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京都物語 326

 その中年の女性の僧侶は、他の2人と顔を見合わせた後で、「その方のお名前自体、もちろん聞いたことはございませんが、そもそもこの比叡山には多くの修行僧がおりまして、個人を特定するようなことは日頃はめったにやらないのです」と落ち着いた口調で答えた。「もし、緊急のご用件であれば、ここを出たところに延暦寺会館という施設がございますので、もしかするとそちらで何らかの対応ができるかもしれません。定かではございませんが」
 その僧侶は、延暦寺のパンフレットを僕に差し出し、施設の場所を指で示してくれた。僕は礼を言って根本中堂を後にした。明子も今の女性のように剃髪をしているのだろうかと思うと、胸が痛んだ。
 外は依然として凍てつくような冷気と深い静寂に包まれている。辺りを取り囲む杉の木立からは声にならぬ声が聞こえるような気がする。不滅の法灯に照らされてからというもの、心がますます敏感になったようだ。
 根本中堂の前の小さな丘には文殊楼と呼ばれる山門が建っていて、そこから再び石段を下りたところに延暦寺会館はあった。見たところユースホステルのような趣だ。受付には制服を着た女性が1人控えており、さっそくその女性に明子のことを問い合わせた。彼女は表情を変えずに「そういったご用件には、お答えいたしかねます」とあっさり返した。この延暦寺は僧侶にとっては修行の場であり、本人からよほどの要望がない限り面会することはできない。ましてや家族でもない人物と会うのは修行に差し障りが出る可能性がある。つまり、この女性は、僕に仏道をけがしてはいけないということを伝えたいのだ。
 仮に食い下がったところで徒労に終わるだけなのは目に見えている。しかたなく引き下がろうと思った時、奥の方で煮物の匂いがした。どうやらここは宿になっているようだ。
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京都物語 325

『源氏物語』の女性たちの姿は、やはり明子と重なり合う。明子は僕の元を離れた後、京都の大谷大学に学び、そこで真琴氏と出会った。そして『藤壺物語』の世界に引き込まれ、ついにはこの比叡山に辿り着いた。彼女は亡くなった夫に対して永遠の忠誠を誓ったにもかかわらず、僕と出会ってしまった。そのことに罪の意識を感じて心の行き場をなくした結果、仏の世界を求めたのだ。
 ただ、明子が真琴氏の肩代わりをさせられたと思うところもある。真琴氏自身、貴博氏との禁断の恋に溺れ、橘美琴という不義の娘を産んだ。同じく、義理の息子である光源氏との子供をはらんだ藤壺は出家したのに対し、真琴氏はその道を選ばなかった。
 真琴氏が小説を書くようになったのは、仏像研究の第1人者だった亡き夫の勧めによった。真琴氏は書き続けているうちに、言葉に表したことが現実に起こるという恐怖を体験するようになった。いつか真琴氏の人生は、自ら紡ぎ出した言葉の世界の中で繰り広げられるようになっていた。
 真琴氏は明子をその世界の中に引きずり込んだ。仏道を求めながらも、結局は最後の所で踏み切れなかった自分の代わりに、明子を出家させた。そのことにどんな意義があるのか僕には理解できない。真琴氏にとっては、心の平安が得られたのかもしれない。
 とにかく明子を見つけ出さなければならない。そう思い立った僕は、不滅の法灯を離れ、根本中堂の出口に向かった。すると扉の手前に、剃髪して作務衣を着た僧侶が3人立ち並び、御札や御守りを売っていた。無我夢中だった僕は、その中の1人に明子の消息を知らないかと尋ねた。よく見ると、その僧侶は中年の女性だった。

京都物語 324

 僕は、不滅の法灯の前に立つ橘美琴の心を想像した。彼女は最澄の和歌を耳にした時、生と死の区別がなくなってゆくのを感じた。そうして最澄の魂がすぐそこにあるような感覚にとらわれたと回想していた。貴博氏もまた、炎の前に立ちすくんでいた。そうして、橘美琴に向けて、ここにいると時間を忘れてしまうのだとつぶやいた。何時間でも何日でも何年でもここにいることができると貴博氏は言った。
 あの時の2人の感覚がそのまま僕の心に入り込んできたようだった。ここで不滅の法灯に照らされていると、生も死も、過去も未来も、それから自己と他者も、すべてがつながって1つになっているように思われた。その感覚はどこかおそろしさを含んでもいた。自己が空気の中に消滅してしまったような感覚。だが、一方で、不思議な安らぎを与えてくれたのもまた事実だった。
「最澄がこのお寺を開いたのが桓武天皇の時代。平安京の創成期ね。最澄の教えは、没後、弟子の円仁らによって引き継がれ、延暦寺は発展してゆく。おもしろいことに、彼らが道の途中で迷った時、最澄が夢に現れて彼らに指南するの」
 真琴氏の声が聞こえる。
「つまり、平安中期に描かれた『源氏物語』の頃には、この延暦寺はすでに大きな影響力をもっていた。たとえば、光源氏の最初の妻である葵の上が、物の怪に取り憑かれた時に祈祷したのは横川の僧侶。横川と言えば、この延暦寺の地区で、円仁によって開かれた場所。だとすれば、『源氏物語』の女性たちが、現世をはかなんで最終的に求めたのも、夢のような世界だった。でも、そこに到達するためには、想像を絶する過酷な修行が求められる。俗世における煩悩を断ち切って、自己を超えてゆかなければならないのだから」

京都物語 323

 この根本中堂こそ、平安京がつくられた当時、最澄が1人で寺院を興したところで、延暦寺の本堂にあたる。堂内には最澄自らが熾したと伝えられる不滅の法灯がともされているらしい。
 それにしても、昨日真琴氏の家に行ってからというもの、魂が敏感になっているように思われてならない。橘美琴は六条ホテルへと向かう車の中で、「言霊の世界を信じるのなら、その中で、否応なく、誰かとつながって生きてゆくことになる」と言い残した。あれ以来、誰かの言葉が浮かんでは消え、その声のする方に歩かされているような気がする。僕は言霊を信じているのだろうか?
 かくして根本中堂の門の内側に入った時、空気の中に緊張が感じられた。「僕が求めていたのはこの静けさなんだ」という声は、貴博氏のものでも明子の夫のものでも、どちらでもよくなってきた。それよりももっと大きな存在として根本中堂は鎮座している。
 コの字形に囲われた回廊をゆっくりと進んだのち、ついに堂内に足を踏み入れた。ただでさえ薄暗い堂内には分厚い煙がくすぶっている。まるで深い霧の世界にいるようだ。橘美琴が言っていた通り、線香の匂いが鼻先にまとわりつく。
 秘仏である薬師如来像を安置する内陣はずいぶんと低いところに設けられていて、その本尊を納める厨子の前には3つの吊灯籠が提げられている。これが不滅の法灯だ。その、灯籠の中の炎のゆらめきと対峙した時、不思議な感覚に呑み込まれた。最澄の魂が何かを語りかけてくるように思えたのだ。最澄は今なお生きている。なんだか、おそろしくさえあった。すると、貴博氏が口ずさんだ最澄の和歌が、風のように脳裏を横切った。
 
 あきらけく のちの仏の み世までも 光り伝へよ 法のともしび

京都物語 322

 駐車場に降り立った瞬間、冷気が全身を取り囲んだ。橘美琴の話では、思った以上に人がいて大型バスも何台か停まっていたということだったが、今日は数人の参詣者がぽつぽつと見られる程度だ。
 僕はコートに首をうずめながら、本堂である根本中堂へと続く道を進んだ。両側には霧雨に濡れた杉の巨木が立ち並んでいる。その隙間からは白い霧の世界が広がっているのが見える。橘美琴と貴博氏がここを歩いたのは夏の日のことだった。そうしてまた、明子もここを歩いた。
 僕はふと、肝心なことを忘れているのに気づいた。無我夢中で延暦寺に来たのはいいが、どうやって明子に会えばいいのだろう? 見たところ、この寺は非常に広大だ。鎌倉の円覚寺や建長寺も大きな伽藍をもつが、ここは桁が違う。どうやら比叡山全体が1つの境内になっているらしい。参道に立てられた境内図によれば、延暦寺は東塔、西塔、横川の3つの区域に分けられていて、それぞれに伽藍が配置してある。歩いて移動しようと思えば1日では足りないほどの範囲に及ぶ。ちなみに、僕が今いるのは東塔らしい。
 あまりの広さにため息をついた時、「僕が求めていたのはこの静けさなんだ」という声が聞こえた。僕にはそれが貴博氏の声だと分かった。
「いいえ、それは貴博さんの声ではない」と言ったのは真琴氏だった。「明子さんのご主人の声よ」
 それを聞いて、途端に足取りが重くなった。明子と夫とのつながりの深さを思うと、今いる場所がどこなのか分からなくなってしまう。あるいは嫉妬しているのかもしれない。だが、ここまで来た以上、とにかく声のする方に向かって歩くしかない。
 やがて長い石段の下に、大きな建物が横たわるように現れた。根本中堂だ。

京都物語 321

「比叡山ドライブウエイ」のゲートを通過してからというもの、森はさらに深くなった。気温も下がったのかフロントガラスも曇りだした。FM京都の受信状態も途切れがちになっている。それで僕はエアコンの温度を上げ、ラジオの電源を切った。そういえば耳鳴りのように響いていた蝉の声もいつの間にやら消滅している。
 明子や真琴氏の気配も感じられなくなり、ただエンジン音だけが車内を震わせている。ipodに入れてあるラヴェルのピアノ協奏曲が聴きたい気分だったが、どうやらこの車には専用の端子がついていないようで、しかたなく音楽無しで車を進めることになった。
 辺りは分厚い霧に覆われ始めた。山頂に近いところにまで来たようだ。さっき真琴氏の声で、『源氏物語』において仏の道に入った女性たちの話が助手席から聞こえた。僕はその平安朝の女性たちに明子の姿を重ね合わせた。明子が現実社会に見切りをつけ、この道を1人で上がってゆく姿を想像した。
 明子は亡くなった夫を命がけで愛していた。しかし彼女は僕と出会い、逢瀬を重ねるようになった。そして2人で鎌倉を旅行したとき、互いの魂が1つになったような実感を得た。それが明子を苦しめたのだ。僕の元から離れた後、彼女が向かったのは京都だった。そうして真琴氏との運命的な出会いを遂げた。明子は真琴氏から『藤壺物語』の話を聞かされたのだ。苦しい恋に追いつめられた女性たちの行く末だ。そしてその言霊の力により仏の道へと足を踏み入れた。すべては僕との出会いのせいなのだ。
 木々の間から寺院らしき朱塗りの建物が見えた。気がつけば、辺りは神聖な空気に包まれている。どうやら延暦寺に着いたらしい。

京都物語 320

 明子に語りかけた直後に、延暦寺まであと2.5㎞という標示が目に飛び込んできた。道路脇には雪が残っている。さっき鴨川を渡る際に見えた雪だ。比叡山の山頂付近に、粉砂糖のようにふりかかっていた。
 この雪を見ると、昨日の橘家での記憶が甦る。大きく取られた窓の外に、雪は1日中降り続いていた。明子もどこかで眺めているのではないかという予感が胸を騒がせた。
「君も、さみしかったんだな」
 明子に向けてそうつぶやきかけた。だが、返答はない。助手席にはもう彼女の気配は感じられない。光源氏の詠んだ和歌も、須磨の情景も、あたかも幻のごとく、僕の周りからすっかり消え去ってしまっていた。レンタカーは、ただくぐもったエンジン音を這わせながら、坂道を上っている。
 すると「女性たちは皆、この道を歩んでいったのよ」と真琴氏の声が聞こえた。
「藤壺だけではない。空蝉も、女三宮も、浮舟も、決して許されぬ恋に堕ち、その結果、心の行き場をなくしてしまった。苦しみ抜いた彼女たちは、ついに魂の居場所を現実世界の中に見つけ出すことができずに、最後は仏の道へと入っていった」
「真琴先生はどうなのですか? 仏の道に入られないのですか?」と僕はいつもの癖で、思ったことを率直に聞いた。
「私は、生活を捨てきることができなかった」と真琴氏はかすれた声で返した。「逆に明子さんは、それができた。あの方はさんざん苦しまれたあげく、現実社会に見切りをつけた。そうして『源氏物語』の女性たちと同じく、自らの魂を仏に差し出すという道を選ばれた」
「だとすれば」と僕は言った。「明子は、先生の肩代わりをしたということですか?」
 それについて真琴氏は何も答えなかった。

京都物語 319

 僕は、時折木々の間から姿を見せる琵琶湖に目をやりながら須磨の海を思った。そこを訪れたことはないのに、どういうわけか懐かしい砂浜の情景が思い浮かんだ。海には月が映っている。浜辺には従者を引き連れた光源氏が潮風にたたずんでいる。 
 その瞬間、蝉の鳴き声がぴたりと止み、耳元で和歌がささやかれた。

見るほどぞ しばしなぐさむ めぐりあはん 月の都は 遙かなれども

 藤壺との禁忌の恋をはじめ、様々な過ちを犯してしまった光源氏は、謹慎の意味を込めて自ら須磨に退去していた。この和歌には、光源氏が月を見て都を恋しがっている情景が詠まれている。僕にはそのことが、不思議とすんなり理解できた。不思議なはずの現象は、もはや不思議ではなくなっている。
 すると、今度は胸の中に様々な情景が去来してきた。それは明子と過ごした日々の記憶だった。彼女は過去を大切にしながら生きてきた。そんな彼女と共有してきた想い出の数々が、たちまち僕の心を支配した。
 会いたい。そう思った。どうしても明子に会いたい。
 結花との幸せな日常を捨て、レイナとも別れ、こうして比叡山を上っている理由が、今はっきりしたように思えた。すべてはこの感情のせいだったのだ。
「ほんとうは、とてもさみしかったのよ」
 明子は助手席でそうつぶやいた。
「ずいぶんと悩んだの。でも、私には、この道しか残されていなかった」
「僕だって、さみしかったんだ」と僕は明子に向けて返した。「置き去りにされることほどつらいことはなかった。だからこそ、僕は君を見つけ出すために、すべてを捨ててここまでやってきたんだ」

京都物語 318

「それにしても、山道の緑はほんとうにキラキラしていて、窓を開けると蝉の鳴き声の中に小鳥のさえずりまで聞こえてきた。そのうち森の間からは琵琶湖の水面がちらほらと見え始めた。琵琶湖を見下ろすなんて初めてのことだったから、思わず声が上がっちゃった。お兄さんはそんな私を横目で見て、おかしそうに笑った」
 昨日、橘美琴が述懐した声が近くで聞こえた気がした。思わず助手席に目をやる。しかし、そこには誰もいない。いるはずがない。それでも高校生の橘美琴の声は、耳の奥に残っている。いや、それは彼女の声ではないようにも思う。聞き慣れたはずの声だ。そしてずいぶんと長い間、恋い焦がれていた声だ。
「延暦寺を開いた最澄は、琵琶湖畔の生源寺で産まれたとされるのよ。そこの古井戸は最澄の産湯だという言い伝えもあるの。最澄が自らの修行の地に比叡山を選んだのには諸説あるようだけど、私は生まれ故郷に近いという意味合いもあったように思うの。ほら、人ってやっぱり、どこかで故郷を恋しがるところがあるでしょ?」
 明子は木々の間に垣間見られる琵琶湖を遠く眺めながらそう説明した。普段はめったに話すことをしない彼女だが、ひとたび自らの世界に入ると、別人のように饒舌になる。僕はそんなところに好感を抱いたものだ。明子の声にうっとりしていると、今度は別の声が聞こえた。
「今宵は十五夜なりけり・・・」
 真琴氏の声だった。
「新しい物語の執筆を命じられた紫式部は、琵琶湖畔の石山寺に祈願した。その夜、琵琶湖には月が映っていた。その情景は、『源氏物語』の「須磨」の場面に反映される。都を離れることを余儀なくされた光源氏は、須磨の海に映る月を見て、都を恋しがる」
 車窓からは霧に煙る琵琶湖が見えた。

京都物語 317

 この界隈は貴博氏が学生時代を過ごした場所で、ここを通る時、彼は何度も、懐かしいなあ、日本はいいなあ、とつぶやいた。その時助手席に座っていた橘美琴の心には、それまで感じたことのなかったほどの強い感情がこみ上げてきた。一体何だろうと思っているうちに、町並みはみるみる遠ざかり、車は山道に入って行った・・・
 暗示的とも言える橘美琴の回想と並行するように、僕の運転する車も同じ山道に入った。今まで市街地を走っていたことが信じられぬくらいに、右も左も枯れた木々に囲まれ始めた。
 あれっ、と思う。どこかで似たような感覚を抱いた気がする。そうだ、昨日、真琴氏の家に行く際、橘美琴の運転するシトロエンで愛宕山に向かったときの風景に近い。たしかにあれは昨日の出来事とは思えない。1年という月日が経っていたのは本当ではないかと実感してしまう。愛宕山は京都の北西で、かたや今登ろうとしている比叡山は北東に位置する。京都を旅しながら、僕は時間を旅しているような感覚に陥る。
 つづら折りの坂を何度も越えていくうちに、木々はどんどん生い茂ってゆく。すっかり葉の落ちてしまった枝々たちは、まるで僕に手招きしているかのように見える。その時、不思議な幻聴を聞いた。蝉の鳴き声だった。思わずアクセルをゆるめ、道路脇に車を停める。まさか冬枯れの時期に蝉が鳴くはずはない。ただの耳鳴りに違いない。そう思って耳を凝らすと、間違いなく蝉の声だ。そういえば橘美琴も、蝉の声に包まれながら山頂を目指したと話していたのを思い出す。
 大丈夫だ。自らに向けてそう励ます。昨日の1日は、1年だったのだ。もはや何が起ころうとも不思議ではない。ここは真琴氏の作り上げた言霊の世界なのだ。
 震える手でハンドルを握りながら、僕は改めてアクセルを踏み直した。

京都物語 316

 京都駅八条口のレンタカー店で車の手配を待っている間に、橘美琴の話が思い出された。周辺にはレンタカーの看板がいくつか見えるが、ひょっとして彼女と貴博氏が比叡山に登った時に利用したのもこの店ではないかと本気で思った。すべての話はつながっているのだ。僕はまだ、浅茅しのぶ、つまり真琴氏の作り上げた物語の中を生きている。
 2人が比叡山に上がった日との違いは、空が薄曇りだということだ。京都での最後を締めくくる旅が快晴ではないということにも、何らかの意味があるのかもしれない。
 用意された車のシートに座り、エンジンをかける。車が動き出すにつれて、橘美琴の話がさらに鮮明に再生される。あの日貴博氏は八条口を出た後、新幹線の高架をくぐって、河原町の方に抜けていった。僕も同じ道を進んでいる。
 思うに、真琴氏は明子に何かを語ったのだ。その言葉に従って、明子は比叡山に籠もったに違いあるまい。そうして僕も今、明子を追っている。僕たちは言霊の中に含まれている。
 三条大橋を通って鴨川を渡る。河川敷の遊歩道では、ウインドブレーカーを着たランナーが1人、一定のスピードで上流に向かっているのが見えるだけだ。その先には、曇天を背にした比叡山がそびえている。山頂はうっすらと雪をかぶっている。昨日、橘家では大粒の雪が降り続いていた。もしかすると明子のいる比叡山にも同じ時間が流れているのかもしれない。雪の白さを遠くに眺めながら、僕は身震いを感じた。
 鴨川を渡った後、すぐに北に進路をとった。京都の地理に詳しいわけでもない僕だが、道の選択に迷わない。そのうち貴博氏が通っていたという京都大学が見えてきた。大学を過ぎ、百万遍の交差点を東に進んだ時、「比叡山ドライブウェイ」の看板が現れた。

黄色い海

 今朝は海を見ながら目覚めました。でも、海は、なんだか寝ぼけたようにぼんやりとしていました。何でも、中国大陸から様々なものが運ばれてきて、黄色く霞んでいるようです。

 ところで、春は出会いの季節であると同時に、別れの季節でもありますね。

 桜の花が日本人の心を打つのは、咲いた直後に散ってしまうからではないでしょうか。

 奈良時代の万葉歌人たちは、花といえば梅を指していたようです。それが平安時代になると桜を指すようになった。平安朝の貴族たちは、遣唐使によってグローバル化された奈良時代の文化を踏まえて、我が国独自の文化を築き上げようとしました。いわゆる、国風文化です。『源氏物語』もそのような風潮の中で描かれました。

 そう考えると、桜は日本人の心を象徴しているのかもしれません。
 
 桜のような淡い色の花をせいいっぱい咲かせた後で、はかなく散ってゆく。そんな人生を送りたいものだと、朝、黄色い海に向かってそう想いました。

 

京都物語 315

 心の中には、様々な感情が、まさにミックスジュースのようにごちゃ混ぜになっている。何も考えたくない。そんな精神状態だからこそ、残っているのは直感のみだ。ただ僕には千明氏が言うように、それが正しいかどうかまでは確信が持てない。
「千明さん」と僕は声を振り絞った。その瞬間、何かがふっ切れたような気もした。氏は「はい」と歯切れよく答え、立ったまま僕を見た。
「僕がここを出るとき、ホテルも終わるのですね?」と念を押すと、迷いなく「そうでございます」と返ってきた。それから「本望でございます」と、だめ押しのように続いた。
「ならば僕は、あれこれと考えている場合ではないですね」
 千明氏は首をやや傾けて、僕の顔をのぞき込んだ。
「千明さん、あと3日ほど時間をください。よく考えれば、僕にも時間がありません。心配している身内も少なからずいますし、何より、職場に連絡しなければいけないです。もっとも、僕はとっくにクビになっているでしょうけど」
 僕の言葉を千明氏は目を細めて受け止めてくれている。
「レイナは去ってしまいましたが、僕にはもう1人、探している人がいるんです。うまく言えないのですが、彼女が僕を呼んでいるような気がします。これこそが、千明さんのおっしゃる直感なのかもしれません。そこに身を任せてみようと思います」
 千明氏はゆっくりとうなずき、鼻髭を吊り上げて、頼もしげに微笑んだ。
「承知いたしました。どうぞ、お気を付けてお出かけください。ヤマシタ様のおかげで、私もこの3日間を有意義に過ごすことができそうです」
 明子は比叡山にいる。おそらくこれが、僕にとって最後の旅だ。

京都物語 314

 そんなふうに言われると気が引けるばかりだ。その思いを伝えると、千明氏は「何をおっしゃいますか」と、線香の煙でもはたくかのように、手を左右に振った。
「先代である父は、私によくこんなことを言っておりました。この商売をするうえで一番大切なのは、人様とのつながりなのだって」
 千明氏はそう言い、僕の横に立った。
「私はそのことを縁だと捉えております。人様との出会いはすべて、縁だと信じておるのです。ただ、その中には特別なものもある。運命を感じさせるような縁でございます。ヤマシタ様は、私にとって、そのような存在なのです」
「だからって、50年も続いたホテルの終わりを僕の都合に合わせるっていうのは、いくら何でも話がかけ離れてます。親父さんに叱られますよ」と僕は反論し、空になったグラスを撫でた。すると千明氏は穏やかな顔つきで、こう応えた。
「いえ、父も理解するでしょう。私も父も、直感を大切にいたします。人間において、直感ほど正しいものはございません。コンピュータではじき出されたデータよりも、よほど頼りになります。私はヤマシタ様との縁を直感的に感じ取ったのでございます」
 つかみどころのない話をしている割には、自信に満ちた表情をしている。説得力さえ感じる。ホテルの終わりは千明氏の判断に任せればよいと思えた。それよりも「直感」という言葉によって、僕の心が少しだけ揺れ動いたことの方が大事だ。
 レイナとの別れは僕を窒息させるほどに苦しめた。だが、千明氏の話を聞きながら、直感的に明子のことを思ったのだ。明子を追い求めたとしても、レイナに見切りをつけることにはならないような不思議な考えが沸き上がってきて、それが心を落ち着けた。
 口の中には、ホテル特製のミックスジュースの余韻が残っている。

京都物語 313

 まもなくして、千明氏がシルバーのトレイにグラスを載せてやってきた。鼻髭を自慢げにつり上げながら「どうぞ」と言い、重量感のあるグラスをテーブルに置いた。中には緑色でもなくピンク色でもない、何やら得体の知れない液体が並々と注がれている。
 怪訝な目でそれを見ていると、「当ホテル特製のミックスジュースでございます」という説明が軽やかになされた。「1年間の失踪で、ずいぶんとお疲れのことでしょう。食欲が湧かないのも当然でございます。これを飲んで、どうか栄養をつけてください」
 千明氏が真面目な顔で話すものだから、思わず「どうもありがとうございます」と丁重に返した。「それにしても、これはいったい何のジュースですか?」
「はい。マスクメロンにマスカット、それからモロヘイヤに大麦若葉、それと、白桃、サクランボ、リンゴ、ニンジン、ミカン、レモン、それにヨーグルトと蜂蜜、さらにはロイヤルゼリーをミックスさせていただきました」
 僕は手に持った冷たいグラスを、改めて、ためつすがめつ眺めた。
「どうぞ、一気に、ぐっと」と促す千明氏の鼻髭が近くに迫ってきた。
 その液体を口に入れると、苦さ、酸っぱさ、甘さの順で味覚が広がった。野性的な味わいだが、決して飲めなくはなかった。
「なんだかよく分からないけど、元気になった気がします」と僕は率直な感想を述べ、その後で千明氏の推奨する通り、一気に飲み干した。
「冷蔵庫の中の在庫を使い切りました」と千明氏は満足げに言った。「ヤマシタ様が出られる日を、当ホテルの最後の日にしようと決めましたので」
「決めたって、いつ決めたんですか?」
「たった今でございます。ヤマシタ様にレイナ様の話をした瞬間に決めました。これで私も、ようやくすっきりいたしました」

京都物語 312

 ホテルの外は薄く明らみ始めている。千明氏の話を聞いた僕は、この玄関を出てゆくレイナの後ろ姿を想像した。彼女は真っ赤なスーツケースを引きずっている。僕たちが初めて出会った日、新山口駅のエスカレーターで、何度も僕の足にぶつかってきたスーツケースだ。あの日レイナは新幹線の隣の席に陣取り、いかにもぶしつけなふうにビールを飲みながらパソコンを開いた。その間、スーツケースは僕の膝に当たりっぱなしだった。
 今思えば、そんなことさえもがなつかしい。とりわけ、レイナの赤いスーツケースの記憶は、後になればなるほど鮮明に焼き付いてくる。気がつくと、僕の胸の中はレイナとの想い出でいっぱいになっていた。六条ホテルのソファにもたれながら、息が詰まるような苦しさに襲われた。当たり前だったものが、いきなり失われていくというのは、本当に辛いことなのだ。
 千明氏はそんな僕の横で、小さく、「お食事は、いかがなさいますか?」と聞いてきた。もちろん、食欲などない。そのことを伝えると、氏は「かしこまりました。それでは、今すぐお持ちいたしましょう」と歯切れよく応えた。この人は僕の言葉を聞き間違えたのではないかと顔を上げた時、氏はすでに厨房の中に入っていた。
 僕は再びソファにもたれ、白熱球に照らされた天井を見上げた。この先どうすればよいのか、まったく分からない。というよりも、僕には思考するのに必要な気力がなかった。大学を卒業した後、美咲と佐織を同時に失った時の頽廃的な精神状態に逆戻りしたようだった。
 あの時から、僕はきっと人間的に成長していないのだろう。

京都物語 311

 すべてか嘘みたい――
 レイナの言葉が今になってつららのように胸に突き刺さる。真琴氏は、自らの禁断の愛を、光源氏と藤壺の逢瀬と重ねて、夢の世界の出来事のようだと表現した。真琴氏の家にいた時間は、僕たちの中ではほんの1日だったが、外の世の中では1年も経っていた。その凝縮された時間において僕はレイナに親近感を覚え、運命を感じ、彼女に恋をした。
 今振り返れば、レイナの言う通り、すべてが嘘みたいだ。
 ロビーに下りた途端、コーヒーの香りが立ちこめていた。千明氏にレイナのことを話すと、「そうでございましたか」と乾いた声で返ってきた。「あの方が出て行かれたのは、たしか5時過ぎのことでして、突然、チェックアウトをしたいとおっしゃったのです。お1人で出られるのですか、と伺いましたら、急な事情ができて自分だけ先に出ることになったのだが、ヤマシタ様はそのことを承知されているというご説明でした。宿泊代を支払いたいとおっしゃいましたが、まもなく終わるホテルですし、長いこと失踪しておられた方にお金をいただくのもどうも気が引けまして、それだけはお断りいたしました」
 千明氏はソファに腰掛けた僕の前にコーヒーを置いた。カップに口を付けると、昨夜僕の隣にレイナが座っていたことが、まさしく嘘のように思えた。
「あの方は赤いスーツケースを持たれて外へ出て行かれました。いささか不審に思いはしましたが、少しお急ぎのようでしたのでそれ以上声をかけることもせず、私はただただ後ろ姿を見送るばかりでした」
 レイナと僕は言霊の世界に含まれていると信じていただけに、突然の失踪に激しく混乱した。これから僕は一体どこへ連れて行かれるのだろう? そう考えると、深い淵にたたき落とされたような不安を感じた。

京都物語 310

 ベッドの中は寒々としていた。僕は布団をはぐり、そこにレイナがいないことを正式に確かめた。次にシャツを羽織り、明かりをつけて部屋中を見回した。だがどこにも見あたらない。数時間前に2人で飲んだビールの空き缶は床の隅にきちんと並べられ、僕が脱がした彼女のバスローブは折り目正しくテレビの横に畳んである。ベッドに組み込まれた時計は6:06を指している。窓の外はまだ十分に暗く、渉成園の緑も黒々と沈んでいる。
 ジーンズを穿いてから廊下に出て、彼女の部屋をノックした。おそらく僕たち以外に宿泊客はいないだろうから、強く叩いた。だが返答はない。仕方なく自分の部屋に戻り、ベッドに腰掛けて目を閉じた。
 鎌倉での朝、ベッドの中に明子の姿はなかった。だが僕には彼女の行く手が分かっていた。それで、ホテルを飛び出し、早朝の鶴岡八幡宮に向かった。案の定明子はそこにいた。彼女をホテルに連れ戻し、朝食を取った後、2人で長谷寺に参詣した。鶴岡八幡宮も長谷寺も、原発事故で亡くなった夫との想い出の場所だった。僕たちはその地で魂を共有したはずだった。にもかかわらず明子は旅から帰ってまもなく、僕の元から消えた。
 今回レイナがいなくなったことは、あの時の経験と重なる。ただ、決定的に違うのは、レイナの居場所は全く想像がつかないということだ。
 部屋の中に手掛かりとなるものが残されていないか、改めて入念に目を通した。しかし、レイナに関するものは何1つ見えない。ため息をついた時、昨夜彼女が吐き出した言葉が脳裏をかすめた。「なんだか、すべてが嘘みたいね」

京都物語 309

 僕たちは知らず知らずのうちに眠りについていた。真夜中に目が覚めた時、僕は肩にびっしょりと汗をかいていた。お互いに裸のまま布団にくるまっていたのだ。
 僕はいったんベッドを抜け出し、バスタオルで全身を拭いてから、改めて布団に入った。レイナは安らかに瞳を閉じている。僕は彼女の小さな乳房を手のひらに包み、寝顔を眺める。まるで子供の頃からずっと一緒にいるような親近感が胸を温かくする。
 いつしか僕はレイナのことを好きになっている。そうしてまた彼女も同じように僕を思っている。だが、そのことを心の底から歓迎できない。デジャブのような感覚が再び心をぐらつかせるのだ。似たような胸の痛みをどこかで抱えたことがある。
 それは結花との別れの記憶だ。ここへ来る前、僕は彼女を愛していた。僕の半生において、唯一のまっとうな恋だったと言えるかもしれない。彼女と2人で生きる道を選ぶことができたなら、今頃は何の問題もなく平凡で幸せな日常を送っていただろう。だが僕は結花と別れてまでも京都へ来た。すべては明子を見つけ出し、僕の過去を取り戻すためだ。
 だから僕はレイナと愛し合うことはできない。だが一方で、彼女と別れることも難しい。単なる感傷の問題ではない。真琴氏の家に行ってからというもの、僕たちは決して抗うことのできない絆で結ばれているように思えてならない。あるいは真琴氏の描く言霊の世界に支配されているのかもしれない。
 何も考えたくなかった。それで僕は彼女の乳房に手をやったまま眠りの世界に堕ちた。
 次に目が覚めた時、今度は脇の下に嫌な汗をかいていた。
 レイナはベッドから消えていた。

京都物語 308

 1回目の射精を終えてまだ間もないうちに、レイナは次を求めてきた。少女のような乳房とは不釣り合いな積極性だった。僕は改めて彼女のぬくもりの中に入ったうえで、小さく尖った乳首に口をつけた。ハスキーな声が、天から聞こえるようにベッドの上で震えた。
 その時、窓の外に広がる渉成園の黒々とした緑がたまたま視界に飛び込んできた。それと同時に軽い眩暈を覚えた。重なっている。そう思った。デジャブの感覚に近かった。同じような場面を過去に経験したことがある。
 それを思い出すのに、さほど時間はかからなかった。きわめて象徴的な場面だったからだ。
 僕は3年前に明子と鎌倉へ行った。テレビの旅番組を見ながら、突然旅に出たいと珍しく明子の方から言いだしたのだ。
 その日僕たちはまず北鎌倉の禅刹を巡り、昔の幕府が切り開いた道を歩いて街の南側に抜けた。途中、寿福寺に立ち寄った後、湘南海岸を望むペンション風のホテルに入った。そこで夜の海を見ながら心ゆくまで抱き合った。
 今浮かぶのは、あの時の情景だ。鎌倉への旅を最後に、明子は僕の元から消えた。だからこそベッドの上での抱擁が、象徴的な記憶としてよけいに訴えかけてくるのだ。
 再び渉成園に目をやる。あの時広がっていた湘南の海とはまるっきり違う光景だが、僕の目にはどこか共通点があるように映る。
 2回目の射精を終えた後、レイナは僕の腕枕の中ににうずくまった。片方の手で彼女の乳房を撫でていると、「最初からこうなることは分かってたんだ」とささやいてきた。「あたしの第6感がそう言ってたからね」
 その言葉は、なぜか寂しげに聞こえた。

京都物語 307

 レイナはバスローブを着たままベッドに腰掛け、さっきの缶ビールの残りを最後まで飲み干した。身体からはシャワーを浴びた後の火照りが放射され、頬はほんのりと赤らんでいる。そんな横顔を見ていると、今まで明子のことを考えていた僕の心の鎖があっけなくほどけたのを感じた。
 僕はレイナの隣に移動して、ソバージュの髪を撫でた。まだ髪は濡れていた。彼女の亜麻色の瞳は戸惑うほど近くにあった。ふと気がついた時、僕の舌はレイナの舌の上を縦横無尽に這い回っていた。そのまま僕は彼女のバスローブを肩からずり下ろした。新山口駅で出会った瞬間からずっと心を引きつけ続けてきた彼女の乳房が、ついに目の前に露わになった。それは予想よりもさらに小さく、まるで少女の乳房のようでもあった。淡い桜色の乳首は小さく尖っている。
「恥ずかしい」とレイナは乙女の声を上げ、咄嗟に両手で胸元を隠した。僕は部屋の明かりを落とし、彼女の両手をどけて、小さな乳房に頬をあてがった。彼女は猫が鳴くように喘いだ。
 その後のことはよく覚えていない。まるで夢の中の出来事のようだった。レイナと抱き合いながら、昼に真琴氏から聞いた光源氏と藤壺の逢瀬の場面が思い浮かんだ。愛する人との抱擁は、いつの時代でもこうして夢のように感じられるのかもしれない。
 するとレイナは僕のペニスをいかにも大事そうに両手で包み込み、そのうえで口に含んできた。彼女は、繊細で献身的だった。そうやって十分に温められたペニスを彼女の中に入れた時、この女性と真につながり合ったのを全身で実感した。
 それから僕たちはベッドの上で時間をかけて絡まり合った。窓の外に広がる渉成園のことなど完全に忘れて、お互いの身体を確かめ合った。レイナの身体は、どこかなつかしくさえ思われた。

京都物語 306

 昨日の夜、僕はレイナと同じベッドで寝た。彼女は2月の京都を自転車で巡ったせいで風邪気味だったが、昨日1日ホテルで療養した甲斐あってすっかりよくなっていた。 
 レイナはベッドの中で、だしぬけに、あたしとセックスしたいかと聞いてきた。僕も男だからそんな気が起こらないことはないが、今は君の様子を静かに観察しているところだと答えた後、髪を撫でているうちに、彼女は眠りについた。その寝息を聞いていると、どうもうまく眠れず、冷蔵庫の上のアーリータイムズのミニボトルを開け、椅子に座ってから、グラスに注いで飲んだ。そのうち音楽が聴きたくなって、ipodの「ドリーマー」を再生した。レイナと出会った新幹線の中で聴いた、小野リサの歌声だった。心が落ち着いた僕は、そのまま朝まで眠りについた。それが昨日の夜の記憶だ。
 そんな回想をしている横で、レイナは冷蔵庫の中から新しいビールを取り出し、1本目と同じように、じっくりと味わうように飲んだ。彼女は少し酔いが回ったようで、シャワーを貸してほしいと言い出し、バスルームに入って水道の蛇口をひねった。彼女がシャワーを浴びる音を聞きながら、僕は3本目のビールに口を付けた。
 もはやレイナは、僕にとってはなくてはならない存在になっている。3週間前に出会ったはずの僕たちだが、実は1年以上の時間を共有していることになる。彼女の存在感を思うと、真琴氏の家にいた時間が1年の重みをもつということが納得できる。
 だが、その考えは、僕の胸にかすかな痛みを与えることにもなる。明子への思いが、レイナを心の深奥にまで入り込ませることをためらわせた。
 すると、シャワーの音がぴたりと止まり、まもなくしてバスローブに身を包んだレイナが出てきた。

京都物語 305

 自分の部屋に戻った僕は、まずカーテンを開け、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。窓の外には京都の夜が広がっていて、眼下には渉成園が見える。この庭園は源融の邸宅跡で、『源氏物語』では「某の院」として登場する。荒れ果てた不気味な廃院は、光源氏の恋人である夕顔が物の怪に取り憑かれて絶命する舞台となる。僕は今朝も見たその広大な庭園が闇夜に沈むさまをぼんやりと眺めながら、ビールに口を付けた。
 今朝?
 いや、僕にとっては今朝のことかもしれないが、実はあれから1年が経っているらしい。ということは、千明氏はその間ずっと、この部屋を僕のために保持しておいてくれたのだ。失踪した時と同じ状態で。そういえばこのビールも、一段と冷えわたっているような気もする。長いことこの冷蔵庫の中で僕を待っていたかのようだ。
 そんなことを考えていると、突然ノックの音がした。外にはレイナが立っていた。彼女はゆっくりと部屋に入ってきて、ベッドの横の小さな椅子に腰をおろし、僕の差し出したビールを美味しそうに飲んだ。
 2人で何も言わぬままビールを飲んでいると、彼女は「なんだか、すべてが嘘みたいね」と話しかけてきた。
「きっと、それこそが人生なんだと思う」と応えると、レイナははにかむような表情を見せ、ビールを床に置いてからソバージュの髪を後ろにかき分け、手首に巻いていたシュシュでそれを束ねた。丸い顔の真ん中に輝く亜麻色の瞳がこちらに向いた。
「ねえ」とレイナはビールを再び手に取って言ってきた。「覚えてる? 昨日の夜のこと」
「昨日っていうのが一体いつを指すのかはっきりしないけど」と僕が言うと、レイナは「あたしたちにとっては、昨日の夜は1回しかないじゃない」と穏やかに返した。

京都物語 304

 無理に笑顔を浮かべた千明氏の鼻髭の両端が、少しだけつり上がった。この鼻髭にしても1年間手入れされ続けているのだろう。
 レイナは千明氏の言葉に対してどう言っていいのやら思案を巡らしているようだ。
「ホテルの終わりは、僕たちの失踪と何か関係があるのですか?」と僕はいつものように思ったことをそのまま口にした。千明氏は微笑みながら首を横に振り、「それは全くございません」と軽やかに返答した。「むしろ、お二人のおかげで当ホテルの知名度は上がり、お客様もわずかではございますが増加いたしたほどです」
「じゃあ、どうして?」とレイナが聞いた。
「本当のところを申しますと、私自身の問題なのです。何と申しますか、気力が湧かなくなりまして」と千明氏は言い、自らの膝元に視線を落とした。
「なんだか、残念です」と少し間を置いてからレイナはつぶやいた。
「そう言っていただけると本当に光栄なのですが」と千明氏は言った。「当ホテルは、先代である私の父親が開業いたしまして、高度経済成長の時代には、政財界の貴人も利用するほどの名門だったのです。しかし、お二人もご存じの通り、京都市内には新しいホテルが数多く建ちましたし、外資系のホテルまで入ってまいりましたから、私どものような老舗は苦境に立たされておるのです。そういうわけで、まだ資産的にゆとりのある今のうちに撤退しておこうと安全策を考えたのです」
 僕は千明氏の入れてくれたコーヒーに改めて口をつけた。
「お二人が当ホテルの最後のお客様かもしれません。これも何かの運命でございます。警察への連絡はしないでおきましょう」
 千明氏の口から「運命」という言葉がこぼれた。真琴氏がよく言っていたのと同じ言葉だ。

京都物語 303

「私たちが見つかったことが知れ渡ると、大騒ぎになっちゃうんだろうね」
 レイナがそうつぶやくと、千明氏は「そこまででもないとは思うのですが」とこの人らしい控えめな言い方で応じた。「お二人の行方が分からなくなって最初の1ヶ月は、警察や新聞社の方々が毎日のように押し寄せてこられて、それはもう、根掘り葉掘り話を聞かれました。それが、3ヶ月も経てば、そういうこともぱったりとなくなりました。人の噂も75日とは、よく言ったものです」
 千明氏はどこか寂しげでもある。
「でも千明さんだけは、私たちのことを1年間忘れなかったんですね」とレイナが言うと、千明氏ははにかむような表情を見せ、「お二人は、私にとっては、とても大事なお方ですから」と言った。レイナは少し遅れて「ありがとうございます」と笑顔を返した。耳の悪い彼女には、千明氏の穏やかな声は聞こえにくかったのかもしれない。
 千明氏とレイナのやりとりを眺めながら、僕はできれば警察沙汰にはしたくないと思った。もしそうなれば、直ちに実家や職場である社会保険事務所に連絡が入るだろう。そうして、即刻京都を出て山口に戻ることになるだろう。レイナとも離ればなれになるはずだ。その前に、何としてでも、ここへ来た目的を果たさなければならない。
 僕が、警察に知らせる前にもう少しだけ時間がほしいと発言すると、千明氏は物思いの顔をこちらに向けながらも「承知いたしました。ヤマシタさんがそうおっしゃるのならば、内緒にしておきましょう」と、理由も聞かぬうちにそう言ってくれた。「この六条ホテルも、まもなく50年もの歴史に幕を閉じようとしております。今更じたばたしたって、しようがありません」

京都物語 302

 六条ホテルのロビーをざっと見回したが、特にこれといって変わっている箇所など見つからない。というか、このホテルには変わるべき箇所がないのかもしれない。年季の入ったソファに絨毯。よく磨かれた大きな掛け時計。壁にかかったどこにでもありそうな油彩の静物画。絵と不釣り合いなほどに絢爛豪華な額。
 すると千明氏は僕たちをソファに座らせた。その上で「いったい何があったのか、教えてくださいませんでしょうか?」と聞いてきた。だが僕たちには「今朝から友達の家に行っていた」としか答えようがなかった。
 千明氏は「そうですか」と言い、ようやくこの人らしい落ち着いた表情を取り戻し、あごに手をやった。だが、考えたところで埒が開かなかったようで、「しばしお待ちいただけますか」と言い残し、奥の厨房へと消えていった。まもなくしてコーヒーの香りがロビーに立ちこめてきた。千明氏はシルバーのトレイにコーヒーカップを乗せ、クッキーを添えてサイドテーブルの上に置いてくれた。
「なんだか、うれしいね」とレイナは言い、さっそくコーヒーに口をつけた。いかにも千明氏らしい、ていねいに入れられたコーヒーを飲むと、今日の疲れが和らいでゆくのが実感できた。
 千明氏は自身もソファに腰をうずめて、「お二人の話を総合しますと」と切り出した。総合するような話があるのか僕にはよく分からなかった。「お二人がその愛宕にあるお友達の家に行っている間に、1年が経っていたということなのですね」
 僕たちはそろって首をかしげながら頷いた。
「それにしても、これからどういたしましょう。お二人と連絡がつけば、すぐに警察に連絡を入れるようになっているのですが」と千明氏は言い、腕を組んだ。

京都物語 301

「すみません、遅くなりました」と僕が言い終えるよりも先に、千明氏は「ヤ、ヤ、ヤ、ヤマシタさんっ」と絶叫した。普段は冷静な紳士であるはずの当人とは思えぬ様子だ。おまけに声まで裏返った。僕とレイナは思わず顔を見合わせた。
「ヤマシタさん」と、千明氏は、目の前に立つのが僕であることを確認するかのように言い直し、フロントから出てきた。「いったい、今まで、どこで何をされていたのですか?」
 千明氏の今朝とのあまりの変わりように、僕たちはあっけにとられるしかなかった。
「どこで何をって、友達の家に行ってただけなんですけど」とレイナが落ち着いて答えると、千明氏は今度は声を震わせて言った。
「1年もですか?」
「1年?」とレイナは首をかしげた。「千明さん、あなたは一体何をおっしゃってるの?」
 千明氏は僕たちの頭をのぞき込むかのようにじっと見つめた後で、再びフロントに戻り、新聞の束を持ってきて、「これを」と言いつつ差し出した。
 僕よりも早く記事に目を通したレイナは「えーっ」という甲高い声を上げ、両手で頬を挟んだ。「何、これ?」
 僕が手にした新聞には「消えた足どり」という太ゴシックの見出しの下に「京都 不明の男女いまだ見つからず」という文字が躍っている。その横には僕とレイナの顔写真が、しかもどこから引っ張り出してきたのか分からないほどのかなり前の写真が掲載され、ついでにこの六条ホテルの外観写真までが並べられている。
「ねえ」とレイナが僕に言った。「今って、何年の何月だっけ?」
「2012年の2月だよ」と答えると、レイナは新聞の日付を指さした。そこには「2012年8月2日」と記してある。
「ちなみに今日は、2013年の2月26日でございます」と千明氏は言った。「失踪から丸1年経ったことになります」


京都物語 300

 橘美琴は頭の中を整理してから、「言葉を使って生きている以上、言霊の世界に含まれないということはないのよ」と言った。「元々言葉自体に力があるのだから。あとは、それを信じるか信じないかという違いだけ。もしヤマシタさんが言霊の世界を信じるのなら、あなたはその中で、否応なく、誰かとつながって生きてゆくことになる」
「誰かと?」と僕は問いかけた。
「抽象的な言い方で申し訳ないけど、私にはそれ以上的確に説明することはできない。そもそも、今の話は、的確に説明され得るような対象でもないの」
 本当に大切なことは説明できない。ここへ来る新幹線の中でレイナが言っていたことだ。それについてはおおむね僕も賛成している。つまり、橘美琴が一所懸命になって伝えようとしている内容も、おおむね理解できる。
 言霊の世界に含まれていることを認識するかぎり、僕はそこに含まれる。そうしておそらくは、そこで明子とつながっているのだ。もし僕が言霊の世界を信じなくなった時、明子とのつながりも消滅する。明子だけではない。橘家の人やレイナとのつながりも同様だ。僕は偶然ここにいるのではない。物書きとしての能力を持つ真琴氏が作り上げた世界の登場人物として、他の人と関わりながら、結果としてたどり着いたのだ。橘美琴氏の言わんとするのは、おおむねそのようなことなのだろう。
 僕とレイナは橘美琴に礼を言い、車を降りた。ドアを閉めた直後に、静かな排気音を引きずりながら、シトロエンは路地の先へと消えていった。最後はあっけない別れだった。
 六条ホテルに入った瞬間、僕はある種の違和感を感じた。ロビーの雰囲気が今朝と違う気がする。どこが違うのかよく分からないが、たしかにどこかが違う。
 フロントに立つ千明氏は、僕たちを見るやいなや、目と口を極限まで大きく開けた。

京都物語 299

「だから、レイナちゃんが、今回の件で、たとえば罪悪感を感じたりするのは、お門違いなのよ」と橘美琴は言った。「ママはそろそろ今の生活を降りたかったの。その大きなきっかけとなったのは、レイナちゃんじゃなくて、じつは明子さんだった。それも全部、ママの作り上げた言霊の世界の出来事だったというわけ」
「つまり、これまでの私たちの人生は、真琴先生の言葉の中にあったということか・・・」
 レイナがそうつぶやくと同時に、シトロエンは静かに停車した。「六条ホテル」に到着したのだ。橘美琴はパーキングブレーキを引いてから、「レイナちゃんにはまだうまく信じられないだろうけどね」と、ため息を吐くように言った。
「ただ」と僕はあえて口を挟んだ。「すべてが真琴先生の言葉の世界にあるのなら、どうして真琴先生は、美琴さんと貴博さんとの関係を知った時、あれほどひきつった顔をしたのだろう?」
 僕の問いかけに、橘美琴は思ったよりもすんなりと答えた。
「さすがにそこは想定外だったんじゃないかしら。いや、想定はしていたけど、それを言葉にするのが怖かったのかもしれないわね。いずれにしても、ママは神様じゃないから、すべてを司ることなどできない。ママも言霊の世界に呑み込まれてるわけだし。ただ、ママには物書きとしての霊的な能力がある。だから、独自の言葉の世界を構築して、登場人物である私たちを、言葉の力で動かすことができる」
 橘美琴の説明は、よく分からないようで、あと少しで分かりそうな気もする。それで僕は頭の中にあることを、そのまま聞いてみた。
「僕はまだ、言霊の世界に含まれているんだろうか?」

京都物語 298

「そう」と橘美琴は僕に向けてうなずいた。「その時は私も、どこでどう明子さんが関係しているのかよく分からなかったけど、今日、ヤマシタさんが明子さんの手紙を持ってきて、ああ、こういうことだったんだって納得できた。明子さんは、ママにとっては大事な存在だったのよ」
「2人はよく会ってたのかな?」と僕は聞いた。
「そこは定かでないけど、大勢いる学生の中で、ママは明子さんの話を特によくしていたわ。それって、ママにとってはきわめて珍しいことなのよ」
 シトロエンは烏丸通の赤信号で停まった。右手には京都駅が立ちはだかっている。橘美琴はハンドルから手を離し、夜空に向かってライトアップされている京都タワーをちらと見上げた。
 そういえば真琴氏が最初に書いた小説は『月と京都タワー』という題名だった。その作品は、真琴氏の夫の前妻が書いた『比叡に消ゆ』を意識して作られた。かたや僕は、高校生の時に家出をして初めてこの場所に立ち、寂しさにうちひしがれた。
 僕は何かとつながっている。改めてそう実感した。
「明子さんは、ママと現実の世界とを結ぶ、仲介役みたいな存在だったんじゃないかなあ」と橘美琴は京都タワーを見上げながら感慨深げに言った。「あの家に引きこもって世俗から離れて生活しているとね、それはそれで楽なんだけど、やっぱりどこかで不安なの。その点、明子さんとつながることで、ママは安心できたんじゃないかと思うの」
 橘美琴がそう言うと同時に信号が青に変わり、シトロエンは他の車に倣って動き始めた。それから少し進んだところで左折し、細い路地に入った。間もなくすると「六条ホテル」の古びた看板が見えた。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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