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キラキラ 169

 そんな表情を浮かべながらも、奈月は「分かりきってるじゃないですか。私はどこにいても楽しく過ごしてますよ」とかろうじて答え、刺身をつまんでビールを飲んだ。それから、浴衣の胸元をもう一度指で引っ張り上げて整えた。
 その後、部屋の中には沈黙の煙が立ちこめた。僕たちは膳の上に彩られた料理をそれぞれにつまんだ。
 接客係が揚げ物を運んできた後で、奈月はやおら立ち上がり、窓際に歩いてカーテンを開けた。
「きれいですね」
 彼女は窓枠に両手を置いてしみじみとつぶいやいた。
「渡月橋、見える?」と僕が聞くと、奈月は「見えますよ。外灯に照らされて、大堰川の上に浮かび上がってます」とすんなり答えた。それから少し間を置いて「なんか、夢みたいな光景ですね」と漏らした。
 僕はえび茶色の浴衣を着た奈月の後ろ姿をぼんやりと眺めた。東山とお揃いのジーンズやパーカを着ていたあの時よりも、ひとまわり小さく見えるのは気のせいだろうか? あるいは佐賀に帰って父の介護をするうちにやつれてしまったのかもしれない。いや、髪を後ろに小さくまとめているから、すっきりした印象なのかもしれない。ただ、浴衣の裾から出ている、高校時代体操で鍛えたふくらはぎには瑞々しいハリがある。奈月はまだまだ若い。これから幸せな人生をそのしなやかな脚で歩んでいくのだろう。
 そんな後ろ姿を眺めつつ、僕は手ずからビールをグラスに注ぎ入れ、それを飲んだ。
「ここは、明石の君と関係が深い場所なんですよね」と奈月は窓に映った彼女自身に語りかけるように言った。「東山君がこの辺のホテルに泊まりたかったのも、そういう事情があったんですよ」
 奈月はそう続けた後、窓際に置かれた籐の椅子に腰掛けた。
「なんだか、今が今じゃないみたいです。っていうか、私は私じゃないみたい。やっぱり、頭、おかしいですかね?」
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キラキラ 168

 奈月の忠告は、僕の心を少なからず揺すぶった。
 もう先輩ったら、自分だけの感情で突っ走らないでくださいよ。その人がいつまで先輩と一緒に遊んでくれるかなんて、分かんないですよ。女って、男の知らないところで傷ついてるものなんですから!
 奈月の目に見つめられていると、さらにそんなことを言われているような気がした。僕はまさに、そのようにして麻理子を失ったのだ。幸恵に夢中になっている間、麻理子が傷ついているとことに僕は気づかなかった。
 僕がビールを飲み干すと同時に、奈月は「あー、でも、うらやましいですね。東京での生活かぁ、楽しいですか?」と話題を切り替えた。僕はグラスを置き、改めて奈月の黒い瞳と向き合った。
「俺思うんだけどさ、人間って、状況に適応してゆく生き物なんだよ。最初は、まさか俺が東京に出るなんて、思いもしなかったよ。東京の、しかも本郷に住むことになるとはね」
「本郷、ですか?」
「そう。東大がすぐ近くにあって、ちょっと歩けは上野にも出るし、南に降りたらお茶の水にも行ける。お茶の水界隈は、特に俺が好きなところで、いわゆる都心だ。そんな所にいきなり出て行ったわけだから、最初はドキドキだったさ。でも、そのうち慣れたね。なにしろ人が多いわけだから。何て言うんだろう、とりあえず何かに紛れていれば、どこかにたどり着けるっていう感覚かな」
 奈月は、興味深そうに話を聞いている。その時、彼女の周りに、うちわに描かれた佐賀のバルーンフェスティバルの光景が浮かびあがった。
「楽しそうだけど、なんとなく、楽しくなさそうな気もしますね」と奈月はつぶやいた。
「で、奈月の方はどうなんだよ。俺なんかよりも、もっと楽しい生活をしてるんだろ?」
 僕がそう問うと、彼女ははっと我に戻ったような表情に戻り、悲しそうに笑った。

キラキラ 167

「やっぱり、先輩って、独特ですよね」
 奈月は浴衣の袖に手を添えてビールをゆっくりと注ぎながらそう言った。
「だから言ったじゃないか、俺は女性にとって魅力的じゃないって」
「いや、魅力的かどうかっていうのは先輩が決めることじゃないですよ。そうじゃなくって、私には及びもつかないところがあるってことです。じゃあ、1つ聞きますけど、先輩はその人のこと、好きなんですか?」
 その質問を受けた時、学生時代の僕たちの距離感が戻ってきたのを感じた。単刀直入に本質に迫ってくる質問は、僕のことを理解してくれている奈月だからこそできるのだ。彼女はいつもそうやって僕を困らせたものだ。とはいえ僕は、答え方を心得ている。奈月にごまかしは通用しないということだ。
「彼女といると落ち着くのはたしかだね。でも、だからといって、それが好きという感情かどうかはよく分からない」
「いかにも先輩らしい回答ですね」と奈月は言い、ビールを口にした。「でも、それって、やっぱり好きなんですよ。好きじゃなかったら、2人きりでどこかに行こうだなんてまず思わないですよ」
 僕は何も答えずにいた。これ以上話を続けたところで、奈月は僕の心の機微を理解できない。
 僕にとって、好きという感情は相対的なものさしで計られるものだ。そうなったのは、幸恵への恋の経験が影響している。全身を焦がすような恋を経験した以上、あの思いに匹敵するほどの感情に支配されない限りは好きだとは思えなくなっている。奈月は幸恵のことを知らない。だから、この心情を説明することなどできない。
「あまり偉そうなこと言えませんけど、先輩、その人のこと、傷つけちゃいけませんよ。大事にしてあげてくださいよ。その人は先輩のことめちゃくちゃ好きですよ。私には十分に伝わります」 

キラキラ 166

 奈月のグラスにビールを注ぎ返した瞬間、彼女は「うわぁ、ありがとうございます」と、心底うれしそうに礼を言ってきた。今彼女が入れてくれたばかりのビールを口にすると、エビスビールらしい爽やかな苦みが舌の上に染みわたった。
「元気かな、麻理子さん、今頃何してるんだろ?」
 奈月はそう言った後、僕が注いだビールを飲んだ。左手でグラスを持ち、右手はグラスの底にそっと触れている。上品な飲み方だ。そんな大人びた所作に感心の目を向けていると、今度はいきなり表情を変え、「で、今の彼女さんって、どんな人なんですか?」と聞いてきた。
「だから、べつにそんな、彼女っていう特別な意識はないよ」と僕は答えた。
「意味分かんないです。それなら、さっき彼女はいないって答えればよかったじゃないですか」
「それがけっこう親しかったりもするんだ。一緒に食事をして、映画やライブを見に行って、箱根とか鎌倉とか、ちょっとした旅行にも行ったりする仲なんだ」
 僕がそう説明すると、「すごーい、どう考えても彼女じゃないですか」と奈月は目を丸くした。
「いや、でも、それが、お互いに付き合おうって言ったわけじゃないし、ちゃんと付き合ってるという実感もないんだ。ひょっとして、彼女には僕の他にれっきとした彼氏がいるかもしれない」
 奈月はグラスを膳に置いて、首をかしげた。
「彼氏がいるかどうかくらい、ちゃんと確かめればいいじゃないですか。その人だっていろいろ聞いてほしいんだと思いますよ」
「ただ、これはきっと奈月には理解してもらえないだろうけど、もしその人に彼氏がいたとしても、俺にとっては特に問題っていうわけじゃないんだ」
 そう言ってグラスのビールを飲み干すと、奈月は再び瓶を取って注いでくれた。

キラキラ 165

「俺はモテないよ」と僕はとりあえずそう言った。
「モテますよ。私、先輩のこと好きですよ」
「奈月はそう言ってくれるけどな、仮に世の中の女性に俺がモテるかモテないかっていうアンケートを取ったとしたら、間違いなくモテない方に圧倒的多数が傾くはずだ」
 僕がそう言うと、奈月は梅酒のグラスを膳に置いて、「そのアンケート、ナンセンスじゃないですか」と口をとがらせた。
「そうか?」
「そうですよ。だって、先輩、世の中の圧倒的多数の女性に好かれたいんですか?」
「いや、もちろんそういうわけじゃないよ。俺が言いたいのは、俺は女性にとっての魅力的な要素に乏しいっていうことだよ」
 すると奈月は首をかしげたまま、前菜の酢の物を箸でつまんだ。
「その『女性にとっての魅力的な要素』っていうのがまた私には理解しにくいんですけど、じゃあ、もしそんなものがあるとしましょうか。先輩は、それらを手に入れたいんですか?」
「ちょっと待て。なんだか話がずれてないか? いきなり奈月が、俺のことをモテるだなんておかしなことを言うから、それは違うよって、比喩を使って主張してるだけなんだ。だから別に、モテたいって言ってるわけじゃない。モテない俺は俺なりの生き方をするしかないっていうことだよ」
 僕がそう返すと、奈月はきっちりと着た浴衣の胸元をさらにきちんと整えた。それからさっき接客係が運んできたエビスビールの瓶を手に取って、僕のグラスにやさしく注いでくれた。
「本当に先輩が魅力的でないのなら、麻理子さんみたいな、超理想的な人が好きになるわけがないじゃないですか」と奈月はたしなめるように言った。寂しさを抱え込んだ小学校教師という風情だった。

キラキラ 164

「待たせたかな?」と僕は、濡れたタオルをハンガーに掛けながら聞いた。
 すると奈月は「私もちょうど今戻ってきたばかりです」と言いつつ、座卓の前に腰掛けた。さっきまでポニーテイルだった髪は、後ろで小さくまとめられている。そのせいで、細い首筋が露わになっている。学生時代の奈月からは想像もできないくらいに、大人びた表情を見せている。
「やはり、お風呂までリニューアルされてましたね」と奈月は言い、膳に載せられた料理を俯瞰した。
「ホテルの至る所が綺麗になってるね。あの時の記憶が、さらに思い出せなくなってるよ」と僕は応え、奈月の前に座った。
 僕と対面した奈月は、その黒々とした丸い瞳を向けて「何だか、ワクワクしますね」とかすかに口元をほころばせた。「須磨とか明石でも感じたことですけど、楽しくて胸が詰まりそうになるなんて、何年ぶりかなって思いますね。いや、学生の頃以上のワクワクかもしれません」
 その時、接客係の女性が部屋に入ってきて、瓶ビールを運んだ後、膝を付いて挨拶した。奈月は彼女が部屋を出たのを確認してから、食前の梅酒を口にした。そうして、だしぬけにこう聞いてきた。
「先輩、今、彼女とかいるんですか?」
 僕は梅酒の入ったショットグラスを口の直前で止めて、奈月の顔を見た。彼女の瞳は、さらに黒さを増したかのように、まっすぐこちらに向いている。
「まぁ、いないこともないけどな」と僕は曖昧な返答をし、それから梅酒をゆっくりと口の中に注ぎ込んだ。思った以上に濃厚な酒だった。
「へぇーっ、いるんだ。そりゃ、そうですよね。東京には素敵な女の人はわんさと歩いてるでしょうし、何より、先輩はモテますしね。いいなー」
 奈月はもう酔ってしまったんじゃないかと思わせるような声を上げた。

キラキラ 163

 僕たちが通されたのは純和風の客室で、畳から壁まで綺麗に磨かれているために、電灯を付けた途端に部屋の隅々までがぱっと明るくなった。
「わぁ~、素敵な部屋」と奈月は声を上げ、荷物を置いて、さっそく畳に寝っ転がった。
「おいおい、そんなワンピースとかで転がるなよ」と僕は言った。すると奈月は「まあ、いいじゃないですか、見えても減るもんじゃないんですから」と応え、畳の上で両手を広げて背伸びをした。
 僕はそんな彼女を見ながら黒檀の座卓の前に座った。
「何度も言うけど、前に泊まったのと同じホテルだとは思えないな」と僕は感想を述べた。
「ことごとく綺麗になってますね」と奈月は寝そべったまま、顔だけこちらに向けて言った。
「俺たちの部屋はこんなに広くなかったような気がするね。旅行というよりは合宿っていう感じだったな。そんな印象だけが何となく残ってるよ。奈月と東山の部屋はどうだった?」
「私たちの部屋も、たぶん先輩たちと同じ広さだったと思いますよ。広すぎて間延びした感じでしたから。なんか、殺風景でしたよ。でも、今日は2人なのに広すぎるって感じはしないですね。何でだろう?」
 奈月は寝そべったまま天井を見上げ、しばらくして後ろ髪に付けたシュシュを外した。その瞬間、彼女の黒髪が、電灯に白く反射している畳の上にふわっと広がった。
 食事は19時からなので、それまで風呂に入ることになった。奈月は支度があるからと、僕の方が先に部屋を出た。館内は全てが清潔に保たれていて、朱色の絨毯が敷かれた廊下は足音を完璧に吸収した。天井に埋め込まれたスピーカーから流れる箏曲のBGMが、小さいながらにくっきりとした音質で耳に届く。そういえば、光源氏と明石の君の接近には、琴の音色が影響していたことを思い出した。
 風呂から上がって再び部屋に戻った時、すでに夕食の準備が調っていた。窓際では、えび茶色の浴衣をきっちりと身にまとった奈月が、外をぼんやりと眺めていた。

キラキラ 162

 ホテルは嵐山公園に架かる「渡月小橋」を渡ってすぐの所にあった。山に近く、影になっているために、玄関は薄暗い。建物を見上げている時、遠くで鐘の音が響いた。けだるい感じの音だった。どうやら近くには寺があるらしい。線香の香りも風に運ばれてくる。そういえば、昼に明石の無量光寺に行った時にも線香の香りが漂っていた。それにしても、あそこを訪ねたのが今日のことだとはとても思えない。
 玄関に入っても、前回の記憶は甦ってこない。思わず「ここって、前と同じホテルだよな?」と奈月に問いただすほどだった。すると彼女は同じですよと平然と応えた。
「でも、ホームページに書いてありましたけど、おととしに全面改装したらしいですね。だから、あの時とはずいぶんと違って見えますよ。だって、けっこうどこにでもある和風旅館みたいな佇まいでしたもん」と奈月は言いながらフロントまで歩き、てきぱきとした動作でチェックインの手続きを済ませた。その後ろ姿は、まさに小学校教師そのものだった。
 館内には適度に冷房が効いていて、ほてった体をクールダウンしてくれた。ふんだんに使われている木の香りも心を落ち着かせた。和風モダンな雰囲気にしつらえられたロビーには、桜が刺繍されたソファがいくつも据えてあり、宿泊客たちがくつろいでいる。その向こうの大窓には嵐山公園と渡月橋がうかがえる。大堰川の川面には金色の夕焼けが揺らめいている。音楽的な風景でさえある。
「ここは、嵐山の一等地だね。いいホテルだ」と思わず僕はつぶやいた。
 奈月は「せっかくですもん、こういうところに泊まりたいですよね」と後ろで同調した。「改装して綺麗になってお得な学生プランはなくなってますけど、その分さらにリッチな気分になるじゃないですか。だって私たち、もう働いてるわけですから」
 穏やかに暮れてゆく嵐山の風景を眺めていると、前に幸恵のことを思って街に出た記憶がゆっくり遠ざかってゆく。奈月は僕のすぐそばにいる。

キラキラ 161

「ほら、嵐山公園が見えますよ」と奈月が指さした。嵐山公園というのは大堰川に浮かぶ中州のことで、渡月橋はそこで終わっている。ホテルに行くには、嵐山公園からさらに小さな橋を渡って対岸に行かなければならないと奈月は説明した。
「あそこって、春には桜がすごくきれいなんですよ」
 奈月はそう付け加えてから、ソフトクリームをすすった。
「もちろん、あの時も通ったよな?」と僕は確かめた。すると奈月は僕の方を振り返って、「通りましたよ、みんなで」と笑いかけてきた。「あの日は今日よりも時間帯が早かったですね。空がもっと青かったですから。須磨で泳いだ人たちはけっこうくたびれてましたよ」
「そうだったかな」と僕は首をかしげつつ、その時の記憶を頭の中で探した。
「それにしても、今日はあの時とはまるで別の旅みたいですね」と奈月は言ってきた。僕は彼女の横顔に目を遣った。「つい昨日のことのようにも思えるし、逆に、すごく昔のことのようにも思えるし、それから、前世での出来事のようにも思えたりしますね」と彼女は述懐した。
「前世?」
「『源氏物語』には『宿世(すくせ)』という言葉で出てきますよね。現時点での出来事は、良いことも悪いことも、すべて前世での行い、つまり宿世によるものだっていう考え方です。それが、前世での記憶が今につながってるような気もするんですよね。頭がおかしいんでしょうね、私」
 奈月は僕と似たようなことを感じている。さっきここへ来るバスの中で、彼女は「思い通りにならないようで、じつは思い通りになっているのが人生だ」としみじみとつぶやいた。それは、その時ちょうど僕の頭に浮かび上がっていた言葉と怖いくらいに一致していた。
 そして今、彼女は「前世での記憶が今につながっている」と言った。つまり、「これまでの出来事は、すべて今から起きることの序章だ」という僕の感じ方に、かなり近いように思う。

キラキラ 160

 僕の中にあるのは記憶の断片だ。しかも1コマ1コマの記憶には、相当のばらつきがある。たとえば、前回の旅で明石から京都に入った時の風景はまるで残っていないのに、この嵐山に来た途端、あの時食べたソフトクリームの味まで思い出すことができる。奇妙といえば奇妙だ。
 そうして今、渡月橋を渡りながらホテルに向かっているのだが、今度はその瞬間の記憶が見あたらない。あの時僕たちは、奈月と東山を含んだサークルの仲間たちとこの橋を渡ったはずなのだ。
 そんな僕の隣で、奈月が「夕方の風は心地いいですね」とさわやかに声を上げた。彼女は歩みを緩め、ソフトクリームをなめながら鴨川を見ている。花柄のシュシュが僕の目の前にある。
「今日はかなり歩きましたからね、風に癒されますね」と奈月は風と戯れるように言った。
 彼女の肩越しには京都市街の遠景がうっすらと広がっている。前回も見ているはずなのに、やはり初めての風景のように感じられる。それと同時に、今晩僕はこの子と同じ部屋に泊まるのだという実感が増大してくる。これから何やらドラマが待ち受けているような予感がじわじわと広がる。
 そのうち、これまでの旅は序章にすぎなかったのではないかとさえ思えてくる。須磨寺を訪ね、海浜公園に佇み、明石海峡大橋を越えて明石に戻った。そこで明石の入道の生き様と光源氏と明石の君との恋物語を辿り、今この嵐山を歩いている。それらはすべて、これからの時間の伏線だったのではないか? 
 あるいは、こうも思う。大学時代、僕は奈月を妹のように慕ってきた。彼女は同じ学科の後輩で、研究室も隣だった。おまけにサークルまで同じだったわけだ。自分の学生生活を振り返る時、もしかすると最も親密な仲間だったと言えるかもしれない。
 だが、こうやって2人で渡月橋を歩いていると、その学生時代の出会いから今までの奈月との時間そのものが序章だったのではないかとさえ思えてくる。もしかすると、奈月を妹のような存在だととらえていたこと自体が、僕の勝手な思い込みだったのかもしれない。

キラキラ 159

 そんなことを考えつつ、改めて大堰川の川面をぼんやりと眺めていると、突然奈月が「先輩、ソフトクリーム食べません?」と提案してきた。「ほら、そこのお店の抹茶ソフト、そそられるんですけど」
 奈月は乙女のような瞳を店先に向けている。そこはまさに、前回ここに来た時、僕がバニラ味のソフトクリームを買ったその店だった。小さなみやげ屋といった風情で、軒下にはソフトクリームの模型が堂々と据えられている。クリームの部分が深緑色に塗られた抹茶ソフト仕様の模型だ。
「いいよ。じゃあ、ふたつ頼んでくれないか」と僕はコインケースをひっぱり出しながら応えた。すると奈月は「先輩、何味がいいです? 抹茶とバニラとマーブルと・・・」と聞いてきた。
 少し考えた上で抹茶がいいと答えると、奈月は小気味よい返事をした。それから僕たちは揃ってソフトクリームをなめながら、いよいよ渡月橋に足を踏み掛けた。彼女の手元を見ると、白色のソフトクリームが持たれている。
「さっきは抹茶ソフトにそそられるって言ったのに、結局バニラにしたの?」と思わず尋ねると、奈月は「なんか急に、バニラの方を食べたくなっちゃったんです」と答え、うれしそうに口を付けた。
 僕は奈月と同じ色のソフトクリームをなめながら歩いたあの日の自分の姿を辿りつつ、手に取った抹茶ソフトをゆっくり口に含んだ。思った以上に濃厚なほろ苦さが、たちまち広がった。
 渡月橋を歩いていると、スニーカーの底に木のぬくもりが伝わってくる。車道を車が通過するたびに、ガタゴトと振動も起こる。こうして歩いて橋を渡るということ自体、ずいぶんと久しぶりのことだ。
 歩みが進むにつれて、せせらぎの音も近くなる。目の前には金色がかった空を背景にした山々が黒く取り囲み、その所々には寺の屋根も見える。橋の真ん中あたりまで来ると、大堰川を抜ける風が心地よく感じられる。左手には鴨川が広く流れ、のっぺりとした京都市街の風景へとつながっている。
 橋を渡りながら、今から自分の知らない世界に足を踏み入れるような錯覚を感じ始めていた。

キラキラ 158

 その瞬間、光源氏の帰りを都で待つ紫の上のことをふと思い出した。そういえば彼女は、夫との別れの際に、「鏡」を和歌に詠み込んだ。たしか「別れても鏡の中にあなたの影が残るのであれば、せめてもの慰めになるでしょう」という切実な思いが詠まれていたはずだ。
 大堰川の水面に映る空を見ていると、幸恵のことだけを頭に浮かべながら歩いたあの時の光景が甦ってくる。不思議なことだ。明石から京都に入った時には、前回の記憶がきれいに消えてしまっていたのだ。それが、今こうしてここを歩くと、まるで1ヶ月前の出来事のように鮮明に想起することができる。
 渡月橋の袂にはこぢんまりとしたみやげ屋がある。あの時僕はここでソフトクリームを食べたのだ。抹茶ソフトの看板が出ているが、どうしてもバニラ味が食べたかった。そのソフトクリームをなめるうちに、麻理子への罪悪感がしだいに和らぎ、ますます幸恵のことしか考えられなくなったのを思い出す。
 あの時僕は幸恵にがまくちを買った。真っ赤な生地に薄いピンクの模様が入ったがまくちだった。僕はそれを大事に持ち帰り、彼女に渡した。彼女は少女のような顔をして「まぁ、かわいい」と声を上げてくれた。今振り返れば、何とも恥ずかしいことをしたと思うが、あの時はとにかく必死だった。部屋に飾るものよりも、常に携帯するものを選んだのもそういうことだ。
 大堰川のせせらぎが耳に入ってくる。夕方とはいえ熱気を帯びた風が汗で濡れたTシャツに触れる。奇しくもたった今、奈月は消滅と再生の話をした。鏡のような川面を見た時、そこには僕の過去が映し出されているような気がした。それは、麻理子と幸恵の、消滅と再生の記憶だった。
 だが僕は幸恵を手に入れることはできなかった。そして彼女への思いを断ち切って以来、僕は誰も愛することができないでいる。臆病になっているのかもしれない。いや、全てを焦がすほどの恋に出会っていないだけなのかもしれない。あの恋は再生されていない。一生再生されないかもしれないとさえ思う。心の鏡はずっと曇ったままだ。

キラキラ 157

「六条御息所が消滅するって、彼女は死んじゃうの?」と僕はバス停を降りて少し歩いてから聞いた。
 奈月はその質問に対して即答せずに、「『源氏物語』は消滅と再生の物語だって東山君が書いてましたよね。役目を終えた女性は物語から退場させられて、その後に、新しい女性が再生されるんです。で、ここでは明石の君と光源氏の仲が親密になればなるほど、それまで愛人だった六条御息所の影が自ずと薄くなってゆくわけです」と、彼女が示唆した「消滅」の内容を明らかにしないままそう応えた。
「でも、光源氏の愛人って、六条御息所だけじゃなかったよな?」
「まあ、そうなんですけど、明石の君は六条御息所によく似ているって『源氏物語』にもはっきりと書かれてますし、何より、六条御息所が源氏から離れるために伊勢に下った直後の出会いですしね。つまり御息所はいらなくなっちゃうんです。ちょっと残酷な言い方ですけど。だけど、そんなことって現実にもありますよね。たとえば絶対に忘れられない人でも、新しい恋にのめり込んでいくと自然に忘れるものじゃないですか。恋の苦しみは新しい恋を見つけることでしか解決できないんです」
 奈月は思いの外饒舌に語った。婚約者のことを強く思うことによって、東山との破局で負った痛手を忘れたのだろうかと僕は考えた。だが、今朝明石で再会した時から一貫して、奈月は婚約者のことを詳しく話したがらない。結婚を間近に控えているはずなのに、新生活への希望が感じられない。だいいち奈月は今、僕と2人でここにいる。そのことを婚約者は知ってるのだろうか?
 昔から奈月は心の真ん中にあることを上手に隠すことが得意ではなかった。もし本当に婚約者のことを強く思っているのであれば、その思いは自ずと表に現れるに違いないのだ。
 そんなことを考えながら僕は隣を歩く奈月の存在を意識した。彼女の髪をまとめる花柄のシュシュが夕日に照らされている。そのうち僕たちは嵐山の商店街にたどり着いた。この時間にもかかわらず、まだまだ通りを歩く人は多い。左手には渡月橋が現れ、鏡のように澄んだ川面が空をくっきりと映している。

キラキラ 156

「そういえば、海女が海辺で焚く火に投げ木を入れるっていう和歌がなかったっけ?」と僕は聞いた。奈月は、「えっと、誰でしたっけ、『投げ木』という言葉に、心の『嘆き』を掛けたんですよね」と言いながら、しおりのページをさかのぼった。
「あ、ありました。藤壺と朧月夜がその表現を使ってますね。それから、光源氏が六条御息所に返した和歌の中にも心の『嘆き』という言葉が詠まれてます」
「つまり、海女が浜辺で焚く火には、心の『嘆き』がちらほらと見え隠れしてるわけだ。きっと、明石の君ともなると、そのへんのことをしっかり踏まえた上で、さっきの和歌を詠んでるな」と僕は仮説を立てた。
「あなたは『そのうちまた会えるだろう』とか言って都に帰られるけど、明石で待つ私は、ずっと未練の炎をくすぶらせながら嘆いてるんですよ、っていう思いをそれとなく和歌に込めたんでしょうね。女心だ・・・」と奈月はしみじみと語った。
「で、それでも光源氏は都に帰っちゃうわけだ」と僕は聞いた。
「ですね。それは源氏の宿願でもあったわけですから」
「それに、住吉の神の導きでもあった」
 僕がそう続けると、奈月は「やっぱり先輩、東山君っぽくなってきましたよ」と目を丸くした。そのうえで「光源氏と明石の君は、最後の夜、琴を弾き合うんです。思えば、2人の恋物語は源氏と明石の入道との琴のセッションから始まりましたよね。琴の音色が物語を包み込むようですね」と言った。
「でも、源氏と明石の君との物語には、まだまだ続きがあるんだよな」と僕は確認した。すると奈月は「ですね。ただ、それは、切ないことに、六条御息所が消滅する物語と引き替えなんです」と答えた。
 バスは嵐山の停留所に停まった。外に出た時、太陽は西の山にずいぶんと近づいていた。

キラキラ 155

「なんだろう、源氏が詠んだ和歌と比べると、やっぱり、どこか、せつない感じがするな」と僕は思いを述べた。すると奈月は「同感ですね」と応えた。
「『かひなき』とか『うらみだにせじ』とか、そのへんの言葉に、何だかもの悲しさを感じますね」
 奈月はそう言って、もはやよれよれになったしおりを再度めくった。
「明石の君が詠んだこの歌には、いろんな意味が込められてると東山君は書いてますね。そのまま訳すと、海女がかき集めて焼く藻塩の火のように私の物思いは尽きませんが、かと言って今はどうすることもできません。だから恨み言を申すのはやめましょう、っていうことですね。ただ、この和歌には、いろんな言葉が掛け合わされてます。『海女』と『尼』はもちろんですが、そのほかにも『藻の思ひ』と『物思ひ』、それから『思ひ』の『ひ』には『火』が掛けられてるとのことです。それに、『かひなき』と『貝なき』、『うらみ』には『浦』を掛けてるということです。そう考えると、明石の君は、源氏が詠んだ和歌に対して、こんなにも手の込んだものを返したんですね」
「『藻塩』を焼く煙が同じ方向に流れるようにまた会えると詠んだ光源氏とは対照的に、浦で藻塩を焼く火のようなめらめらとした未練を詠んだわけだ。これって、女心なのかな?」
 僕がそう言うと「かもしれませんね。ほら、都はるみの『北の宿から』っていう歌にもあるじゃないですか。『女心の未練でしょう、あなた恋しい、北の宿~』って」と奈月は歌を交えて返した。
「都はるみって、奈月の世代じゃないだろう?」と笑いながら聞くと「うちのお父さんが好きなんですよ。介護しながらよく聞かされたもので」とさらに笑い返してきた。
 僕は明石の君の和歌をもう一度奈月に詠んでもらった。

かきつめて あまのたく藻の 思ひにも 今はかひなき うらみだにせじ

キラキラ 154

 奈月の話を聞いて、僕は改めて、さっき訪れた明石の風景を思い浮かべた。無量光寺は明石の入道が光源氏に与えた邸があったとされる場所だった。光源氏と明石の君が最後の夜を過ごした岡辺の家は、あそこから岡へ上がった所にあるわけだ。僕は、実際に『蔦の細道』を歩きながら感じた潮風や線香の匂い、それからシャワーのように降り注ぐクマゼミの鳴き声を思い出した。いくら時代は過ぎても、明石の地に底流する風情は変わらないような気がした。そう思った瞬間、『けはひ』と『にほひ』という言葉が同時に浮かび上がった。
「明石を去る直前に『藻塩』という言葉を詠み込んだあたり、さすが光源氏ですね」と奈月は言った。
「ただ、これまでの『藻塩』の詠まれ方と、少し違う気がするね」と僕は感想を述べた。
「違いますかね?」と奈月は首をかしげた。
「須磨で詠まれた『藻塩』は、基本的には、垂れるものだったじゃないか。つまり、つらい涙を連想させるものだった。でも、ここでは垂れるものじゃなくって、焼いて煙として立ち上ってゆくもの、なんか、今後の見通しがあるよね」
 僕がそう言うと奈月は次第に嬉しそうな表情になり、「なるほど」と声を上げた。その瞬間、長かった赤信号が青に変わり、バスは寝起き後のような不機嫌なエンジン音をくぐもらせながら動き始めた。
「なんか、先輩、東山君みたいなこと言いますね」と奈月はバスにゆられながらつぶやいた。
「それってさ、褒め言葉なの?」と僕が聞くと、彼女は少し考えた後で「まぁ、どちらとも言えないですかね」と笑って答えた。それから彼女は光源氏の和歌に対する、明石の君の返歌を読み上げた。
 
かきつめて あまのたく藻の 思ひにも 今はかひなき うらみだにせじ

キラキラ 153

 次の停留所は嵐山だという、録音されたアナウンスが流れた。ところが、さっき車折神社を過ぎた辺りからずっと道路工事が続いていて、バスはなかなか思うようには進んでくれない。
「けっこう、時間がかかっちゃいましたね」と奈月は顔の半分を陽光に照らされたまま言った。
「だいぶ、空が夕方っぽくなってきたな」と僕は外を見ながら応えた。
 バスは工事用の信号の前で停車した。奈月はしおりに目を遣りながら、話をさらに進めた。
「で、その夜なんですけどね、明石の君の方も、初めて光源氏の顔をはっきりと見たわけです。源氏の容姿はもちろん言うまでもなかったんですが、それより、都から流れてきて以来、長年の仏道修行で顔がやつれているように見えて、それがまた明石の君の胸を打ったんです。好きな男がもがき苦しんでいる姿を見ると、どうしてもうるうるってきちゃうんですかね」と奈月は言った。
 信号はなかなか青にならない。対向車線からは、信号待ちを終えた車たちが次々と流れ込んでくる。
「その後に描かれた明石の風情が、またいいんです。『波の声、秋の風にはなほ響きことなり。塩焼く煙かすかにたなびきて、とり集めたる所のさまなり』。風に乗って運ばれる波の音が心に響き渡る。遠くで塩を焼く煙もかすかに空にたなびいて、あらゆる風情をここに集めたような景色が広がっている。もちろんその風景の中には、光源氏と明石の君の姿も含まれるわけですね。光源氏は、明石の君に向けて、和歌を詠みます。

このたびは 立ちわかるとも 藻塩やく けぶりは同じ かたになびかむ

 たとえ離ればなれになっても、藻塩を焼く煙が同じ方向にたなびくように、私たちはそのうちいっしょになるよ、っていう意味です。源氏は、いずれは明石の君を都に呼び寄せたいと思ってるんです」

キラキラ 152

 奈月はそう言った後、ふと自信なさげな顔を浮かべ、うつむきながら微笑んだ。
 その横顔を眺めていると、僕も同じようなことを思っていると自覚した。たしかに見た目の美しい女性はいる。だが学生時代の僕は、大学を歩く女性の中で、どうしても麻理子でなければならなかった。
 麻理子は一見すると、気位が高く取っつきにくいように感じられたが、じつは細やかな配慮のできる女性で、アメリカを指向しながらも、いかにも日本の女性といった雰囲気をもっていた。
 だが、そうやって麻理子を愛していながらも、それでもなお僕は幸恵に惹かれた。初めての家庭教師で幸恵の家に行き、その丁寧に磨かれた玄関に立つ姿を見た瞬間、世の中にはこんな女性もいるのだとうっとりしたのをはっきりと覚えている。おそらく僕なんかには一生縁のない女性のはずだった。
 だが、一緒にお茶を飲みクッキーを食べているうちに、この人は何も特別な存在ではなく、僕たち学生ともあまり変わらない、親しみやすく瑞々しい感性を持っていることに気づきはじめた。
 そのうち幸恵との時間にくつろぎを感じるようになった。あの人は上品さの中に、ゆとりをもっていた。もちろん、夫は大病院の医師であり、経済的にも時間的にもゆとりがあったのは間違いない。ただ、そういうことも含めて、彼女には、何があっても動じぬほどの懐の深さがあった。僕は、幸恵のそんな雰囲気に憧れたのかもしれない。
 しかし、その恋もあえなく散ってしまった。憧れはたんなる幻想だったのだと何度も思おうとした。だが、幸恵の容姿ははっきりと思い出せないにしても、彼女の雰囲気、つまり『けはひ』や『にほい』はずっと僕の心に染みついている。あの恋に嘘はなかったのだ。
 無意識にため息が1つこぼれた時、入れ替わるようにして奈月の細い声が耳に入ってきた。
「明石の君の美しさは、『けはひ』や『にほひ』を越えるほどだったんです。じつは、そのことも東山君から教わったんですけどね。先輩と話をしてると、忘れたはずのことがどんどんと思い出されてきて、なんか、悲しくなっちゃいます」
 奈月の横顔を照らす陽光が次第にやわらかくなってきている。

キラキラ 151

 奈月のその話を聞いた瞬間、明石の君の姿が怖いくらいリアルに僕のイメージの中に浮き上がった。8月の宵の薄闇にぼんやりと映し出された美しい女性。それは、どこかぶっきらぼうな明石の入道の娘というよりは、もっと崇高なものによって産み出された神秘的な存在のように思われた。
 ふと思い出したのは、かぐや姫だった。幼い頃、絵本の中で空想した女性が明石の君と重なる。だとすれば、明石の入道は竹取の翁だ。かぐや姫は竹取の翁の実の娘ではなく、月の世界の女性だった。事情を知らない竹取の翁は、娘として手塩にかけて、それはそれは可愛がる。
 千年以上も前に架空の女性として描き出された明石の君が目の前に現れたのは、おそらくはかぐや姫の話が僕の中に敷かれていたからかもしれない。そう考えると、光源氏は、かぐや姫に求婚する貴公子たちということになろうか。だが、貴公子たちはかぐや姫を手に入れることはできなかった。
「ところでさ」と僕は聞いた。「最終的には、光源氏は明石の君を手に入れるんだよね?」
 すると奈月は僕の方に向けて顔を上げ、「まぁ、そうなりますね」と答えた。
 ならば光源氏は月からの使者ということになるのだろうかと思っているところに、奈月が口を開いた。
「私、古くさいところがあるのかもしれませんけど、平安時代の人の感性って、素敵だなって思うところがあるんですよね」
「というと?」
「女性や男性を評価する時に『けはひ』とか『にほひ』が大切だっていうことです。見た目だけじゃないんですよね。それって、共感できるところがすごくある」と奈月はしんみりと答えた。
「ほんとうに心がきれいな人って、姿がはっきりとは見えなくても、それから会えない時でも、存在に包まれるじゃないですか。一緒にいて落ち着いたり、もっと一緒にいたいなって思ったりしますよね。で、そういう人たちって、当然見た目にもそれがちゃんと現れる。うわべだけの人には、絶対に出せない世界です」

キラキラ 150

「ただ、明石の入道は、縁とか運命とかを強く信じる人でした。だから、源氏の帰京にも、何か意味があるに違いないと思おうとするんです。その結果入道はこんなふうに捉えます。『思ひのごと栄えたまはばこそは、わが思ひのかなふにはあらめなど、思ひなほす』。訳すと、光源氏が都に戻ってお栄えになれば、それこそ、私の本望が叶ったことになるのだと気を取り直すのだった、という意味です。源氏の栄転がそのまま娘の格を上げることにもなるのだと考えることで、離別を受け容れようとしたんですね。この『思ひなほす』っていうとこが、いかにもですね」
 奈月はまるで入道その人をいとおしむような瞳でしおりを見ている。
「で、8月になって、いよいよ出発を2日後に控えた時、光源氏はあまり夜も更けない時間に明石の君のいる岡辺の宿を訪れたんです」
 奈月がそう言った瞬間、明石の無量光寺の前に続いていた『蔦の細道』の光景が頭に浮かんだ。別れを間近に控えた源氏が、肩を落としながら、それでもとにかく明石の君に1秒でも多く逢いたくてあの道を急ぐ姿が同情の色を帯びて想像できた。僕は思わず「光源氏は、残された明石の君との時間を永遠に刻みつけときたかったんだろうな」と口走った。
 すると奈月は僕の方に顔を向け、「分かりますよね、その気持ち」としみじみと言葉で寄り添ってきた。それから彼女は噛みしめるように話を続けた。
「まだ夜が更けないうちに愛人を訪ねるというのは、当時はあまりやらないことだったんです。暗闇の中、男が女の部屋の中にそっと忍び込むというのが恋の流儀でした。なので、人としての『けはひ』とか『にほひ』とか、そんなことがとても大事だったんです。でもその日は、いつもよりも空が明るい分、明石の君の姿がいつもよりもはっきりと見えたんです。おそらく源氏は、明石の君の素顔を焼き付けておきたかったんでしょうね。そして彼女は、源氏が思っていた以上に美しかったのです」

キラキラ 149

「完全に理性を失ってるな」と僕は奈月に続いた。とはいえその心理状態は痛いほどによく分かった。人は恋を求める。だが、いったん恋にはまってしまえば、それはとても恐ろしいものだということが実感される。恋とは、もしかして、麻薬に近いのかもしれない。
「いよいよ都に帰る準備にかかりはじめた頃、喜びに沸く供人たちの中で、当の源氏だけはふさぎ込んでいました。あれほど都に帰りたかったはずなのに、いざその願いが叶うと、明石の君が途端に恋しくなる。私思うんですけど、願いって、そんなものかもしれないですね。手に入らないことだから願うわけで、実際に手に入ってしまえば、意外と味気なかったりして」と奈月は声の調子をやや落とした。きっと彼女はまた、自身の結婚のことを言っているのだろうと僕は思った。
「その時の光源氏の心境は、こんなふうに書かれてます。『なぞや心づから今も昔もすずろなることにて身をはふらかすらむと、さまざまに思し乱れたる』。訳すと、どうして私は今も昔も、後先を考えずに恋に落ちてしまうのだろうと、源氏は思い悩んでいらっしゃる、という意味です」
 そうだ、恋というものは、後先を考えながらはまりこんでゆくようなものではないのだ。僕は心の中でそう唱えた。きっと源氏は、明石の君との恋を後悔しているのではなく、恋の本質を嘆いているのだろう。
「そんな源氏の姿を見て、事情を知っている供人たちは、『あな憎(にく)。例の御癖ぞ』とひそひそ話をしてます。彼らは、源氏の恋を心の『癖』だって、よく分かってます。周りの人たちにもバレバレなほどに、源氏も恋の病にかかっていたということなんでしょうね」
 奈月はしおりを参考にしながら話を進めた。
「そして、もう1人、源氏の帰京を嘆く人物がいました」
「分かった、明石の入道だ」と僕が答えると、奈月は「ピンポーン、大正解!」と声を上げた。きっとあの爺さんのことだ。ありえないくらいに落胆したに違いないと僕は想像した。

キラキラ 148

 そう言って奈月は、膝の上のしおりに再び目を落とした。
「ちょっと、生々しい想像ですけど、2人とも、かなり濃密な夜を過ごしたんでしょうね。6月くらいになって、明石の君の気分が悪くなったと書いてあります。妊娠しちゃったんです」
「妊娠?」と思わず僕の口から言葉がこぼれた。その後でふと我に戻った僕は、横目で周りの人を気にした。だが、他の乗客はこちらに頓着する様子もなく、ほとんどが窓の外の風景に目を遣っている。
「なんだか、すごいな、光源氏は」と僕は小声で続けた。
「当時の貴族男子にとっては、複数の女性と結婚することは、まぁ、あったわけですから、妊娠自体が今ほど問題になることはなかったとは思いますけどね」と奈月はやはり、淡々と語った。「当時の法律では、一応不倫は御法度だったって東山君は言ってましたね。一夫多妻制が許されてたのは、優秀な世継ぎを生まなければならない天皇だけだったんです。でも、その法律自体、強い拘束力があったわけじゃなかったから、貴族たちは、陰で自由な恋愛に落ちてたみたいですよ」
「ただ、俺の中では、光源氏って、気品と聡明さのある、どちらかというと草食系男子のイメージがあったけど、こりゃ完全な肉食系だな」と僕は思ったことを口にした。
 奈月は「たぶんですけど、一流の男って、多面性を持ってるんだと思いますよ」と言った。
「男性論が語れるくらい、奈月もいろんな人と出会ったんだな」と僕はやや意地悪く返した。すると彼女は「だったらいいんですけどね」と舌を出した。
 その時、奈月の肩越しに流れる風景の中で、川面がきらめいた。いよいよ嵐山に入ろうとしている。しおりに目を落としたままの奈月は、それに気づくことなく話を続けた。
「別れの間際になってこんなに愛情が深くなっては後で互いに傷つくだけだと源氏は思います。それでも自分の思いを止められなかった。後先のことが考えられないくらいに燃え上がってたんですね」

キラキラ 147

「都から赦免が言い渡されて、もちろん光源氏はうれしかったんですが、あまりに急な話でもあったので、明石の浦を離れることに寂しさを感じたんですね。須磨では、寂しかったり暴風雨に襲われたりと、何かとつらいことが多かったですが、やっぱりこの明石には格別の思い入れがあったんでしょう。東山君がどこかに書いてましたけど、『縁』あって明石に来たということです」と奈月は言った。
 奈月の話を聞いていると、わけもなく高校時代の記憶が甦った。これまでの半生を振り返ってみても、あの3年間ほど1日が長く感じられたことはなかった。学費の安い国立大学に合格するために勉強をし、放課後は部活動で適当に汗を流し、同じ学年の3つ編みの女の子に恋をした。ただ、退屈さは否めず、大学生になって独り暮らしをすれば、何か楽しいことが待っているだろうと思いつつ毎日を過ごしたものだ。
 だが、そんな高校生活でも、不思議と卒業式の時には特別な感慨が込み上げてきた。意外にも未練のようなものさえ感じた。これから自分は田舎を出て新しい生活に入ってゆくのだと思うと、妙に不安になった。それと同時に、いかにこれまで自分は高校というシステムに守られていたのかということを思い知らされた。
 卒業式の最中、僕は「1日は恐ろしく長く感じられたが、3年間は一瞬だった」と実感し続けた。きっと10年なんてあっという間に過ぎるのだろうと思うと全身に寒気が走った。そして、あれから10年以上経った今、僕は思う。人生なんて、あっという間なのだろうと。
 そうやって卒業式の体験と明石に未練を感じる光源氏とを重ね合わせていると、バスはがたがたと音を立て始めた。嵐山に続く道幅がしだいに狭くなり、舗装も悪くなってきたのだ。バスに揺られながら奈月は言った。
「それから光源氏は、一夜も欠かさず明石の君の家に泊まるようになります。恋心に再び火がつくんです」

キラキラ 146

 思わず言葉に詰まる。「いやぁ、偶然だよ。俺も今、奈月と全く同じことを考えてたんだ。『思い通りにならないようで、じつは思い通りになっているのが人生』ってね」と、軽々しく返すことができなかった。あまりに一致しすぎて、ほんとうに驚いてしまったのだ。
 奈月は太ももの上にしおりを開いたまま、窓の外に視線を投げている。西の空は金色がかってきたとはいえ、高いところはまだまだ青い。バスの時計は18:17を示しているが、真夏の夕暮れは、そう簡単にはやってこない。奈月の顔の半分は、西日の金色に塗れている。
 僕は唾を呑み込んで、「今度は『思い通りになっているのが人生』だなんて、さっきの投げやりな言葉はどこへ行ったんだ?」と聞いた。すると奈月はゆっくりとこちらに顔を向け、「投げやり、でしたかね?」と逆に問いかけてきた。
「大学時代、どんなことがあっても奈月は前向きだったからな。いつも感心してたよ」
 僕がそう返すと、「まぁ、あの頃は何も考えてなかったですからね」と奈月は応えた。「ただ、『源氏物語』に話を戻すと、結局、光源氏はなんだかんだ言って、都に帰ることができたじゃないですか。つまり、思い通りになったわけですよ。これって、世の中の真理を象徴してるのかなって」
 奈月は達観したかのような口調でそう語った。
「光源氏だけじゃないです。絶望的な気分になっていた明石の君にしても、なんとなく、彼女の思っていた方に人生が流れてゆくんです」
「ということは、明石の君は、心のどこかで源氏と別れようと思ってたわけだ」と僕は先読みした。すると奈月は「残念、その反対ですね」と答えた。僕には彼女の言う意味がよくわからなかった。
「都に帰ることになった途端、またもや源氏の心の『癖』が出るんです」
「なるほど、明石の君との別れが恋しくなったわけだ」
「六条御息所が伊勢に下る前に、別れがつらくなったのと同じですね」と奈月はにっこり笑った。

キラキラ 145

 ただ、僕は、明石の君が気の毒だとは思いつつも、どうしても光源氏の目線で物語を読んでしまう。
 義母との叶わぬ恋に破れ、その後で妻を愛人の物の怪によって失い、どうすることもできない心の『癖』から再び危険な恋に落ちた光源氏。政敵である弘徽殿女御の反目にも遭い、自ら都を離れて須磨に退去した。そこにはきっと「自粛」の他に「反抗」の意味もあったはずだ。流離の地での失意の生活の中、おそらく源氏は、都から自分を求める声を心のどこかで待っていたに違いない。
 だが彼は、明石で恋に落ちてしまった。いくら流離したところで彼の心の『癖』は消えてはいなかった。明石の君と密通した直後に、若妻である紫の上に対して罪悪感を感じ、新たな愛人の家に泊まるのをやめた。そこへもってきて、都から声がかかった。思わぬ展開になりながらも、最後は源氏の希望が叶う形になったわけだ。
 これら光源氏を取り巻く物語をたどる時、どうも僕の人生と重なるものを感じてしまう。もちろん、僕は源氏のような輝く星の下に生まれたわけでもないし、彼のような華々しい人生を送っているわけでもない。だが、そういうことを差し引いて考えても、源氏の人生に惹きつけられる自分がいる。
 太秦を抜けたバスの車窓越しの景色がしだいに歴史の色を帯びてきたのを見た瞬間、ふとこんな言葉が頭をよぎった。
「思い通りにならないようで、じつは思い通りになっているのが人生」
 それは、もしかすると過去にどこかで聞いた言葉なのかもしれない。ただ、ほとんど偶然に、僕の脳裏を駆け抜けたような気がした。偶然? 偶然と必然は対極のようで実は紙一重・・・
 すると奈月がこう言った。
「思い通りにならないようで、じつは思い通りになっているのが人生ですよね」
 自分の耳を疑う。僕の心の中の声が聞こえたように錯覚したのではないかと思う。だが次の瞬間、奈月は口を動かしてこう続けた。
「ただ雲のように漂っているようで、結局は、自分の思う方に流れていってしまうのかもしれませんね、人生って」 

キラキラ 144

「なるほどね、偶然のように見えて、じつは桐壺院の思惑だったんだ」
 僕がそう言うと、奈月はすっと顔を上げた。
「私、最近になって特に思うんですけど、偶然と必然って、よくよく考えてみれば、対極じゃなくてけっこう紙一重だったりしません?」
 バスは車折神社の赤い鳥居の前で停まった。新たに乗り込む人よりも降りる人の方が多い。それで、吊り輪につかまって立っている人の数はずいぶんと減り、車内はたちまちすっきりとした印象になった。
「たとえば、人との出会いなんてまさにそうじゃないですか。偶然に出会った人とたまたま仲良くなったのか、それともその人と出会ったのは必然で、本当は予め定められていたのではないか。そんなことを突き詰めて考えると、偶然と必然って、感じ方の違いにすぎないと思ったりします。つまり、人生なんて、ただ流れに乗って、雲のように漂うものなのかもしれないなって思えるんです」と奈月は言った。
「なんだか、奈月にしては、投げやりなことを言うなあ」と僕は感想を述べた。すると彼女は「誰と出会い、どこにたどり着くかなんて、自分の力じゃどうすることもできないんですよ」と続けた。
 その言葉を聞いた時、奈月は自分の結婚について言っているのだと気づいた。「最近になって特に思う」というのは、そういうことだ。「人生なんて、ただ流れに乗って、雲のように漂うもの」という捉え方が、現時点における奈月の結論なのだ。彼女が「縁」という言葉を好まないわけが、妙に納得できた。
「光源氏が明石を離れて都に戻るというのも、先輩が言うとおり、偶然じゃなく、亡き桐壺院の思いであり、つまりは住吉の神の導きだったわけです。光源氏はそんな星の下に生まれた人物だったんです」
「でも、輝かしい星の下に生まれた人を好きになったがゆえに、置き去りにされる女性もいる」と僕がつぶやきかけると、奈月は「それが明石の君だったわけですね」とすぐに応じた。
「光源氏が自分の方を向いてくれなくなって、悪夢が現実になったような思いをしているところに、源氏は都に帰ってしまうわけです。私なら、たぶん、気が狂うでしょうね」と奈月は寂しげに笑った。

キラキラ 143

「清水の舞台から飛び降りるような思いで好きな人にメールを送ったのに、返信が来ないと、私だったら胸が張り裂けそうになりますね。でも、最初は何とかプラスに考えようとします。あの人は今忙しいのかな、とか。それが、いくら待っても返信がなかったら、ほとんど絶望的な気分になっちゃいます。きっとそんな気持ちになるのは私だけじゃないと思うし、明石の君とか六条御息所も同じですよ。それに、都で待っている紫の上だって、源氏のことを思うと心配で心配で、毎晩眠れなかったはずです。いつの時代でも、人を好きになる気持ちに変わりはないです。だから、メールも和歌も心は同じです」
 奈月はまるで自分の体験を語るように力を込めた。その女心は、僕にも痛いほど共感できた。いや、恋の苦しみには、男心も女心も関係ないのではないかとさえ思われた。
 そんなことを考えていると、「話は元に戻るんですけどね」と奈月が口調を変えた。「さっきの明石の君と紫の上の話にも、新たな展開が訪れるんです」
「新たな展開?」
「はい。このタイミングで、都から光源氏にお呼びがかかるんです。そろそろ戻ってこないかと」
「それはまた偶然だ。明石の君が気の毒だ」と僕は言い、横目で奈月の方を見た。彼女の肩越しには京都の町が流れている。バスは太秦に入ったようだ。この辺りは道路も狭く比較的交通量もあるために、バスは再び低速ギアでの走行となった。路線図を確認すると、嵐山までの停留所は数えるほどしかない。
「光源氏がまだ須磨にいた時、夢枕に桐壺院が出てきましたよね。そして、住吉の神の導きに従って須磨を立ち去れと言いました。で、その桐壺院の霊はそのまま都に行って、時の帝である朱雀帝の枕元にも現れたんです。朱雀帝は桐壺院と弘徽殿女御との間に生まれた皇子です。源氏とは腹違いの兄弟になりますね。弘徽殿女御といえば、源氏の政敵の、こわ~いおばさんです。桐壺院は息子である朱雀帝を睨み付けて、目を患わせるんです。朱雀帝は源氏を須磨に流した罰が当たったんじゃないかと恐れます。源氏を都に戻そうとしたのは、そんないきさつがあったわけです」

キラキラ 142

――男として最低。奈月の言葉が胸に響く。それはまるで僕に向けられているかのような錯覚を感じる。心がきれいな女の子に愛されていながら、そのやさしさに甘えて、彼女たちを傷つけてしまう。
 僕がため息をつくと、奈月はふっと顔をこっちに向けた。
「なんだかさ、『源氏物語』って、妙にリアルだな」と僕は言った。「千年以上も昔に書かれたとはとても思えない」
 すると奈月は窓の外に目を遣り、だんだんと金色がかってゆく西の空を眺めながら「というより、どんなに時が経っても、人を好きになる心っていうのは変わらないってことじゃないですかね」と言った。
「つまり人間は進化しない」と僕がつぶやくと、奈月は「ですかね」と小さく返してきた。
「私には男心っていうものが理解できないんで、光源氏という人にはなかなか共感しきれませんが、明石の君とか紫の上とか、六条御息所とかの気持ちはものすごくよく分かります。どんどん時代が先に進んで、それと一緒に人間も進化しているようには見えたりしますけど、私はそうは思いませんね。特に、佐賀の実家に帰ってから、つくづく実感します。今も昔も人間は大して変わらないです。むしろ昔の人の方が、むしろ人間らしく生きてたんじゃないかなって。ましてや、恋愛になると、なおさらだと思いますね。人間である以上、人を好きになるんです。恋心を止めることなんてできないんです」
 奈月はそう言い切った。
「たとえば、メールとか、けっこう悩みの種だったりするじゃないですか。せっかく送っても返信しない人がいたりして」と奈月は僕の顔を見て言った。もちろんそれは僕のことだ。僕は苦笑いで返した。
「『源氏物語』には和歌がたくさん出くるでしょ。で、そこには恋の駆け引きが詠まれますよね。あれって、今のメールそっくりだと思いません?」と奈月は語尾を上げた。

「抜く」ということ

 今日は久しぶりに、心ゆくまで買い物を楽しみました。
 新春ということで、以前から目を付けていた財布を買い、それから思い切って仕事用のスーツも新調しました。イタリア・ゼニア社の生地を使ったネイビーの上質なスーツです! それに靴下とかインナーも新しいものにしました。心機一転です。
 日頃からお金を使うことに対してはかなり慎重な私ですが、それでもずっと欲しかったものを思い切って買うということは、やはり充足感がありますね。

 そういえば20代の頃、上司から「もっと上手に手を抜きなさい」と忠告されたことが何度もあります。がむしゃらに張り切りすぎていたのです。ただ、私はどうもその言葉に抵抗がありました。だから自分のスタイルを変えませんでした。その結果、体調を壊したり、疲れて無気力になったりもしましたが、今思えば、そんなこともほほえましいエピソードです。

 今日買い物をしながら、ふと思いつきました。「手を抜くんじゃなくて、力を抜くんだな」と。野球でも、力を抜いて打った時の方がボールはよく飛びます。ラグビーのキックも、ゴルフも、卓球も、たしかに力んでしまっては思い通りの結果は得らないというのが、私の経験です。

「力を抜く」ということができるようになるのは、きっと仕事でも人生でも、ある程度のキャリアがいるんだと思います。ただ1つ言えるのは、「力を抜く」ことの本当の必要性が理解できるのは、日頃から手を抜かずにやっている人だけだということです。

 さて、私は明日から再び仕事です。この正月休みは、とても有意義な息抜きになりました。

キラキラ 141

「明石の君も、それから紫の上も、光源氏に振り回されちゃうんですね、可哀想に」と奈月は声を小さくした。「光源氏が、明石の君とのことを紫の上に打ち明けたりするからですよ。それなのに、明石の君も紫の上も、源氏には広い心で接する。何か悟ってますよね、彼女たち。私には絶対できない」
 奈月がそう言った時、さっき彼女が教えてくれた話が頭をよぎった。
「ほら、奈月はさっき、光源氏には『性』と『癖』があったって言ってたじゃないか」と僕が言うと、今までしおりに目を落としていた奈月は顔を上げてこっちを向いた。バスは停留所に停車した。
「普段宮中に上がっている時は、光源氏はむしろ気むずかしいところがあって、簡単に女官たちには靡こうとしない。それが彼の『性』なんだ。でも、ひとたび恋に落ちてしまうと、何としてでもその女性を手に入れなければ気が済まなくなる、それが『癖』なんだって、さっき奈月は言ってたよな」
「ですね」
「それってさ、光源氏が好きになる女性は、特別な何かをもってるってことじゃないか?」
 奈月はこっちを見ながら考え込んでいる。まるで僕の顔に書いてある何かを解読しているようだ。
「光源氏って、母の身分があんまり高くなかったですよね」と奈月は切り出した。「父の桐壺帝は寛大な人で、身分だけで女性を判断しなかった。そしてやっぱり光源氏も、世間体じゃなくて自分の目で女性たちを評価してたんだと思うんです。その辺のことは、物語の前半に出てくる『雨夜の品定め』という場面で書かれてます。まだ女性を知らなかった頃の光源氏が、同年代の同僚たちと女性論を交わすんです。源氏は『中の品』といって、身分がそこまで高くない女性に興味をもちます。なので、先輩の指摘通り、紫の上も明石の君も身分云々ではなく、特別に心がきれいな女の子だったのでしょう。確かに源氏は彼女たちのそんなところを好きになったのかもしれませんね」と奈月は新たに車内に入ってきた乗客たちを見ながらそう言った。
「でも、彼女たちのやさしさに甘えるのは男として最低です」と彼女が続けると、バスは動き出した。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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