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京都物語 445

「・・・ってなわけで、今日は不動産を回って、物件を探す日。今、ライフワークって書いたけど、今の私にとって、それは小説。
『書くことは、生きること。生きることは、書くこと』私はそう考えてる。
 時に言葉って、なんてインチキ臭いんだろうってため息が出ることがある。かと思えば、とてつもない大きな力をもつことだってある。言葉って、つかみどころがない。
 でも私は、言葉の力を信じたい。そこに人生を注ぎ込みたい。それくらい、私にとって、言葉とは大切なもの。私の身体は言葉でできている。
 私には大きな心残りがある。心の底から好きだーって思える人にやっと出会えたのに、その人とずっと一緒にいることができない。その人と過ごした時間は今思えばすごく短い時間だったけど、なんだか、10年くらい付き合ったように感じられる。
 いや、10年っていうもんじゃない。あの時間は私たちにとって、永遠なの。永遠や一生って、自分が強く想っていれば生まれてくるんだと思う。離れていても特別な人はずっと特別だし、大切な人のことを心の中で強く想うと、その瞬間少しだけ元気になれる。
 だけど、弱気になることだってある。あの時間って、ほんとは夢だったんじゃないかしらって思うこともある。でも、夢なんかじゃない。あれは自分なりに精一杯生きてきた大切な時間。それを刻み込むために、私は書く。
 今書いているのは、この間、ブログでもちょっと紹介したけど、その人が主人公の物語。夢中になって書き進めてる。今の私にとって、私が一番私らしくいられる時間」
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京都物語 444

 パソコンの画面上に現れた記事は、昨日の午後に書かれたものだ。「京都に入りました!」というタイトルが踊っている。
「約1ヶ月ぶりの京都です。世間の皆様をお騒がせして以来の京都・・・
 それにしても、この1ヶ月の間に、街はすっかりピンク色に染まっています。なんだか別の場所に来ちゃったみたい。来る時に近鉄の列車の窓から見えた東寺の写真を貼っときますね。いつもこのお寺の横を通ると、京都へ来たことを実感して、ほっとします」
 桜の花に囲まれた黒の五重塔が、ぼんやりと晴れた京の空を背景に堂々とそびえ立っている。画像の左隅には、カメラを構えるレイナの手が窓ガラスに反射して映っている。意図的にしたことなのだろうか?
 僕はビールを喉の奥に流し込んだ。
「私には帰るべき家がない。これまでは、安いホテルを転々としながら、エッセイとかブログを書いて、そのわずかな収入で、列車に乗り、次のホテルを探してた。それが私にとっての普通だったから、けっこう楽しんでいたところもあるけど、そういう生活にも不安を感じるようになってきた。
 ちゃんとアパート借りようかなって、初めて本気でそう思った。お金とか体力のこともあるけど、それ以上に、そろそろ自分のライフワークというものを本気で考えなくっちゃっていうのがいちばん大きい。
 これまで私は、そういうことを後回しにしてきた。だからいろんなことが中途半端になってるし、その分、後悔だってある。京都に来たのはそのため。この町に私の生活の拠点を構えようと思ってる。それって、私にとっては、かなり勇気のいることだったりする。過去を否定することにもなるし。ところで、私はどうして京都を選んだんだろう?」

 

京都物語 443

 アパートの鍵を開け、中に入った瞬間、間違えて他人の部屋に紛れ込んだのではないかと勘違いするほど、よそよそしく感じられた。時間が経つにつれてその違和感は消えていったが、自分のどこかに変調をきたしているような気がしてならない。
 とりあえず、冷蔵庫の中から缶ビールを取り出す。賞味期限を確認すると、1ヶ月前にとっくに切れている。真琴氏の家に行っている間に、力尽きてしまったのだ。とはいえ、プルタブを引くと景気よく炭酸がはじけるし、喉ごしも消して悪くはない。賞味期限というのも、便宜上の数字に過ぎない。
 そんなことを考えつつ、浴室に行き、さっと服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。肌は、潮と砂とそれから結花の体液でべたついている。温度を上げ、熱いシャワーを背中に当てながら、さっきのビールを飲む。まるで宇宙旅行から帰還したかのように、徐々に現実感覚が戻ってゆくようだ。
 これまで僕は長い夢を見ていたのだ。僕の現実とは、この部屋で、こうやってしがない時間を1人で過ごすことにほかならないのだ。僕の身には、じつにさまざまなことが起こった。だが、1人になってみると、この時間こそが、僕にはもっともふさわしいのだと静かに実感される。
 浴室を出て、濡れた身体をバスタオルで拭きながら、もう1本、賞味期限の切れたビールを取り出す。夕方「トチの木」で食べたハンバーグの香りがまだ口の中に残っているが、ビールがそれをほどよく中和してくれる。
 アルコールが回ってきたのを感じながら、居間へと移る。テーブルの上にはネット回線が復旧したばかりのパソコンが置いてある。
 レイナのブログの続きが無性に気になる。

京都物語 432

 やれやれ、と僕は心でつぶやいた。神上寺といえば、レイナが何かに引き寄せられるように訪れて、霊感を得たという寺ではないか。
「どうしたの?」と結花は怪訝そうに僕の顔を覗き込んだ。
 いや、何でもないよ、と僕は答えた。
「知らないでしょ、そんなマニアックなお寺?」 
 結花は前方に視線を戻してそう言ってきた。僕は、うん、まあね、と煮え切らない返事しかできなかった。レイナのことを話そうとすれば、とんでもなく長くなる。明子のことを説明するよりも、むしろ難しいところさえある。今思えば、レイナとはそんな女性だった。
「昔の人って、お寺とか神社とかをすごく大切にしてきたでしょ。私のおばあちゃんもね、長いこと神上寺に深くかかわってきた人なの」
 結花は淡々と語り始めた。さっきの磯の香りが僕たちの体に染みつき、車内にも立ち込めている。
「何でもね、おじいちゃんが、戦争で旧ソ連軍によってシベリアに抑留されてた間、おばあちゃんは、毎朝毎晩お祈りしてたんだって。そしたらね、何年後かに、おじいちゃんは、ほんとに奇跡的に生還したの。その話を聞かされていたというのもあるかもしれない。私も、タっくんに会えますようにって、ずっと願をかけてたんだよ」
 結花の話に、僕は「ありがとう」と返した。彼女の心遣いは、素直にうれしかった。だが、彼女がレイナと同じ寺に参詣し続けたということの方が、どうしても心に引っかかる。
 そんな僕をよそに、結花は言った。
「ねえ、明日も会える?」

京都物語 441

「そんなストーリーのドラマを演じてるような気がするの。タっくんと出会ってからずっとよ」
 結花はどこか得意げに微笑んだ。
「っていうかね、私予感があったんだよ」
 赤信号で停車した間に、一息つきながら、結花は漏らした。
「予感?」
「そう。予感。タっくんがもうすぐ帰ってくるんじゃないかっていう予感よ。元々私って、勘が鋭い方じゃないのに、あの時だけは、妙な自信があった。そしたら、案の定、あなたがテレビに出てた」
 信号が青に変わり、結花のマーチもゆっくりと前進を始めた。
「タっくんが京都から帰ってくる直前あたりから、なにやらドラマが始まりそうな胸騒ぎがしたのよ」
 僕は改めて窓の外を見た。いつの間にか国道に出ていて、大型トラックたちが競い合うかのように僕たちを追い抜いてゆく。
「私ね、タっくんと会えますようにって、実家の近くのお寺に何度もお参りしてたの。死んだおばあちゃんがすごく大切にしていたお寺だったんだけど、あなたが京都で見つかったというニュースを聞いて、お礼参りみたいなことをしたのよ。その時、異様なほどに、胸が温かくなった。あぁ、これから、私たちのストーリーが始まるんだなっていう胸騒ぎがしたの」
「それは何て言うお寺?」と僕は聞いた。
 すると結花は、「神上寺っていうお寺よ。マニアックな山の中にあるの」と答えた。

京都物語 440

「なんか、ドラマチックよね」
 帰りの車の中で、結花はハンドルを握りながらしみじみとつぶやいた。風がすべての雲を吹き飛ばしたのか、フロントガラス越しの月は輪郭をくっきりとさせている。
「人生って、どこでどうなるのか、予測がつかない。何度も言うけど、今が、ほんと、夢みたい」
 夜の海辺の田舎道の光景がゆっくりと後ろに流れている。
「えてして、予想外の方向に進むのが人生なのかなって感じることがよくあるね」と僕は窓の外を眺めがら、実感を込めてそう言った。
「私の場合、タっくんと出会ってから、人生の流れが変わったような気がする」
 結花は物思いに述懐した。そういえば、彼女は、勤務先の病院の医師との婚約を反故にしてまでも僕を選んだ。今思えば、とんでもない決断だ。気が引けてしまう。
「何ていうのかな、昼ドラみたいなの。自分がその中の登場人物になったような感じがするの。私とタっくんはものすごく惹かれ合って、ラブラブな生活を送ってたのに、あなたは突然私の元を去って、愛する人を探しに行った。その間私はひたすら待つ。頑張ってあなたのことを忘れようとしたり、他の人のことを好きになろうと努力したけど、どうしてもできない。むしろ、ますます苦しくなるばかり。そんな時、突然あなたは帰ってくる。でもあなたは、心が疲れてて、今すぐよりを戻すことはできない。それでも私は待つの。あなたが私のことを本当に愛してくれる日を信じて・・・」
 結花のリアルな脚本に、僕は決して笑うことができない。

京都物語 439

「別にいいんだよ」
 僕は平然を装いつつも、言葉とは裏腹に、さらに強く結花の奥へと入った。
「それって、フェイスブックで知り合った、同級生?」
 僕の質問に、結花はすぐに首を横に振り、「その人とは、してない」と否定した。
「じゃあ、だれ?」と僕は立て続けに聞いた。聞かずにはいられなかった。
「だれって言われても、タっくんの知らない人よ」と結花は声を震わせた。
「どうしても知りたいんだ」
 そう言って僕は、彼女の乳房を後ろからもみ上げた。結花は小刻みにあえぎながら、首を少しだけこっちに傾け、「友達に紹介してもらった人」と答えた。
「付き合ったの?」
「付き合おうとした。一生懸命好きになろうとした。でも、なれなかった」
 彼女は泣いているようでもあった。
「それでも、抱かれちゃったんだね?」と僕が念を押すと、結花は力なく首を縦に振った。
「何度も?」と僕は聞いた。自分でもしつこいことは分かったが、どうしても追及せずにはいられない。すると結花は「何度か」と答えた。
 結花がその男に抱かれる場面を想像すると、嫉妬で全身が燃え上がりそうだった。射精は一気に押し寄せてきた。射精の後もなお、想像が頭から離れなかった。
 それから僕たちは下着もはかないまま、砂の上で肩を寄せた。結花は子供のようにキスを求め、「好きよ」とささやいてきた。
 とにかく嘘をつけないのが結花なのだ。

京都物語 438

 ペニスはどんどん奥へと入ってゆく。僕の意思を超えているかのようだ。結花は、最初こそ口に手を押し当てて声を殺していたが、そのうち大きな声を上げはじめた。
「そんな声を出すと、周りに聞こえちゃうよ」と僕は脚の付け根を彼女の性器に何度も押しつけながらそう言った。結花はその時だけ唇を閉じようとするが、やはりすぐに大声を出してしまう。僕の脚はべっとりと濡れている。
 僕は結花の髪を撫でながら彼女を海の方に向かせ、中腰になり、改めて後ろから入り直した。すると、初めて2人でディズニーランドへ行った時、ライトアップされたシンデレラ城をホテルの窓から見下ろしながら抱き合った光景が思い出された。今はあの時とは違って、目の前には平和な海が広がり、高いところには黄色い月が出ている。
「今宵は十五夜なりけり」
 紫式部が、琵琶湖畔の石山寺で『源氏物語』執筆の祈願をした際に名月を見上げたという話が、どういうわけか思い起こされた。結花は海に向かって恥ずかしがるふうもなく声を上げる。僕は彼女の両方の乳房を後ろから撫で回す。結花の身体は、大人びてきているようにも感じられる。月の夜には、本能を駆り立てる何かがあるのかもしれない。「本能」ということを考えた途端、結花を独り占めしたいという強い思いがたちまち僕を支配する。
「僕が京都に行ってた間に、他の人に抱かれたの?」と僕は彼女の中に入ったまま尋ねた。結花は身体を揺らしながら何かを言おうとしているようだった。言葉を急かすように腰を大きく動かすと、彼女はあえぎ声の合間に「ごめんね」と漏らした。僕の頭の中で何かが張り裂ける音がした。

京都物語 437

 それからいったん唇を離し、揃ってベンチを立った。結花は僕の手を引っ張りながら、さらなる暗がりの方へと進んだ。雑草を踏み分け、護岸のための大きな石垣をいくつかまたぎ降りた所に小さな砂浜があった。静かにさざ波が打ち寄せている。僕たちは今降りた石垣の影に身を隠すようにして、砂の上に腰をおろした。
 そこは完全なる暗闇だった。そのせいで、波の音と磯の匂いが近くに感じられる。僕たちは暗闇の中でしっかりと抱き合った。結花はまず僕の唇を舐めてきた。僕も彼女の熱意に呑み込まれるかのように、舐め返した。すべてがなつかしく、そうしてすべてが夢のようだった。もう2度と抱くことのないはずの結花の身体が、この胸の中にあるのだ。
 結花はキスをしながら、手のひらで僕のペニスを包んだ。それから、何のためらいもなく、フェラチオを始めた。心がこもっていて、思わず背筋がのけぞるほどだった。明子のよりも力強く、レイナのよりも重厚なフェラチオだった。
 僕は結花の乳房に手をあてがった。あたたかく、やわらかい乳房だ。そのまま薄手のセーターをめくり上げ、ブラジャーを外し、露わになった結花の胸に頬をすり寄せた。あぁ、僕はこの乳房を毎日のように愛しては、心を満たしていたのだ。そんな回顧に浸りながら、結花の乳首を唇に挟んだ。それは瞬く間に小さく固くなった。結花はかすれた声を出した。
 僕たちは波の音と磯の香りの中で、まるで労り合うかのように、時間をかけて互いの身体を舐め合った。決して止めることのできない強い力に導かれるのを僕は感じた。
 心ゆくまで慰め合った後で、結花のスカートを一気にまくり上げ、タイツとパンティを下ろし、彼女の中に入った。すべてが驚くほどにすんなりといった。
 

京都物語 436

 おぼろげな月が風の中に揺れている。しばらくむせび泣いていた結花が、ふと口を開いた。
「私が聞きたかったのはね、タっくんが、私のこと好きがどうかってことだけなの」
「分かった」と僕は言った。さっきよりも言葉が出やすくなっている。
「好きだよ」
 すると結花は声を大きくして泣き、僕の腕にすり寄ってきた。
「だったら、もう一度付き合おうよ」
 結花は僕の腕の中でそう言った。僕の心がぐらつかないわけはなかった。だが、僕は、結花に対して申し訳なさを引きずりながら生活してゆくことがどうしてもできないと思った。だいいち、このまますんなりとよりを戻すことは、ずるいと思えた。自分を許せないのに彼女と一緒にいることなどできない。「せめて、心の整理をつけるための時間がもう少しほしい」と、僕は言った。
 だが結花は、「無理」と返した。
「私、ずっとずっと、待ってたの。これ以上待つなんてできないよ。私のことほんとに好きなら、私に対して悪い気持ちがあるのなら、今すぐ付き合ってほしい。それができないってことは、私のこと好きじゃないってこと」
 結花は顔を近づけてそう言った。僕は彼女の訴えに気圧された。
「私、こんなこと言うようなキャラじゃなかったんだよ。なのにタっくんのことを待っているうちに、変わっちゃったの」
 心の中には、なぜか明子とレイナが現れた。急に誰かが恋しくなった。自分はつくづくずるい人間だとうんざりした。あまりにうんざりしすぎて、何も考えられなくなった。
 気がつけば僕たちはキスをしていた。なつかしい結花の唇だった。

京都物語 435

 僕はそう言った後で、すぐさま次の言葉を続けた。
「でも、京都に行ってた間も、心の奥ではずっと結花のことを気にかけていたんだ。だけど、僕は君に対して冷たい仕打ちをしてしまった。君にはとっくに嫌われてると思ってた。だからもうこの恋は諦めてたんだ」
 まぶたにたまっていた結花の涙が、1つずつ頬を伝い始めた。
「結花は僕にとって理想の女の子だって、ずっと思ってたし、その思いは今でも変わらない。こんな恋、これまでしたことなかったよ。君のことが、好きで好きでたまならなった」
 胸には熱い思いが奔流のようにあふれ出してきて、それらは即座に言葉となり、結花に向かって放たれていった。
「そもそも君は僕なんかとは不釣り合いだと思ってた。なぜ君が僕と付き合ってくれたのか、今でも分からないよ。君も知ってのとおり、僕は優柔不断で、世間的な常識というものからは大きく逸脱している。たとえるなら、道路の端っこの方をどこまでもふらふらと歩き続けるような人間なんだ。それに対して君は、明るくて、本当に可愛らしい女の子だよ。君には、道路の真ん中を堂々と歩くような人がふさわしいと思う」
 結花は声をかみ殺すように泣き始めた。それは大人の女性の泣き声だ。出会った頃の少女のような結花の面影がどんどん遠ざかってゆく。すべては僕のせいだ。
「結花と付き合うことができた僕こそ、本当に幸せだと思わなければならない。さっき君が言ったように、人生は一度しかないんだ。その中で君みたいな理想的な女の子と出会い、一緒に生活したことは、僕にとっての永遠の宝物だよ」
 止んでいた風が、再び音を立てて吹き始めた。
「でも、残念だけど、僕は、君を幸せにしてやることができない」

京都物語 434

 難しい質問だ。明子のことをまだ愛しているか? 僕自身でさえよく分からない。
 明子と会うことはもう2度とないだろう。それは哀しい現実として受け容れなければなるまい。だからこそ、僕は、一種の適応機制として、明子について考えることを止めていたのだ。考えれば考えるほど、胸が詰まってゆくだけだから。
 それだけに、結花の質問を受けて、僕は返答に窮するとともに、忘れかけていた切なさを久しぶりに思い出すことになった。
「いいんだよ、無理して答えなくても」と結花は、僕の心を察するかのように寄り添ってくれた。さっきは好きか嫌いかはっきりしてほしいと迫っておきながら、今度は無理して答えなくてもいいというあたり、いかにも結花らしい。
「まだ、その人のこと、愛してるんだね」
 結花は寂しそうにつぶやいた。
「それは少し違う」と僕は首を左右に振って否定した。久しぶりに口を開いた気がした。「自分でも分からない。まだ、何が何だか、整理がつかないことだらけなんだ。こんな気持ちになったのは初めてだよ」
 僕がそう言うと、結花は黙った。本心が伝わったのだ。
「京都に行って、会えたの、その人と?」
「結論からいうと、会えなかった」
「でも、会えそうだった?」
「いや、全く会えそうじゃなかった」
 記憶の中で、京都の情景が次々と浮かんでは消えていく。
「会えなくても、まだタっくんはその人のことを愛してる」
「分かった。正直に言おう。僕がその人のことを愛しているかどうかは、自分でも本当によく分からない。ただ、その人のことは、これからも完全に忘れることはできないだろうと思う」

京都物語 433

「好きか嫌いかはっきりしてほしいって言われても、そんなこと、できない」と僕は言った。
「なんで?」と結花は小さいが強い口調で返してきた。
「君を好きになっていいのかわからない。さっき言ったとおりだ」
「人を好きになるのに、なってもいいとか、なっちゃいけないとかあるの?」
「そりゃあるよ」
「どうして?」
「だからさっきも言ったように・・・」
「もういいよ。長い話は聞きたくないの。はっきりと結論を示してくれるだけでいいの」
 いかにも結花らしい論理だ。だが、結論を示せと言われても、そう簡単にはいかない。頭の中では様々な言葉がぐるぐると回っているが、どの言葉を並べたところで、結花の心を充足させることはできないような気がする。彼女が欲しがっているのは、いろいろなパターンに並べ替えられるような言葉の羅列ではなく、心なのだ。僕の本心だ。
 結花は再び海の方に身体を向け、橋の上に浮かぶ月に目をやった。春の月らしく、輪郭が夜空ににじみ出しそうなほどに、ぼやけている。
「私、さっき、ものすごく勇気を振り絞って、告白したんだよ」と結花は漏らした。
「1度ふられちゃった人に、しかも、私を置いて好きな人の所へ行っちゃった人に、『ずっと待ってました』って言ったの。どんな思いでそう言ったか、想像できる?」
 僕は何も返せなかった。
「それから、『一度きりの人生で、こんなにも会いたい人がいるということ自体、すごく幸せなことなんだ』とまで言ったんだよ」
 僕はさらに何も言えなくなる。
「じゃあ、質問を変えるね」と結花は少し高い声で言った。「その人のこと、まだ愛してるの?」

京都物語 432

「この思いを言葉にするのはすごく難しいけど」と僕は前置きした後で、ありのままを述べた。
「率直に、悪かったと思ってる」
 結花は何も言わずに、それでもさっきよりも真剣な眼差しで僕の顔を覗き込んでいる。
「僕は君を置いて京都に旅立った。はっきり言うと、僕には過去に愛していた女性がいて、その人を捜しに行ったんだ」と僕は言葉を続けた。
「分かってるよ」と結花はおだやかに答えた。「そんなことだろうって思ってた」
「僕には、2人の女性と同時に付き合うなんて器用なことはできない。そんなことをすれば、きっと2人とも傷つけてしまう。それは学生時代の経験から学んだことなんだ」
 結花は上半身を僕の方に向けて話に聞き入っている。
「だから僕は、悩み抜いた末に、自分の過去をきちんと清算するために、京都へ行った。結果、君を置いてゆくことになってしまった。今でもそれは本当に悪かったと思っている。そして、だからこそ、今、君が優しい言葉をかけてくれたことに対して、どう対応していいのか分からないでいる」
 結花は「答えになってないよ」と声を震わせ、鼻をすすった。その瞳には夜露のような涙の玉が浮かんでいる。
「私が聞きたいのは、過ぎたことの話じゃなくて、今、タっくんは私をどう思ってくれてるかってことなの」
 僕はつばを飲み込んでから、心の中にあることを、思い切って言葉として紡ぎ出した。
「好きだよ、もちろん、でも・・・」
 すると結花は口を挟んだ。
「その後の言葉は聞きたくない。私のこと好きか嫌いか、はっきりしてほしいの」 

京都物語 431

 さっき結花は「今でも夢みたい」と漏らした。じつは僕も同じことを感じている。
 京都にいた間、僕は無我夢中で明子を探し求め、その過程においてレイナと出会い、なりゆきとして彼女を慕い、頼ることになった。僕たちは、大きな物語の中に巻き込まれていたのだ。
 だが、その物語の中に結花は含まれていなかった。つまり京都にいる間、僕は結花のことをほとんど忘れかけていたのだ。結花は僕にとって理想の女性であることは間違いない。彼女は、当たり前の生活をごく当たり前に送ることができる。さらに彼女と一緒にいるだけで、その当たり前のはずの生活が、キラキラ輝いてくるから奇跡的だ。
 だが、結花を置き去りにしてまでも明子を選んだ以上、結花とはもう2度と会うことはないと諦めていた。彼女と過ごした時間は、僕の人生に封印された宝石箱として、永遠に輝き続けるだろう。そう信じていたからこそ、こうしてここで一緒に海辺に立ち、橋の上に架かる月を眺めていると、今が夢のように感じられる。
 結花は月を見上げたまま、「ねえ」とささやいてきた。「さっきタっくんは、これからは普通の生活を送るって言ったよね」
 僕は小さくうなずいた。
「そして、私とはもう、前のように付き合うことはできない。僕は1人で生きてゆく、とも言った」
 僕はもう1度うなずいた。
「それなら、タっくんは今、私のこと、どう思っているのかを教えてほしいの」
「どう思っているかって」と僕はおうむ返しのように言った。今まで月を見ていた結花は、僕の顔を見ている。

京都物語 430

 結花はそう言った後で、月を見上げた。目元には涙の粒が光っているが、それが思いあふれて出たものなのか、それとも夜風が目に入って出たのか、僕には分からない。
「でもね、今だから言えるのかもしれないけど、待つのって、そんなに苦じゃなかったよ」と結花は述懐し、小さく鼻をすすった。
「待つって、2種類あると思うの。1つは、絶対にその人が来ると分かってて待つ場合。それからもう1つは、ほんとうにその人と会えるのかどうか、分からないで待つ場合」
 彼女はそう続けてから、夜風で乱れた髪を軽く指先で整えた。
「どっちが不安かって聞かれたら、そりゃ、会えるかどうか分からないで待つ場合だろうけど、じゃあ、どっちが幸せかって問われると、人それぞれいろんな答えがあると思うの」
 狭い湾を小舟の明かりがゆっくりと横切っている。それはやがて橋の下をくぐり、広い海の方へと消えていった。
「たしかに、会えるかどうか分からないのに待つって、つらくて苦しいよ。待ってる間は、ほとんどマイナス思考になっちゃうし。でも、それでも待とうって思うことは、それほど思いが強いってことなんだって、私気づいたの。無理して忘れようとして、ますます忘れられなくなるよりも、ひたすら待ち続ける方が、私らしいなって」
 結花はそう言って、さりげない笑みを浮かべた。これまで待ち続けた彼女自身をねぎらうような笑みだった。
「1度きりの人生で、こんなにも会いたい人がいるということ自体、ものすごく幸せなの」
 結花は、今小舟が消えていった方向を見ながら目を細めた。

京都物語 429

 結花はそう言い切っておきながら、その直後に「前みたいにね」という部分を、力なく反復した。
 もう前のような関係には戻ることはできない。それは重々承知のことだ。なにしろ僕は彼女を裏切ったのだ。
 だのに結花は今、心に何かを抱えている。それが何なのか、僕には想像できない。心に負い目を感じている以上、僕はあらゆることについて受動的な立場をとるしかないのだ。そんなことを考えながら黙っていると、結花の方から口を開いた。
「私ね、待ってたんだよ。ずっと」
 夜空の薄明かりが結花の横顔をも照らしている。僕はその横顔に向けて「ごめん」と声をかけた。それが精一杯だった。
 真琴氏もレイナも「言葉には力が宿る」と言った。だが、一方でこういう時には言葉とは何と無力なのかと、ため息しか出ない。いかなる言葉を並べたところで、謝罪には辿り着けない。むしろ言葉を重ねようとすればするほど、思いはどんどん遠ざかっていく。
「待ってたの。ずっと、ずっと、待ってたんだよ」と結花は、そんな僕の横で、さっきと同じ言葉を、さっきよりも大きな声で繰り返した。「でも、奇跡は起こったの。こうしてまた会うことができたんだから。ほんと、今でも夢みたい」
 彼女の肩にかかるストレートヘアが夜風にさらされ、ヘアリンスの香りを運んでくる。
「でもね、かりに、まだタっくんの行方が分からなかったとしても、私、待ち続けてるよ。いつまでも、ずっとずっと、待ってたよ。そうして、いつあなたが帰ってきてもいいように、ちゃんとスタイルを保って、おしゃれして、お化粧だってしてた。そうやって毎日を超えてきたの」

京都物語 428

 僕たちは小1時間のドライブの末に、瀬戸内海に出た。目の前には湾に架かる大きな橋が延び、そのたもとがちょっとした公園になっている。車を停めた後、2人で公園の端まで歩き、海のほとりに立った。
 春とはいえさすがに夜風は冷たく、結花はデニムジャケットの中に肩をうずめた。僕は海を眺めながら、京都からの帰りに、新幹線で瀬戸内沿岸の街を通過したことをふと思い出した。この海は、ここ山口で日本海と1つになる。そう考えると、こうやって海と対峙することにすら特別な感慨を抱く。
「やっぱり、癒されるね、海は」と結花は言い、肩を寄せてきた。京都に思いを馳せていた僕は、結花のぬくもりを身近に感じた。
「おまけに今日は満月」
 空を探すと、彼女の言う通り、橋の上に真ん丸な月が夜空を照らしている。
「ほんとだ、今まで気づかなかった」と僕はつぶやいた。すると結花はふっと笑って、「私もよ」と答えた。「1時間も車を運転してたのにね」
 それから僕たちはベンチに腰掛け、潮風にさらされながら、静かに月を見上げた。
「どうしようと思ってるの、これから?」と結花はだしぬけに聞いてきた。
 僕は結花の横顔を見て、それから再び視線を月に戻して答えた。
「これまでと何にも変わらない、普通の生活を送るよ」
 それについて結花は考え込んでいるようだった。
「ただ、結花と、前のように付き合うことはできない。僕は1人で生きてゆく」
 結花は少し間を置いてから口を開いた。
「もちろん私もよ。前みたいに、タっくんと付き合うことなんて、とてもできないよ」

京都物語 427

「トチの木」の外に出た時、辺りはすっかり闇に包まれていた。店の近くに流れる川のほとりが夜桜の名所になっていて、そのせいか、夜風が人々の気配を運んでくるように感じられる。
 マーチに乗り込んだ後で、結花は「明日、仕事早い?」と聞いてきた。僕は普通どおりだと答えた。すると「じゃあ、もう少し付き合ってもらえる?」と結花は言ってきた。
「いいけど、結花の方は大丈夫なの?」と僕は聞き返した。
「大丈夫って、何がよ?」
「明日早いんじゃないのか?」
「だったら、誘わないわよ。私の性格、タっくんなら分かってるでしょ」
 結花はあきれた感じで声を大きくした。
「ま、そうだな」と僕は言い、フロントシートに深く腰掛けた。「タっくん」、なつかしく、そして恥ずかしい呼ばれ方だ。
 それにしても僕は結花と一緒にいてもいいのだろうかと思う。僕たちは別れたのだ。僕は結花を残し、明子を求めて京都に旅立った。1度に2人を好きになることはできないと、さっき結花は言った。僕も、そう思ったからこそ、結花と付き合ってはいけないと判断したのだ。あのまま一緒にいたところで結花を傷つけるだけだということは、わかりきっていた。
「せっかく再会したんだから、もうちょとだけドライブしよう」と、僕の心とは裏腹に結花はささやいた。
「夜桜でも見に行くか?」と言うと、「タっくんはそういうとこ行かないでしょ」と切り返された。その通りだ。僕は賑やかさを好まない。
「夜の海が見たいの」とつぶやいた結花は、まっすぐ前を向いている。

京都物語 426

「もう一生会えないかと思った」と、物思いに耽っている僕に結花は吐息のような声をかけ、ハンバーグを口に入れてからそれをゆっくりと噛みしめた。
「君の方は、元気にしてたの?」と僕は聞いた。すると彼女は「元気といえば元気だったけど、でも、心はずっと不安だった」と続けた。
「れいの彼氏とはどうなったの?」
 僕は思い切って尋ねてみた。すると、結花は「彼氏?」と語尾を上げ、手に持ったフォークの動きをぴたりと止めてから僕の顔をまっすぐに見た。
「ほら、言ってたじゃないか。フェイスブックで知り合ったっていう、中学か高校の時の同級生。卒業する時に告白されて、それ以来の出会いだって」
 僕の言葉に、結花は瞳に込めた力をゆっくりと弱め、目尻を下げながらこう答えた。
「彼とは今でもフェイスブック上のお友達よ。1度だけ会って、食事を取ったけど、中学の時と変わらない、いい人よ」
「いい人」と僕は思わずつぶやいた。「で、進展はなかったの?」
 結花はナイフとフォークを持った両手の肘をテーブルに置き、ため息をついた。
「進展があれば、よかったんだろうけどね」
 僕はとりあえずハンバーグを食べた。あふれる肉汁と濃厚なデミグラスソースが口いっぱいに広がった。なつかしい充足感だ。
「やっぱり1度に2人を好きになるってことは無理なのよ」と結花は意外にもレイナと同じような言葉を口にした。思わず背筋が伸びた気がした。「あなたのことを忘れようと努力しようとすればするほど、かえって忘れられなくなるの。それってとても苦しいこと」

京都物語 425 

「トチの木」に足を運ぶのは、結花と別れた日以来のことだ。表通りから1本入っているために、この店の外観を見ることすらなかった。結花との再会はまるで昨日のことのように思えるのに、ここの扉を開くのはずいぶんと久しぶりのような気がする。
 店内に客はまばらで、十分に空席はあるが、蝶ネクタイを締めたウエイターが案内してくれたのは、奇しくもあの日と同じ窓際の席だった。
 席についてまず、僕は窓の外に目をやった。春の夕暮れが地表に染み込み、車のテールライトが、ぬるい空気の中にちらほらと点灯し始めている。前回ここに座った時にも、途切れがちな会話の合間に、何度も外を眺めたのを思い出す。人通りの乏しい路地には、乾いた冬の日差しが降り注いでいた。
 この店は僕たちの関係の1つの象徴と言えた。交際が軌道に乗ってからは、仕事帰りによく足を運んだものだ。給料日には、まるで一緒に絵本でも読むかのようにメニューをのぞき込み、日頃なかなか手の出ないコース料理を時間をかけて楽しんだりした。ゆったりとそれでいて上質な時間の中で、僕たちは幸福感に包まれた。この店がまだ残っていること自体、奇跡のように感じる。六条ホテルは50年もの歴史をあっけなく閉じたのだ。
 料理が運ばれるのを待つ間、僕は何度も水を飲んだ。結花は左手で頬杖をつきながら僕の顔を横目で見ている。スピーカーからは、J.S.バッハのコンチェルトが流れている。
 間もなくミニチュアのラグビーボールのように分厚いハンバーグがテーブルに置かれた。結花は感慨深げにそれを切り分けながら、口を開いた。
「あなたがどこへ行っていたのか、ものすごく気になるけど、それよりも無事で帰ってきてくれてうれしい」
 結花の顔の前には明子の面影がふっと浮かび、そのうち、消滅していった。

京都物語 424

 僕たちは結花の黄色いマーチに乗り込んだ。すべてがなつかしい。そういえば、別れの日に、レストランの駐車場でこの車に乗り込む結花を、僕は呆然と見送ったのだった。
 それにしてもあべこべな感覚だ。もう2度と戻ってはこない、遠い過去のことだと思っていた情景が、そのまま再現されているのだ。ただ季節だけが違う。あれは2月で、乾いた冬の空が哀しいくらいに青かった。今は春。はかない桜の季節だ。
「よかった、元気そうで」と結花は、車がメインストリートに出てから話し始めた。「あなたが、どこかのだれかと心中しちゃったのかと思ったんだよ。ほら、今よくあるじゃない、ネット上で知り合った人と集団自殺みたいなこと」
「おいおい」と僕は咄嗟に言い、ハンドルを握る結花を横目で見た。「まさか僕がそんなことを考えるわけがないじゃないか」
「分からないわよぉ」と結花は、疑り深く返してきた。 
 彼女は花柄のロングスカートに薄い色のデニムジャケットを着ている。それにほんのりと石けんのような香りを漂わせている。表情は変わらず瑞々しく張りがあるが、それでもどこかに疲れのようなものが見て取れる。真琴氏の家に行っていた間に1年が経っていたということが、結花の顔からもうかがえる。
「だって、あなたは、結局、ちゃんと理由を説明しないままに、突然どこかへ消えてしまったんだから。納得もできなかったし、不安でどうしようもなかったのよ。だから心中したっていうのは、とり残された私からすると十分にありうる想像だよ」
 つまり僕は、結花を置き去りにしたわけだ。
「ねえ」と彼女はしばらくしてから切り出した。「ハンバーグ食べたいな」

京都物語 423

 その名前を見た時、真っ先に浮かんだのは、どういうわけか真琴氏の面影だった。品良くまとまった髪、ストーブの炎を映したオレンジのべっこうの眼鏡、艶やかな声・・・
 時間がねじれているような感覚。そのねじれの中に僕は巻き込まれている。気がつけば僕はバッグを持って外へと瞬間移動していた。そこには彼女が立っている。どうやら夢ではなかったらしい。
「こんにちは」と彼女は言い、笑顔を向けてきた。
 その瞬間真琴氏の面影はふっと消滅し、代わりに、目の前に立つなつかしい姿がはっきりと視界に入った。僕はいかにも中途半端な生返事しかできなかった。
 そんな僕に向けて彼女は「おひさしぶりです」とささやきかけるかのよう言い、その笑顔は、だんだんと、どこか恥ずかしそうな色あいを帯びてきた。
「君は今、何をしてるんだろう?」という言葉が僕の口からこぼれた。
「え」と彼女は声を吐き出し、笑顔のまま首をかしげた。
 よく分からない。彼女がいったい何のためにここにいるのか、どうしても判然としない。
「ずいぶん迷ったんですよ」と、ただただ戸惑う僕に、まるで助け船を出すかのように彼女は切り出した。「あなたがいなくなっちゃったっていうニュースが大々的に流れて、なんにも手に付かないくらいに心配したんですからね」
 それでも僕は何も言えない。大きな空気の塊が喉元につっかえている。窒息しそうだ。
「ねえ」と結花は僕の顔を覗き込んできた。「ちょっと、出かけません?」

京都物語 422

 かくして、長かった今年の冬がようやく幕を引いた。そして、当然の順序ながら、その次に春がやってきた。例年にないくらいに、ひとりぼっちの春だ。結局人事異動もなかった僕には、何の変哲もない1年がまた始まろうとしている。
 昼食をとるために外に出ると、メインストリートには桜の花の帯が連なっている。ふと顔を上げると、街の至る所に淡いピンクの花が揺れている。毎年実感することではあるが、世の中にはこんなにも桜の木が存在していたのだろうかと、あきれるくらいだ。
 率直に言うと、僕は春は嫌いだ。春は希望の季節だという意見を聞くこともあるが、僕にはとうていそんな風には思えない。春はただ気ぜわしく、不安定な季節。もちろん新たな出会いもあるが、その前には別れもある。周りの人たちは僕の周りを行ったり来たりする。だが、いつも僕1人だけが取り残されたような感覚に陥る。いや、それは感覚の問題でもない。紛れもない事実だ。
 しかも、京都に行く前と何ら変わらない日常が戻ってきたということが、心と体をさらに重くする。霞立つ春の薄い空が、心を逆なでするかのように頭上に広がる。
 それでいて、春の時間は経つのが早い。特に職場の午後は、べつだんこれといった大きな仕事をしているわけでもないのに、あっという間に定刻を迎える。
 18時を過ぎ、そろそろ帰宅するために、うんざりした気分を引きずりながらデスク上の整理をしていた。すると、そこに電話がかかってきた。僕の電話が鳴るなんて珍しいことだと首をかしげながら、ディスプレイの番号を何気なく見た。
 画面上に表示された名前に、思わず瞳が釘付けになった。何度も名前を確認した。こめかみの辺りで、なにやら変な音がした。
 

京都物語 421

 それにしても、僕は真琴氏の物語において脇役だったというレイナの指摘がどうも引っかかる。
 真琴氏の世界に深く傾倒した明子は、そのまま身代わりとなって、真琴氏になり藤壺になった。それが誰の力なのかは僕にも分からない。いうなれば、これこそが言葉の力なのかもしれない。いずれにせよ、明子はそのいかにも不可解な強い力によって、時空の世界に引っ張り込まれてしまった。だとすれば僕は、明子をそうさせるために必要な脇役だった。レイナの言いたいことはざっとそんなところだ。 
 カーテンの外はすっかり暗闇に覆われている。夜が深まるにつれて、寒さも僕に近づいてくる。鍋焼きうどんのぬくもりが、身体に染みわたる。その分だけ、心は寂しくなる。
 これまで僕は、できる限り自分に正直に生きようと努めてきた。時にそのことが他人を傷つけ、結果、自分自身を追い詰めることにもなった。僕が誠実であろうとすればするほど、他者は僕から離れていってしまうのを感じた。それでも僕は、瞬間瞬間において、自己と対話し、後悔しないように細心の注意を払って生きてきたつもりだ。
 だが、今僕はまったくのひとりぼっちだ。どんなものに代えてでも手に入れたかったものでさえ、何1つとして得ることができずにいる。きっと僕の中心には宿命的な欠陥があるに違いない。だから「常識的生活」を送ることが難しいのだ、という自己分析をこれまではしていた。だが、もし、その皮肉な生き方の原因が、真琴氏の作り上げた物語によるものだとすれば、寂しさはいよいよ行き場を失う。
 どうせなら僕も明子と一緒に時空の中に葬り去って欲しかった。もちろん、それは叶わない願望だ。なぜなら僕は物語の脇役でしかなかったからだ!

京都物語 420

 京都から戻ってきて2日目の晩には、僕の部屋のライフラインはほとんど復旧し、普通のまともな生活があらかた送られるようになっていた。
 これまで長いこと外食が続いたために、久しぶりに手料理が食べたくなり、仕事帰りにスーパーマーケットに立ち寄ってひととおりの食材を揃えることにした。西高東低の冬型の気圧配置がいくぶんかゆるんだせいで、寒波もやわらいだようたが、これまでの寒さが体に染みこんでいるようで、鍋焼きうどんが食べたくなった。
 台所に立って包丁を使っていると、去年までここで結花一緒に料理をした記憶が突然襲ってきた。後ろ髪をまとめてエプロンをしている彼女の後ろ姿は、フラメンコを舞う時とはまた違った魅力を漂わせていた。結花の記憶はこれまで付き合ってきたどの女性よりも鮮明で現実的な色彩にあふれている。それほど彼女はみずみずしい女性だったということだ。
 真琴氏の家に行っていた間に1年が経っていた。つまり結花と別れてからそれだけの時間が流れたということになる。彼女は今何をしてるだろう? フェイスブックで再会したという高校時代の友達とのつきあいは順調にいっているだろうか? ひょっとして、結婚して幸せな生活を送っているかもしれない。
 もちろんそれは喜ぶべきことだ。あのまま僕と付き合ったところで彼女はどこへもたどり着けやしない。むしろ傷つくばかりだったろう。
 鍋焼きうどんは上々の出来映えだった。春菊と鶏肉の出汁がよく出ていて、芋焼酎の湯割りと共に、体を芯から温めてくれた。だが、ひとりぼっちの静かな夕食は、僕を決して幸福にはしなかった。
 気がつけば、結花もレイナも明子も、みんな失ってしまったのだ!

京都物語 419

「どうしよう、涙が止まんないよぉ。胸が詰まって、理性的に物事をとらえることができない。ヤマシタ君といると、ほんとうに楽しかったなぁ。あなたのギャグが面白かったというわけじゃないよ。そもそもあなたは、ギャグを言うようなキャラじゃないしね。それでも、楽しかったのよ。なんて言うんだろう、安心感に満ちてるの。あなたといると、私の心にもゆとりができちゃって、その部分が物事を楽しくとらえたんだろうね。
 あー、思いがあふれちゃう・・・(p_;)
 今思うんだけど、T・M氏が小説を書く時も同じような感じだったのかな? 愛する人のために胸が詰まって、それを言葉にしたらあの作品ができあがっちゃった、的な。
 でもね、あの人の物語の主役は、藤壺であり明子さんであり、そうしてあの人自身だった。ヤマシタ君は脇役だったの。つまりあなたは明子さんと愛し合う男として、T・M氏の言霊の世界に端役として設定された。だったら、藤壺は明子さんなんだから、あなたは光源氏だということ?
 え? まさか、あなたが光源氏? (≧∇≦)ノ彡
 T・M氏は『源氏物語』における主役は光源氏じゃないって言ってたの、覚えてる? 天皇の子でありながら臣籍に降下させられた光源氏は、政治的敗者だって。つまりはそういうことなの。
 だからこそ、今度はあなたが主役の小説を書きたいの。でも大丈夫。あなたの個人情報はちゃーんと守るから。私はペンネームを使う。もう決めてるの。きわめて有能な編集者から助言もいただいて、かっこいい名前がついた。だから、私の小説が幸運にも世の中に出回ったとしても、あなたのことはだーれも気づかない。
 もちろん、あなたも気づかない。
 おっし、胸が熱いうちに、書き始めるわよ!!」

京都物語 418

「だとすれば、私はヤマシタ君という人物をきちんと書いてあげたい。『選ばれる』ことの『恍惚』の部分をしっかり描きたい。誰のためにか? これはなかなか難しい問題ね。でも、世の中には、ある特定の人物のためだけに書かれる小説があってもいいと思うの。
『源氏物語』の「紅葉賀」の巻で、光源氏が青海波という舞踊を奉納する場面がある。これは先帝の長寿を祝うために桐壺帝が取り計らったものだったけど、観客たちは本来の目的そっちのけで、光源氏の美しさに心奪われるのね。でも、当の光源氏の心は見物者の中の1人の女性にあった。藤壺よ。その時彼女はお腹に源氏との子供を孕んでいた。もはや2人は気軽に会うことを許されない仲になっていた。
 だからこそ光源氏は藤壺のために精一杯舞ったの。言うなれば、歌手がコンサートの舞台上で満員の観客に向けて愛を歌っているように見せながら、実はたった1人の秘密の恋人のために熱唱しているみたいなものかな。
 私はヤマシタ君を描く。あなたのために。でも、きっと、あなたの物語はたくさんの人に共感してもらえるはず。なぜならあなたは、問題を抱えながらも、精一杯生きてるから。それと、あなたについて書くことによって、私たちが過ごした不思議な1年間を記録することにもなると思うの。
 もちろん私はあなたに未練があってそうするわけじゃない。私たちはもう2度と会うことはない。残念だけど。ものすごく寂しいけど。神上寺に行った時、私の第6感がはっきりそう悟った。
 これは記念碑。あなたをすごく愛していたという証。あなたへの感謝。私は前に『2人を同時に愛することができる』と言ったわ。でも、あれから私は変わった。あの時はまだ子どもだったの。あなたがそれを教えてくれた。やだ、涙が出る」

京都物語 417

「私の胸の中の銀幕には、これまで出会ってきた人たちが次から次へと現れては消えてゆく。やさしい顔をしている人もいれば、無愛想な人もいる。あからさまに私を嫌っている人もいる。
 女子大時代の親友に京都の愛宕に住んでた子がいて、その子が『徒然草』を研究してたことをふと思い出す。作者兼好は序段で『心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』と述懐した。『心の中に浮かんでくる些細なことをとりとめもなく書いていると、なんだか気が狂いそうな心持ちになるものだ』と。その子はその部分にすごくこだわっていた。『徒然草』の中でも、的確に訳すのに、ずいぶんと悩む文章なんだって。
 でも、今の私なら、ああ、鎌倉時代に兼好さんが感じたことはこんなことだったのかなって、想像することはできる。つまり、書くことによって初めて、異様にはっきりと見えてくることがあるの。
 私はヤマシタ君のことを書きたい。
 あら、やだ、本音が出ちゃった・・・
 うん、でも、私が書きたいのはヤマシタ君のこと。彼は本当に魅力的な人なの。うまく言えないけど、どこか人を惹きつけるような、ミステリアスなところがある。おそらく彼は自分では気づいていないと思う。彼は自分のことを凡人だと評価している。でも違うの。彼はれっきとした『選ばれた人』なのよ。
 もちろんそのことが彼を幸福にするかどうかは別の問題。ボードレールという詩人が言っているように、『選ばれる』ということには『恍惚』と『不安』の両方ある。たぶん彼には『不安』しかないんじゃないかな?」

京都物語 416

 僕のデスクの近くにも同僚たちがぞろぞろと戻ってきた。時計に目をやると、あと10分で昼の休憩が終わろうとしている。コーヒーは完全に冷たくなっている。
 レイナのブログを読んでいると、頭が混乱する。彼女の中にどうしても明子を垣間見てしまうからだ。レイナと明子では表面上の性格はまるで違う。だが明子も、依存症じゃないかと思うくらいに本を読んでいた。その物憂げな横顔がレイナの文章中に何度も浮かび上がる。
「それにしても狭くて汚くて寒い部屋。それこそ昔の文豪が使いそうな小さな座卓が置いてあるのがせめてもの救い。こうやってパソコンに向かっている間に、これまで見たことのないような長い足の虫が何度も畳の上を横切る。何虫だろう? 毒とかないよね。タイに行った時でさえ、それなりのホテルに泊まったのに、ここが日本だとは信じられない。
 ただ、この手垢の染みこんだ部屋にも何かの縁があると思おう。小説って、ひょっとしてこんな世界なのかもしれないし。
 小説には必ず登場人物が出てくる。夢中になるのは、その登場人物と自分との境目がなくなる瞬間。それは完璧な人物でも人工的にこしらえられた人物でもない。生身の等身大の、手垢にまみれた人間。
 そうだ、私も人間を書こう!
 これまでいろんな目に遭い、その中でいろんな人と出会ってきたことが、今なら私の誇りと言えるのかもしれない。その人たちを描こう! 
 今、私にアイデアが浮かんだ。ある程度の構想が瞬く間につながった。まるで花火みたい。小さな種が、心の中で一気にぱーっと花を咲かせる感じ。私はそれらを印象に焼き付け、そこに出てくる人たちを注意深く観察しながら、できるだけ丁寧に言葉に置き換えてゆく」
作者

Author:スリーアローズ
*** 
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