強かろうというのが、私の先入観だった」と真琴氏は言い、顔をまっすぐ上げた。
「しかし、ある瞬間、ふと心の井戸の底で声を聞いたような気がした。本当の思いというものは、安易に表面には現れない。奥深くに沈んでいるのだ。藤壺の本心は『憂き』ではなく『浮き』だ。彼女は許されぬ恋にさんざん苦しめられた。そして道徳心によって全ての感情を覆い尽くそうとした。しかし、本心だけは身体から離れてあてもなくさまよい始めた。藤壺はそうやって宙に浮く本心を自覚してもいた。そうして、光源氏と同じ、夢の世界に消えてしまいたいと願った。彼女も光源氏をどうしようもないほどに愛していたのだ」

京都物語 230

「藤壺?」とレイナが突然、ハスキーな声を出した。その声は部屋の中に不思議な響きをもたらした。そういえば、真琴氏以外の声を聞いたのは、ずいぶんと久しぶりだ。
 真琴氏はレイナの方に視線だけ送った。だがレイナはそれ以上話を続けるふうもなく、静かに座っている。さっきから何かを言いたそうにしては我慢しているレイナの口から、思わず言葉が漏れたのだろう。真琴氏は「そう、藤壺」とレイナの声に呼応するかのようにつぶやいた。「密会の夜、契りを交わした後で、光源氏は藤壺に和歌を送ったという話は、さっきした通り。もう2度と会えないのならば、いっそのこと、このままあなたと夢の中に消えてしまいたいという心情を詠んだものだった」
 真琴氏はそう言って、さきほど読んだ光源氏の和歌をもう一度繰り返した。

見てもまた あふよまれなる 夢のうちに やがてまぎるる わが身ともがな

「そうして藤壺の方も、光源氏の思いに対応する歌を返した」と真琴氏は低く言い、その和歌を、まるで吐息でも漏らすかのようにして朗読した。

世がたりに 人や伝へん たぐひなく うき身を醒めぬ 夢になしても

「どうしようもないくらいにつらい私の身が、たとえ覚めることのない夢の中のものといたしましても、今回の過ちは世の語りぐさとなるのではないでしょうか」
 真琴氏はそう訳した後で、強固に組んでいた手をほどいた。

京都物語 229

 真琴氏は組んでいる手をぐっと強固にした。
「その後貴博さんは、ますます私を避けるようになっていった。朝は事務的な会話を必要分交わすだけだったし、夕食も自分の部屋で食べた。お父様はそのことについて不思議に思われなかった。大学入試の受験生なのだから、そこまでして当然だという認識でおられたのではないかしら。食事が済むと貴博さんは1人で台所に立って後かたづけをする。それは私が執筆する時間と重なっていたから、私たちが顔を合わせる場面などなかった。私は密かに、そのことをつらく思っていた。貴博さんからの、暗黙のメッセージとしか思えなかった。彼は私にどんなことを伝えたいのだろうと、邪推に邪推を重ねた」
 ラベンダーのアロマミストが切れたようだ。紫色のパイロットランプは点灯しているものの、蒸気は発散しなくなっている。部屋の沈黙は、もう一段深くなったように思われた。橘美琴はそちらに頓着することなく、というより気づかずに、母親の話を黙って受け容れようとしている。
「私は孤独について深く考えさせられた」と真琴氏は話を続けた。「ああ、これが本物の孤独というものなのかと、あの歳にして初めて思い知らされた気がした。私は貴博さんのことを強く意識しつつも、その得体の知れない感情への対処法を知らなかった。かといって、何もせずにじっとこらえていれば、そのうち軽くなってくれるような感情でもなかった。ともすれば、発狂してしまいそうなほどだった。だから私は、その孤独を慰めるためにも『源氏物語』の朗読に専心した。その世界は私の心に優しく語りかけてきた。そうして、いつのまにか、私は藤壺の魂と同化してしまっていた」

雲をつかむような話

 寒い夜が続きます。

 夜、車で峠道を走っていたら、とても濃い霧で視界が遮られました。
 一見、バニラのような色をしていて美味しそうでもありましたが、フロントガラスに当たってふわっと飛び散る様子を見ると、それはただの錯覚なのだということがよくわかり、1人で苦笑いを浮かべました。

 もちろんハンドルを握る手に力がこもりましたが、その一方で、まるで雲の中を走っているような感覚にもなりました。

 あ~、雲の中はこんなふうになってるんだな~と思いながら、のろのろと車を走らせました。


 平安時代、愛しくても会えない人のいる場所を「雲居(くもい)」と呼びました。文字通り、手の届かぬ雲の上の世界に居る人、ということです。
 

 そんな想像を巡らせながら私は、雲の中を行きました・・・


 週末は雪になるようです。

 みなさま、どうぞ、ご自愛くださいませ。
 

京都物語 228

 自分の手を見つめる真琴氏は、さながら水晶玉を覗き込んでいる占い師のようだ。水晶玉の中には真琴氏の過去が映し出されている。ずっと封印してきた過去だ。
 部屋の空気があまりに張りつめているがために、僕はさっきから自分がこの場にいていいのかどうか分からなくなっている。その思いが表情に出てしまったのだろうか、真琴氏はいきなりこんなことを言ってきた。「いいのよ。ヤマシタさん、そんなに遠慮しなくても。さっきも言ったけど、あなたがこの場にいらっしゃることは、縁なのだから。つまり、私たちにとっても、それからあなたにとっても、何らかの意味があるの」
 その言葉が一体誰に向けられているのか、最初はよく分からなかった。間もなくして、僕は背中につららが刺さるような冷たい痛みを覚えた。レイナも橘美琴も揃って僕を見た。あたかも真琴氏の言うことは自明の事実なのだとでも言わんばかりの様子で。そんな僕の動揺を尻目に、真琴氏は自らの過去の封印を、再びゆっくりと解き始めた。
「率直に言うと、その日から私は貴博さんを強く意識するようになった。でも、歯痒いことに、その非常に強い感情が一体何なのか、判然としないの。まさか、彼のことを好きになってしまったのか、それとも嫌いでしかたないのか? これは愛なのか、それとも憎しみなのか? あるいは全く別の感情なのか? とにかく、私がそれまで経験してきたどんな感情とも全く異質のものだった。あえてたとえるなら、何かの感染症に冒されたようだった」
 真琴氏はつい今し方、僕に話しかけたことを完全に忘れたかのように、水晶玉の中の世界に没頭している。
「ただ1つはっきりしていたのは、それはとても恐ろしい感染症だということ。そうして、なぜそれが恐ろしいのか、おぼろげながら私には分かっていた」

京都物語 227

 レイナは何かを言おうとして唇の先を少しだけ尖らせた。読書量豊かな彼女はもちろん中上健次の小説も読んでいるはずだ。それについて真琴氏に物申したいことがあったのだろう。だが、結局彼女は言葉を出さずじまいだった。真琴氏の真剣な面もちが安易に言葉を挟むことを許さなかったのだ。真琴氏は依然としてテーブルに組んだ指を眺めながら、いや、眺めると言うよりは睨み付けるようにして、鉄の扉のような口を開いた。
「猪突猛進な愛が許されるのですね、と貴博さんが言った後のことは、正直よく覚えていない。とにかく、ふと我に返った時には、私は椅子ごと倒れていた。そうして私の顔のすぐ前には貴博さんの端正な顔があった。私は完全に気が動転してしまっていた」
 左耳が聞こえないレイナは、真琴氏の口の動きに注視しているように見える。それほど集中して話を聞いている。一方橘美琴は、冷静な表情の中に全ての感情を封じ込もうとしているようだが、さすがに目元の力は抜け、唇は細かく震えている。僕は自分がこの場に含まれていることの違和感をますます大きくしている。
「私は咄嗟に貴博さんを腕で払いのけた。おそらくそれは、私の持つ力の全てを出し尽くすほどの勢いだっはず」と真琴氏は話の内容とは裏腹に、淡々とした口調で語った。「貴博さんは、私の抵抗に面食らったようで、すぐに起きあがり、倒れたままの私を見下ろしながら、寂しそうな表情で何かを考えていた。しばらくして彼は目を閉じて大きく息を吐き、『すみませんでした』と弱々しくつぶやいて自分の部屋に戻っていった」
 その後で真琴氏は、組んだ指を占い師のように見つめながらこう言った。
「それを境に、貴博さんを見る目が全く変わってしまった」

京都物語 226

「でも、その文章題を見て、私は首をかしげてしまった。それは中上健次の小説の一部で、さして難解な文章というわけでもなく、設問が捻ってあるわけでもなかった。私はすんなり問題を解き、貴博さんに解説した。ところが彼は私の解説など聞いてはいない。冷め切った顔でこっちを眺めるだけだった」
 真琴氏はテーブルの上に両手を組み、自分の指をまるで何かの鑑定をしているように眺めた。橘美琴はざわめく胸の内をなんとか表情に出すまいと必死になっている。レイナはそんな母と娘を冷静に捉えている。今まで明子のことを考えていた僕は、この空間に自分が含まれていることについて、違和感を覚えずにはいられなかった。
「その時、初めて私は貴博さんの顔を間近で見た。彼には三物も四物も与えられていたけど、その顔立ちもとても端正だと改めて思った」と真琴氏は言い、橘美琴を見た。「今思えば、貴博さんが共通一次試験の問題につまずくはずなんてなかったのよね」
 真琴氏は微笑んだ。この女性の笑顔らしい笑顔を初めて見た気がする。
「私の解説を最後まで聞いた後で、貴博さんはこんなことを言ってきた。中上健次の文章が大学入試に出題される意味をこそ僕は知りたいのだと。さすがに私も困ったわね。それは出題者に聞いてみないと答えられないことだったから。でも、純粋な心をもつ彼にそんな返答をすると、失望されるに違いない。いくら血がつながっていないとはいえ、私はこの子の母親なのだ。そう思い直して、精一杯の説明をした。でも、やはり彼はガラス玉のような目で私を見下ろしているだけ。そうして、こう言った。中上健次の小説に描かれるような猪突猛進な愛は、これから研究の道に進もうとする学生にも許されるというわけですねと」 

京都物語 225

 愛し合っているはずなのにその実感がない。2人でいる時には互いにふれあうことができても、1人になってしまえば、どうしたことかその時のぬくもりは完全に冷めてしまう。明子といる時、いつも僕はそんな感覚をひきずっていた。
 そうして明子が突然失踪して3年経った後、僕は結花と出会った。結花は若くて、明るくて、献身的だった。結婚して人生を共に歩むのには申し分のない女性だった。結花とつきあっている時は、彼女と一緒にいようが1人になろうが、ぬくもりはいつも体に残っていた。
 だのに去年の冬、僕は結花との別れを選んだ。そうして今、再び明子に会って失われた過去を取り戻すために、京都に来ている。
 明子はよく僕に言ったものだ。「私は過去に生きるの」と。その言葉を聞くたびに僕は寂しい気持ちになった。明子の言う過去とは、亡き夫との想い出の中に生きることを意味していたからだ。有能な科学者だった彼は不幸にも原子力発電所の事故で亡くなってしまった。国策の犠牲者となったのだ。
 だが今、明子と同じような生き方を僕も採っていることに気づかされる。結花との未来を捨ててまでも明子を追い求めるとは、つまりは過去に生きるということなのだ。
 僕がそんなことを考えている横で、真琴氏は口をつぐんでいた。橘美琴は待ち切れぬ様子で「お兄さんはどうしてママの部屋に入ってきたの?」と聞いた。
 真琴氏は娘の方に顔を向けて、「国語の文章題の解説をしてほしいと言ってきたの。貴博さんはちょうど大学入試を控えていらしたから」と答えた。その瞳は悠然と娘を捉えていた。「それまでの、当てつけじみた私への言動からすると、とても意外に思われた。私はむしろ光栄な気分になって、貴博さんの持ってきた問題を解いてみた」

京都物語 224

 真琴氏はふっと息を吐いた。ため息なのか、それとも鼻で笑ったのか、よく分からなかった。その後で、もう一度窓の外に落ちている涙のような雪に目を遣った。しかし今度は眩しそうな顔をせずに、その1粒1粒をきちんと見ているようだった。オープンデッキに積もった雪は時間とともに厚みを増し、小さな雪だるまくらいなら作られそうなほどになっている。さっきのストーブの部屋と比べると、寒さが背中を駆け上がってゆくようだ。
「お父様は仏像研究のために全国を飛び回っておられたから、私は貴博さんと2人きりで家にいることが比較的多かった」と雪を眺めながら真琴氏は言った。「あの夜もそうで、私たちはそれぞれに夕食を取って、その後で私は自分の部屋に戻り『藤壺物語』に向かっていた。体調を崩して里帰りしていた藤壺と光源氏が密会を果たす場面を書くために、原文を繰り返し読んでいるところだった」
 真琴氏はそう言った後で、突然和歌を詠み始めた。

見てもまた あふよまれなる 夢のうちに やがてまぎるる わが身ともがな

「光源氏の詠んだ和歌ね」と真琴氏は優しい口調で言った。「せっかく藤壺との逢瀬を遂げたのに、光源氏はどうしても夢の感覚から抜け出せない。今夜はこうやって会うことができたけど、この愛しい女性が再び宮中の父の元に戻ってしまえば、もう2度と密会は果たせないだろう。だったら、いっそのこと、夢の中に消えてしまいたい。彼はそう願った」
 その切ない胸の内は、どういうわけか僕の胸にも瞬く間に染みわたった。

京都物語 223

 真琴氏は窓の外に落ち続ける雪にふと目を遣り、眩しそうにまぶたを細めて「あの時、私は『源氏物語』を読み返さずにはいられなかった」とつぶやいた。「それがなぜだかわからなかった。さっきレイナさんは、第6感が冴えているというお話をなさったけど、じつは私にも、そんな感覚に囚われる時がある。無意識の力が自分の意識を司っているという、何だかおかしな実感ね」
 真琴氏の頬は再び紅潮し始め、声色も熱を帯びてきた。
「そうして私は『源氏物語』を読みながら『藤壺物語』を書いた。今言ったように、何か見えない大きな力に背中を押されて。もう、我を忘れていた」と真琴氏は黒々とした瞳をさらに黒くした。「ある日のことだった。どこかから声が聞こえてきた。何を言っているのかは分からない。でも、私に向かって、たしかに何かを訴えかけてくる」
 話し続ける真琴氏を、レイナは意外なまでに落ち着いた表情で捉えている。さっきまで何か別のことを考えていた彼女も、今は真琴氏の話に集中しているようだ。
「『藤壺物語』は、驚くほど順調に書き進められた。推敲する必要すらなかった。物書きとしては、これほどうれしいことはないと思う。でも、その時の私には、その文章を自分が書いたという実感がまるでなく、だから、心のどこかで恐ろしさを抱え込んでいた。かといって、筆を緩めることなどできない。私はどんどん作品の中に入っていった。そこには『源氏物語』と『藤壺物語』の区別などなかった。あの時私が立っていたのは、全てを包括する言霊の世界だった。気がつくと、無意識のうちに『源氏物語』の朗読を始めていた。すると、声がより近くで聞こえるようになってきた。紫式部の声だった。貴博さんが突然私の部屋に入ってきたのも、ちょうどその頃のことだった」

京都物語 222

「それにしても、あの年の夏はとても暑かった」と真琴氏は言いつつ、湯呑みの中に視線を落とした。そこに夏の光景が浮かび上がっているようだった。
「私たちが一緒に住むようになったのは晩秋のことだったから、そうねえ、あれから10ヶ月近く経ってたのね」と真琴氏は回想し、ゆっくりと湯呑みに唇をつけた。「あの時、『チャイコフスキーの恋人』は、いよいよ最後の場面にさしかかっていた」
 真琴氏の言葉を聞くと、ホテルで読んだその場面が息を吹き返したかのように思い出された。
 それは、若く麗しきピョードル・チャイコフスキーの肖像に恋した主人公が、サンクトペテルブルグからモスクワに移動した場面だった。彼女はチャイコフスキーが音楽家として大成したその地で、改めて彼の交響曲を聴き、ますます恋心を深める。そうして、物語が終焉に近づくにつれて、文章は熱を帯びてくる。筆の勢いが止まらないということが読み手にも伝わってくる書きぶりだ。主人公はチャイコフスキーが実際に訪れたというホテルの一室に入る。そこでシャワーを浴び、明かりを落とすと、疲れ果てたピョードル・チャイコフスキーがソファにもたれかかっている。それから2人は導かれるように身体を交わらせる。浅茅しのぶは異様とも言えるタッチで2人の性行為を描く。気分が悪くなるほどに現実感にまみれた描写だった。その夜2人は、僕の記憶する限り3度性交する。そうして最後の精液が彼女の内奥に入った時、2人は幻想の世界へと消える。それは浅茅しのぶの作り出した永遠の世界だった。小説はそこで閉じられる。
「そして『チャイコフスキーの恋人』を書き終えた時、私は言霊に呑み込まれていた」と真琴氏は言った。「あくる日から『藤壺物語』にさしかかっていた。暑い夏の日だった」

京都物語 221

 真琴氏は橘美琴に向けて、湯呑みを少し傾けた。橘美琴ははっと我に返ったような顔をして立ち上がり、部屋続きになっている台所からティーポットを持ってきて、母親の湯呑みに新しい中国茶を注いだ。それから、僕とレイナの湯呑みにも注いでくれた。僕は軽く頭を下げて礼をした。なんだか高級な中華料理店で料理を待つ気分だ。
「今になって思い起こしてみると、貴博さんの心の中は、至極単純だった」と真琴氏は湯呑みから立ちのぼる湯気をうっとりと眺めながら言った。「でも、その時の私は、そんな洞察なんて、とてもじゃないけどできなかった。小説家の端くれだった私にさえ、貴博さんにはとうてい及ばないという諦めがあった。彼がまだ気さくに話しかけてくれていた頃、言動の端々に幾度となく感服させられたものだった」
 真琴氏は湯呑みを持ち上げ、音を立てて中国茶をすすった。
「自らに与えられた能力の大半は、若い頃に出尽くしてしまう。その考えは今でもほとんど変わってはいない。だから、若さをさげすむのは単なる感傷だと私は思う。むしろ若さとは脅威に近い。私がそう考えるようになったのは、貴博さんと出会ってからのこと。あの方は、豊かな感受性をもっていたばかりか、切れのある発想力を基に独自の理論を構築して、さらにそれを行動に移すバイタリティまで兼ね備えていた。自然なユーモアのセンスだってあったし、時や場所によって十分に大人びた振る舞いさえもおできになった」
 長いこと沈黙していた橘美琴が「心から尊敬できる兄です」とつぶやいた。誰かに向けて言ったというわけではなく、自らの心の中で噛みしめるような口調だった。
「高校生にして、非の打ち所のない方だった」と真琴氏は娘に続いた。

京都物語 220

 真琴氏はテーブルから少し離れて座っているために、その表情はテーブルには映っていない。したがって、レイナと橘美琴、2人の顔がテーブルの上にある。2人は共通して思い詰めたような表情をしているが、頭に浮かべているのは全く別のことなのだろう。
 そうやって2人の顔を観察していると、真琴氏が口を開いた。
「でも、現実はそう甘くはなかった」
 その声は曼陀羅模様のペルシャ絨毯に吸い込まれていった。
「美琴には言わなかったことだけど、貴博さんについては、私もずいぶんと悩まされた。あの方の全ての言動が私への当てつけだった」
 レイナはゆっくりと真琴氏の方を向いた。
「初めは順調だった。気さくに話しかけてきてくれもした。でも、それが一緒に住むようになって1ヶ月ほど経った頃、なぜだか態度が180度変わってしまった。まず口をきかなくなった。そればかりか、目も合わせなくなった。その代わりに、頻繁にため息をついた。私に聞こえるような、わざとらしいため息ね。それが胸にぐさりと刺さったの。なにせ、子育ての経験もないのに、いきなり思春期の息子と同居しろというわけだから、どうやって接してよいのやら、全く分からなかった。かといって、お父様に相談することもできない。何と言うか、私には意地があったの。自分の手でどうにかして、まっとうな親子関係を築くのだと、毎晩言い聞かせていた」
 レイナはテーブルに肘をつき、握りこぶしを口元にあてがった。橘美琴は再び天井を見上げ、音を立てずに息を吐き出した。
「貴博さんは、それは才能に恵まれた方だった。成人してからの活躍を見ても歴然としている。『天は二物を与えず』というけど、彼には二物も三物も四物も与えられていた。だからこそ、私だけに向けられる彼の当てつけが、どうしても理解できなかった」

待つ

 私の住む町にも、本格的に雪が舞いました。
 
 今日は朝からちょっと遠くに出かけてみました。すると家を出て10分も経たないうちに雪が舞い始め、そのうち前が見えないほどになってきました。

 車の運転はヒヤヒヤですが、それでも、雪はきれいですね。

 平安時代の貴族たちにも、雪は特別な感慨をもたらしたようです。


待つ人の 今も来たらば いかがせむ 踏ままく惜しき 庭の雪かな


 恋多き女性として名高い和泉式部の和歌です。彼女は好きな男性に対して、どちらかといえばストレートに恋心を歌う詠み手ですが、この和歌だけはどうやら少し趣が違うようです。

 平安時代の女性は、男性の訪問を自宅で待ちます。しかし、いくら和泉式部とて、この日ばかりは恋する人がなかなか現れてはくれなかったのでしょう。そのうち、雪が落ちてきました。それでも彼は来てくれません。時間が経つにつれて庭には雪が積もってゆきます。それでも彼は来ない。
 
 そのうち和泉式部はこう思います。
 あの人が今来られたらどうしましょう。この美しい雪は踏まれずにそのままにしておきたいものです。

 庭に積もる雪は彼女が待った時間そのもの。それはすなわち彼への思いに他なりません。


 待つ。

 それは、とても苦しいことです。 

 でも、こんな今だからこそ、「待つ」ということが、時にキラキラと感じられるのは、私だけでしょうか?






京都物語 219

 いつしか真琴氏もレイナと同じ目になっている。そうして目の前のスクリーンをぼんやりと眺めている。だが、レイナの場合とは違って、真琴氏がどんな映像を捉えているのか、僕には全くと言っていいほど見当がつかなかった。
 窓の外の雪はやはり涙のように落ち続けている。オープンデッキの上に積もった雪は何度も上塗りされ、表面はこんもりと滑らかになってきている。
 その様を見ている時、真琴氏が話し始めた。橘美琴に向けてだった。「それまで私は、お父様のことをずっと思っていた。もちろん、愛していた。そしてその根底には、お父様に対する尊敬があった。異性に対する尊敬は、さっきレイナさんも言っていたとおり、好きだという思いに直結するもの」
 真琴氏はそこまで言ったところで中国茶を口に入れた。部屋の隅ではラベンダーのアロマミストが蒸散している。
「でも、執筆にエネルギーを注ぐようになると、ふとした時に、不安に駆られることもあった。私は周りが見えなくなってはいないかと。だから、時間を作っては、おうちの掃除や庭の手入れをしたり、本を見ながら手の込んだ料理を作ったりもした。それから貴博さんにも、母親らしいことをしなければならないと思って、あれこれ思案した」
 つい今まで天井を見ていた橘美琴はテーブルの中央付近に視線を落としている。その表情が黒い唐木のテーブルに映し出されている。
「貴博さんは思春期に母親を亡くしているわけだから、私にそう簡単に心を開かないだろうと思ってはいた。とはいえ、私はまだ若かった。あまり年の離れていない息子に対して、できることがあれば何でもしようと気負っていた」

京都物語 218

 僕はレイナの顔を横から見た。彼女は茫然としている。顔のすぐ前にあるスクリーンの映像を眺めているかのように。そこには海が映っている。荒涼たる冬の砂浜だ。灰色の波が打ち寄せては、しぶきを上げている。浜辺を歩く人は誰もいない。波が音を立て、カモメの鳴き声が耳を突っつく。
 レイナはその風景を見るともなく眺めている。そうしてその横顔は、僕の心を何となく不安にさせる。彼女の心が僕に木霊したのだ。
「今思えば、『月と京都タワー』という小説は、主人が私に与えてくれた命の火種だった。美琴から聞いてると思うけど、主人は亡くなってしまった。長いこと病気を患っていらした。だから私も、主人の命を輝かせることのできる、限られた人間なの」と真琴氏は言った。レイナは目をほんの少しだけ伏せた。
「でも、私は、過去に人生を諦めた人間。主人の命どころか自分自身の命すら輝かせることができずに、こんなところで毎日引きこもっている。それでも、なんとか人々に貢献しなければと思って、時々大学に出て、学生たちにお話をさせていただいくこともある。それが私の精一杯。だから、レイナさんに対して偉そうなことが言えるような立場ではない」
 母の言葉に橘美琴は顔を上げ、天井の方に目を遣った。
「主人が点火してくれた火種は、たちまち激しく燃えさかりだした。でも、文章を書けば書くほどに、恐ろしくなってきた。『チャイコフスキーの恋人』の頃になると、それは言霊によるものだということを、はっきりと感じるようになっていた。それでも私は筆を止めることができなかった。『藤壺物語』の執筆中は、完全に私を忘れてしまっていた」

京都物語 217

「当たり前のことをうかがうようだけど」と真琴氏はレイナの視線をはね返すかのような、どこか冷淡さ漂う瞳でそう言った。「あなたはその恋人を愛してらしたの?」
 レイナはすぐに「はい、愛していました」と答えた。
「真剣に?」
「そのつもりですけど」
 真琴氏は、明子からの手紙を読んでいる時に見せたろう人形のような表情をレイナに向けた。
「その恋人は、自身の命を託すかのように、あなたに左目と右目の傷害を残した。それを機にあなたの人生が変わったというのは、どうやらほんとうのこと。だから、あなたは、彼からもらった第6感を使って、いろんな人に貢献する。それがあなたにとっての最も自然な生き方ね」
 真琴氏には迷いがなかった。文字に書かれた言葉を正確に朗読しているかのようだった。対するレイナはメドゥーサに睨まれて石化してしまった人間のようにたちまち動けなくなった。
「あなたは今、ブログを書いていらっしゃるのね?」と真琴氏は質問を変えた。レイナは、したのかどうか分からないくらいに小さく首を縦に振った。
 すると真琴氏は「命って不思議なもの」とこぼした。「生きている人間でさえ、命のないような人がいる。それとは反対に、死んでいるのに、命を輝かせる人だっている」
 レイナはその亜麻色の瞳だけ動かして真琴氏を見た。
「たとえば、紫式部なんて、まさにそう。彼女の命は千年経った今なお輝いている。そう考えると、あなたは亡くなった恋人の命を輝かせることのできる、この世でたった1人の人」と真琴氏はさりげなく言った。「今は、あなたのブログで多くの人々に喜んでもらえるように、力を注ぎなさい。そこにはきっと真実があるから」

京都物語 216

 それから2人はぱたりと口を閉ざした。僕の目には、言葉以外の手段を使って交信しているかのように見えた。緊張した面持ちで、何か大事な情報をやりとりしているようだった。
 そんな2人を同時に視界に入れていると、目の奥がくらくらしてきた。真琴氏とつながっているような奇妙な感覚を覚えたのだ。僕は高校生の時、家出をして、初めて京都に来た。京都駅を出てすぐに、夜空に寂しく伸びる京都タワーを見上げた。これが千年の都なのかと、期待を裏切られた思いがして故郷が恋しくなったのを今でもはっきりと覚えている。その記憶が真琴氏が描いた『月と京都タワー』の場面とぴたりと重なるのだ。僕にはそれが偶然のようには思えなかった。あの家出は、むしろここで真琴氏とつながるために起こった出来事ではないかとさえ思われた。
「レイナさんにはかなわないところがあるわね」
 真琴氏は固く結んでいた唇を、ほんのわずかばかりほころばせてそう言った。
「さっきも話しましたが、私はタイで恋人の運転するバイクに乗って、事故を起こし、左の耳と目に障害を残してしまいました。その恋人は、私の命と引き替えるかのように死んでいきました。あの件以来、第6感が冴えてきたように思います。きっと、視覚や聴覚に頼らずに物事を捉えるようになったのでしょう。世の中のいろいろなつながりを感じ取ることが出来るようになったのも、それからです」とレイナはまっすぐに真琴氏を見据えてそう言った。「それにしても、これまでの私の人生は、どうやら真琴先生とつながっていたようです。今、私ははっきり自覚しました。この旅は、ヤマシタ君に協力することがそもそもの発端でしたが、じつは私の過去を整理するという意味があったのですね」

浅茅が宿に住む女

 冷たい夜です。
 でも、その分、夜空の星たちがきれいに輝くようにも感じます。

 皆様の街の夜空にも星は輝いていますか?


 それにしても、平安時代の女性たちも、こうして寒い夜を過ごしたのでしょうか?

 レイナが言うように、当時は「通い婚」といって、男が女の元に通うという結婚形態でした。
 しかも当時の貴族男性には自由な恋愛が暗黙のうちに認められていたので、女性たちはひたすら恋人が戸をたたいてくれるのを待つしかなかったのです。

 男に好かれている女性は幸せなものです。待つ甲斐がありました。

 しかし、逆に男の訪問が途絶えがちになっている女性は、それはつらかったろうと察せられます。何しろ電話もメールもない時代。彼女たちにできることとえいば、ひたすら待つことしかなかったのです。

 なので、そんな女たちは家の中でずっと物思いに耽るしかない。外へ出て、庭の手入れをする気にもとうていなれません。雑草が生い茂り、荒れ果てた庭になってしまいます。なにせ、雑草の成長は驚くほどに早いのです。

 そんな家のことを「浅茅(あさじ)が宿」と言います。
 
 つまり浅茅が宿には、恋に苦しむ女性が、ひっそりと住んでいたのです。










 



京都物語 215

 すると、今までうつろな瞳で虚空を捉えていたレイナが突然切り出した。
「でも、『月と京都タワー』の主人公は、逃げて終わらなかったですよね」
 その瞬間、部屋の中の空気の質が変わった気がした。真琴氏は目だけレイナに向けて、「あなた、まさかあの小説まで読んでくださってるの?」と声を震わせた。
「つい先週のことですが、大学の図書館で真琴先生の短編集を見つけたんです。その一番最初に収録されていました」とレイナは答え、乾いた笑みを浮かべた。「主人公は、たしか千絵という女性でしたね。彼女は、千年前に描かれた『源氏物語』の世界に癒され、自分の哀しい人生の救いを求めます。だけど、最終的には、現実的な結論に達しますよね」
 真琴氏は顔をレイナの方に向けて、小さく、それでいてしっかりと頷いた。それから自らの作品の解説を始めた。
「千年という時間は必ず訪れるし、過ぎてみればあっという間。従って、今の苦しい人生だって、その時が来ればあっという間に終わってしまうわけだから、何も今、焦って死ぬ必要もない。どうせなら、空蝉や六条御息所のように、苦しくとも最後まで自分の物語を紡ぎたい。千絵は、月に照らされた京都タワーを見上げて、そう心に決めた」
「逆に言えば、千絵はそれほど『源氏物語』の女性たちに感銘を受けたということですよね」とレイナは返した。「比叡山に入って、仏の世界に身を投じる『比叡に消ゆ』よりも、ですから力強い作品に仕上がっていると思います」
「ということは、『比叡に消ゆ』も読まれたの?」と真琴氏が聞くと、「橘忍の作品ですよね。私は小さい頃から本ばかり読んできましたので」とあっさり答えた。異国情緒の漂う部屋には再び沈黙が訪れた。
「今思ったのですが、真琴先生は、橘忍を意識されて、浅茅しのぶという筆名を自らに付けられたのですね」とレイナは言い、真琴氏を見た。真琴氏はそれについては何も答えなかった。

京都物語 214

 僕よりも真琴氏に近い席に座っているレイナの瞳は、やはりどこかうつろだ。さっきの部屋にいた時から彼女は真琴氏の話と並行して、何か別のことを考えている。そのレイナらしくない表情は少なからず僕の心を揺さぶった。
 窓の外では依然として涙のような雪が地表に向かっている。紫色と黄色の牡丹は、雪の中に仲良く咲いている。
「でもね、すべての問題は時間が解決してくれるものね」と真琴氏は言った。「夢中になって小説を書く日々を繰り返しているうちに、私には主役と代役の区別が付かなくなっていた。そしてそれはお父様も同じだったはず。お互い口には出さなかったけど、いつしか私たちは、過去を清算して今を生きているという実感を持ちながら、一緒に暮らすようになっていた」
 僕の隣でレイナが中国茶に口を付けた。その動きに呼応するかのように、橘美琴も湯呑みを手に取った。
「前の奥様が書かれた『比叡に消ゆ』という小説は、たしかに読み手を惹きつける作品だった。人生を賭けた恋に破れた女性が、世をはかなみ、かといって自ら死ぬこともできず、最後には俗世を離れて比叡山に帰依するまでの心理描写が見事だった。何より、私は、あの小説で京都を感じることができた」と真琴氏は力を込めた。「私が初めて書いた『月と京都タワー』という短編は、『比叡に消ゆ』を少なからず意識した。東京に住む主人公が、最愛の男性に裏切られてしまうお話。彼女は東京を離れたいと思い、全てを捨てて、あてのない旅に出る。夜行電車で京都駅に辿り着き、もう一度最初から自分を探そうとする。そこで彼女を待っていたのは『源氏物語』の世界だった。彼女は比叡山にではなく、物語の中に逃げ込んだ」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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