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キラキラ 21

 東山はよく僕に『源氏物語』に描かれる女たちの話をしたが、興味に温度差のあった僕は話を半分くらいしか聞いていなかった。その中で、花散里は記憶に残っている。名前が印象的だからかもしれない。――花が散ってしまった後にも心を安らげてくれるふる里のような女。
 ただ、東山が語っていたのは、そんな美しい話ではなく、「花散里は、癒し系のイメージがあるけど、実はブスとして描かれてるんです。しかも、何人かいた光源氏の妻の中で、1歩下がって引いているように見えて、最後はちゃっかりと夫の心を持っていく、そんな女だったんですよ」という話だった。
 その時隣には奈月がいた。東山は彼女の方を見て、「可愛くなくても、男の心をつかめる女もいるんだな」とにやけた。奈月は眉間にしわを寄せて、「それって、どういう意味なのよ」と食ってかかった。奈月は今でも覚えているだろうか? もう忘れてしまったかもしれない・・・
 額に汗をにじませながらおだやか表情で歩を進めている奈月の横顔を漠然と眺める。「彼氏」と「彼女」の関係には、いずれ終わりがくる。だが、僕と奈月みたいな関係には終わりがない。僕たちは、大学を卒業して数年経った今もなお、こうして2人で歩いているのだ。
 須磨寺の屋根がだいぶ近づいてきた。ずいぶんと勾配を上ってきたのだろう、潮風が直接肌に触る。僕は再び東山の書いた文章に、吸い込まれるように目を落とした。
「・・・六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)。この女性は、『源氏物語』におけるヒロインの1人である。皇太子の妃で、次の皇后となることも誰も疑わなかった。身分も品格も美しさも備えた、いわば非の打ち所のない女性だったのだ。
 だが、彼女の人生は、皇太子の死の瞬間から、暗闇に転げ落ちる。そして、光源氏との出会いによって、たちまち彼女は悲劇のヒロインとなってしまう。平凡な人生を送る者の苦悩は平凡だ。だが、完璧さを与えられた女性の苦悩は、凡人の経験を遙かに超えるものなのだ」
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キラキラ 20

 しおりを読みながら、これを書く学生時代の東山の姿を想像した。あいつはなぜここまで『源氏物語』に夢中になったのか、そのことが不可解にさえ感じられる。今、東山は結婚して子供も生まれ、幸せな生活を送っている。だが、思えば、「世の中のことすべてを捨ててしまいたい」という光源氏の心情は、すなわち東山の声のような気がしてならない。
「・・・麗景殿女御は細々と暮らしていたものの、年を重ねても気品は失ってはいなかった。住まいに上がって静かに桐壺帝の時代の思い出話を語り合っていると、橘の花の香りがなつかしく匂ってきて、昔と同じ声でほととぎすが鳴いた。あのほととぎすは、橘の香りにひかれて、自分の後をついてきたのだろうかと悟った光源氏は、和歌を口ずさむ。

橘の 香をなつかしみ ほととぎす 花散る里を たづねてぞとふ
(昔の人を思い出させるといわれる橘の香りをなつかしく思って、ほととぎすが橘の花が散る里を探し求めてやって来て鳴いています)

 すると、麗景殿女御は、心づかいが行き届いた雰囲気で、和歌を返した。

人目なく 荒れたる宿は たちばなの 花こそ軒の つまとなりけれ
(訪れる人もなく荒れ果ててしまったこの宿は、橘の花が軒端に咲いて、昔を恋しがるあなたをお誘いするものとなりました)

 その後、源氏は花散里の居室に立ち寄った。花散里は、久しぶり会ってくれたうれしさと、源氏の美しい姿を目の当たりにして、これまで連絡が途絶えていた恨みもつい忘れてしまった。世の中の情勢が光源氏にとって厳しくなる中、麗景殿女御も花散里も、昔と変わらず彼を思い続けてくれていた。そのなつかしさに、源氏は改めて心癒されるのだった。そうして、須磨に流れた後も、その感慨は消えることはなかった。最終的に、花散里は、源氏の妻となる」

キラキラ 19

 そのうち、大きな交差点にさしかかった。右に行けば須磨寺駅、左は須磨寺と標示してある。迷わず左に曲がって須磨寺の参道に出ると、道幅は途端に狭くなり、昔ながらの商店街が続いている。すると奈月は「おいしそー」と声を上げた。見ると、和菓子屋の店頭に丸い揚げまんじゅうが並べられている。
「おなかが減ってきましたね」と奈月はうちわをあおぐのを止めて言った。
「1つつまんでみるか」と僕が言うと、彼女は「わーい」と少女のような声を出して店内に入った。
 奈月は小豆あん入りを、僕はカスタード入りのものをそれぞれ買い、再び参道に出た。早速かじりついた奈月は「おいしー」とやはり少女のような表情を浮かべた。彼女に倣って口に入れると、素朴でなつかしい味わいがふわりと広がった。 
 商店街の先には寺院らしき屋根がいくつも見える。今上ってきた大きな道よりも、人通りも多い。奈月はまんじゅうをほお張り、うちわをあおぎながら、海からの風と戯れるように歩を進めている。
 僕はまんじゅうをすべて口に入れ、しおりの続きに再び目を落とした。
「・・・光源氏が都に残してきた女性として次に思い浮かぶのは、花散里(はなちるさと)だ。彼女は、故桐壺帝の妃だった麗景殿女御の妹で、源氏にとっては、昔の恋人である。
 桐壺帝崩御の後、気苦労ばかりが増えていった光源氏は、何となく心細く、世の中のことすべてを捨ててしまいたい心情に駆られていた。だが、そんな彼にも、消し去ることのできない絆があった。
 花散里と宮中で人知れず逢瀬を重ねた名残は、源氏の心の奥でまだ続いていた。だが、藤壺や朧月夜の恋に溺れ、また世間の風向きも変わる中で、源氏は花散里に対して目に見えて大切な扱いをしなかった。それで、花散里は源氏の心が分からず、胸を痛めて悩み続けていた。
 気苦労の中で、ふと花散里に心癒された記憶を思い出した源氏は、こらえきれなくなって、五月雨の雲の晴れた月夜に、彼女の待つ麗景殿女御の邸を訪問するのだった」

キラキラ 18

 現光寺を出ると、しだいに勾配は急になってゆく。僕たちは大きな道路に作られた歩道を、須磨寺に向かって進んだ。辺りには幼稚園や老人ホームが見えるが、この暑さである。人の気配はあまり感じない。時折通り過ぎる車の音と、クマゼミの鳴き声だけが耳に入ってくる。
 歩きながら、僕はしおりの続きを読んだ。
「・・・私はこれまで、須磨がどんな土地だったのかということを書いてきた。だが、『源氏物語』において、須磨・明石のもつ重要性は、もちろんその土地性だけではない。
 須磨に流れた光源氏が都に残してきた女性は、藤壺と朧月夜の他にもいた。まず思い浮かぶのが、紫の上だ。彼女は、生涯にわたって正妻として光源氏に連れ添うが、この時はまだ18歳。藤壺の姪にあたり、光源氏が病の治癒に訪れた京都北山の寺の境内で出会った時には、まだ雀を追い回して庭先を駆け回るような少女だった。それが、源氏と暮らした数年の間に、妻としての魅力を兼ね備えるまでになっていた。
 出立の直前、須磨に同行したいと願う紫の上に、源氏は和歌を送る。

身はかくて さすらへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の 影は離れじ
(私の身はこのようにさすらうとしても、この鏡に映った影は、離れることなくあなたのそばにいるでしょう。)

 源氏の和歌を受け止めた紫の上は、自らの歌を返した後で、柱の影に隠れて涙を拭う。

別れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし
(離ればなれになっても、せめて影さえ残ってくれるものならば、鏡を見ても心は慰められるでしょうに)

 こうして紫の上は、いつ帰ってくるかも分からない夫を、ひたすら待ち続ける身となる。ただ、須磨に流れた後、光源氏は身の回りや財産のことをすべて彼女に託し、そのことが夫婦の絆をいっそう深めることにもなる。結果的には、決して報われない哀しみではなかった」

キラキラ 17

 ふと顔を上げると、奈月はすぐそばに立っていた。
「もう、先輩、なに夢中になってるんですか」とうちわをあおぎながら奈月は声を大きくした。
「いや、なかなか、奥が深くってね」と僕はしおりを見ながら答えた。
「何がですか?」と奈月は言い、白いバッグからペットボトルの爽健美茶を取り出して、唇を付けた。
「海に潜る『海女』と、女のお坊さんの『尼』が結びつくってことだ」
「やだ、先輩、何となく東山君っぽくなってる」と奈月は笑って僕の顔を眺めた。
「『海女』の身体は常に塩水で濡れている。かたや、世をはかなんで『尼』になった女性の袖は涙で濡れている」
「東山君、そんなこと書いてるんですか?」と奈月は言い、僕の広げたしおりを覗き込んできた。彼女のヘアリンスの香りが潮風に揺られて鼻先をさする。
「『藻塩たる』という言葉の中には、人知れず涙を流すという意味がすでに込められているらしい。そうして、須磨とは、恋に苦しむ貴族がひっそりと身をやつしながら、涙ながらに暮らす、そういう情景を連想させる場所だったと東山は書いている」
 僕がそう言うと、奈月はしおりに目を落としながら、「ふうん」と応えた。それから彼女は「先輩」と言った。「そろそろ出ましょう」
 腕時計を見ると、11時を過ぎている。僕は無意識に周りを見回した。そこに学生時代の仲間たちがいるような錯覚を感じたのだ。
「どうしたんですか?」と奈月は首をかしげた。「いや、何も」と僕は返し、そのまま2人で現光寺を出た。奈月と一緒に歩きながら、僕はしおりの続きを読んだ。そのうち、あの頃幸せそうに見えた東山は、実は何かを抱え込んでいたのではないかという気がしてきた。

キラキラ 16

 さらにしおりに目をやると、『源氏物語』の本文の後には、やはり東山が丁寧な解説を加えている。
「・・・ここに出てくる在原行平とは、『伊勢物語』の主人公とされる在原業平(ありはらのなりひら)の兄にあたる人物である。行平もまた、理由は明らかではないが、須磨に流された貴族の1人だった。彼は小倉百人一首にも選ばれるほどの和歌の名人で、日本最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』には、須磨での孤独な暮らしを詠んだ和歌も入っている。

わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ  
(たまたま問う人があれば、私は今、須磨の浦で塩が垂れるように、涙で袖を濡らしながら侘びしく生きていると答えてください)

 つまり、須磨に流れた光源氏が住むことになった場所は、『行平の中納言』が『藻塩たれつつ』、侘びしく暮らしていた邸の近くだったという『源氏物語』の記述は、この和歌を踏まえているわけだ。
 冒頭にも書いたが、須磨は昔から塩の産地として有名だった。そのために多くの海女(あま)が海に入っては海藻を取り、海水をかけながらそれを焼いて塩を作った。『藻塩たる』とは、その情景を描写した表現だ。
 だが、一方で『海女』とは神に献上する海産物を採る神聖な人たちで、『尼』という言葉にも結びついている。『尼』とは、人生に苦しみ出家した女性のこと。特に、自殺がなかった平安時代、恋に苦しみ抜いた女性は『尼』として山に籠もるという道を選ばざるをえなかった。
 だから、『海女』が『藻塩たる』という情景は、恋に苦しむ女性が涙を流しながら身をひそめるというイメージとどうしても結びつく。そして、須磨とはまさにそういうことを連想させる地なのだ」

キラキラ 15

 そこまで読んだところで奈月はゆっくりと顔を上げ、長い息を吐いた。前髪の下はうっすらと汗ばんでいる。僕は海の方の空に視線を移して、感想を述べた。
「東山はさすがにうまくまとめてるよね。好きになってはいけない女性を愛してしまった光源氏は、弘徽殿女御という権力者からの逆襲を受ける前に、自ら須磨に身を退けた。遠く太宰府まで流されるよりはましだったんだ」
 すると、奈月は唇の右端を吊り上げて笑った。半分、東山を小馬鹿にしているような笑みだ。
「これまで本気で読んだことはなかったですけど、東山君、かなり力を入れてますね」と奈月はしおりを見ながら言った。「あの人、よほど、この須磨が好きだったんでしょうね」
 奈月は、しおりを手にしたまま立ち上がり、入り口の石碑の方を見た。そこには「源氏寺」という文字が刻まれている。そういえば、この現光寺は、光源氏の邸宅があったとされる場所だ。あの時東山は立て続けに写真を撮っていたのを思い出す。奈月はワンピースのスカートをなびかせながら、石碑の前にまで移動し、いかにも感慨深げな視線を碑文に送った。
 僕は奈月からしおりを借りた。最初の数ページは、今奈月が読んだ、『源氏物語』に関するうんちくが語られている。さらにページをめくると、須磨における見所が整理してある。この現光寺はその最初に紹介されている。そこには『源氏物語』の本文が添えられている。

「おはすべき所は、行平の中納言の藻塩たれつつわびける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり」
(源氏が須磨でお住まいになるところは、在原行平の中納言が、涙で袖を濡らしながら暮らしたという住まいの近くだった。海辺から少し奥へ入って、しみじみと物寂しい山の中である)

 なるほど、そう言われてみると、この現光寺は、物語の記述と重なるところが多い。千年前がぐっと身近に感じられる。脚が少しだけ震えた。

キラキラ 14

「ちょっと、なによ、あの人。なにが『分かるなあ~、その気持ち』よ。調子に乗りすぎやん」と奈月は口を尖らせた。僕が何も言わずにいると、ふてくされた感じで再びしおりに目を落とした。
「・・・だが、須磨に流離することになった理由は、藤壺との関係だけでもない。光源氏は、ほかにもいくつかの過ちを犯したのだ。
 藤壺が不義の子である皇子を出産した後、光源氏は、朧月夜という女性に手を出した。朧月夜といえば、弘徽殿女御という怖~いお方の妹君だ。弘徽殿女御は桐壺帝の正妻格で身分もプライドもすこぶる高い。したがって、人を引きつけるほどに魅力的な光源氏を敵視している。朧月夜の心を奪い、手を出すということは、姉である弘徽殿女御の顔に泥を塗るようなもの。でも、そんな危険すら、源氏を止めることができなかった。(藤壺への叶わぬ恋にもがき苦しむあまり、誰か女性に甘えたかったんだろうな~)」
 奈月はまたため息を吐いた。
「あの人、こんなことまで書いてたんですね。なにが『誰か他の女性に甘えたかったんだろうな~』なのよ。あのまま付き合ってても、どうせ、他の女に手を出してたでしょうね」
 そう言いつつ奈月はさらに続きを読んだ。僕はぬるくなった缶コーヒーにそっと口を付けた。
「・・・とはいうものの、藤壺との密通はまだ世間に知られていないわけだし、朧月夜と恋仲になったのも、罪とまではいかない。平安時代といえば、今よりも何かとゆるいことが多く、たとえば、和泉式部と敦道親王みたいに、堂々と不倫をする貴族だっていた。そう考えると、光源氏が犯したのは、罪というよりは過ちだった。とはいえ、敵は弘徽殿女御。女は強い。どんな仕打ちを受けるか分からない。
 当時、罪を犯した有力者は、太宰府に配流されることが多かった。太宰府天満宮に祀られる菅原道真がその例だ。だがいったん太宰府に流されれば、その人が再び都でリベンジをかけたという例はない。
 そういうわけで、源氏は自ら須磨に退去していった。つまり須磨とは、太宰府に流されるのを避けたかった源氏にしてみれば、まさに適当な場所だった」

キラキラ 13

 奈月はバッグから旅のしおりを取り出した。そうして中身をさっと黙読してから、「最初のページにはこんなことが書いてあります」と言い、音読を始めた。
「『源氏物語』において、須磨・明石の巻は、他にはない、独特の情景が描かれている」
 そこまで読んだだけで、奈月はいきなりふっと吹き出した。
「この文章、あやしすぎじゃないですか? あの人、頭イカれてません?」
「まあ、東山らしいよな」と僕は言った。奈月は次を読んだ。
「・・・『源氏物語』の主人公といえば、もちろん光源氏だが、だからといってこの物語に描かれているのは、彼の武勇伝ではない。この物語の読みどころは、むしろ光源氏を愛し、そして彼に愛されながらも翻弄される、女性たちだ。いうなれば、『源氏物語』においては、脇役こそが主役なのだ!」
 奈月は冷静な顔をして爽健美茶を口に入れ、さらに続きを読んだ。
「・・・では、どうして帝の子である光源氏が、都からこの地に流れてこなければならなかったのか? 実は、研究者の間でも諸説あるところだ。なので、ここは思い切って私の見解を紹介する。
 須磨に赴く前、光源氏は、いくつかの過ちを犯した。まず、父桐壺帝の愛妻であり、自らの義母でもある藤壺と密通し、あろうことか妊娠させてしまった!
 2人の間に生まれた不義の子は後に天皇となるが、その後で、藤壺が信頼を置いていた僧によって真実がカミングアウトされることになる。だが、この段階ではまだ世に知られていない。とはいうものの、禁断の恋の成就が藤壺を罪の意識におののかせ、そして、藤壺を愛してやまない源氏自身の胸も重くしたのは確かだ。藤壺は源氏から離れていかざるをえない。それがたまらなく苦しい。自業自得といえばそれまでだが、若い光源氏には、藤壺への激しい愛を理性によって抑えることなどできなかったのだ。だからこそ、いったん都を離れて、心をリセットする必要があった。(分かるなあ~、その気持ち)」

キラキラ 12

 JR須磨駅の北側には、おだやかな丘陵地が広がっている。たしか須磨寺はこの坂を登り切ったところにあるのだ。僕は、ふきこぼれる汗をうちわで振り払いながら、目の前に続く道を1歩ずつ進んだ。幸い、少し雲が出てきたようで、日差しはやわらいでいる。クマゼミの鳴き声が風に運ばれてくる。
「思い出しますねえ」と奈月は辺りの町並みを見ながらそう言った。「あの時は、3つの班に分かれたんですよね。須磨の浦で海水浴する人と、魚釣りをする人。それから、『源氏物語』を訪ねる人」
「結局、『源氏物語』を訪ねるといって須磨寺まで歩かされたのは、俺たち3人だけだったよな」
「山陽電鉄を使えば、須磨寺っていう駅があったんですけどね」と奈月は言った。「東山君は『源氏物語』に関する場所を調べるのは熱心だったのに、交通手段についてはプランがなかったんです。だから、とりあえずJRに乗ったんです」
「で、俺たちは、東山についていけばどうにかなるだろうと思っていた。まるでコメディだったな」
 その日、何も考えずにジーンズを穿いてきてしまった僕は、蒸し上がるような暑さに包まれながら歩いたのだ。
「海辺で遊ぶ人たちはこのJR須磨駅で降りて正解だったけど、私たちは遠回りすることになったんですよね」と奈月はうちわをあおぎながら述懐した。気球の写真も一緒に揺らめいている。
「だのに、今日もわざわざ不便なJRを使ったわけだ」と僕はつつくように言った。すると奈月は、「すみません。私も何も考えてなかったです。山陽電鉄を使うというアイデアも、今思い出しました」と笑ってごまかしにかかった。何から何まで、学生時代の旅を再現しているようだ。
 そのうち現光寺という寺が見えてきた。奈月は道路脇の自動販売機の前に立ち、ジュースを買おうとした。僕は彼女の動きを制して、自分のキーケースから硬貨を出して、投入口に入れた。それから僕たちは境内に入り、本殿に参詣した後でベンチに腰掛け、僕はアイスコーヒーを、奈月は爽健美茶を飲んだ。
「気持ちいいですねー」と奈月は潮風に向けてそう言った。

キラキラ 11

 僕たちが沈黙している間に、塩屋を出た電車は須磨駅に到着した。腕時計に目をやると、まだ10時半にもなっていない。
 ホームに降りた途端、ぬるい潮風に全身が包み込まれた。目の前には海水浴場があり、水着姿の若者や釣り竿を抱えた家族連れがぞろぞろと歩いている。
「着きましたねー」と奈月は、風に髪をなびかせながらそう言った。その姿を後ろから眺めていると、心がじわじわと満たされてゆくのを感じた。不思議な感覚だった。
 普段の東京での生活がつまらないというわけでもない。まさか自分が上京することになろうとは夢にも思っていなかったが、実際住んでみると、予想以上にすんなりと馴染むことができた。だが、こうして久しぶりに奈月と歩くと、東京での生活がどこかぱさついたものに感じられてしまう。
 そんなことを思いながら奈月を見ていると、彼女はくるりと僕の方を振り返って、「まずは、須磨寺に向かって歩くということでいいですか?」と言ってきた。もちろん、と首を縦に振ると、彼女は白のキャンバス地のバッグからうちわを2つ取り出して、1つを僕にくれた。そこには空に舞い上がる、多くのカラフルな気球の写真が印刷してある。
「去年のバルーンフェスティバルの時にもらったんです。佐賀といえばこれですよ」
「そういえば、いつか行きたいって言っておきながら、結局行かずじまいだったな」と僕はうちわを眺めながら振り返りつつ、「さては、彼氏と一緒に行ったんだな?」とからかった。
 すると奈月は「なんば言っとっとですか」と突然佐賀弁を出した。その後で「お母さんと行ったんですよ」と真剣な顔をして、標準語で否定した。
「でも、今年からは、2人で見に行けるじゃないか」となだめるように言うと、奈月は作り笑いを浮かべつつも、何も言わずに、うちわをあおぎながらすたすたと歩き始めた。

キラキラ 10

 電車は塩屋駅で停車した。奈月は、この小さな駅で何人かの客が乗り降りするのを尻目にかけながら、「覚えてます?」とだしぬけに問いかけてきた。僕は彼女の横顔に目をやった。
「この駅に停まった瞬間、東山君が得意げに話し出したんです。この辺りは、昔は塩の産地だったらしく、塩屋っていう地名もおそらくそこからきてるに違いないって」
「そうだったかな?」
「そうですよ。当時、今以上に塩は貴重で、調味料や保存料だけでなく、身を清めるものでもあったから、塩を作るというのは神聖な仕事だったんだって言ってましたよ。当時は、海女さんが刈り取った海藻に塩水をかけて、それを焼いて塩を作っていたから、作業中は何度も水が垂れる。さっき通った垂水駅もそんな情景にちなんでいる。そういうことをとめどなく語ってましたね」
 過去を回想する奈月は、大学2年生の表情に戻っている。彼女はさらにバッグからヨレヨレになった冊子を取り出し、「これ、覚えてます?」と言って僕に見せた。表紙には「源氏物語を巡る旅 須磨・明石」と記してある。
「よく覚えてないけど、ひょっとしてあの時に作ったもの?」と僕が言うと、奈月は「そうですよ。旅のしおりです」と歯切れよく返した。
「東山君、これを作るためにずいぶんと手間暇かけたんです。私も印刷とか綴じたりするのに、遅くまで手伝わされました」
 奈月は旅のしおりのページをめくり、さもいとおしげに眺めた。
「分かったぞ。そのしおりを見ながら、あの時と同じ旅を再現しようとしてるんだな」と僕は思ったことをそのまま口にした。すると奈月は「再現、とまではいきませんが、楽しかった旅をもういっぺん辿ってみたいとは思ってます」と答えた。その表情は一瞬だけ、哀感を帯びた。

キラキラ 9

 そのうち、列車は住宅地を抜け、窓の外には瀬戸内海が広がった。まもなくして、僕たちの眼前には、明石海峡大橋が現れた。奈月は「なつかしー」と漏らした。
 あの時も僕たちはここを通ったのだ。周りにはサークルのメンバーたちが座っていて、奈月の隣には東山がいた。サッカーをやめた後も、この男の頬は引き締まっていて、半袖シャツに短パンというスタイルがよく似合っていたものだ。
 そうやって過去を振り返ると、今の奈月にかける言葉がなかなか見つからない。みんなのマスコットガールだった彼女は、今や生きることの切なさを知る、大人の女性へと近づいている。
「でも、よかったじゃないか」と僕は言った。
「何がですか?」と奈月は海峡に架かる巨大な吊り橋に目をやりながら言った。
「何がって、めでたくゴールインするんだから」
 僕がそう言うと、彼女は視線を橋よりも手前の方へと移し、ほんのわずかだけ表情をこわばらせた。だが、次の瞬間、すぐに奈月らしい顔を取り戻し、「ええ、まあ、結果オーライですかね」と言った。
「相手は何をしてるの?」と僕は問いかけた。
 すると、奈月は「市役所で働いてます」と即答した。
「ほお、安定した仕事じゃないか。いったい、どこで出会ったんだ?」
 僕がそう聞くと、彼女は再び視線を橋に戻して、「実はお見合いなんです」と答えた。「今働いてる事務機会社の奥さんがすごくいい人で、仕事以外でもほんとうによくしてもらってるんです。その方が紹介してくれたんです」
「なんだか、縁を感じるなあ」と僕はしみじみと言った。
 奈月は何も答えずに、ただ橋を見たまま薄く笑っていた。

キラキラ 8

 電車の中で僕たちは簡単な近況報告をし合った。僕は、今勤務している、東京の予備校でのことを話した。奈月の方は、地元でパートとして働いている事務機関連の会社の話をした。
「なんだか、皮肉なもんですね」と奈月は電車に揺られながら言った。「教師になるつもりなんてなかった先輩が予備校の先生やってて、どうしても教師になりたかった私がパートなんですから」
 奈月は白地に紺色のボーダーがさわやかなノースリーブのワンピースを着ている。そこに茶色の革のベルトと、大人びたデザインのサンダルを履き、白いキャンバス地のバッグを持っている。ゆるやかにウエーブのかかった長い髪を、花の形をしたシュシュでまとめているので、横顔がはっきりと出ている。その目尻には、学生の頃には決して見ることのなかった小さなしわが刻まれている。表情にも心なしか疲れのようなものが見て取れるのは、僕の先入観だろうか?
「もう教師を目指すのやめたの?」
 陽光に白く輝く奈月の横顔に向けて問いかけると、彼女は「ですね」と淡泊に答えた。
「大学を出て、小学校の臨時教員をやった時は、すごく教師になりたかったですけど、やっぱり、なかなか自分の時間がとれなかったですね。結局、採用試験に受からなかったです」
 奈月の父は、彼女が大学4年の時に脳の病気を患ってしまい、介護が必要な状態になった。奈月が東山と別れた原因はいくつかあるが、父の病気がその1つとなったのは間違いなかった。
「で、どう? お父さんの調子は?」
「だいぶよくなりましたよ。大体のことは1人でできるまでに回復しました」
「奈月の介護がよかったんだよ」と僕が言うと、「父は昔からガッツがあるんです」と奈月は答えた。
「それにしても、奈月は本当に教師に向いてるけどな。だいたい試験の倍率が高すぎるんだ」と僕はぼやいた。
「でも、ものすごく努力して合格する人もいるわけですから。私には、教師になる以前に、試験にすべてを注ぎ込むだけの気力が足りなかったです」
 奈月はそう漏らし、ため息の混じりの笑顔を浮かべた。

キラキラ 7

 そんな大学時代の回想をしているうちに、新大阪で乗り換えたこだまは、あっという間に西明石に着いた。この駅の待合に奈月がいると思うと、たちまち胸騒ぎがする。
 ホームに降りると、真夏の熱気に包み込まれ、すぐに首筋が汗ばんだ。とりあえず出口の標示に向かって歩く。あの時東山たちとこの駅に降りたことがどうもうまく思い出せないまま改札を抜けると、そこにはあふれんばかりの外の日差しが降り注いでいる。
 そうだ、前回もこの日差しに照らされたのだ。そうして、東山が、まずは観光案内所に行って交通機関を調べようと言い出した。隣にいた奈月が、事前に調べてなかったのかと問うと、『源氏物語』に関する情報は調べたが、移動手段については忘れていたと答えた。奈月はあきれた顔をして東山を見ていた。
 そうやって記憶に浸っていると、待合から僕を見る視線にはっとさせられる。その女性は、すっと立ち上がり、こっちに向かって半分手を挙げ、恥ずかしそうに笑った。
「久しぶりだな」と僕は声をかけた。なんだか、妹と再会するような心持ちだった。奈月も「先輩こそ、お元気でしたか?」と聞き返してきた。
 もちろん元気だったよと答えると、「先輩、メールを返してくれないから、ちゃんと新幹線に乗ったのか、不安になっちゃったじゃないですか」と丸い目を少しだけ鋭くした。学生時代のままの瞳だ。
「連絡しなくても、順調に向かってるってことは伝わると思ったんだけど」と苦し紛れに弁解すると、「もう、その辺、全然変わってないですね」と奈月は頬をふくらませた。
「携帯電話を持つようになっただけ、進歩したと思ってくれ」と僕は言い、バッグを肩に担いだ。
 僕たちは1つのコインロッカーに2人分の荷物を詰め込んでから、JRに乗って、まずは須磨へと向かった。前来たときと同じルートを、奈月はたどろうとしているようだ。

キラキラ 6

 そんな東山が、サークルの仲間で『源氏物語』を探訪する旅をしようと突然もちかけてきたのは、夏休みに入る前のことだった。卒業論文だけでなく、卒業後のことも考えなければならなかった僕だったが、ちょうどその頃、重苦しい恋の悩みを抱え込んでいて、なかなか身が入らないでいた。そんな流れを変えるためにも、東山の提案は悪くないアイデアだった。
「今回は、主に、須磨・明石を訪ねようと思うんです」
 東山は、奈月と一緒に僕の部屋に来てそう言った。2人は右手の薬指にお揃いのシルバーリングをはめていた。
「よく分からないんだけどさ、『源氏物語』って、京都じゃないの?」と僕は枝豆をつまみながら問いかけた。すると東山は缶ビールを手に持ったまま応えてきた。
「もちろんそうですよ。ただ、個人的なことで申し訳ないんですが、京都は去年の冬に行って、ある程度つかんでるんです」
「なるほど、あくまでお前のための旅行というわけだな」
「いや、そういうわけでもないですよ。須磨・明石は、西の湘南とも言われるくらいにハイカラらしいんです。みんなで行くにはうってつけですよ」
 東山はそう言い、渇いた喉をビールで潤した後で、さらに話を続けた。
「しかも、『源氏物語』においては、須磨と明石は、特別な場所として設定されてるんです」
「特別な場所?」
「都を離れた光源氏が、そこでいろんなことを経験するんだよね」
 膝を崩して座っている奈月が話に入ってきた。
「しかも、そこでの経験は、物語の中でとても重要な意味をもつことになる」と東山は続けた。まるで2人でデュエットソングでも歌っているかのように、ぴったりと息が合っている。
「分かったよ。どこでもいいから、楽しみにしとく」と僕は言い、再び枝豆をつまんだ。

キラキラ 5

 翌年になっても、東山は奈月のアパートで暮らし続けた。奈月と同じ研究室に所属していた僕は、彼女の表情からも、2人の関係が順調に進んでいることを感じ取っていた。
 僕の方は4年生になり、そろそろ卒業論文にとりかからなければならなかった。僕が教育学部を選んだのは、教師になりたかったからではない。僕たちはいわゆる「団塊ジュニア」と呼ばれる世代で、センター試験の受験者は毎年過去最多を更新した。国立大学への入学を希望していた僕は、最も合格しやすいといわれるこの学部を志願したのだ。
 僕が所属していたのは国際教育学科で、教員養成の学科とは違い、英語を勉強したりパソコンを操作したりと、言ってみればどっちつかずな内容だった。それゆえ、卒業論文のテーマもいまいち具体的に定まらず、あてもなく図書館に通う毎日を送っていた。
 そんな時、館内で東山の姿を見ることがしばしばあった。彼はたいてい書架の前に立ち、分厚い文学全集を読んでいた。
「立ち読みの方が楽なんですよ」と東山は言ってのけた。
「理学部じゃなくて、文学部に入るべきじゃなかったのか?」
 ある時、揶揄するように僕は言った。すると東山は「かもしれませんね」とすんなり答えた。「僕の場合、高校の時に理系科目が得意だったから理学部に入ったんですけど、今思えば、進路についてあまり深くは考えていなかったです」
 そう言って東山は苦笑いを浮かべた。
「まあ、でも、実際に就職することを考えると、理学部の方が有利ですよ。文学はあくまで趣味ということにしときます。趣味だと割り切れるからこそ楽しいんだと思います」
 あれほど情熱を傾けてきたサッカーをあっさりと辞めた東山らしい思考方法だった。

キラキラ 4

 東山と奈月は、広い大学の中でも十分に目立つほど、仲のいいカップルだった。
 僕たちの大学は、入学後全員が共通教育を履修するカリキュラムが組まれていたので、1年次には理学部の東山と教育学部の奈月が同じ授業を受けることもあった。2人は付き合うようになってからはたいてい一緒にキャンパスを歩き、お揃いの服で授業に出ることさえあった。
 秋を過ぎると、東山はほとんどアパートへ帰ってこなくなった。学内で同棲するカップルは結構いたが、2人の結びつきは、また特別のように映った。彼らは恋人でありながら、兄妹のように見えることもあった。あるいは幼馴染みのようでもあり、夫婦のようでもあった。このまま学生結婚をするのではないかと思ったのは、僕だけではないはずだ。
 そんな東山が一方で夢中になったのが、意外にも文学の世界だった。
「高校まではサッカーばっかりやってて気づかなかったですが、大学の授業を受けるようになってから、僕って、何かを調べたり研究したりすることが好きなんだってことが分かってきたんです」
 東山はそんなことを述懐していたのを思い出す。
「共通教育の授業で、ヘーゲルの実存主義をやったんですが、そこから哲学に興味をもって、いろんな本を読むようになったんです。気がつけば、活字がないと落ち着かなくなってしまって」と東山は説明した。あれはたしか、彼の車に乗って、2人でバッティングセンターに行く途中の話だった。
「それで、こないだ奈月が講義で使っていた『源氏物語』の訳本をたまたま手に取って読むようになったんです。いや、あれ、やばいですね。めちゃくちゃはまりますよ」
 サッカーを語る時よりもひときわ熱い口調で東山は言った。

キラキラ 3

 明石を訪ねるのは2度目のことだ。
 前回も、今日と同じく、真夏の日差しが降り注いでいたのを思い出す。その時僕は大学4年生で、奈月は2年生だった。それは気の合うサークル仲間でふらっと旅に出ようという企画だった。
 発起人は東山という理学部の学生だった。この男は僕の高校時代からの後輩であり、奈月の彼氏でもあった。
 僕たちは軽運動を楽しむサークルに入っていた。とはいえ、実際は、集まって酒を飲んだり、バーベキューをしたり、カラオケに行ったりと、何でもありのサークルだった。
 東山は高校時代はサッカーの選手で、県大会の決勝に出るほどだった。僕たちの高校は比較的規模は大きかったが、その名前は僕でさえ知るほど、彼は有名な選手だった。そんなわけで、まさかこの男が僕と同じ大学に入ってこようとは、まったく予測していなかった。しかも、よりによって同じアパートに下宿することになったのだ。
「サッカーは、高校までって、決めてたんです」と東山は僕の部屋でビールを飲みながらそう漏らした。「元々僕は、組織の中で管理されることに、どうも抵抗があるんです。プレーヤーとしての期限を決めていたからこそ、僕は最後まで頑張れたんですよ」
 東山の華々しい活躍を知っている僕にとっては、意外な言葉だった。
「せっかくセンター試験を突破してこの大学に入ったんだから、どうせなら、やりたいことを、自由に、思いっきりやってみたいんです」
 それはまだ、東山が奈月と付き合う前の話だった。

キラキラ 2

 学生時代、僕は携帯電話を持たなかった。正直なところを言うと、職業人となった今でも、できればこいつのいらない生活をしたいと考えることはよくある。
 そんなわけで、奈月はそのはがきに、「もし先輩が携帯電話を持っていたら、できればメールしてもらえませんか。お願いがあるんで・・・」と書き添えていた。それで僕は、慣れないメールを返し、こうして明石に向かっているわけだ。
 新幹線は京都に入った。平日のこの時間に、ホームに待つ人は思ったよりも少ない。僕はさっき車内販売で買ったペットボトルの緑茶を口に含みながら、ゆったりと後ろへ流れていく京都駅の情景を眺めた。夏の日差しが漏れているにもかかわらず、どこかうらさびしくさえ感じられるのは、古都独特の趣なのだろうか?
 するとバッグの中で携帯電話が震えた。奈月からメールが入っている。
「今姫路です。もうすぐ西明石に着きます。先輩も順調ですか? 先に行っときますね!」
 こういう場合の返信の仕方を僕は心得ない。こっちも順調だ、悪いけどしばらく待っておいてほしい、とでも書けばいいのだろうか?
 返信を待つ奈月を想像すると悪い気もするが、それでも僕は何もせぬまま電話をバッグにしまった。大丈夫だ。いちいち連絡しなくてもちゃんとそっちに向かっている。奈月なら、ちゃんと理解してくれるはずだ。
 京都を出てから、新大阪へはあっという間だった。ここでこだまに乗り換えなければならない。僕はボストンバグを抱え、向かいのホームへと移動した。こだまはすでに待機していた。車内に足を踏み入れながら、自分はいったい何をしに明石まで行くのか、一瞬分からなくなった。

キラキラ 1

 新幹線がちょうど関ヶ原を通過した時、僕はふと携帯電話を取り出して、おととい奈月からもらったメールの画面に改めて目を落とした。
「私の方は、博多からのぞみに乗って、岡山でひかりに乗り換えます。西明石には9:46に到着予定です。たぶん私の方が早いので、西明石駅の南口の待合に座っときます。
 覚えてますか? あの時、観光マップをもらったところですよ。ちゃんと私を見つけてくださいね! では、久々の再会をすごーく楽しみにしときます!!」
 画面越しに奈月の声が聞こえてきそうなメールを読み終えてから、再び携帯電話をバッグに戻し、リクライニングシートにもたれかかった。東京を出た時には少しどんよりしていた空にも、今や入道雲が立体的に盛り上がっている。
 奈月と会うのはかれこれ5年ぶりのことになる。大学の同窓会で集まって以来だ。あの時は、研究室の教授が定年退官されたのに際して、皆で恩師を囲んだのだ。
 学生時代、彼女は研究室のいわばマスコット・ガールのような存在で、ただそこにいるだけで場の雰囲気を明るく活動的にさせてくれたものだ。だが、大学を卒業して郷里に戻った後の表情には、学生時代とは違う疲労感が見てとれるような気がした。
 それは僕の先入観によるものだったのかもしれない。あるいは、奈月は僕の想像するのとは別の問題に直面していたのかもしれない。とにかく僕は、同窓会の時、久しぶりに会った彼女を、ビールを飲みながらずっと目で追いかけていた。
 それ以降、連絡はぱったりと途絶えていたのに、1週間前、突然はがきが届いた。来月結婚することになったと、彼女のきちんとした文字が伝えてきたのだ。
「私もやっと落ち着くことができそうです・・・」

暑中お見舞い申し上げます!

 とにかく暑いですね!
 浜辺は海水浴客で賑わっているようですが、汗かきの私の場合、ここまで暑いと外へ出るのが恐ろしいです・・・

 さて、新連載『キラキラ』を、いよいよ明日から公開いたします。
 前作『京都物語』に引き続き、どうぞ、よろしくお願いいたします。

 皆様と一緒に「静かな散歩道」を歩んでゆく喜びをかみしめたいと思います!!


 今晩も熱帯夜でしょうが、皆様が少しでもよく眠ることができますよう、遙かにお見舞い申し上げます・・・
 

次作のおしらせ

 新しい小説のタイトルは『キラキラ』です。

 『京都物語』に引き続き、よろしくお願いいたします。

 近日中に掲載いたします!

真夏の夜の夢

『京都物語』を書き終えた途端、突然の腰痛に襲われました。
 今日は全く腰が立たない状態で、何をするにも脂汗をかきながらヨレヨレしてます。

 今は全身にシップを貼りまくりつつも、なんとかこうしてパソコンに向かっています。

 それにしても、今晩も暑いですね~
 
 連載が終わったのだから、しばらく執筆のない生活というのを楽しんでみるのもいいのだと思います。とはいえ、次の物語の構想はすでに出来上がり、私の背中を押してきます。

 そんなわけで、新しい小説の連載を近日中に始めます。
 
 ぜひ、また覗いていただければ幸甚に存じます。

 寝苦しい日が続きます。
 皆様、どうぞ、ご自愛くださいますよう。

 

あとがき

 一昨年の冬のことでした。『源氏物語』を読み直してみようと、ふと思い立ちました。理由はよく覚えていません。ということは、そんなに大した理由でもなかったのでしょう。
 すると、不思議なことに、物語の言葉が、以前読んだ時よりも迫力をもって私に語りかけてくるのです。私の人生経験が、年齢の数ほど積み重なったからなのかもしれません。とにかく、私は『源氏物語』の世界に引き込まれてしまいました。
 京都にも何度か訪れました。現地には『源氏物語』にまつわる場所が今なお数多く残っています。私は自転車に乗って、数多くの史跡に足を運びました。
 そのうち『源氏物語』は架空の物語とは思えなくなっていました。光源氏をはじめとする登場人物たちが生きた証は、物語の言葉と共に、今なお時を超えてしっかりと刻まれている、そんな感想をもちました。
 生きとし生けるものは必ず消滅しなければなりません。あたりまえの事実ですが、それがやがては己の身にも起こることを想像した途端、並々ならぬ恐怖へと転化します。そうして、今を生きることの意味を、必死に模索するようになります。そんな時、千年以上も前に生きた人の心に共感することで、恐怖が和らぐ気がします。
 世界は1つの物語ともいえましょう。古典を読む喜びは、自らもその大いなる物語に含まれていることを実感することにほかなりません。そして、そのことが、今という瞬間を精一杯生きることの意味へとつながってゆくものだと考えます。

 最後になりましたが、ここまで『京都物語』にご同行くださいましたことに対して、心より御礼を申し上げます。皆様からの心温まるご支援があったからこそ、書き続けることができました。
 これからも、皆様に少しでも喜んでいただける文章に挑み続けたいと考えております。
 どうぞ、よろしくお願いいたします。

京都物語 448 (最終回)

 パソコンを閉じ、部屋の明かりを落として、窓の外に浮かぶ月を見上げる。今夜の月は、どこか形而上的な色合いを帯びている。月光の中に、誰かが何かを語りかけてくるかのようだ。
 音楽が聴きたくなったので、リュックからipodを取り出し、スピーカーに接続した。すると、小野リサの『ドリーマー』の終わりの部分が流れてきた。京都から帰る時、新幹線の中で聞いたままになっていたのだ。その曲が終わると、今度は『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン』の静かな前奏が部屋に響きはじめた。
 叙情的なメロディに聴き浸りながら、改めて月を見上げる。月は哀しく、そして、やさしい。すると、どうしようもないほどに、さみしくなってきた。気がつけば涙が溢れ出していた。小野リサの歌声の中に、レイナの声を聞く気がした。レイナ、いったい君は僕をどこへ連れて行くつもりなんだ?
 涙が止まらない。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン。できることなら、このまま僕も、月の光の中に昇華してしまいたい。だが、僕は現実を生きなければならない。過去に生き、時の中に消えてしまった明子とは違って、僕は今という時を歩まなければならないのだ!
 始まったばかりの僕の物語がどこへ向かおうとしているのか、予測もつかない。ただ、目の前に続いているのは、結花と一緒に生きてゆくという一筋の道だけだ。
 僕は携帯電話を手に取り、明日も仕事が終わった後に会いたいというメールを打った。それを送信する直前に、紫式部が『源氏物語』の執筆を祈願した時の言葉が、ふと胸にこだました。
「今宵は十五夜なりけり」
 この部屋のどこかで、紫式部のため息を聞いた気がした。
 その声を感じながら、僕は結花へのメール送信ボタンをそっと押した。

(京都物語 了)      
                               

京都物語 447

 たった今アップロードされたばかりの記事のタイトルは「濃~い1日」となっている。僕は3本目のビールをゆっくりと飲み込んでから、画面に目をやる。
「ついに住みかを見つけました! ちと古いけど、味わいのある部屋。場所は大好きな嵐山。鈴虫寺の近くの静かな住宅地。でも、昼間は鈴虫寺に参詣する人たちの列ができて、けっこう騒がしいんだな、これが。でも、人が集まってくるっていうのは悪いことじゃない。
 引っ越しはあっという間に終わった。っていうか、私にはスーツケース1つ分の荷物しかない。で、さっそく昨日から、ちゃぶ台にパソコンを置いて、小説を書いてる。
 時折、窓の外に広がる青い空を見上げる。そういえば、浅茅しのぶという昔の小説家が、やはり、青空を見上げながら執筆を進めたという話を読んだことがある。空には自分の心が映し出されてるみたい。その時間が、けっこう、いい気分転換になったりする。
 それにしても、今日は恐ろしいくらいにはかどった。原稿用紙にすると、ざっと30枚は書いた。しかもほとんど一息に。
 主人公の男の人が、彼をずっと待ち続けていた女性と久しぶりに再会する場面。濃厚なラブシーンに発展してゆく。書きながら私も興奮しちゃった。でも、その男の人には、他に愛する女性がいる。彼はどうしていいのか分からない。
 この後2人はどうなるんだろう。実は私にさえ、明確な構想がない。それで、夕方、大学の図書館に行って、『源氏物語』を借りてきた。きっとこの古典物語が私に何かを囁いてくれるはず。第6感がそう伝えるの。
 とにかく今日は疲れちゃった。小説が完成するまで、ブログの更新もしばらくお休みするかもしれません。
 では、おやすみなさーい (∪。∪*)=3=3=3 」

京都物語 446

 この日のブログはそこで終わっている。読み終わった後で長いため息を吐くと、頭の奥で氷がきしむような音がした。
 冷蔵庫から3本目のビールを取り出す。ダイニングテーブルの上に置いたデジタル時計は0:32を表示している。いつの間にか日付が変わっている。
 再び居間に戻り、パソコンの画面をぼんやりと眺めながら、今日自分の身に起こったことを静かに振り返る。
 あまりぱっとしない職場で帰り支度をしているところに、突然結花から電話が入った。頭が真っ白になった状態で外に出ると、本当に彼女はそこに立っていた。思い出の染みこんだ黄色いマーチに乗って、僕たちは「トチの木」に行き、ハンバーグを食べた。タイムスリップしたかのようだった。
 食事の後、結花は僕をドライブに誘い、海を見ながら、僕への変わらぬ思いを打ち明けた。罪悪感に囚われている僕は、どう応えていいのやら分からなかったが、結花は僕に待つ時間さえ与えずに積極的に求めてきた。彼女のぬくもりは今なおはっきりと残っている。
 人生が動いている。この先どんなことが起こるのか、まるで予測がつかない。
 明子は真琴氏の作った言霊の世界に連れ込まれ、時の中に溶け込んでしまった。そうして今、レイナは新たな物語を書いている。どうやら主人公は僕のようだ。彼女は言霊の世界を信じている。さっき結花が、自分がドラマに出演しいるような気がしていると言ったのを思い出す。レイナは僕をどこへ連れて行こうとしているのだろう?
 すると、突然パソコンの画面が動いた。レイナが新しい記事を更新したらしい。
作者

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
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とびっきり寂しい旅に・・・

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