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キラキラ 197

 奈月の濡れた舌は僕の唇の間にするりと入り込み、口の中を縦横無尽に這い回った。状況がうまく呑み込めない僕は、ただ流れに任せるしかなかった。その時聞こえたのは、レンガの城が崩れてゆく音だった。それは、これまで築き上げてきた奈月との関係が瓦解してゆく音だった。僕は寂しさを覚えた。
 奈月はまもなくして舌を引っ込め、唇を離した。そうして、「すみません、先輩、どうしても我慢できなくなっちゃって」と素直に謝罪してきた。その言葉で僕は少しだけ安心した。
「私、いろんなことを考えるんです」と奈月は、何事もなかったかのように、落ち着き払った口調で話し始めた。今起こった出来事は、もしかして僕の錯覚だったのではないかと思うほどだった。それで僕はまだ口の中に残っている奈月の熱をたしかめた。
「これまでの人生、間違いだったんじゃないかって、ちょっと後悔してるんです」と奈月は言った。
「後悔だなんて、奈月らしくないね」と僕は応えた。
「私、田舎者だから、妙に素直なところがあるんですよね。小さい頃の経験が今に影響してる気がするんです」
 奈月はそう言って、僕の二の腕の上で頭の位置を整えた。
「中学生の時に、大好きだった先生がいたんです。体育の担当だったんだけど、若くて、情熱的で、存在感の大きい人だったんです。もちろんスポーツは何でもできて、私、密かに憧れてました」と奈月は話した。スポーツのできる男は女の子にとって魅力的に映るのだろう。
「で、上級生になったら私は生徒会の役員になりたいって思ったんです。というのも、先生は生徒会の担当でもあったんです。それまで先生のこと遠くから眺めてるだけだったんで、生徒会に入ることで先生に近づけるんじゃないかって本気で思いました。誰にも言わなかったですけどね」
 いつの間にか、風はぴたりと止んでいる。
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キラキラ 196

 すると「ありがとうございます。やっぱり、先輩はやさしいですね」という奈月の声が耳のすぐ近くで聞こえた。濃紺に染められた奈月の顔が目の前にある。
「もう、東山君への未練はないんですよ」と彼女は言い、横になったまま体勢を整えた。浴衣のこすれる音がまた響いた。
「さっき明石のお寺で、彼が1週間前にあそこに行ったっていう話を聞いた時は、過去の傷がぶり返しちゃいましたけど、もう全然大丈夫です。あの人とのことは想い出になってます。たぶん、仮に明石で会ってたとしても、そりゃ、奥さんとか子供と一緒の姿を見れば、少しは傷つくでしょうが、どうせすぐに回復してたと思いますね」
 僕には奈月の言葉が信じられなかった。とはいえ、ただの強がりにも聞こえなかった。
「さっきの先輩の言葉を借りると、東山君のことは、もう私の中で諦めて受け容れることができてるんですよ。時間が解決してくれたんですね。今思えば、青春時代の貴重な経験です。ちょっとほろ苦かったですけど」と奈月は述懐した。僕は小さく肯いた。
「私が聞きたかったのは、お父さんが病気になってなかったら、私は東山君とそのまま結婚してただろうかっていうことなんですよ、本当に」と奈月は軽やかに言ってのけた。
 奈月の質問について改めて考えてみた。その時、天井の端にじわじわと月明かりが染み込んでいるのに気がついた。窓の外の世界はさっきよりも月の影響を受けはじめている。風向きが変わったのか、さらさらさらという草木のこすれる音が、川の匂いとともに部屋に入ってくる。もう幸恵の影はそこにはない。「魅力的な男の人って、必ず欠落を抱えてる」という声が、窓の外に流されていく。
 僕は「さっき言ったとおりだよ。どのみち奈月は東山と結婚してなかったと思うね」と改めて言い切った。
 すると奈月は、「ありがとうございます。先輩がそう言ってくれるだけで、私は十分です。先輩はほんとうにやさしい人です」と言い、僕の首に両手をかけ、いきなりキスをしてきた。

キラキラ 195

 そう言った後で、突然頭の中がふわふわと揺れだした。外から入ってくる風に、幸恵の影が立ち現れたのだ。もうとっくに過ぎ去ってしまったはずなのに、じつはまだ近くにいるんだなと思った。
 前回の旅で、幸恵のことを考えながら嵐山の街を歩いた記憶をたどると、街の賑わいを具体的に思い起こすことができない。残っているのは、地面の光景だ。コンクリートで塗り固められた地面に小石や砂や紙くずが散らばり、時折僕の影がその上にかぶさる。つまり僕は終始うつむいて歩いていたわけだ。
 もちろん、幸恵と2人で街を歩いたこともないわけではない。だが彼女は外へ出ると決まってサングラスをかけ帽子を深くかぶり、それから無口にもなった。それが、神戸のルミナリエに行った時だけは例外的にはしゃいでいた。光でできた金平糖のようなイルミネーションが彼女の身体に降り注ぎ、僕は夢を見ているような気分になった。    
 その夜、僕たちはポートアイランドが一望できるホテルのバーで酒を交わした。僕はカクテルを、幸恵はワインを飲んだ。どんな話をしたかは詳しくは思い出せないが、主に幸恵の話を僕が聴くという形だった。あの時幸恵は「魅力的な男性」について、こんなことを語っていた。
「誰もが持っていないような特別なものを持つ人って、逆に、誰もが持っているありふれたものを持っていないのよね」
 僕がそのことについて考えていると、幸恵は「特別な才能っていうのは、何かの欠落と引き替えに備わってるものなのね、きっと。人間って、そうやってバランスを取らされているのよ」と言った。あの時彼女は、ワインと同じ色のピアスをぶら下げていた。よく似合っていると僕は思っていた。
「つまり、魅力的な男の人って、必ず欠落を抱えてる」
 幸恵はどこか誇らしげにそう繰り返し、ワインを口にした。その男の人がいったい誰のことなのかは今でも謎だが、東山を思う時、あいつもそういうものを抱えていたのではないかと振り返る。

キラキラ 194

 僕がそう答えると、奈月はまたふっと笑った。今度は「先輩、やさしいですね」とは言わなかったが、心でそうつぶやくのが僕には聞こえた。
「それにしても、東山が問題を抱えてたとしたら、まったく気づかなかったな。完全に心を閉ざしてたんだよ、あいつ。奈月は何か心当たりがあるかい?」
 すると彼女は「もう、ほとんど忘れちゃってますけどね、あえて言うと、突然無口になったり、イライラすることはありましたね。でもそれって、男の人なら普通にあることじゃないですか。私の友達も彼氏のことでけっこう悩んでましたし、東山君よりももっと変な人はいましたしね」
「そうだよ。たいていの男は、女には言えない何らかの問題を抱えてるもんだ。ただ、そういうのって、誰でも抱えてるわけだから、あえて問題扱いするまでもないことだよ。でも東山の場合はまた違う気がするんだ。たとえば、たいていの男は、あそこまで『源氏物語』に執着しない」
「じゃあ、先輩も何か問題を抱えてたんですか?」と奈月は質問の矛先をいきなり僕に向けてきた。意表を突かれながらも、「そりゃ、まあ、あるよ」と答えた。
「へぇ~。気になりますね。麻理子さんのことですか?」と奈月は顔を寄せてきたが、その問にはあえて答えずに、話を本筋へと戻した。
「要するに、奈月は、東山と結婚しないで正解だったってことだ」
 だが、僕がそう結論づけても奈月は薄く笑ったままだ。どうやら僕の言葉が届いていないようだ。
「いいかい、奈月、たしかに東山はいい奴だ。奈月とも最高にお似合いだった。でも、あいつは宿命的に冷めたところがある。過去をあっさり切り捨てることができるし、気持ちを切り替えることだってできる。好きな人たちといつまでもずっと一緒に生きていたいって願う奈月とは、価値観が違うんだ。だからあいつと結婚しても、きっとどこかで問題が起こってたろうよ」

キラキラ 193

「やっぱり、考えりゃ考えるほど、奈月は東山と結婚しなかったと思うね」と僕はさっきよりも自信を込めて言った。さすがにその思いが伝わったのか、今度ばかりは奈月も真剣に受け止めてくれたようだ。
「第6感は、科学よりも正しいことがあるっていうのが俺の経験則だ」と僕は補足した。その途端、結婚式での東山がスマートな新婦と一緒に渦の中にゆっくりと巻き込まれていった。
 奈月は「そうですかね」と半信半疑な感じで返してきた。
「今日ふと思ったんだけどさ」と僕は自分のペースで話を続けた。「あのしおりのことだ」
「しおり、ですか?」
「どうして東山は、あんなしおりをわざわざ作ったんだろう?」
「簡単ですよ、それだけあの人が『源氏物語』にはまってたからです」
 僕は改めて天井を見上げた。目はすっかり暗闇に慣れ、天井に貼られた板の継ぎ目までが見えるようになっている。それはまるで平安京の区画のように、きっちりと並べられている。
「ただ、いくらそうだからといって、あそこまでのものは書かないよ、普通」
 奈月は神妙な面持ちで僕の横顔に視線を当てている。
「つまりはこういうことだ。東山は『源氏物語』に執着していた。そこにあいつなりの救いを求めてた」
「救い? あの人、何かを抱え込んでたんですか?」
「分からない。ただ、東山は光源氏の生き方に共感するところがあったんだろう。おそらく、奈月と出会う前から何らかの問題に直面してたんだ。もちろんそれは、恋の問題だ。それが『源氏物語』と出会うことで心が慰められたんだと思う。読書の喜びって、そんなものじゃないか」
「それって、東山君が言ってたんですか?」と奈月は静かに追及してきた。
「さっきも言っただろ、第6感だよ」

キラキラ 192

「してなかったと思うね」と僕は即答した。自分でもびっくりするくらいに断言的な言い方だった。
 奈月も意外だったのか、顔を少し遠ざけぎみにして、暗がりの中の僕の顔を確かめながら「どうしてそう思うんですか?」と尋ねてきた。
 その問いかけに、またしてもすぐに答えが出てきた。
「俺の第6感がそう言ってる」
 奈月はしばらく間を置いてから、ふっと笑った。
「やっぱり、やさしいですね、先輩」
「やさしさなんかじゃない。心からそう思うよ」
 僕がそう言うと、奈月は首の力を抜き、再び二の腕に頭をもたげてきた。
「第6感っていうのは、ここぞというときには信頼できるんだ」と僕は説明した。奈月は「まぁ、それはそうかもしれませんけど」とやはり力の抜けた返事をした。
 僕の頭の中には東山の結婚式の時の記憶があった。
 東京タワーを一望する瀟洒なレストラン、彼らは芝公園の万緑にそびえたつ東京タワーを背景にして、純白の服に身を包み、幸せに満ちあふれた表情を僕たちに向けていた。新婦は奈月よりも背の高い、都会的でスマートな女性だった。大病院の検査技師をしているらしく、東山とは合コンで知り合ったということだった。
 披露宴の間、2人は終始睦まじく見つめ合い、ケーキカットの時には濃厚なキスまで披露してくれた。僕はその光景だけは直視できなかった。なぜなら、心の中には奈月の面影があったからだ。大学時代、この男の隣にはいつも奈月がいた。そのことをよく知る僕は、奈月以外の女性と東山がキスをすることを現実として受け容れたくはなかった。
「この方と初めて出会った瞬間に、運命を感じました」とスマートな新婦はスピーチの冒頭で涙を流した。

キラキラ 191

 その声に、僕の胸元は一瞬震えた。
「なぁ、奈月」
 そう問いかけると、「はい」という淡い従順な返事が返ってきた。
「奈月は時々、俺が考えているのと全く同じことを言うね」
 僕の腕の中にうずくまっていた彼女はこっちに顔を向けて「どういうことですか?」と聞いてきた。
「いや、夕方ここへ来るバスの中でね、俺は自分の過去を振り返りながら『思い通りにならないようで、じつは思い通りになっているのが人生だなぁ』って心でつぶやきながら黄昏れてたんだ。そしたら、その前まで『人生なんて、ただ流れに乗って、雲のように漂うものだ』って、投げやりなことを言ってた奈月が、いきなり俺が思ってたのと全く同じ言葉を口に出したんだ。あまりにびっくりして、何も返せなかったよ」
 奈月は「たしか、偶然と必然は紙一重っていう話からでしたよね」とどこか誇らしげに回想した。「ひょっとして、私たち、どこかでつながってるんですかね」
「かもしれないね。今だってそうだ。奈月がいきなり東山の話をしてきた時、俺の頭には『縁』という言葉が浮かんでた。だって、学生時代の旅を再現しようと思って久しぶりに明石を訪ねたら、東山も同じ行動を取ってたわけだから。それって、よく考えたら、すごいことだ」と僕は言った。
 すると奈月は「そうしたら私が、自分のことをつくづく縁のない女だってため息をついたわけですね」と僕の話を補完するかのように続けた。
 それから僕たちはしばらくの間外から入ってくる風の声を聴いた。
 すると奈月は「ねえねえ、先輩」とひそやかにささやきかけてきた。「人生に『たら』『れば』なんてないって分かってるんですけど、こういうこと聞けるの先輩だけなんで、あえて聞きたいんですけど、もし私のお父さんが病気になってなかったら、私、東山君と結婚してましたかね?」

キラキラ 190

「お告げ?」と僕は言った。すると奈月は身体ごとこっちに向けた。浴衣の擦れる音が闇に覆われた部屋の隅々に当たった。「東山とのニアミスに、いったいどんなお告げが込められてるっていうんだ?」
 僕がそう聞くと、奈月は「私と東山君との関係を象徴してるような気がするんです」と答えた。
 その言葉だけで、僕には奈月がどんなことを考えているのかが大体伝わった。ふと胸に浮かんできたのは、さっき奈月が語ってくれた明石の君の話だった。
 失意の日々を送っていた明石の君にとって、光源氏との子である姫君の誕生でさえ、寂しさを根本から埋めることにはならなかった。それが、住吉詣の折に、目映いばかりの源氏の行列とたまたま出くわし、彼女は心に大きな痛手を負う。だが、後で考えれば、そのことが2人を引き合わせたわけだ。明石の君はますます源氏のことが頭から離れなくなるし、源氏も彼女の苦悩を思うと、いてもたってもいられなくなる。2人の邂逅はまさに、住吉の神による『お告げ』だったのかもしれない。
 かたや、奈月と東山は1週間の差で会えなかった。しかもその事実を知っているのは奈月だけだ。おそらく彼女も心に何らかの痛手を負っているだろう。これは対等ではない。もちろん、すでに家族をもつ東山が奈月と出会ったところで何がどう変わるわけでもなかろう。奈月が僕と2人でいることに驚くくらいのことだろう。僕は知っている。東山とはそういう男だ。
 奈月が嫌いだという「縁」という言葉が頭の中をゆっくりと横切ってゆく。明石の君には縁があり、奈月にはなかった。
 思わず奈月の肩に手を回す。すると彼女は僕の腕の中に入ってきた。その時、窓の外からさっきの獣の声を聞いたような気がした。奈月に尋ねてみると、何も鳴いてないと返ってきた。僕の幻聴なのか、それとも奈月には聞こえなかったのか?
 すると奈月は突然「先輩、私って、つくづく縁のない女ですよね」と言ってきた。

キラキラ 189

「先輩・・・」
 それは幻聴を聞いたのかと思って返事をためらうほどにか弱い声だった。奈月の声が耳の奥に落ちた時、うとうとしかけていた僕の目は、再び暗闇に包まれた部屋の中を捉えた。
「たとえば東山君のことなんですけど」と奈月は続けた。「今回の旅で、なんだかいろいろと考えちゃうんですよね」
 奈月は依然として天井を見上げている。まるでそこに東山との想い出が映し出されているかのようだ。
「あの人、ほんとに、1週間前に明石に行ったんですかね?」
「分からんね」と僕は答えた。明石から京都へ向かう時の奈月の落胆ぶりを思い起こすと、あえて東山の話はしない方が彼女のためだと思った。
「私は間違いないと思いますね」と奈月は小声で断言し、額にかかった髪をかき分けた。いくら窓を開けているとはいえ、真夏の夜だ。僕も奈月も汗ばんでいる。
「さっきの無量光寺のお坊さんの話からすると、訪れたのはまず東山君だと思いますね。それに、虫の知らせって言うんでしょうか、第6感も訴えてくるんです」
「だとすれば、すごい偶然だな」と僕は答えた。
「でも、新幹線の中でも話しましたよね。いかにも偶然に見えても、じつは人生の中に予め組み込まれていたことなんじゃないかって」
 後ろの山の方で、何か獣の鳴く声が夜空に響いた。鳥の声のようにも聞こえたが、それにしては野太いように思えた。その音が消え去ると同時に奈月は言った。
「そう考えると、無量光寺に東山君が1週間前に奥さんたちと訪れて、それをさっきたまたま出てきたお坊さんが教えてくれたっていうのは、なにかのお告げのような気がするんですよ」

キラキラ 188

「ありえないな」
 奈月と2人で布団に戻ってから、僕は再びそう言った。
「俺の頭は狂ってるよ」
 奈月は僕の方を見ている。子猫のような彼女の表情が闇の中に感じられる。
「俺の頭の中だけ、タイムスリップしたのかもしれない」
「きっと、私が変なことを言いだしたからですよ」と奈月は申し訳なさそうに寄り添ってきた。
「今も平安時代もあまり変わらないっていう話か」と言うと、「いいえ、その話じゃなくって、私は六条御息所じゃないだろうかっていう話です」と奈月は応えた。外からはまた風が入ってきた。
「奈月と明石の君が重なるっていうのなら分かるんだ」と僕は言った。「ずっと待ってたわけだから」
 すると奈月はすぐさま「六条御息所こそ待ったじゃないですか。時間的にも悩みの大きさ的にも、明石の君よりも待つ苦しみを味わってますよ」と返してきた。
「ただ、彼女の場合、光源氏の妻に嫉妬して、生霊となって取り憑いたっていうイメージが強いじゃないか。そこがどうしても奈月と重ならないんだ」と僕は反論した。こっちに顔を傾けていた奈月は天井を見上げて、「ですから、さっき言ったでしょ。先輩には、私の心の深いところまでは分からないんだって」とぼやいた。
「まさか、奈月が誰かに取り憑いたわけじゃないだろ?」と僕は冗談半分に言ってみた。あくまで、奈月の心に近づこうとするための試みでもあった。だが、それに対して奈月は何も反応しない。距離は逆に広がったように思えた。   
 それから僕たちは互いの肩を触れ合わせたまま天井を見上げた。このまま眠りに就くかと思った時、奈月が口を開いた。

キラキラ 187

「窓を開けて正解でしたね」と奈月はおだやかにつぶやきかけてきた。ふと気がつけば、僕は首筋と脇の下に嫌な汗をかいている。風がことのほか心地よく感じられるのはそのせいだ。
「いい松風が入ってくるからな」と僕は言い、Tシャツの襟を軽く引っ張って首筋の汗を拭いた。
 すると奈月は「松風、ですか?」とこっちを向いてきた。
「ホテルの外に松が茂ってるって、今奈月が言ったばかりじゃないか」と僕も彼女の方に首を傾けた。奈月は何も言わずに僕を見ている。布団に横たわった僕たちは、驚くほど近い距離で見つめ合っている。
「言いましたっけ、そんなこと?」
「言ったじゃないか、窓の外を見ながら」
 僕はそう言って窓際に移動し、奈月が開けた窓から外を見下ろした。ホテルの明かりは、渡月小橋のたもとに植えられた木々を照らしている。
「ほら、あれが松なんだろ?」と僕は指さした。背後に立っている奈月は、僕の肩口から外を覗きつつ、「先輩、大丈夫ですか?」と耳元でささやいた。
「私、植物には詳しくないですけど、あの木はどう見ても松じゃないかことくらいは分かりますよ。だいいち、私、そんな話した記憶がないんですけど」
 奈月は真顔でそう言った。それで僕はもう1度外灯に照らされた木々を凝視してみた。たしかに、松の木ではないようだ。さっき見た時は枝々は曲がりくねっていたと思ったが、改めて見てみると枝はピンと張っている。おそらく桜の木だ。
「ありえないな」と僕は漏らした。
「奈月がこの窓際に立って、しおりを読んだのは間違いないよな?」と僕は確認した。奈月は肯き、その後で「でも、松風の和歌は読みましたけど、あそこに松の木が生えているだなんて、話してないです」と答えた。

キラキラ 186

 その朗読の声は、奈月のものとは思えないほどに低かった。読み上げる速度の遅さと相まって、何となく不気味な調子に響いた。
「ずっと待ってたんです」と窓際に立つ影は、声の低さを保ったまま語りかけてきた。「だって、それしかできなかったんですもの」
「まつ?」と僕の口からさっきと全く同じ言葉が出てきた。その時、また風が入り込んできた。たしかにそう言われてみれば、松の香りが感じられる気もする。
「待つことは、信じることでした」と影は言う。「でも、信じることの裏側には、叶わないかもしれないという不安が常にひっついてるわけで、だから、信じることは耐えることでもありました。ずっとそうやって耐えてきたんです」
「奈月?」と僕は影に向かって言う。だが、影は動かない。
「最初から分かってたんです。待っても無駄だってこと」と影は続ける。だがそれは、誰に向けられた言葉かなのかはっきりしない。
 その瞬間、なぜか琴の音が耳元にちらつきはじめる。さっき奈月が、源氏が明石の君のために琴を演奏したという話をしたからだ。そのせいで、風呂にいく時にたまたま廊下のスピーカーから流れていた音が、耳の奥に残っていたにちがいない。
 だが音は頭から離れない。それは体系化された音楽ではなく、1つ1つの弦をつま弾く単発の音色として響いてくる。そのうち、音どうしが和音のように共鳴しはじめる。
 やがてそれらは不協和音のように揺れはじめた。その混乱の中、僕は本当にタイムスリップしているのではないかと疑った。
 不協和音がようやく治まったかと思うと、隣には、いつの間にか奈月が横たわっていた。

キラキラ 185

 窓からの風が強さを増した気がする。それに伴って、草木のこすれる音も一緒に入ってくる。まるで生きているようだ。
 すると奈月は「あれっ」声を上げた。窓際に立つ浴衣姿の彼女は、しおりを手に取ったまま、のぞき込むようにして外を見ている。「あれは、松じゃないですか?」
「まつ?」と僕は聞き返した。
「ほら、やっぱり松ですよ」と奈月はくり返した。
 僕は布団から起きあがり、一緒になって窓の外を見た。ホテルからの明かりによって、生い茂っている木々の様子がほのかに照らし出されている。枝はくねくねと曲がっている。まるで何かを思い悩む人たちの列のようにも見える。
「ほんとうに松か?」と疑いにかかると「どう見ても松ですよ」と自信たっぷりの答えが返ってきた。「それに、なんとなく松の香りもするじゃないですか」
 奈月はそう言ったが、さすがに香りまでは判別できなかった。
「さっきは気づかなかったですね」と奈月は興奮気味に続けた。僕は布団に戻り、寝っ転がった。
「ひょっとして、ホテルごと平安時代にタイムスリップしたんじゃないか? 奈月が今も平安時代も変わらないとか、おかしなことを言うからだよ」と僕はからかうように言った。
 外からは次の風が入ってくる。部屋の外に松が生い茂っているのであれば、紛れもない「松風」だ。僕は首筋ににじみ出た汗を枕元のタオルで拭き取りながら「待つ人がいる方から吹く風」と頭の中でつぶやいた。改めて奈月の後ろ姿に目を遣ると、月の薄明かりを前面に受けたその身体は、奈月の形に切り取られた影のように映った。影は、さっきの和歌をもう一度口ずさんだ。
 
かはらじと 契りしことを 頼みにて 松の響きに 音を添へしかな

キラキラ 184

 奈月はページを1枚めくった。紙のこすれる音が部屋に響いた。
「大堰の邸に初めて光源氏が訪ねてきた時の様子も印象的ですね」と奈月は続けた。「妻である紫の上の目があって、なかなか抜け出すのが難しかったんですが、嵯峨野に御堂を造っているということを口実にして、やっとのことで大堰の邸を訪ねるんです。源氏は、この日のために、直衣(のうし)といって、きちんとした正装で明石の君の前に現れます。その姿を見て、哀しみに閉ざされていた彼女の心はしだいに晴れていきました。
 その翌日、光源氏はいったん嵯峨野の御堂を見た後、月の明るい中を再び大堰の邸に戻ります。明石の君は、明石の浦での別れの時に源氏から受け取った形見の琴を出し、それを源氏に見せました。源氏は琴をかき鳴らしながら、しみじみとした思いに駆られます。音色に包まれていると、明石での時間がたった今のことのようにさえ思われ、歌を詠みます。
 
契りしに かはらぬことの しらべにて 絶えぬこころの ほどは知りきや

 あの時お約束した通り、今も昔も変わらないこの琴の調べによって、ずっと絶えることのなかったあなたを思う心の深さは、おわかりいただけたでしょうか? 
 それに対して明石の君も、和歌を詠み返します。

かはらじと 契りしことを 頼みにて 松の響きに 音を添へしかな

 心変わりはしないと約束してくださったことだけを頼みにして、ここの松風の響きを聞いては泣いていたのですよ」

キラキラ 183

「『松』の木に『待つ』という意味が重ねられてるってわけだ。待つ人のいる方から吹く、松風か」と僕は情景を思い浮かべながら言った。するとまた障子の向こうのガラス戸に風が当たった。
「平安時代は、この辺りには松の木がたくさんあったんでしょうね」と奈月は僕の言葉に共鳴するかのように言ってきた。目が暗がりに慣れてきたのだろう、奈月が窓の方に向けている顔の輪郭が見てとれた。
 障子の外はぼんやりと明るくなり始めている。奈月は「あ」と声を上げた。「もしかして、月が出てるのかもしれないですね」
 彼女はやおら起きあがり、障子戸を開け、窓も開けた。風が草木を揺らす音が同時に入り込んでくる。彼女は窓から身を乗り出し、空を見上げた。
「あー、月が出てたんですね。後ろの山に出てたから気づかなかったんだ」
 僕は薄明かりに照らされる奈月の浴衣姿をぼんやりと眺めた。さっき奈月は、今も平安時代もあまり変わらないと言ったが、僕も同じようなことを感じ始めた。
「窓を開けといた方がいいかもな」と僕は、彼女の後ろ姿に向かって言った。奈月は「風が気持ちいいですからね」と返してきた。それで僕はリモコンで冷房を切った。その瞬間、静寂がさらに深まった。
 奈月は縁側に置いたバッグの中からしおりを取り出し、窓際の薄明かりにそれを差し出して、「東山君のこのしおりも、いよいよ終わりですね」といとおしむように言いながらページを開いた。
「明石の君に同伴してこの大堰に移り住んだ、母の尼君がこんな和歌を詠んでます。

身を変へて ひとりかへれる 山ざとに 聞きしににたる 松風ぞふく

 世をはかなんで尼に身を変えて帰ってきた山里に、明石で聞いたのによく似た松風が吹いている。そんな情感が詠まれてます」
 奈月がそう説明した瞬間、遠くから土の匂いも入ってきた。

キラキラ 182

「・・・ねぇ、先輩」
 隣で寝ている奈月がささやいた。その小さな声は、不思議と、明かりの消えた部屋にくまなく響き渡ったような気がした。戸の障子には、めっきり少なくなった嵐山の街灯が蛍の光のようににじんでいる。
「そっちの布団に行ってもいいですか?」
 奈月がそう言うと、僕の口からは「いいよ」という言葉が出てきた。
 明石から京都に入る新幹線の中で、奈月と同じ部屋に泊まることについて僕は抵抗を覚えた。渡月橋を渡ってこのホテルに近づいた時、自分はいったいどこに向かっているのか分からなくなって身体がこわばった。だが、もはやそれは過去の感覚だ。「人はみな、諦めることによって事実を受け入れて生きてるんだ」と奈月に語ったばかりのことが、今自分の中に起こっている。
 奈月は僕の布団の上に転がってきた。彼女の身体が僕に触れる。新しい世界に入り込んだような錯覚を感じる。奈月と出会ってから10年以上になるが、その間知ることのなかった世界だ。
「静かですねぇ」と彼女は天井を見上げて言った。「こうやって夜になると、今も千年前もあまり変わらないような気がしますね」
「でも、さすがに平安時代にこのホテルはなかっただろう」と僕が言うと、奈月は「もう、先輩って、ほんとに夢がないですね」とため息混じりに返してきた。
「いや、夢じゃなくて、事実だ。今は平安時代じゃない」と僕がさらに返した時、障子の外の窓ガラスに風が当たった。
「明石の君が初めてこの大堰に引っ越してきた夜、琴の音色に松風が絡み合うんですよね」と奈月はさっき窓際で話したことを改めて持ち出した。
「松風って、待つ人のいる方から吹く風でもあるんですよね」と彼女はしんみりと言った。

キラキラ 181

 奈月はグラスを窓枠に置いて、その横に両手をついた。
「さっき先輩は、『人間って、適応してゆく生き物だ』って言ったじゃないですか。きっと、その通りなんですよ。ただ、それって、悩みを切り捨てることでもあると思うんです。世の中の『強い人』っていうのは、そういう生き方が上手いのでしょう。でも、よく考えると、悩むのは、大事なことだから悩むんですよ。どうでもいいことについて悩むわけないじゃないですか。だから私は、悩みから逃げるために諦めたり適応したりすることに対して、どうしても寂しさを感じてしまうんです」
 奈月はまだ若いのだと思った。だからこの時点で彼女に何を言おうと彼女には届かない。そんなことを考えながら黙っていると、奈月の方が先に口を開いた。
「先輩には、私の心の深いところまでは、たぶん分かってもらえないんだと思います」
 その言葉は僕の心を寒くした。僕はますます何も言えなくなった。
 奈月は改めて窓の外に視線を投げた。ぼんぼりのような嵐山の街の明かりの数はさっきより少なくなっているように見受けられる。奈月は明かりの奥の闇を見ているようだった。光源氏が造営した御堂や、源氏と六条御息所の別れの舞台となった野宮のあった方向だ。
 奈月は「でも、結局は、『思い通りにならないようで、じつは思い通りになっているのが人生』なんですよね」と、ここへ向かうバスの中で話したことを反芻するかのようにつぶやいた。
「今は諦められないって騒いでいながら、いざ新しい生活が始まったら忘れちゃうんですかね」
 奈月はそう付け加え、自嘲の笑みを浮かべながらため息をついた。僕には彼女の言わんとすることがよく呑み込めなかった。
「先輩、私、男に生まれればよかったです」と今度はそんなことを口走り、身寄りのない捨て猫のような目をこっちを見上げた。たまらず僕は彼女の髪にそっと触れた。

キラキラ 180

「なぁ、奈月」と彼女につぶやきかけた。「そういうことって、程度の違いはあっても、おそらく誰しもが考えることだと思うんだ」
 奈月はふっと顔をこっちに向けた。
「ただ、奈月の場合、感受性が人一倍強いところがあるから、深刻に考え込んでしまう。それで自分を追い詰めてしまうんだと思うよ」
 奈月はガラスに映る彼女自身と対面して「じゃあ、私と同じようなことをみんな考えるとして、その人たちはどうやって解決してゆくんですか?」と聞いてきた。
「解決のしかたは人それぞれだろうけど、きっとほとんどの人間は諦めてゆくんだと思う」と僕は答えた。「人はみんな死ぬ。逆に永遠の生を与えられたとして、それはそれで苦しいことだと思う。死を前提として生かされている僕たちは、自分の人生が終われば、次に生まれてくる人たちにバトンタッチするようになっている。諦めるっていうのは、その自明の事実を受け容れるってことだ」
 僕はそう言った後、いったん膳に戻って、ビールと新しいグラスを2つ持ってきた。そうして2人で乾杯しなおした。新しいビールを不味そうに飲んだ奈月は、その後でこう言ってきた。
「今先輩が言われたのは、あくまで一般論ですよね?」
 僕はグラスを口に運ぶ手を止めて、奈月の横顔を見た。
「すごくよく分かるんです。でも、私は諦めたり受け容れたりする境地にはまだ達してないんです」
「大丈夫だよ。そのうち達することができるよ。すべては時間が解決してくれる」
 僕の言葉に彼女は弱々しく首を振りながら、「諦めるっていうのは、ほんとうに寂しくてつらいことです」と言った。

キラキラ 179

「私、大丈夫なんですかね? この先まともな人生送れるんでしょうか?」
 奈月はそう問いかけてきた。だが、声はさっきほど震えていない。取り乱している自分を傍観するかのような冷静な口調になっている。
「べつに後悔してるわけじゃないんです」と奈月はうつむいていた顔を上げた。窓ガラスに映る表情には自嘲の色がにじんでいる。
「後悔してるわけじゃなくって、追い詰められてるんです」と奈月は少し声を大きくした。「人生って、なんで一度きりなんですかね? この人生が終わったら、どうなっちゃうんですかね。私は、また私として生まれ変わることができるんでしょうか?」
 そう言って奈月は横目で僕を見た。彼女の目の下を横切っていた渡月橋が耳の方にずれた。
「奈月は、今の自分が好きなんだな」と僕は言った。すると彼女は「自分のことが好きなんじゃなくて、私の周りにいる人たちが好きなんです」とすぐに返してきた。
「私って、なんだかんだ言って、周りの人たちにすごく助けられてここまで生きてきたんです。お父さんとお母さんはもちろんですけど、お姉ちゃんにしても、弟にしても、みんな私を支えてくれた。それから、友達も、職場の同僚も、困った時には相談に乗ってくれたり、アドバイスしてくれたり。私、その人たちの期待を裏切りたくない一心で、とにかく一生懸命にやってきたんです」
 奈月はそう言い、大きく息を吐いた。その瞬間、ヘアリンスの香りがふわっと広がった。
「すごくいいと思うよ。そんな生き方。いかにも奈月らしい」と僕は返した。
「でも、いくら大好きな人たちに恵まれたって、死んだら終わりじゃないですか。私、今人生のターニングポイントに立ってるから、余計にそんなことを考えるんです。私にとっての1つの時代が終わって、私の周りから人どんどん離れてゆくようで、それがたまらなく哀しいんです」

キラキラ 178

 僕の横で奈月はぼんやりと窓の外を眺めている。ふと手前に目を遣ると、僕と奈月の姿が窓ガラスに映っている。さっき新幹線の中でも感じたことだが、こうして2人の姿を客観的に眺めてみると、僕たちはただの先輩と後輩の仲には見えない。そもそも、過去から未来へと永遠に流れ続ける時間の中で、こうして奈月と2人きりでガラスに映っていること自体が、僕にとってはミラクルに感じられる。
 ガラスの中の奈月は物憂げな表情を浮かべている。瞳のすぐ下は幽玄に照らし出された渡月橋が横切っている。すると彼女は肩で息を吐き出した。どうかしたのかと聞いても返事はない。奈月はただ漠然と窓の外を眺めているだけだ。
 しばらく経ってから奈月はこうつぶやいた。
「何だか、私が私じゃないみたいです」
「またそんなことを言う。大丈夫だよ、どこからどう見ても、奈月は奈月だよ」と僕はささやいた。
 だが彼女は首を振り、「いや、私はいったい誰なのか、分からないです」と哀感を込めて畳みかけた。「私は、六条御息所なんじゃないかって、すごく思います」
「六条御息所?」
「あぁ、やっぱり、私、頭がおかしいです。私は一体誰なんですかね?」
 奈月は両方の手で頬を押さえながら、泣き出しそうな声を震わせた。
「酔っちゃったんだよ」と僕は言った。すると彼女は頬に手をやったままもう一度首を振り、「酔ってなんかないです。最近になって、私、よくこんなふうになるんです。特に夜になると、いろいろと考えちゃって、頭がゴチャゴチャになっちゃうんです」と訴えてきた。
 僕は奈月をただ見守るだけで、他には何もできなかった。それよりなぜ、奈月が六条御息所にこだわるのかがどうしても呑み込めなかった。

キラキラ 177

「はい。っていうのも、この場所からほんの少し離れたところに、光源氏が御堂を造営中だったんです。じつは、大堰は、洛中に住む光源氏にとっても、けっこうなじみがあったわけです」
「なるほどね。つまり源氏にしても、妻である紫の上に嵐山へ向かう口実ができたわけだ」
 僕がそう言うと、奈月は「ですね」と軽やかに応えた。
「もっとも、これも全くの偶然っていうわけじゃないんです」
「わかった。明石の入道の頭の中には、ちゃんとそのことが入ってたんだ。娘を住ませるのに、いきなり都のど真ん中にもっていくよりは、光源氏の御堂の近くの方がいろんな意味で都合がいい。そう踏んだんだな」
「その通りです。でも、たまたま大堰に土地があったというのは、偶然ですよ。この辺りは、平安時代では一等地とまではいかないまでも、相当な価値はあったはずですから。そこに手つかずの土地があって、知人が領有している。こんな美味しい話、ありえないですよ」
 僕は「これも住吉の神の導きっぽいな」と言った。奈月は「かもしれませんね」と応えた。
 それから彼女はすっと立ち上がり、しおりを椅子の上に置いてから、僕の隣に来て窓の外を眺めた。
「光源氏が造った御堂は、まさににあの辺にあったとされるんですよ。今は清涼寺っていう、大きなお寺になってます」と奈月は窓の外に向けて指さした。「その清涼寺の少し手前には、野宮神社があります。源氏と六条御息所との別れの舞台ですね」
 ぼんぼりのような嵐山の街の明かりの奥には、濃紺の空間が続いている。そういえば、東山は京都に来ると仏教的な迫力を感じるのだと奈月によく話していたらしい。こうやって嵐山の夜を覗き込んでいると、僕もその闇の中に静かな迫力を感じる。何だか不吉な迫力のような気がした。

キラキラ 176

 奈月の指さした画面上を見ると、たしかにそうなっている。この川の総称は「桂川」と記されているが、上流へ行くと「保津川」、渡月橋の架かる嵐山公園の辺りでは「大堰川」と名前を変えている。
「大堰川って呼ばれるのは、まさにこの辺りだけなんだ」と僕は改めてそうつぶやいた。
 奈月はスマートフォンを椅子の下に丁寧に置いた。コトと音がした。それから再びしおりを開き、ページをめくった。
「明石の君はさんざん悩んだあげく、入道の用意したこの大堰の地に姫君と一緒に住む決心をします。転居の日は順風が吹いて舟もすいすい進み、予定通りすんなりと京に入ったと書かれてます」
「源氏が須磨から明石へ移った時とよく似てるね。あの時もたしか神風が吹いたんだった」
 奈月は僕の方を見て、わずかに頬を緩めた。
「長年親しんだ明石を離れ、父とも別れ、しかも光源氏の住む洛中からも距離のある暮らしに、明石の君の心細さも募ります」と奈月は同情気味に続けた。「ただ、明石の入道は娘の新居を趣のある雰囲気にしつらえていました。それに、この川岸はどことなく明石の海辺を思い出させてくれたりして、明石の君にとっては不思議と場所が変わったような気がしなかったようです。だから彼女は昔のことを思い出しながら、少しずつ新天地での生活に慣れていったんです」
 奈月は自らの過去を回想しているように見える。
「大堰に到着した夜、明石の君は琴をかき鳴らします。すると音色に合わせて松風が吹いてくるんです」
 僕は奈月の話に耳を傾けながら立ち上がり、窓の外を眺めた。外灯に照らされた渡月橋が嵐山公園の向こうに白く浮かび上がっている。ぼんぼりのような街の明かりも大堰川の川面に揺れている。
「それに、この大堰の地には、もうひとつ偶然がありました」
「偶然?」
 嵐山公園の草木がかすかにざわついている。少し風が出てきたようだ。

キラキラ 175

「たしか、六条御息所にも娘はいたよな」と僕は確認した。
「ですね。彼女は斎宮に選ばれて伊勢神宮に仕えたんですけど、その後、都に戻ってからも重要な人物として成長してゆきます」
「つまり、こういうことだ。御息所の娘は、母に伊勢へ下るためのきっかけをつくった。かたや明石の君の娘は、母を光源氏に近づける役割を果たした」
 僕がそう言うと奈月は頭の中でもつれた糸をほどくような表情を浮かべて、「そういうことになりますかね」とつぶやいた。
「さっき奈月は、六条御息所は物語から消滅して明石の君は再生されたって話してくれたけど、それぞれの娘の役割はけっこうでかいね」と僕は考察し、それから「で、結局、明石の君は、上京するんだよね?」と続けた。すると奈月は「はい」と落ち着いて答えた。
「さんざん悩む娘の姿に心を痛めた明石の入道は、大堰川の辺りに放置されていた土地のことを思い出すんです。もちろん、娘を都に住まわせることについて、入道にもいろんな不安があったわけですが、光源氏に頼る一心で、その土地を手に入れて娘のために邸を造る決心をしたんです」
「そういえば明石でも、もともと住んでいた海辺の家では高波のおそれがあるからと、わざわざ丘の上に家をこしらえたよな。で、今度は娘のために京都に家を作ったわけだ。いかにも入道らしいけど、それよりこの人は相当な財力を握ってたんだな」と僕は言った。思えば、明石の入道も、明石の君と光源氏を引き合わせるためのキーパーソンになっている。これも住吉の神の導きなのだろうか?
「かくして明石の君の新居は、大堰川の辺りに建てられたわけです。ほら、先輩、これを見てください」と奈月は言い、スマートフォンの画面を差し出し、その中の地図を見せた。
「大堰川って呼ばれるのは、嵐山公園の辺りなんです。つまり、まさに、今私たちがいるこの場所ですよ」

キラキラ 174

 奈月はいったん朗読を休止して、「切ないなぁ」と漏らした。「自分なんかがこの人を好きになってもいいんだろうかって疑問を感じる瞬間ですよ。1度でもその人に愛されると、どうしようもない深みにはまっちゃって、罪の意識にさいなまれるんでしょうね。世の中には、そんな恋に苦しんでる人って、けっこういると思いますよ」
 奈月の分析に、僕は「かもな」とだけ答えた。
 それから奈月はゆっくりと視線をしおりに落とし、さっきよりも低い声で続きを読み始めた。
「・・・一方、明石の君からの手紙を受け取った光源氏も、思い悩んでいた。まさかここで彼女と再会するとは夢にも思わなかったのだ。明石の君の心中を察するといてもたってもいられなくなり、今すぐにでも会いたいという衝動に駆られた。住吉大社への参詣を終えて京に帰る途中も、従者たちが楽しい管弦の遊びをする中で、源氏だけは明石の君のことが心に引っ掛かっていた。
 明石の君の方も、あくる日に改めて住吉に参詣したが、その間ずっと物思いが募り、自らの情けなさを思って嘆き続けた。明石に帰っても悩みは深くなるばかりだった。
 光源氏は何度も上京を促してきたが、決して応じる気にはなれない。身分の違いがどうしても頭から離れず、自分のような田舎者が京都に上がったとして、世間の物笑いの種になるだけだと恐れるばかりだった。このあたり、やはり六条御息所に通じるところがある。御息所もまた、葵祭での光源氏の行列を目の当たりにして屈辱的な思いをさせられ、自分の恋が世間の『人笑へ』になることだけは避けようと激しい葛藤と闘い続けた。
 とはいえ、明石の君には御息所とは違う悩みがあった。姫君のことだ。この子を田舎で育てることによって、世間から人並みに扱ってもらえなくなるのではなかろうかと危惧したのだ。姫君のことを考えると、明石の君の心は揺れ動いた」

キラキラ 173

「みおつくし?」と僕は奈月の朗読に口を挟んだ。すると彼女は目だけこっちに向けて、「はい。昔、川とか海で舟の通り道を示すために作られた木の杭のことです。難波は昔から水上交通が盛んで、そんな標識が所々に立てられてたんでしょう。澪標は和歌の掛詞になることも多いですよね。たしか、百人一首にもあったと思いますよ」
 つまり光源氏は、難波における明石の君との予期せぬ再会は、恋する2人が水路を示す杭に導かれるかのように、運命によって引き寄せられたのだととらえようとしたわけだ。そうやって、傷ついた明石の君の心を何とか慰めようとしたのだろう。そんな想像をしている間に、奈月は朗読を先に進めた。
「・・・光源氏の一行が華々しく通り過ぎるのを見るだけで心が波立つばかりだった明石の君は、源氏からの手紙を受け取り、ほんの一言であっても心にしみてもったいなく感じられて、思わず泣けてしまうのだった。そうして、彼女も和歌をしたためて、それを使いに渡した。

数ならで なにはのことも かひなきに などみをつくし 思ひそめけむ
(人の数にも入らない私が、何を思ったって甲斐のないと分かりきっているのに、いったいなぜ身を尽くしてあなた様のことをお思いする羽目になったのでしょう)

 六条御息所を彷彿とさせる、誇り高く理知的な明石の君だったのに、彼女の心境には明らかな変化が見てとれる。光源氏とのあまりにもかけ離れた身分の落差を思い知らされた哀しみが素直に詠まれている。まだ出会って間もない頃、明石で源氏から手紙をもらった時、『私をまだご覧になっていない方が、噂を聞いただけでお悩みになるのでしょうか?』と切り返してみせたのが同一人物とは思えぬほど、彼女もつらい恋の深みにはまりこんでしまっているのだ」

キラキラ 172

「え?」と思わず言葉が漏れた。奈月は一瞬だけ僕の方を見て小さく肯いたが、すぐさま続きを読んだ。
「・・・その知らせを聞いた時、まず光源氏の頭に浮かんだのは、過去の占いの結果だった。というのも、かつて父の桐壺院が統治していた頃、光源氏の将来について高名な占い師に観相をしてもらったことがあった。それによると、光源氏は天皇になる相があるが、そうなれば世の中が乱れるかもしれない。だが、源氏の3人の子供は、それぞれ帝・后・太政大臣になるということだった。源氏はその観相結果を思い出し、現に藤壺との不義の子は冷泉帝として即位していることも考えて、明石の君との間に生まれた姫君が将来の皇后になると直感した。
 それで、源氏は、まず、父に仕えた宣旨の娘という女性を乳母として明石に送り、自分がいかに姫君を大切に思っているかを伝えた。この取り計らいに心慰められた明石の君だったが、やはり都へ上るということになると、どうしても気後れしてしまうのだった。
 秋になり、源氏は、須磨での暴風雨の際に住吉の神に様々な願を立てたことの願ほどきのために住吉大社に参詣した。その日偶然にも、明石の君も例年の参詣に出かけていて、舟で難波の浦に到着した時、光源氏一行の豪華な行列と鉢合わせてしまった。それを目の当たりにした明石の君は自分の罪深さを知り、たまらなく悲しくなって、人知れず涙に濡れた。光源氏の乗っているきらびやかな車をはるか遠くから眺めると心がしめつけられて、とても直視することなどできない。彼女は住吉に行かずに、難波の浦でお祓いをすることにした。その話を聞いた光源氏は、あわてて彼女に和歌を贈った。

みをつくし 恋ふるしるしに ここまでも めぐり逢ひける えには深しな
(身を尽くして命をかけた恋の証に、澪標(みおつくし)で知られるここ難波の地であなたと巡り会えたのは、きっと前世からの深い縁があったからでしょう)」

キラキラ 171

「いいえ、すごく重なるところがありますよ」
 奈月はそう返し、籐の椅子に深くもたれかかった。僕には奈月が本心から言っているとは思えなかった。もしかすると六条御息所に憧れているのかもしれないと思った。東山にとって御息所は理想の女性だったのだ。
「それで、光源氏が都に復帰した後、六条御息所はどうなるんだろう?」と僕は聞いた。奈月は、ふっとこちらに顔を向けて、「さっきから何度か話題に出てますけど、彼女は物語の中から消えていきます」と応えた。「明石の君の台頭によって、たちまち影の方に追いやられるんです。六条御息所は消滅し明石の君が再生されたっていうことですよね」
「で、その明石の君は、まさにこの場所に引っ越してきたわけだな」
 僕は質問の矛先を軌道修正した。
「まさに、この場所ですよ」と奈月は足元を指さした。それから、やおら立ち上がり、部屋の隅に置いていた白いバッグからしおりを取り出してページをめくった。そのついでにスマートフォンを手に持って再び椅子に着き、「ちょっと、しおりを読んでみますね」と言ってから東山の文章を朗読した。
「都に帰った光源氏は、かつての輝きを取り戻すことになる。なにしろ彼には、故桐壺院が味方していたし、住吉の神の導きもあったわけだ。そのような力を借りて、逆境を見事に切り抜けるということで、彼は正真正銘のスターであることが証明されたわけだ。冒頭に私が述べた通り、光源氏の流離は、彼がさらに高みに駆け上がってゆくための通過儀礼だったのだ。
 さて、過去の栄光をすぐに手に入れた光源氏は、さっそく、流離の間寂しい思いをさせていた女性たちに報いてゆく。特に妻である紫の上へのもてなしは手厚かった。だが、そんな時、知らせが届く。明石の君に女の子が生まれたのだ」

キラキラ 170

 僕はビールを置き、奈月に続いて縁側の椅子に腰掛けた。僕を前にした奈月は、浴衣の裾のつまを指先でぴたりと合わせた。
「大丈夫。今は今だし、それから、奈月はちゃんと奈月だよ」と僕は彼女を励ますように言った。窓の外には、今奈月が形容した通り、外灯に照らされた渡月橋が闇夜に白く浮かび上がっている。さっきまでの青空がまるで嘘のような、静寂に包み込まれた夜の風景だ。
 すると奈月はだしぬけに「たとえば、私は明石の君じゃないですか?」と言ってきた。僕はその問には答えられなかった。全く予期せぬ質問だったからだ。
「いやそれとも、紫の上かもしれないです。愛する人を信じて、ひたすら待つ女性」
 それを聞いた時、佐賀の実家で東山を待っていた奈月の姿が想像された。だがその甲斐もむなしく、あいつは都会の女性とあっけなく結婚して上海に渡ってしまった。たしかに奈月には、光源氏を待つ紫の上の姿に重なるところがあるのかもしれない。
「いいや、それとも、六条御息所かもしれないですね」と奈月はさらにそう続けた。
 だが僕にはあの女性だけは奈月と重なるところがないように思われた。光源氏の最初の妻である葵の上に嫉妬を抱くあまり、魂が身体から抜け出し、無自覚のまま生霊になった女性。それでもなお六条御息所は、源氏が自分のところに戻ってくれることを夢見て待ち続けた。しかし願いは叶わなかった。たしかに不運もあったが、それを嘆いても仕方なかった。
 それで御息所は心を鬼にして娘と一緒に伊勢に下った。知らせを聞いた源氏は、やっと会いに来てくれた。その夜、互いの変わらぬ思いを確かめ合いながらも、翌朝源氏は御息所の元を去った。舞台は嵯峨野の野宮だった。
「さすがに、奈月が六条御息所と重なるところはないだろう」と僕は言った。久しぶりに何かを喋ったような気がした。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
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