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キラキラ 110

 新神戸駅のホームは、長いトンネルを抜けた後の陽光の中に現れた。つまり、この駅は六甲山脈の合間に作られているわけだ。新幹線が停車した時、海に向かって流れ出るように広がる神戸の街が姿を現す。奈月はそちらを眺めながらまぶたを細めた。街全体には明石と同じ日差しがまんべんなく注ぎ込まれている。
「光源氏は、身支度を整えて、夜更けを待ってから、外へと出ます。明石の入道はこの瞬間のために車を用意していましたが、源氏にはさすがに仰々しく思われました。それで、気心の知れた部下だけを連れて、馬に乗って、明石の君のいる岡辺の家に向かうのです」
 奈月はそう言った後、しおりをゆっくりと目の前に運んだ。
「明石の入道が、自慢の娘を安全なところに住まわせようとして用意した家ですから、当然海から離れた高台にあったんでしょうね。『源氏物語』の本文にも、山の方にかなり遠く入る所にあったと記されてます」と奈月は続けた。
 源氏の屋敷跡とされる無量光寺は海辺に近い場所にあった。「源氏の恋の通い路」という説明がされていた「蔦の細道」は、寺の山門から続いていた。無量光寺の土塀と無数の墓との間に続く細い道は、平安時代はもっと目立たなかったはずだ。明石の君に会いに行くのに、源氏はあえてそんな道を選んだのだろう。
「その道すがら、源氏の目には明石の浦に浮かぶ月夜の情景が映りました。そうして、都にいる紫の上のことを思い出すのです。可愛くて献身的な若妻のことが、何度も頭をよぎります。それでも、どうしても明石の君に逢わずにはいられない。それほど源氏の我慢も限界だったわけです」
 僕は何も言わずに、ただ奈月の話に耳を傾けた。
「何ヶ月にも及ぶ恋の駆け引きを経て、ついに明石の君に逢いにいく光源氏でしたが、やはり妻のことを思わずにはいられなかったのでしょう。馬にまたがったまま、彼は心境を歌に詠みます」
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キラキラ  109

「最初は『心細き独り寝のなぐさめにも』というほどの思いでしかなかった光源氏でしたが、先輩の言う通り、なかなか、うんと言わない明石の君との根比べに負けてしまいます。すっかり本気になってしまった光源氏は、手紙でアプローチするんですが、それでも彼女はなびこうとしない。本当にプライドが高く、しかも賢い女性だったんですね、明石の君は」と奈月は言った。
 僕は「思いを隠すことができない明石の入道とは、あまり似てないな」と感想を漏らした。奈月は口元を緩めたが、何も言わなかった。
 すると新幹線は長いトンネルに入った。うす暗い窓ガラスは僕と奈月の顔を映している。こうして眺めると、思った以上に僕たちは寄り添っている。恋人同士に見えないこともない。奈月はガラスの中の自らの姿にすら気づくことすらなく、手にしたしおりを見ている。
「そのうち源氏は、ぜひともその姿を見ないではいられないとまで思うようになります」と奈月は続けた。僕には源氏の男心が痛いほどよく分かった。
「そうして、ついに源氏はいてもたってもいられなくなってしまって、明石の君が住む岡辺の家に向けて自分の屋敷を出るのです。あの無量光寺の前にあった『蔦の細道』を通ったわけですね」と奈月が言った瞬間、新幹線は減速をはじめ、オルゴール調のメロディと共に、次の停車駅は新神戸という車内アナウンスが流れた。それがまだ終らないうちに新幹線はトンネルを抜け、再びふんだんに降り注ぐ陽光に包まれた。窓ガラスに映っていた僕たちの姿は、光の中に溶け込んでしまった。
「源氏が屋敷を出たのも、やはり月夜のことでした。義母である藤壺と過ちを犯した夜も、嵯峨野で六条御息所と最後の夜を交わした夜も、それから明石の入道と琴を弾き合った夜も、すべて月のきれいな夜の出来事でした。そして、この日も同じように月が出ていたのです」と奈月は言った。

キラキラ  108

 奈月はそう言って僕の顔を見た。僕は「そうだよな。女を甘くみちゃだめだ」とつぶやいた。奈月は僕に向かって何かを話そうとしたが、今は明石の君の話に夢中になっているらしく、ふっと声を出して笑い、その後すぐに、またしおりに目をやった。奈月はそこに書いてあることを眺めながら「ここまでくると、明石の君も、駆け引きを挑んでますね」と続けた。「なんか、女心じゃないですか?」
「まあ、恋の駆け引きをした場合、たいてい根負けするのは男の方だよな」と僕は実感を込めた。
すると「女は強いですからね」と奈月も言葉で寄り添ってきた。「でも、中には、私みたいに弱っちい女もいますけどね」
「俺は、強い女は苦手だね」と、半分奈月を慰めるような思いで言った。
「ただ、駆け引きをするのは、強い女だけだとは限りませんよ。自分に自信がない、ほんとうに傷つきやすい女性こそ、相手の思いをきちんと確かめておきたいと考えるのはあたりまえのことです。だから明石の君も、源氏の方から連絡があるまでは、こちらからは何も行動を起こさないと心に決めてたんです。で、源氏はそのことによって心にダメージを受ける。もう、お互いに我慢比べですね」
「ただ、そのダメージが、恋心を加速させることになるんだ。もしそれが明石の君の策略だとすれば、やっぱり彼女は大したもんだ」と僕は源氏に同情して言った。奈月は再びしおりに目を落とした。
「季節はそのまま秋になります。源氏が明石の浦に辿り着いたのが初夏のことですから、2人の根比べも数ヶ月に及ぶわけです。2人とも心はけっこうボロボロかも」と彼女は言った。
「でも、これは俺の、男としての予想だけど、どちらかというと、源氏の方が苦しかったんじゃないかな」と感想を述べた。奈月の言うように、こういう時、女はじつに強いものだ。

キラキラ 107

「この和歌をもらった明石の君の心はぐらぐらと揺れ動きます。でも、源氏を思えば思うほど、身分や境遇の違いすぎる自分に引け目を感じちゃって、やっぱり、どうしても行動を起こすことができません。それでも彼女は、さんざん悩んだ末に、思い切って、返事を書くことにします。これはしおりにあることですが、当時の恋文には、返事をしなければ拒絶するという意味があったようですね。きっと、光源氏が焦ったのは、そういう事情もあったんだと思います。
 明石の君は、初めての手紙にいろいろと神経を配ります。お香をしっかりと焚きつめた紫の和紙に、墨の濃淡を駆使して思いをしたためます。都の高貴な女性にも劣らないほどの心づかいです。出すか出すまいか悩んだ分、いざ出すと決めたら、とことん心を込めたんでしょうね。
 ただ、そんなこだわりとは裏腹に、彼女の詠んだのは、源氏を突き放すような和歌でした。
『思ふらん 心のほどや やよいかに まだ見ぬ人の 聞きかなやまむ』
 私のことを思ってくださるという、あなたさまの心の深さはさてどの程度のものなのでしょう。まだお逢いしたこともない私のことを、噂を聞いただけで思い悩むなどということが、果たしてあるのでしょうか?」
 奈月はシートに身をもたれたまま、しおりを顔の近くまで持ち上げて、そこに書いてあることを読み聞かせるように話してくれた。なんだか、母親に絵本を読んでもらっているような気分だ。
「その和歌を受け取った源氏は、さぞかし意表をつかれたことでしょうね。明石の君はそう簡単には自分になびかない女性だということを痛感したでしょう。それにしても、紙の選び方や筆跡、それに書きぶりなんかを見て、源氏はますます明石の君に惹かれていきます。でも、手紙をしきりに遣るのは周囲の目が気になるから、2、3日に1度、自分の思いを相手に気づかれぬよう適度に紛らわしながら遣るんです。どうやら源氏は根負けしちゃったようですね。女は、甘くみちゃだめです」

キラキラ 106

 たしかに、恋愛に限らず、人生の上に現れることはすべて予め決まっていると捉えればそれまでだ。だが、愛し愛されるということだけは、その他の出来事と比べても特別なことのよう僕は感じる。たとえそれが、奈月の言うところの欲望の関係であったとしても、互いに抱き合ったぬくもりは、まるで人生の節目ででもあるかのように、僕の精神的な骨格をなしている。
 そう考えると、『源氏物語』で語られる宿世とか縁とかいう考え方には共感できる。おそらく色を好む「英雄」たちも、たんに自分の欲望を満たすということ以上の意味を持って女性を愛し、その人を抱いたのだと僕は思う。ただ、それを奈月に説明するのは難しい。彼女が東山に対して、未練に裏打ちされたアンチテーゼを抱いている以上、どんな言葉も彼女の中には溶け込んではいかないだろう。
「で、我慢ができなくなった源氏は、どうなっちゃうの?」と僕は、とりあえず話題を元に戻した。すると奈月は真顔に戻って、質問に答えてくれた。
「完全には覚えてないですけど、たしか、源氏の方から、また次の手紙を遣ったと思います」
「いよいよ我慢できなくなったんだな」
「その手紙の中で、源氏は和歌を詠むんです」と奈月は言い、さっきからあえて見ないでいた東山のしおりを自然な動作で取り出して、ページをめくった。
「『いぶせくも 心にものを なやむかな やよやいかにと 問ふ人もなみ』っていう和歌ですね。憂鬱な気分が晴れずに、私はずっと思い悩んでいます。どうしていますか、どうかしましたか、と尋ねてくれる人さえいません。そんな感情を歌っています」
 つまり源氏は、何としてでも明石の君からの返事がほしかったわけだ。でも、その思いをストレートに表現することをせず、孤独に苦しむ自分に同情させることによって、彼女からの連絡を促したわけだ。源氏の男心がひしひしと伝わってくる。

キラキラ 105

 ふと窓の外に目を遣ると、明石の町並みは遠ざかり、のどかな田園風景が広がっている。時折立つ新幹線用の大きな看板には、日差しが反射している。僕はもう1度奈月を見た。やはり彼女の顔はすぐ近くにある。
「明石の入道の教育を受けてきた明石の君って、だからプライドが高かったんでしょうね」
 奈月は笑顔の残像を浮かべたまま話した。
「つまり、明石の君は、遊ばれて捨てられるのがいやだから、本気になるのが怖くて、源氏に返事を書かなかったわけだ」と僕は言った。「で、結局、どうなったの、その後2人は?」
「まず、源氏の方が我慢できなくなります。『英雄色を好む』っていうけど、光源氏も女断ちをしてずいぶんと時間が経ってましたから。いくらまだ会ったことのない女性とはいえ、明石の君を思うと、もう我慢の限界だったんじゃないでしょうか」
「女断ち」とは、学生時代からすると、奈月もずいぶんとストレートな物言いをするものだと驚いているところに、「英雄は色を好むんですか?」とまた自分で言い切ったことを僕に問い直してきた。
「それは英雄に聞いてみないと分からないさ」と僕は答えた。そう答えるしかなかった。
「それって、すごく都合のいい言葉ですよね。モテる男は女に苦労しないっていうことでしょ?」
 奈月の追及に、僕は「どうなんだろうね」とはぐらかした。「男っていうのは、やっぱり女を求めるものだ。もちろん、女だって男を求めるところはあるけど、なんというか、その『質』みたいなのが根本的に違うような気がするんだ」と言いたいところだった。だが、それは口にできなかった。そう言ったとして、奈月は「それってただの欲望の問題じゃないですか」と切り返してくるのは十分に想像できた。
 たしかに欲望の問題といえばそれまでかもしれない。だが、僕は、東京に出てからこんなふうに考えるようになった。「自分が愛し、抱く女性は、予め人生の中で決められている」と。

キラキラ 104

「受領階級って、なんだっけ?」と僕は、さっき奈月が説明してくれたことをもう一度聞いた。
「今でいう地方公務員ですよ。ただ、当時は、市民から税金を徴収する権利をもっていたから、やりようによっては、莫大な財産を手にすることができたんです。特に明石は豊かな産業に恵まれてたわけですし」
「それでも明石の君は引け目を感じたの?」
 僕はいつもの癖で、思いついたことをそのまま口にした。すると奈月は、「そりゃ、相手が光源氏なんですから、まず、ほとんどの女性が、何らかの引け目を感じると思いますよ」と答えた。それからその後で、おでこの中身を内側から覗き込むかのような目をして何かを考えて、さらにこう続けた。
「それに、明石の入道の教えもあったはずです。入道は都への憧れが特に大きかったんです。それでも、前世からの因縁で明石に永住することになったのだと、彼は自らの運命を真摯に捉えています。ただ、その分娘への思い入れは強かったんでしょう。お前は田舎者だが、ゆくゆくは都に上って地位も権力もある方と結婚してほしい、それが俺の夢だって、無意識のうちに刷り込んだんじゃないでしょうか。さっきも言いましたが、入道は娘のことで頭がいっぱいで、思いを隠すことができなかったんです」
 奈月はそう話した直後に、口を中途半端に開けて「あ」と声を出した。
「自分の強い思いを隠せない馬鹿正直なところ、なんか私っぽい」
 僕はシートに背をもたれたまま彼女の顔を見た。奈月も僕を見ている。僕たちの顔はずいぶんと近いところにある。たぶん、僕たちはこれまでで一番顔を近づけている。彼女の目元には小さなしわが見える。学生時代にもあったのが気づかなかっただけなのか、それとも大学を卒業した後に刻まれたのか、僕には分からない。
 奈月はそのしわをぐっと深くして、なおも笑った。彼女の顔を見ていると、僕も思わず笑みがこぼれた。1週間前に東山もこの明石を訪れたことへのショックは、どうやら本当に癒えているようだ。

キラキラ 103

 奈月の言葉に僕が何も反応しないでいると、「そんな気持ちになるものなんですか、男の人って?」と彼女はさっき自分で言い切ったはずのことを、今度はこっちに向けて真顔で問い直してきた。
「じらされると、本気になるってこと?」と僕は確認した。奈月は小さく素早くうなずいた。
「どうだろうね? 俺だったら、恋の駆け引きを挑んでくるような女とは、できれば付き合いたくはないけどね」と答えた。だが、そうは言ったものの、心の中ではドロドロした記憶が渦巻いていた。
 幸恵を愛していた時、僕は叶うはずのない願いを抱いては、何度もみじめな思いをさせられた。幸恵は僕を近づけておきながら、同時に遠ざけてもいた。いくら深く愛し合ったところで、夫と別れることはしないというメッセージを彼女はさりげなく送ってきた。この人は手の届かない女性なのだという絶望感は、僕の恋心を加速させた。それが恋の真実ならば、何とつらいものなのだろうかと、神さえ恨んだ。
 すると奈月は、「先輩にそう言われると、なんか安心しますね」とつぶやいた。「私なんて、そのへん、ほんとに不器用だから。恋の駆け引きどころか、恋心を隠しきれずに、好きな人にすぐにばれちゃうタイプですし。東山君にあっさりとふられちゃったのも、私が馬鹿正直だからですよ」
 奈月の話を聞くと彼女が可哀想に思えた。そうして、自分がどうしようもなく愚かな人間のように思えた。
「ただ、明石の君は、駆け引きを挑んだっていうわけでもないんでしょうけどね」と奈月は話を元に戻した。「たしかに彼女は、源氏に返事をしなかったことで、じらしたことには違いないけど、それは、源氏の心を自分に向けさせようとしたというのではなく、なんというか、怖かったんだと思います」
「怖かった?」
「だって、相手は時代を駆け抜けるスーパースターじゃないですか。そんな男の人を好きになったって、遊ばれて、最後には『はい、さよなら』っていう展開になるのは目に見えてますもん。傷つくのは分かってます。まして彼女は、田舎の受領階級の娘だということに引け目を感じてたんですから」

キラキラ 102

「なるほど、じらしたわけだな」と僕は言った。
「なかなかやりますよね、明石の君も」と奈月は応えた。「ただ、彼女にも、源氏との関係について、いろいろと思うところがあったんですよ」
「思うところ?」
「そりゃそうでしょう。きちんと物事を考えようとする女性に限って、こういうことには慎重になるものですし。まして明石の君は、人一倍思慮深く、その分傷つきやすい女性だったんですから」
 新幹線は徐々に速度を上げはじめる。窓の外の風景が後ろに流れるさまが、滑らかさを増している。
「で、明石の入道は、そんな娘の姿を見て、やきもきするんですね」
 千載一遇のチャンスを目の前にした入道の慌てぶりが目に浮かぶようだ。だが、娘のことをことのほか溺愛している入道だ。強い口調で急かすわけにもいくまい。
「挙げ句の果てには、娘の気持ちを代弁して、自分で返事を書くんです。しかも源氏の和歌に対する返歌まで添えて」と奈月は言い、またクスクスと笑った。「今でもいますよね、そういう親。子供の代わりになんでもやってしまう人。べつに悪気があるわけじゃないんだけど、周りが見えてないんですよね。それくらい、子供のことで頭がいっぱいなわけです」
「でも、源氏の方は困っただろうね。明石の入道は、一応は恩人なんだから」
 僕はそう言って、自分の缶コーヒーを開けた。
「それで、源氏はまた手紙を書くんです。これまで代筆の返事はさすがにもらったことがないですねって。ただ、最初は明石の君に対して、『独り寝の慰めにも』と軽い気持ちだった源氏の心も、少しずつ本気になり始めるんです。たぶん、男の人って、手に届くだろうとたかをくくっていた女性にじらされたりすると、そんな気持ちになっていくものなんでしょうね」

キラキラ 101

「そうですね」と奈月は気のない返事をして、テ-ブルに置かれたアイスティを口に付けた。それからもう一度「明石の君と光源氏」とつぶやいた。空間上に浮かぶ文字を読み上げているような言い方だった。
 その言葉が耳に入った瞬間、僕にはさっきの善楽寺と無量光寺の光景が再び身近に感じられた。照りつける太陽、輝く緑、クマゼミの声、蔦の細道。「明石」という地名通り、すべての記憶が明るさに包み込まれている。
 奈月はやはり空間上の1点を見つめている。そこに「明石の君と光源氏」と書いてあったのが、今は「私と東山君」という文字にすり替わっているかのようだ。
 その時だった。不意に背後から轟音が近づき、瞬く間に僕たちの横を通り過ぎた。それが一体何なのか一瞬よく分からなかった僕は、思わず首をすぼめた。振動で奈月のアイスティがぐらついたのを見た時、後発の『のぞみ』が追い越して行ったことに気づいた。どうやら奈月も驚いたようで、轟音が完全に遠ざかっていった後、「びっくりしませんでした?」と言い、目を丸くして僕を見た。
 それから僕たちは2人でクスクスと笑った。他の乗客から見れば、あやしい2人に見えたろうが、幸いにも通路を挟んだ席には誰もいなかったので、遠慮なく笑った。
『のぞみ』が通過してまもなく、僕たちを乗せた『ひかり』は、のっそりと動き始めた。奈月はポテトチップスを食べ、アイスティを飲んだ後、話を再開した。
「いちいちしおりを出すのが面倒臭くなっちゃったんで、私のうろ覚えの話でもいいですか?」と彼女は断りを入れた。僕は全然問題ないし、そっちの方がいいと答えた。すると彼女は、シートにもたれ顔をわずかばかり僕の方に向けて話し始めた。
「明石の入道の思いに感動した源氏は、さっそく明石の君の住む岡辺の家に手紙を遣るんです。たしか、かなり凝った手紙だったと思います。でも、それを手に取った明石の君はすぐには返事を書きません。今で言う、メールの返信をあえてしないようなことを、彼女は源氏に対してするんです」

キラキラ 100

 そう言った後、奈月はふと思い出したかのように、足下の白いトートバッグからスマートフォンを取り出して時刻を確認した。そのうえで、「先輩、喉渇きません?」と聞いてきた。喉も渇いたし、何より小腹がすいたと答えると、彼女は申し訳なさそうな表情を僕に向けて「とりあえず、あそこの自販機で、飲み物買ってきます」と立ち上がりかけた。
 僕は、じつは自分も同じことを考えていたのだと伝え、奈月の動きを制した。そうして彼女の飲みたいものを聞いて、ホームの外へ出た。新幹線の発車にはもう数分あるので、ホームの中央に見える売店まで走り、そこでジュースとポテトチップスを買って、再び奈月の隣に戻った。
「ほんとうはたこ焼きが食べたかったんだけど、さすがにあの小さな売店には置いてなかったな」と僕は笑って言いながら、のり塩味のポテトチップスの袋を開けた。そこには「関西限定」と記してある。
 奈月は僕に礼を言って備え付けのテーブルを倒し、そこにアイスティの入ったペットボトルを置いた。僕はテーブルにポテトチップスの袋を載せ、2、3枚つまんだ。
「この中に入っている海苔って、瀬戸内海で採れるのかな?」とチップスを噛みながら言うと、奈月は袋の裏側を見て、「海苔も塩も、瀬戸内海産だって書いてありますよ」と該当部分を僕に見せた。
「須磨・明石は古くから塩の産地だったということだけど、今でもその伝統は続いてるんだな」と僕は続けようとしたが、直前でやめて、代わりにもう1枚チップスをつまみそれを口に放り込んだ。東山の話題になりそうなことは、今は避けておいた方がよさそうだ。
 すると奈月は、「いただいていいですか?」と聞いてきた。僕が「もちろん、どんどん食ってくれよ」と答えると、ありがたそうにチップスを口に入れた。彼女はいい音を立てながらそれを噛んだ。
「なんか、こういう時に食べるポテトチップスって、本当に美味しいですよね」
 奈月はそう言って頬を緩めた。その表情を見た僕は「せっかく明石にいるんだから、話の続きを聞かせてほしいな」と思いを述べた。「光源氏と明石の君が会うようになってからの話だ」

キラキラ 99

 明石駅からJRを使って西明石駅に着いた途端、急に空腹を感じた。新幹線口への連結通路を歩いていると、どこからともなくカレーの香りが漂ってきたからだ。そういえば、『魚の棚』でたこ焼きでも食べたいと僕は考えていたのだ。前回行きそびれてしまったから、今回はぜひ、奈月と一緒に明石のタコを食べておきたかった。だのに奈月は、『魚の棚』の前を素っ気なく通り過ぎてしまった。楽しみにしていたからこそ、余計に空腹を感じる。コインロッカーから取り出したばかりのボストンバッグが、肩にずっしりと応える気がする。
 京都行きの『ひかり』は、ホームに上ってほどなくして滑り込んできた。汗を染みこんだTシャツはもはや濡れ雑巾のように重くなっているが、そんなことはどうでもよく、とにかく早くどこかに座りたかった。
 新幹線の中には適度に空席があった。この駅で、後方から来る『のぞみ』を通過させるために、数分間待たなければならなかったが、それでもシートに腰を下ろした瞬間、ほっとした気分になった。
 奈月はわずかにリクライニングを倒してから、「暑かったですね」と実感を込めて言った。
「少しは元気になったか?」と彼女と同じ角度にシートを倒しながら僕は問いかけた。
 すると奈月は前を向いたままふっと笑みを浮かべ、「別に元気がなかったわけじゃないですから」とつぶやいた。「ただ、いろいろと考え事をしてただけです。でも、ずっと歩いてるうちに、ある程度の気持ちの整理はつきましたよ。ご心配をおかけしました」
 そう言った後、奈月は少し頭をもたげて、髪を整えてから、再び深く座り直した。
「いろいろありましたけど、やっぱり楽しかったなぁ、明石は」と奈月は空間上の一点を見つめたまま言葉を吐き出した。
「前回来た時よりも、ずいぶんと勉強になったよ」と僕が言葉で寄り添おうとすると、「せっかく『源氏物語』の話をしてたのに、途中で切れてしまいましたよね」と東山を責めるかのような言い方を奈月はした。「たしか、源氏と明石の君が接近し始める、ドキドキの場面でしたね」

キラキラ 98

「東山の可能性もあるけど、100%そうとは限らないだろう」と僕は、自分でもわけの分からないことを口走った。
「スポーツマンふうの人で、『源氏物語』に興味があって、学生時代に友達とここを訪れて、今は上海で働いている、そうして熱く語る。それだけ条件が揃えば、かなり限られてきますよね」
 奈月はそう言った後、うつむき加減に無量光寺の山門を抜けた。「蔦の細道」にも見向きもしない。「光源氏が『明石の上』の住む岡辺の家に通った道」という毛筆の標示が、さっきよりも力なく僕の目に映る。
 彼女はうつろな表情のまま、時折ため息などをつきながら、墓石だらけの路地を進んだ。来た道とは違う路地に入り込んだりもしたが、明石駅の方角に進んでいることは確認できたので、僕は何も言わずに彼女の斜め後ろを歩いた。あと少しで16時になろうとしているが、空はまだ十分に青く、南の空にはいつのまにか入道雲も盛り上がっている。
 車通りの多い道に抜け出た途端、彼女はふと我に戻って「道、間違ってませんよね?」と聞いてきた。
「『魚の棚』が近づいているから、間違ってはいないね」と僕は地図で現在地を確認しながら言った。
「東山君も、ここに来たんですね、先週」と奈月はつぶやいた。彼女の横には古い理髪店がある。
「それって、ほんとうに、東山かなあ?」と返した僕の声は、彼女の耳には届いてないようだった。
「何ともいえないですよね。私と東山君が、ここへ来たいと思ったタイミングがほとんど同じだっただなんて」という奈月の言葉に、何も返すことができない。
「ただの偶然かもしれませんけど、どこかであの人とつながるところはあるんでしょうね」と彼女は続けた。「でも、1週間ほどずれてた。やっぱり、縁がないんですよ、私たち」
 奈月は痛々しい笑顔を見せた。
「鉢合わせしなくてよかったですよ。あの人もびっくりしたでしょうし、私だって、会いたくはない。あの人の幸せな姿を見ると、すごく傷つきそうです」

キラキラ 97

「とくに私たちの世代となると、高校とか大学の時に古典文学に興味があって、その上で、社会に出て仕事を持ちながらも、それなりにゆとりのある人に限られてきますよね」
 奈月はやや首を傾けてそう話した。すると僧侶は小さな目を急に丸くして「でも、そういえば、ごくたまにですけど、ここを訪ねられるお若い方もいらっしゃいますよ」と言った。「先週のことでしたかね、ここにお見えになった方が、あなたと同じようなことを話されてました」
 奈月はおだやかな表情のまま、僧侶を見た。
「若くて、スポーツマンふうの男の人でしたけどね、学生時代に読んだ『源氏物語』が懐かしくなって、久しぶりに訪ねてみたんだっておっしゃってました。たしか、大学の時に、お友達と来て以来だって言われてましたかね。なんでも、その方は、今は上海で働いてらっしゃるとかで、明石を出た後は、関西空港からそのまま中国に戻るんだって言われてました。今時の人には珍しく、えらい熱心に話されてたんで、印象に残ってますわ」
 僧侶の野太い声は、誇らしげだった。
「その人は、1人でした?」と奈月はさっきまでの穏やかな表情を棄て、口元をきゅっと結んで言った。 
「いえ、奥様とごいっしょでしたね。それから、女の子が1人おられたですかね」と僧侶は答えた。
 僕がその人物についてさらに突っ込んだ質問をしようとした時、僧侶は慌て気味に僕たちの背後に視線を移し、「法要にお越しになられた方ですかね?」と、さっき僕たちに言ったのと全く同じ言葉を発した。振り返ると、そこには家族連れが立っていた。紺のサマースーツをまとった清楚な感じの女性と、少しくたびれた感じの腹の出た男性。2人の間には、夏服を着た中学生と思しき女の子がいる。
「それじゃ、よい旅を」と僧侶は僕たちに笑顔を向けた後で、その家族を本堂の方へと導いていった。
 山門をくぐる瞬間「まさか、東山君じゃないですよね」と奈月は低く言った。

キラキラ 96

 僕たちは本堂に背を向けて、緑豊かな短い参道を山門の方へと戻った。左手には小さなビニールハウスが緑に埋もれるかのようにあり、中では観葉植物が育てられている。右手には瀟洒な和風建築がある。近寄ってみると、「無量光寺窯」と記してある。どうやら陶芸の窯になっているらしい。玄関脇には水色の紫陽花がちらほらと咲いている。奈月が「わぁ、きれいですねぇ」と言ったその時、奥の勝手口から作務衣姿の僧侶が出てきて、「法要にお越しになられた方ですかね?」と関西なまりで問いかけてきた。
 いや僕たちはただ旅行をしている者ですと答えると、僧侶は完璧に剃髪された頭に手を遣って、「そりゃ失礼しました」と、やはりなまりのある言い方で謝った。若いが、身体も声も大きい男だ。
 奈月が、「私たち、『源氏物語』にまつわる場所を訪ねてるんです」と、どこか得意げに言うと、僧侶は真顔に戻って「ああ、なるほどですね」と返した。「ここらへんは、古くからの言い伝えがけっこう残ってますからね」と彼は続け、昔から海産物の売買でずいぶんと賑わっていたことや、善楽寺や「蔦の細道」の話などもしてきた。まるで当時からずっとここにいるかのような話しぶりだった。
「で、この無量光寺は、光源氏の邸宅があったとされる場所ですよね」と奈月は感じのよい顔を僧侶に向けた。
 すると僧侶は「一応はそういうことになってますけどね、この寺は再建されたものでして、厳密に言えば、源氏の邸宅とされるのはもう少しあっちの方だったみたいです」と答え、山門の間に見える風景に向けて左手を差し出した。
「あの角の辺りですか?」と奈月はさっき善楽寺から曲がってきた交差点を指さした。すると僧侶は首を縦に振りつつ、「当時の風景は全く想像できませんけどね」と申し訳なさそうに言った。
「でも、『源氏物語』にまつわる所にしては、あまり人は歩いてないようですね」と僕が聞くと、僧侶は「ここは京都からちょっと外れてますしね。それに『源氏物語』っていっても、今じゃそこまで深く読む人は、なかなか少なくなったんじゃないですかね」と言い、豪快な感じの笑顔を見せた。

キラキラ 95

 奈月は、好きではないはずの「縁」という言葉をまた使った。
 ただ僕は、彼女の話を聞いて、源氏の涙のわけが少しだけ分かった気がしていた。自身の犯してきた許されない恋の発覚のために都を離れることになり、しかも当時にしてみれば異郷の地であった須磨や明石にたたずむことになって、源氏は心が萎えそうだったのだ。明石の入道は、そんな失いかけた自尊心を再び取り戻してくれる人物だったというわけだ。
「入道の話に救われる思いのした光源氏は、こんなことを言います。『ゆゆしきものにこそ思ひ棄てたまふらめ、と思し屈しつるを、さらば導き給ふべきにこそあなれ』。つまり、縁起の悪い自分のような者を神は見捨てられるにちがいないと思ってしょんぼりしていたが、どうやらこんな私でさえも新たな出会いに導いていただけるわけですね、という意味です」
 僕の心には「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉が浮かび上がった。これまでの自分の経験を振り返ったとき、身にしみる言葉だ。再起をかけようとする源氏の思いが共感された。
「そうして、源氏はついに、『心細き独り寝の慰めにも』と言います。この明石での心細い夜の慰めにでもなるのならば、明石の君を自分のもとに引き取りたいと思いますということですね」
「そんな高飛車なことを言って、明石の入道は気分を害さなかったのかな?」と僕は例のごとく思ったことをそのまま聞いた。すると奈月は「明石の入道にしてみれば、いかなる形であれ、明石の君が源氏に見初められることを願っていたんです」と答えた。「それほど、入道にとって、源氏の登場は夢のような話だったのです。住吉の神が導いてくれたんだって、心からそう思ったはずです」
 たしかに、会ったこともない女性にいきなり恋心を抱くというのも不自然な話だ。
「で、それから源氏は、明石の君と会うんだね」と僕が聞くと、奈月は「はい。まずは彼女に手紙を送ります。源氏の使者は、さっきの蔦の細道を通って彼女に届けたんです」と答えた。

キラキラ 94

 僕は明石の入道の邸宅跡と伝えられる善楽寺の山門前にあった石柱を思った。そこに彫られた『一隅を照らすもの此れ則ち国宝なり』という言葉が、明石の入道の人となりを指しているのであれば、それはずいぶんと奥が深い話だ。あそこを通る時、そのことに気づく人がいったい何人いるだろうと思う。僕と奈月の他にいるだろうか? 
 本堂の欄干に両手を置いている奈月の後ろ姿を見つめていると、彼女は「琴の音色は、光源氏と明石の入道の心をつなぐんですね」と言った。「でも、明石の入道には、じつはそれ以上の思惑があったんです」
 そう続けた奈月はゆっくりと振り返り、僕を見てふっと笑みを浮かべた。彼女の背景には、大きなソテツの葉が茂っていて、その奥に広がる住宅地の向こうには、海がある。
「夜が更けて、月も傾いた頃に、入道は、いよいよ明石の君の話を始めます。これまで、何年にもわたって娘のために住吉神社に参詣し続けたこと、自分はきっと前世からの因縁によってこの田舎に住むことになったのだろうが、どうか娘だけは都の尊い方にさしあげたいという願いをもってきたということ。そんな思いを訥々と打ち明けます。自分が生きている間はなんとか守ってやるが、もし先立つようなことがあれば、波の中に身を投げてしまえと娘には伝えているのだと涙ながらに訴えます」
「きっと、源氏は、ドン引きだったろうな」と感想を述べると、奈月は「それが、源氏も涙ぐみながら話を聞くんです」と答えた。
「源氏の方も、異郷の地で思い悩んでいる最中たったから、感受性が豊かだったんじゃないですかね」
 奈月はそう言って、再びしおりを開いた。僕には源氏の涙の理由がいまいちよくわからなかった。
「明石の入道の話を聞きながら、源氏は、今自分が明石の地にさすらっている理由を悟るんですね。つまり、須磨に流れて以来くじけそうになっていたところに、明石の入道と出会って救われたような気がするんです。そして、そこに縁を感じ取るんです」

キラキラ 93

「つまり、明石の入道と光源氏は、琴でセッションをしたわけだな」と僕は言った。すると奈月は、しおりに目を落としたまま、「そこのところについて、原文には、『いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものなるを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに』って書いてありますね」と返した。
「訳すとどうなるの?」
「実際はそうでもないように思われる音色でさえも、その時次第で美しく聞こえるものなのに、この場所は遙か彼方まで遮るものもない海辺である上に、初夏という季節は、春の花や秋の紅葉の頃と比べると、自然のままに生い茂っている緑が、かえって優雅な雰囲気を醸している。だから、ただでさえ美しい琴の音色がますます味わい深いものになっている。そんな感じの訳ですかね」
 奈月の説明は、僕と麻理子の屋上での記憶に重なるところがあった。
「それにしても、東山君、須磨と明石がよっぽど好きだったんでしょうね。原文がそのまま載せられてますもん。このしおりは完全にあの人の自己満足で作られてますね」
「でも、奈月もこの場面が好きなんだろ?」と僕が問うと、彼女はちらとこちらに目を遣り「まあ、そうですけどね」と口を尖らせて答えた。
 それから僕たちは新緑の香りの中、本堂に礼拝した。すると、すがすがしさが身体を駆けめぐった。礼拝を終えた奈月は本堂の欄干に手を置き、海の方を眺めてこう言った。
「明石の入道の琴が源氏を感動させたのは言うまでもなかったんです。なぜなら入道は、醍醐天皇直伝の弟子から演奏を教わっていたんです。醍醐天皇といえば、当時の貴族には憧れの帝でした。入道は自分が田舎者であることを卑下しますが、源氏にしてみれば、この明石でこんな優雅な人物と出会ったことは驚きでした。まさに入道は『一隅を照らす』存在として描かれてるんですね」

キラキラ 92

 その夜、僕たちは七輪の炭で魚を焼きながら、2人でビールを飲んでいた。麻理子は他に誰もいないアパートの屋上で夜風に身体を晒すのが好きだった。アメリカに留学していた時、こうやって風に吹かれてパーティーやバーベキューをしたことを、なつかしそうに述懐していた。そういえば、屋上でビールを飲む時、麻理子はよく煙草を吸った。日本に帰ってきてからはやめていたが、この時だけはどうしてもほしくなるのだと自嘲気味に話した。
 その、月がきれいな夜、僕は密かに練習しておいたホイットニー・ヒューストンの曲を弾いた。彼女に聞かせるために、大学のギター同好会の知人から楽譜を入手しては、時間をかけて左手の動きを練習したものだ。その日弾いたのは『すべてをあなたに』という曲だった。ホイットニーが歌うものの中でも弾きにくい曲の1つだったが、流れるようなメロディが好きだった。それにしても、この時ばかりは驚くほど上手く指が動いてくれた。まさか自分の手で弾いているとはとても信じられないほどに美しく響いた。安物のギターだったが、音色は夜空を抜ける風にとけ込んで、僕たちを包んだ。
 その瞬間、胸の中には様々な情景が浮かんでは消えた。哀しい想い出もあれば、楽しいものもあった。もちろん麻理子のことも考えた。これから彼女とずっと一緒にいるだろうという確信すら抱いた。麻理子の方も煙草を吸う手を止めて、僕に寄り添いながら、涙を流していた。僕たちの心は、ギターの音色の中に1つになったのだ。
 ふっと我に戻った途端、再びクマゼミの声が耳に入ってきた。隣では奈月が、汗ばんだ目元をしおりに向けて歩いている。無量光寺の短い参道は終わり、質実剛健な造りの本堂が目の前に迫っている。豊かな緑に囲まれていると、クマゼミの声もより近くに聞こえる気がする。
「明石の入道は、涙を流しながら、源氏の琴に聞き浸ります。でも、そのうち、いてもたってもいられなくなってきて、明石の君のいる『岡辺の家』に戻り、琵琶や琴をもってきて、演奏しはじめます」

キラキラ 91

「その、松風に運ばれた琴の音色にすっかり魅せられた入道は、いてもたってもいられなくなって、急いで光源氏のもとに参上します」と奈月は続けた。
 僕はふと辺りを見渡した。今よりも海岸線が手前にあったであろう平安時代には、松が生い茂っていたのかもしれないが、どうやら今は見あたらないようだ。背の高い松が海岸線を守るように連なっていた須磨の情景とは対照的だ。
 須磨海浜公園で奈月が教えてくれたように、松には「待つ」という言葉が掛けられる。つまり松風とは、待ち人の気配を届けてくれる風だ。きっと明石の入道は、松風に響く源氏の琴の音色を、格別の思いで受け止めたことだろう。60歳を過ぎてもなお、娘への愛情を燃やし続けている入道が、この道を駆けて源氏に会いに行く月夜の光景が、怖いくらいに身近に感じられた。 
「蔦の細道」を最後まで歩いた後で、僕たちは同じ道を引き返し、そのまま無量光寺の山門をくぐった。善楽寺よりも細い参道の両側には、善楽寺よりもさらに多くの緑が茂っている。大木もあれば、背の低い植物もある。奥の方には樹齢を感じさせる大きなソテツも見られる。それらすべての植物が瑞々しく、生き生きとしている。
「光源氏を訪ねた明石の入道は、琴の音色と潮風の香る月夜の風情とを重ね合わせて、涙を流します。源氏の方も、自分のかき鳴らす琴を聞きながら、都で音楽の遊びを開いたことや、その時々に出会った人々、父帝をはじめ、すべての方から大切にされたことなど、他人のことや自分の有様などがつい思い出されて、まるで夢のような心持ちになります。そのうち演奏もだんだんと旅愁を帯びてきて、おそろしいほどの音色に聞こえはじめます」
 奈月の話を聞いていると、僕にはある光景が思い出された。大学時代に、僕のおんぼろアパートの屋上に降りて、独学で始めたギターを弾きながら、麻理子と寄り添った瞬間の記憶だ。あれも月の白く輝く夜だった。つたない演奏ではあったが、それでも僕と麻理子は音色の中に溶け込んだ。

キラキラ 90

 僕が無数に並んだ墓石をぼんやり眺めていると、奈月は「蔦の細道っていわれるくらいですから、昔はきっと、緑が生い茂っていたんでしょう。平安時代の恋愛って、基本的には夜に行われていたわけですから、光源氏は、薄暗いこの道を密かに通ってたんでしょうね。」と言った。
「だとすれば、紫式部の想像力には感服するね。この土地を訪れたことがないのに、よくそこまで細かい描写ができたもんだ」と僕は思ったことをそのまま口にした。それから「さっき奈月が言ってた、光源氏の新しい縁というのは、明石の君との出会いなんだね?」と質問を付け足した。
 すると奈月は「そうですよ」と返してきた。「入道は、娘の縁談について、何年も前から住吉の神にお祈りし続けてたんです。つまり、光源氏と明石の君との出会いも、住吉の神の導きによるものだったわけですね。でも、源氏が現れてくれた後も、入道の心は決して落ち着きません。娘たちの関係は、すんなりとはいってくれなかったんです」
 奈月はそう言って、バッグからしおりを取り出し、それをまた読み始めた。
「入道は、自分の屋敷で、つまり、さっきの善楽寺で、朝から晩まで仏道修行に励んできたんです。あまりにひたむきに勤行するあまり、すっかり痩せていました。でも、光源氏はそんな入道に好感をもちます。『人のほどのあてはかなればにやあらむ、うちひがみほれぼれしきことはあれど、いにしへのことをも見知りて、ものきたなからず、よしづきたる事もまじれれば』と書いてありますね。つまり、入道は、性格的にひと癖あってぼけているところはあるけど、人柄が上品な上に、しっかりした教養が身に付いていたのです。それで、源氏は、住居も近いということもあって、入道と話をするようになります。そんなある初夏の夕月夜に、源氏が屋敷から海を見渡すと、夜空は晴れ渡り、淡路島までが遠く見渡せました。心慰められた源氏は、思わず琴をつま弾きます。その音色は松風に乗って入道の心にも届きます」
 なるほど、無量光寺は源氏の月見寺と記してあったが、この場所で源氏は月を見て、琴を弾いたのだ。なんだか、僕の耳にも聞こえてくるような気がした。

キラキラ 89

 明石の入道と光源氏との想像を巡らせる間もなく、無量光寺の山門はすぐに現れた。寺の門というよりは、武家屋敷のような風情があるので、最初はよく分からなかったが、近づくと「浄土宗 無量光寺」の文字が目に飛び込んできた。
 すると、隣で奈月が「あ」という声を上げた。
「ここ、前来た時に、東山君が一番興奮してたとこですね」と続けた奈月の前には古びた木の看板が立っていて、そこから左には白壁の土塀が続いている。土塀の前は細い路地になっている。たしかに、この道は見覚えがある。
「『蔦の細道』ですね」と奈月は看板を見て言った。僕も看板上に記してある毛筆を読んだ。そこにはこう書いてある。
「この周辺は、世界最古の長編ロマン『源氏物語』の舞台であり、主人公光源氏と明石の上との秘められたロマンが繰り広げられた場所である。善楽寺は明石の上の父、明石入道が住む『浜辺の館』跡で、『明石の入道の碑』がある。無量光寺は光源氏の月見寺であり、山門の前には『蔦の細道』という源氏の恋の通い路がある」
 読み終わって顔を上げた時、すでに奈月は白壁の道を歩き始めていた。彼女の背中は、陽光とそれを反射する白壁の光とに包み込まれている。「蔦の細道」の入口には白いペンキで塗られた四角い杭が立っていて、「光源氏が『明石の上』の住む岡辺の家に通った道」という説明が書かれている。おそらく「明石の上」というのは、明石の入道の娘である「明石の君」のことだろう。
 歩みを早めて奈月に追いつくと、彼女は「この道を光源氏が通ったんですね」と噛みしめるようにつぶやいた。道は本当に狭く、白壁の反対側には無数の墓石が並んでいる。だが、これほどの墓のすぐ隣を歩いても、決して暗い気持ちにはならない。目に映る全ての風景が、ふんだんに降り注ぐ陽光に照らし出されているからだ。

キラキラ 88

「生き方?」と僕は返した。すると奈月は「はい」と言い、話を続けた。
「ある意味、先輩と東山君って、似たところがあると思うんです。ほら、先輩も大学の時に言われてたじゃないですか、同じ土地で育って、同じ空気を吸い、同じ教育を受けてきたんだからって。でも、あえて、2人の違いを挙げるとすれば、生き方なんだと私は思ってます。東山君の場合は、何というか、自我が外側にあるんです。彼には常にモデルとなるものがあって、いつだってそれを追いかけて生きてました。その点、先輩の場合は、見た目はマイルドな感じなのに、内面はこだわりだらけです。誰に何と言われようと、まずは自分がどう考えるかっていうことが常に先にあるのが先輩です」
 奈月の指摘は的を射ていた。だからこそ僕は、どこか面映ゆい心持ちになった。
「麻理子さんのことだって、あんな素敵な女性だったのに、先輩は誰にも相談せずにすっぱり別れちゃったし、その後で、いきなり東京に行っちゃったし。でも、そこが先輩のすごいところなんですよ。だって、先輩、心の中はあの頃と変わってませんもん、何にも。だから、私、安心しました」
「見た目は老けたけどね」と僕が言うと奈月は何かを言いかけたが、それを直前で止めて、笑った。
 そのまま僕たちは山門の影にすっぽりと包まれた。その途端に、今から善楽寺に別れを告げるのだいうことが急に実感された。とても名残惜しく思われた。
 山門を抜けて、『一隅を照らす』という最澄の言葉の彫られた石柱の所にまで戻ってきた時、奈月はほほえみかけるようにそちらに一瞥し、それから、すんなりと善楽寺を後にした。僕は地図を広げて現在地を確認した。次の目的地である無量光寺は、善楽寺のすぐ隣にあると示されている。地図の中で、無量光寺はこう説明されている。「昔、境内には源氏屋敷、源氏月見の松があった。光源氏が月見をした寺として有名。山門の彫刻は、名工左甚五郎作という」
 なるほど、明石の入道は、自分の屋敷のすぐ隣に光源氏を住まわせたというわけだ。

キラキラ 87

 奈月はあまり好きではないはずの「縁」という言葉をまた使った。明石は新しい「縁」を生む地なのだと。
 そういえば、須磨という土地全体には「藻潮垂る」という言葉が底に敷かれているということだった。恋に破れ世をはかなんだ女性である「尼」が、海藻を採る「海女」と掛けられ、恋人を思って流れる涙の雫が「藻潮垂る」という表現につながるのだと東山はしおりの中で語っていた。だから須磨という場所には、恋人から遠く離れ、涙ながらにその人を思うという寂しげな宿命がついてまわる。
 一方この明石は違う。今奈月が読んでくれた『源氏物語』の本文にも、海女たちの様子は誇らしげとある。空も青く澄み渡っている。そして僕も、そのことを実感している。つまり、明石に来て光源氏が感じたことと今僕が感じている世界には似たところが多い。須磨にいた時よりも心は晴れ、落ち着いているのだ。
「こうしてしおりを読んでみると、東山君も、須磨と明石の間には境界めいたものがあったのだと捉えてたんでしょうね。明記はしてないですけど、何となくそんなニュアンスが伝わってきます」
 奈月はそう言い、しおりに目を落としたまま、取っ手の長いトートバッグを肩にかけ直した。
「でも、東山君の場合は、須磨と明石の境界について、先輩ほどは強く感じなかったんだと思いますね。だってあの人、ここへ来た時、そんな話全然しなかったですもん」
「一生懸命写真撮ってたよな」と僕はあの時の東山の姿を回想した。
「今思うんですけど、東山君は、『源氏物語』の世界から抜け出ることはなかったんですよ。あくまで作品の場面に忠実にこだわって、光源氏の目線に立ってここを歩いてたんでしょうね。それに対して、先輩は、自分自身の確かな目線がまず最初にあって、そこからいろんなことを捉えてるんですよ。それって、東山君と先輩の、生き方の違いでもあると思います」
 神妙な面持ちでそう言った奈月の横顔には、山門の影が徐々に覆い被さってきた。

キラキラ 86

 しおりに目を落としている奈月は、さらに歩みをゆるくした。陽光を反射している山門は僕たちのすぐ前にあるのに、なかなか近づいてはこない。
「あぁ、やっぱりこの明石には、何かあるのかなぁ」と奈月はつぶやき、ふと空を仰いだ。僕は何も言わずに、彼女の少し後ろを歩いている。ヘアリンスの香りは、もはやずいぶんと薄らいできている。
「明石にたどり着いた光源氏は、さっそく若妻である紫の上に手紙を送るんですね。その中でこんな和歌を詠んでいます。

はるかにも 思ひやるかな 知らざりし 浦よりをちに 浦づたひして

 見知らぬ須磨の浦からさらに遠く離れた明石に浦づたいをしても、あなたのことを遙かに思っていると源氏は言ってます」
「手紙をもらった紫の上は、さぞかし安心しただろうね」と僕は感想を述べた。すると奈月は「そりゃそうでしょう」と実感を込めて返してきた。
「紫の上は、いつ帰ってくるか分からない光源氏のことだけを考えながら、毎日ひたすら待ってたはずです。まして、それまでに恋愛経験のない彼女です。狂おしいほどに寂しかったことでしょう。
 ただ、そんな紫の上に手紙を送らせたのは、この明石が源氏にとって居心地がよかったっていうことも関係してると思うんです。『源氏物語』の本文にはこう書かれています。『小止みなかりし空のけしき、なごりなく澄みわたりて、あさりする海人たちどもほこらしげなり。須磨はいと心細く、海人の岩屋もまれなりしを、人しげき厭ひはしたまひしかど、ここは、また、さまことにあはれなること多くて、よろづに思し慰まる』
 須磨に比べると、海女たちの姿も生き生きしていて、風景にもすっきりとした情緒が感じられる。明石は源氏にとっては心慰められる地だと書かれています。先輩と同じように、源氏も須磨と明石の間に境界を感じてますね。実際のところ、この明石で、源氏には新たな『縁』が結ばれるんです」

キラキラ 85

 須磨からこの明石に入る前、ちょうど明石海峡大橋を越えるあたりで、奈月は「縁という考え方はつらくなる」と漏らしていた。「恋人と別れた時に縁がなかったのだと考えると、自分の人生とはいったい何だったのかと思う」と言っていた。さらに、今回彼女の夫となる人との出会いについて、「私たちは宿世によって結ばれているのか?」と僕に聞いてきた。その表情は寂しげだった。
 それが、明石の入道の邸宅跡で偶然出会った魚供養の石碑の前に立った途端、縁を肯定的に捉えるようになっている。ひょっとして奈月もまた、何かの境界線を越えたのではないかと僕は思った。
 僕たちは石碑の前を立ち去り、どちらから提案するともなく、山門の方へと歩を進めた。奈月は白のトートバッグからスマートフォンを取り出して、時刻を確認した。画面には「15:08」と表示してある。太陽はまだ十分に高く、汗をかき続けているからか、なんとなく身体も重い。寺の外へ出てから、どこか喫茶店でもあればそこに入りたいものだと考えていると、奈月が話しかけてきた。
「山門のそばに彫ってあった『一隅を照らすもの此れ則ち国宝なり』っていう最澄の言葉は、明石の入道の人生とつながってますね」
 どういうことかと聞き返すと、奈月はスマートフォンをバッグにしまい、その後で東山のしおりを取り出してゆっくりとページをめくった。
「この土地で大きな富をもたらした明石の入道は、当然権力も持っていたのですが、都に進出せずに最後まで明石にこだわりをもち、ここを終の棲家とします。『源氏物語』の本文には『住みけるさまなど、げに都のやむごとなき所どころに異ならず、艶にまばゆきさまは、まさりざまにぞ見ゆる』と記してあるほどです。入道の生活ぶりは、都の高貴な邸と比べても劣るところはなく、華やかな風情はむしろ都よりもまさっているように見えるというわけです。つまり入道は、都から離れたこの場所で地道に仏道修行をしながらも活躍する、まさに、『一隅を照らす』人物だったんですね」

キラキラ 84

「明石の入道の碑」を後にした僕たちは、広大な善楽寺の境内をあてもなくぶらついた。寺というよりは公園のような雰囲気だ。ほどよく手入れされた緑たちが青々と生い茂り、芝生ものんびりと広がっている。僕の前を歩く奈月は何を見るというわけでもなく、ただここの空気を吸っているというふうに映った。
 しばらくして彼女は、さっき礼拝したばかりの戒光院の近くで足を止め、僕を呼んだ。見ると、彼女の前にはすらりとした観音菩薩像が立っていて、その下にかわいらしい丸い魚の石像がある。傍には「足元の魚だけに水をかけてください」という立て看板が示してある。
「魚供養ですって」と奈月は声を弾ませた。
「この明石ではたくさんの魚が水揚げされるから、それを供養するというわけだな」と僕は言った。奈月はそこに書いてあるとおり、上に立つ観音像に注意を払いながら、柄杓を使って魚だけに水をかけた。するとすっかり乾燥して白っぽくなっていた魚が、水に浸されて濃紺に光った。
「なんだか、生き返ったみたいですね」と奈月は少女のように声を上げ、繰り返し水をかけた。そうして僕に柄杓を渡して、「先輩もどうぞ」と促してきた。僕は、なんとなく恥ずかしい思いで、彼女と同じことをした。なるほど、たしかに魚は生き生きとしているように見える。
「明石の入道の邸宅と同じ敷地の中にいるのが面白いですね」と奈月はハンドタオルで手を拭きながら言った。「海産物の売り上げや海上貿易によって富を築いた明石の入道だったけど、一方でこんな仏心は忘れなかったんだと思います。もちろん、この魚は平安時代からここにいたわけではないですけど」
 ただ、きっと港にほど近いこの場所は、平安時代には大いに賑わったことだろう。そんな想像を巡らせている横で、奈月は「東山君と来た時には全く気づかなかったですね」と石で作られた魚を眺めながら微笑んだ。「あの人は、明石の入道の碑に夢中になってましたからね。それにしても、今日、先輩と2人で来て初めて出会ったって思うと、このお魚ちゃんにどうしても縁を感じちゃいますね。私の心まで生き返ったみたいです」

キラキラ 83

 戒光院への参詣を終えた後、僕たちは寺の敷地内にある「明石の入道の碑」の前に立った。どこか五重塔のモチーフの漂う、年季の刻まれた石碑だ。どうやらこの場所が入道の邸宅址ということらしい。
 前回ここに来た時、東山は前後左右から写真を撮っていたのを思い出す。その石碑を改めて見上げた時、浜から吹くやわらかな風が、日差しを受けながら首筋を通り過ぎた。
「なんだか、明石の入道って、実在の人物のように思えますよね」と奈月はしみじみとつぶやいた。そういえば、つい今まで、僕には明石の入道が『源氏物語』の中の架空の人物だという認識はなかった。
「きっと、紫式部の近くにモデルとなる人がいたんだろうよ」と言うと、奈月は「でも、紫式部がこの土地を実際に歩いたという記録はどこにも残ってないようですね」と返してきた。
「ということは、須磨と明石の場面は、全くの想像で書かれたってこと?」
「おそらく。これはたしか、東山君じゃなくて、小早川先生からうかがった話だと思いますが、紫式部のお父さんも明石の入道と同じく、受領階級の役人で、越前の国、今で言う新潟あたりに赴任した経験はあったみたいですね。式部も父の任務に同行したらしいのですが、急きょ結婚話が持ち上がって帰京したという記録は残っていたと思います。でも、彼女が須磨・明石に行ったとは記されてないですね」
「だとすれば、ものすごい想像力だな」と僕は感心して言った。
「紫式部って、宮中でも人一倍負けず嫌いだったようです。なので、当時はサブカルチャー程度の市民権しか得ていなかった作り物語を書く上で、他の貴族から作り物だと馬鹿にされたくはなかったんでしょう。きっと彼女は、任務を終えて都に戻ってきた播磨守たちを呼んでは須磨・明石のことを詳しく聞き出し、それを基にこの場面を執筆したんだと思われます」
 もう一度「明石の入道の碑」を見上げる。陽光を存分に浴びた目の前の石碑は白くそびえ立っている。奈月の説明を聞いた後になっても、僕には明石の入道が架空の人物だとは決して思えなかった。

キラキラ 82

 善楽寺の前に立って山門を見上げた時、その立派な屋根瓦の上に、心が吸い込まれそうなほどの青空が見えた。奈月は「写真撮りたいなー」とため息混じりに言ったが、「でもシャッター押してしてくれそうな人もいないし、ここは我慢しましょうかね」と自らの発言をすぐに撤回した。
「俺が押そうか?」と言うと、彼女は力の抜けた顔をして、「1人で映るとか、寂しすぎるじゃないですか」と返してきた。「いいんです。今回の旅は、胸の奥のアルバムにそっとしまっときたいんです」
 そう言って奈月は唇を固く閉じたまま笑みを浮かべ、改めて門を見渡した。彼女は門前に立ててある石柱に注目し、そこに刻み込んである碑文を読んだ。
「一隅を照らすもの此れ則ち国宝なり」
 どういう意味なのかと尋ねると「国の中心で目立つような活躍をする人よりも、地方に根付いて地道に修行する人たちこそ国の宝だっていうくらいの意味ですかね。京都にある、比叡山延暦寺をきりひらいた最澄の言葉です」と奈月は応えた。
「さすがに国文学を研究した奈月だな」と感心して言うと、「いえ、東山君に教えてもらったんです。一緒に京都に行った時に、レンタカーで比叡山に上がったんです」と彼女は明るく答えた。
 善楽寺の境内は、隅々にまで手入れが行き届いていて、清潔感さえ漂っている。僕たちはまず、歩道から見えていた本殿と思しき建物の前に立ち、礼拝した。
「これが戒光院ですね」と奈月は荘厳な堂を見上げながら言った。「善楽寺は、この戒光院を含むいくつかの寺院の総称だってあの時東山君が教えてくれました。平安時代には、ここは京都の名刹に負けないほどの大寺院だったんだって」
 奈月は自らの過去を振り返るかのように言った後で、「あ、そうか、さっきの最澄の言葉は、そういう意味だったんですね」と大きな声をあげた。「京都から離れた地方にも、こんなにすばらしいお寺がある。これこそが宝なのだって。その思想って、ここに住んでいた明石の入道の人生にも当てはまりますね!」

キラキラ 81

 奈月は僕の顔をまっすぐに見ながらそう言った後、そのまま視線を僕の背後へとずらした。そして、声の調子を一段高くして、「そろそろ見えてきましたね」と話を変えた。奈月の視線の先に目をやると、歩道に並ぶケヤキの葉の間から、大きな寺の屋根が見え始めた。その前には数えきれぬほどの墓石がひしめいている。
「たしか、あの辺じゃなかったですか?」と奈月が問いかけてきたので、僕は地図を開いた。それによると、明石川沿いには「善楽寺」「無量光寺」「伊弉冊神社」が縦に3つ並んでいる。手前に見えているのは善楽寺の屋根だ。明石の入道の館跡は、この寺の中の戒光院にあると地図には記してある。
「思い出しましたー」と奈月は寺の屋根をまぶしそうに見ながら声を上げた。「前回東山君たちと来た時も、このルートを通りましたよね。ここまで歩いて来て、やっと見覚えのある風景に出会いました」
 奈月は憧れていたスターに会えたような表情を浮かべている。
「それにしても、ずいぶんと時間がかかってしまったな」と僕も安堵を込めて言った。「思った以上に明石の街は入り組んでたよ」
「やっぱり、自分たちだけの力でたどり着くと、達成感が違いますね。しかも、あの時は明石川の堤防の上に立って、境界の話なんてしなかったですし」
 そう言った奈月の額の汗の粒はさっきよりも大きくなっている。それで僕は手に取ったうちわの風を彼女にあててやった。すると奈月は「いいですよ、先輩、そんなことしてもらったら、バチがあたっちゃいます」と言って僕から少し遠ざかった。
 川沿いの歩道から、墓石の並ぶ路地に入った瞬間、さっき奈月がしおりを読みながら教えてくれた、当時の明石の街の賑わいが想像された。豊富な海産物と海上貿易。港ではたくさんの人々の往来があり、景気の良い声が至る所で響いている。明石の入道という人物は少し高い場所に立って、その賑わいを眺めている。     
作者

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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