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キラキラ 80

 奈月のその言葉は、僕の心を温めた。さっき彼女は、今のこの瞬間を「なつかしい楽しさ」だと表現したが、僕もあの頃のことがなつかしく感じられてきた。前回東山とこの明石へ来たとき、僕は幸恵の問題を抱えていた。今頃幸恵は何をしてるだろう、BMWに乗って主人とデートに出かけているだろうか、そんな妄想を駆け巡らせては胸を痛めていた。奈月の言うところの「最悪の場合」だった。
 だが、今、いろんなことを総合して顧みると、あの時は楽しかった。アパートに帰れば麻理子がいて、大学に行けば東山も奈月も、そしてサークルの仲間たちもいた。皆に囲まれている間は、後先のことを考えずに、ただ目の前にあることを純粋に楽しんでいればそれでよかった。
 この旅は今日で終わる。明朝が来れば奈月とはまた離ればなれになる。次に会うのはいつになるかわからない。ひょっとして、もう2度と顔を合わせることはないかもしれない。それでも、今、僕は間違いなく楽しい。明石海峡大橋を超えた途端に、心を元気にするスイッチが入ったままだ。それは、計画段階よりも「出たとこ勝負」の旅を楽しむ、僕ならではの心の動きなのかもしれない。いずれにせよ、今感じているものこそ、学生時代にいつも手に届くところにあった楽しさだ。
 一方で奈月の方は、さっきから東山のことを考え続けている。時折見せる暗さはそのせいだと想像する。また彼女は、来るべき結婚生活にも一抹の不安を抱えてもいる。奈月はほんとうの意味において東山と決別し、新たな結婚生活を踏み出すためにこの旅を計画したのかもしれない。ただ、そんな奈月も、今が楽しいと言ってくれた。僕たちの心は、一番大切なところでつながっている。
 そんなことを考えていると、奈月は「すごく楽しみにしたり、憧れていたことでも、いざ蓋を開けてみれば大したことはなかったっていうのは、よくあることですよね」と僕の心に寄り添うような言葉を真顔でつぶやきかけてきた。「でも、今日ばかりは、ずっとワクワクしてます。ああ、私が過ごしたかったのはまさにこんな時間だったんだって。今が夢みたいですよ、ほんとのところ」
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キラキラ 79

 すると奈月は「ん?」と声を出し、その黒々した瞳で僕の顔を覗き込むようにして「何考えてるんです?」と聞いてきた。
「いや、奈月が、帰りたくないとか言うもんだからさ、俺も感傷に浸ってたんだ」と僕は応えた。
 奈月は、彼女らしい笑顔を浮かべながら前を向き、「私、思うんですけどね」と話し始めた。
「たとえば、旅行に出る前に計画立てるじゃないですか。その時に2つのパターンの人がいると思うんです。1つは、計画を立てる段階でわくわくして、そのプロセスが楽しいと思う人。地図を見たり、インターネットで調べたり、『るるぶ』を眺めたりして、旅行の日を心待ちにする人、いるじゃないですか?」
「いるね。っていうか、だいたいの人がそうじゃないかな」と僕は応えた。
「でも、逆に、旅行に行くと決めてからもそんなに周到な準備をせずに、直前になってようやく動き始める人だっているでしょ。出たとこ勝負の旅を楽しむ的な人」
「いるね。たとえば、まさに俺がそのタイプだ」
 僕がそう応えると、奈月は「逆に私は、1つ目のタイプですね」と言い切った。
「ただ、ここからが問題なんですけど、私みたいに計画段階で楽しむタイプって、旅行が始まった途端に寂しくなっちゃうんです。さっきの『境界』の話とつながってるかもしれませんが、せっかく楽しみにしていた旅行がもう終わっちゃう、また、もとの現実に戻っちゃうって思うんですね」
「なるほどなぁ。じつに豊かな感受性だな」
「もっとつらいのは、実際の旅行の方が、計画してた時よりも楽しくないってこともあるんです」
 僕はうちわをあおぐ勢いを緩めて彼女の横顔を見た。
「一緒に行った人と意見が合わなかったり、喧嘩したり、もっと最悪の場合、旅行中ずっと誰か他の人のことを考え続けてたり。その点、今日の旅は、計画も楽しかったし、旅自体もそれ以上に楽しいです。だからこそ、帰りたくないなぁって、心の底から寂しくなりますね」

キラキラ 78

 じつは僕も奈月と同じことを考えている。この旅はきっと忘れられないものになる、できればもう少し奈月と一緒に旅をしていたいと。だが、時間は許してくれない。彼女は明日の早朝の新幹線で佐賀に帰らなければならない。じきに結婚を控える身だ。きっといろいろな準備があるのだろう。
 僕と奈月は、そうやって各々の思考に沈みながら、明石川沿いの歩道をゆっくりと進んだ。海上の空は薄く青く、河口の方からは生ぬるい潮風がクマゼミの鳴き声とともに運ばれてくる。
 背中にはぐっしょりと汗をかいている。それで僕はショルダーバッグに差し込んでいたうちわを取り出してあおぎはじめた。佐賀のバルーンフェスティバルの写真が描かれたうちわだ。きっと奈月はこれからもずっと、故郷の青空に高く舞い上がる色とりどりのバルーンに心を躍らされることだろう。誠実な主人と一緒に、何年か経てば、かわいい子供を抱きながら、家族揃って空を見上げるのだろう。
 かたや、今の僕には、奈月のようなあたたかい未来予想図を描くことなどできない。東京に出てから気の合う女性と出会ったが、この人と結婚するかというと、話は別だ。そもそも、自分が円満な家庭生活を送っている光景が、どうしても想像できない。
 大学生の頃、できることなら1人きりで生きたいと願ったことがある。麻理子と出会う前も、別れた後もそう思った。中国の仙人のように自分だけの桃源郷を切り開き、その中で生活を完結させることができればどれほどすばらしいだろうと憧れた。誰も僕を理解できない。つまり僕は万人の理解を超えるほどにデリケートな存在なのだ!
 だが、あれから10年近くたった今、僕は東京のど真ん中で、数え切れない人々にもまれながら暮らしている。そろそろ僕も、自分の人生と真剣に向き合わなければならない時期にさしかかっているのだろう。そんな現実に直面する時、「ありふれた幸せ」を手に入れることがどれほど難しいことかが身にしみてよく分かる。そう考えると、奈月の横顔は、僕にとっては、偉大にさえ見えてくる。

キラキラ 77

 僕は奈月の言葉に返答するだけの、自分の言葉をもたなかった。たしかに、彼女の言う通り、僕は境界にこだわりをもっているのかもしれない。
 僕はどちらかというと、物事には境界はないという、どこか曖昧な捉え方のもとに生きてきたように思う。たとえば、過去も現在も未来も自分の中でつながっている。すべては僕の中にある。もう少し言えば、世界だって僕の中にある。だから、僕の消滅は世界の消滅を意味する。それが僕の考えだ。
 とはいえ、必ずしも一筋縄にいかないのが人生でもある。奈月の言うように、現実には、自分と切り離してゆくものだってある。そうしないと、先に進めなくなったりもする。境界線を引くのはそんな時だ。苦しい現実に直面するたびに、友達から離れ、愛する人と別れ、過去を断ち切り、考え方を修正し、何とかここまで生きてきた。「境界には寂しさがつきまとう」という奈月の言葉も、だいたいそんなことを言っているのだろう。
 ふと奈月の横顔を見下ろす。おだやかな表情をして潮風に髪をなびかせている。僕の視線に呼応するかのように、彼女はこう言った。
「でも今、私、すごく安心してますよ」
「何が?」と僕は聞いた。
「境界線を越えて、もう2度と戻ることがないと諦めていた過去を、取り戻した気がしてるんです」
 そう言って奈月は僕の顔を見た。そうして、汗で額に張りついた前髪を、左手で払いのけて、「なつかしい楽しさですね」と続けた。彼女に対して何か言おうとしたら、思わず笑みだけがこぼれた。
 僕たちは堤防から降りて、川沿いの歩道を河口の方に向かって南下した。再び地図を広げて現在地を確認している横で、奈月は「あやうく迷いかけましたけど、なんとか着きそうですね、明石の入道のおうちに」と言った。それから少し歩いた後で「絶対忘れられない旅になるだろうなぁ。帰りたくないなぁ」と小さくもらした。

キラキラ 76

 僕たちは堤防の上に登って、河口の光景を眺めた。奈月は「雄大ですねぇ」と感嘆を漏らした。
「大きい海だ。瀬戸内海とは思えない」と僕も共感した。さっき見た須磨の海も同じように大きかった。須磨と明石は海によってつながっているという自明の事実を肌で感じることができる。光源氏を乗せた明石の入道の舟は、神風にあおられて、この浦づたいに辿り着いたのだ。
 そうやって海を眺めていると、ふと幼い日の記憶が甦ってきた。僕は「初めて河口を見た時のことを思い出すよ」と記憶を口にした。奈月は「河口、ですか?」と、僕と同じ方向を見ながら語尾を上げた。
「小学生の時に、通学路に流れる川の終着点がどうなっているのか知りたくて、ひたすら自転車を走らせたことがあるんだ」と僕が言うと、「なんか、先輩らしい」と奈月はやわらかく返してきた。
 あれは稲穂の薫る秋の夕方だった。心地よい風に吹かれながら、僕は夢中でペダルをこいだ。そしてついに、川が海へと流れ込んでいる地点を目の当たりにした。太陽はずいぶんと傾き、川と海の境目あたりに夕日が映り込んでいて、水面がオレンジ色に揺らめいていた。僕はただ息を呑むばかりだった。
「先輩って、境界にこだわりがある人なんですね」と奈月は、いきなりそんなことを言ってきた。「さっきも、明石海峡大橋を通る時に何かの境界を越えた気がしたって言ってたし、昔から須磨と明石の間には境界があったという話をした時にも、興味深く聞いてましたし」
 僕にとっては、意表を衝かれる指摘だった。
「私なんて、物事を深く考えない人間なので、先輩みたいに繊細な感覚を抱くことなんてないままに生きてきたけど、それでも今になって、少しずつですが、いろんなことを考えるようになりました」と奈月は言い、潮風に目を細めた。「なんて言うんだろ。境界には、寂しさがつきまといません? たとえば、過去って、今とは完全に切り離されたもののように感じることがあるんです。境界を越えて、もう2度とは戻ってこないようなもの。そんな過去をなつかしむ時、胸がつまって、泣きたくなります」

キラキラ 75

「ムスメオモイ?」と僕は奈月の言葉をおうむ返しのように反復した。すると奈月は「ですね」と軽やかに言って、今閉じたばかりのしおりを白いバッグの奥にしまいこんだ。
「たとえば、高潮が怖いからという理由で、娘たちを浜辺の館から岡の麓の家にわざわざ引っ越させたりもするんです。60歳に近い入道の唯一の心残りは、ズバリ娘のことだったんです」
「なるほど」と僕はつぶやいた。「つまり明石の入道にとっては、光源氏の出現は願ってもないチャンスだったわけだ。それできっと、源氏と娘は結ばれていくんだな」
 すると奈月は、にんまりとした笑顔をつくり、「さすが先輩、鋭い洞察ですね」と言った。「でも、そう簡単には話は進まないんです。源氏と、明石の入道と、それから娘である明石の君の間には微妙な駆け引きがあるんです」
 そう言った直後に奈月はふっと真顔に戻り「ところで先輩、今、どの辺りを歩いてます?」といきなり質問を変えてきた。僕は慌てて地図に目を落とした。さっきのタバコ屋で左に曲がったのはいいが、どうやら手書きの地図には描かれてはいない細い路地に入り込んだらしい。それで僕たちは再びもとの広い道に出ることにした。クマゼミの声が耳のすぐ近くで響くように感じられる。
「この道をまっすぐ進めば、明石川が見えてくるはずですね」と奈月は僕の広げた地図を見ながら言った。「あの時は東山君についていくだけだったから、何にも覚えてないですね。こんな道、通ったかな?」
 奈月はそうは言うが、僕にはこの道の記憶は残っている。あの時も今日みたいに日差しが強く、東山はできるだけ影になっているこの通の軒先を選びながら進んだのだ。釣具屋があり、えさ屋があり、鮮魚店がある。どこも味わい深い店構えで、路地全体には磯の匂いがぷんぷん漂っている。あの時の思い出を踏みしめるようにしばらく歩き続けると、奈月が声を上げた。「あれって、橋じゃないですか?」
 橋のたもとまで歩くと、眼下には陽光を煌めかせた明石川が流れ、そのまま大きな明石湾へと注ぎ込んでいた。

キラキラ 74

「明石の街には独特の風情がありました。『浜のさま、げにいと心ことなり』って源氏は感慨を述べています。ただ、『人しげう見ゆるのみなむ、御願ひに背きける』ともあります。当時の明石は多くの人で賑わっていたことがうかがえますが、光源氏にとってはそれがいやだったようです。それほど彼はヒーローだったということです」と奈月は説明した。
「それから、明石の入道が住んでいた土地の記述がまた面白いですね。『入道の領じ占めたるたる所どころ、海のつらににも山隠れにも、時々につけて、興をさかすべき渚の苫屋、行ひをして後の世のことも思ひすましつべき山水のつらに、いかめしき堂を立てて三昧を行ひ、この世の設けに、秋の田の実を刈り収め残りの齢積むべき稲の倉町どもなど、をりをり所につけたる見どころありてしあつめたり』というわけです。明石の入道は、この町の受領階級の中でも、さらにドンみたいな人で、海にも山にも領有している土地があったと書いてありますね」
「受領階級?」と僕は聞いた。
「はい。ようは、税を徴収する人たちのことですね。国に雇われていましたが、自由な部分も残されていて、地方にいながらかなりの収入を得ていたらしいです。たしか、紫式部のお父さんもそうですよ」
「つまりブルジョワっていうわけだ」と僕が言うと、奈月はすぐさまこう話した。
「といっても、明石の入道は、ただの成り上がりとしては描かれてません。さっきの部分にも書いてあるとおり、海辺には海人の住む家である苫屋を作ったり、後の世でも浮かばれるようにと山水のほとりにひたすら念仏を唱えるための立派な三昧堂を建てたりもしてます。それに、余生のために米を蓄えておくための倉をたくさんこしらえたりと、堅実で何かと周到でありながら、風流のある人物として描かれてます。それになにより・・・」と奈月は言い、今まで熱心に読んでいたしおりをぱたりと閉じた。
「明石の入道は、娘思いなのです。胸が痛くなるくらいに」

キラキラ 73

 陽の当たる横断歩道をゆっくり渡りながら、奈月は話を続けた。
「明石の入道の付き人が『ともあれかくもあれ、夜の明けはてぬさきに御舟に奉れ』と叫ぶんです。その声を聞いて、源氏は4、5人の親しい従者と共に舟に乗り込みます。これは東山君から聞いたことですが、平安時代では、夜明けはタイムリミットを意味したらしいですね。男女が会うのももっぱら夜でしたから、朝は別れの時間だったのでしょう。この場面では、夜が明ける前に、秘密裏のうちに事を運ぼうとしたんですね。それほど光源氏はヒーローだったんです。明石の入道にしてみれば、神風に従って辿り着いた渚に光源氏が待っていたわけですから、ほんと、夢みたいだったでしょうね」
 横断歩道を渡りきった後、前方に明石港の看板を望みながら、僕たちは交差点を右へと曲がった。このエリアの道は細かい碁盤目になっているので、方向さえ間違わなければ目的地にたどり着けるわけだが、とりあえず大きな道を歩いておいた方が無難に思えた。この暑さの中、迷って後戻りはしたくない。
 それにしても、いつのまにやら地図を見るのは僕の役割になっていて、奈月は東山が作ったしおりに夢中になっている。日傘を持ってこなかったことの後悔さえ、彼女は口にしなくなっている。奈月があまりに下ばかり向いて歩くものだから僕は何度か彼女の肩を持って、向こうから歩いてくる人や自転車とぶつからないようにしなければならなかった。それでも、だんだんと西へ進むにつれてすれ違う人の数も減ってきて、歩道はいつの間にか、僕と奈月だけのものになっていた。
 軒先に緑のカーテンの垂れ下がったタバコ屋のある交差点を左に曲がった時、奈月は再び話し始めた。
「源氏を乗せた明石の入道の舟は、ぐんぐん進みます。『例の風出で来て、飛ぶやうに明石に着きたまひぬ。ただ這ひ渡るほどに、片時の間と言へど、なほあやしきまで見ゆる風の心なり』という具合です。つまり、前に明石の入道が話した不思議な風がまた吹いてきて、あっという間に明石に運ばれちゃったっていうわけです。須磨から明石まで、ワープした感じでしょうかね」と奈月はSF的な比喩を使った。

キラキラ 72

 奈月がそう言った直後に、歩行者信号が赤になった。それにしても、国道から1本入っただけなのに、この辺りは生活の匂いが身近に感じられる。狭い路地の割に人通りが多いのは「魚の棚」に近いからだろう。
「なつかしいなぁ、この場面、東山君にいろいろと教えてもらったなぁ」と奈月はしおりを読みながら、独り言のようにつぶやいた。「あの人、理学部じゃなくて絶対に文学部に入るべきでしたね」
 奈月の声を聞きながら、僕は地図に目を落とした。明石の入道の邸宅跡である寂光院へ行くは、まだまだ何度も角を曲がらなければならない。前方には「淡路島行きフェリー」という青い看板が見える。あれが明石港だ。寂光院は、港からずいぶんと西に離れている。僕が地図を見ている横で、奈月はしおりの解説を再開した。
「舟に乗って現れた明石の入道は『去ぬる朔日(ついたちのひ)に、さまことなる物の告げ知らすることはべりしかば』と語ります。去る1日のこと、夢に不思議な姿の者が出てきて私に知らせてくれたことがありました。入道はそう言ってます。そして『舟出だしはべりつるに、あやしき風細う吹きて、この浦に着きはべること、まことに神のしるべ違はずなん。ここにも、もし知ろしめすことやはべりつらんとてなむ』と続けてます。お告げに従って舟を出したところ、不思議な追い風が細く吹いてきて、この須磨の浦にたどり着きました。本当に、神のお導きにちがいないでしょう。もしかして、あなた方のほうでも、同じような導きがなかったですか。入道はそう問いかけてきたんです」
 奈月の説明を聞くと、再びSFの世界に引きずり戻されたような錯覚を感じた。陰陽師、荒れ狂う海、竜王、雷、桐壺院の亡霊、そして星。明石の入道という人物はそんな世界から風に乗ってやってきたわけだ。
「入道の話を聞いた光源氏は、予期せぬ出会いに神がかり的なものを感じ、しかも尊敬する亡き父の忠告にも合っているので、入道の言葉を疑いませんでした。それどころか、むしろ須磨で孤独にうちひしがれていた中での助け船のように思われるんです。たしかに、全てから拒絶されたと感じた時、誰かに声をかけられると、それだけで救われた気がしますよね」と奈月は言った。すると、信号が青に変わった。

キラキラ 71

 奈月がしおりに目を落としている間、僕は彼女から観光地図をもらってそれを見た。手書きで細かく描かれた、なかなか味わいのある地図だった。
 それによると、町の真ん中には明石銀座という通が南北に走っていて、その付近に「魚の棚」商店街がある。ここは明石観光の中心地なのだが、あの時東山は全く興味を示さなかったので、僕も奈月も足を踏み入れずじまいだった。
「魚の棚」の南には明石港があり、淡路島へ行くフェリーの発着場になっている。その明石港の東側には市役所などの施設や、日本の標準子午線が走っている地らしく、様々なモニュメントがあったりする。
『源氏物語』にまつわる寺は明石港の西側に集中している。この地図を見る限りでは、明石を訪れる観光客の多くは港の東側に行くものと想像できる。つまり、僕と奈月は、あまり人が足を運ばない西側のエリアに向かっているというわけだ。
 すると、さっそく大きなタコの絵が現れ、「魚の棚」という看板が現れた。奈月は活気ある商店街の中にちらっと目をやった後、「もし時間があったら、後で行きたいですね」と言った。僕は「いいよ。この旅の主役は奈月だって、さっきも言ったぞ」と応えた。彼女はしおりから目を離し、僕の方を見て笑った。いくら日陰を歩いているとはいえ、こめかみの辺りには露のような汗がにじんでいる。
「ところで」と僕は話題を変えた。「光源氏はどうやって須磨からここまでたどり着いたんだろう?」
「そうなんです。今、ちょうどそこを復習してるんです」と奈月は返し、しおりに書かれた内容を簡単に解説してくれた。「須磨の邸に雷が落ちた夜、光源氏の夢枕に桐壺院が立ち現れて、早く須磨を去るために渚に船を出すように告げたんですよね。すると、翌朝、荒波の中を小舟が寄ってくるんです。乗っていたのは明石の入道という人物の一行でした。これが、源氏の人生を変えた、次の出会いだったんです」

キラキラ 70

「えっと、明石の入道の邸宅っていうと・・・」と奈月は歩きながら観光地図を広げ、その上を指でなぞりながらそう言った。「たしか、ここの、戒光院っていうお寺でしたね」
 横から地図を覗き込むと、その寺は明石川の河口に近いところ、町の南西にある。
「明石は須磨よりも範囲は狭いけど、こうして見てみると、なかなか入り組んでるね」と僕は地図を見ての感想を述べた。「あの時は東山の後をついて歩くだけで何も考えてなかったけど、いざ自分たちだけで行くとなると、道に迷ってしまいそうだ」
「でも、その分、発見もたくさんありますよね。人任せじゃないってことは、ちょっと心許ない感じもしますが、後で振り返ると、そっちの方が絶対楽しいと思います」と奈月は軽快に応え、地図を持たない右手でハンドタオルを取り出して耳の後ろにあてがった。「あーあ、何で日傘忘れちゃったんだろ」
 僕たちは日差しを遮るために国道を渡り、店の軒が並ぶ路地へと進んだ。奈月はできるだけ日陰になっているところを歩きつつ、「地図を見ながら進まないと、先輩が言うように、迷っちゃいますね」とつぶやいた。古い釣具屋の店先を歩く時、入口のガラス戸に僕と奈月の姿が映っていた。学生時代、この子の隣には必ずと言っていいほど東山がいた。でも今は僕がいる。まるで、東山の写真の上に僕の写真を無理矢理貼り付けたような、違和感のある構図だ。すると、ガラスの中の奈月がガラスの中の僕に話しかけてきた。
「先輩、もう一度、しおりを見せてもらえません?」
 僕はショルダーバッグの中からそれを取り出し、奈月に手渡した。釣具屋の先には仏具屋がある。やはり僕と奈月の姿はガラス戸に映っている。奥に鎮座してある金色の仏像の前を横切った時、線香の匂いがほんのりと漂ってきた。
「光源氏が明石に辿り着いた時の情景を復習しとこうと思って」と奈月は言い、しおりをめくった。

キラキラ 69

 JR明石駅前には、一般的な地方都市に見られる夏の昼下がりの光景が広がっていた。バスターミナルがあり、のんびりと乗客を待つタクシーがいる。大きな広告を貼り付けたビルが並び、国道2号には車たちがのそのそと走っている。歩道を往来する人もまばらだ。
 だがそのありふれたはずの光景は、奈月の目には特別な輝きを放つようだった。彼女はロータリーの前で足を止めて、駅の案内所でもらった明石の観光地図を太陽にかざしながら、「思い出しますねぇ、いろんなことを」と感慨深げに言った。「あれから、だいぶ時間が経っちゃいましたね」
 そんな奈月の後ろ姿を静かに見守っていると、赤信号で古いフォルクスワーゲン・ビートルが停車した。クラシカルな黒い車体は、くぐもったエンジン音を轟かせながら陽光を反射させている。僕はさっき須磨寺の前で自分が乗っていたのと同じフォルクスワーゲン・コラードを見たことを思い出した。東京でもめったにお目にかかることのない車をこの旅の途中で見ることに、何やら不思議なつながりを感じる。もう少しで忘れることができると思っていた幸恵との時間が、どうしても甦るのだ。
 奈月が僕をこの旅に誘ってくれた時、彼女の独身時代に終止符を打つ旅になるのだろうと想像したが、どうやら僕にとっても意味深い旅になりそうだ。それがどんな意味なのかは予測もつかないけど。
 そんなことを考えていると、奈月はくるりと振り向いて、「じゃあ、行きましょうか」と言ってきた。「前回巡ったところをもう一度訪ねたいんですけど、先輩もそれでいいですか?」
「もちろんだ。今回の旅の主役は奈月だから」
 僕がそう応えると、奈月は「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。
「じゃあ、まずは、明石の入道の邸宅跡ですね」
 観光地図を広げた奈月はそう言い、さっそく西へと歩き始めた。歩道に目を落とすと、そこには大小2つの影ができている。奈月の少し後ろを歩く僕の影は、背の低い彼女の影に重なっている。

キラキラ 68

 列車が人丸前駅を通過した時、「次の停車駅は、明石」と、渋い声のアナウンスが流れた。窓の外には住宅やオフィスが建ち並んでいる。ついさっきまで須磨海浜公園のベンチに2人で腰掛けて潮風に吹かれていたことが、まるで前世での出来事のようにさえ感じられるほどに遠ざかっている。
 腕時計に目を落とすと、14時を回っている。西明石で奈月と再会した後、快速電車に乗ってこの辺りを通過したのは10時過ぎのことだった。だが、僕の中には4時間前の印象があまり残っていない。再会したばかりの奈月との話に夢中になるあまり、風景にまで目がいかなかったと言えばそれまでだが、それにしても、変な感じだ。大学時代の記憶は、はっきりと残っているのだ。
 今のこの旅を何年後かに振り返った時、どうなっているだろうかとふと考える。東山との旅のように、くっきりと心に刻まれているだろうか? それともはかない夢のように、淡く消えているだろうか?
 そんなことを考えているうちに、列車は速度を落とし始めた。すると、汗をかいた3人のサラリーマンの横で、スマートフォンの女子大生がすっと腰を上げた。彼女は立った後もなお、画面に目を落とし続けている。そこには将来の彼女についての重大な予言が記してあるかのようだ。
「着きましたね」と奈月が言った。久々に彼女の声を聞いた気がした。光源氏は星を味方につけていたという話をした直後に目元を覆っていた翳りは消え、この子らしい清涼感のある笑顔が戻っている。揃って席を立った時、右腕には奈月のぬくもりが余韻のように残っているのを感じた。
 自動扉の外に踏み出すと、熱気とクマゼミの声がシャワーのように降りかかってきた。影になったところを選んで歩きながら、奈月はまた「日傘を持ってくればよかった」と何度も漏らした。ホームからは、緑に囲まれた明石城が見える。誇らしげな姿だ。昔、明石は独自の経済活動を発展させていたと奈月は教えてくれた。城を見ていると、往時の賑わいの残響が今も感じ取られるような気がした。
 日差しは須磨にいた時よりもさらにまぶしくなっている。

キラキラ 67

 奈月はわずかに口を開けたまま、どこか神妙な顔をしてこっちを見ている。まるで僕の顔に古代人の彫った碑文でも刻まれていて、それを解読しているかのようだ。
「どうかした?」と若干身をのけぞらせながら聞くと、「そういえば、小早川先生の授業で、今先輩が言ったのと同じような話を聞いたことがあります」と奈月は答えた。
「神話に関する話?」
「いえ、神話っていうよりは風土にまつわる話でした。昔、近畿に住む人々にとっては、明石は異郷の地だったっていうようなことです」
「異郷?」
「ですね。明石って、畿内の外側に接しているために、独立した経済活動を発展させてきたらしいですよ。海産物や塩もとれるし、海上交通だって発達していたわけでしょ。おまけに、先輩が言うように、気候も良かったみたいですね。当時はずいぶんと賑わってたはずです」
 奈月はそう言って、後ろにまとめた髪に軽く手を当てた。窓の外に流れる風景の光と影が、彼女の身体の上を、走馬燈のように滑っている。
「たしか東山君から聞いた話だと思いますが、京都から見れば、須磨は畿内で一番遠い土地だったようです。比較的軽い罪を犯した貴族たちが流される地だったのは、そんな地理的条件があったのかもしれません。そう考えると、明石って、その須磨をさらに外へと踏み出した、まさに異郷への入り口みたいな場所だったんじゃないでしょうか」
 明石海峡大橋を過ぎた瞬間に何かの境界線を越えた気がしたのは、古くからこの土地に染みついている風土も関係しているのかもしれない。そんな想像を巡らせていると、「異郷の地って、なんだか竜宮城みたいですね」と奈月は付け足してきた。
「竜宮城は浦島太郎の世界じゃなかったのか?」と返すと、奈月はくすくすと笑いはじめた。その弾みで、彼女の小さな肩が何度も僕の腕に触れた。

キラキラ 66

 列車は大蔵谷駅に停車した。自動扉が開いた瞬間、滝廉太郎に似た男性はまっすぐに席を立ち、ウエストポーチをきちんと腰に巻き直してからクマゼミの鳴く外へと消えて行った。今まで男が座っていた席には、ワイシャツに汗を染みこませた3人のサラリーマンが揃って腰を降ろした。スマートフォンをなぞっていた大学生風の女性は、横目でサラリーマンたちに一瞥を与えた後、脚を組み直したように見せかけて、彼らから少し遠ざかった。そのうち列車が発車すると、奈月は路線図に目を向け、「次の次の駅が明石ですね」と言った。瞳の周りに染みついていた翳りは、窓から差し込む陽光にすっかり覆われている。
「私たちは西明石で合流したんだから、先に明石の街を巡っといて、それから須磨に行ったほうが合理的だったんですよね」と奈月は言い、ワンピースの裾を膝の方へ引っ張りながら「なんだか、行ったり来たりしちゃって、すみません」と申し訳なさそうに付け足した。
「あの時の旅を再現するっていうのが、今回のテーマなんだろ」と僕が返すと、奈月は「そういうわけでもないんですけどね」と薄く笑った。僕たちはこれから明石を歩いた後、夕方には京都へ入ることにしている。東山が計画した旅と同じ行程を辿っているわけだ。
「ただ、実際にこうやって移動してみると、わざわざ遠回りして、須磨から明石に戻ってくるというルートは、間違いじゃないような気がするね」
 僕がそう言うと、奈月は顔を上げて「なぜです?」と聞いてきた。
「須磨と明石って、近いようで、その間には目に見えない境界線があるような気がするんだ。うまく言えないけど、しみじみとした情緒のある須磨に対して、明石は太陽がさんさんと降り注ぐ街だ。だから、順序として、須磨から明石に移る方が、物語が前向きに展開していく。ひょっとして光源氏も、ここを渡りながら同じようなことを感じたんじゃないかって思ったりもするんだ」
 

キラキラ 65

 その夜の奈月の声色だけは、今でも耳の奥にはっきりと残っている。君は本当に奈月なのかと何度も聞き返すほどに、彼女は困憊しきっていたのだ。
「別に私、東山君と別れるって言ったわけじゃないんです。もちろん別れたくはないですよ。ただ、あの人がこの先どこに転勤するか分からないから、仕事の見通しが立つまでは、実家で父の介護をしようと思っただけなんですよ。それがまずかったですかね?」
 奈月はそう訴えた。僕には彼女の考えがよく分かっていた。だが、東山のこともよく知る立場から言えば、彼は奈月に大阪についてきてほしかったのだと想像した。恋人である自分よりも家族の方を優先されたような何とも言いようのない心持ちに東山はなったのだろう。
 一方で奈月は、普段はあまり表には出さなかったが、人一倍故郷思いだった。しかも小学校の教師になりたいという強い志を抱いてもいた。せっかく試験に合格しても、東山の転勤に付き合うことになれば、仕事を辞めなければならないのがつらいと漏らしていたこともある。奈月が東山と一緒に大阪に行くのをためらったのは、そこら辺の事情もあったはずだ。
 つまり、東山の仕事が落ち着くまでは親孝行をし、そうして試験勉強もしておくという奈月の判断は、バランスがいいように思われた。だが、その時幸恵のことでぬかるみにはまっていた僕には、それだけではすんなりいかないことにも気づいていた。そもそも男女の間には「適切なバランス」など存在しないのだ。
 だが、その夜の奈月にそんな言葉を投げたところで、彼女をますます混乱させるだけにちがいなかった。それゆえ僕は奈月の声をひたすら聞くことに徹した。2人ならきっと解決できるだろうとどこかでたかをくくっていたのだ。
 ところが、あれほど強い絆で結ばれたはずの2人だったのに、ほんの些細な喧嘩をして「ごめんね」という言葉が最後まで出せなかった。そうして大学を卒業した後で、そのまま散り散りになってしまった。すべてがあっけなく、すべてが嘘のようだった。

キラキラ 64

 奈月はそう言った後で、ため息混じりに微笑んだ。そうして、さっきまで東山のしおりを置いていた白い脚太ももの上で、指と指とを軽く組み合わせた。寂しげだった。
 光源氏に星が味方していたという物語は、彼女の心を少しは明るくしたはずだった。だがそれは、ほんの束の間のことだった。その理由は明白だ。奈月の心の中には東山がいるのだ。
 奈月と東山が別れたのは彼らが大学4年の時で、僕が一足先に大学を出て、予備校で働きだしてから2年後のことだった。あの時奈月がどれほど悩み抜いたかは、僕の想像を遙かに超えている。学生時代の2人はそれほど強い絆で結ばれていたのだ。にもかかわらず奈月は別れを選んだ。
 まだ2人が付き合っていた頃、奈月は大学を卒業した後で佐賀の実家に戻ることにしていた。父親が脳の病気を患って倒れてしまい、介護が必要になったのだ。奈月は4人兄妹の3番目だったが、長女は結婚して子供もいたし、次女は世界を飛び回る生活に明け暮れていた。下の弟は当時はまだ高校生だった。それで奈月はやむをえず、父親が1人で歩けるようになるまではと実家に帰り、介護をしながら彼女なりの将来の準備をするつもりでいた。
 そんなある夜、仕事から帰ってビールを飲んでいるところに奈月が電話を掛けてきた。東山と喧嘩をしたということだった。これまで何度もそういう場面があったんだから、そのうち時間が解決するよと僕は応えた。ところが、その時ばかりは、奈月の口から前向きな言葉は出てこなかった。
「なんだかよく分からないんですけど、今回は、自信がないんです」と奈月は力無く言った。「私の方から謝ろうとも思わないし、きっと東山君も、このまま何も言ってこないような気がするんです。私が佐賀に帰るって言いだしたのがいけなかったんですかね? 今から撤回した方がいいですかね?」

キラキラ 63

 それから奈月はしばらくの間、瞳の輝きを持続させながら、黙って列車に揺られていた。彼女の背後に顔を覗かせていた明石海峡大橋はいつの間にやら姿を隠している。とはいえ、橋を越えると同時に芽生えた新たな心だけは、ずっと僕を元気づけている。
 ふと列車内の情景に目をやる。天井から吊された広告がずらりと並んでいる。大学の広告もあれば、新型の液晶テレビの広告もある。それから出入口の自動扉の上の小さなスペースには複雑に入り組んだ路線図が押し込んである。視線を目の前に移すと、デニムのショートパンツを穿いた女性が、不確定な自分の将来の行方を占うような手つきでスマートフォンをなぞっている。おそらくは大学生だろう。その隣には滝廉太郎によく似た初老の男性が背筋を伸ばして鎮座している。彼は思い詰めた目つきで空間上を見つめている。そこに書きかけの楽譜でもあるかのようだ。僕は数十年ぶりに小学校の音楽室を思い出した。古い楽器の匂いのする教室の後ろには音楽家の肖像が飾られ、左端にはJ.Sバッハ、右端には滝廉太郎がいる。あの時僕はまだ無邪気な子供だった。
 改めて、車内の情景を大きく見渡す。普通列車ということで乗客はまばらだ。そんな彼らの後ろを、日差しをたっぷり含んだ風景が軽やかに流れてゆく。
 僕には今の状況が何か特別なものに思えて仕方がない。この列車の中が、まるで世界の縮図のように感じられる。なにより、すぐ隣に奈月がいるという事実が奇跡のように思える。
 奈月は依然として前を向いたまま静かに座っている。「何だか、俺もすごく楽しくなってきたよ」と言葉を掛けようとしたが、直前で思いとどまった。さっきまで目を輝かせていた彼女の横顔に、いくぶんか翳りを見て取ったからだ。すると奈月は「桐壺院の予言通り、光源氏には次の出会いが待ってたんですよ」とさっきの続きを話し、その後で唇をきゅっと噛みしめた。どうやら僕の読みは的中したようだ。
「それは、光源氏にとっては、大きな出会いでした。引き合わせたのは、明石の入道という人物でした」 

キラキラ 62

「桐壺院は光源氏に、このまま須磨の渚に身を棄てるなどもってのほかだと言って、たしなめます。『これはただいささかなる物の報いなり。我は位に在りし時、過つことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世をかへりみざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るに、たへがたくて、海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上りぬる』って」
「で、訳すとどうなるの?」と僕は聞いた。
「今お前が須磨にいるのは、ほんの些細なことの報いだからあまり気にするなっていう話です。自分も帝として政権を握っていた時には、失敗こそなかったが、知らず知らずのうちに犯した罪があったので、死後はそれを償うことでこの世のことをかまう暇がなかった。でも今お前がひどい苦しみに沈んでいるのを見ると、我慢できなくなって、海に入って、渚に上って、はるばるここまで来たわけだ。それでずいぶんと疲れてしまったが、今の朱雀帝に言わなければならないことがあるから、これから急いで都に上るのだ。そう言い残して、源氏のもとを去ります。人生経験を踏んだ父親らしい言葉ですね」
「海に入って、渚に上ったってことは、嵐を巻き起こしたり雷を落としたりしたのは、竜王の仕業じゃなくて、桐壺院だったってこと?」と僕は素朴な疑問を口にした。
 すると奈月はしおりを閉じて、自分の白い膝頭の方を見つめながら「でも、原文にもちゃんと『竜王』と書いてあったので、さっき私が言ったように、竜王は桐壺院の化身だったってことだと思います。それより大切なのは、すべては住吉の神のもとに起こっているってことじゃないでしょうか。住吉の神は、星との関わりが深いんです。すべては星の下の出来事なんですよ、やっぱり」と言った。
「桐壺院は、光源氏が自分の妻だった藤壺と過ちを犯したことさえも『いささかなる物』だと言って許してるんじゃないでしょうか。人生とは、お前が考えるよりも、もっと深くて大きいものなんだぞって。だから、そんなところでくよくよしてる場合じゃない。次の出会いが待ってるんだって」
 奈月は、文字通り、目を星のように輝かせてそう言った。

キラキラ 61

 明石海峡大橋を過ぎてからというもの、依然として、夢から覚めたような感じにとらわれ続けている。いや、逆に、新たに夢の中に入り込んだのかもしれない。いずれにせよ、心の中が元気になっている。さっき奈月が、ある時急に楽しくなることがあると言っていたが、もしかすると、今がその瞬間なのかもしれない。
 列車が明石に近づけば近づくほど、雲は晴れ、空は明るくなってゆく。この空の色は今の僕の心を映し出す鏡のようだ。
「ねえ、先輩」と奈月は語尾を上げた。「やっぱり、しおり見せてくれません?」
 彼女はさっきの須磨の海のようにおだやかな表情をしている。
「光源氏が須磨から明石に移動する前に、桐壺院がどんなことを告げたのか、ちゃんと復習したくなりました」
 ショルダーバッグに入れていたしおりを手渡すと、奈月はそれを膝の上に置き、雑誌でも見るかのようにゆっくりとページをめくりはじめた。ボーダーのワンピースからは彼女の白い太ももが出ている。高校時代はたしか新体操の選手だった奈月の脚は、今でもひきしまっている。
「あ、ありましたね。さすが東山君、きっちり書いてます」と奈月はしおりに目を落としたまま言った。
「桐壺院は、大炊殿にいる源氏に向かって『などかくあやしき所にはものするぞ』って言ってますね。どうしてこんな見苦しい場所にいるのかってことです。そして『住吉の神の導きたまふままに、はや舟出してこの浦を去りぬ』と勧めてます。それに対して源氏は『かしこき御影に別れたてまつりにしこなた、さまざまな悲しき事のみ多くはべれば、今はこの渚に身をや棄てはべりなまし』と応えてます。お父様が亡くなってから悲しいことばかりなので、今はもう少しこの渚に身を棄てておきたいのですと」
 そこまで読んだ後で、奈月は短いスカートの裾を膝の方に引っ張った。僕の視線に気づいたのかもしれない。それでも彼女は、膝にしおりを置いたまま、ほんの少しだけおしりをこっちにすり寄せてきた。

キラキラ 60

 奈月はそう言い、黒くてまんまるとした瞳を僕に向けてきた。そして、唇の右端をきゅっと吊り上げて、「ね、なかなか面白いでしょ、この場面」と得意げに言った。
 彼女の背後では、淡路島とそこに架かる明石海峡大橋がゆっくりと遠ざかっている。橋を過ぎた瞬間に何かの境界線を越えたような感覚は耳鳴りのように続いている。これまで僕を取り囲んでいた「何か」が終わりを告げ、そうして新しい「何か」が始まった・・・
「その意外な人物っていうのは、じつは、桐壺院なんです」
 奈月は答えを言った。すると橋を眺めていた僕の視界は、再び彼女の顔でいっぱいになった。こめかみの辺りの化粧は汗で取れかかっている。列車内は冷房が効いているとはいえ、長いこと歩いて噴き出た汗はそう簡単には乾かないのだ。
「桐壺院っていうと、光源氏の父さんだったっけ?」
「ですね。安定した政権を築き上げた、尊敬する父です。桐壺院はこの時には亡くなっているので、その亡霊が枕元に現れたわけです」と奈月は教えてくれた。
「つまり、海を荒らしたのは竜王じゃなくて、桐壺院だったと?」と僕が聞くと、「ううん、そこの辺りは、私もよく覚えてませんが、たしか、竜王っていうのは桐壺院の化身として描かれてたんじゃないかと思います」と奈月は答え、僕のショルダーバッグから東山のしおりを取り出そうとした。
 僕は彼女の手を制して、「いいよ、しおりはさっき十分に読んだから、今は奈月の話を聞かせてくれよ」と言った。彼女は頬を少しだけ赤らめて、照れくさそうに笑った。学生時代の奈月のままだった。
「夢枕に立った桐壺院は、すぐに須磨を立ち去るように告げるんです。それで、源氏の決心は固まります。桐壺院は、弘徽殿女御との間の息子である朱雀帝よりも、光源氏の方を気にかけていた。つまり、亡き父もしっかりと味方についてくれてたってことです。そういう強い星のもとに生まれたんですね、光源氏は」と言った奈月の瞳には、ぐっと力が入った。
 

キラキラ 59

「英語で、すごい人のことをスターって言うじゃないですか」と奈月は静かに話を再開した。「私たちの周りでも、そんな星の下に生まれた人っていると思うんです」
 彼女のヘアリンスの匂いがふっと立ち上がる。シルバーのネックレスは、太陽の光に微笑むかのように輝いている。
「光源氏っていろいろと問題もあるけど、やっぱり、すごい星の下に生まれた人なんだってことが伝わってきます。弘徽殿女御に敵視されたり、好きな女性からも離れたりして孤独になるけど、星だけは味方してるんです。そういう意味でも、光源氏は魅力的な男性なんです」
「つまり、この場面を読むと、奈月は元気になれるんだね」
 僕がそう言うと、彼女は「ですね」と応えた。さっき奈月は、「縁がなかったから別れたのだ」という考え方はつらくなると漏らした。その点、星という世界観は、奈月にとっては、運とか縁よりも、おそらくは広くて大きくて、そしてずっとやさしいのだ。
「で、光源氏は、住吉神社の導きに従って、須磨から明石に移るわけだ」と僕は話を元に戻した。奈月は軽快に首を縦に振ってから、「ただ、住吉の神の導きに従うように仕向けたのは、じつは竜王じゃなくって、意外な人物だったんです」と続けた。
「意外な人物?」と僕が言うと、奈月は前を見ながら話した。
「竜王の巻き起こした嵐はなかなか止まずに、光源氏の住む屋敷の渡廊下に雷が落ちたんです」
「神がついにお怒りになったんだな」
「そうですね。で、光源氏の供人たちも、神に畏れをなして逃げ惑います。その夜は、寝殿に戻ることができなくなって、大炊殿(おおいどの)という、食堂のような部屋で一夜を明かすことになります。ひどく疲れてうとうとした源氏の前に、その意外な人物は現れます」

キラキラ 58

「陰陽師が浜辺で行ったお祓いが、海の中の竜王を呼び覚まし、嵐を巻き起こした。そうして夜には正体不明の者が現れて、光源氏を竜宮城に連れて行こうと捜し始めた」
 僕は話をそう整理した。すると奈月は、「ですから、竜宮城じゃないです。それは浦島太郎」と突っ込みを入れてきた。
「やっぱり、どう考えてもSFだな」と僕はさらに話を大ざっぱにまとめた。
「でも私、この場面好きなんですよね」と奈月は言い、ワンピースの胸元をきゅっと上げた。
「いずれにしても、光源氏は、その占いやら神通力やらに後押しされて、須磨を去る決心がついたわけだ。それで、結局、都に帰ったのかな?」と僕が言うと、奈月は唇を尖らせて、「先輩、私と話してても、楽しくないでしょ」とすねてきた。
「どうしたんだよ、急に」と僕は彼女の顔を見下ろした。ちょうどその時、普通列車は舞子駅に停車した。この駅は明石海峡大橋の真下に作られているために、駅全体が薄暗さに包まれている。
「だって先輩、さっきまで東山くんが作ったしおりに夢中になってたのに、私の話になると急に退屈そうな顔するんですもん。そのへん、東山君みたいで、嫌な記憶が甦ります」
 奈月はそう言って、また窓ガラスに頭をつけた。橋の影が彼女の額に落ちている。
「違うよ」と僕はすぐさま訂正した。「奈月があまりに目を輝かせて話すもんだから、ついつい茶々を入れたくなったんだ。今の話、面白いよ、実際のところ」
 列車はのっそりと動きだし、奈月の額にも日差しが当たり始めた。彼女は窓ガラスから頭を離して、僕の方に少しだけ身体を寄せてきた。
「そうか、須磨の後、光源氏は明石に渡ったんだね。そこのところを詳しく話してほしいな」と僕は言いながら、明石海峡大橋を過ぎるのと同時に何かの境界線を越えた気がしていた。

キラキラ 57

「つまり、紫式部は、淡路島にまつわる神話をしっかりと踏まえた上で、須磨の浦に竜宮城をつくりあげたというわけだ」と僕が言うと、奈月は「竜宮城じゃないですよ。それって、浦島太郎じゃないですか」とこっちを見ながら笑った。それから、恋人にでももたれかかるように窓ガラスに頭を付けた。
「先輩、占いとか、興味あります?」と奈月はまた話を少し逸らした。
「ないね。まったく」と僕は即答した。
「私って、雑誌の『今月の運勢』みたいなのも、ついつい本気で信じちゃうタイプなんです」と奈月は言った。「さっき、住吉神社の話をしたでしょ。大阪にあるんですけど、今でも竜王が祀ってありますね。あそこは、かなりのパワースポットですよ。運気が上がるのが分かります」
 そこも東山と一緒に行ったのだろうかと、僕は率直な疑問を抱いた。
「もともと住吉神社には、お祓いの神様、海の神様、和歌の神様が祀られていたと記憶してます。なので、光源氏が須磨の浦でお祓いをした際、和歌を詠んだ直後に、竜王が海を荒らしたというエピソードは、この住吉の神のしわざだと想像がつくわけです」
「でも、その時光源氏は、竜王は竜宮城からきたんだと思い込んでたんだろ?」
「ですね。住吉神社とのつながりが判明するのは、次の『明石』の巻になってからです」
 そう言って奈月は頭を窓ガラスから離し、シートにきちんと座り直した。
「じつは、海と星って、古くから関係が深いものとして捉えられてたようです。古代の人は、星は昼間は海の中に沈んでて、夜になると天に上ると考えてたんです。つまり、星は海の神である竜王によって司られてたというわけです。なので、陰陽師たちが浜辺で禊ぎを行う際も、海の中の竜王は意識されていた。なにせ彼らは星によって占うわけですから」

キラキラ 56

「さっき私は、光源氏に共感する女の子は少ないって言ったけど、じつは『源氏物語』の中にも、私の好きな場面はちゃんとあるんですよ」と奈月はさらに頬を緩めた。僕が想像を巡らせていた神の性交のシーンは、トントン拍子に進む奈月の話の前に、やむなく消滅していった。
「源氏が須磨に移った翌年の春、彼はわざわざ地元の陰陽師を呼んで、海岸で御祓をしてもらうんです。その日は海面もおだやかで、空も晴れていました。で、お祓いの合間に、源氏は和歌を詠みます。詳しくは忘れてしまったけど、八百万の神もこんな私を憐れんでくださるだろう、という意味の歌だったと思います。そしたら、どういうわけか、急に風が吹きはじめて、空も真っ暗になるんです。そのうち波も高くなって、とんでもない暴風雨が起こります」
「なるほど、いかにも神話的展開だな」と僕がコメントすると、奈月は軽く微笑んでうなずいた。
「雷も落ちます。ほら、『雷』って『神が鳴る』わけじゃないですか。平安朝の人々は、畏れおののきます。で、その夜になって、風も多少はおさまり、光源氏もうとうとしかけた時、突然『そのさまとも見えぬ人(正体の分からない人)』がやってきて『どうして宮からお呼びがかかっているのに、おいでにならないのだろうか』と、光源氏を捜しているんですね。それを見た光源氏ははっと目を覚まして、さては海の中の竜王が自分のことを見込んでくれているのだろうと洞察するんです」
「竜王?」と思わず僕は言った。まるでSFだ。
「大阪の住吉神社に祀られている神で、海の神ともいわれていますね。でも、住吉神社とのつながりは、後になってある人物が登場して初めて分かることです。この時光源氏は、彼が呼ばれている『宮』とは、竜王のいる竜宮だと思い込みます」
「まるで竜宮城だ。『源氏物語』の場面だとは思えないな」と僕が感想を述べると、「この神の導きによって源氏は須磨を離れるわけですが、私は対岸の淡路島の神話と関係があると、ずっと思ってました」と奈月は力強く言った。

キラキラ 55

「まあ、そうかもしれないな」と僕は、とりあえず奈月の論調に迎合しておいた。だが本音を言えば、光源氏の心情が分からないわけでもなかった。もちろん、彼のような恋愛スタイルを貫くことなどできない。ただ、愛する女性のことを狂おしいほどに思ったり、その人と結ばれないことに胸を苦しめたり、遠くにいる恋人のことを考えるあまり切なくなったり、そんな心情には共感できる。
 そうしていると、奈月は「今日は淡路島がくっきり見えますね」と、いきなり話題を変えてきた。このあたりがいかにも奈月らしいところだ。それで僕は、明石海峡大橋を視線でなぞって、その出発点である淡路島に目をやった。さっき須磨へ向かう時にはうっすらと靄がかかっていたが、今では島の緑が背景の青空をくっきりと切り取っている。
「淡路島は、伝説の島ですね」と奈月は頬を緩めた。「じつは私、卒論は神話の研究をしたんですよ」
「へぇ、それは初耳だな」
「ほら、小早川先生って、ラフカディオ・ハーンの研究をされてたじゃないですか」と奈月は回想した。小早川先生というのは、数年前に退官した僕たちの研究室の教授だ。「私は英語を勉強したかったんで、出雲神話とか古事記とか日本書紀とかの英訳を探したんです。そしたら、けっこういろいろ見つかって、おまけにキリスト教の文献にも特徴的な神話が出てきたりして、意外と研究が膨らんだんです」
 僕は、何事にも意欲的に取り組んでいた研究室での奈月の姿を鮮明に思い出した。彼女はいつもカジュアルな服を着て、髪を短くまとめていた。そうして必ずどこかに東山の影響を引きずっていた。
「イザナギとイザナミの2つの神が性交して『島産み』がされたって書いてあるのは、たしか古事記でしたね。で、最初に産まれたのが淡路島なんです。だからあの島は『国産み』の興りとされてるんです」
「なるほどねぇ」と僕は頬をかきながら、そもそも、神どうしが性交をするものだろうかと素朴な疑問を抱いた。

キラキラ 54

 そうしているうちに明石海峡大橋はぐんと近づいてきていた。僕たちは列車に揺られながら、しばらくの間、橋の巨大さを呆然と眺めた。
「私、じつは『源氏物語』あんまり好きじゃないんです」
 突然奈月がそう言ってきた。さっきからずっと『源氏物語』について考えていたような言い方だった。
「光源氏って、やっぱりどこかで都合がいい。もちろん、平安時代の恋愛のスタイルは今とは違うわけだけど、それでもやっぱり、納得できないところが多々ありますね。もっと1人の女性だけをストレートに愛せないんだろうかって。奥さんである紫の上なんて、すごくかわいそう」
 奈月は同情を込めてそう言った。
「それは、彼氏のいる女の子の意見だな」と僕は思ったことを率直に述べた。「やっぱり女の子って、彼氏には自分だけを見ていてほしいって、特に強くそう思うからね」
 僕は麻理子のことを思い浮かべていた。すると奈月は「やだ、先輩」とすぐに反応した。「先輩も光源氏の肩を持つんですか?」
 僕を問いただすような眼光に気圧されながら、「あ、いや、肩を持つとかそういうことじゃなくて、俺が言ってるのは、あくまで一般論だよ」としどろもどろに返した。だが、奈月は容赦なく畳みかけてきた。
「ひょっとして、麻理子さんと別れちゃったのも、他に恋人ができたからだとか言わないでくださいよ」
 いつも思うことだが、女の勘は本当に鋭い。
「だから、麻理子と『源氏物語』は一切関係ないんだ。繰り返すけど、あくまで一般論なんだ」と僕は逃げの一手を打った。奈月は訝しげな顔色をありありとにじませながら、言葉を続けた。
「私の考えですけど、光源氏への恋心に苦しむ女性に同情する人はいても、光源氏に共感する女の人はたぶん少ないと思いますよ。まして今の女子はなおさらですよ」

キラキラ 53

 あれから転勤がなければ、東山は上海のオフィスでスポーツウエアの繊維の開発に携わっているはずだ。奈月の想像通り、結婚式の時に見た都会的でスマートな感じの奥さんと、それから1人娘と一緒に、順調な海外生活を送っているだろう。
 奈月が東山の現況についてどこまで具体的に知っているかは定かではない。ただ、僕に何も詮索してこないあたり、あまり知りたくはないのだろう。まあ、当然のことだ。得することなど何もない。
 話を変えるために、僕は麻理子と別れることになったいきさつでも話そうかと思った。これまで幸恵とのことは誰にも打ち明けなかったが、奈月にだけは話せるような気がしたのだ。だが、奈月が東山のことを聞きたくはないのと同じように、僕だって幸恵のことを再び念頭に置きたくはない。いくら過ぎ去ったこととはいえ、口に出さずに封印しておきたいことだってある。微生物に分解されて、静かに土へと戻ってゆくのを待つ方がいいのだ。
 それで僕は、結局は何も口に出さぬまま、窓の外を眺めた。列車は長く続いた住宅地を抜け、その途端に海がぱあっと開けた。遠くには明石海峡大橋が大規模な軍事施設のように横たわっている。
 ふと気がつくと、奈月も橋を見ている。彼女は「なんだか、いろんなこと思い出しますねぇ」と漏らした。「地元で普通に仕事しているうちに、どんどん年を取ってゆくような気がしてましたけど、こうして旅に出ると、学生時代の自分は、すぐそこにいるんじゃないかって思っちゃいますね」
「年ばかり取るようだけど、実際のところ、俺たちは何も変わらないのかもしれないな」
 僕がしみじみと述懐すると、奈月はゆっくり小さくうなずいた。
「光源氏も、今の私たちと同じように、須磨から明石へと渡るんですよね。明石入道という人物が導いてくれるんです」と奈月は穏やかな口調で話題を変えた。「詳しいなぁ」と僕が言うと、奈月は「そりゃ、何年も東山君と付き合っていれば、いやでもそうなっちゃいますよ」となつかしそうに微笑んだ。

キラキラ 52

「そうだよ。結婚するってことは、『宿世』によって結ばれてたんだと思うよ。奈月はその人と2人で、幸せをつかめばいいんだ。東山なんか見返してやりなよ」
 僕はそんな言葉を掛けたかった。だが、須磨の海に向けられた奈月のガラス玉のような瞳を見た時、それは彼女の望む言葉ではないように思えてきた。
 もうじき結婚を控えているはずなのに、奈月からは幸福感が感じられない。結婚の話をすると、肩からは力が抜け、ため息がちになる。それで僕は、言おうとしていた言葉を引っ込めて、ただただ、その横顔を眺めるしかできなかった。そのうち、思いあふれて、妹のような奈月の髪を撫でてやりたい衝動に駆られた。「大丈夫だ、奈月は本当にいい子だから、他の誰よりも幸せになれる権利がある。天は奈月みたいな子を決して不幸にはしないから」と耳元でささやいてやりたかった。
 だが、僕なんかが軽々しく手を触れてはならない。僕たちは大学時代からの関係で結ばれているのだ。彼女は先輩としての僕を慕ってくれている。
 奈月は、そんな僕からの視線に気づいているのだろうが、こっちを向くことなく、後ろに流れる景色に寄りかかっている。学生時代には見られなかった、大人の表情をして。
 須磨駅に停車した列車が再び動き始めた時になって、ようやく奈月は口を開いた。
「東山君、喜ぶだろうな」
 彼女は、まるでセルロイドでできた昔の人形のように固まっている。
「あのしおりを書いて、何年も経った後で、こうやって熱心に読んでくれる人がいるだなんて。しかもそれは、一番仲がよかった先輩・・・」
 僕は何も言えなかった。
「あの人、今頃、何してんだろ? 家族と一緒に、どっかで楽しく生きてんだろうな・・・」

キラキラ 51

「おいおい、不吉なこと言わないでくれよ、一生後悔するとかさぁ」
「本当ですよぉ。あんな素敵な人、もういないですよ。なんで別れちゃったんですか?」
「その質問、さっきもしたよな」と僕が返すと、奈月はにんまり笑って「どうしても知りたいんです」と少女のように言った。
「しかたなかったんだよ。付き合ったり別れたりするってことには、縁というものがあるんだ。つまり、麻理子とは縁がなかったってことだ」
 僕がそう言うと、意外にも奈月は口をつぐみ、表情を曇らせながら、「縁、ですか」とトーンを落とした。そうして、窓の外に目をやりつつ、「でも、縁っていう考え方、つらくなりません?」と続けた。ボーダーのワンピースから出ているシルバーのネックレスだけが、さみしげに輝いている。
 僕はどう言っていいのか分からなかった。まさか、奈月がこんな顔をするとは思いもしなかった。
「本当に好きな人と一緒になれたなら縁があってすごく嬉しいけど、逆に、別れた時に縁がなかったんだって考えたら、つらいですよね。自分の人生って、いったい何なんだろうって思いません?」と奈月は僕に訴えかけるかのように言った。「そういえば、東山君も、先輩と同じようなこと言ってましたよ。光源氏の言葉を借りたりして。この世で愛し合う2人は、必ず前世からの縁によって結ばれてるんだって。そういうつながりって、古典ではたしか『宿世(すくせ)』って言うんですよね」
 窓の外には須磨の浦が広がっている。奈月は海を見ながら、まるで車窓に映る自分自身に同情するかのように、力なく微笑んだ。
「先輩は麻理子さんと別れて、私は東山君と別れた。おまけに私の場合は、あの頃思いもしなかった人と結婚しようとしてる。先輩はさっき、私たちの結婚に『縁を感じる』って言ってくれたけど、結婚する私たちもやっぱり『宿世』によって結ばれてたってことなんですかね?」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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