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京都物語 268

「お兄さんは亡くなったお父さんと同じ国にいるものだと思いなさいって、あの時ママは言ったわ」と橘美琴はしみじみと述懐した。「私はまだ小学生だったから、話の真意を理解することまではできなかった。だから、ママのその言葉は、頭を飛び越えて、心に直接入ってきた。私、大泣きしちゃったわよね。覚えてるでしょ?」
 真琴氏は今緩めた口元をきゅっと引き締めた。
「幼かった私は、そのことが信じられずに、ずっと貴博兄さんの居場所をお母さんに聞いていたけど、中学生になった頃から、ぱたりと話さなくなったでしょ。実はね、それにはわけがあったの」と橘美琴は静かに言った。「中学生の時に、突然学校に電話がかかってきたの。ものすごく暑い日の午後だった」
「貴博さんから?」と真琴氏は聞いた。ほとんど反射的だった。橘美琴はまっすぐに母を見つめながら、ゆっくりと肯いた。
「美琴、あなた、今までそのことを内緒にしていたの?」と真琴氏は声を震わせた。
「いけないことだと思ったわ。ママへの申し訳なさから、胸が破裂するかと思ったくらい。でも、貴博兄さんから固く口止めされたの。ママへは自分から必ず話すから、それまで何があっても口に出しちゃいけないって」
「信じられない」と真琴氏は言った。ほとんど狼狽に近い表情を浮かべつつも、僕は真琴氏の所作の中に品格を感じ取った。ここまでくると敬服に値する品格だ。
「それで、あなた、その時に何があったの?」と真琴氏は追及しにかかった。
「お兄さんは、京都駅前にある、京都銀行の玄関に立っていらした」
 その瞬間、僕とレイナは互いに顔を見合わせた。
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京都物語 267

 そう言った途端、言葉とは全く裏腹に、橘美琴の表情にかすかな翳りが差し込んだ。
「私は、物心つく前から、お兄さんからいろんなことを教わってきた。小学生の時にはお勉強も習ったし、中学、高校と上がるにつれ、受験の話もたくさんしてくれた。それだけでなく、ほんの些細な疑問から、自然やこの世の中の成り立ちに至るまで、私がどんなことを聞いても、的確に答えてくれた。その時の私が完全に納得できる形にかみ砕いて、丁寧に説明してくれた。私は、だから、貴博兄さんから、計り知れないほどの影響を受けて育った。そうして、いつしか、深く尊敬するようになっていた」
 橘美琴がそこまで話した時、僕は真琴氏の言葉をふと思い出した。
「異性に尊敬を抱くと、それは恋心に変わる。しかも激しい恋心に」
 だが、まさか、橘美琴が貴博氏に恋するはずはない。だとすればいったい彼女はここで何を告白しようとしているのだろう?
「だから」と話を続けた橘美琴は、依然として表情に翳りを引きずっている。「貴博兄さんが大学院を出て、そのまま国の研究機関に入るために上京することになった時には、ものすごく寂しかったのをよく覚えている。この世のものとは思えないほどの寂しさだった」
 レイナも、それから真琴氏も、視線こそ思い思いの方を向いているものの、固唾を呑んで話に耳を傾けている。そんな部屋の中の緊張とは無関係なように、陽光は今なお降る雪を白く光らせている。
「お父さんが亡くなった後、貴博兄さんの行方が分からなくなった。あの時ママは、お兄さんとはもう2度と会えないだろうって私に言ったね。覚えてる?」
 娘の問に、真琴氏はわずかに口元を緩めて応えた。

京都物語 266

「貴博兄さんは、東京に家を持たれてはいるけど、実際は全国を忙しく飛び回っていらっしゃいます」と橘美琴は言った。一歩ずつ、雪でも踏みしめるような喋り方だ。「京都にも、マンションを持たれているんですよ」
「京都?」と真琴氏はすぐに反応した。品格はまだ保たれている。
「お兄さんは、京都を深く愛していらっしゃるから」
 橘美琴はそう応えた。
 1年のうちの大半をこの家で過ごす真琴氏にとって、まさか貴博氏が京都に住みかを構えているなどとは全くの予想外だったに違いあるまい。さっきまでは教祖のように悠然と構えていたのに、今となっては明らかな動揺が見られる。その姿は、長いことうつむいて下唇を噛みしめていた娘の姿に通じるものがある。僕はそこに皮肉を見て取った。
「美琴、あなた、まさか、おかしなことにはなってないわよね?」と真琴氏はついに声を震わせた。黒々としていたはずの眼球は、打ち弾かれたテニスボールのように細かく左右にぶれている。
「大丈夫よ、ママ」と橘美琴は声を低くした。「ママはさっき、ママの文脈で語らないと真実はきちんと伝わらないと言ったけど、それと同じことなの。私も、この話だけは、正しく伝えたいの。だから、順序を追って話させて」
 橘美琴はそう言った後で、もういっぺん深呼吸した。
「といっても、私は、ママの話を聞くまで、貴博兄さんとママの間に起こったことを知らなかったの。だから、まだ頭の中は混乱してるし、話の全体像もちゃんとつかめてないから、上手く話すことができるかどうかわからないのよ」と穏やかに言った。「でもね、ママの話を聞いて、これまでずっと不可解に思っていたことが晴れたのはたしかなの」

京都物語 265

「きっとママは、私なんかには想像もつかないほどの覚悟を持って、今の話を打ち明けてくれたのだと思うの」と橘美琴は伏し目がちに言った。「だから私も、ママに対して、きちんと話をしなければならない。さっきからずっとそのことだけを考えていた」
 レイナは「美琴ちゃん?」と声を掛けた。思わず声が出てしまったという言い方だった。編集者の坂井という人物からつかんだ情報の中には、今から話されようとしている内容が、おそらく含まれてはいなかったのだろう。
 オレンジのべっこうの眼鏡の奥に黒々と輝いていた真琴氏の瞳にも、初めて不安の色が差し込んだ。それはまさしく人間的な色にまみれた瞳だった。 
 橘美琴は、ふう、と小さく声を吐き出し、視線を上げた。虚空を捉えているはずなのに、まるで青空に浮かぶ紙飛行機でも眺めるかのような瞳になっていた。白い頬には涙の乾いた後がうっすらと光っている。僕にはそれが雨上がりの虹のようにも映った。
「ママ」
 橘美琴は、はっきりと言った。「最初に謝ります。ごめんなさい」
 すると、真琴氏は「美琴」とわずかに声をうわずらせた。「あなた、何を言ってるの?」
 その瞬間、部屋の空気はもう一段冷たくなったように感じられた。
「私も、じつは、長いこと心の中に沈めておいたことがあるんです」と橘美琴は母親の遺伝子を受けた声でそう言った。それから、ゆっくりとこう続けた。
「私、貴博兄さんの居場所を知っています。私たちは、今でも連絡を取り合っているから」
 レイナが唾を呑み込んだ音が僕の耳にも届いた。

京都物語 264

 それから、部屋は再び沈黙に呑み込まれた。一体何度目の沈黙だろう。最初は異様に感じられたこの静けさにもすっかり慣れてしまったようだ。僕はふと時計を探した。しかしさっきの部屋と同様、それは見あたらない。いつも左の手にはめている腕時計を、今日に限って六条ホテルの部屋に忘れてきてしまったのだ。朝早かったために慌てたのがいけなかった。それにしても、今朝ホテルを出た時の記憶が、まるで何年も前のことのように思えてならない。
 僕は隣で涙を流しているレイナを横目で確かめた。僕が時間を気にしているのは、この部屋から離れて、レイナと2人きりになりたいという思いからだった。
 だがレイナは、真琴氏に投げかけた質問の答えをひたすら待っている。その間、涙も止まっているようだ。
 すると予期せぬ方向から突然声が上がった。か弱い声だった。
「レイナちゃん」と橘美琴は言った。レイナがその声に反応したのは、しばしの空白を挟んでからだった。「今日は、ほんとうにありがとう。最初に母が言ったように、レイナちゃんのおかげで、私たちは大きなきっかけを得ることができたわ。だから罪悪感とか、そんなこと言わないで」
 そうささやきかけた後で、今度は母に向かって「ママ、ほんとうのことを打ち明けてくれて、ありがとう」と小さな声をさらにしゃがれさせた。「ママもずっと、苦しみを抱えながら生きていたんだね」
 その言葉に、何か深い意味を感じ取ったのは、どうやら僕だけではなかったようだ。沈黙に包まれた部屋が、凍てつくかのように冷え冷えとした。橘美琴は今「ママも」と言ったのだ。

京都物語 263

 レイナは、そんな真琴氏に向けて、「真琴先生は、物語を夢でしめくくられました」とかすれた声を振り絞った。「さっきも言いましたが、夢の世界というものが本当にあるのならば、このはかない人生にも少しは救いがあるのだと共感できるところは大きいです。でもそれは、一読者としての捉え方であって、美琴ちゃんの親友としての捉え方ではないのです」
 真琴氏は口元に鋭いしわを刻ませながらレイナの話を受け止めた。どこかで見たことのあるような表情だと記憶を辿っていると、ロンドンの広場に立っている鉄の像によく似ていることを思い出した。それは明子のフォトアルバムの中の写真に映っていた像だった。彼女は亡くなった夫と結婚する前に、ヨーロッパを歴訪していた。明子は1枚1枚の写真を愛おしむように眺めていた。あの時こみ上げてきた寂しさが、ふと今胸に蘇る。
「ヤマシタ君との出会いが偶然であるとすれば、ここにいること自体も偶然です。その偶然の力にぐいぐい引き寄せられて行く中で、この話の中心に美琴ちゃんが含まれていることに畏れを感じ始めました。そうして私はどうすべきか迷ったのです」
 レイナはそう言った。真琴氏は依然として鉄の像の顔をしたままだ。
「でも、私は止められませんでした。親友を私たちの渦に巻き込んでいいのかという罪悪感があるにもかかわらず、なぜ自分を止められないのか、最初は釈然としなかったのですが、真琴先生の話を聞いているうちにだんだんと分かってきました。きっと、真琴先生が何らかの力によって『藤壺物語』を書き上げられた時の精神状態と同じだと思うのです。つまり、私たちは皆、言霊の世界に含まれているのです」とレイナは静かに言い切った。

 

京都物語 262

「大げさな言い方かも知れませんが、私はつらい時に自分を慰めてくれたこの自然に感謝しています。ブログを通じてその美しさを私なりの表現で伝えようとしてきたのは、そういう理由があるのです」と言ったところで、涙の粒がひとつ、頬に転がり落ちた。
「最初は手探りでしたが、毎日ブログを継続していくうちに、何かの声が聞こえるような気がし始めました。それは人間の声でした。誰の声かは分からない。でも間違いなく誰かの声でした。そのあたりから、私の興味は人間へと向けられていきました。写真も、ふとした街角の情景や、そこに生活する人々の姿、それから、歴史の染みこんだ風景なんかが増えていきました。そしてまたある時、私は気付かされました。私はブログを通して、私を表現しているのだと。それと同時に、私の存在に気づいてほしいと願っているのだと。すべてを失った自分に表現すべきものなどないと諦めていた私は、そのことを意外に思いました。自尊心はわずかに残っていたのです」
 そう言ったレイナのまぶたからは次々と涙がこぼれてきた。見えていないはずの左目からも流れ出した。「ごめんなさい、私の心にも言霊が入ってきたみたいです」とレイナは言いながら手のひらで涙を拭いた。
「挫折を経験してから今まで、私は自分に執着するあまり、美琴ちゃんと会うことをしなかったけど、今こうやって再会すると、美琴ちゃんがいかに私の心を支えてくれたのかということがほんとうによく分かるのです」とレイナは声を震わせた。「だからこそ、真琴先生が過去の真実を打ち明けられた今、大切な美琴ちゃんがどうなってしまうのか、気になって仕方ないのです」とレイナは話を元に戻した。その瞬間、母親の顔をしていた真琴氏の表情が急に険しくなった。

京都物語 261

 レイナは橘美琴に顔をやりつつも、実際は真琴氏に向けて話しをした。
「美琴ちゃんは私とは違って、おしとやかで、身につけるものにも品があったりするんですよね」とレイナは久々に感情のこもった言い方をした。「でも、私たちは、外見は違っても、中身は似通ったところがあるんです」
 真琴氏の表情はいつの間にか母親のそれになっている。
「夢だった京都の女子大に入って、最初にご飯を食べに行ったのも美琴ちゃんでした。美琴ちゃんと一緒にいると心から安らげて、ああ、これまでの私の生き方は、あれはあれで間違いじゃなかったんだって、生まれて初めてそんな思いがわき上がってきました」
 今まで不安定だった橘美琴の表情にも落ち着きが戻ってきた。レイナの言う通り、この2人の心は呼応し合っているようだ。
「だから私にとって美琴ちゃんは、かけがえのない親友なんです。恩人と言った方がいいくらいです。もちろん、美琴ちゃんが私のことをどう思ってくれてるかは別の問題だけど」とレイナは言ったところで、橘美琴の方を見た。橘美琴はうっすらと笑みを浮かべた。その表情は雪をかぶった牡丹の花を連想させた。僕は窓の外を見た。紫と黄色の牡丹の花びらには再び雪がかかっている。
「タイで事故をした後で日本に帰ってきた私は、結婚して、離婚もしました。全てを失ったけど、絶望はしなかった。小さい頃から独りぼっちには慣れていたからです。そんな私を慰めてくれたのは、懐の深い自然の美しさでした。私は学生時代からお世話になっていた出版社の方からちょっとした執筆の仕事をいただき、そのお金で旅を始めました。『捨てる神あれば拾う神あり』とはよく言ったものです」
 その時僕ははっとさせられた。笑顔で話すレイナの下まぶたには、涙が光っていたのだ。

うれしかったこと

 こんな私でも、どうしようもなくふさぎ込んでしまう日があります。特に毎年のことですが、この時期はそういう日が多いです。何でも今は「冬眠性鬱病」なる病気まであるそうです。この病気に悩まされていた女の子を知っていますが、たしかに彼女はこの時期になると激しい頭痛に襲われて、ベッドから出ることすらできませんでした。

 ありがたいことに、昨年末からいろんな仕事の締め切りに追われる毎日で、今日などはほとんど休憩なしで動き回ったために、もうふらふらでした。そういう時に何かにつまづいたり、締め切りに間に合わないのではないかという嫌なプレッシャーを感じたりすると、どうしても自分を責めてしまう・・・それが私です。

 私には愛すべき21人の子供たちがいます。彼らは本当の兄妹ではないのに、本当の兄妹にひけを取らないほどのあたたかい絆で結ばれています。
 今日、私の仕事のパートナーが、「大丈夫です、あの子たちがついていますから」と私に声をかけてくれました。あの子たちは決して恵まれた境遇にいるわけではないのに、毎日を精一杯生き、笑顔という最高の宝物をもっています。そして、何より私を必要としてくれている。私もまた、彼らを必要としています。

 誰かに必要とされることによって、いかに勇気づけられるか。
 私よりもずっと年下の彼らから、いちばん大切なことを教わった気がします。

 くじけかけていた私でしたが、もう一度立ち上がる気力を彼らが与えてくれました。

 明日も皆様にとって、いい一日でありますように・・・


(明日からも「京都物語」をよろしくお願いいたします。)
 


京都物語 260

 レイナは頭を軽く左右に振って、額にかかった髪をはねのけた。その後で「今日、私と美琴ちゃんは大学を卒業して以来、ずいぶんと久しぶりに再会しました。たしか、7年ぶりになるのかな?」と橘美琴に向かって投げかけた。橘美琴は突然夢から醒めたようにはっと顔を上げ、レイナの方を向いて、不安定に頷いた。
「私はタイに留学して、そこで大きな事故を起こしちゃったものだから、そのせいで美琴ちゃんとはなかなか会えなかったんだけど、こうやって久々に再会すると、ああ、やっぱり友達っていうのは心の深いところでつながってるんだなって、実感するんです」
 そう言ったレイナの瞳には、どうやら力強さが戻ってきたようだ。
「私、人から社交的に見られるんだけど、じつはすごくシャイなところがあるんです」と彼女は続けた。「小学生の頃から、自分は他の女の子たちとは違うんだということを実感しながら生きてきました。今思えば、妙に大人びたところがあったんですね。冷めてたっていうか。たとえば、服装とか、音楽とか、他の女の子たちが飛びつくような流行りものには全く興味が持てませんでした。その代わりに、花とか虫とか、そんなちっちゃな生き物や、山や海などの美しい景色に心が引かれました。それで、周りの子たちからはのけ者にされ、あまり話しかけられることもなかったです。自我が目覚めるまで、だから私はわけもなく独りぼっちだったのです。本を読むようになった最初のきっかけは、孤独を埋め合わせることでした」
 橘美琴は涙の跡を頬に光らせながら、レイナの話を聞いている。肩越しにはレースのカーテンがかけてあり、その向こうには不揃いな大きさの雪が落ちている。
「私の自我が目覚めたのは」とレイナは声を低くした。「美琴ちゃんとの出会いがすごく大きかった」

京都物語 259

 もはやレイナからは昨日までの自由奔放な空気は感じられない。冗談を言うのが好きな彼女だったのに、今はちょっと近寄りがたい雰囲気すら漂っている。だがその目元だけはどこか寂しげだ。さっきのストーブの部屋で何も話さずに自らの世界に引きこもっていた姿が思い起こされる。その時、僕の心は、少なからず揺さぶられた。あれから彼女の亜麻色の瞳には愁いの色がにじみ始めている。
「冷泉帝を産み、桐壺院が崩御した後、藤壺は突然出家して仏門に入りました。そんな藤壺でしたから、最後は夢の中で光源氏と語り合うというのは、自然な流れとして入ってきました」とレイナはその瞳とは裏腹に能弁に語った。「光源氏の方も、藤壺と契りを交わした夜、現世では逢瀬を重ねることが難しいのなら、せめて夢の中で愛し合いたいと切ない願いをかけたわけですから、最後はお互いの望みが成就する形で『藤壺物語』は閉じられているのです。それは、『チャイコフスキーの恋人』と同じ終わり方です」
 まるで何かのシナリオを読んでいるような話しぶりだ。
「つまり、すべてが夢の世界で結ばれるというのは、真琴先生の願いなのだと思います。そして、そこに共感できる読者も確実にいると思います。なぜなら、夢には死がないからです。極楽浄土のように、永遠性があります。その世界を信じることは、はかない人生の意味を考える時、大きな慰めになるでしょう」
 ここでレイナはふっと息を吐いた。
「ただ、美琴ちゃんはどうなるのでしょう?」とレイナは本来のかすれた声でささやきかけた。「冷泉帝のように帝になるわけでもない。ならば、夢の中に昇華するのですか? そのことが、さっきからずっと気にかかっているのです」

京都物語 258

「夜居の僧都が冷泉帝に出生の秘密を詳しく語ったのは、事実を申し上げないことによる仏罰が恐ろしいという思いからでした。悪夢のような話に思い乱れた冷泉帝は、実父である光源氏に譲位を求めますが、光源氏はそれを拒みます。結局冷泉帝は失意のまま国政を司りつつも、光源氏を官僚の最高位である太政大臣に置きました。『光源氏には帝になる相があるが、そうなると国に乱れが生じる。かといって補佐役でもない』という桐壺院が召喚した高麗の相人の観相通りになったというわけです」とレイナは言い、さっきまで真琴氏がやっていたように、テーブルの上で手を組んだ。それにしてもレイナは左目と左耳が不自由であることが信じられないくらいにしっかりした受け答えをしている。その横顔を見ながら、彼女には本当に別の魂が宿っているのではないかと思った。レイナも真琴氏も第6感が冴えていると自認している。その人並み外れた感覚に、何らかの魂が乗り移っているのではなかろうか?
 魂? 
 背筋に寒気が走る。レイナの言葉こそが言霊の世界ではないかという予感が胸を駆けめぐる。言葉には魔力がある。言霊がレイナに入り込んでいる。そういうことなのだろうか?
「藤壺は、光源氏に向かって、死後の世界から語りかけます」とレイナは表情を崩さずに続けた。「亡き桐壺院の御遺言通り、冷泉帝の後見を立派につとめてくださる姿を、長年の間、ずっと近くで見てまいりました。その感謝の思いをどうやって伝えればよいものかと、ゆったりと考えておりましたことが、今となっては本当に残念で・・・」
 レイナは藤壺の言葉をそう代弁した後で、組んでいた指をほどき、膝の上に載せた。
「藤壺と光源氏は、最後は夢の世界で言葉を交わします。真琴先生の描かれた『藤壺物語』は、そこで終わりです」

京都物語 257

 真琴氏は何かを言いかけたが、直前で言葉を呑み込んだ。そうして静かに胸元に手を当てた。これがこの人の動揺する姿なのだと思った。
 レイナはそんな真琴氏に向かって「ずっと気になっていることがあるんです」とさらに話しかけた。真琴氏はまぶたを大きく開けてレイナを見た。
「言葉には魔力がある。ひとたび表に出た言葉は、現実の世界を支配することすらある。真琴先生の言われる言霊とは、そんな世界だと解釈しています」とレイナは言った。真琴氏は何の反応もせず、ただ見下ろすようにレイナを捉えた。だがその黒い瞳だけはかすかに震えている。
「これまでに真琴先生がされた話を総合しますと、藤壺と光源氏の契りは、真琴先生と貴博さんの関係と一致しているということです。しかもそれは言霊の世界の出来事です」とレイナは言った。真琴氏にはやはり何の反応も見えない。「私が気になるのは、その後の話です。光源氏と藤壺との間に産まれた罪の皇子は、やがて冷泉帝として即位します。ところが、冷泉帝は、母藤壺が37歳で息を引き取り、まだその悲しみに暮れている時に、夜居の僧都から自らの出生の真実を聞かされます」
 つまり藤壺は自らの秘密を他人に打ち明けていたということだ。その夜居の僧都とはいかなる人物なのだろうか。そんなことを考えていると、僕の胸の内を見透かしたかのようにレイナが話を続けた。「自らの心にしまっておくことができるほど、藤壺の犯した罪は小さなものではなかった。だから彼女は、母の代からずっと護身の祈祷をしてくれている僧都にだけ真実を打ち明け、せめてもの救いを得ようとしていたんですよね」とレイナは言い、両肘を黒木のテーブルの上に置いた。

京都物語 256

「『チャイコフスキーの恋人』が貴博さんに音楽的霊感をもたらしたことを証明するのに、もう1つエピソードがありますよね」とレイナは言い、亜麻色の瞳を真琴氏に向けた。
「貴博さんは、敦賀湾の原発を飛び出した後、すぐにモスクワに渡っています。でも当時はまだ旧ソ連の時代で、冷戦が続いていました。自由に音楽を学ぶことに息苦しさを覚え始めた貴博さんは、アメリカに渡ってさらなる音楽性を磨かれたんですよね」とレイナは言った。「チャイコフスキーの継承者とも言われるラフマニノフをはじめ、優れたロシアの音楽家たちもアメリカに渡っていきました。貴博さんは彼らと同じことをしたのです」
 真琴氏は表情を変えぬまま、目だけ静かに閉じた。
「つまり貴博さんはアメリカに渡る前の約3年間をモスクワで過ごされました。だから音楽を修得するのに要した年月は5年ではなくて、正確には8年だったというわけです」
 レイナはやはり淡々とそう続けた。昨日までとは別の魂が宿っているかのようだ。
「もちろん、そのことはテレビ番組でも紹介されたはずです。まさか、真琴氏がご存じでないはずがありません」とレイナは思わせぶりな口調でそう言った。真琴氏は閉じていた目をゆっくりと開けて、まっすぐ前を向いたまま「さすがレイナさん。よく調べてらっしゃるわね」とこの人らしい味わいのある声で答えた。「それにしても、一体どこでそんなに詳しい情報を入手されたのかしら?」
 レイナはそれについては何の反応もしなかった。真琴氏はふうと声を出しながらため息を吐いた。
「貴博さんは、音楽家としての名声を得た今もなお、真琴先生のことを思い続けていらっしゃいます」とレイナは小さく言った。「私の第6感がそう伝えています」

京都物語 255

 真琴氏もレイナの方に顔を向けた。
「たしかに『チャイコフスキーの恋人』の心理描写は極めて緻密で、だからこそ当時の文壇から、幻想的でありながら現実的な作品と評されたのだと思います」とレイナは淡々と言った。「ただ、主人公がチャイコフスキーと愛し合うというファンタスティックな設定でありながら、それが単なる絵空事に終わらなかったのは、心理描写だけによらないと私は捉えています。音楽に関する表現が非常に的確だったからではないでしょうか?」
 そういえば僕が六条ホテルの部屋であの小説を読んだ時にも、似たような感想を持った。特にチャイコフスキーが最後の交響曲『悲愴』に取り組む際の描写は鬼気迫るものがあった。驚くほどすんなりと浮かんできた第1楽章、ロシア民謡に見られる一風変わったリズムがどこか切ない第2楽章、イタリアのスケルツォの色が濃く反映された第3楽章、そして彼の人生の集大成とも言える壮大な第4楽章。音楽の知識のほとんどない僕でさえ、交響曲を肌で感じることができた。それほどの描写だった。
「それはあるかもしれないわね」と真琴氏は言い、軽く咳払いした。「あの小説も『藤壺物語』の感覚とよく似ていて、後で読み返してみた時に自分が書いたのだという実感がまるでなかった。もちろん事前にかなり取材をしたわ。学生時代、私は音楽科のある高校に通っていたのだけど、楽典の教科書を引っ張り出してきて、丁寧におさらいもした。でも、実際に書く時にはそんなことは意識しなかった。ただ夢中で筆を進めただけ」
「だとすれば、それこそが奇跡ではないですか?」とレイナは畳みかけるように言った。「貴博さんは、奇跡によって描き出されたチャイコフスキーに己を見たのではないのでしょうか。つまり、言霊の世界に含まれていた」
 レイナのその言葉は、新たな種類の沈黙を部屋の中にもたらした。

京都物語 254

「最初は何かの間違いかと思った。夢の世界の出来事じゃないかと」と真琴氏は言い、「光源氏が憧れた、夢の世界」とぼんやりした顔で続けた。
「貴博さんは、幼い頃から音楽をやっていらしたんですか?」と僕が頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすると、真琴氏は「専門的に習っていたことはなかったはず」と答えた。「ただ、お父様は音楽にも造詣の深い方だった。家でもしょっちゅうベートーベンやブラームス、それからマーラーあたりの交響曲を聴いていらしたから、その影響を受けたというのはあるかもしれない。それにしても、アメリカに渡ってたった5年で、作曲と編曲、それから指揮を修得されたというのは、人並み外れたこと。その時のテレビ番組も、貴博さんの音楽を奇跡だと評していた」
 ふと橘美琴に目をやる。つい今まで顔を上げていた彼女は、力なくうつむいている。よく見れば、下唇を噛みしめている。
「でも、その話を明子さんにした時、彼女は奇跡なんかじゃないと言い切った」と真琴氏は述懐した。「奇跡とはそういうものではない。それは、貴博さんの才能であり、努力の成果なのだと明子さんはおっしゃった。一般的な人には5年という時間は短いかもしれないが、貴博さんにとっては十分だった、と」
 そう言った真琴氏の誇らしげな表情は、どちらかといえば母親のそれに近かった。するとレイナが抑揚のない口調でこんなことを話した。
「たしかに明子さんの捉え方にも一理あると思うけど、私の見方は少し違う」
 橘美琴がすっと顔を上げたのが横目で確認できた。
「貴博さんは、真琴先生が書かれた『チャイコフスキーの恋人』に影響を受けたのではないでしょうか?」

京都物語 253

「何の連絡もなく、ですか?」と僕が聞くと、真琴氏は「そう」と頷き、「貴博さんはその分野においてもずいぶんと期待されていたようだから、職場の方々にはご迷惑をおかけすることになったでしょうね」と続けた。
「だとすれば、明子さんのご主人が貴博さんのことをご存じだった可能性はかなり高いですね」とレイナが話に入ってきた。
「そればかりは分からないわね。だって明子さんのご主人はすでになくなっておられるわけだし、私も、貴博さんとはあれから全く連絡を取っていないから」と真琴氏はもの寂しげに言った。「明子さんも、さっきも言ったように、運命とか奇跡を強く信じる人だから、そこのところを深く掘り下げようとしていたけど、結局のところ、事実は藪の中だった」
「で、貴博さんの行方は、未だに分からないのですか?」
 僕がそう聞くと、真琴氏はすっとこちらに顔をやり「失踪してから5年後に突然現れたわ」と答えた。
「どこにいたんですか?」
「テレビの中よ」
 真琴氏の言葉に僕の頭は混乱した。
「貴博さんはアメリカに渡っていた。そこで音楽家として大成されていた」
 頭の混乱がますます大きくなったところでレイナが補足説明した。
「音楽家の立花博って知らない?」
 僕でさえ聞いたことのある有名な音楽家だ。たしか最近では映画の音楽なども手がけている。
「あの人の本名が、橘貴博さん」とレイナは静かに言った。

京都物語 252

「原子力の研究者?」と思わず声が出た。「亡くなった、明子の夫と同じだ」
 真琴氏はゆっくりと僕の方を向き、「奇遇というか、日本は本当に狭いというか、なんとも言いようがないわね」とつぶやきながら、少しだけ頬を緩めた。
「ということは、真琴先生はその事実をご存じなんですね?」と僕が問うと、真琴氏はあっさりと返答した。
「明子さんが私の話に惹きつけられた最終的な要因は、私たちが原子力でつながっていたからなの。彼女は運命とか奇跡とかを強く信じるところがあるから。それにしても、科学分野とは最も遠いところにいるはずの私たちが・・・おかしなつながりね」
「貴博さんと明子の夫に、直接のつながりがあったわけではないんですよね?」
 僕が声をうわずらせると、真琴氏は手を口元にやって、ふふふと声を上げた。
「あなたと明子さんは、よく似たところがおありなのね。彼女も同じことを聞いてきたわ。しかもあなたと同じ目をして」と真琴氏は言った。「でも、それが、2人は同じ職場で働いたことがあったかもしれないの。明子さんのご主人が亡くなったのは、敦賀湾での原発事故の時だったでしょ」
「そうです。彼は事故の処理に追われて、数日寝ずに働き続けたんです。その末の過労死だったと聞いています」
「貴博さんはその事故の半年前までそこにいたの。あそこは原発でありながら、国の実験施設としての性格が強くて、貴博さんもその研究に関与していたから。その話をして、私も明子さんも、それはもうびっくりよ」と真琴氏は黒く深い瞳を久々に輝かせた。「でも、貴博さんは、お父様が亡くなった後、突然姿をくらましてしまった。だから事故には遭遇しなかった」

京都物語 251

 真琴氏の話を聞いて僕は、いまわの際で光源氏の話をした桐壺院の心中に思いを馳せた。桐壺院は、最愛の息子に「源氏」の姓を与えて臣籍に降らせたことに最後まで心残りがあったのだ。しかしプライドの高い弘徽殿女御や、何かと手厳しい世間の目が気になる以上、それは致し方のないことだった。逆に言えば、桐壺院はそれほど光源氏を愛していたということだ。桐壺院にとって光源氏は「公」ではなく「私」だった。そんな人間的な心を持っていた桐壺院に僕は共感した。
 すると、真琴氏が再び口を開いた。
「お父様が亡くなった後で入院した私は、再び死ぬことを考えた。以前病室にお父様が生けてくださった牡丹の花がないという当たり前の事実が、ほんとうに寂しかったの」
 窓の外の牡丹の雪は重みで滑り落ちたのか、今は2輪とも鮮やかな色が窺える。
「でも、私には美琴がいた。死ぬことなんてできなかった」と真琴氏は言った。「それで、せめて寂しさを紛らわせるためにと、病室で『藤壺物語』を読み返した。桐壺院の崩御に際して必死になっている藤壺の姿に私は勇気づけられたの。自分が書いた小説だとは、とても思えなくなっていたわ」
 真琴氏は次第に語気を強めた。
「お父様が貴博さんに向けて『自分を許してやりなさい』と言った最後の言葉が、悪い呪いのように私を苦しめていたのだけど、それがだんだんと軽くなっていった。お父様は、美琴の出生の秘密をご存じだったのではなく、貴博さんの気質についてそうおっしゃったのかもしれないと思えるようになったの」
 僕はふと橘美琴に目をやった。泣き声が聞こえなくなっていたからだ。しかし頬から口にかけては涙でびちょびちょに濡れている。それで再び真琴氏に視線を戻した。
「その時貴博さんは大学院を出て就職したばかりだった。原子力の研究者だった彼は、完璧主義のところがあって、お父様はそのことを憂慮されていたの」と真琴氏は言った。

京都物語 250

 僕が「桐壺院?」と口走ると、レイナが横目でこっちを見て「この時、桐壺帝は、正妻である弘徽殿女御との間に産まれた朱雀帝に皇位を譲っていたの。それで、自らは院として、1歩下がったところで発言するようになっていたのね」とささやいた。頭の中で人物関係を整理している僕を尻目に、真琴氏は話を続けた。
「まだ『藤壺物語』を書いている時、私は桐壺院崩御の場面を何度もこだわって朗読した。どうしても気になるところがあったの。人一倍分別をわきまえたはずの藤壺が、なぜ弘徽殿女御を押しやってまでも桐壺帝の最後を看取ろうとしたのかということ。もちろん彼女には深い罪の意識があった。光源氏との不義の子は、東宮として次の皇位を約束される地位にいたのだけど、そのことがどこまでも自分を責めた。東宮は帝の子供ではないのだから」
 橘美琴の泣き声は心なしかおとなしくなっていた。
「それゆえ、この場面で、藤壺には危機感があった。政敵である弘徽殿女御よりも前に出なければならなかった。死を間近にした桐壺院と、光源氏と東宮の前で、もし何かつらいことを言われたりすれば、桐壺院は死んでも死にきれないだろう。だからこそ、どうしても自分が1番前に出て余計な発言を制さなければならなかった。藤壺は必死だったの」と真琴氏は説明した。「でも幸いなことに、最後まで藤壺の危惧することにはならなかった。あの弘徽殿女御でさえ、藤壺の静かなる迫力に遠慮してしまった。そして桐壺院は、自らの臨終に及んで、高麗の相人による観相結果を持ち出し、『光源氏には帝になる相があったのだが、あえて人臣の立場で国務を任せようとしたのだ』と言い残して、亡くなっていった」

京都物語 249

 橘美琴がついに泣き崩れた。その姿は波にすくわれた砂の城をイメージさせた。彼女は椅子に座ったまま頭を深く垂れ、臆面もなく声を上げた。僕は同情せざるを得なかった。この女性とは今日初めて出会ったとは、もはや思えなくなっていた。
「お父様が亡くなられた時のことは美琴もよく覚えているはず」と真琴氏は泣いている娘に向けてそう言った。「ただ、あの時、私と貴博さんは、あなたとは全く違う境遇に立たされていて、あなたが想像もしなかったことで胸を重くしていたの」
 真琴氏はそう言ってから、ようやく娘を見た。どういうつもりか、至極落ち着いた表情だった。
「だから長い間私を苦しめていたのは」と真琴氏は声を一段低くした。「お父様がすべてをご存じだったのではないかという恐怖だった」
 アロマミストの蒸気が再び出なくなっている。なんとも不思議なことだ。さっき補充したばかりなのに、こんなにも早く切れるものだろうか? それともタイマーが起動して、自動的に停止したとでもいうのだろうか? 
 ただ、そんなところに首をかしげている場合ではなかった。
「貴博さんに向けて『自分を許してやりなさい』とおっしゃった言葉が呪いのように頭から離れなかった。真琴も知ってのとおり、お父様が亡くなった後、私は心を病んで入院することになったけれど、そこにはそんな理由があったのよ。でも、絶望の淵で私を救ってくれたのも、やはり『源氏物語』だった」と真琴氏は言い、息を吐いて天井を見上げた。「桐壺院の崩御の場面での藤壺の姿が、私を慰めてくれた。彼女は全てをさらけ出したの」

京都物語 248

 僕の口から溜め息が漏れた。言葉では説明しようのない暗さがすべての光を覆い隠して、僕を深い影の中に落とし込んだ。
 僕はふと、橘美琴の方を見た。思わず視線が行ってしまったのだ。彼女は背筋を若干丸め気味にして、静かに座っている。だがよく見てみると、目の下は濡れている。レースのカーテンから漏れるやわらかな日差しが涙を照らしている。それを見た時、僕にのしかかってきた影がよりいっそう暗くなったように思えた。
 真琴氏が娘の涙に気づいていないはずはない。世界はこの人によって作り上げられているのだ。しかし真琴氏は冷淡ともとれる表情で前を向いたまま、口を閉ざしていた。すると、予期せぬところから、久しぶりにレイナが口を開いた。
「ぶしつけなお話ですが、ご主人は亡くなっておられますね?」
 僕はレイナの横顔を見た。豊かなソバージュの髪、金色のピアス、紫のダウンジャケット。それらが改めて息を吹き返したかのように主張し始めている。真琴氏は目だけレイナに向けて、「美琴が小学生の時に亡くなられた。ご病気だった」といかにも冷静に言った。だがその口調とは裏腹に、眼鏡の奥の瞳には憂いの色がにじんできた。
「息を引き取られる直前のことだった。それまで苦しみに顔を歪ませていらしたお父様は、急に慈悲深い表情になったの。まるでそこだけ西日が差すかのようだった。私は奇跡を目撃したような気すら覚えた。お父様は目をやさしく開けられて、『貴博と美琴ををよろしく頼む』と私に言われた。そうして、今度は貴博さんに向けて『貴博、自分を許してやりなさい』とおっしゃった。突然の言葉に、私が胸を射抜かれた思いで立ちすくんでいると、お父様は静かに息を引き取られた」

京都物語 247

 そう言った後で、しばしの間、真琴氏は言葉を失った。口を中途半端に開けたまま、静物のようにそこに固まっていた。
 それにしても、この完璧なまでの静寂は何だろうと思う。外に降り続く雪もアロマミストの霧も、すべて静寂の中に含まれている。世界の主は真琴氏だ。真琴氏以外のものは、この人の手によって作り出されたものにすぎない。実に不可思議な感覚だ。明子もこうやって真琴氏の世界に包み込まれたのだろう。
 明子はしたたかさと脆さを併せ持った女性だ。固く心に決めたことは誰に何と言われようと決して変えないが、裏側には危ういまでの不安定さを抱える。その非常な脆さが、真琴氏の神秘的な世界に引き寄せられたことは十分に想像できる。
「お父様はあの時、産まれたばかりの美琴を眺めながら、この子は亡くなった前の奥様の面影を持つと、しみじみとおっしゃった」
 真琴氏は今言ったばかりの言葉を、静かに復唱した。
「その、お父様の言葉が耳に入った時、ああ、終わったな、と思った。もちろんお父様は真実を知っていたわけではない。美琴が前妻の面影を引きずっているという第一印象を、口に出さずにはいられなかっただけのこと。そのことは、お父様にとっては、むしろ嬉しいことだったの。だからこそ『笑い話』として聞き流してほしいとおっしゃった。でも、その『笑い』の内容は、お父様と私では天国と地獄ほどの違いがあった。たしかに美琴が私と貴博さんの間に産まれたという事実自体、『笑い話』と言えるかもしれない。でも、私は、笑うことなどできなかった。それどころか、まともに息をすることすらできなかった」

京都物語 246

 真琴氏はレイナの回答にほんの少しだけうなずき、それからまた、ゆったりと話を続けた。
「あの時、私が死のうか生きようか逡巡としているうちに時間だけが経ってしまって、結局死ぬことができずに、実家で美琴を産むことになった」
 そう言って真琴氏は左手で頬杖をついた。さっきもそうだったが、この人の頬杖はこの人をより若く見せる。
「お父様は早く娘の顔が見たいと、何度も電話で急かされたけれど、私は少しだけ待ってほしいと言って、拒んだ。1つには私の疲弊があった。予想以上の難産だったから、身体はボロボロで、そんな姿をお父様にさらすわけにはいかなかった。ただ、もちろんそれだけではない。あなた方はもう十分にご承知でしょうけど、心の整理をつけるために、ほんのわずかの間でもいいから、私には時間が要ったの」
 真琴氏はそう言って頬杖をやめ、その手で首筋を軽く掻いた。
「初めて美琴と対面した時、感激で胸がいっぱいになって、涙がこみ上げてきた。この子は、どんなことがあっても私が守らなければという思いがマグマのようにわき上がってきた」と真琴氏は娘から視線を逸らして話した。僕も橘美琴の方を向くことはできなかった。彼女が一体どんな顔で母親の告白を聞いているのか、想像するだけで申し訳ない気がした。
「美琴が産まれてから3日後、とても蒸し暑い梅雨のさなかだったけど、お父様は私の実家を訪ねられた。ある程度気持ちの整理はついたたはずだったのに、お父様の姿を見た途端に恐ろしくなってきて、体中ががくがくした。お父様は美琴を抱きかかえながら、突然こんなことをおっしゃった。
「あくまで笑い話として聞き流してほしいんだが、この子には死んだ橘忍の面影が感じられるよ」

歌う民族

 大晦日の「紅白歌合戦」、皆さんはご覧になりましたか?
 私はと言いますと、あの日は何かとドタバタしておりまして、ふとNHKをつけたら、お目当ての歌手の出番はすでに終わっていて、切ない思いをしました。それにしても、どうしてあの番組が日本人の心を打ち続けるのでしょうか?

 ところで、日本の古典文学は奈良時代に興りました。『万葉集』という和歌集が有名ですよね。日本文学が歌から始まったというのは、大変なことだと思いませんか? 日本人は堅苦しいものや、ぎくしゃくしたものではなく、歌を大切にしてきた民族だというわけです。

角島の 追門(せと)の稚海藻(わかめ)は 他人の共 荒かりしかど わが共は 和海藻(にきめ)

『万葉集』に収められている歌です。角島というのは山口県の日本海側に浮かぶ美しい島。追門というのは流れの速いところです。そこのわかめ(海藻・若い女)は、他人といるときは荒々しいけど、俺といるときには、とてもおだやかでやさしいんだと歌われています。
 時は今から約1300年前。男たちは海辺で仕事をしています。そこで「あの女の子はほんとうは俺のことが好きなんだ」と競い合うかのように歌っているのです。漁具や機械もない時代。男たちの労働は決して生やさしいものではなかったはずです。だからこそ彼らは歌を歌い、苦しみを楽しみに変えていた。それは人生を楽しむための知恵だったとも言えるでしょう。
 
 つらい現実を少しでも楽しくするための手段。それが歌だったわけです。

『源氏物語』の中にも、実に多くの和歌が登場します。中には「引き歌」と言って、当時の有名な和歌がそれとなく文章の中に踏まえられていたりします。平安時代になると和歌の性質も奈良時代とは変わり、深刻さや艶めかしさを帯びてくるわけですが、自らの切ない恋心を歌に託して、せめてもの慰みにしようとする心は同じようです。

 さて、「紅白歌合戦」に話を戻します。大晦日には日本中のほとんどの家で観られているこの番組で、すごいなと思ったのは、私がまだ子供の頃に流れていた歌が今なお歌われていることです。たとえば石川さゆりの『天城越え』などは、この年齢になって、歌詞の深みに共感できるようになっています。

 今も昔も、日本人はやはり歌によって励まされ勇気づけられる民族のようです。

京都物語 245

 真琴氏はそうつぶやいた娘の顔を確固たる視線で捉えた。それは母親の目と言うよりは、教え子を見つめる教師の目のようだった。
 僕の眩暈はいつの間にか治まり、頭の中はまるで二日酔いが覚めたかのようにくっきりとしていた。蜃気楼かと思っていた景色は、実は本物の遠景だった。しかしよくよく見てみるとそれは漠たる遠景でもなく、ほんの間近に広がる景色だった。僕の頭の中の感覚を表現するとそんな比喩になる。橘美琴は、真琴氏と貴博氏の間に産まれた。その事実を真琴氏は今初めて娘に告白した。そこに至るためのキーパーソンが、レイナだった。そう考えると、新山口駅で偶然(?)レイナと出会った僕も、今回の告白に多少なりとも絡んでいる。ということは、明子も関係している。そもそもの発端は、明子からの手紙だったのだ。真琴氏はこれらのつながりをまとめて「縁」と表現したわけだ。
 すべては真琴氏の手のひらの中で起こったことのように思えてならない。レイナも真琴氏もそれから僕も、真琴氏の作り上げた物語に描かれる登場人物だ。だとすると、真琴氏の対極にいるのが明子だ。明子は真琴氏から大きな影響を受けつつも、手のひらに収まっていない。僕には明子の声が聞こえる。彼女は僕に、彼女自身を見いだしてほしいというメッセージを送り続けている。窓の外に降り続く雪の中に明子の肖像を感じる。雪に耐える牡丹に寄り添うかのように、明子の存在はそこにある。
「密会の後、藤壺は光源氏との子供を産むのね。私と同じように。で、その事実を知らない桐壺帝は、その後どうなると思う?」と真琴氏は明らかに僕に向かって言ってきた。するとレイナは「その子にこの上ない愛情を降り注ぐ」と僕の代わりに答え、その後で「しかし、まもなく病気にかかって亡くなってしまう」と続けた。

京都物語 244

「貴博さんが私の病室を訪ねてきたのは、後にも先にもそれっきりだった。退院した後も、私は伏見の実家に里帰りして療養することにした。貴博さんが大学入試を控えているがゆえに、身重の私が迷惑をかけるわけにはいかないというのが表向きの理由だったけど、本心はもちろんそうではなかった。『藤壺物語』を書き上げたら死のうと思っていた願望は完全に消えてもいなかった。ただ、半年にもわたる入院生活で、お腹の子は、つまり私と貴博さんの子供は、お腹を裏側から蹴飛ばすようになっていた。これまで感じたことのなかった命の力が、身体で実感できた。どうすればよいのやら、まだ気持ちの整理がきちんとついていなかった私は、とにかく貴博さんとそれからお父様と、しかるべき距離を開けておきたかったの」
 アロマミストから放射されるラベンダーの香りが次第に明確になってきている。さっきまでぱさついていた瞳には、いくぶんか潤いが戻ってきたようだ。僕はその目で橘美琴を見た。すっかり瞳の輝きを失ってしまった彼女の表情は、平安期に作られた、朽ちかけた仏像を思わせた。視線を送り続けることが憚られるほどに、彼女は疲れ切っていた。
「貴博さんは実力通りに大学入試を突破され、京都大学に入学した。その年の6月のこと。例年以上に雨の多い年で、私が再び入院した日も、それはもう痛々しいくらいの雨が地面に突き刺さっていた。そうして、6月29日。私は女の子を出産した。3日にわたる陣痛を耐えての出産だった」と真琴氏は言った。
「6月29日」と言ったのはレイナだった。すると橘美琴が「私の誕生日」と他人事のように、力なくつぶやいた。

京都物語 243

 僕はさっきの眩暈の余波をまだ引きずっていた。真琴氏が見たという病室の光景が、どういうわけか鮮明に浮かび上がってくるのだ。ベッドの他にはテレビしかない部屋。赤いブラウン管テレビの横には花瓶が置いてあって、花が生けてある。牡丹だ。紫と黄色の大振りな牡丹が1輪ずつ挿してある。
 牡丹? 咄嗟に窓の外に目をやる。レースのカーテン越しに咲く牡丹が見える。全く無意識のうちに僕の口が言葉を発する。
「病室には、牡丹が生けてあります」
 すると、橘美琴とレイナが静かにこっちを向き、少し遅れてから真琴氏の黒々とした瞳が僕を捉えた。「あの牡丹ね」と真琴氏はすんなりと言い、庭の牡丹に視線を送った。「この家は元々は私の祖母が住んでいたんだけど、亡くなってからは廃屋同然になっていた。私が結婚した後、お父様が整備されて、別荘のように使われるようになった。お父様はあの牡丹たちをそれは可愛がっておられた。私の病室にあった牡丹は、お父様が生けてくださったのね」
 真琴氏の説明の間も、橘美琴とレイナは揃って僕を見つめていた。
「思い出したわ。ヤマシタさんが今言われたように、あの時私は牡丹の花を見つめていたの。そして生きるということについて考えを巡らしていた」と真琴氏は心なしか声を大きくした。「そこに高校の制服を着た貴博さんが突然入ってきた。あの人は一言も話さなかった。全てを悟っていらした。言いたいことは山ほどあったはず。でも、お腹の大きくなった私を見て、思いがあふれて、言葉が出なくなったのね。あんな貴博さんを見るのは初めてだった。あの人は、苦しみに満ちた表情だけ私の脳裏に焼き付けて、静かに病室を出て行かれた。現実に引き戻された私は、胸が切り裂かれるかのようだった」と真琴氏は言って、唇に指をあてがった。 

京都物語 242

 真琴氏は寂しげに声を震わせて話した。風に揺すられる枯葉を連想させる声だった。
「その時の病室の光景を私は忘れない。永遠に忘れることはない」と真琴氏は言い、瞳だけうつむけた。「その光景を見た瞬間、これまで抑え込んでいた感情や新たに沸き起こった感情が、竜巻のように一気に押し寄せてきて、フラッシュみたいに頭の中で光って、そのまま私は再び気を失った」
 真琴氏がそう言った時、僕は眩暈を感じた。それが一体何を意味するのか分からない。だが、過去に真琴氏を襲ったという感覚が僕にまで波及してきたような気がしてならなかった。もちろん僕は、気を失うほどの強い感情に襲われたことなどない。だのに、あたかも過去にそういう実体験があったかのごとき錯覚を覚えたのだ。
「奇妙なことに、その後しばらくの記憶が完全に抜け落ちている。結局半年も入院することになったのに」と真琴氏は続けた。「お腹の赤ちゃんの容態が良くなかったの。それはそうよね。ただでさえ不安定な妊娠の初期に、大きなストレスを心身共に負っていたわけだから。ベッドの上の私は、まさに生ける屍だった。お腹は大きくなっていくのに、何も考えていなかった。それは私の適応機制でもあった。だって、何かを考えると、深く傷ついてしまうのは分かっていたんだから。でも、ある時、瞬く間に現実の世界に引き戻されることが起こった。貴博さんが現れたの」
 風が窓ガラスを揺らした。さっきまでまっすぐに落ちていた雪は、斜めに降りかかっている。それでも外はまだ十分に明るい。
「それは彼の大学入試の1週間前のことだった。久々に見る貴博さんは、十分に苦しんでいた。そんな彼の姿を見て私は泣いた。お腹の底から泣いた」

京都物語 241

 そこまで話した時、真琴氏はまるでジョギングでもした後のように息を荒げた。それから十分に時間をかけて呼吸を整え、「冷静に振り返ってみると、貴博さんと夜を過ごしてからというもの、私は自分の限界を超えていたのね」と淑やかな調子で言った。「心が体を超えてしまっていた。若い時にはなかなか実感しにくいことだけど、心よりも体の方が正直なの。健全な身体には健全な精神が宿るっていうけど、あれはほんとね。私が『藤壺物語』を書き終えて、ほっとした途端に意識を失ってしまったというのは、だから私の心に対して、身体が反乱を起こしたの」
 レイナも橘美琴も、さっきから変わらぬ様子でじっとしている。真琴氏に催眠術でもかけられたかのようだ。僕は同じ光景をずっと見ている。しかもずいぶんと長い時間だ。どれくらい経ったのか予測する気力すら湧かないくらいの長い時間だ。
 外では、太陽はいくぶんか傾いたようでもあるが、スイセン柄のレースのカーテン越しに落ちる雪は、陽の光を受けて、まだ1粒1粒はっきりと確認することができる。
 その中で、橘美琴の表情はごく微細ではあるが変化している。そこだけ母親の遺伝子を強く受けたと感じられる黒々とした瞳からは輝きが消えている。母親の秘め事をましてやこのような場で打ち明けられるというのはどんな心持ちだろう?
「意識を失った私は、お父様の手によって病院に運ばれた。そのことが、私の運命を狂わせた。いや、正確に言うと、その残酷な事実こそが私に用意されていた運命だった」と真琴氏は絞り出した。「入院したことによって、私は自殺する機会を逸してしまった。妊娠したことを皆に知らされる羽目になってしまったから。目を開けた時、そこにはお父様の顔があった。これまで見たことのないくらいに喜びに満ちたお顔だった。私は咄嗟に病室の中を見回した。幸いに、そこにいたのはお父様だけだった」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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