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京都物語 385

「千明君とは古くからのつきあいなんです」と支配人は親しみやすい口調で言った。「もっとたくさんの方々に京都に訪れてもらおうと、長いこと一緒にやってきた仲なんです」
「予定以上の長期滞在だったのですが、本当にくつろげるホテルでした」と僕は六条ホテルを思いながら言った。支配人も、無念さを表情ににじませて、「千明君からは、くれぐれもヤマシタ様に失礼のないようにと、重々言われておりますので」と、いかにも申し訳なさそうに言った。
 そうして彼は、少し間を置いた後、息を大きく吸い込みながら背筋を伸ばし、「ただ」と低い声で続けた。
「ヤマシタ様は世間では有名な方でございます。おそらく警察の捜索も終わっておりません。こうして無事でおられるわけですから、近いうちに警察に出向かれることをおすすめいたします」
 支配人は言いにくいことを口にしたという思いをありありと表情に出した。僕はその話を聞いて初めて、現在の自分の正確な立ち位置を知った。もしかすると、千明氏からの伝言なのかもしれないと推測もした。いずれにせよ、真琴氏の家に行っていた間に過ぎてしまった1年間を、きちんと説明しなければならない。
 説明? そんなことできるのだろうか? 
「ありがとうございます」
 とりあえず僕はそう応えた。「警察には明日出向きます。もちろんこのホテルには迷惑をかけないように、僕なりにちゃんと配慮します。なので、今晩だけはゆっくり休ませてもらえますか?」
 僕がそう願い出ると、支配人は笑みを浮かべた。その表情に、千明氏と共通する頼もしさを感じ取った。
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京都物語 384

 タクシーに乗っている間も、涙は止まらなかった。不思議だった。そんなにも哀しいというわけでもないのだ。感情の深いところで、自分でも気づかないことが起こっているのかもしれない。
 窓の外では夕闇に包まれた京都の景色が後ろへ流れている。そういえば、千明氏が、六条ホテルに隣接する渉成園の説明をしてくれたことを思い出す。あの庭園は光源氏のモデルの1人とされる源融という貴族が造営したものだが、彼の死後は不吉な廃屋としての噂が広まった。『源氏物語』でも、まだ大人の恋を知らない若かりし光源氏が、夕顔という女性と夜を明かす舞台として登場する。ところが、光源氏を愛する他の女性からの嫉妬が物の怪となって取り憑き、若い夕顔は悲運の死を遂げてしまう。
 今思えば、六条ホテルも少なからず『源氏物語』とつながっていたのだ。ホテルそのものが真琴氏の言霊の世界に含まれていたのかもしれない。
 そんな想像を巡らせている間に、堀川通にある「京都東急ホテル」に到着した。千明氏がここの支配人とよく知れた仲らしく、今夜の宿を取り計らってくれたのだ。フロントに僕の名前を告げると、支配人自らがわざわざ出迎えてくれた。六条ホテル同様、古くからあるホテルのようだが、内外装ともにリニューアルされていて、何から何までが上質にしつらえてある。やわらかな照明の奥からはジャズも聞こえてくる。六条ホテルとは客の数も桁違いで、外国人の姿も目立つ。
 僕は支配人直々の案内で客室に通された。あろうことかプレミアムフロアの部屋に通され、3回寝返りを打っても落下しそうにない幅のダブルベッドが堂々と据えてある。京都らしい色彩が随所に配された室内には、大型テレビ、ふかふかのソファ、新品のノートパソコンまで設置してある。
「もちろんインターネットにも接続できますから、どうぞ、ご自由にお使いくださいませ」と支配人は言った。あまりの豪華さに、かえって落ち着かない気がした。

京都物語 383

 僕は掃除の手伝いを買って出ることにした。千明氏は、お客様にそんなことしていただくなんて滅相もございませんと恐縮したが、僕はこのホテルにお世話になったのだから、ぜひ最後にお礼をさせてほしいとお願いした。
 この建物は明日付で不動産会社に売却することが決まっていて、次に入る外資系のホテルも内定しているので片付けは最小限でいいのだということだったが、いざ雑巾を手にした途端、隅々まできれいにしないと済まないような心持ちになった。
「このホテルが新しく生まれ変わって、また多くのお客様に利用していただけるようになるのであれば、おそらく、先代も許してくれることでしょう」と言いながらフロント内の書類の整理をしている千明氏の横顔は、やはりどこか寂しげに見えた。
 ひととおり掃除が終わった後、2人でホテル特製のカレーを食べた。
「ヤマシタさんが比叡山に上がっていらっしゃる間に、ずっと煮込んでおりました。これが、最後の晩餐ですね」と千明氏はスプーンを口に運びながら控えめに笑った。窓の外はうっすらと夕闇に包み込まれている。夢中で掃除をしているうちに、いつのまにか時間が経ってしまったようだ。
「ちょっと聞きづらいことなんですが」と僕は味わい深いカレーを平らげた後で言った。「千明さんは、これからどうされるのですか?」
 すると千明氏は「家に戻ってから、ゆっくり考えますよ。これからは、悔いの残らないように余生を過ごしたいですね」と答えた。
 こざっぱりとしたロビーからは、千明氏の他にも誰かの声が聞こえてくるようだった。この50年間、ホテルを訪れた人々の魂が集まって、ここでの思い出を語り合っているようだ。
 千明氏に最後の挨拶を交わし、ホテルを後にした時、なぜだか涙がこぼれた。泣きながら、いったい何年ぶりの涙だろうかと記憶を辿ってみたが、きちんと思い出すことすらできなかった。ふと振り返ると、「六条ホテル」の看板の明かりは消えていた。

京都物語 382

 結局僕は、心の整理のつかぬまま、つまり明子がどこへ行ってしまったのかはっきりとはつかめないまま、六条ホテルに戻ってきた。
 ロビーに入ると、上着を脱いで白いシャツの袖をまくった千明氏が入念にソファを拭いていた。僕の帰着に気づいた千明氏は、すっと背筋を伸ばしてこちらを向き、「お帰りなさいませ」と張りのある声で挨拶してきた。なんだか実家に帰ってきたような気分だった。
「僕がここを出て行ったのは、3日前のことですよね?」と尋ねると、千明氏は「はい。私の時間とヤマシタさんの時間は、今回はちゃんと一致しております」と微笑んだ。どうやら時間が狂ってしまったのは真琴氏の家に行った時だけのようだ。
 千明氏は、かぐわしい香りの立つコーヒーを持ってきて、「私の都合でヤマシタさんを急がせてしまったのではないですか?」と申し訳なさそうに言った。僕はコーヒーを口にしながら「そんなことはないですよ」とゆっくり首を振った。ちゃんと期限を決めておいた方が、こういう場合は無駄なく事が進むのだ。おそらくこれ以上比叡山にいたとしても、明子に関する新たな情報は手に入らなかっただろう。千明氏は僕の表情からいろんなことを察したのか、明子については何も聞いてこなかった。
「それより、今日でこのホテルは、本当に最後なのですか?」と僕は問いかけた。すると千明氏は、ややうつむき加減になって、それでも声の張りだけは失うことなく、「ええ。予定通り、本日をもちまして、50年の歴史に幕を閉じることになりました」と答えた。
 千明氏の言葉を聞いて、連動的に、明如という尼僧がいたという1000年前に思いを馳せた。
――50年。このホテルの歴史も、おそらく、過ぎてみればあっという間のことだったのだろう。 

京都物語 381

 真琴氏は、『チャイコフスキーの恋人』を発表して間もなく、何かにとり憑かれたかのように『藤壺物語』に取りかかった。光源氏と藤壺の愛を、自分と貴博氏の関係に重ね合わせた。光源氏と藤壺の間に不義の皇子が誕生したことと対応するかのように、2人の間には、美琴という子が産まれた。真実を知らない夫は、美琴を実の娘だと思い込み、愛情を注ぎつつも、病気で急逝した。すべてが『源氏物語』の再現だった。罪の意識におののく真琴氏は、それでも残された力を振り絞って、『藤壺物語』を書き上げた。
 そうして、真琴氏の作り出した言霊の世界に影響を受けた女性がいる。明子だ。
 『源氏物語』の藤壺は出家して入道となった。また、『比叡に消ゆ』の主人公は比叡山に入って仏と同一した。ならば、明子は・・・
 ハンドルを握る手に汗がにじむ。胸が締めつけられるような息苦しさを感じる。忌まわしい予感が、絶望と呼ぶに等しいほどの重みでのしかかっている。
「根拠はと問われれば説明するのは難しい」というさっきの中原氏の台詞が、今度は自分のこととして胸の中に不気味に響き渡る。もう明子とは2度と会うことはできないのだという根拠のない実感。それは宿命的に付いたしみのように、体の深奥にじわじわと浸透してゆく。
 やがてレンタカーは深い森の中に入った。同時に、琵琶湖は姿を消した。冬枯れの木々が僕に向かって覆い被さってくる。来る時には手招きしているように見えたが、今や別れの挨拶をしているようだ。その寒々しい光景を見ると、今から比叡山を下りるのだという事実が、真に腹に落ちてゆく。心の底から寂しかった。

京都物語 380

 つまり、紫式部は自ら体験した人生のたまらなさを、『源氏物語』の世界に投影したのだ。執筆のきっかけは天皇からの勅命だったが、琵琶湖畔の石山寺で執筆の祈願をした夜、湖に映る月を眺めながら書き進めるうちに、物語の中に引き込まれてしまった。
 紫式部には永遠の恋人がいた。すべてを捨ててまでも我が身を捧げたいと思うほどの秘密の恋に溺れていた。その魂は、言葉の力を得て、『源氏物語』として結実した。
 そうして『源氏物語』から千年後、紫式部の言霊の世界に動かされた人物がいた。浅茅しのぶ、つまり橘真琴だ。
 真琴氏は夫の勧めによって小説を書き始めた。夫の前妻は橘忍という高名な作家で『比叡に消ゆ』という代表作を遺していた。若かりし真琴氏はその小説に対抗するかのように『月と京都タワー』という小説を書いた。
 前妻の書いた『比叡に消ゆ』の主人公は、恋に破れ、世をはかなんで比叡山に逃げ込み、最後には仏の世界に帰依するという道を選んだ。それに対して真琴氏の書いた『月と京都タワー』の主人公は、『源氏物語』の世界に傾倒し、そこに描かれた女性たちのように、つらくとも最後まで人生を全うするという道を選んだ。夫は、真琴氏に最大限の賞辞を述べた。その幸福感が、真琴氏が言葉の世界に生きることになった全てのきっかけだった。今考えると、真琴氏の宿命はその時すでに定められていたのだ。
 着実に筆力を上げた真琴氏は、その後『チャイコフスキーの恋人』という長編に取り組んだ。そこには、真琴氏が密かに愛した義理の息子である貴博氏の影が色濃く染みこんでいた。もはや真琴氏は完全に言霊の世界に呑み込まれてしまっていたのだ。

京都物語 379

 紫式部は『源氏物語』を執筆しながら、琵琶湖に浮かぶ満月に心を奪われた。この月を、愛しいあの方も見ているのだろうかと。その情景は「須磨」の巻で光源氏が都に残してきた藤壺を想う場面に反映された。
 度重なる恋に落ち、宮中に居続けることに気詰まりを感じた光源氏は、自ら須磨へと退いていた。にもかかわらず、これまでいつも手の届くところにいた藤壺との離別は、予想以上につらいことだった。会えなくなってから初めて感じる切なさ。互いに思い合っていれば心配などないとどこかでたかをくくっていた。だが実際は、距離の隔たりは精神的不安に直結していた。まだ大人になりきっていない光源氏が初めて知る苦悩だった。
 その別離の物語は、いうまでもなく作者紫式部の紡ぎ出した言葉の世界での出来事だった。つまりその苦しみは、ほかならぬ紫式部自身の心に突き刺さったものだった。
 紫式部は当時にしては高齢での結婚だった。しかも夫である藤原宣孝とは、親子ほどの年の差があった。結婚して3年、娘を授かってすぐに夫と死別したのも、決して予期できぬ不幸ではなかった。彼女ほどの才媛がどうしてかくも不可解な人生を送ることになったのか。その真相は謎に包まれている。その中で、彼女の長かった独身時代に秘密が隠されているという見解はほとんどの研究者の間で一致していることだ。
 紫式部は恋に落ちていた。しかも彼女の一生に重く横たわるほどの運命的な恋だ。できることならその恋を成就させたかった。だが、それはできなかった。なぜならそこには「事情」があったからだ。他人には決して明かされることのない、千年たった今なお謎に包まれた、永遠の秘密があった。
 紫式部は琵琶湖に浮かぶ月を見ながら、会うことのできない愛しい人のことを思った。そうしてその思いを、自らが仕立て上げた光源氏という男性に託した。

京都物語 378

 延暦寺会館に戻った時には、すでに昼を過ぎていた。フロントには小松原さんがぽつんと立ち、物思いの笑みを浮かべて僕を迎えてくれた。昼食を取ることもできるがどうするかと聞かれたが、その必要はない、できれば早く京都市内に戻りたいという意向を伝えると、彼女はすんなりとチェックアウトの手続きに移った。僕は彼女に、中原氏と会わせてもらった礼を改めて述べた。彼女は軽く頭を下げたものの、それについてべつだん何かを言おうとすることもなく、朝預けておいたリュックを取りに奥へと消えていった。
 僕はこの女性の背中に明子を重ね合わせた。そうして、横川中堂で見た聖観音菩薩を思い出した。明子は女人救済を求めてあの仏像の前にひざまずいた。だが、根源からの救済を得ることはできなかった。この小松原という女性も女人救済を求めてこの山に上がった1人だ。彼女の表情からは、過去に被ったであろう心の痛手を感じ取ることができる。
 そんなことを考えているうちに小松原さんは僕の荷物を持ってフロントに出てきた。そうして、思い出したかのように「中原さん、お元気でした?」と尋ねてきた。僕は「ええ、なんだか、生き生きされていましたよ」と応えた。
「ああ、それはよかった」と小松原さんは飾り気のない笑顔を浮かべた。そのやりとりが僕たちの最後だった。
 比叡山パークウエイを下りる時、眼下には琵琶湖がはっきりと見えた。湖面は空の青さを鏡のように映し出し、畔には町が白く広がっている。一昨日の夜、僕は湖面に映る月を見ながら、この琵琶湖にゆかりのある最澄を思った。それから、湖畔の寺で『源氏物語』を執筆した紫式部を想像した。
「今宵は十五夜なりけり」
 ハンドルを握る僕の耳に、再び声が聞こえ始めた。

京都物語 377

 答えがほしかった。明子が今どこにいるのか、その具体的な場所を知りたかった。
 次々と通り過ぎる雲の影が中原氏の身体にも映っている。首に掛けた輪袈裟の鳳凰も、それに伴って、輝いたり翳ったりを繰り返している。
「話を少し戻しますけどね」と中原氏は語尾を上げた。「赤山禅院で発見された古文書には、千日回峰行にまつわる記録が残されていたようです。そこに書かれた『明如』という僧は、平安中期の尼僧で、初めて千日回峰行を満行した尼僧として特記されていたらしいのです」と中原氏は言った。静かに興奮しているように見えた。
「その明如という僧が平安時代に生きていたことは分かります。でも、そのことが明子と何か関係あるのですか?」
「たとえば、明如さんの魂が赤山禅院にあるという主張が、あくまで1つの仮説であるとすれば、あの方の魂が平安時代から今までの間ずっとありつづけているというのも1つの仮説にすぎません」と中原氏は遠回しな答え方をした。陽光が再び氏の身体をじわじわと照らし出している。どうやら雲の一団が通り過ぎたようだ。
「ただ、先ほどから言っていますように、ずっと明如さんの近くに仕え、あの方の魂にじかに触れてきた私には、感じ取ることができるのです。あの方は大きな存在として私たちを包み込まれている。そう断言する根拠はと問われると、たしかに説明することは難しいです。私の直感がそう伝えているとしか言いようがありません」
 直感・・・。六条ホテルの千明氏も使っていた言葉だ。
「明如さんと魂の交流をされてきたであろうヤマシタさんなら、共感していただけるのではないでしょうか?」
 ふと僕は辺りを見渡した。そこには青く冷たい空と、静寂の森が広がっている。

京都物語 376

 想像力の問題。
 その中原氏の言葉を追うかのように、アスファルトの駐車場に影がじんわりと広がり始めた。見上げれば大きな薄い雲が太陽の前を横切ろうとしている。中原氏は諦めの笑顔を崩さぬまま、影が地面に染みこんでゆくさまをぼんやりと眺めている。
「明如さんがどこかに消えてしまわれたのは間違いありません。あの方を敬愛し、行方を捜し続けてきた私には、今や、そのことが衷心より実感されます」と中原氏は言った。「そして、もう1つ間違いのないことがあります」
「何でしょう?」と僕は言った。心拍が胸の皮膚を内側から叩いている。
「矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、あの方は、消えてしまったにもかかわらず、どこかにいらっしゃいます」
 横川中堂の方から、再び鳥のさえずりが聞こえた。
「どこかって、赤山禅院というお寺ですか?」
 僕がそう言うと、中原氏は笑みを浮かべたまま首を横に振って「それは極端な解釈です。不可解なことに対して、明確な答えがないと満足できない方たちの仮説です」と応えた。
「とは言うものの、明如さんが千日回峰行を満行し、生身の不動明王になられたという説は、あながち否定できないところがございまして」
「ごめんなさい、僕にはどうしてもそこのところがよく分かりません」
「はい。ヤマシタさんの心情には、私も同情するところがあります。ただ、この比叡山において、明如さんの最も近くに仕えさせていただいた私だからこそ感じ取ることができるのです。あの方は消えてしまわれましたが、ちゃんと存在していらっしゃいます」

京都物語 375

 不安で重かったはずの心が、ふっと軽くなった。思わず笑みがこぼれてしまいそうだった。
「それがどうして根拠だと言えるのです?」
 ついに石段を登り切った直後に、僕はそう言った。目の前にはアスファルトの広大な駐車場が現れた。そこには僕のレンタカーの他に、ステーションワゴンとセダンタイプの車がそれぞれ1台ずつ停まっているだけだ。
「僕が知りたいのは明子の行方なんです。明子は、橘真琴先生の元を訪ねた後、どこへ行ったのか、それを知りたいのです」
 中原氏は目を細めて青い空を振り仰いだ。風がおだやかに吹き抜けている。遠くには、比叡山パークウエイを通過する車の音が聞こえる。
「ですから、さっきからずっと言い続けてきました」
 中原氏がそう答えると、ほぼ同時に、横川中堂の方で鳥の鳴き声が聞こえた。
「明如様は、どこかへ消えてしまわれたのです」
「答えになってないです」と僕はかみつくように言った。「要するに、これから先は、僕が自分の手で彼女を探すしかないということですかね?」
「申し訳ございませんが、おそらく、それは無理でしょう。少なくとも私は、ヤマシタさんの何倍もの時間と労力を費やして明如さんを捜したのです」
「分かりませんよ。他に彼女を見つけ出す方法があるかもしれない」
 中原氏は諦めの笑顔を浮かべて、「方法の問題ではないのです」と軽く言ってのけた。「想像力の問題です」

京都物語 374

 中原氏は駐車場へと続く石段に足をかけた。上方からは、まばゆいばかりの日差しが降りかかってくる。まるで2人で天上界を目指しているようだ。
 僕は赤山禅院という寺に明子の魂があるという話が気になって仕方がなかった。明子はもうこの世にはいないということだろうか? どんなことがあっても、その事実とだけは絶対に向き合いたくはない。僕は生きたまま明子と対面したいのだ。来世ではなく、現世でもう一度彼女を抱きしめたいのだ!
 中原氏はそんな僕の焦りを気にすることもなく、所々に苔の茶色が付着した石段を一歩ずつ踏みしめながら話を続けた。 
「その赤山禅院は、千日回峰行と関わりの深いお寺なんですね。修行における大事な拠点にもなっていますし。満行者たちのわらじも境内に奉納してあるほどです。その満行者たちは、『大阿闍梨』という称号が与えられ、生身の不動明王になるのだといわれています。住職も大阿闍梨が務めるようになっているんです」
 中原氏の顔には陽光が反射している。だが氏は眩しそうな顔ひとつ見せない。
「さっきの、根拠の話なんですけどね」と中原氏は語りかけてきた。「赤山禅院の僧たちの間で、明如さんも大阿闍梨の称号を与えられたのだという噂が、まことしやかに囁かれてきたんです。もちろん、その話には信憑性に欠けるところがありました」
 少し息が切れてきた僕とは対照的に、中原氏はまるで呼吸を乱さない。
「ところが、つい最近のことなのですが、寺の倉庫から鎌倉時代に記されたと思われる古文書が発見されたのです」
 中原氏はそう言って、僕を横目でとらえた。
「その中に、『明如』という名前が確認されたらしいのです」

京都物語 373

「どういうことなのでしょう?」
 心拍の高まりを抑えながら僕が言うと、中原氏はこれまでの話を整理してくれた。
「明如さんが千日回峰行に出られたのは間違いありません。最初の3年の修行も終えられています。ところが、その頃に、突然姿を消された。橘真琴先生の元を訪ねられたのだと思われます。修行でも救済が得られぬほどに、苦悩は深かったのです」
 中原氏は、僕の顔にやさしい眼差しを向けた。
「ところがあの方は、それっきり、比叡山には戻られなかった。にもかかわらず、一部の僧侶たちは、明如さんは千日回峰行を満行されたと主張している」
「やっぱり僕には意味が分かりません。その修行は7年間かかるとさっき言われましたよね。なのに、3年でこの山を下りた明子が、どうしてそれを達成できるのですか?」
「はい」と中原氏は言った。「ですから、不可解だと私は申しました」
 駐車場へと登る石段の手前にまでやってきた。坂の上には僕のレンタカーが停まっている。ここで初めて中原氏と出会ったのが数時間前だとは思えぬほどに時の経過を感じる。六条ホテルに戻った時、また1年経っていたらどうしようかと本気で思うほどだった。
「ただ、明如さんを崇める僧侶たちにも、それ相応の根拠がないというわけでもないんです」
「根拠、ですか?」
「そうです。比叡山を下りたところに、赤山禅院という延暦寺の塔頭があります。さっき横川中堂の入り口に、円仁さんが唐から持ち帰った赤山明神が宿るという石がありましたでしょ。その明神様が祀ってあるお寺です。彼らは、明如さんの魂はそこにあると主張するのです」

京都物語 372

 僕は何も言わずに、いや、何も言うことができずに、ただ中原氏を見た。氏は僕の心中を察しているかのごとく、慈悲深げな表情で応えてくれた。
 そうして、「明如さんは、私の命を今でも支え続けるほどのご恩を施してくださいました。ですから、私だって、あの方の身を案じているのですよ」と静かな口調で僕の心に寄り添い、歩みを再開した。風に揺れる杉の木立が、駐車場の方から漏れる陽光をちらつかせる。太陽はずいぶんと高いところに上っているようだ。
「総合しますと、あの方は橘真琴先生の元を訪ねられた後、比叡山へは戻らずにそのままどこかへ行かれたのではないかというのが、最も現実的な想像です」
 中原氏は足下に目を落としながらそう言い、「それでも、不可解なところは多分に残りますけど」と付け加えた。
 そうだ。不可解だ。そもそも明子は真琴氏の元にはいない。3日前、僕はレイナと一緒にあそこを訪れたのだ。まさかどこかに隠れていたということもあるまい。そのことを中原氏に話すと、氏は目を少しだけ大きくしたものの、それ以上の反応は見せなかった。まるで不可解なことが起こることを大前提に世界を捉えているような態度だ。
「さらに不可解なことがあるんですよ」と中原氏は前を見たまま言った。「延暦寺の僧侶の中には、明如さんは、千日回峰行を満行したのだと主張する者もいるんです」
 中原氏の首に掛かった鳳凰の輪袈裟に、陽光が反射した。
「でも、それがいつのことなのかを知る者は誰1人としておりません。にもかかわらず、明如さんは満行者として、一部の僧たちの間で崇められているのです」

京都物語 371

 なぜ明子は僕に会えなかったのか? 理由は明白だ。彼女は亡くなった夫に生涯を捧げることを固く誓っていたのだ。そのことを彼女の口から直接聞いたわけではない。だが、その揺るぎない決意は、僕の心にも痛いほど伝わっていた。
「君はどうして、この部屋に来てくれるんだろう?」
 まだ僕たちが会い始めて間もない頃、そんな質問をしたことがある。明子は長い沈黙の後、「自分でも悪いって思ってるの」と言った。もちろんその返答は僕の心を傷つけた。だがその後で「でも、あなたと一緒にいると、どうしてもほっとするの」と付け加えた。
 そのうち明子は僕のことを本当の意味で好きになってくれる。彼女が愛し続けているのは故人なのだ。あの時、そう捉えることで、傷ついた心の着地点を見いだした。
 だが明子はそう簡単には心を許さなかった。1週間の大半の夕方を僕の部屋で過ごしてくれはするものの、何を話すこともなく、ただ僕の隣で紅茶を飲み、テレビを見、そうして本を読んだ。そうしていつも決まった時間に部屋を出て行った。いつしか僕たちは会うたびにセックスをするようになっていた。だが彼女の声はいつも哀しげで、僕に抱かれているというよりは、亡き夫を想っているように見えてしかたなかった。それが、鎌倉の旅行をきっかけに、彼女の心がついに変わったという実感を得たはずだった・・・
 明子は僕のものではないと思い続けてきただけに、彼女が僕のことを深く愛してくれていたという中原氏の指摘は、胸を熱く揺さぶった。どうしても彼女に会いたい。今すぐにでもこの胸に抱きしめたい。できることならゼロからやり直したい。
 とても長かったはずのこの数年間が、驚くほど短く感じられた。喪失感は知らぬ間に埋まっていた。

京都物語 370

 真琴氏と出会った日の情景が浮かんでくる。橘美琴の運転するシトロエン。阪急嵐山駅を出る時、空は快晴だった。それが嵐山を過ぎ、化野念仏寺を越えたあたりから突如として雪が落ち始め、愛宕山麓にある橘氏の自宅に近づくにつれその粒は大きくなった。
 真琴氏の黒々とした瞳、オレンジのべっこうの眼鏡。ストーブの炎、窓の外には降り続く雪。あの時僕は、明子も雪を眺めているような錯覚を感じた。いやそれは錯覚と呼ぶにはあまりにも現実的な実感だった。
 中原氏が言うように、明子はあの家を尋ねたのだろうか? もしそうであれば、真琴氏に宛てた手紙にはいったい何が書かれていたのだろう? それらもすべて嘘だったのだろうか? しかもあの1日は、1年だったのだ!
「橘真琴先生に手紙を渡すことができれば、明如さんの心をあなたにより正しく伝えることにもつながると書かれてますね」と中原氏は言った。「それに、あなたが行動する過程において、いろいろなことに気付くことを望んでいるとも書かれています。つまり、明如さんは、間接的にヤマシタさんに思いを伝えようとされたのです」
「何のために? どうしてこんなに手の込んだことを」と僕は漏らした。頭の中は激しく混乱している。1度作り上げたはずのジグソー・パズルがバラバラになっている。
「何のためにって」と中原氏は口元をほころばせ「さっきから申している通り、本当はヤマシタさんに会って、直接謝りたいのに、それができなかったからですよ」と答えた。「明如さんは、あなたに心をきちんと伝えるために、あの方なりの順序に従って、あの方なりのやり方を採られたのです。それほど、あなたのことを深く愛されていたということなのです」

京都物語 369

 中原氏は心配そうな眼差しを僕に向けている。おそらくひどい顔をしているのだろう。それで、息を1つ吐き出して作り笑いを浮かべると、中原氏も頬を緩めた。そうして「ヤマシタさんの苦しみが分かったからこそ、そして、自分が悪いのだと認識していらっしゃったからこそ、明如さんはあなたに会いたかったのではないでしょうか」と言った。
 その言葉が、この数年間寂しさを抱き続けてきた僕の心に何らかの慰めを与えてくれたのは確かだった。
「明如さんがあなたにどんな苦しみを与えられたのか、もちろん私の知るところではございません。ただ、あの方は取り返しのつかないことをしたと思っていらっしゃった。できることならすぐにヤマシタさんの元に駆けつけて、両手をついて謝りたい。そうして、できることなら、あなたに許してもらいたい。そんなことを念じ続けていらしたのでしょう。でも、それは事情が許さなかった。精神的に行き場をなくした明如さんは、最終的にはこの比叡山に上がり、千日回峰行の中に心身を投じたのではないでしょうか」
 もはや僕は何も言えなかった。
「しかし、僧侶としての姿に身を変えたところで、根源からの救済は得られなかった。あなたへの思いを消し去ることはできなかったのでしょう。明如さんは横川で女人救済のための祈祷を行われていましたが、今思えば、それはあなたへの祈りを捧げていらしたのではないのでしょうか?」
 心がふっと温かくなった。鎌倉の海で実感した感覚が不意に甦ってきた。
「それでも、救済は得られなかった。だから」と中原氏は言い、まぶたを細めた。「最後には、橘真琴先生の元を訪れたのではないでしょうか?」

京都物語 368

「最後のお願い」
 僕はその部分から目が離せなくなった。明子は本心から「最後」だと伝えている。
 すると、中原氏がつぶやきかけてきた。僕はふっと我に返った。
「恋に落ちている女性にとって、最も耐え難いことは何だと思われます?」
 唐突な問いかけだった。
「愛する人を苦しませることなんです」と中原氏は僕の答えを待つことなくそう続けた。「ましてや、悪いのは自分だと分かりきっている場合、取り返しのつかないことをしてしまったのだという自責の念が、自らの首を絞めるのです」
 僕にも愛する人を苦しませた過去がある。大学を卒業した後、佐織を裏切ってしまったのだ。よりによって、彼女の親友だった美咲に心を奪われてしまった。その結果、僕は同時に2人の女性を失った。自業自得だと自分に言い聞かせたところで、何の救いにもならなかった。あれから時間が経った今なお、許されることのない罪を犯したのだという意識が僕を睨み付ける。できることなら誰も傷つけずに生きたい。もしそれが可能なら、生きることとはどれほど楽で幸せだろう。
 しかし明子に置き去りにされた時は、それ以上に救われようがなかった。今思い出すだけで、心の傷が痛み、傷口から膿が出てくるようだ。つまり僕はどこまでもエゴイスティックな存在なのだ。
 鎌倉で魂が同化した実感を得た直後だったからこそ、迷い込んだ闇も深かった。しかも学生時代とは違って、仕事という重荷を背負っていた。どこにも逃げ場がなかった。毎日息を殺しながら目の前の仕事をひたすらこなした。仕事の途中で何度も携帯電話に目を落とした。帰宅すると必ず郵便受けを覗き込んだ。だが明子の匂いのするものは、何1つとして届かなかった。心が死んでしまいそうだった。

京都物語 367

 僕はもう一度手紙を取り出し、明子の言葉1つ1つを改めて捉え直した。穴が開くくらいに何度も読み込んだ手紙のはずなのに、新たな解釈が与えられたように感じられる。
「・・・ひどく憤慨されてもいるでしょう」
「・・・ほんとうにごめんなさい」
「・・・お便りしてよいものかどうか、ずいぶん悩みました」
 明子は僕に会いたかった。しかし、どうしても会いたいと言えなかった。だがらこそ、この手紙を僕に宛てた。これまでそんな視点で読んだことはなかった。本当に大切なことは説明しにくいと話していたレイナの横顔がふと思い浮かぶ。
「女心ですね」と中原氏は隣でつぶやいた。「自分の力ではどうすることもできない女心です。せつない」
「ただ」と僕は、手紙に目を落としたまま言った。「明子が橘真琴先生と接触した理由はどこにも見あたらない」
 すると中原氏はぴたりと静止し、「いえ、それは、まず間違いないでしょう」と言った。「明如さんは、橘真琴先生に会われております。そうするしかなかったのです」
 僕は手紙の中の言葉に再び視線を落とした。
「・・・その方は自身のことは一切語らず、連絡のしようがないのです」
「・・・その方に手紙を渡すことができたなら、そのことは私の心をあなたにより正しく伝えることにもつながるかもしれないというささやかな期待もじつはあるのです」
「・・・あなたが私の願いを叶えようと行動する過程において、いろいろなことに気付いてくださることを遙かに望んでいます」
 つまり明子は僕に嘘をついたというのか?
 すると、手紙の中の一文がふと目に留まった。
「きっと、これが私からあなたへの最後のお願いになるはずです」

京都物語 366

 仏に仕える身らしく穏やかな顔つきで話をする中原氏だが、それでもよく見ると頬は紅潮し、声はうわずっている。まるで、この人自身が恋に落ちているかのようにさえ映る。
 今、中原氏は、明子は僕のことを思い続けていたのだと指摘してくれた。明子に置き去りにされたのだと長いこと失望し続けていただけに、中原氏の言葉は僕を慰めた。たとえ会えなくとも、互いに思い合っているという実感さえあれば、心は落ち着くのだ。
「でも、よく分からないんですが」と僕は引っかかっていることをそのまま吐き出した。「明子が僕に会いたいと思い続けていたということと、彼女が橘真琴先生と接触していたということが、どこでどうつながるんでしょう?」
 すると中原氏は「女の勘です」と即答した。
 僕が何も言えないでいると、「もうちょっと分かりやすく言いますとね、明如さんの手紙全体から醸し出されている空気がそう伝えてるんです」と中原氏は付け足した。
「空気、ですか?」
「そうです。その空気っていうんが、結構大事なんです。だって、私たちの会話の中でも、あの人は空気が読めるとか読めないとかよく言うじゃないですか。本心とは、なかなか言葉にしにくいもの。とはいえ、それを隠し通すことも難しい。だから、どうしても本心は空気で伝わるところが多いんじゃないですか」
 たしかにそう言われてみれば、そういう気もする。
「明如さんの手紙から感じ取れるのは、ヤマシタさんに会いたいという強い思いです。でも、事情があって、会うことはできない。それでも会いたい。だからこそ、思案の末、あんな手紙を送ることになった。そんな空気がぷんぷん漂っております」

京都物語 365

「何をおっしゃってるのか、僕にはまったく分からないんですが」と僕は思いを率直に述べたが、声は震えてしまっていた。
 中原氏は改めてまぶたを閉じ、何度か小さく頷いた。僕にはそれが、横川中堂の脇に立っていた石仏の表情と重なって見えた。
 しばらくして中原氏はこう言った。
「明如さんが引用された『心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ』という和歌の心が、どうしても胸に響くのです」
 僕にとっては、はぐらかされたような返答だった。
 ただ、たしかに明子は本をよく読んだ。彼女自身、活字がないと生きてゆけないとよくつぶやいたものだ。失踪の直前は、日本の古典に関する本を好んで読んでいた。それゆえ、手紙の冒頭に引用された和歌を目にした時にも、そこから伝わってくる寂しげな空気を添えようとしているのだというくらいにしか捉えなかった。
「出家して人間の心を捨て去ろうとしている身であっても、人生のせつなさを感じてしまう。そんな秋の夕暮れ」と中原氏は明子の引用した和歌の解釈をした。
「そうしてそれが、まさに明如さんの心だったわけです。つまりあの方は、修行をしながらも人間としての心を忘れることができなかった」
 中原氏はそう言って、まっすぐな目を僕に向けた。
「あの方は、比叡山を歩きながら、ヤマシタさんのことを思い続けた。僧侶としての姿であっても、人間としての、女としての心だけは失っていなかった。ヤマシタさんに会いたかったのでしょう。私には共感できます。胸が焦がれるくらいに、いや、発狂しそうなくらいに、あなたに会いたかったのだと思います、明如さんは」 
 

京都物語 364

「もし、よろしければ」と中原氏は静かに言った。その瞬間、森の匂いが鼻先にまとわりついてきた。「その手紙、拝見させていただけませんでしょうか?」
 僕は「ええ」と答え、たった今封筒に入れたばかりの手紙を再び取り出した。中原氏は軽く合掌し、僧侶らしい恭しい手つきでそれを受け取り、ゆっくりと手紙を開いた。氏の所作を間近で見ていると、そこに明子がいるような錯覚がよりいっそう強まった。やはり明如さんは明子なのだという実感が胸をつまらせた。
 中原氏は、師の声に謹んで耳を傾ける弟子さながらの姿で書面に目を落としている。何度も頷きながら、時に首をかしげながら、僕とは違うやり方で読み進めている。そうして最後まで読み切った後で大きく息を吐き出し、辺りの森を見渡した。まるで森の中に明子を探すようだった。
「どうも、ありがとうございました」
 中原氏は手紙を受け取った時と同じ手つきで僕にそれを返した。すると再び風が吹き抜けた。さっきよりも冷たい風だった。風にひるがえる輪袈裟を気にかける様子もなく、氏は手紙に記された言葉を頭の中で咀嚼するように目を閉じた。間もなくして、まぶたを開くと同時にため息を吐き、僕にこう言った。
「数年来抱き続けてた謎が、今、ようやく雪解けを見せる思いです」
 僕は氏の瞳を覗き込んだ。
「明如さんは、ヤマシタ様を深く愛していらしたのでしょう」と中原氏は低く言った。「それがあの方の苦悩そのものであり、あの方が比叡山に上がるきっかけとなったのです」
「いったい、何が分かったのですか?」と具体性を求めると、「明如さんが、その橘真琴という方と接触されたという想像は、当たっていたということです」と中原氏は返答した。

京都物語 363

「・・・あなたへの手紙と一緒にもう一通封筒を同封しました。それをその方に渡して頂きたいのです。その方は3年前に、京都の大谷大学大学院文学研究科の客員教授でいらっしゃいました。私はそこでその方と出会い、大きな学恩を受けました。ところがその方はご自身の情報は一切語らず、連絡のしようがないのです。私にはもう時間がありません。だからあなたに託します。
 ただ、その方に封筒を渡すことができたなら、そのことは私の心をあなたにより正しく伝えることにもつながるかもしれないというささやかな期待もじつはあるのです。
 とは言うものの、すべてが私の身勝手だということはもちろん分かっているつもりです。あなたの元を離れて、そうしてこの手紙を書いてみて、ますます自分の愚かしさがよく見えるような気がします。それを承知の上でさらにあなたにお願いをするわけですから、もうつける薬がない状態だということなのです。
 本来なら私がやらなければならないことを、よりによってあなたに押しつけてしまい、ほんとうにごめんなさい。きっと、これが私からあなたへの最後のお願いになるはずです。あなたが私の願いを叶えようと行動する過程において、いろいろなことに気付いてくださることを遙かに望んでいます。それでは、どうぞ、よろしくお願いいたします。 明子」

 僕は最後まで目を通した後、細長いため息と共に、手紙を元の折り目通りに畳み直し、封の中にそっとしまった。中原氏はその一部始終を黙って見ていた。
「明子が橘真琴先生と会っていたという推理は、間違いですね」と僕は断言した。「明子は橘真琴先生の居場所が分からなかったから、僕にこの手紙をことづけたんです」
 中原氏は瞳に力を込めて僕の言葉を呑み込んだ。

京都物語 362

「千日回峰行と言っても、千日の修行を毎日行うわけではありません。7年以上かけて行うわけですから、たとえ修行中の身であっても、多少の自由は許されるわけです」
 中原氏は歩みを完全に止めてそう言った。僕も立ち止まり、駐車場の方から漏れる陽光に照らされる中原氏の横顔と対峙した。
「修行の途中で、その師と仰ぐ方と明如さんが接触された可能性があると、私は想像するのです」
 中原氏は前を向いたまま、静かに言い切った。だが僕は、その推理には懐疑的だった。そもそも明子は真琴氏の居場所を知らなかったのだ。だからこそ僕に手紙をことづけたのだ。
 僕は肩にかけた小さなショルダーバッグの中から明子からの手紙を取り出し、立ったまま改めて読み直してみた。

「貴史さんへ
 秋が深まってゆくにつれて、心の方も枯れてゆくのを感じてしまいます。
『心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ』と詠んだ西行の気持ちが、ここにいると身に染みるようです。
 貴史さん、お元気ですか? 
 分かってます。唐突にお便りしてびっくりされてるでしょうし、おそらくひどく憤慨されてもいるでしょう。ただ、今の段階では、私には心から謝ることしかできないのです。ほんとうにごめんなさい。どれだけ言葉を重ねたところで、許してもらえないことは十分に承知しています。だから私は別の形であなたへの謝罪の心を表すしかないと考えています。いずれは分かってもらえるように。
 もちろん、お便りしてよいものかどうか、ずいぶん悩みました。いきなりあなたの元を去ってしまったわけですから。あなたはこの手紙を見てさえくれないかもしれない。それも承知です。にもかかわらず、今回お便りしたのは、折り入ってあなたにお願いがあるからです。それはこの世であなた以外には頼むことのできないお願いなのです・・・」

京都物語 361

「死と向き合ったって・・・明子は死んでしまったのですか?」と思わず声が裏返った。ほとんど必死だった。すべてが夢であってほしいと願った。
 中原氏は目を細めたまま、眉間に小さなしわを入れた。
「私もこの数年来、ずっと明如さんの消息を気にし続けております。横川中堂で、毎日祈祷も行っているくらいです。あの方は私に修行の方向性を示し、希望を与えてくださった、私にとっては、師と呼ばせていただきたい方なのです」と中原氏は語気を強めた。「ですから私もあの方が亡くなっただなんて決して思いたくはありません。ただ、現実的に想像してみましても、あの方が死を選ばれるというのは、非常に考えにくいことのように思います」
「根拠は?」と僕は畳みかけた。
「あの方は、そんなにも意志の弱い方ではございません」と中原氏は即答した。短い返答ではあったが、十分に説得力あった。
「それに」と中原氏は続け、風に揺れる杉の木立の先の方を見上げた。「明如さんは間違いなくどこかにいらっしゃる。そんな気配を感じるのです」
 僕も中原氏に倣って木立を見上げた。すると、この比叡山へ上がってきた時から、いろいろな声が聞こえてきたことを思い起こした。
「明如さんの居場所について、それはもう、ありとあらゆる可能性を想像し尽くしました。消息を絶つ理由がまるで思いつかない中で、唯一、その師と仰ぐ方の存在だけが妙に不可解でならないのです」
 中原氏の言葉を聞くと、真琴氏の黒々とした瞳を思い出す。同時に「言霊」という声が久しぶりに頭の中に戻ってきた。僕は真琴氏の作り出した言霊の世界を歩かされている。その実感が、胸の中で、明子のぬくもりと同化した。

京都物語 360

 やっとのことで起きあがった僕の顔を、中原氏は「大丈夫ですか?」と心配そうに覗き込んできた。しっかりと首を縦に振ると、氏はほっとした表情を見せ、「明如さんを見ていますとね、危ないなって思うこともあったんです」と慎重に話を進めた。
「あれほど敬虔な姿勢で仏に向き合ってこられた明如さんだったのに、話がその師と仰ぐ方に及んだ途端、まるで別の魂が宿ったかのように目つきを変えられました」
 今の立ちくらみの余波が完全に消え去らぬまま、僕は中原氏の薄くて控えめな唇に目をやった。
「何かに執着するというのは、仏に携わる者として超越してゆかなけらばならない煩悩なのです」
 中原氏の語りから、明子の姿が手に取るように浮かび上がる。さっき感じたばかりの胸のぬくもりが、どういうわけか今度は胸を抑えつけ始めた。
「私がずっと気がかりだったのは、明如さんが千日回峰行に出られる前の夜に、やはりその師と仰ぐ方のことを話されていたということです」
「何を話したんですか?」と僕は反射的に訊いた。
 中原氏はゆっくりと顔をこちらに向け、小さな瞳をわずかに細めて答えた。
「修行に入ることを、師に伝えるかどうか、迷っているというようなことをおっしゃっていました。どうやら明如さんは、その方に比叡山に登ることを言わぬまま、ここへ来られたようで、もちろん、それは何か思うところがあってのことだったのでしょうが、そのことを最後まで気にしていらっしゃいました。首吊り用の紐とか短刀などを準備しながら、明如さんは自らの死と真剣に向き合われたのだと思います」

京都物語 359

 中原氏の話は、僕の認識の中で大きくかけ離れていた明子と明如なる人物を、引かれ合う磁石のように一気に近づけた。中原氏はそんな僕を気にも掛けず、短く切り揃えられた短髪に、いかにもいとおしげに手をやった。過去には長い髪がそこにあったのかもしれない。氏は凛と顔を上げ、日差しに向けて眩しげなまなざしを送っている。
 たしかに明子は急に多くを語り出すことがある。僕なんかが間に入ることができないくらいの一方的な話し方をする。もっともそれは、非常に限られた場合においてのみだが。
 しかも明如なる人物には「師として仰ぐことのできる方」がいた。真っ先に橘真琴氏の存在を思いつかないわけにはいかなかった。
「その方は、大学教授じゃないですか?」と恐る恐る尋ねると、中原氏は、ゆとりのある表情をこちらに向け、「はい。やはり、ご存じでしたか」と落ち着き払った声で答えた。「たしか大谷大学の客員教授をなさっていた方で、はっきりとした名前は失念してしまいましたが、過去に文学賞を受賞するほどの作家の先生だと伺っております」
 その返答を耳にした途端、膝の力が一気に抜けてしまった。気がつくと、その場にしゃがみ込んでしまった。
 中原氏は目を丸くして、大丈夫ですかと声を掛け、僕の肩に手を差しのべた。僕は大丈夫だといいつつも、しばらく立ち上がることすらできなかった。
 僕はしゃがんだまま、冷たい土の地面に手をつき、中原氏に、明子は今どこにいるのかと尋ねた。すると氏は「ですから、明如さんは、どこかへ消えてしまわれたのです」と声を落とした。僕の背中から風が吹いてきて、地面の落ち葉を転がした。その風はますます強くなり、周りの木立全体を揺さぶった。

京都物語 358

 僕の耳には、もはや中原氏の話は入ってこなかった。僕が会いたいのは明子であり、明如なる人物ではなかった。明如さんがどこへ消えようと、僕の心には何の痛みを加えなかった。
 とはいえ、明子がこの比叡山にいることだけは間違いないはずだ。中原氏は深川明子という名前を知っていたし、何より真琴氏は明子からの手紙にそう書いてあると断言したのだ。
 千日回峰行の話を続けている中原氏に、改めて、それはほんとうに深川明子という女性の話なのか、もしかして、同じ名前の尼僧が他にもいたのではないかと問い直そうとした時だった。杉の木立の間に駐車場へと抜ける道が再び見え、そこに日差しが差し込んでいる。中原氏はそちらに目をやりながら、こんな話をしてきた。
「延暦寺の中でも、あまり他の僧侶と関わりをもたなかった明如さんでしたが、どういうわけか、私には比較的、多く語りかけてくださったように思っています。今振り返ってみて、どうも心に引っかかることがあるのです。明如さんの背後には、何か、大きなものが見え隠れしていたのです」
 それを聞いた時、僕の意識は再び中原氏の話に入った。もちろん、話の内容も気になりはしたが、それ以外に僕の心に語りかける何かを感じたのだ。
 すると中原氏はこう続けた。
「明如さんには、どうやらこの延暦寺以外にも、師として仰ぐことのできる方がいらっしゃるのではないかと思っています。普段めったに自身のことを語られなかった明如さんでしたが、その方の話となると、たちまち饒舌になるのです」
 その話を聞いた時、僕は、鎌倉での明子の姿を鮮明に思い出した。あの時彼女は何かに取り憑かれたように多くを語っのだ。

京都物語 357

「つまり、明如さんは、その頃に消息を絶たれたわけですね?」と僕は念を押すように言った。あくまで中原氏の話の順序を尊重しなければならないという思いはある。だが、この人の話を聞けば聞くほど、明如という尼僧は明子とは別の人物だという解釈が有力になってゆく。
 中原氏は、今の僕の質問にはすぐには答えなかった。その代わりに、頭の中で何かを思い浮かべているようだ。僕には決して想像できそうにない何かとてつもなく大きな世界を。
 するとその時、僕の心には、ふいに、明子への思いがこみ上げてきた。今すぐにでも明子に会いたいという衝動が、かまいたちのように僕の胸にくらいついた。明子はすぐにでも手の届くところにいる。そんな不思議な実感が、彼女に会いたいという欲求を抱かせた。
 だが、現実には明子の姿などどこにも見あたらない。辺りは杉の木立に囲まれ、古池があり、寺院が点在し、あちこちに石仏が立っているだけだ。そこに風が吹いている。
 その不思議な実感と現実との落差に、僕の胸はさらに痛みを増した。精神的な痛みのはずなのに、それは肉体としての胸を実際にえぐった。
 だが、痛みの中に、どこかなつかしい感覚が含まれているのを僕は感じていた。それはまさに、鎌倉・長谷寺の見晴台で、明子と一緒に湘南の海を眺めながら、お互いの魂が同化した感覚に違いなかった。
 同化・・・
 そういえば中原氏は、横川中堂の前で、密教の本質とは、1つになることだ、と教えてくれた。精神と肉体、仏と自己。
 胸の痛みの奥底で心を温めているのは、これまで明子としか共有したことのない、特別なぬくもりだった。僕と明子は1つだったのだ。
 明子に会いたい。今すぐに会いたい。僕の心は胸の奥で何度も叫び声を上げた。  

京都物語 356

 中原氏はそう言って、さっきの風でなびいた輪袈裟を指先で丁寧に整えた。そこに描かれた鳳凰が、一瞬、空の青さを映した。
「明如さんがどこかへ消えてしまったという話ですけど」と僕はあくまで話の続きを求めた。すると中原氏は、足下に視線を落とし、歩みを緩めた。氏の踏みしめる土の音が僕の耳にもはっきりと届く。
「明如さんは、私と会った後、予定通り修行に出られました。実際にあの方の姿を見た行者も、何人かおります」
 中原氏は呪文でも唱えるような口調で言った。密教とは秘密の呪文によって師から弟子へと伝授されるものなのだ、というさっきの中原氏の説明をふと思い出す。密教の世界に生きる人は、話し方もそんなふうになってゆくのだろうか。
「ところが」と中原氏は言葉を刻んだ。「ある時点から、明如さんの消息は、ぴたりと途絶えてしまったのです」
「ある時点、ですか?」
「はい。明如さんが修行に入られて2年目までは、その合間に、何度か坂本にあるそば屋でおそばを食されています。ところが、3年目にさしかかったあたりから、あの方の姿は、この比叡山からぱったりと消えてしまったのです」
 中原氏は、地面の固さを確かめるかのように、大地を踏みしめながら進んだ。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
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