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キラキラ 49

「・・・その六条御息所の手紙だけは、『唐紙』という、模様が型押しされた美しく繊細な便箋にしたためられていた。文面からは、何度も筆を置きつつ、1つ1つの言葉を慎重に吟味しながら書いたことがうかがえた。手紙はメールとは違って、筆跡からその人の心を推し量ることができる。たとえば彼女は墨の濃淡にも変化をつけていた。ただ単調に書き連ねたものよりも、その人がその手紙に対してどれほど思いを込めているかが伝わる筆跡だった。六条御息所は、そうやって丹念に書いた手紙を、さらに4、5枚ばかりの巻紙に継いでから光源氏に送った。
 今だったら、六条御息所みたいな女性は『重い』といわれて男たちから敬遠されるかもしれない。でも私は、かえってこんな女性にこそ魅力を感じてしまう。逆に『軽い』女には落胆してしまう・・・」
 横目で奈月を見ると、彼女はホームを抜ける風に身をさらして、缶コーヒーの残りを飲んでいる。僕は彼女に気づかれないように小さく笑いながら、続きに目をやる。
「・・・洗練された六条御息所の手紙に胸を打たれた光源氏は、彼女の和歌に対する返歌を送る。

伊勢人の 波の上漕ぐ 小舟にも うきめは刈らで 乗らましものを
(伊勢人が波の上を漕ぐという、その小さな船に乗ってでも、伊勢にお供をすればよかったのに、と思います。この須磨の浦で海面に浮かぶ海藻を刈るような憂き目に遭いますよりは・・・)

海人(あま)がつむ 嘆きの中に しほたれて いつまで須磨の 浦にながめむ
(炎の中に投げ木を入れるような嘆きの中に泣き濡れて、いつまで私はこの須磨の浦で苦しみ続けるのでしょう・・・)

 できることなら会って語りたかった。2人には、報告し合うことがたくさんあった。だが、それがいつになるのか分からないということが、源氏の心を重く塞いだ」
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キラキラ 48

 JR須磨海浜公園駅のホームに上がると、明石方面行きの普通列車がちょうど発車したところだった。それで僕たちは自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチに腰掛けて次を待つことにした。歩きっぱなしだったので脚がふらふらしている。奈月はハンドタオルで首筋の汗を拭いつつ、冷たいコーヒーを美味しそうに口に入れた。まるでこの商品のコマーシャルでも見ているかのような、素敵な光景だった。
 僕は再び東山のしおりに目を落とした。須磨について書かれた部分はあと少しで終わろうとしている。
「・・・さて、最後に残された女性は、あの六条御息所である。野宮でのドラマチックな別れの後、彼女は光源氏への恋心を再燃させていた。そうして思いを断ち切ることができずに、憂いの日々を過ごしていた。それでも最後は心を鬼にして、娘と一緒に伊勢に下った。結局のところ、それしか道はなかったのだ。とはいえ、月夜の野宮でお互いの思いを確かめ合ったことにより、2人は密かに文通するほどの仲にまで戻っていた。
 それにしても、六条御息所の手紙は、他のどの女性のものよりも優美でしっとりとした趣があった。受け取った光源氏も、やはりこの女性だけは特別なのだとしみじみと実感し、彼女と別れてしまったことを、心のどこかでもったいなく思うのだった。
 手紙の中で六条御息所は『あなたはそのうちご帰京なさるでしょうが、私にだけは、再びお目にかかってお話しできるのもまだまだ遠い先のことでございましょう』と、いかにも彼女らしい言い回しをした。そうして、やはり和歌によって、切ない心情を詠んだ。

うきめ刈る 伊勢をの海人(あま)を 思ひやれ もしほたるてふ 須磨の浦にて
(海面に浮かぶ海藻を刈りながら、憂き目を過ごしている伊勢の海人。そんな今の私の身の上を思いやってくださいませ。「藻塩たれる」というように、あなたも涙に濡れているであろう須磨の浦から)」

キラキラ 47

 紫の上が特に寂しかったのは夜だったんだなと、和歌を見てそう思った。若い彼女は光源氏に抱かれながら眠るのが好きだった。だからきっと、夜になると源氏のいない現実が身にしみたのだ。10歳近く年上の光源氏は、ただの恋人以上のぬくもりを与えてくれる存在だったのだ。
 僕は奈月の横顔を見た。風が彼女の髪をなびかせている。すると奈月は横目をこっちに向けて「行きましょうか」と言った。それが僕には「生きましょうか」という言葉に聞こえた。それほど彼女は何かに思い悩んでいるように映った。
 須磨海浜公園駅前の路地に戻ってきた時には、太陽は南中に近づいていた。日差しは身を焼くように強く、奈月はうちわをあおぎながら、日傘を持ってこなかったことを何度も後悔していた。
「でも、すっごく楽しいです」と僕の少し前を歩く奈月はそう言った。「先輩といると、やっぱり楽しいなぁ。なんだが、ほっとするんですよね」
「まあ、それなりに長い付き合いだからな」と僕は答えつつも、そういえば幸恵も同じようなことを言っていたことを思い出した。いったい僕のどこに彼女たちを落ち着かせるものがあるのだろう?
「ねえ、先輩」と奈月は続けた。「急に、ふっと、楽しいなあって思いが込み上げる瞬間、ありません?」
 それについて僕は考えてみた。たしかに中学生の頃まではそういうことがあったような記憶もある。僕がそう答えると、「中学生ですか?」と奈月はこっちを振り返って、笑った。「私は大学を卒業するまでありましたよ」
「社会人になると、心から楽しいと思えることが減っちゃうのかな」と僕が言うと、奈月は駅に上がる階段に足を踏みかけて「それが大人になるってことかもしれませんね」と静かに返した。その言葉に、僕は紫の上を想った。大人になるにつれて恋の本当の苦しみを知る。千年前に抱いた彼女の苦悩に、僕は心が慰められるようだった。

キラキラ 46

「なげき、ですね」
 海に目を細めている奈月は、低い声でそうつぶやいた。
「好きな人への思いを燃やすために投げ木をしても、出るのは嘆きのため息ばかり」と彼女は、さっきの僕の言葉を反芻するかのように続けた。東山との楽しかった思い出が彼女の中で甦り、胸を苦しめているのだ。つまり僕と奈月は、同じ海を前にしながら、同じような過去のほろ苦い記憶にとらわれているわけだ。ただ、誰かに慰めの言葉をかけてもらうよりも、自分と似た境涯を経験した人と思いを分かち合うことの方が、慰めになる。密かにそんなことを実感した。
 奈月は何度もため息をついている。僕は吸い寄せられるようにしおりの続きを読む。
「・・・藤壺、朧月夜、花散里。彼女たちの他にも、苦しみ嘆いた女性がいる。とくに悲しみが深かったのは、後に光源氏の正妻格となる紫の上だった。その時彼女はまだ18歳。源氏のいない毎日に、朝も起き上がることができず、仕える女性たちも慰めようがないほどだった。源氏が使い慣らしていたお手周り品や、いつも弾いていた琴、脱ぎ捨てたままになっている服に残る匂い、そんなものに触れながら、紫の上はあたかも故人でも偲ぶかのように嘆き続けた。
 光源氏が旅立つ前に『君があたり 去らぬ鏡の 影は離れじ(あなたの近くの鏡に映る私の影は離れていかないでしょう)』と詠んだ通り、その面影はいつも目の前に浮かんではいるが、源氏がもたれていた柱などを見ると、胸が詰まって心が壊れそうになる。紫の上も、須磨の夫に向けて和歌を贈る。

浦人の しほくむ袖に くらべみよ 波路へだつる 夜のころもを
(須磨の浦にいるあなたが潮に濡れるように泣いていらっしゃる涙の袖と比べてください。波を隔ててあなたに逢えないで涙に濡れている私の夜着とを)」

キラキラ 45

「投げ木、かぁ」
 そんな言葉が思わず口をついて出てきた。すると奈月は僕の方を見て「なげき?」と返した。ふっと顔を上げると、目の前にはガラスを散りばめたようなさざ波が輝いている。
「ほら、さっき電車の中で、この須磨は古くから塩の産地で、海女が海藻を採ってきてはそれを焼いて塩を作っていたってことを話しただろ」
「東山君もそんなことを熱く語ってましたよね。塩屋駅を通る時に」
「そう。だから平安時代の人たちは、この須磨の話に自ずと塩の香りを感じ取っていたんだ。しかも、悲運の貴公子、在原行平が詠んだ『わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ』という和歌が当時の人たちの中に踏まえられていたから、なおさらそれを感じたんだ」
 僕はそう言い、瀬戸内海とは思えぬほどの長い水平線に目をやった。奈月も同じ方角を見ている。
「藻塩たれる海女という表現が恋人に会えずに涙を流す尼の姿に重なるというのは、このしおりに何度も出てくるよね。で、その海女たちは浜辺でたき火をする。塩を焼く炎であり、濡れた体を温める炎でもある。いずれにせよ彼女たちは、炎の中に恋人の面影を見るんだ。そうしてより激しく燃やそうと、木を投げ入れる。それが投げ木だよ」
 僕がそう言うと、奈月は思いの外神妙な顔つきをして「なんだか、深くないですか」と言った。「その投げ木が、心の嘆きにかかっていくわけですね」
「恋人への思いをより燃やして、何とか心を温めようとする。でも、出てくるのは嘆きばかり」
 そう言いながら、僕は幸恵を思い出した。それと同時に、前回この海に来た時に感じた胸の痛みが、不意に甦ってきた。一方奈月も、僕の隣で誰かのことを思っているようだった。きっと東山のことだろうと僕は推測した。それにしても、彼女は僕よりもずっと深刻な表情で、遠き水平線を眺めている。

キラキラ 44

 光源氏が朧月夜や花散里に歩み寄ったのは、彼の「心の癖」のせいかもしれないが、その奥には、藤壺への決して叶わぬ思いを埋めるという意味合いがあったのではないかと僕は読んでいる。恋に破れて心が切り裂かれてしまった時、新たな恋を探すというやり方は心の理にかなっている。
「男って、みんな寂しがり屋でしょ」
 いつだったか、幸恵がそんなことをつぶやいたのを覚えている。誰に向けて言ったのかは忘れてしまったが。ただ、彼女の言うとおり、光源氏も「寂しがり屋」だった。彼は寂しさを埋めるために、政敵である弘徽殿女御の妹、朧月夜との危険な恋に落ちた。須磨へ流れた後も、彼女のことを忘れなかった。
 東山のしおりにもその辺のことが記してある。
「・・・光源氏は、藤壺に次いで、朧月夜に手紙を送った。そうして、彼女への和歌の中にもやはり塩を焼く海女の姿を読み込んだ。

こりずまの 浦のみるめの ゆかしきを 塩焼くあまや いかが思はん
(性懲りもなく、私はあなたにお逢いしたいのですが、須磨の浦で塩を焼く海女さながらのあなたは、どうお思いでしょうか)

 ただ、藤壺へ送った和歌と比べると「浦のみるめのゆかしき(あなたにお逢いしたい)」とか「塩焼くあまやいかが思はん(あなたは私をどう思いでしょうか)」など、感情をそのまま表す言葉が目立つ。和歌に使われる言葉の違いからも、藤壺と朧月夜それぞれへの思いがうかがえる。一方、朧月夜は、源氏の思いをまっすぐに受け止めて、切ない恋心を詠み上げる。

浦にたく あまだにつつむ 恋なれば くゆる煙よ 行く方ぞなき
(浦で投げ木(=嘆き)を燃やしている海女でさえも人目をはばかる炎のように、多くの人に秘密にしている恋ですから、哀しみの煙はまったく行く先も見えないほどにくすぶって、心が晴れません)」

キラキラ 43

 その部分を読んだ時、僕にはふと、幸恵のことが思い出された。藤壺と光源氏は、前世からの深い因縁で結ばれていると互いに実感していた。同じく、僕も幸恵との出会いに運命を感じていた・・・
 だが幸恵は、僕を求め続けながらも、どこかで僕を諦めてもいた。僕は内心、幸恵がすべてを捨ててまでも自分を選んでくれる瞬間を夢見ていた。だが彼女は、そこまでは決断しなかった。そのことをうすうす感じ取るようになると、つらくて、そして、みじめでしかたなくなった。あれはちょうど仙台に旅行に行った後、つまり、前回東山たちとこの須磨を訪れた頃のことだ。僕は東山の後ろでこの海を眺めながら、なんともやるせない思いに襲われていたのだ。
 幸恵は、一生会い続けるような間柄でいたいと言ってくれた。だが僕は、言葉の上では快諾しつつも、本当にそんな関係でいられるかどうか分からないと思っていた。彼女と会う以上、みじめさに襲われ続けることは目に見えていた。彼女との時間が満たされるほど、会えない時間が苦しくなっていた。
 というのも、幸恵夫妻は深く愛し合っていることを家政婦から聞かされていたのだ。幸恵は毎日夜遅くまで夫の帰りを待ち、週末の夜には決まって2人で出かけてゆく。そんな聞きたくもない話を耳にするたびに、胸が張り裂けそうなほどの苦しみに襲われ、悲しさに打ちのめされるのだった。そのうち僕は、週末が怖くなった。その間僕はずっと、身を押しつぶすようなみじめさと戦わなければならなかった。その戦いに敗北したのを感じた時、僕は悟った。結局幸恵は、僕のことを本当の意味で思ってはくれなかった。それが僕たちの「縁」の全貌だったのだと。
 折しも、家庭教師の派遣会社が新たに学習塾を立ち上げることになり、僕は講師としての第1歩を踏み出した。その後大学を卒業し、麻理子と別れた後で、今度は東京の予備校への転勤話が舞い込んできた。僕はそれを引き受けることにした。どこでもよかった。幸恵と離れなけらばならなかった。
 潮風に揺られるしおりの文面に、そんなほろ苦い過去の記憶が透けて見えた。

キラキラ 42

 僕は、あの時東山が座ったベンチに腰掛けた。屋根がついているので日差しを遮ってくれる。すると奈月も隣に腰を下ろした。彼女は眩しそうに海を見つめ、「きれいですねー、なつかしー」と澄んだ声を上げた。僕は何秒間か奈月と一緒に海を眺めた後で、しおりに視線を落とした。 
「・・・須磨の海は、光源氏の目にはことのほか寂しく映った。海からの風に、都への恋しさを募らせた源氏は、まず藤壺に手紙を送った。その時藤壺は、光源氏との間に不義の子を産んだことにおそれをなし、出家して尼僧となっていた。
 光源氏は、そんな藤壺の手紙の中に、和歌を詠み込んだ。

松島の あまの苫屋も いかならむ 須磨の浦人 しほたるるころ
(松島の海女のように、私の帰りを待ってくださるであろう尼(=藤壺)のお住まいはいかがでしょうか。私が須磨の浦で涙の日々を過ごしている今日この頃ですが)

 一方、光源氏に対して、前世からの深い縁を感じずにはいられなかった藤壺だったが、少しでも本心を見せてしまったら、また前の関係に逆戻りしてしまい、世間からどんな言いようをされるのかがおそろしくてならなかった。それで、源氏が都にいる間は、ただひたすら辛抱に辛抱を重ね、たとえ向こうから思いを寄せてきても、無関心な態度を装っていた。
 だが、光源氏との離別によって、それまでとは違う感情がわき上がっていた。自分たちの関係が全く噂にものぼらないことは、光源氏が激しい情熱にも負けないで、無難にあの秘密を隠してくださったからだと、しみじみと恋しく思われるようになっていたのだ。藤壺は源氏への返歌に、自らの精一杯の思いを込めた。

しほたるる ことをやくにて 松島に 年ふるあまも 嘆きをぞつむ
(長年の間、松島で涙を垂らしながら待っている海女が、浜辺の炎の中に投げ木を積み重ねるように、尼である私も嘆きの日々を重ねております)」

キラキラ 41

 あの時東山は、海浜公園のベンチに座って海を眺めながら、和歌を口ずさんだ。僕の記憶が正しければ、さっきこのしおりに載っていた光源氏の歌だった。

 恋ひわびて なく音(ね)にまがふ 浦波は 思ふかたより 風や吹くらん
(恋しさに苦しみ悩んで泣く声のように聞こえる浦波の音は、私のことを思ってくれる人たちのいる方から風が吹いてくるせいだろうか)

 僕はそのページを再び開き、改めてその歌に目を落とした。そして、東山と同じように、海を眺めた。カラフルな水着の若者たち、海面に浮かぶ数艘のヨット、浜辺に並んだビーチパラソル、その影に横たわる人たち。平安時代とはおよそ異なる景色だが、1つだけ変わらないことがある。風が吹いている。
 海からの風は僕の髪を揺らし、そのまま松林の間を吹き抜ける。光源氏はこの風の中に、愛しい人の声を聞いた。そう思うと、光源氏と東山が徐々に重なってゆく気がする。須磨寺に行った時にも感じたが、東山は、何かを抱えていたのではなかろうか。もしかすると、光源氏のように、奈月の他に好きな人がいたのかもしれない。うまく解決できない問題に直面していたのかもしれない。
 そんな想像を巡らせながら、しおりの続きを読んだ。
「・・・須磨の浜辺に立った光源氏の心には、女性たちの面影が映っていた。最も大きかったのは藤壺だ。彼女は光源氏にとっては理想の女性だった。藤壺と過ごしたきらめくような瞬間が、どうしても心から離れない。だが、その夢のような時間はもう2度と戻ってはこない。そう思うと絶望感に襲われる。朧月夜や花散里を求めたのは、それを埋めるという意味あいもあった。光源氏の身勝手と言われればそれまでだ。だが、それほど源氏は藤壺を深く愛していたということなのだ」

キラキラ 40

 僕が残りのうどんを再びすすりはじめると、奈月は質問を変えてきた。
「先輩、東山君の結婚式に呼ばれたんですよね?」
 思わず口の動きが止まった。
「うん、まあ、ね」と僕は言い、改めてうどんを噛みはじめた。
「相手の人、やっぱりきれいでした?」
「よく覚えてないんだけど、たしか、いかにも都会の女の人って感じだったかな」
「シュッとした人だったんですね」
「その、シュッとした人っていうのがどういう人を指すのかいまいちよくわからないが、正直なところ、東山には奈月の方がお似合いだと、俺はそう思ったよ」
 僕はあの時感じたことをそのまま言葉にした。すると奈月は「ありがとうございます、嘘でもうれしいです」と、寂しげに笑った。
 さっき奈月は、僕はまだ麻理子のことを忘れていないと言ったが、それ以上にこの子は東山のことを忘れていない。奈月は大学生の頃から、心の中にあることを隠すのが上手じゃなかった。
 うどん屋を出た時、日差しは一段と強くなっていた。国道まで歩くと、須磨水族館の三角屋根が再び目の前に現れ、その横の須磨海浜公園の砂浜には、水着姿の人たちがちらついていた。
「せっかくだから、海に出ましょ」と奈月は言い、国道を渡る横断歩道のボタンを押した。
 あの時東山も僕たちを連れて海に出た。そうして、砂浜に置かれたベンチに腰掛けて、感慨深げに海を眺めた。そんな記憶を思い起こしながら、僕は東山が作ったしおりを開いた。
「・・・光源氏にとって、須磨での生活は、予想以上に寂しいものだった。距離の隔たりが寂しさをさらに助長したのだ。彼は、都に残してきた女性たちに向けて文を送った。せめてもの慰めを求めたのだ」

キラキラ 39

 僕と幸恵は他にもいろいろな所に出かけたが、この仙台への旅を思い出す時だけは、どうしても特別な重苦しさに襲われる。というのも、それは、東山たちと須磨へ行った直後のことだったからだ。
 もし僕が幸恵と出会っていなければ、きっと麻理子も須磨について来たはずだ。だが彼女は、ずいぶんと悩みはしたものの、結局は教師になるための勉強の方をとった。今振り返ってみると、その時すでに、麻理子は僕と別れるつもりでいたのではないかと思う。愚かな僕は、彼女が1人で抱え込んでいたせつなさにさえ気づくことができなかったのだ。
「先輩」
 ふっと顔を上げると、奈月が僕の顔を覗き込んでいる。その健康的な瞳を前にすると、今までとらわれていた過去の暗さがより強調されるようだ。 
「先輩、大丈夫ですか? せっかくのうどんなのに、全然美味しそうに食べてないですよ」
 器の中のうどんは、まだ半分以上も残っている。青ネギと鰹節はぐんにゃりとして、うどんに絡まり込んでいる。
「大丈夫、ちょっと考え事をしてたんだ」と答えて再びうどんをすすると、奈月はこう言った。
「先輩、まだ、麻理子さんのこと、忘れてないんですね」
 僕はうどんを口に入れたまま「全部過ぎたことだよ」と答えた。奈月は割り箸を置き、両手で頬杖をついて、こっちを見ている。
「麻理子さん、何してるかなぁ、今頃」
 奈月は、僕と彼女との間にできたわずかな空間をぼんやり眺めながら、そうつぶやいた。
「麻理子のことだ。きっと、うまくやってるよ」と僕は言った。すると奈月は、「麻理子さん、もう、結婚とかしてますかね」と続けた。それについては、僕は何も答えられなかった。

中秋の名月ですね・・・

 庭先のウッドデッキの上にゴザを敷いて、寝っ転がって月を見ていました。
 これまで見た中で、最も鮮明で、輝いている月です。あまりに輝いているがために、中の兎が見えにくいくらいですね。

 それにしても、思わず時間を忘れて、月光を浴びていました。今夜の月ばかりは、ドビュッシーの『月の光』よりも『うさぎうさぎ』の方が似つかわしい感じがしますね。

 ・・・というわけで、今日の『キラキラ』は明日公開させていただきます。

 月のパワーをもらった分、きっちりと書きますので、どうぞご期待ください!!

キラキラ 38

 友克の高校入試が終わると、僕と幸恵は2人で遠出するようになった。初めて出かけたのは福岡だった。セレクトショップで買い物をし、カフェでランチをとった後、一緒に映画を見た。僕にとっては初めて知る、豊潤な大人の時間だった。移動中、僕は幸恵のBMWのハンドルを握った。アルバイトをしてようやく手に入れた中古のコラードと比べると、何から何まで洗練された車だった。
 春先には、新幹線で神戸にも行った。大丸で幸恵の買い物に付き合って、元町で昼を食べた。そして、港を望むホテルに入った。幸恵は僕の前で裸になり、お風呂に入りましょうと言ってきた。そうして十分に泡立てたスポンジで、僕の身体を洗ってくれた。その日僕は初めて幸恵を抱いた。抱きながら、何度も麻理子の姿が浮かんできた。日本人学校の教師になるために勉強している彼女を思うと大きな罪悪感を感じたが、それ以上に幸恵は僕をやさしく包んでくれた。もはや、どうすることもできなくなっていった。
 夏には仙台の七夕祭を見に行った。仙台駅に着いた後すぐにホテルにチェックインして2人の時間を過ごした後で、駅前の商店街に繰り出した。祭りの明かりが幸恵の表情を鮮やかに彩っていた。ベージュのノースリーブを着て髪を後ろに結った彼女は、ずいぶんと若返ったように見えた。
 あくる日はJRで塩竃まで走り、岩ガキを食べ、ワインを飲み、それから松島に渡った。幸恵は島の小さなペンションを取っておいてくれた。完全予約制で僕たち以外には客はなかった。日が傾きかけたのを見計らって浜辺で泳ぎ、ペンションに戻ってから、コース料理を食べた。
「あなたといるとね、やすらぐのよ」
 幸恵は手に取った線香花火をぼんやり眺めながら、そんなことを言った。僕はどきっとした。麻理子と同じことを言うからだ。幸恵は僕といることで過去を埋め合わせようとしているかに見えた。彼女は過去のどこかに何かを置き去りにしていたのだ。それが何なのかは、結局最後まで口にしなかったが。
 その夜は、波の音を聞きながら、明け方まで深く愛し合った。

キラキラ 37

 幸恵を初めて見た時、「あぁ、世の中にはこんな人もいるのだなぁ」と、うっとりした気分にとらわれたのを覚えている。裕福で、社会的地位も高く、高級ホテルのような家に住み、おまけに容姿だって申し分のない人。「天は二物を与えず」とはいうものの、実際には「二物」も「三物」も与えられた人。
 息子の友克にしても、なぜこの子に家庭教師が必要なのかいまいちよく分からなかった。そもそも僕はこの子に「勉強」を教える必要などなかった。彼が高校受験用の問題を解く時にストップウオッチのボタンを押し、自己採点させた後で、質問があれば受け付ける程度のことしかしていない。しかも、彼はほとんど質問などせずに、参考書を見ながら自力で解決していった。
 にもかかわらず、友克は僕に感謝しているようだったし、幸恵にしても、僕の先輩が辞めるということで心配したが、後任として誠実な先生がついてくれてほんとうに幸運だといつも言ってくれた。僕にはそれらの言葉が、本心から出たものとはとうてい思えなかった。
 入試本番が近づくにつれ、友克はますます集中しだした。それで、彼が問題を解いている間は、隣の応接室で幸恵と雑談するようになった。この家には家政婦が雇われていたが、僕に出す紅茶は幸恵自らがいれてくれた。彼女の出すものは、紅茶にしてもコーヒーにしても、クッキーにしても、どれも見たことのないものばかりで、すべて上質で味わい深かった。僕がラベルを見たり、美味しそうに食べるのが珍しかったのか、幸恵は新しいものを買ってきては、うれしそうに振る舞ってくれた。
 僕たちはそうやって、勉強のことや今どきの中学生の事情などを話題に談笑していたが、そのうち幸恵は自らのことを語るようになっていた。高校時代はあまり人と話すことが得意ではなく、英語を勉強して海外に出たいと思っていたことや、大学生になって実際に留学してみると、日本の良さが身にしみてわかったので、結局ここに住んでいるのだというようなことを話した。   
 麻理子はアメリカに憧れているが、幸恵はその逆の生き方をしていると僕は思った。

キラキラ 36

 およそ恋に落ちた人間なら、えてして皆同じようなことを考えるものなのかもしれないが、幸恵との出会いは、僕にとっては運命だった。仮に僕の人生が10回与えられたとすると、10回とも幸恵と出会うにちがいないという確信のような思いが僕にはあった。
 もちろん、僕は麻理子を愛していなかったわけではない。彼女とずっと付き合うことができていれば、どんなにか幸福感に満ちた人生を送っていただろうと、今でも思うくらいだ。
 だが、幸恵の存在は、僕と麻理子の関係すら完全に包み込むほどの勢いをもっていた。もしこのことを僕の友人に話したりしたら、きっと彼らは僕を責めるに違いない。たんにお前が弱いだけだと。だが、当事者である僕にしてみれば、弱さ云々の話ではなく、つまりは運命だったということになってしまう。それほどどうしようもない恋だったのだ。
 幸恵は、僕が初めて家庭教師をした友克という中学3年生の、母親だった。
 大学3年の秋に、僕はフォルクスワーゲン・コラードを手に入れることによって、アルバイトの選択肢を大幅に増やした。そんな時、研究室の先輩が、自分の教え子の面倒を引き継いでほしいという話を持ちかけてきた。本来なら家庭教師の派遣会社の方で、そこに登録してある大学生を割り振りするしくみになっているが、その生徒に関しては、先輩が直接会社に働きかけてでも僕を担当させたいということだった。
 そんないきさつで、僕は車で30分離れたその家の生徒を担当することになった。初めて門の前に車を停めた瞬間、なぜ先輩が直接会社に働きかけたのかが、すぐに分かった。そこは医師の家で、親は教育熱心だという話は聞いていたが、僕の想像をはるかに超えるほどに大きく立派な家だった。門の並びには大きなガレージがあり、シャッターが閉めてある。庭には木が生い茂っていて、その隙間から瀟洒な建物が窺えた。
 あまりにカジュアルな格好で来てしまったことを後悔しながらベルを押すと、女性の返事が聞こえ、門の鍵がカシャリと開いた。通路に沿って玄関まで歩くと、きちんとした容姿の婦人が出迎えてくれた。

キラキラ 35

 結論から言うと、僕と麻理子が付き合ったのは、大学2年の冬から卒業した年の秋までの、およそ3年間だった。
 彼女は大学を出てすぐにアメリカの日本人学校の教師になるためのテストを受け、軽々と合格した。そうして向こうの新学期が始まる秋に合わせて、オレゴン州に渡ってしまった。最初の頃はお互いに連絡し合っていたが、そのうち自然に消滅してしまった。
「この時代、日本とアメリカなんて、連絡を取ろうと思えばいつでもつながるわよ」と言い放っていた麻理子だったが、時差の問題もあったし、実際に経験してみると、距離の隔たりは精神的な隔たりにも直結していた。今思えば、渡米を決めた時点で、麻理子にはずっと僕と付き合おうという覚悟はなかったのだ。
 だが、そのことが僕にとって100%つらかったかというと、そうでもなかった。もちろん、僕は麻理子を愛していた。彼女がアメリカに渡ってしまう前までは、漠然とではあるが、この女性と結婚するのだろうと思っていた。
 しかし、気がつけば、僕には麻理子の他に好きな女性ができていた。その思いはいつしか自分でもどうすることのできないくらいに膨れあがり、僕をそれまで経験したことのないところにまで運んで行ってしまった。もしその恋に落ちていなかったら、おそらく麻理子は日本に残ったのではないかと思う。 
 僕が恋したのは、幸恵(ゆきえ)という人だった。僕が21歳の時、その人は40歳だった。
 幸恵と出会ってからというもの、麻理子との関係は、チェーンの外れた自転車のように、どこかぎこちなくなっていった。ひょっとして麻理子の「女の勘」が知らせたのかもしれない。あるいは僕の態度の中に異変を感じたのかもしれない。いずれにせよ、真理子が渡米を考えるようになったのは、僕の恋心があるレベルを超えてしまって、自分でもどうすればいいのか分からなくなった時とほぼ一致している。
 結局、麻理子は、僕を追い詰めたり僕がつらくなるようなことを何ひとつ言わずに去っていった。彼女は最後の最後まで、理想的な女性であり続けた。

ふと思うこと・・・

 今日は私が携わっている卓球のチームの試合がありました。
 特にこの6月から約3ヶ月、自分なりに力を注いできたのですが、残念ながら結果は不本意なものになってしまいました。

 文芸を愛する私ですが、その片翼として、長いこと勝負の世界に生きてきました。

 今日ばかりは、試合の中でほんとうに厳しい局面が何度もあって、心の中で「勝利の女神がいたら微笑んでくれーー」って叫びましたが、結果は思い通りにはいかず。
 相手チームの喜ぶ顔の前に、悔しい思いをしてしまいました。

 やはり勝つことは難しいし、この世界は厳しいですね。

 ただ、卓球を始めて1年も経っていない選手が、上位ランクの選手に勝ったりと、1人1人に目を向けると、ほんとうによくやりました。彼らの熱いまなざしによって、どれほど励まされたか・・・
 やっぱりアマチュアスポーツならではの感動がありますね。

 野球やラグビーの選手経験がある私ですが、コーチの仕事は選手よりもはるかに気苦労が多く、持続力と忍耐力、それから計画性と具体的な理論がいります。
 そんな私と一緒にがんばってくれる選手たちがいる以上、弱音を吐いてはいけませんね。

 ただ、今夜だけは、お酒の力を借ります。
 選手たちのひたむきなまなざしを肴に、静かに乾杯です。
 次の大会に向けて、コーチである私が英気を養わないといけません。

 というわけで、『キラキラ』は、明日また掲載いたします。

 どうぞ、よろしくお願いします。

キラキラ 34

「いきなり難しい質問をするなあ」と僕は言い、自分の麦茶に口を付けた。「もう過ぎたことだ」
「過ぎたことだからこそ、話せるんじゃないですか? 先輩、何も教えてくれなかったし、麻理子さんとも結局それっきりになっちゃいましたし。今でも思い出すんですよ。麻理子さんに遊んでもらったこと。私にとっては理想のお姉さんだったんですから」 
 奈月の質問は僕にとっては青天の霹靂同然だった。麻理子を思うと、今でも心の中が少なからず乱れてしまう。
「まあ、別れるタイミングだったんだよ」
 僕はそう答えた。もちろんそれでは奈月は納得しないだろうということは分かったが、それは決して間違いではないし、それ以上何も言えなかった。
 麻理子は僕にとっても理想的な女性だった。彼女は僕と同級生だったが、年齢は1つ上だった。というのも、大学1年の秋から1年間、アメリカに留学していたのだ。すらりと背が高く、いつも細身のブルージーンズをはき、ブロンズに染められたソバージュの髪はポニーテイルで結ばれていた。彼女の部屋にはアロマキャンドルが焚かれ、ホームステイ先で録画したMTVの音楽ビデオがいつも流れていた。彼女はビールを飲み、ポップコーンを口に放り込みながら、流暢な英語で歌ったものだ。
 かと思えば、日本人的な心配りもできた。ジュースを飲む時には、決まって僕のプルタブを先に開けてくれたし、汗をかいた時もさりげなくハンドタオルを差し出してくれた。待ち合わせには必ずといっていいほど麻理子の方が先に来ていた。「私、人を待たせるのがいやなのよ」と彼女は微笑んだ。
 麻理子みたいな女の子がどうして僕なんかと付き合うのか、不思議でならなかった。友達は僕を羨んだが、当の僕は、誇らしさよりは、今は夢なのではないかという思いの方が先走っていた。
「あなたといるとね、不思議とやすらぐんだぁ」
 麻理子はベッドの中でよくそう言ってくれた。僕にはそれが自分に向けられた言葉とは思えなかった。

キラキラ 33

 店内はうどん屋というよりは、しゃれた居酒屋という雰囲気だった。やわらかな照明のカウンター席があり、その後ろには黒くスタイリッシュな感じのテーブル席が並んでいる。僕たちは入口に近いテーブルに座り、2人とも迷わず冷やしうどんを注文した。出来上がりを待つ間、氷の入った麦茶を飲みながら、奈月がだしぬけに聞いてきた。
「先輩、今、付き合ってる人とかいるんですか?」
 汗で湿ったシャツをクーラーにさらしていた僕は、思わず奈月の顔を見た。黒々とした瞳はまっすぐにこちらを向いている。「いないよ」と答えると、奈月は僕の顔をさらに覗き込むようにして、「ほんとうですか?」と訝しげに言いつつ、慎重に麦茶を口に運んだ。僕は改めてほんとうだと答えた。
「さっき、須磨寺に行く時に、先輩、しおりに夢中になってたじゃないですか。で、光源氏が都に置いてきた女性の話を読んでるって言ってたでしょ。だから、しおりを読みながら、東京にいる彼女さんのことを思い出してたのかなぁって・・・」
「なにを言ってるんだよ。それとこれとは関係ないよ」
 僕が思わず声を大きくすると、奈月はまた「ほんとかなぁ」と疑りにかかった。
 冷やしうどんには青ネギと鰹節がたっぷりとかかっていて、おろし生姜が添えられていた。真夏の路地を歩いてきた身体にはぴったりの味わいだった。うどんを口の中でゆっくりと咀嚼していると、奈月は、今度は質問を変えてきた。
「先輩、なんで麻理子さんと別れちゃったんですか?」
 僕はうどんを喉に詰まらせてしまいそうになった。麻理子とは大学時代に付き合っていた彼女のことだった。彼女は奈月のことを妹のように可愛がっていた。僕たちは奈月と東山と一緒に何度か夕食をとるほどの仲だった。

キラキラ 32

 JR須磨海浜公園駅前まで歩いてきた時、ふと見上げると、空の青が薄くなっているのを感じた。海はすぐそこだ。そういえばこの駅前の路地に古い中華料理店があった。そこで3人で食べた冷麺の味を思い出してしまった僕と奈月は、その店を探したが、どうしても見あたらない。
 そのうち、僕たちの目の前には、須磨水族館の大きな三角の屋根が現れた。その横には長い松林が連なっていて、奥は海浜公園になっている。この辺りの町並みはどこも新しく整備されているが、それは阪神大震災の時に街全体が被害にあったからなのだと、中華料理店の店主がしんみりと語っていた記憶が甦る。店主は食後にマンゴーのシャーベットをサービスしてくれた。おそらく東山がいろいろと質問をして、この土地に興味を持っていることが嬉しかったのだ。
「あの冷麺、もういっぺん食べたかったのにな」
 奈月は海の方を見ながら何度もそう言った。それくらいにうまい冷麺だった。
 水族館の前には国道2号線が走っていて、多くの車が走っている。須磨寺よりも潮風が生ぬるく、肌にべたつくように感じられる。松林の間からは須磨の浦が見える。今は海水浴客でごった返しているが、平安時代はうらさびしい浜辺だった。この国道に出た時、東山はそう言った。僕はしおりを取り出して、東山が海に向かって読んだ光源氏の和歌を探した。

恋ひわびて なく音(ね)にまがふ 浦波は 思ふかたより 風や吹くらん
(恋しさに苦しみ悩んで泣く声のように聞こえる浦波の音は、私のことを思ってくれる人たちのいる方から風が吹いてくるせいだろうか)

 僕と奈月は、水族館前の大きな交差点から1つ入った路地にある、新しいうどん屋に入ることにした。

キラキラ 31

「別れることによってさらに愛が深まる、か。東山もなかなか味わい深いこと言うなあ」
 僕がしみじみつぶやくと、奈月はこんなことを言ってきた。
「でも、私、東山君と2人で野宮神社にお参りして、しかも、この人と結婚できますようにってお願いまでしたのに、別れちゃいましたよ。それでも私たちの愛は深まったんですかね?」
 僕は思わず奈月の顔を見た。彼女は半分笑って、もう半分は笑っていなかった。奈月は僕に何かコメントしてほしいのだろうが、適当な言葉が見つからない。その心中を察してか、奈月は僕の言葉を待つのをやめ、投げやりな感じで、「縁結びの、パワースポットかぁ」と吐き捨てた。その表情は、結婚を目前に控えている女性のそれにはおよそ見えなかった。彼女は今もなお、「何か」に憧れを持ち続ける女の子なのだ。そしてきっと、その「何か」には、奈月の場合、結婚は含まれていない。そう直感した。
 しばらくして奈月は、再びうちわをあおぎながら境内を進み始めた。眼前にはきっちりとした作りの本殿がきらびやかにそびえている。時計に目をやると、あと少しで昼になるところだ。僕たちは本殿に参詣した後で、きびすを返し、前回来た時と同じように、『源氏物語』の香りのそこはかとなく漂う境内をぐるりと巡った。
 僕は、あの時とは空気感が違うのを実感せずにはいられなかった。興奮してたて続けに写真を撮ったり、いろんな話をしてきた東山がいないだけで、まったく違う旅のように感じられる。あの時、奈月と僕は、そんな東山の後ろを、ぼんやりと風景を眺めながら歩いていた。それでも、僕たちは十分に楽しかった。今思えば、東山とはそんなやつだった。
 参道を山門の方に引き返している時、奈月は突然「海が見たいですね」と言ってきた。冷房の効いた場所に逃げ込みたいと思っていた僕だったが、奈月と一緒に海まで歩くのも悪くはないと思った。それで僕たちは、須磨海浜公園まで歩いて、そこで昼食を取ろうということになった。須磨寺からはけっこう距離があったが、その間僕たちはほとんど何も話さなかった。

キラキラ 30

「東山君と一緒に野宮神社に行った時、思わず彼に聞いたんですよ。ここはせつない別れの場所のはずなのに、どうして縁結びのパワースポットになってるのかって。そしたらあの人、それは素人の見方だねって言ってきたんです」
 奈月はそう言いながら、しおりを持たない左の手で、白いバッグをきちんと肩にかけ直した。
「源氏と六条御息所は1年以上、手紙のやりとりはあっても、直接会っていなかった。六条御息所が伊勢に行ってしまえば、お互いに傷ついた心のまま別れることになってしまう。源氏はそれが耐えられなかったんだ。東山君はそう説明しました。つまり、野宮は別れの場所である前に、2人の心を修復するための場所でもあったと」
 奈月は参道の途中で完全に歩みを止めて、「さっきも言いましたが、六条御息所だって、旅立つ前に、源氏にすごく会いたかった。会える瞬間が近づくにつれて、胸が高鳴ってしかたなかったんです」と言ったうえで、しおりに書かれた『源氏物語』の本文を読み上げた。

めづらしき御対面の昔おぼえたるに、あはれと思し乱るること限りなし。来し方行く先思しつづけられて、心弱く泣きたまひぬ。女は、さしも見えじと思しつつむめれど、え忍びたまはぬ御けしき・・・
(今夜の久しぶりのご対面は愛し合った昔を思い出させ、2人の胸にはしみじみと限りなく万感がこみ上げてきました。これまでのことやこれからのことが次々に思われて、心弱くも源氏はお泣きになられます。六条御息所の方は、自分がこんなにも苦しんでいることを気づかれないように、思いこらえておられますが、とても耐えられそうにないご様子です・・・)

「久々の対面によって、これまでの2人のわだかまりはすっきりと消え去り、心はたちまち昔のように1つに重なり合います。葵の上に取り憑いたつらい過去でさえも溶解しました。別れることで、源氏と六条御息所の愛はしっかりと確認され、より強いものになったというわけです。だから野宮は縁結びなんだ。東山君は自信たっぷりにそう言いましたね」

キラキラ 29

「そういえば、思い出すなあ」と、奈月は空を見上げたままつぶやいた。
「大学生の時、東山君と一緒に野宮に行ったんです。今は、野宮神社っていって、縁結びのパワースポットとして有名な場所になってるんです。もう、カップルがいっぱいいますよ」
 僕は奈月の横顔を見た。こめかみは、うっすらと汗ばんでいる。
「野宮って、潔斎の地でもあったんですけど、『源氏物語』では別れの場所として描かれるんです」と奈月は続けた。「六条御息所が伊勢に下向するという話を聞いた瞬間、光源氏は、急に別れがつらくなって、いてもたってもいられずに、秋の野宮を訪ねるんです。誇り高い六条御息所は、『何をしに来られたのですか?』という意味の和歌を何食わぬ素振りで詠むのですが、心の中では本当にうれしくて、別れると決めたはずの心がぐらぐら揺れるんです。そして2人は、その神聖なはずの野宮で、最後の夜を交わすんです。平気でタブーをおかしちゃうあたり、六条御息所はやっぱり女子なんですよ」
 そう言って奈月は、手に取ったしおりに再び目を落とし、東山が載せている和歌を読んだ。

あかつきの 別れはいつも 露けきを こは世に知らぬ 秋の空かな

「光源氏の歌ですね。翌朝に詠まれたものです。『明け方の別れは朝露が宿るようにいつも涙がちなのに、今朝ばかりは、これまで味わったことがないほどに胸が詰まる、そんな秋の空だよ』って伝えてます。それに対して、六条御息所も歌を返します。『じつは私だって悲しいのです。どうか鈴虫よ、鳴かないで』って。彼女には悔やまれることも多かったけど、伊勢に下向することを公表した以上、もはやどうすることもできずに、光源氏が去った後も、余韻の中で、涙ながらにずっと物思いに沈むのです」
 空を見上げたままの奈月の瞳は、ガラス玉のようにうつろになっている。

キラキラ 28

「伊勢神宮?」と僕は言った。
 すると、奈月は「はい、伊勢神宮です」とうなずいた。その後で、「ちょっと、それ、見せてもらえます?」と、僕の手からしおりを取り、「たしか東山君、その辺のことも書いてたと思うんですけど」とつぶやきながら、ゆっくりページをめくった。
 間もなくして、「あ、ありましたね」と声を上げ、そこに書いてあることを読み始めた。
「・・・平安朝の頂点に君臨するのは帝、つまり天皇である。伊勢神宮に祀られる天照大神(あまてらすおおみかみ)という女神は、皇室の祖神とされているために、帝が交代するたびに新たな斎宮が選出された。斎宮というのは、神にお仕えする聖女のことで、帝と血のつながりのある女性の中から、亀の甲羅を焼いてそのひびを見る「卜定(ぼくじょう)」という占いによって選出された。
 斎宮に決まった女性は、嵯峨野の野宮(ののみや)という仮宮に移り、そこで潔斎(けっさい)という聖なる生活を営んだ。神に仕える前に、身も心も清めるのである。その潔斎が完了すると、500人とも推定される多勢によって、いよいよ伊勢へと出発するのである。
 六条御息所は、娘が斎宮に選ばれたのを機に、一緒に伊勢に下向する決心をする。ただ、彼女にとっては、それは光源氏との決別のためであった。源氏と別れるためには、遠き神域に身を投じるしかなかった。六条御息所の恋は、一生を捧げるほどのものだったのだ」
 僕は、「なんだか、やるせないな」と沸き上がった感情をそのまま口にした。奈月も歩みを緩めて、「せつないですよね」と嘆息を漏らし、瀬戸内の夏の薄い青空をまぶしそうに見上げた。

キラキラ 27

 僕たちは、日の光を受けた参道の白い石畳を踏みしめながら歩いた。たしか東山が、「この寺の境内はとてもきれいだけど、阪神大震災で被災して再建されたんだろうか?」と言っていたのを思い出す。あの時僕は、東山と奈月の後ろを影のようについて歩いていたが、今はこうして奈月と肩を並べている。まさか、2人でここに戻ってくるとは思ってもみなかった。
 すると奈月が、「東山君は六条御息所が好きだったですけど、私も共感できるところ、あるんですよね」と突然切り出した。彼女の白くて柔らかそうな頬が僕のすぐ隣にある。「ある意味、六条御息所って、すごく女子っぽいんです。一途というか、純粋というか。それでいて、常に誇りをもっていて、しかもそれ相応の努力も日頃からちゃんとしている、そんな女性なんです」
「なるほど」と僕は石畳を見ながら返した。東山が好きになるのもうなずける。
「すごく女らしいから、ああやって、まっすぐな恋におちて、どうしたらいいのかわからなくなって、最後には魂だけが抜け出して、物の怪になってしまう。それほど好きだったんです、光源氏が。でも、きっと『源氏物語』の読者は彼女を悪女だと切り捨てません。だって、女なら誰でももってるんですもの、そんな心」と奈月は言い、白地にネイビーのボーダーの入ったワンピースの襟元を直した。それに伴って、細いシルバーのネックレスがきらりと揺れた。
「どうなってしまうんだろう、あれから、六条御息所は?」
 僕は奈月の横顔に向かって問いかけた。すると奈月は、前を向いたまま「先輩、最後まで読んでないんですか?」と聞き返してきた。
「そうなんだ。ちょうどいいところでここに着いたもんでね」
 僕がそう答えると、奈月は「さんざん泣いて、悩み抜いた末に、娘と一緒に伊勢に下っちゃいました。皇太子との間に生まれた娘は、伊勢神宮に仕える『斎宮』に選ばれたんです」と教えてくれた。

キラキラ 26

 胸元から噴き出した汗がTシャツを湿らせている。だが、須磨寺の境内にいると、暑さよりも心地よさの方が若干上回る。僕はいったんしおりを閉じ、うちわで潮風を首筋に当てながら、ゆっくりと参道を進む。何人かの参詣者がいるが、この時期にJR須磨駅から歩いてきたのは僕と奈月だけと見える。
 山門から少し進めば「源平の庭」があり、今から約800年前に、この近くの一ノ谷の合戦で一騎討ちをしたとされる平敦盛と熊谷直実がそれぞれ騎馬に乗って太刀を振りかざしている銅像がある。
「そういえば、東山君、『源氏物語』については異様に詳しかったけど、『平家物語』はほとんど知らなかったですよね」と奈月は揶揄するように言った。「『平家物語』の『敦盛の最期』って、古典の教科書に出てきたはずなのに、あの人、何にも覚えてなかった」
「まあ、昔は、俺だって、『源氏物語』っていうのは『平家物語』とよく似た話が書かれてると思ってたけどね」と僕が言うと、奈月は何もコメントせずに口元だけ緩めた。そうして、「源平の庭」に植えてある、小さな木の方へと視線を移した。そこには古い立て看板があって「若木の桜」と記してある。
「さっき先輩は、光源氏が京都に残してきた女性の話をしてましたけど、この桜は紫の上を思って植えたとされてるんですよね」と奈月は言った。「もちろん『源氏物語』は作り物語だから、この桜の話も本当じゃないんですけど、それにしても、光源氏って、実在の人物のように思えてならない瞬間があるんです」
 奈月は桜の前に立ち、しみじみと言った。
「っていうか、どんな楽しいことでもつらいことでも、いったん過ぎてしまえば、本当にあったことなのかどうか、よく分からなくなっちゃうことありません?」
 奈月の言うことは何となく分かる気もする。思い出は歴史の教科書のように、言葉に置き換えられてゆくような感覚がある。すると奈月は、花のない桜の古木に自らの過去を投影するかのようにつぶやいた。
「光源氏は、ずいぶん後になって気づくんですよね。自分がいかに紫の上を愛していたかって」

キラキラ 25

「女って、誰でも、自分だけが愛されたい、好きな人に独り占めにされたいって、強く思うものなんです」
 奈月は足下に視線を落としてそう続けた。
「しかも、これは私の考えですけど、片想いで終わる方がずっと楽なんですよ。付き合って、幸せな毎日を過ごして、その人のことが好きで好きでたまらないのに、その人から大事にされなくなるっていうのが、一番きついんです。そんな時、もちろん人にもよるだろうけど、女としての本性が出るんです」
「まあ、そのへんは、男も同じだとは思うけどね」と僕が返すと、奈月はうつむいたまま首を振り、「男と女じゃ違うと思います。女心って、男の人にはたぶん理解できないです」と苦笑いを浮かべた。
 奈月は東山とのことを言ってるんだなと僕は洞察した。この子はまだあいつのことを忘れ去っていないのだ。だが、東山は、3年前に、奈月とは違う女性と結婚してしまった。相手は東京の大病院の検査技師で、合コンで知り合った仲らしい。
 結婚式の時、僕は東山の隣に立つ新婦を遠目で眺めた。すらりと背が高く、都会の出身であることをうかがわせるスマートさが漂っていた。留学経験もあるらしく、数多くの友達の中には外国人の姿も見られた。何から何まで奈月とは違っていた。学生時代の奈月と東山を知る僕には、どうも不思議な関係で結ばれた2人のように映った。
 東山は大学を卒業後、スポーツウエアの繊維を開発する会社に就職し、大阪、東京と勤務地を変え、今は上海の支社に移ってけっこうな地位で活躍しているようだ。女の子が1人生まれ、家族揃って海外転住をしている。上海は治安こそよくないが、しっかりした学校も病院もあって、日本と同水準の生活を送ることができるとメールに書いていた。いずれは東京に戻って自分の会社を立ち上げたいのだと。
 すると、隣で奈月が、「ああ、なつかしいなあ」と声を上げた。ふと我に戻った僕は、奈月と一緒に山門をくぐり、須磨寺の境内に入った。参道の奥には本堂の屋根が見える。やはり陽光に照らされている。

キラキラ 24

 目の前に車が停まった。見ると、フォルクスワーゲン・コラードだった。奇しくも僕が学生時代に乗っていたのと同じものだ。コラードは、ワーゲンの作ったスポーツ・クーペで、そのデザインと独特の走行感覚に夢中になってしまった僕は、必死にアルバイトをして、好条件の中古車を手に入れたのだ。
 それからというもの、生活ががらりと変わった。遊ぶにも、アルバイトをするにも、行動範囲がぐんと広がり、少し大げさに言うと、世界が小さくなったのを感じた。今思えば、僕の自我はコラードと共に形成されたような気もするくらいだ。
 そんな思い出を辿っていると、コラードはブレーキランプを点灯しながら駐車場へと入っていった。すると、奈月が歩みを止めて、「つきましたね。なつかしいですね」とさわやかに言った。ふと見渡せば、僕たちは須磨寺の前に着いていた。
「それにしても先輩、さっきからずっとそれ読んでますよ。何かに取り憑かれたみたい」と奈月はしおりを指さして言った。僕は、「その通りだ。何かに取り憑かれた話だ」と返した。奈月はうちわをあおぐのを止めて、「ひょっとして、ほら、あの人、えっと、六条御息所の話ですか?」と言ってきた。
「すごいねえ、まさにビンゴだ。今読んでたのは、須磨に流された光源氏が都に残してきた女性たちの話で、藤壺、朧月夜、紫の上、花散里、そして六条御息所が順番に登場したんだ。それで、ちょうど今、葵の上が物の怪に取り憑かれて絶命してしまったところだ」
「東山君、好きでしたからね、六条御息所」
 奈月はそう言い、境内へと入る橋に足を踏み入れた。真夏の日差しが風景全体に降り注いでいて、御堂の屋根や背景の山々にきらめきを与えている。クマゼミの声はさらに近くなった。
「でも、ちょっとおそろしい女性だよね、六条御息所は」と僕が感想を述べると、奈月は平然とした口調で「女性はおそろしいものなんですよ」と言ってのけた。

キラキラ 23

「・・・あれほど愛してくれていたはずの光源氏が、賀茂祭の時には自分を無視するような態度をとった。六条御息所は、そのことをどうしても受け容れることができなかった。あの一件以来、彼女は浅い眠りの中で、夢を見るようになった。葵の上が綺麗な姿をして、光源氏の部屋へと入ってゆく夢だ。すると、彼女には、普段の気持ちとはまるで違って、荒々しくて恐ろしい、一途な気持ちが沸き起こってきて、葵の上を乱暴に揺さぶったりするのだった。ふと目が覚めて我に戻った時、世間で言われるように、自分の魂が身体を捨てて出て行ったのではないかと、狂いそうになることが度重なった。
 光源氏のことを忘れてしまいたい。六条御息所は何度もそう思った。だが、忘れてしまいたいと思うこと自体が、光源氏に強く縛られることだった。
 そうしているうちに、葵の上は産気づいた。だが、物の怪に取り憑かれていて、比叡山の僧侶たちが祈祷を行わなければならなかった。
 葵の上は、周りにいた者に、光源氏と2人きりにしてほしいと願い出る。自らの死を悟り、最期の言葉を交わすのだろうと、彼らは後ろ髪を引かれながらも部屋を出てゆく。そこで源氏は、妻に必死に投げかける。深い縁がある2人は、生まれ変わっても必ずまた会うことができるのだと。すると、葵の上だと思っていた女の口から、意外な言葉が発せられる。
 
『かく参り来むともさらに思わぬを、もの思ふ人の魂はげにあくがるものになむありける』
(こんな形で参上するつもりは全くなかったのですが、もの思いに悩む者の魂は、本当に身体を離れてさまよい出るものでした・・・)

 それは、葵の上に取り憑いた六条御息所だった。彼女は、光源氏に人なつっこい目を向けて、なつかしそうに言った。魂だけが抜け出して、会いに来てしまったのだと。
 物の怪に取り憑かれた葵の上は、男児を産んだ後、あっけなくこの世を去ってしまう」

キラキラ 22

 須磨寺に近づくにつれてクマゼミの鳴き声も盛んになった気がする。千年前からずっと続いているお経のように、荘厳な感じで辺りに響き渡っている。僕は、しおりから目が離せないでいる。
「・・・光源氏と出会ってからというもの、独り言の多くなった六条御息所は、『あくがる』という言葉を漏らすようになる。『魂が身体から抜け出して宙をさまよう』という意味だ。この言葉は、時を経た今も、『あこがれる』という言葉になって残っている。
 六条御息所は、きわめて慎み深い女性だ。世間の目を気にし、恥をかいて『人笑へ』にならぬように、それでも品位を保ちながら、皇太子との間に生まれた娘と暮らしていた。ただ、そんな彼女だからこそ、内に秘めた恋心は激しかった。
 折しも、源氏は、葵の上と初めての結婚をしたところだった。だが、源氏にしてみれば、2人での暮らしは、何かと気詰まりも多かった。妻は、父の身分も気位も高く、心を閉ざしがちだったのだ。
 そんな生活にあって、葵の上は懐妊する。この若妻に嫉妬する女性たちの中、六条御息所も内心おだやかではなかった。彼女は、葵の上の懐妊以降、源氏の態度が冷淡になり、連絡も途絶えがちになったことが苦しくてたまらなかった。やり場のない苦悩に、毎晩、人知れず、胸を焼き焦がしていた。
 4月の賀茂祭の際に、光源氏が行列に参加することを知った六条御息所は、その姿を一目見たいと切願し、密かに牛車を出した。だが、一条大路はすでに車であふれ返っていて、簡単に前に出ることができない。すると、葵の上一行の牛車が強引に押し寄せてきて、何も見えない奥の方に追いやられてしまった。人目を忍んで出てきたことをはっきりと気づかれたうえに、車まで壊されてしまう始末だった。大衆の面前で赤っ恥をかかされたことが、この上なく、みじめだった。
 それ以降、六条御息所は、葵の上を恨むようになる。こんなことではいけないと頭では分かっていた。でも心が言うことを聞かない。世間では、六条御息所の魂が生霊となって出産を控えた葵の上に取り憑いているという噂さえ流れだした。彼女は『あな心憂や』(なんとつらいこと)と嘆きつつ、さらに孤独な毎日を過ごす」
作者

Author:スリーアローズ
*** 
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