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キラキラ 140

 京都外大を通過したあたりでふと車内を見渡すと、乗客は少し減ったように思えた。つい今まで世間話をしていた中年女性たちも、それから学校の話題で盛り上がっていた女子高生たちも、いつのまにやら姿を消している。吊り輪にぶら下がっている人はまだまだ多いが、それでも心なしか、車内は静かになったような気がする。
「源氏と関係を持った明石の君は、もう後戻りはできなくなってました」と奈月は話を続けた。その声はよりはっきりと僕の耳に届くようになっている。
「それなのに、光源氏の思いが前ほど感じられなくなってしまって、明石の君はつらい時間を過ごします。『女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身も投げつべき心地する』。つまり、恐れていた通りの展開になってきたので、明石の君は、今こそほんとうに身を投げてしまいたいほどの気持ちになっているのです」
「せつないな」と僕はさすがに明石の君に同情した。 
「このへんの明石の君の姿は、やっぱり六条御息所と重なりますよね」と奈月は言った。「ただ、さっきも言いましたが、この後、明石の君と六条御息所は全く別の運命に生きるんですけどね」
 奈月はそう続け、さらにしおりに目を落とした。三菱重工の前を通過したバスは、ほどなくして西大路にさしかかった。この辺りは、交通の流れも比較的スムーズだ。大きな交差点を右折する瞬間、奈月の身体がより密着した。バスはそのまま西大路を北上した。
「明石の君にとっては初めての恋の苦しみでした。これまでは父の明石の入道だけを頼りに、ただ何となしに、これといった苦しみを感じずに生きてきました。それにひきかえ、男の人を本気で好きになるっていうのは、こんなにも苦労の多いことなのかと、想像していた以上に悲しい気持ちを抱きながら彼女は生活することになります。それでも、たまに源氏に逢う時なんかは、その思いを抑えて、穏やかな憎げのない様子で接するんです。偉いですよね、彼女」と奈月は今度は明石の君の肩を持った。
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キラキラ 139

「そんな都合のいい光源氏に対して、紫の上は、大人の対応をします。彼女は源氏への返事を『何心なくらうたげに』、つまり、何のこだわりもないようなかわいらしい様子で書いたのです。もちろん、内心は穏やかじゃないんですよ」と奈月はあくまで紫の上をかばうように言った。
「で、どんな内容なの、その手紙は?」と僕は話を急かした。
「まず彼女は『忍びかねたる御夢語につけても、思ひあはせらるること多かるを』と書き出します。訳すと、私に隠すことのできない夢語(ゆめがたり)を聞いて、あなたのことが信用できなくなるのですが、という意味です。夢語とは、夢の内容を目覚めた後に語ることで、ここでは光源氏が明石の君と関係を持ったことを指します。つまり、紫の上は源氏に失望したことを遠回しに伝えてるんです。その上で、和歌を返します。

うらなくも 思ひけるかな 契りしを 松より浪は 越えじものぞと 
 
 思えば、うっかり安心してしまっていました。あれほどまでに強く約束したんですもの。まさか、裏切られることはないものとばかり思っていました。そんな女心を詠んだ和歌です。しかも『うら(浦)』とか『松(待つ)』とか『浪』など、海を感じさせる言葉をあえて散りばめてます。うまい反撃ですね」
 その和歌に、麻理子の声を聞かされているような気がした。彼女との恋はすでに時効を迎えたものとばかり思っていた。だが、よくよく考えれば、時効だなんて、ただの便宜にすぎない。僕が彼女を裏切ったという事実は消えやしない。
「紫の上の手紙は『おいらか』な書きぶりでした。『おいらか』とは、心が広いという意味ですね。源氏には、それがかえって胸にしみるんです。それで彼は、いつまでも手紙を手に取って眺めます。そしてその後は、明石の君へのお忍びの泊まりをしなくなったんです」

キラキラ 138

 僕には光源氏に共感するところがあった。明石の君と関係をもったことを、紫の上に報告しなければ済まないという気持ち。それは、前回、嵐山で幸恵のことだけを考えて歩きながらも、その前に麻理子に電話しなければ済まなかったという心境によく似ている。
「結局、紫の上に打ち明けたことで、紫の上自身も、それから明石の君も、2人ともが傷つくことになるんです。すっきりしたのは源氏だけですよ」と奈月は追い討ちをかけた。まるで僕がなじられているように聞こえた。
「しかも、紫の上への手紙の書きぶりがまた、許せないんですけど」と奈月は続け、源氏が読んだ和歌を声に出した。

しほしほと まづぞ泣かるる かりそめの みるめはあまの すさびなれども

「あなたのことを思い出すと、しおしおと泣けてくるのです。かりそめに他の女性を抱いてしまったのは、海人(あま)の戯れごとのようなものにすぎません。ただ、どうしても止められなかったのです。それでももちろん、私はあなたのことを思い続けていますよ」と奈月は和歌を訳してくれた。
「で、その和歌の中で『しほしほ』とか『かりそめ』とか『あま』という言葉を散りばめてるでしょ。ほら、須磨という地には『うきめ刈る海女』とか『藻塩垂る海女』なんていう言葉が隠されてたじゃないですか。好きな人を思いながら密かに涙を流すっていう意味の言葉ですよ。源氏はこの期に及んで、紫の上の和歌に、海辺に流れた人の恋心を込めたんです。ほんと、虫がよすぎますよね、この男」
 奈月はそう吐き捨てた。その時バスは四条大宮の停留所で止まった。降車した人と同じ数だけの乗客が新たに車内に乗り込んできた。僕は話の続きが気になった。

キラキラ 137

「なんだか話がややこしくなってるんだな」と僕は言い、奈月のふくらはぎにちらと目を遣った。
「ですね。明石の君が京都に上がってくるまでには、いろんな紆余曲折があったんですよ。彼女と光源氏と紫の上との、いわば三角関係ってやつですね」と奈月はしおりに目を落としたまま応えた。
 バスは堀川通を通過した。次はようやく四条大宮だ。自転車を使った方が間違いなく早いだろう。だが、夕刻に向かって流れる京都の時間を眺めながらバスに揺られるのも悪くはない。
 気がつけば、車内は乗客であふれ返っている。ただ、吊り輪につかまっている人たちも、おそらくはこの混雑に慣れているのだろう、特に苦にしているとしているというふうもなく、思い思いの時間を過ごしているように見える。中年女性たちは扇子を手にして巷の噂話をしているし、女子高生たちは部活動の人間関係の話に盛り上がっている。車内は、意外と賑わっている。
 そんな中、僕と奈月は隅の方でじっとしている。ひまわり畑に紛れてしまった違う種類の花のようだ。学生時代、奈月はひまわりのような存在だったことを考えると、やはり時間の経過を感じずにはいられない。それは、世の中に流れる客観的な時間ではない。佐賀の実家に帰り、父の介護をし、そして東山と別れた後で小学校教師への夢を諦め、パート勤めの会社の奥さんに紹介してもらった人ともうじき結婚を控えている、奈月の内面に刻まれた誰にも共有することのできない時間の流れだ。
 そんなことを考えると、思わず奈月の髪を撫でてやりたい衝動に駆られる。
 すると彼女はふっと僕の方を見て、「やっぱり光源氏って身勝手ですね」とつぶやきかけた。
「明石の君を抱きたい衝動を抑えられずに、彼女の部屋に強引に侵入しておきながら、その後になって急に罪悪感に責められるんです。しかも、そのことが紫の上の耳に入ったらまずいと思って、彼女に手紙を書くんですよ。なんか、ありえないですよね」とあきれ顔で笑った。
 だがその話を聞いて、僕の胸には何かつっかえるものがあった。

キラキラ 136

「ということは、そのうち明石の君は、都に住むことになるんだな」と僕は推測した。
「結論から言うと、そうなりますね」と奈月は答えを言った。膝の上のうちわのカラフルなバルーンの写真がこっちを向いている。
「でも、明石の君が都に上がるまでには、さまざまないきさつがあったはずです」
「明石の入道が娘を離そうとしなかったとか?」
「詳しいあらすじは、しおりを見てみないとちゃんと思い出せませんが、とにかく明石の君は、源氏と関係を持った後も、まあ、予想通りですが、苦しんだんです」と奈月は穏やかな顔で返してきた。
「それから、たしか、源氏の妻である紫の上も微妙に絡んでたと思いますよ」と奈月は続け、足元のトートバッグにうちわをしまい、それと引き替えにしおりを取り出した。「とにかく、前回バスに乗ってホテルに行く途中、東山君はそんな話をしてたような気がします」
 四条烏丸の交差点を左折したバスは、四条通を西へと進んだ。等間隔に設けられたバス停に必ず停まるために、ずっと低速ギアでの走行だ。気がつけば、西の空の色は薄くなりはじめている。
 奈月はバスに揺られながらしおりを見ている。肘から肩にかけて僕の腕に触れていることに彼女は気づいているのだろうかと思う。すると、彼女は口を開いた。
「明石の君と会うようになった後、さすがに源氏も紫の上に対して申し訳なさを感じるんです。自分を信じて都でひたすら待っている紫の上が、風の便りにでも明石の君とのことを耳にすることがあれば、もちろん気の毒だし、恥ずかしいと思います。東山君は、源氏のこの思いを妻への情愛だと解釈してるみたいですが、私はそうは思いませんね。源氏は恋の駆け引きにはまって、奥さんのことをほったらかしにしてただけですよ。明石の君も可哀想ですが、それ以上に紫の上の方がずっと気の毒です」
 奈月はそう言い、脚を組んだ。彼女の筋肉質なふくらはぎが露わになった。

キラキラ 135

「なるほどね、いかにもあいつが言いそうなことだな」と僕は相づちを打った。一見さわやかなサッカー選手といった風貌の東山が、汗をかきながらまぶたに力を入れて語る姿が思い浮かぶ。
「だから京都に来るといつも、独特のパワーを感じるって言ってましたね。京都には街全体に迫力があるって彼の口からよく聞きました」
「迫力?」
「はい。空海のパワーを感じるとか言ってましたよ」
「空海?」
「なんか、頭イカれてるみたいですよね。でも、あの人はまじめな顔して何度もそう言ってました。ずいぶんと前に東寺に行った時に、あの中の仏像を見て圧倒されたんですよ。たしか東寺を開いたのは、空海でしたよね。だからきっと、その印象が強かったんだと思うんです。京都って、街中にお寺が突然現れるじゃないですか。それで仏教的な迫力を感じ取ったんでしょう」
 京都に来て興奮している東山の隣で、奈月が微笑む姿が鮮明に想像できる。やはり2人はお似合いのカップルだったのだとつくづく思う。そう考えると、今奈月の隣に僕が座っていることに、どうしても違和感を覚えてしまう。東山がここにいないというだけで、僕たちのバランスは崩れ、僕の心もざわめきはじめている。
 改めて心の中で唱える。いいかい、これはあくまで学生時代の想い出辿る旅なんだぞと。大丈夫だ。そのうちホテルに入れば、たくさんの記憶が甦ってくる。そうして、想い出話に花が咲くはずだ。
 バスは四条烏丸の交差点の赤信号で止まった。その時奈月が口を開いた。
「そういえば、東山君は明石の君のことを話してたんじゃないですかね。今から泊まる嵐山のホテルは、明石の君が住むことになった邸の近くなんだって、たしかそんなことを言ってたような気がします」

キラキラ 134

 そう言って奈月は、うっすらと笑いながら、どこかおぼろげな視線を窓の外に送った。僕は、うちわをあおぐのをもうやめてもいいよと言った。すると奈月はそれを太ももの上に持っていったが、なおも小さく動かし続けた。ろうそくの火でも消すようなあおぎ方だった。
「ホテルに入って、とりあえずお風呂でのんびりしたいな」と奈月はつぶやいた。
 空はまだ明るいとはいえ、夕刻が近づいている。京都の真ん中を南北に貫く烏丸通には車がひしめいている。バスの車内もごった返してきた。バス停のたびに乗客が入ってくる。もはや空席は見あたらない。すし詰め状態になるのも時間の問題だ。
 それにしても、あの時東山たちとバスに乗った記憶がまるでない。ホテルに到着した後、幸恵の土産を買いに部屋を出たところからしか思い出せない。学生時代の想い出を辿る旅のはずなのに、肝心の記憶が消滅してしまっては、どうしようもない。京都に入った途端、今回の旅が前回とは違った意味を持つような気がしたのは、おそらくそのせいだ。
「あの日、東山は、どんなこと言ってたっけ?」と僕は質問を投げかけた。するとぼんやりと窓の外を見ていた奈月はゆっくりとこっちに顔を向け、「え?」と怪訝そうに声を上げた。同時にうちわをあおぐ手も止まった。
「さすがにそこまでは覚えてないですよ。さっきも言いましたけど、すべての記憶が曖昧なんです。何度も京都に来てますから、いろんな記憶がごちゃごちゃになってるんだと思います」
 奈月はさっきと同じことを言った。
「ただ、東山君は、京都に入るといつも、異様に熱く語ってましたね。土地にはパワーがあるんだって、耳にタコができるほど聞かされたもんです。たとえば、長崎っていう土地には、古くからいろいろな歴史的事件が集中して起こってきたけど、そういうのは決して偶然なんかじゃないっていうのが、彼の持論でしたね。だから前に先輩と来た時も、きっと興奮してたと思いますよ」

キラキラ 133

「うん、いや、まぁ、そこまですることもない。奈月が問題ないって言うのなら、俺の方は全然構わないし、もし本当に不都合があれば、ホテルに着いてからいろいろ考えても何とかなるだろう」と僕は結論を先送りするように答えた。とはいえ心の中では、「大丈夫だ、俺と奈月は先輩と後輩の仲なんだ。大学生が合宿をするようなノリで泊まればいいし、おそらく奈月もそれくらいの感じでしか捉えてないはずだ」と自分を納得させるように言い続けた。だがその奥で、鏡の中の醜い顔が微笑みかけてくる。「ホラホラ、これがほんとうの僕だ。結婚を控えた女の子と泊まるだなんて、罰当たりな男だ」と。
 その時、えび茶色に塗られた72系統の京都バスが勢いよく入ってきた。
「あのバスですね、嵐山って書いてあります」と奈月は指をさして静かに声を上げた。
 僕はうちわをあおぎながらバスに乗り込んだ。大丈夫だ、きっと楽しい旅になる。心配することは何もない。この旅の主役は奈月だ。すべて彼女に任せておけばいい。座席に着いた後も、何度もそう言い聞かせた。そのうちバスは動き出した。
 京都駅発ということで車内には十分な空席があり、僕たちは後方の2人がけの席に隣同士で座ることができた。だが、バスは新幹線とは違い、冷房の効きは弱い。奈月は僕に向かってうちわをあおいでくれた。その度ごとに彼女の腕と膝が僕に触れる。汗ばんだ奈月の身体はさすがに少しだけ冷たい。
 京都タワーはあっという間に後方に消え、バスはそろそろ夕暮れに向かって時間が流れる真夏の京都の街を北へと進んだ。
「なんだか、疲れちゃいましたね」と奈月はうちわをあおいでくれながらそう言った。「私たちも、年をとったっていうことですかね?」
「っていうよりは、学生の時みたいに普段遊び慣れてないってことじゃないか?」と僕は応えた。
「たしかにそうかもしれません。私、ほとんど忘れかけてましたもん。楽しすぎて疲れるっていう感覚」

キラキラ 132

 そう言い聞かせながら、バスターミナルの屋根の間から、青空に白くそびえる京都タワーを見上げる。その後で目の前に立つ奈月の背中を見下ろす。学生時代この子の隣には必ずと言っていいほど東山の姿があった。さっきまではべつだん何も感じなかったのに、タワーを前にするとさらに奈月が小さく見えてしまう。
 すると奈月は僕に背中を向けたまま「なかなか来ないですね」とつぶやいた。彼女の首筋はますます汗ばみ、うなじの辺りには髪の毛が海藻のように絡みついている。 
「俺たちがここに来る直前にバスが出てしまったんだろうな」と僕は何の気なしに奈月に同調した。
 僕の後ろには、いつの間にか人が並んでいる。うちわをあおぐと、熱風が返ってくる。さっき新幹線の中で1度は乾いたシャツの背中は、もはや取り返しがつかないくらいに汗で濡れている。
「早くホテルに入って、ゆっくりしたいです」と奈月は言った。
「ちなみに」と僕は思っていたことを聞いた。「今日の部屋割りって、どうなってるんだっけ?」
 すると奈月は顔だけこちらに向けて、「1部屋しかとってないですけど、まずかったですかね?」と言ってきた。
 僕はいろいろなことを考えた末に、「別にまずいっていうわけじゃないけど、奈月はそれでいいの?」と投げかけた。彼女は額に付着した前髪を後ろにやりながら、「私の方は全然問題ないですよ」と平然と言った。「じつは、前来た時にあのホテルをとったの、私だったんです。東山君、その辺のことは無頓着だったんで、私がインターネットで予約しといたんです」
「たしか、学生が気軽に泊まれるような宿じゃなかったよな」と僕は曖昧な記憶を辿りながら言った。
「だって、あの時はラッキーなことに、たまたま学生限定のプランがあったんですもん。でも、さすがに今回は安い部屋はなかったです。それで、広めの和室を1部屋だけ予約しといたんですけど、先輩が不都合なら、もう1部屋とりましょうか?」 

キラキラ 131

 あの時の自分を振り返ると、なんと罰当たりな男だったんだろうと愕然とする。目の前に鏡を突きつけられて、「ホラ、これがあなたのほんとうの素顔ですよ」と言われ、中には驚くほど醜い顔が映っている。え、これが僕ですか? 信じたくはない。そうやってゾッとする感じだ。
 現状に直面していた時はただ必死で、自己を客観視することなんてとても難しい。だが、後になって冷静にその時の自分を眺めてみると、なんと自分は愚かだったろうと、ため息しか出ない。
 ということは、今の自分がまともな生き方をしているかどうかさえ怪しくなってくる。
 大学生の時、まるで妹のように慕っていた女の子と2人きりで旅をしている。もちろん、学生時代の想い出を辿る旅だと言えば十分に聞こえはいい。いくつになっても僕たちは先輩と後輩の仲なのだ。
 だが、奈月はもうじき結婚を控える身でもある。倫理的な観点に立つと、今回の旅は手放しで正しいとは言えないだろう。京都に近づくにつれて僕を追及しはじめたそんな感覚は、今や水に溶けた黒いインキのように、じわじわと心に浸食し始めている。
 前回ここへ来た時、僕には麻理子という女性がありながら、他人の妻である幸恵のことをひたすら考えて嵐山の街を歩いた。罪悪感すらまったく覚えないくらいに、幸恵のことでもう頭がいっぱいだった。
 それが今は、他に婚約者がいる奈月と2人きりで京都駅のバスターミナルに立ち、あの時感じなかった罪悪感を抱きつつある。明石にいた時には、後輩との旅なんだからあまり細かいことを気にせずにただ楽しめばいいとたかをくくっていた。それが京都に入った途端、そうやって割り切って考えることができなくなって、心は善と悪の間を行ったり来たりしている。それだけ僕も大人になったということなのかもしれない。
 とにかく自分に言い聞かせる。これは、学生時代の後輩と一緒に、あの頃の想い出を辿るだけの旅なのだ。だから、悪いことは何もしてない。僕たちは男と女の関係ではなく、あくまで先輩と後輩なのだ!

キラキラ 130

 少しずつ記憶が甦ってきた。あれはちょうど今日と同じような、よく晴れた夏の夕方だった。
 嵐山の大堰川沿いの宿に付いた僕たちは、それぞれの部屋に入った。メンバーの中で女の子は奈月1人だったということもあって、彼女と東山だけが2人部屋で、他のメンバーは1つの部屋に入った。僕を含めて男4人の部屋だった。さっき奈月が言っていたように、みんな泳ぎ疲れていて、せっかくだから街に出ようと僕が提案したものの、彼らは押入から枕を取り出し、横になってテレビを見ているうちに眠り込んでしまった。それで僕は、1人で街ることにしたのだ。
 あの時の情景が次々とつながってゆく。
 ホテルを出てほんの少し歩くと渡月橋があった。橋を渡ったあたりから観光客がどんどん増え始め、嵐山の商店街は、まるで何かのお祭りのように賑わっていた。人混みに紛れても、僕は決して気詰まりではなかった。むしろ楽に感じられた。これでゆっくりと幸恵のことを思い浮かべることができる、あの時たしかに僕はそんなことを考えた。
 それでも麻理子にはちゃんと連絡しとかなければならなかった。僕が付き合っていたのは麻理子の方だったのだ。それで僕は彼女に電話を入れた。だが、あの時話したことは何1つとして覚えていない。きっと、当たり障りのない会話をして、そのまま電話を切ったのだろう。
 その電話を終えた後、幸恵のことだけを考えて僕は商店街を巡った。彼女が喜びそうな土産を買って帰りたいと思った。
 街は熱気に満ちあふれていた。たくさんのカップルが幸せそうに歩いていて、その中に、僕と幸恵のような秘密の恋に落ちているカップルはいないものかと、きょろきょろ見回したのを覚えている。だがそんなことを考えているうちに、急に寂しくなった。今頃幸恵は彼女の夫と2人で出かけているかもしれないと思うと、いつものように胸が詰まってきたのだ。

キラキラ 129

 そんな僕をよそに、奈月はバス乗り場に向かってすたすたと歩いた。17時を過ぎているというのに日差しは衰えるところ知らず、それどころか、ターミナルに入ってくるバスの熱気で、辺りは異様にむんむんしている。
「やっぱり、京都の夏は、ちょっと違いますね」と奈月は言いながら、バルーンの写真が貼ってあるうちわを久々に取り出してあおぎ始めた。それを見て僕も彼女に倣った。うちわの風の中に、バスの排気ガスの匂いが混じっていた。
 僕たちは嵐山行きのバス乗り場の前に立った。どうやら、先のバスは発車したばかりらしく、僕たちの前に待っている人の姿はなかった。
「それにしても暑いですね」と奈月は繰り返した。こめかみには玉のような汗がにじみ出ている。
「前回来た時にも、ホテルまでバスを使ったっけ?」と僕は聞いた。依然として記憶が甦ってこない。
「使ったと思いますよ。だって、それ以外に行きようがないじゃないですか」と奈月は返した。「私、ここからバスに乗って嵐山に行ったことが何度かあるんで、いろんな記憶が錯綜してますが、たしかあの時もみんなでバスに乗ったと思いますよ。すごいぎゅうぎゅう詰めで、須磨で海水浴した人たちは吊り輪を持って立ったまま寝てたような記憶もありますね。曖昧ですけど」
 奈月はそう言い、白いトートバッグを肩にかけ直した。そんな彼女の背中を見ていると、今回の旅は、今この瞬間から始まるような気がしてならなかった。須磨と明石を歩いたのはほんの序章で、今から本論に入ってゆく。そう思えた。
「前回来た時も、そのままホテルに直行したっけ?」と僕は次の質問を投げかけた。すると奈月は「とりあえずホテルに直行しといて、それから嵐山を散策しようという話でしたが、ホテルに着いた瞬間、みんなぐったりして、けっこうばらばらになっちゃいましたね。先輩はたしか、単独行動されたんじゃなかったですかね」と奈月が言った時、ようやく記憶の断片が蘇った。あの時僕は麻理子に電話した後で、幸恵の土産を買いに1人で街に出たのだ。

キラキラ 128

 新幹線のホームを出た後でエスカレーターに乗り、出口に向かって降りていると、眼下に広がる大きなフロアに多くの人々がひしめき合っているのが見えた。
「うわぁ、すごい人ですね」と奈月は声を上げた。「先輩はあんまり驚かないでしょ?」
「東京も人が多いからなぁ。ただ、人混みには驚かないけど、この京都駅の様子は、東京とはまた違う感じがするね」と僕は答えた。
 奈月は「佐賀から出て来た私は、圧倒されちゃいますよ」と甲高い声を上げたが、僕の目にはウキウキしているように映った。
「前に来た時もこんなに人が多かったかな?」と問いかけると、「多かったと思いますよ、たぶん。正直、あんまりよく覚えてないですけどね」と奈月は返してきた。
 じつは僕も同感だ。前回ここに来た時の記憶は、おそろしいくらいにきれいに消えている。
 須磨と明石の風景は鮮明に残っているのに、京都駅に近づくにつれて記憶が溶けてゆく。東山と奈月の後を付いてサークルの他の仲間たちと一緒にここの改札を抜けたはずなのに、その時の情景がどこにも見あたらない。
 そんな奇妙な錯覚にとらわれながら1階に下りると、そこにはさらなる人だかりができていた。どうやらミニ・ライブが行われているようだった。軽快な男性ボーカルの声がギターに合わせて高らかに響き渡っている。奈月はその人垣の中に小さな体を突っ込み、しばしの間音楽に耳を傾けていた。テレビでも活躍するような知名度の高いデュオがそこにいたらしく、彼女は「やっぱ、本物はかっこいいっすね」と興奮気味に戻ってきた。僕にとっては、何から何までが非現実の世界の出来事のようだった。
 駅ビルの外に出ると、胸のすくような青空を背景に京都タワーがそびえ立っている。足を止めて見上げると、初めてここへ来たような錯覚がますます強くなるばかりだった。

キラキラ 127

 奈月はどこか煮え切らないような表情を浮かべてそう言った。
「どんなに会えない時間が長くても、好きな人を思う気持ちは色褪せないものだって私は思うんです。でも、他に好きな人ができた場合、それも、会えない人の存在を埋めるような人のことを好きになった時、これまで思っていた人への気持ちって、自然と移ろい消えてゆくものなんじゃないでしょうか」
 奈月は、実体験を話しているように見える。東山のことを言っているのかもしれない。
「なんか、せつないです」
 奈月がそう漏らした時、新幹線はさらに減速した。窓の外には東寺の五重塔が青い空に向かって黒くそびえ立っているのが見える。いよいよ京都に入ったんだなと僕は実感した。奈月もふっと我に戻ったような顔をして、「おっ」と小さく口走った。「いつの間にか着いてましたね」
 そうつぶやいた奈月は、膝の上のしおりをやさしく真ん中で折り、白いトートバッグの中に仕舞った。
 東寺を過ぎた新幹線は八条の街を右手に眺めながら、京都駅ビルの中にゆっくりと潜り込んでいった。ここへ来るといつも僕は、ある名状しがたい暗さを感じてしまう。もちろん駅ビルがあまりに大きいために日差しを遮ってしまうといえばそれまでだ。だが僕は、それ以上の何かを感じる。歴史の重みというのはあまりに陳腐な表現に思われる。とにかくこの京都駅は、たとえば東京駅とは明らかに違う世界に覆われているといつも思う。前回東山たちとここへきた時にも同じことを感じた。
 だが、明石から新快速列車に乗ってきたあの日と比べても、今日はひときわ暗く感じられる。さっきまであまりにまぶしい日差しに照らされていたから、そのコントラストによるのかもしれない。
 ホームに降り立った瞬間、熱気が全身を包み込んだ。時計は17時を過ぎている。奈月は「とりあえず、宿に行きましょうかね」と言った。「前回と同じホテルをとってますから」 

キラキラ 126

「いかにも東山らしい、大胆な見解だな」と僕は感想を述べた。
 奈月はいったんしおりを膝の上に置き、「でも、それなりに説得力ありますよね」と応えた。「『源氏物語』では、ラブシーンは省略されるわけですから、なんというか、比喩的な表現になってしまうのは十分に考えられますもん。たしか、人妻である空蝉と関係を結んだ時や、藤壺と密通した時にも、同じような感じで、さりげなく、なまめかしい描かれ方がされてましたよ」
 奈月がそう言った後、僕は改めて比叡山を眺めた。距離が近づいた分、さっきよりも緑が濃く見える。その瞬間、新幹線はもう1段減速したように感じられた。すると、オルゴール調の甘い音楽が流れ、「まもなく、京都。京都です・・・」というアナウンスが控えめに響いた。
 それでも奈月は、「でも、私の場合は、明石の君よりも、やっぱり六条御息所の方が気になっちゃいますね」と話を終わらせなかった。僕は彼女の横顔に目を遣った。
「源氏にとって、初めて明石の君と過ごす夜は、ドキドキだったんです。だって、須磨に流れて以降、独り寝の寂しさを味わい続けてたんですから。そもそも明石の君に近づいたのは『心細き独り寝の慰めにも』という思いがきっかけでしたし。だからこそ、明石の君との夜は、いくら源氏とはいえ、あっという間に感じられたことでしょう。でも朝になれば、平安時代の恋のルールに従って、自分の屋敷に戻ります。そして、後朝(きぬぎぬ)の手紙といわれる、愛を交わした翌朝に送る手紙をこっそりと送るんです。源氏には、半ば強引に明石の君を抱いたという良心の呵責のようなものがありました。都から流れた身でありながら、このようなことが起こってしまったのを包み隠そうとも思うわけです。   
 でも、決して悲しい場面に見えません。六条御息所と別れた野宮の朝と比べると、むしろ前向きにさえ感じられます。これから明石の君との新しい生活が始まってゆくわけですから。そう考えると、どうしても六条御息所に、私は同情しちゃいますね」

キラキラ 125

 新幹線の風切り音がかすかに低くなった。まもなくして京都に入るために、ギアが1段下がったのだろう。遙か遠くには比叡の山々も望まれる。そんな僕の横で、奈月はしおりの文章を丹念に読み上げている。彼女の声の中に、東山の声が再び重なりはじめている。
「この場面の本当のおもしろさは、実はまだ別にあると私は思っている。それを解明するために、初めて源氏の訪問を受けた明石の君の動きをもう1度読んでみよう。

 かうものおぼえぬに、いとわりなくて、近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけるにかいと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。 

 明石の君は、曹司と呼ばれる部屋の中に入り込んで、固く戸を閉めた。光源氏は、無理にこじ開けようとはしなかった。そんな場面だ。私は、この描写は比喩だととらえている。すなわち、固く閉ざされた戸とは明石の君の性器をたとえている。彼女は、そこに光源氏を通すと、もう2度と戻れなくなることを知っていた。かたや源氏の方も、そんな彼女の心中を十分に察していた。だから、無理強いはしなかった。
 ところが、さっきも述べたように『されどさのみもいかでかあらむ』、つまり、お互いに意地を張り合う状態は長くは続かなかった。この場面で、光源氏が戸を開ける描写は省略されている。気が付けば、2人は交わっていたのだ。つまり、戸とは性器だったのだ。
 そうして源氏は、明石の君との間に結ばれた縁にしみじみとした思いを馳せる。京都から須磨に流れ、嵐の中に立ち現れた住吉の神が引き合わせたのは、この美しい女性だったのだと。つまり、今回の流離の旅は明石の君と出会うためだった。そしてそのことは、あれほどまでに激しく愛し合った六条御息所との決別をも意味した。事実、明石の君を強く思うにつれ、六条御息所の影はみるみる薄くなってゆくのだ」

キラキラ 124

 それ以上奈月をいじめるのは、彼女の気分を害しかねない気もしてきた。
 すると奈月は真顔に戻って、「さっきどこまで読みましかね?」とつぶやきながらページをめくりはじめた。「あ、そうそう、六条御息所が伊勢に下ってから、明石の君が再生されたっていうことでしたね」
 そう言った後、彼女の腕が再び僕に触れた。
「東山は続きを書いてるんだろ?」と僕も話を先に進めるように促した。
「ですね」と奈月は応えた後、「『ほのかなるけはひ、伊勢の御息所にいとようおぼえたり』って光源氏が思うところまで話しましたね。じゃあ、その続きを読みますね」と言い、しおりの音読を再開した。
「初めて明石の君の様子をじかにうかがった光源氏は、六条御息所を思い出しながらも、部屋の中に入ろうとする。そこの描写が、かなり面白い。
 まずは明石の君の動きである。『近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけるにかといと強きを』と書いてある。簡単に訳すと、突然の源氏の訪問に戸惑った彼女は、とりあえず近くの部屋に逃げ込んで、どうやったのか分からないほどに扉を固く閉ざしたのだ。
 それに対して源氏は『しひてもおし立ちたまはぬさまなり』という反応をした。つまり、無理に中に入ろうとはしなかった。彼も一流の貴族だ。野暮な行為などしない。
 その後2人はどうなったかというと、『されどさのみもいかでかあらむ』と書かれている。訳すと、とはいうもののどうしてそのままの状態で過ごされるだろうか、ということだ。つまり、お互いに意地を張ったままの状態が長く続くはずはなかった。
 その洞察の通り、いつしか源氏は部屋の中に入り、明石の君を抱き彼女の中に入った。上品ですらりと背の高い明石の君の姿に、こちらが恥ずかしくなるほどの魅力すら感じた。無理強いのように結ばれた2人の仲にも深い縁があったのだという感慨も抱いた。源氏の思いは以前よりもいちだんと強くなった。明石の君は、まさしく野宮で別れた六条御息所と重なるところが大きかったのだ」

キラキラ 123

「やっぱり東山も、そういう視点で『源氏物語』を読んでたんだな」と僕は言った。
「でもあの人は、芸術至上主義みたいなところもありましたから、しょっちゅうしてたわけでもないですよ。ただ、野宮神社に行った時には、けっこう話題がそっちに行ってましたね」と奈月は回想した。
 明石の無量光寺を出る時、1週間前に東山が訪れたことにずいぶんとショックを受けていた奈月だったが、もはやすっかり落ち着いたのだろう、彼との思い出話をすんなりと口にするようになっている。
 それで僕は「野宮神社で、東山に抱きつかれたりしたの?」と茶化すように聞いてみた。すると奈月は「ちょっと待ってくださいよ」と声を上げ、背筋を伸ばした。
「野宮神社って、今じゃ恋愛のパワースポットになってて、めっちゃカップルがいるんですから。そんなことできるわけないじゃないですか」
 そう弁解した奈月の頬は、少し赤らんでいる。
「でも、東山ならやりかねないな。だって、大学時代は、なりふり構わずってところがあったぞ」と僕は応戦した。奈月は首を傾けて苦笑を浮かべ、スカートの裾を引っ張りながら、「さすがにあそこじゃやらないですよ。人がいっぱいいるし、そんな雰囲気には絶対にならないです」と改めて反論した。
「ということは、今も野宮神社には昔の雰囲気は残ってるんだ?」と聞くと、「野宮っていうのは、元々は野原に建てられた仮のお宮なので、平安時代には嵐山の中にもいくつかあったみたいですね。ですから、現在の野宮神社が『源氏物語』の舞台と一致するとは言えないんです。それでも、何て言うんでしょうかね、野宮神社には、神聖で厳かな空気は漂ってますよ。だから、あんなところで変なことなんて絶対にできませんよ」と奈月は徐々に声を大きくした。
「そこまでムキになって否定されると、ますますあやしい気がするな」と僕はさらに踏み込んだ。
 奈月は「もう、先輩、いったい、何言ってるんですか」とため息混じりに声を裏返した。

キラキラ 122

「そうして、六条御息所である。この女性は、光源氏の愛人の中でも、理想的な存在として描かれる。
 元々彼女は前皇太子妃であり、将来の皇后を約束された立場だった。それが、皇太子の急逝によって世の表舞台から降り、『人笑へ』にならないようにつつましく暮らしていた。
 ところが、その身にはつらい運命が待っていた。『源氏物語』の中でもおそらくはもっとも一途に、そして激しく光源氏を愛したであろう御息所は、嫉妬のあまり源氏の最初の妻である葵の上に取り憑き、やがて絶命させるという重くて暗い宿命を背負わされたのだ」
 しおりを読み上げる奈月の声の彼方から、東山の声が聞こえてくる。まるで腹話術師によるショーを見せられているようだ。そんな錯覚を感じつつ奈月の顔に目を遣ると、肩越しには大阪北部の工業地帯の風景が流れている。窓からの日差しを背に受けた奈月の顔は、やや影になっている。
「六条御息所は、最後にもうひとつだけ罪を犯す。彼女は源氏への思いを断つために、娘と一緒に伊勢に下向しようという決意を立てたはずだった。にもかかわらず、伊勢神宮に仕えるために禊ぎを行う野宮で、源氏と関係を結んでしまった。『源氏物語』においては、ラブシーンの描写は省筆されているが、想像するに、きっとかなり濃密な時間を過ごしたはずだ。なにしろ2人は1年と半年ぶりに抱き合ったわけだから。翌朝の別れの場面がやけに胸に染みるのは、そのせいだ」
 奈月はそこまで読んだ後で、唇をきゅっと閉じ、その狭いすき間から息を細く吐き出した。
「やっぱり、やっちゃったのか、2人は」と僕はいつもの癖で思ったことをそのまま述べた。すると奈月はふっと笑い、せっかく狭めた唇をすぐに開いた。それから「東山君が書いてるとおり、すごく深く愛し合ったでしょうね」と付け足した。学生時代の奈月であれば、こういう話をした時は、頬を赤らめたものだった。だが今は意外と平然としている。
「野宮神社に行った時、東山君、そんな話しかしなかったです」

キラキラ 121

 そこまで話したところで、奈月は再びしおりに目を落とした。彼女の細い腕が僕の腕にちょっとだけ触れている。
「それで源氏は、どんなことを考えたんだ?」と僕は待てずに聞いた。
 すると奈月は「ほのかなるけはひ、伊勢の御息所にいとようおぼえたり」と原文をそのまま読み、「初めて見る明石の君は、伊勢に下っている六条御息所とよく似ているって、源氏は思ったんです」と答えた。その後で、なにやら意味ありげな笑みを僕に向けた。
「六条御息所との別れの舞台だった野宮と、明石の君との出会いの場所である岡辺の家の情景が重なり合うっていう話をさっきしましたけど、じつは、光源氏自身も、2人の女性の間に似通ったものを感じ取るわけですね」と奈月は分かりやすく話をまとめてくれた。
 六条御息所と明石の君、2人のシルエットが、僕の想像の中でゆっくりと立ち上がってゆく。それはまるで、年の離れた姉妹のように感じられてくる。それも美しく品のある姉妹だ。
 奈月は「東山君、こんなこと書いてますよ」と続け、しおりに書いてあることをさらに読み進めた。
「『源氏物語』は、どの場面をとってみても、深い読みどころがある。その中で、この物語には消滅と再生が描かれているという読み方ができると思う。たとえば、光源氏の母親である桐壺更衣は、宮中にいた他の女御・更衣たちの嫉妬により、あっけなく他界してしまう。だが、不幸な死が彼女の存在を消滅させたわけではない。彼女の役割を受け継ぐ女性が現れた。藤壺だ。桐壺帝が後妻として迎え入れた彼女は、亡き桐壺更衣の面影を常にひきずりながら、母親を知らない光源氏の心を奪ってゆく。藤壺は光源氏が初めて愛する女性であり、しかも2人の間には不義の子供まで産まれてしまう。つまり、桐壺更衣の消滅の後、新たに藤壺という女性が再生され、さらに大きな運命の中に光源氏を包み込んでいくわけだ」
 東山の文章を読みながら、奈月はまた少し僕の方に腰をすり寄せてきた。

キラキラ 120

「悪いけど、もういっぺん読んでくれないかな、明石の君の和歌を」と頼むと、奈月は「ちゃんと聞いてくれるんですか?」と少女のような目で、念を押すように言った。もちろんだよ、と応えると、「さっきの光源氏の和歌に対する返歌ですよ」と予め注釈をつけた後で、小さな声で読み始めた。

明けぬ夜に やがてまどへる 心には いづれを夢と わきて語らむ

「あなたさまは今、私と話すことで憂き世の悪夢も少しは覚めるのではないかと詠んでくださいましたけど、私の方は、明けることのない長夜の闇の中にそのまま迷い込んでいるのでございます。そのような身において、いったいどれが夢なのかさえ見分けることすらできない状態です」
 奈月は和歌の意味を、そう解説してくれた。
「以前、明石の君が手紙の中で初めて詠んだ和歌は、たしか『まだ会ってもない私のことを、どうして思うことなどできるのですか?』という感じの内容だったよな」と僕は言った。「その歌を詠んだ時からすると、彼女は、恋に落ちていることをはっきりと自覚するようになったわけだ。『やがてまどへる 心には』っていうのは、そういうことを言ってるんだ」
「きっと、明石の入道は、源氏が訪問することを娘に予告してなかったんでしょうね。だからこそ、明石の君はほんとうに戸惑ってるわけです。手紙をやりとりする時には、言葉を選ぶだけの時間がありますもん。それが、恋の相手が突然現れたわけですから、どうしても本心が出ちゃったんでしょう。先輩が言うとおり、明石の君は、すっかり源氏に恋してるのです。というか、自分なんかが光源氏のことを好きになってもいいのかって自問自答しているはずです。『いづれを夢と わきて語らむ』というのは、どうしていいのか分からないという、女心の表れです。で、そんな明石の君の姿を目の当たりにした源氏は、意外なことを考えます」

キラキラ 119

 その時、「次の停車駅は、京都」というアナウンスが車内に流れた。奈月の話に耳を傾けているうちに、新幹線は動き出していたのだ。前回の旅では、僕たち3人は明石駅から須磨に戻り、そこで海水浴を楽しんでいた他のサークル仲間と合流してから、JRの新快速列車に乗って皆で京都に入った。
 それが、今回は新幹線を使っている。奈月も僕も社会人となり、時間的なゆとりがなくなった分、経済的にはゆとりができた。つまりはそういうことだ。ただ、「次の停車駅は、京都」という声を聞いた途端、どういうわけか、交通手段だけではなく旅全体が前回とはまるで違っているという実感が駆け抜けた。
 さっきから僕の心には、漠然とした、それでいて、統一感もある黒い渦のようなものが絡みついている。きっとそれは、「宿世」という言葉と関連が深い。すべてが今という瞬間に引き寄せられているような感覚。光源氏も、明石の君も、明石の入道も、それから六条御息所も紫の上も、みんな今につながっている。そうして、その渦の中心にいるのは、僕と奈月だ。それから東山も近くにいるかもしれない。あいつもほんの1週間前に、明石を訪れているのだ。
「先輩?」
 ふとそんな声が聞こえた。
「もぉ、ちゃんと聞いてます?」と奈月が頬を膨らませた。僕が「聞いてるよ」と生返事のように言うと、彼女は「先輩が聞きたいって言ったから『源氏物語』の話をしてるんですよ」と鋭く返してきた。
「もちろん聞きたいよ。ただ、なんだか心地よくなってきて、夢でも見るような気分になって、それでいろんなことを考えてたんだ」と僕は本心を言った。
 すると奈月は僕の言葉にふっと笑い、「それって、私が今読んだ明石の君の和歌を踏まえてるんですか?」と聞いてきた。和歌を聞いていなかった僕には、何のことやらよく分からなかった。その思いを表情に出していると、奈月は「先輩って、ほんとマイペースですね」とうんざりした顔をして頬だけ緩めた。

キラキラ 118

 気がつくと、新幹線は新大阪駅に停車していた。新神戸よりも多くの乗客が入ってきたのを見て、初めて気が付いた。きょろきょろしている僕とは対照的に、奈月はあくまで彼女のペースで、話を続けた。
「明石の君は、六条御息所と同じように、葛藤を抱えたまま源氏の動きを待ちます。とはいえ、こんなに近い距離で源氏に気を許してはいけないと、固く心を閉ざしてもいます。その思いは、六条御息所よりもずっと強かったはずです。なぜなら、これは終わりではなく、始まりだからです」
 奈月はそう言って唾を呑み込み、改めてしおりに目を落とした。
「源氏の方はというと、そんな明石の君の態度を見て、ちょっとしたパニックになります。これまで何度もこんな場面を経験してきた源氏でしたが、ここまで意地を張られたことはなかったからです。ひょっとして自分は都から流れて落ちぶれた身だから、明石の君に見くびられているんじゃないかとさえ思います。無理に彼女に迫るというのはやめておいた方がいいような気がするけど、だからといってこのまま根比べに負けて引き揚げるというのは、それこそみっともない。それで源氏は、得意の和歌を使って彼女に歩み寄ります。野宮で六条御息所に近づいた時と同じやり方です」
 そう言って奈月は、源氏の和歌を口にした。その小さな声は雑踏の中でもはっきりと耳に届いた。

むつごとを 語りあはせむ 人もがな うき世の夢も なかばさむやと

「親しく話をする人がほしいのです。それによって、憂き世の悪夢も少しは覚めるのではないかと思っています、という気持ちを詠んでます。なんというか、うまいですね。何も俺は君を抱きたいというわけじゃないんだ。ただ、話を聞いてほしいんだ。なぜなら、俺は寂しいんだ。だから、こっちを向いてくれないだろうか。そんな言い方をして、明石の君の心の緊張を徐々に解こうという魂胆ですね」

ありがとう

 今日は小春日和といった感じの、快晴でした。

 午後、車を走らせていると、伯母が他界したという知らせを受けました。
 数年来糖尿病を患っていて、ここ数ヶ月はずっと病院暮らしではありましたが、それにしても突然の訃報でした。

 人の一生というのは、ほんとうにはかないものです・・・
 それでもやはり、人が1人亡くなることはとても大きなことであり、だからこそ、生きているということも、それ以上に大きなことです。

 そんなことをひしひしと実感しました。

 先週東京から帰って、病院が自宅の近くなので、「東京ばな奈」をもって行ったら、それはおいしいお菓子やねといって喜んでくれましたが、結局それが伯母との最後でした。

 病院で身体をきれいにしてもらっている間、伯母の家に行き、1人で掃除をしました。伯母の匂いが染みついた家。伯母のエプロン、食器、薬・・・そんなものが台所に整然と置かれたままでした。思い出の詰まった家には、まだ伯母がいるようでした。

 伯母が帰ってくるまで、私は心を込めて掃除しました。そのうち辺りは暗くなり、夕日が差し込んできました。でも、その瞬間だけ、伯母と2人きりになれたように思えました。

 住職による読経が終わった後、伯母の自慢の柚の木になった実を穫りました。
 毎年この時期の年中行事みたいなものでしたが、今年は私1人です。

 後ろで伯母が見ているような気がしてなりませんでした。

 今その柚をお湯とハチミツで溶かして呑んでいます。
  
 ありがとうの思いは尽きません・・・ 

キラキラ 117

 光源氏と六条御息所の話を聞いていると、この2人もまた、深い「縁」でつながっていたのだと僕は思った。人生においては、どうしても避けられない恋がある。
 僕の場合、麻理子との出会いも、そうして結果的にそれを終わらせることになった幸恵との恋も、今思えば、決して避けることはできなかった。あの時僕は、黒くて大きな竜巻に呑み込まれていたのだ。息を殺し、ただひたすらそれが去るのを待つことしかできなかった。だとすれば、これから僕はどんな恋に落ちるのだろう。心の平安を得る瞬間が来るのだろうか?
 窓の外では、立ち並ぶビルや工場それにマンションや学校などが猛スピードで後ろに流れていく。僕にはこの光景が何かを暗示しているように思えてならなかった。僕は今から一体どこに行くのだろう? どこに連れて行かれるというのだろう?
 そんな感覚にとらわれている横で、奈月が話し始めた。
「六条御息所と光源氏にとって、野宮は最後の舞台でした。本当は別れたくはない。でも別れなければならない。2人は何も言えぬまま、夜明けを迎えます。さっきも言ったことですけど、平安時代の恋愛においては、夜明けは別れを意味しました。六条御息所は、自らの歌の中で、『松虫よ、泣かないで。私の涙も止まらなくなるから』という思いを詠みました。そして光源氏が去った後、彼女の悩みはますます深くなります。でも、最後には、心を鬼にして伊勢に下る決心をします。彼女には、最も苦しい道を選ぶことしか残されていなかったのです」
 そこまで話した後で、奈月はふっと我に戻ったような顔をしてこっちを見た。
「明石の君が住む岡辺の家も、月がきれいで、虫が鳴いているんですよね。光源氏と明石の君が出会った時の情景は、やっぱり野宮での別れの場面の続きみたいに描かれてますよね」
 奈月はこれまでの話をまとめるようにそう言った。

キラキラ 116

「久しぶりに源氏と逢った六条御息所は、物憂げな様子で柱にもたれたまま座っていました。それで源氏は、神に供える榊の枝を折って、彼女にに差し出しながら、自分の気持ちは変わっていないという思いを和歌を詠みます。でも六条御息所は、すぐには受け容れません。そりゃそうでしょう。彼女が源氏を待っていた間、どんな思いをしていたか。それに対して、源氏はあまりに虫がよすぎますよね?」
 僕は何も返さずに、ただ微笑んだ。
「そうして六条御息所は、あなたが思ってらっしゃるのは本当にこの私なのでしょうか? と静かに詠み返します。その後しばらくして落ち着きを取り戻した彼女は、源氏にたくさんの恋の恨み言をぶつけます。そのうち御息所の心からは、長年の間積もりに積もったうらめしい気持ちが消え、やはり恐れていた通り、源氏と別れたくないという思いがわき上がり、伊勢に下ろうとする決心がぐらついたのです」
 須磨から明石へ来る時に電車の中でも聞いた話だが、何度聞いても胸に沁みる。東山が六条御息所に惹かれたのは、この女性に同情したからではないかとさえ思われる。
「野宮は、伊勢に下る女性たちが禊(みそぎ)をして心身共に清める、とても神聖な地でした。そこで男女が逢瀬を重ねるなんて、タブー中のタブーです。だのに、品位あるはずの六条御息所でさえ、それを犯してしまいます。2人は、美しい月の下、会えなかった長い時間を埋めるかのように、語り合い、抱きしめ合い、愛し合いました」と奈月は続けた。
 そういえば、学生時代、奈月は東山と一緒に野宮神社に行ったと話していた。しおりを見ることなく、奈月の口からすらすらと出てくるこの話は、きっとその時に東山から聞いたものなのだろう。
「翌朝の別れの場面はさらに切ないですよね。次第に明けてゆく空は、まるで2人のためにしつらえられたかのように悲しく美しいと描かれてありましたね。なんていうか、ずっと疎遠になっていた2人でも、再会した瞬間に元の関係に戻るってこともあるんじゃないでしょうか」

キラキラ 115

 奈月は再びしおりに目を落とした。アームレストの上に乗せたかすかに汗ばんだ彼女の肘が、僕の腕に触れている。そこから彼女のぬくもりが僕の中に入ってくる。
「それで、源氏は、いよいよ明石の君のいる部屋に忍び寄ります」と奈月は話し始めた。「入道が娘のために丹精込めて作り込んだ屋敷の、戸口がわずかに開いていました。光源氏はそこから中に入って、ずっと恋の駆け引きをしてきた女性の後ろ姿と初めて対面するんです」
 きっと月明かりだけが頼りだったのだろうと僕は想像した。
「でも、明石の君は、やっぱり簡単には心を許しません。これまで彼女は、自ら恋の駆け引きを挑んだのではなく、失恋の痛手を被るのが怖くて源氏の要求に応じてこなかっただけなのです。だから彼女にとっては、ものすごい葛藤があったはずです」と奈月は、明石の君の心が手に取るように分かるかのような言い方をした。僕は、この場面もどこかで聞いたような気がしていた。
「その葛藤も、六条御息所と重なるのかな?」と僕は聞いてみた。すると奈月はふっと顔を上げて、「そう言えばそうですね。野宮でも同じような場面がありましたね」と返し、詳しく話し始めた。
「葵の上が亡くなった後、六条御息所はひそかに源氏を待ってたんです。もしかすると、自分と結婚してくれるんじゃないかって。世間でもそんな噂が取りざたされていたわけですから。でも、いつまでたっても源氏は来なかった。彼の心には義母である藤壺への憧れがあったし、何より2人の間には不義の子が生まれてしまいました。だから源氏には、何か大きな行動を移すほどの心のゆとりがなかったわけです。そこへもってきて、彼は幼い紫の上を引き取って、寵愛します。つまり、六条御息所は、時間の中に置き去りにされたわけです。伊勢へ下ることを決心したのはそのためです。ところが、その知らせを聞いた時、源氏は御息所との別れが急に実感されて、慌てて野宮に行くんです。1年と半年ぶりの再会でした」と奈月は回想するかのように言った。

キラキラ 114

 そう言った後、奈月はさらに肩を寄せ、僕と彼女の間のアームレストに肘を置いた。その瞬間、新幹線は勢いよくトンネルを抜け出し、再び日差しの中に突入した。辺りには住宅地や工場が並んでいる。
「久々に出てきたな、六条御息所が」と僕は話を続けた。だが、「たしか、東山はこの女性のことが好きだったんだよな」とまでは口にしなかった。その代わりに「光源氏の妻だった葵の上を、嫉妬で呪い殺した、あの女性だよな」と確かめるように言った。
 すると奈月は「ですね。でも、『呪い殺した』っていう表現は、ちと激しすぎかもしれないです。たしかに、生きたまま物の怪となって、葵の上に取り憑いたのは間違いないですけど」と苦笑いを浮かべた。
 六条御息所は、高貴で気品があり、その分プライドの高い女性として描かれる。これまで奈月が話してくれた『源氏物語』の内容から考えると、彼女は、理想的な都の女性だといえるのだろう。その点、地方の受領階級の娘である明石の君とは対照的な存在に思われる。
「六条御息所との別れの舞台となった野宮と、明石の君との出会いの場所である岡辺の家の情景が、重なり合うんですよね」と奈月はこれまでの話をまとめにかかった。
 そのことに何か意味でもあるのかと問うと、彼女は首を縦に小さく振り、「少なくとも東山君は意味があると解釈してましたね」と答えた。久々に奈月の口から東山の名前が出た。
「ちなみに、この時六条御息所はどこで何をしてるんだっけ?」
「斎宮に選ばれた娘と一緒に伊勢に下って、神に仕える生活を送ってます。ただ、須磨でも言いましたけど、源氏とは和歌のやりとりをしています。六条御息所は、伊勢の海女のように藻塩垂れながら源氏を思い続けているという、つらい胸の内を詠みます。源氏の方も、須磨の浦から小舟に乗って伊勢にお供すればよかったのに、と詠みます。その後、源氏は住吉の神の導きで、須磨から明石へ移り、明石の君と出会うわけです。そして、六条御息所と明石の君はとにかく重なるところが多いのです」

キラキラ 113

 奈月はそのまましばらく僕の目を凝視していた。まるで、彼女の未来を予言する占いの結果でも見ているような顔をして。だが、そのうちだんだんとまぶたから力が抜け始め、自らの膝元に視線をずらした後、彼女は薄く笑った。そういえば「縁」というのは、奈月の好きな言葉ではなかったのだ。
 新神戸駅を過ぎた後のトンネルの暗がりは、ことのほか長く感じられる。辺りの席には何人かの乗客が座っているにもかかわらず、世界には僕たち2人しかいないような、そんな錯覚を感じる。
「分からないですね、男心って」
 奈月は、言葉を吐き出した。
 僕は窓ガラスに映る奈月の横顔を見た。彼女は僕の視線に気づくことなく、前髪をつまんだ。
「でも、私はやっぱり紫の上が可哀想に思えますね。裏切られちゃったわけですから」と奈月は言った。
 僕は少し間を置いてから「で、それからどうなったのかな、源氏と明石の君は?」と話を本筋に戻した。
 すると奈月は「そうでしたね、源氏が和歌を詠んだところで話が止まってましたね」と言い、僕の方に少しだけ肩を寄せ、太ももの上に置きっぱなしだったしおりを手に取った。
「明石の君の住む岡辺の家は、それはもう情緒たっぷりだったんです。優雅だった海辺の家とは違って、心細くもの寂しい雰囲気でした。明石の入道が作った三昧堂が近くにあって、そこの鐘の音が松風の中に響き渡るのを聞くと、悲しい気分に誘われます。庭の植え込みからは虫の鳴き声も聞こえます。三昧堂っていうのは、念仏を唱える御堂のことですね」
「なんだか、『源氏物語』の中で、よくある雰囲気だな」と僕が感想を漏らすと「それって、野宮神社のことじゃないですか?」と奈月が応えた。
「美しい月夜、虫の鳴き声、うら寂しい情景、まるで六条御息所と光源氏の別れの舞台となった、野宮神社の情景に重なるところがありますね」

キラキラ 112

「本心から奥さんのことを思ってる人は、浮気なんてしないですよ」と奈月は静かに言い切った。そして、しおりを持っていない右の手で、のり塩味のポテトチップスをつまみ、アイスティを口にした。
 僕は奈月の残したポテトチップスを最後まで食べ、空き袋を前席に付けられたネットに入れた。それからシートに深く腰掛けて奈月の方を見た。すると、窓ガラスに映った僕と目が合った。
「なんというか、常にキザなところがあるんですよ、光源氏は。恋愛を楽しんでるんです。そのことによって、悲しむ女性がいるってことを知っていながら」
 奈月の話を聞いていると、僕はあることを思い出した。東山が言っていたことだ。
「そういえば、東山は光源氏について語ってたな」と思わず切り出すと、奈月は僕の口元を注視した。
「光源氏には『性』と『癖』があるっていう話だったね。何年かぶりに、いきなり記憶がつながったよ」
「それって、どういうことですか?」
「光源氏は、普段は繊細で気むずかしいところがある。女性たちにはそう簡単に心を開こうとしないし、女性の方から気安く言い寄ってくるような雰囲気すら出さない。それが彼の『性』らしい」
 奈月はそのことについて考えながらも、なおも僕の口元を見ている。
「でも、そんな光源氏だけど、ひとたび好きになってしまった女性は、そこにどんな壁があろうとも、何としてでも手に入れようとする。それが彼の『癖』なんだって」
 奈月は考えをまとめた後「要するに、好みの女性だけに夢中になるってことですよね」と言った。
「ただ」と僕は返した。「それはキザっていうことじゃない」
 奈月は何も言わずに、今度は僕の目を見た。
「『源氏物語』では、源氏が女性を愛することは『宿世』つまり前世からの縁として描いてある。さっき奈月はそう教えてくれたよな。だとすれば、その恋は、止めようにも止められないんだ」
作者

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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