スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

京都物語 296

 今の言葉について、レイナは神妙な面持ちで考え込んでいる。
「だからね、今回レイナちゃんが私たちの生活にきっかけを与えてくれたということ自体、言霊の世界で起こったことなのよ」と橘美琴は当たり前のことのように言った。どうやら涙はだいたい止まったみたいだ。
 その台詞を聞いて、僕は頭の中心が揺れるのを感じた。予め決められたレールの上を歩かされる人生。京都に来る新幹線の中で、ふとそんなことが実感された。僕には橘美琴の言うことに共感できる部分がある。
 するとレイナは「言霊の世界ねえ」と、ぽつりと漏らした。
「ママは浅茅しのぶの名前で『藤壺物語』を書いた。でもそれはただの作り話なんかじゃなかった。光源氏と藤壺の間に冷泉帝という不義の皇子が生まれたのと同じく、貴博兄さんとママの間には私が生まれた」と橘美琴は言った。渦中にいながらも、傍観者のような話しぶりだった。
「だとすれば」とレイナは何かをひらめいたかのように背筋を伸ばした。「光源氏と藤壺の物語は、紫式部が作り出した言霊の世界ということになる。つまり、紫式部も同様の経験をした」
「そのへん、レイナちゃんは本当に鋭いわよね」と橘美琴は声を高くした。「お昼にママが話したけど、紫式部の人生には謎めいている部分が多いの。あれほど有名な人なのに、独身時代の記録がほとんど残っていない」
「だとすれば、紫式部は、天皇の母親だった可能性もあるわけね」とレイナは慎重に言った。「つまり『源氏物語』は紫式部が作り出した言霊の世界だった」

スポンサーサイト

京都物語 295

「ただ、本当に私はいいことをしたのかどうか、正直わからないのよ」とレイナは言い、ぼんやりと外を眺めた。車が進むにつれて街の明かりも賑やかになってきている。僕は、窓に映る自分の顔を眺めながら、今頃明子は何をしているのだろうかと考えた。
 しばらくしてから橘美琴が口を開いた。
「ずっとママの近くにいるとね、感覚がおかしくなってくるの」
「どういうこと?」とレイナは聞いた。
「ほら、ママって、時々不思議なことを言うじゃない」
「たとえば?」
「運命とか、前世からの因縁とか、夢とか、なんだか非現実的な話」
 橘美琴は小さく涙をすすりながらそう言った。
「いかにも小説家らしい言葉よね」とレイナが感想を述べると、橘美琴は「まあ、そう言ってしまえばそうなのかもしれないけど、ママの場合はまたちょっと独特な感じがするの。たとえば言霊ってよく言うでしょ」
「言葉には霊的な力が宿っている。時にそれは悪魔性を帯びることもある。そうして、言葉にしたことは、現実に起こることすらある」とレイナは、さっき真琴氏が言っていたことを、まるで呪文でも唱えるかのようにつぶやいた。
「一般的な視点からすると、言霊だなんてまともに信じる気にはなれないでしょ」と橘美琴は遠慮がちに言った。「でも、ママと一緒に生活しているとね、私たちは本当に言霊の世界に生かされてるんじゃないかって、違和感なく思えるようになるのよ」

京都物語 294

 まっとうな仕事と、まっとうな生活。
 橘美琴の言葉に、僕の心はかすかに反応した。社会保険事務所での仕事は、彼女のロジックからすると、きっとまっとうな部類に属するのだろう。だが僕は、まっとうな生活を送っているという実感がまるでない。僕自体に問題があるのか、それともそんな生活なんて雲をつかむような話で、この世に実在しないのか。
 京都に来てから2週間とちょっと経っている。僕に残された「まっとうな有給休暇」はあと10日余りだ。もちろん、全部使い切ってしまうのは賢明ではない。つまり僕は、そろそろ京都を出なければならないのだ。だが、まだやり残したことはたくさんある気がする。最終目的は明子を見つけ出すことだ。そこまでには、まだまだ時間と手間がかかりそうだ。しかももし明子と出会えたとして、その時レイナはどうなるのだろう?
 今日1日の疲労の中でそんなことを考えていると、思わずため息が漏れた。その時ちょうど、シトロエンは渡月橋を渡った。
「阪急の嵐山駅でいいからね」とレイナは言った。
「何言ってるの。ちゃんとホテルまで送らせていただくわよ」
「いいわよ。列車を使った方が早く着くだろうし」とレイナが気を利かせて答えると、「寂しいこと言わないでよ。次はいつ会えるか分からないんだから」と橘美琴は落ち着いた言い方をしながら阪急嵐山駅を通過した。それから松尾大社の前を通って、さらに市内へと車を進めた。
「それにしても、ママと2人っきりで暮らすようになってから、まっとうな生活から遠ざかっている」と橘美琴は話を元に戻した。「なにしろあの家と外の世界では時間の流れが違うから、何かきっかけがないと、なかなか抜け出せないのよ。そのきっかけを与えてくれたのがレイナちゃんだった」

京都物語 293

「まして」と橘美琴は力なく続けた。「真実を聞かされた以上、一緒に住むことなどなんてますますできやしない」
 僕もレイナも、黙って同情するしかなかった。
「実はね、私、ママの告白を聞きながら、ずっと、いろんなことを考えてたのよ」と橘美琴は緩やかに右にハンドルを切りながら言った。外では清涼寺の看板が照明に浮かび上がっている。「今思えば、貴博兄さんはママの話をよくしてたなって気がするの。突然原発を飛び出して、音楽の勉強をしにアメリカに渡ったのも、ママの描いた『チャイコフスキーの恋人』に強く感銘を受けたからなの。あの小説を読むたびに、実際に音楽が鳴り響くんだって、お兄さんはそう言ってたもの」
 冬のこの時間帯に嵯峨野の街を歩く人影はまばらだ。僕は橘美琴の述懐に耳を傾けながら、もう一度比叡山の方角に目をやった。建物に遮られて見渡すことはできないが、それでもあの空の下に明子がいると思うだけで、少しは心が慰められるようだった。
「貴博兄さんは、私を見ているのかママを見ているのか、よく分からないことがあったもの。お兄さんが本当に愛していたのは、ママだったのよ」
 橘美琴の後ろ姿は、影法師のようでもある。
「でもお兄さんはママと会うことがどうしてもできなかった。私という子が生まれてしまったからよ。つまり私は罪にまみれた人間ってことよね」
 レイナは「何を言ってるのよ」と口にしたが、言葉の割には語勢は弱かった。橘美琴はレイナの言葉を振り払うかのように続けた。
「そろそろ私も貴博兄さんから離れなければならないのかもしれない」
 涙をすする音が車内に響き渡った。
「何かまっとうな仕事について、まっとうな生活をしたい」

京都物語 292

「美琴ちゃん」とレイナが語尾を上げた。「どうするの? これから」
 橘美琴はハンドルを握りながら、今の質問について考えているようだった。
「私が言う事じゃないんだけどさ」とレイナは今度は声を低くした。「貴博さんと一緒に住むことはできないの?」
 昨日までのレイナらしい、単刀直入な言い方だ。外灯に映し出される彼女の横顔を見ていると、どこか安心できた。すると、橘美琴はふっと息を吐きながら「それは無理ね」と漏らした。
「なんで?」
「だって、貴博兄さんは、結婚してるから」
 橘美琴の言葉に、レイナは唾を呑み込んだ。シトロエンはちょうど化野念仏寺を通り過ぎたところだ。境内の薄明かりが、ほんのり浮かび上がっているのが見える。ここを通ったのが今朝のことだとはとても思えない。まるで前世での出来事のようにさえ感じられる。
 シトロエンはぐんぐんと山道を下り、嵐山に戻ってきた。雪などもうどこにも見あたらない。そればかりか空には雲1つかかっていない。情緒ある、京都の夜空だ。思わず比叡山の方角に目をやった。その時、橘美琴が話し始めた。
「貴博兄さんの奥様は、アメリカで知り合った方で、有名なバイオリニストなのよ」
「ということは、アメリカ人なのね?」
「それが違うのよ。日本人。福井の方よ」
 福井といえば、貴博氏と明子の夫が勤務していた原子力発電所がある場所だ。
「奥様とは何度か会ったことがあるけど、つらくなるだけだから」
 ハンドルを握る橘美琴の後ろ姿は、この世のものとは思いがたいほどに物憂げだった。 

京都物語 291

 外へ出て、橘美琴のシトロエンに乗ったときには、夕日が雪雲を染めていた。車内は凍てつくように寒く、僕の隣に座ったレイナは紫のダウンジャケットに首をうずめた。
 家を出てすぐの竹林を抜けると、道路の雪が倍になった。橘美琴は慎重に、それでも慣れたハンドルさばきでその細い雪道を抜け、ほどなくして県道に出た。すると辺りを覆っていた雪はみるみる少なくなり、シトロエンは快調なスピードで進み始めた。
「びっくりだよね」とレイナは口を大きく開けた。「あっという間に雪がなくなっちゃった」
 彼女は橘美琴に向けて話しかけたと見えた。だが橘美琴は物憂げな表情でフロントガラスを眺めているだけだ。その先が雪であろうが台風であろうが真夏のスコールであろうが、今は目の前の景色に頓着するだけの心のゆとりがないのだ。そんな彼女の観察を瞬時にしたレイナは、溜め息混じりにつぶやいた。
「ごめんね、美琴ちゃん」
 すると橘美琴はルームミラーを覗きながら「やめてよ、そんなふうに言うの。今日は、私たち親子にとっては、本当に大きなきっかけをもらったんだから」と返した。「必然だったのよ。私たち、これまで通りの生活を続けてても、きっと幸せにはなれなかっただろうし」
 レイナはシートに深く腰掛けた。香水の残り香がかすかにジャケットに染みついている。
「私が言っていいことか分かんないけどね」とレイナは言った。「誰も美琴ちゃんを責めることなんてできないよ。だって、美琴ちゃんは事の真相を何も知らなかったんだから」
 橘美琴が力なく笑ったのが分かった。僕は2人の会話に耳を傾けながら、心の中では明子のことを考えていた。彼女は出家して比叡山にいる。真琴氏の作り上げた言霊の世界から、僕たちはまだ抜け出しきれてはいないような気がする。
 辺りは急激に暗くなってきた。嵐山に近づいた頃には、雪はどこにも見えなくなっていた。

京都物語 290

「そろそろ、失礼しましょうかね」と切り出したのは、レイナだった。さっきまではうつろな顔をしていた彼女だったが、いくぶんかすっきりしているようだ。「ずいぶん長いことここにいましたね」
 橘美琴は涙を拭きながら、最後に温かいお茶でも持ってこようかと言ったが、レイナはそれを制した。外はまだ明るさを残してはいるものの、夕刻は着実に足音を近づけているようだ。
「ただ」とレイナは言い、僕の顔を見た。「ヤマシタ君は、目的を達成したの?」
 僕は返答に窮した。ここへ来た目的というのは明子の居場所をつかみ、失われた過去を取り戻したいということだ。明子は僕の元から離れて真琴氏と出会い、この人の影響を強く受けた。そして、おそらくは言霊の世界に含まれながら、今もこの京都のどこかにいる。しかし、今、それ以上のことを聞き出そうとするのもひどく場違いな気もする。早くこの場から立ち去りたいという思いが上回っているのかもしれない。ここへ来て、決して抗うことのできない宿命というものを体感した。それでもう十分にも思えた。
 僕が逡巡としているところに、険しい表情をした真琴氏が「明子さんは、比叡山に上がってらっしゃるわ」と言ってきた。「彼女は出家して、延暦寺にいます。つまり藤壺と同じ道を選んだ。私が踏み切れなかったことを彼女はしたの」
「比叡山」とつぶやいたのもレイナだった。「なぜ?」
 真琴氏は表情1つ変えずに、「ヤマシタさんには、すべて伝わっているはずです」と冷淡なまでに言った。

京都物語 289

 その瞬間、真琴氏の顔色は急変し、凍りついたかのようになった。それでも橘美琴はあくまで自身のペースで話そうとしている。
「その日お兄さんは、たしか夕方までに東京に帰らなければならない用事があった。それで、帰り際に電話番号を教えてくれたの。『電話に出られる時間はきわめて限られているから、もし何かあれば、着信を入れておいてくれればかけ直すよ』って。そして新幹線の改札を抜ける直前に、ふと思い出したように振り向いて、今日のことは、お母さんには内緒にしておいてほしいんだと言って、私が頷いたのを確かめてから、改札の向こうに消えて行った。私は電話番号を登録しながら、ここにかけてもいいのかどうか、分からないでいた。それが、3日も経たないうちに電話がかかってきたの」
 真琴氏の表情は険しさを増してきている。橘美琴はそんな母親の姿を横目で感じながらも「それを機に、私たちは、会うようになったのよ」と気まずさを押し殺して言った。
「あなた、東京に行ったの?」と真琴氏は追及しにかかった。その声は明らかにうわずっていた。娘は黙って頷いた。
「今まで、ずっと会い続けてるの?」
「お兄さんは1年のうちの大半を外国で過ごされるから、そうそう頻繁に会っているわけじゃない。ただ、日本に帰ってこられて時間ができたときに、私が東京に行ったり、京都にあるお兄さんのマンションに行ったり、一緒に旅行へ出かけたりしてきた」と橘美琴は正直に答えた。
「あなた、まさか、貴博さんと」と真琴氏は最も自身を惑わせているであろう質問を投げかけた。すると橘美琴は、再び涙をこぼし始めた。

京都物語 288

 前のめりになって話を聴いている真琴氏は、さらにオレンジのべっこうの眼鏡を両手でかけ直した。
「なんだか今、いろいろと思い出してきたわ。あの時私は、あんこのたっぷり詰まった鯛焼きをほお張りながら、宇治川に浮かぶ中之島を眺めていたの。そこにはかわいらしい橋も架かっていたし、有名な十三重石塔も見えた」と橘美琴は言った。空想の中にいるかのようだった彼女の表情に、力強い現実感が戻ってきた。
「そしたらね、『美琴も大人になったんだから、もう話してもいいだろう』というようなことを貴博兄さんは口走ったの。私は、歩きながら次の言葉をずっと待っていたんだけど、先に平等院に着いちゃった」
「結局、何も話さなかったの?」と真琴氏は結論を急かすように言った。
「それがね、平等院に着いた瞬間に、お兄さんの話のことを忘れてしまったの。ずっと京都に住んでいながら、あそこに行くのは小学校の遠足以来だったから、興奮してしまったのね」
 橘美琴はあくまで彼女の順序に従って話を進めようとしている。
「で、長い列に並んで本尊の阿弥陀如来座像を間近で拝んだ後、境内をひととおり歩いてから、そろそろ帰ろうと思った時、突然お兄さんは『美琴のお母さんは理想的な女性だよ』ってつぶやいたの。それから『僕は、美琴のお母さんのことが、本当に好きだったんだ』とも言った。なんだか、昼のドラマみたいな話だなって、その時は思った。でも、冗談として笑い飛ばせなかった。お兄さんの目は本気だったの」
 真琴氏は肩の力をふっと抜いた。安堵したかのようだ。
「さらに、こんなことを言ってきたの」と橘美琴は続けた。「『今の美琴は、お母さんとよく似ている。恐ろしいくらいにね』って」

京都物語 287

 橘美琴はうっとりとした目でカーテン越しの雪景色を眺めながら話をしている。空想の中で貴博氏と歩いているかのような表情だ。
「宇治は思ったほど人は多くはなかった。私たちは、シャッターの下りたお店の目立つ駅前の商店街をふらっと歩いた。この日も本当に天気がよくて、商店街を進むにつれてお茶の匂いなんかが漂ってきた。ああ、宇治に来たんだなあって実感したわ。そして、お兄さんと一緒にいると、やっぱり心が安らいでゆくのも感じていた」
 そういえば僕はまだ宇治に行ったことはない。真っ先に思い浮かぶのは10円硬貨だ。そこに描かれた平等院鳳凰堂。平安時代のある有力貴族が極楽浄土に憧れて造営したといわれる夢の寝殿だ。
「商店街は宇治川で突き当たる。あの川の流れはいつも急なの。川には大きな木造の橋が架けられていて、たもとには紫式部の銅像がある。宇治は『源氏物語』の最後を飾る宇治十帖の舞台でもあるから、至る所に物語にまつわるものと出会うのね。その独特な宇治の空気を吸い込んでいると、お兄さんは和菓子屋に立ち寄って、鯛焼きを買ってくれた。で、鯛焼き片手に、秋晴れの川沿いの道を歩きながら、ママのことを話してきたの」
「それは、どんなことかしら?」とたまらず真琴氏は言った。橘美琴は何かを考えた後で、「ママへの想い、かな」とどこか煮え切らない言い方をした。椅子に深く腰掛けていた真琴氏は、心なしか前のめりになった。
「じつは、はっきりとは覚えてないの。比叡山の時と同じように、風景は鮮明に焼き付いているんだけど、会話の記憶はあまりないの。ただ、おぼろげながらに覚えているのは、お兄さんはママのことが本当に好きだったというようなことを言った気がする。そのときの私には、冗談半分にしか聞こえなかったけど」

京都物語 286

「テレビで見たとおり、貴博兄さんは、新しく鼻髭を生やしていた。カフェの椅子に座ってそんなお兄さんの顔をそれとなく眺めていると、『お母さんは、元気にしてるかい?』って聞いてきたの。昔からママとお兄さんの間には、微妙な関係があることに気づいてはいたけど、まさか連絡を取ってないとは思ってなかったから、その言葉が変に感じられたわ」と橘美琴は言い、レースのカーテンの方に視線を投げた。さっきと比べると雪の粒は小さくなってきたように見える。太陽もさすがにいくぶんか傾いてきただろうか。
「それに、一緒に比叡山に上がった時、そういえばママの話を一言も口に出さなかったことを思い出して、違和感もあったのね。だからこそ、その言葉が心に引っかかったの」
 娘の話に、真琴氏はつとめて落ち着いた姿でいようとしている。
「『ママは元気よ』って答えると、お兄さんは瞳の奥を覗き込むような目でこっちを見つめてきた。私の言葉に裏がないか、入念に確かめているようだった。もちろん嘘なんかついていなかったから、それがちゃんと伝わったみたいで、ほっと胸をなで下ろすような顔でコーヒーカップを鼻髭の下に持っていった。私たちはいろいろと話をしてからカフェを出て、京都駅で奈良線に乗って宇治まで行った」
 橘美琴がそこまで話した時、真琴氏の首筋に亀裂のような力が入ったのが分かった。話の続きが気になっているように見える。
「特に目的があるわけでもなかったの。ただ、時間的にも距離的にも、宇治に行くのがその時の私たちに適していたというだけだった」と橘美琴は続けた。「列車の中でお兄さんは、一緒に延暦寺に参詣したときのことを話した。記憶は細部にまで行き渡っていて、空想の世界で比叡山を歩いているように錯覚するほどだった。もう一度お兄さんと不滅の法灯を見たいなあって、胸が温かくなった」

京都物語 285

 橘美琴は母親の質問に対して、ゆっくりと重たそうにうなずいた。立て続けに話をしていた今までとはうって変わって、言うべきことを頭の中で系統立てているかのように黙り込み、一息ついてから話を再開した。
「私も、貴博兄さんと再会したのはテレビの中でだった。朝の情報番組でお兄さんが取り上げられていたの。それから何日かしてNHKでも特集が組まれた。お兄さんの音楽的才能に、専門家たちでさえも舌を巻いているようだった。私はテレビの前で唖然とした。その時はお母さんも一緒だった」
 橘美琴はそう言ったが、母親の方は見なかった。真琴氏も無反応だった。
「お兄さんから連絡があったのは、それからさらに1年以上経ってからだった。見たことのない音楽関係の会社の封筒の中に、一筆箋が入っていた。そこには、これまでたくさん手紙をもらってありがとうと記してあった。それから、ぜひ会いたいのだが、お母さんには内緒にしておいてほしいというおかしな注意書きの後に、電話番号がメモされていた」と橘美琴は言い、息を細く吐き出した。
「電話をかけたのは、次の日の夕方だった。お兄さんの声を聞いた時には、感激で胸がふさがりそうだった。忘れもしないわ。大学2年の秋のことで、授業が終わって、アパートに帰るレイナちゃんを見送った後、大学前のバス停から電話したの」
 レイナは組んだ両腕をテーブルに置いたまま、水平線でも眺めるかのような顔をしている。さっきまで漂っていた香水の香りは、ぱったりと消滅している。
「私たちは、再び京都銀行前の古いカフェで会った。お兄さんはもう私の手の届かない存在だと思っていたけど、実際に会ってみると、以前のままだった。ただ、あの時お兄さんは、いきなりママのことを話し始めたの。それがなんだか意外に思えた」
 真琴氏はぴくりと肩を震わせた。

京都物語 284

 橘美琴は心の中に隠しておいたものを、この際すべて吐き出してしまおうとしているかのように、立て続けに話した。
「帰りの車の中で、私はどうしてもお兄さんの住所を聞き出したかった。でも、簡単には教えてくれなかった。それで、悲しくなって、泣いてしまった。そしたら、他人には絶対に漏らしちゃいけないという条件と引き替えに、やっとのことで教えてくれた。あくる朝、お兄さんはまるで亡命するみたいに、人知れずアメリカに渡って行った。私はさっそくお兄さんから聞き出した住所に手紙を書いた。でも、返事はこなかった。何度も何度も送ったけど、一度たりとも返ってこなかった。私は、お兄さんのことで胸がいっぱいになってしまった」
 つまり貴博氏は、自分の居場所を真琴氏に知られることを避けたかったのだ。今のようにメールのない時代、思春期のまっただ中だった橘美琴は、さぞかしつらい思いをしたことだろう。置き去りにされる苦しみは、僕も痛いほどよく分かる。
「お兄さんからの返事をずっと待つ間に、私はそれまでの人生を振り返った。その中で、小さい頃から、私は本当に寂しかったことに気づいたの。後になってからそんなことを考えるだなんて、おかしなことだけどね」と橘美琴はわずかに口元をほころばせ、軽く握ったこぶしで頬の涙を押さえた。「ただ、私には寂しさの理由がつかめなかった。だから時には自分が寂しいということにさえ気づかないくらいだった。でも、お兄さんがアメリカに旅立って、自分の心の欠落をはっきりと自覚した時、寂しさを埋めるのはお兄さんしかいないとしか思えなくなった」
 そこまで話した時、真琴氏が口を開いた。
「で、その後、貴博さんが日本に帰ってきてから、あなたたちは会うようになったのね?」

京都物語 283

 空気の渦のような沈黙がやってきた。それに巻き込まれるうちに、頭が混乱してきた。真琴氏にとって貴博氏は義理の息子でありながら相思相愛の恋人だった。同時に、橘美琴の父親でもあるという。ここまでなら、どうにか僕にも整理がつく。だが、橘美琴の父親でありながら、その娘と恋人同士でもあるという話となると、僕の容量を超えてしまう。
 かろうじて泰然さを保っていた真琴氏でさえも、さすがに肩で大きく息を吐き、うなだれたようにして椅子にもたれた。オレンジのべっこうの眼鏡の奥の瞳は固く閉ざされ、何度も首を左右に振った。娘の口から語られた事実は、いくらこの人とはいえ、たやすく対処できないのだろう。
 すると、喉につっかえものでもしているように見えた橘美琴が、堰を切ったように話し始めた。
「根本中堂を出た後、お兄さんは、せっかくだから比叡山の寺院をひととおり回ろうって言ってきた。とても大きな敷地で、車を使って巡ることになった。その間お兄さんはいろんな話をしてくれた。でも私は、やっぱりあまり記憶がないの。ただ、その中で、『美琴ちゃんのことがいとおしくてしかたがないんだ』って言ったのだけは覚えているの。心の底から嬉しかったから」と橘美琴は言い、胸に手を宛てて呼吸を整えようとした。頬には涙がとめどなく流れている。
「そうして、最後に横川に着いた。そこは比叡山の中でも特に参詣者が少ない地区だった。駐車場も閑散としていて、他に車は停まっていなかったと思う。私たちは車を降りて、横川中堂へと続く山道を降りて行った。深い森の中で、杉の木立が太陽を遮っていた。歩きながらお兄さんが言ってきたの。『こんな神聖な場所で煩悩にとらわれるなんて、僕はどこまで罰当たりな人間なんだ』って。その時私は、お兄さんが何を言っているのかよく分からなかった。気がつくと、私はお兄さんに抱かれていた」

京都物語 282

 橘美琴は母の顔を見て、しっかりとうなずいた。真琴氏も娘と連動するかのように何度か小さくうなずき、そしてこう聞いた。
「貴博さんとは、それっきりなのね?」
 明子の情報を聞き出してこの場を立ち去ろうともくろんでいた僕は、目の前の緊張感に、自らの提案を引き下げるしかなかった。だめだ、と思った。僕1人の力ではどうすることもできない。いくらあがいたところで、すでにシナリオは決められている。僕にできることは、ただただ世界に含まれることだけなのだ。
 橘美琴は母親の単刀直入な質問に即応することはできなかった。彼女はつばを呑み込んで、息を小さく吐き出してから、つまり彼女自身の態勢を最低限整えた上で、こう答えた。
「いいえ」
 しばらく沈黙が続きそうな気配だった。しかし、それを意図的にかき消すかのごとく、真琴氏は言葉を続けた。
「それは、いつ?」
 順序に従って話をしたいと言っていた橘美琴だが、いつしか母親のペースに巻き込まれてしまっている。もしかすると主導権の流れを変えたのは僕かもしれない。僕は明子の話を誰かによって持ち出さされた。その誰かとは、信じがたいことではあるが、真琴氏のような気がしてならない。やはりこの人が僕たちの世界を牛耳っているようだ。
「かなり話を省略することになるけど」と橘美琴は、さっきとはうって変わって弱気な感じで、それでも勇気を振り絞りながら言った。「貴博兄さんがアメリカから帰国された後、ずっと会い続けている。ママ、私もお兄さんのことをどうしようもなく愛してるの」

京都物語 281

 もう十分だった。僕がここにいなければならない理由が分からなくなっている。
 理由? そもそも、なぜ僕はこの部屋にいるのだろう。半年前までは一介の地方公務員として社会保険事務所に勤務するだけの生活を送っていた僕が、そして結花という理想的とも言える女性ときらめくような日々を送っていた僕が、どうしてここにいるというのだろう?
 そうだ。手紙を受け取ったのだ。明子からの手紙だ。その中に真琴氏の名前が記してあった。この人に会えば、3年前、明子が失踪した理由も分かるかもしれない。明子はそんな書き方をしていた。手紙を読んでからというもの、明子のことで胸がいっぱいになった。僕たちも魂の深いところでつながっていたからだ。その結果、結花には悲しい思いをさせてしまった。別れの日、結花はフェイスブックで再会した友達とつきあうことになるかもしれないと最後に言い残し、僕の元を去って行った。
 僕がしなければならないのは、真琴氏から明子に関する情報を聞き出すことだ。それができたならこの場から脱出したい。レイナと一緒にだ。レイナはほんの2週間前に会ったにもかかわらずこんな僕を理解しようとしてくれた。さらに、第6感を使って、真琴氏と引き合わせてくれた。その彼女がこんなにもうつろな表情を浮かべている。彼女にとってもここにいることはプラスにはなるまい。
 僕は意を決して「そろそろ僕たちもここを出ようと思うのですが」と切り出した。すると3人が一斉に僕の方を見た。僕は強引に明子の話を持ち出そうとした。だがそれよりもわずかに早く、真琴氏が「分かりました」と冷静に言った。「ただ、最後に、もうひとつだけ美琴に聞いときたいの。ヤマシタさんたちが帰られて、また2人きりになったら、聞きづらくなりそうだから」と真琴氏は落ち着いた口調で言った。

京都物語 280

 その時誰かがため息を漏らした。真琴氏だった。この人は写実主義の画家の描く肖像画のように、部屋の中の風景と調和しながら静かに座っている。だからこそ、そのため息には、特別な意味があるように思えた。橘美琴は前を向いたまま、そんな母親を気にかけた。だが何も言ってこないと見えると、ゆったりと話を再開した。
「それからしばらくの間、貴博兄さんは、不滅の法灯の照らす内陣の前に立ちすくんでいた。堂内はお香の香りと煙とに包まれていたから、お兄さんの姿は、神秘的にさえ映った。ここにいると時間を忘れてしまうんだとお兄さんは言った。何時間でも何日でも何年でも、僕はここにいることができるって」
 真琴氏がもう1度ため息をついた。その瞬間、再び橘美琴の話が止まった。
「私もそのうち、心地よくなってゆくのを感じ始めた」と、しばし間を置いてから橘美琴は言った。「お父様が亡くなった時から、死ぬことがすごく恐ろしくなっていた。それが、不滅の法灯に照らされた瞬間、生と死の区別が曖昧になってきて、これまで感じたことのない安らぎに包まれたの。そして、私と同じようなことをお兄さんも感じていた。根本中堂を出て、森の中の坂道を戻りながら私がそのことを話したら、お兄さんはこんなふうに答えてきた」
 そこまで話された時、真琴氏は呼吸をぴたりと止めたのが分かった。
「僕は美琴ちゃんの心に共感するよ。僕と美琴ちゃんには、同じ魂が宿ってるんだから」と橘美琴は貴博氏の言葉を再現した。「お母さんの打ち明け話を聞きながら、真っ先に思い出したのがその言葉。まさか、お兄さんは、私の本当のお父さんだっただなんて・・・」
 そう言った後、橘美琴はうつむき加減に口をつぐんだ。

京都物語 279

 橘美琴は白いブラウスの襟元を指先で軽く整えた後で、「私がほの暗い内陣の中をぼんやりと見つめていると、隣で貴博兄さんが、あの炎を見てごらんってつぶやいてきたの」と話を続けた。「あの炎は誰が熾したか知ってるかいって。初めて比叡山に上がった私が知るはずがなかった。でも、きっと、かなり昔に熾されたのだろうという予測だけはついた。そうやって私が炎を見つめたまま考えているとね、お兄さんは先に答えを言ったの。あの炎は、最澄が熾したんだよって」
 しばらくの沈黙の後、レイナが「不滅の法灯ね」と言った。その瞳はうつろだ。
「そう」と橘美琴はレイナに向かって首を縦に振った。「あの炎は約1200年前から灯されているんだって、貴博兄さんは耳元でささやいたの。その時私はすぐにお父様との記憶が浮かんだの。小さい頃、鴨川を渡りながら、お父様は比叡山を指さしては最澄という名前を出されていたことを」
 橘美琴は悲しそうに唇を噛んだ。
「不滅の法灯を見ているうちに、今度はお父様のお葬式の時のことが甦った。あの日私は魂が祭壇に吸い込まれるような不思議な感覚を覚えた。その時と同じ感じがしたの。お父様がすぐそこにいるように思われて、胸が詰まって、もう少しで泣きそうになった。そんな私の横で、貴博兄さんは和歌を口ずさんだ。最澄の詠んだ歌だった。

あきらけく のちの仏の み世までも 光り伝へよ 法のともしび

その和歌が心の中に入ってきた時、私には、生きていることと死んでいることの区別がなくなってきたの。最澄の魂はすぐそこにあるような気がしてならなかった」

京都物語 278

 橘美琴は「怖いと思った」という部分だけ、声を小さくした。その時の心が伝わってくる言い方だった。
「堂内は薄暗かった。それでいて、まるで雲の中にいるようだった」と橘美琴は小声で続けた。「その薄暗さの中には、鼻を突くような匂いが立ちこめていた。つまりお香が焚いてあったのね。それにしても、ものすごい量の煙だった。薄暗かったのに、はっきりと見えたんだから」
 深く腰掛けていた真琴氏がわずかに動いた。そうして、長いこと閉じていた目をやおら開けた。何かを言いたそうなふうに見える。この人のことだから、延暦寺には何度か訪れているはずだ。そのことを娘に伝えたかったのかもしれない。とはいえ、そう簡単には口を挟めない。娘の話には貴博氏が登場している。さっき真琴氏が『源氏物語』について語る時、天皇の子でありながら臣下に降った光源氏のことを、「敗者」と位置づけた。だが今、嫉妬とも無念ともつかぬ表情をにじませながら、娘の話の顛末をただ聞くことしかできない真琴氏こそ、僕には敗者に見えた。重ね重ね、皮肉なことだった。
「そのうち次第に目が暗さに慣れてきて、本堂の広さが分かるようになってきた。お兄さんは天井を貫く黒い丸柱をいとおしげに撫でながら、『こんなにも太い檜は、もう日本では採れなくなっているんだよ』とおっしゃった。その寂しそうな言い方に、中学生だった私は、2度と戻ってくることのない時間というものを感じた。気がつくと、お兄さんは、本尊が安置してある内陣の前に立たれていた。私が隣に歩み寄った時、『僕は、ずっと、ここへ来たかったんだよ』って興奮気味にささやいた。内陣の奥には金色の仏像が暗闇に安置されていた。その手前に3つの灯籠が吊され、中には炎が揺らめいていた」

京都物語 277

 橘美琴は薄く目を閉じたまま、眉間にかすかなしわを寄せた。彼女の魂は今、延暦寺の中にあるのかもしれない。そんなことを思わせる表情だ。
「根本中堂の門に足を踏み入れた時、突然空気が変わった気がした。夏目漱石が『門』という小説の中で、鎌倉の円覚寺の山門をくぐった途端に、俗世から離れて厳粛な世界に入ったというふうな描写があったでしょ。その場面が心の中に浮かんできたの」と橘美琴は言った。それにしてもかなりの記憶力だ。というより、彼女も何かの力によって語らされているようにも見える。
「美琴ちゃん、好きだったもんね。夏目漱石」とレイナがうつろな瞳でつぶやいた。
「そう。私の読書生活が始まったのは、小学生の時に、『夢十夜』と出会っのがきっかけだから」と橘美琴は応えた。「レイナちゃんには、何度も話したことだけどね」
 レイナは、笑っているのか悲しんでいるのか区別のつかない顔で微笑んだ。
「門をくぐるとね、本堂の周りを回廊がぐるりと一周しているの。真正面から入るのではなく、わざと遠回りしてから本堂に入るようになっているのね。私は、何にも言わない貴博兄さんの背中についていきながら、門の内側の静けさを全身に感じていた。見上げると空は本当に青くて、いろんな所から聞こえる小鳥のさえずりが響き渡っていた。雨上がりのような湿っぽさが立ちこめていて、緑の匂いに包まれていた。ただ、どういうわけか、足の震えだけは止まらなかった。うまく言えないんだけど、私はお兄さんと2人であっちの世界に入っていくんじゃないかって、不安すら覚えていたの」と橘美琴は言い、ゆっくりと目を開けた。
「扉を開けて、いよいよ堂内に入った時、まず最初に、怖いと思った」

京都物語 276

 薄く目を閉じた橘美琴は、その時における比叡山の風景を忠実に再現しようとしているかのように、ゆっくりと噛みしめながら話を続けた。
「駐車場から続く下り坂の両側には、大きな杉の木立が見下ろせたんだけど、そこは濃い霧に包まれていた。周囲はカーンと冷えわたっていて、半袖では少し肌寒かった。それでも貴博兄さんはおだやかな表情で辺りを見渡しながら、美味しそうに鼻から空気を吸い込んだ。今思い返してみても、あそこには特別な時間が流れているようだった」と橘美琴は言った。彼女の話に真摯に耳を傾けているはずのレイナの横顔には、寂しそうな笑みが染み込んでいる。どうやら彼女自身の世界に再び入り込んでしまったようだ。親友である橘美琴の話が何かしらの媒介となって、深遠な世界にいざなったのかもしれない。
「その、長くて急な坂を下りたところに、延暦寺の根本中堂があった。深い森の中に、静かに鎮座しているという感じだった。小さい時、お父様が教えてくださったお寺の前に私は立っているのだと思うと、胸が震えた。お兄さんは隣で大きく深呼吸した。そうしてお兄さんも『身震いがするなあ』とつぶやいた。私は思わず、ここへ来るのは何回目なのかと尋ねた。お兄さんは、よく覚えてないなって答えた。なんだか私の質問をはぐらかすような素っ気ない答え方だったから、少し寂しい気持ちになったのを覚えている。でも、今思えば、それは幼い捉え方だった。お兄さんは、ロシアとアメリカを転々とする中で、どうしても延暦寺の空気に触れたかったの。だから私の質問に答えるのは2の次だった。お兄さんって、そんなところがあるから」
 真琴氏は目を閉じて娘の話を聞いている。
「お兄さんの後に付いて、いよいよ本堂に入ることになった時、今度は足が震えた」

京都物語 275

 物思いに瞳を閉じている真琴氏とは対照的に、橘美琴は太陽を連想させるような顔で話をしている。彼女の回想が胸に入り込んでくるにつれ、その時比叡山に木霊していたという蝉の鳴き声を感じ取ることができるような気がする。それはかすかな耳鳴りのようでもある。
「小さい頃、よくお父様の勤めていらした京都博物館に連れて行ってもらったことがあってね」と橘美琴は、誰に話しているのかよく分からない言い方をした。「お父様は、途中、鴨川を渡る時に見える比叡山を指さしては、あの山頂には大きなお寺があるんだと教えてくれたものだった。最澄という平安時代のお坊さんが、修行するためにたった1人で仏堂を建てたのが始まりなんだって。その後、あの山を見るたびに、私はお父様を思い出した。それなのに、ずっと京都に住んでいながら、山頂に上がることは1度もなかった。まさか、お父様が亡くなった後に、しかもお父様と同じ世界にいるのだと思い込んでいた貴博兄さんと2人で行くことになるなんて夢にも思わなかったし、本当に夢のようだった」
 橘美琴は、さっき母親が何度も口にした「夢」という言葉をここで使った。彼女の話の順序に組み込まれていたのか、それとも、無意識のうちに口をついて出てきたのか、判別がつかなかった。
「それにしても、比叡の山頂にはたくさんの人がいて、びっくりした。大きなバスも何台か停まっていた。私が辺りをきょろきょろ見回していると、お兄さんは教えてくれた。世の中には何かを感じたいと願う人がたくさんいるんだよと。たしかに、車を降りて、『延暦寺根本中堂』って書いてある順路を進むにつれて、辺りの雰囲気が変わってきたのが分かった。そこを歩く人たちは、みんな静かだった」
 橘美琴も、母親に倣ってか、話しながら薄く目を閉じた。
「ずっと、この静けさの中に浸りたかったんだって、お兄さんは歩きながらしみじみと言った」

京都物語 274

「美琴」と真琴氏が突然声を上げた。「あなた、貴博さんと、どこに行ったの?」
 その声はやはり細かく震えている。橘美琴はそんな母親の方にわずかに首を傾けた。順序に従って話をしたいと明言した彼女だが、普段は決して見せないであろう母親の焦りを肌で感じたのか、話を中断して質問に答えた。
「比叡山に、上がったの」
 真琴氏はさらに聞きたいことがあるようにも見えたが、その思いをぐっと呑み込み、椅子に深く座り直した。
「あの時お兄さんは、ハンドルを握りながら、どうしても行っておきたい場所があるんだと言い出したの」と橘美琴は回想した。その直後に、ふっとレイナの方に目をやった。レイナは再び自らの世界に沈み込んでしまったかのように伏し目がちになっている。その淋しげな横顔は、僕の心をまた波打たせた。
 橘美琴はそんなレイナに心配そうな瞳を向けつつも、ゆっくりと続きを話し始めた。
「初めての強い感情に胸がいっぱいだった私は、お兄さんに対してこちらから話しかけようという心のゆとりはなかったの。だから、お兄さんがどこへ行こうとしているのか、もちろん気にはなったけど、ずっと黙って助手席に座っていたの」
 真琴氏は、椅子に背をもたせかけながら、静かに目を閉じた。
「それにしても、山道の緑はほんとうにキラキラしていて、窓を開けると蝉の鳴き声の中に小鳥のさえずりまで聞こえてきた。そのうち森の間からは琵琶湖の水面がちらほらと見え始めた。琵琶湖を見下ろすなんて初めてのことだったから、思わず声が上がっちゃった。お兄さんはそんな私を横目で見て、おかしそうに笑った」と橘美琴は声を弾ませた。
「気がつけば、比叡山を登り切って、延暦寺の駐車場にたどり着いていた」

京都物語 273

 橘美琴はそう言った後で軽く咳払いをした。その乾いた音は、ひんやりとした部屋の隅々にまで響き渡った。
「お兄さんは、車を運転しながら静かに話しかけてきた」と橘美琴は続けた。「突然日本を離れたから、ずいぶんと心配をかけただろうねって、はじめに謝ってきた。それから、ソ連に渡って音楽の勉強をした時のことを話された。そして、最終的にアメリカに行き着いたということも話された。ボストンの音楽学校にはいろんな国の音楽家志望が集まっていたけど、最初にソ連を選んだことは決して間違いでなかったって力強く言われた。お兄さんはその理由なんかも語っていた。でも、細かいところまではよく覚えてないの」
 橘美琴はそう言いながら、すっかり空っぽになった湯呑みを覗き込んだ。このテーブルで昼食を食べて、温かい中国茶を飲んだのはいったい何時間前のことだろう?
「不思議なんだけどね」と彼女は湯呑みを覗き込みながら続けた。「お兄さんの話はあまり覚えてないのに、あの時の風景だけは本当にはっきりと残ってるの。青い空、京都の町並み。八条口を出た後、お兄さんは新幹線のガードをくぐって、河原町の方に出た。まもなくして右手に鴨川が現れて、たくさんの人たちが河川敷で涼んでいた。見慣れたはずの光景なのに、新鮮に映ったのをよく覚えている。それから三条大橋を渡って、京大の横を通って百万遍の交差点に出た。貴博兄さんが大学時代を過ごした場所らしく、何度も懐かしいなあ、日本はいいなあ、ってつぶやいていた。その時、私の心には、これまで感じたことのなかったほどの強い感情がこみ上げてきた。これって一体何だろうと思っているその間に、町並みはみるみる遠ざかり、車は山道に入って行った」

京都物語 272

「さっきレイナちゃんが言った通り、私も思春期の頃には変に大人びたところがあったの。レイナちゃんと同じように、いつも独りぼっちだった。でね、私の場合、どうして大人びていたかというと、もちろん元々の気質もあったのだろうけど、それよりも貴博兄さんの影響が大きかったのだと思うの。物心つく前からお兄さんからいろんなことを教わってきた。お兄さんの話には、他では決して得られない、心の底から湧き上がってくる興味がちりばめられていた」と橘美琴は言った。「ママはお家の中ではあまり話をしなかったよね。その理由がたった今はっきりと分かったんだけど、その頃の私には分かるはずもなかった。反対に、貴博兄さんがママとあまり話をしたがらないことにも気づいていた。でもそれは、義母だから複雑な心情があるのだろうと想像していたの」
 真琴氏は表情を変えぬまま、見下ろすような表情を娘に向けている。だが、その心臓の鼓動は僕の耳にも届くような気がする。
「あの頃ママは私の顔を心底悲しそうに見つめることもあった。実を言うとね、それは本当に不安なことだったの。ママは一体何をそんなに思い詰めてるのだろうって、何度も悩んだものよ。そんな私を支えてくれたのは、他でもない、貴博兄さんだった。お兄さんはやさしかった。今こうして振り返ってみると、私の第6感がお兄さんのやさしさを特別なものとして感じ取ったのかもしれない」
 その貴博氏は、実の父親だった。深刻すぎる事実を今打ち明けられたばかりなのに、橘美琴は超然とした口調で話を続けている。
「だから、もう2度と会えないだろうと諦めていた貴博兄さんと、夏の晴れた朝にドライブした時の光景は、今でも私の心の中に宝物のようにきらめいてるの」

京都物語 271

 たった今、義理の息子との禁忌の恋を告白したばかりの真琴氏は、その間に生まれた不義の娘に対してまっすぐな瞳を向けている。率直なところを言うと、母親の顔ではなく、どこか嫉妬の色のにじむ恋敵のように見える。
 それにしても、さっきから僕はこの場にいることが危うく思えてならない。たとえそれが「何か」の力によって運命づけられているにせよ、できることなら早く立ち去ってしまいたい。もちろんレイナと一緒にだ。心にも体にもそろそろ限界の足音が近づいてきている。そもそも今はいったい何時だろう? どうして太陽は傾かないのだろう? 僕はただ明子に会いたかったのだ。だのになぜこんな寄り道をしているのだろう? どうして人生とはこうも思い通りにいかないものなのだろう? 
「あの時お兄さんはアメリカから帰ってきたばかりだった」
 僕がちょっとした苛立ちを覚えている横で、橘美琴は母と間違えるほどの声を出した。「お盆の前に、お父さんの墓参りをするのだと、最初に貴博兄さんは言ったの。で、その後でいろんな話をしてきた。でも、その時の私は何もかもが上の空だったから、あまり記憶がないのね。ただ、話の最後に、私と行きたいところがあるのだと言ってきたのは覚えている」
「どこかへ行ったの?」と真琴氏は低く言った。
「次の日は休日だった。お兄さんは京都駅の八条口で待っていらした」と橘美琴は言った。「それから、お兄さんの運転するレンタカーで市内に入っていった。ものすごくいい天気で、いやがうえにも心が浮き立ったわ」
 橘美琴はその時の情景を眼前に見ているかのような表情をして、さらに話を続けた。

京都物語 270

 新大阪で別れた僕とレイナが1週間ぶりに再会したあの古い喫茶店は、貴博氏と橘美琴の再会の場所でもあったという事実に、レイナも驚いたふうだった。ただ彼女はそのことをあえて口に出さなかった。親友である橘美琴の話の腰を折りたくなかったのだろう。
 僕はその一致が、たんなる偶然には思えないでいた。僕の人生の物語はすでに誰かによって描かれている。僕はそのレールの上を歩かされているだけだ。ここへ来る前、阪急嵐山駅でそんなことを感じた。だとすれば僕の物語は橘家の物語とつながっている。もしかすると、真琴氏がずっと言い続けている言霊の世界に僕も含まれているのかもしれない。そう考えた途端、なんだか恐ろしくなってきた。
 橘美琴もレイナと僕の顔色の変化に気づいたようだ。それでも、レイナの暗黙のメッセージを感じ取ったのか、ゆったりとしたペースで話を再開した。
「あの時私はテニス部に入っていたんだけど、何しろ貴博兄さんからの電話とあって、部活動を休んで、すぐに待ち合わせ場所に向かったの」と彼女は言い、翳りに縁取られた目元の力を緩めた。「お兄さんは私の顔を見るやいなや、にっこりと笑った。それから私の全身を丁寧に観察して、ずいぶんと大きくなったねと言われた」
 真琴氏は黒々とした瞳に力を込めて何かを言いたそうだったが、直前で踏みとどまった。娘がすぐに話し始めたからだ。
「何年かぶりに見る貴博兄さんこそ、私の目には別人のように映った。顔には見たことのないしわがいくつも刻まれていて、疲れているように見えた。それでも、貴博兄さんとはもう2度と会えないと思っていたから、私はその場で泣いてしまった。嬉しかったのか、寂しかったのか、よく分からない涙だった。それから私たちは、その古い喫茶店に入った」

京都物語 269

「京都銀行?」とレイナはつぶやいた。その銀行は、2週間前に京都に来た時に初めて立ち寄った場所だ。あの時、高木という、どこかうだつの上がらない感じの中間管理職に頼んで貸金庫を開けてもらった。今回の調査にかかる資金を明子が事前に預けてくれていたのだ。
「京都銀行と貴博さんの間には、何かの関係があるの?」と僕は直感的に聞いた。すると橘美琴は「おそらくないと思います」と答えた。「あの銀行は1本入った場所にあって人目につきにくいし、お兄さんの行きつけの古い喫茶店が目の前にあるから、そこに入りたかっただけだと思います」
 すると「ヤマシタさんは、高木さんのことを言ってるのね」と真琴氏が話に割り込んできた。「明子さんに高木さんを紹介したのは、私よ」
 真琴氏は落ち着き払ってそう言った。「高木さんは、貴博さんの高校の同級生で、何度かお会いしたことがあったの。それが、私が融資の申し込みをしに行った時の担当がたまたまあの方でね。そんなことがあって、明子さんがご自身の資産の管理について頭を抱えていらっしゃると聞いて、高木さんに相談をしなさいと取り計らったの。何しろ明子さんには多額の遺産があった。ご主人だけでなく、お父様も亡くしていらっしゃるから。でも、多額の財産を持っていても、彼女は全く幸せではなかった」
 その通りだ。明子は幸せではなかった。僕が彼女の心の欠落を埋めることができればどれほどいいだろうと何度も思った。そこに人生のすべてを捧げてもいいとさえ考えたほどだ。だが、やはり僕にはできなかった。明子は僕の元から消えてしまったのだ。
「貴博兄さんがまさか京都銀行にゆかりがあったとは、知らなかった」と橘美琴は言った。それから少し間をおいて「とにかく、あの日私たちは、銀行の前の古い喫茶店で、久々に会ったんです」と回想した。その喫茶店とは、僕とレイナが再会した店に違いあるまい。
作者

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

最新の文章
リンク
みなさまの声
カレンダー
01 | 2013/02 | 03
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 - -
目次
月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。