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キラキラ 227

 ちょうどその時、僕たちの目の前に野宮神社への入口を示す看板が現れた。奈月は一切躊躇することなく、看板の示す小道へと入っていった。まるで、この辺りの地図を知り尽くしているかのような動きだ。僕も黙って彼女の後をついて行った。
 すると、もしかするとそれは僕の気のせいかもしれないが、辺りの空気が重く、冷たくなったような気がした。夜明け前の嵐山の街も静まりかえっていたが、この小道に入った途端、静寂の質が変わったように思えた。恐怖さえ感じるほどだった。
 野宮神社へと続く道は、ほんの100メートル足らずと見えるが、その間に外灯は2つしかなく、足下は暗く心許ない。道の両側には竹林が続いているらしい。それもただの竹林ではない。深くて背の高い竹林だ。2つしかない外灯が、その竹林の様子をおぼろげながらに照らし出している。
 奈月は僕を尻目にかけるかのようにまっすぐに進んでいる。時折大きく空気を吸い込むようにしながら、ゆったりと歩いている。つい今まで、ナレーターのような口調で明石の君にまつわる物語を解説していた時とはまた別の魂が宿っているかのように、奈月は落ち着いている。だが、その落ち着きは、僕の心を決して落ち着かせない。2人でビールを飲み交わす前までは、僕は奈月の心と重なり合っているという手応えを得ていた。だが、今の彼女は何を感じているのか全く想像できない。彼女の落ち着きは、だからますます僕を混乱させた。
 すると、少し前を歩く奈月が、まっすぐ前を向いたまま口を開いた。
「竹たちが何かを語りかけてくるみたいです」
 その言葉を聞いて、僕はヒヤッとした。同じようなことを感じているからだ。
「ちょっと、怖いな」と僕は感じることを言葉にした。すると奈月はこう応えた。
「普段は目に見えないものの声が、ここでは聞こえるからですよ」
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キラキラ 226

「なるほど」と僕は言った。しかし奈月は、僕が「ど」を言い終えないうちに次を話し始めた。
「つまり明石の君は、光源氏と縁があったんですね。さっきから先輩が言ってるように、彼女の人生は、思い通りにならないようで、じつは思い通りになったんです」
 僕は一呼吸置いてから「ということは、明石の君は、明石の入道の念願通りに、めでたく光源氏の妻となったわけだ」と言った。
 すると奈月は「都に戻った光源氏には、輝かしい生活が待っていました。政治的地位もぐんと上がり、離れていた人たちも一気に近づきました。流離の苦しみを乗り越えた光源氏は、名実ともに栄華を極めたのです」と、やはりNHKのナレーターのように解説を続けた。
「それで、源氏は、過去に六条御息所の住んでいた辺りの広大な敷地に『六条院』という理想郷を構え、そこに春夏秋冬の町を作るんです。『春の町』は源氏が住むべき所で、正妻である紫の上と一緒に暮らします。『夏の町』は昔の恋人である花散里が住み、『秋の町』には秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が住みました。秋好中宮とは、伊勢神宮に仕えた前の斎宮で、六条御息所の娘です」
「六条御息所」と僕は思わず口走った。すると奈月はかすかな反応をしたようだった。だが、その反応は、またしても暗闇に包み消されてしまった。
「明石の君が移り住んだのは、その六条院の中の『冬の町』でした」
 奈月は結論づけるように静かにそう言った。僕には、何となく、明石の君と『冬の町』が結びつかないでいた。降り注ぐ太陽、磯の香り、クマゼミの鳴き声。明石という場所は、やはり夏が似合う。
「たしかに、明石の君にとって、光源氏が愛する他の女性たちと同じ敷地内に住むということは、一概には幸せだとは言えませんでした。それでも、離れた場所でひたすら待ちわびる苦しみを思えば、源氏がすぐ近くにいるということは、せめてもの救いだったわけです」

キラキラ 225

「ひょっとして、今から行こうとしてるのは、野宮神社?」と僕は看板を見ながら聞いた。それは古い看板で、毛筆の文字は、長いこと風雨にさらされたことを物語っているかのように朽ちかけている。
 奈月は僕の問いかけに反応せずに歩を進めている。いや、何か言ったのかもしれない。あるいはうなずいたりして仕草で応えたのかもしれない。だが、僕たちの足音とさやかに吹きすぎる風の音、それからこの暗闇が、彼女のわずかな反応をかき消してしまっている。
 もはや僕にとって、奈月がどこへ行こうとも、さしたる問題ではない。ホテルの部屋で目覚めた直後、彼女は他の魂が宿ったかのように冷淡になり、僕よりも先に、朝一の新幹線で佐賀に帰ると言い始めた。その瞬間、それまで落ち着いていたはずの心にはたちまちさざ波が立ち、それはやがて大波になって激しく胸をかき乱した。
 奈月が「行きたい」と思うのであれば、僕はどこへでもついていくしかなかった。そうして彼女がまた元の、彼女らしい心を取り戻し、お互いに満たされた思いでそれぞれの新幹線に乗りたいと願うばかりだった。
 すると奈月は「最終的には、明石の君は幸せだったんですよ」と突然話しかけてきた。足音にも風にも負けない、はっきりとした声だった。
「明石の君は、大堰川のほとりに、つまりさっきのホテルの近くに移り住んで、光源氏の訪問をひたすら待ったんです。そのうち源氏の方もたまらなくなって、まずは、2人の子供である姫君を引き取るんです。その時の明石の君の悲しみときたら、それは想像を超えるものだったでしょう」
 奈月はやはり淡々とした口調で話した。歴史を語るナレーターのような口ぶりだ。
「だけど、その悲しみも、長い目で見れば、必然だったわけです」
「必然?」と僕は聞いた。
「娘を手放した心残りが、明石の君を都に住ませるための大きなきっかけになったんですから」

キラキラ 224

「でも、もう東山君のことは、どうでもいいんです。先輩との共通の知人だからどうしても話題に上るけど、正直、それ以上の思い入れはないです。1週間前にあの人が明石に行ったというのも、結局は、彼とは縁がなかったということのあらわれです。結ばれそうで、結ばれない。そんな人って、もしかしたら、人生の中にはいるのかもしれません」
 奈月はさっきまでよりも冷淡な口調でそう言った。気がつけば、僕たちは渡月橋を渡り切り、眠ったままの嵐山の街へ出た。前に来た時にソフトクリームを買った店のある商店街も、暗がりの中にシャッターが下りていて、まるで映画のセットのような雰囲気だ。映画のタイトルは『暗がりの街』だ。いや『死んだ街』、それとも『夢の中の廃墟』かもしれない。
「つまりは、ホテルの部屋の窓から見えた松の木も、現実的な夢だったというわけだ」と僕は奈月の横顔に向かって言った。すると彼女は「それは分かりませんよ」と答えた。「ただ、私が言ってるのは、夢と現実の区別をつけるのが難しい時もあるっていうことです。そうして、私の場合は、そういう経験が、人生の選択を迫られた時にけっこう影響してるってことなんです」
 それから彼女はしばらく考え事をした後で、「私の心の中にあるのは、諦めることのできないことばかりです。でも、すごく悩んでいるのに、夢にも出ないようなことだってありますよね」と続けた。その時、商店街の屋根の間から、満月がはっきりと顔をのぞかせた。
「割り切ることのできない人、割り切ることのできない過去。それは決して夢じゃなく、正真正銘、今の私が抱える闇なんです。須磨で光源氏の枕元に現れた桐壺院のように、夢で解決のヒントを告げてくれたら、どんなにか楽だろうに」と奈月は小さく言った。
 目の前には「野宮神社」と記された看板が外灯に照らされている。

キラキラ 223

 渡月橋を歩いているうちに、大堰川を吹き抜ける風が僕の前髪を揺らした。さっきホテルの部屋の窓から流れ込んできた風だ。今隣を歩いているのが、数時間前まで裸のまま抱き合っていた女の子だとはどうもうまく信じられない。もしかすると、あれもおそろしく現実的な夢だったというのだろうか?
「教師って、物事を上手に割り切ることができる人がなるべきだって、私、夢を見てそんなことまで思い始めたんです。で、それから、周りの先生方をやたらと観察をするようになりました。これじゃいけないなって、ずっと思ってたんですけど、どうしてもしてしまうんです」
 奈月はそう言った後で、ふっと我に戻ったような仕草を見せ「ごめんなさい。教員試験を断念した人間がそんなこと言うべきじゃなかったですね」と謝ってきた。
「いいよ。何でも思ったことを素直に口にする場が必要なんだ、人間には」と僕は寄り添った。 
 橋を進めば進むほど、嵐山の街灯が近づいてくる。街はまだ眠ったままだ。背後の山々は漆黒の色をしみこませて座り込んでいる。
「東山君とのことだってそうなんですよ」と奈月はだしぬけ気味に口を開いた。
「私、何度か彼の夢を見たんです。夢の中で私は一度たりとも東山君と結ばれなかった。あるときは冷たく私の手をふりほどき、ある時は殴りかかってきました。全身が血まみれになるくらいに。彼は常に隠し事を抱えてるんです。彼が何を隠しているのか、簡単に分かりそうで、じつは絶対に分からないんです。私が追求しようとすればするほど、彼はいらだち、事実は遠ざかってゆくんです。そのうち私は、夢の中で疲れ果ててしまいました」
 僕もさっき奈月を抱きながら、過去に彼女と抱き合った記憶を追いかけた。そこには僕と奈月の正しい関係を示唆する重要なヒントが隠されているような匂いがしたのだ。だがそのうち僕は深い眠りに墜ちてしまった。
「だから、東山君と別れたのにも、夢が絡んでたんです。おそろしく現実的な夢ですよ」

キラキラ 222

「さっきビールを飲んだ後で、ヘンな感覚にとらわれたんだ」と僕は切り出した。「ここの桜が、たしかに松の木に見えたんだ。しかも、それを教えてくれたのは奈月だった」
 僕がそう言っても、彼女はべつだん大した反応をせず、「うとうとして、夢を見てたんでしょう」という素っ気ない言葉だけ返ってきた。
「それが、夢とは思えないくらいに現実的なんだよ」
 僕が声を大きくしても、奈月はやはり平然とした様子で「夢と現実って、考えようによっては、どっちが夢で、どっちが現実なのか、わからなくなることってないですか?」と問い返してきた。
「たとえそういう感覚になったとしても、それは瞬間的なことだよ。現実は現実だ」
「そうですかね。今が夢じゃないかっていう感覚から抜け出せないことはないですか? それはたとえば、試験に合格したとかの特別な瞬間じゃなくて、ふとした時に、私なんかだったら普通に歩いている時とか、教壇に立って小学生の前で授業をしている時とか、ありふれた時間の中にそんな感覚がふっと入ってくるんです。今私は本当にここに立っているんだろうか? 今の私はただ今を生きてると思い込んでるだけの人形みたいなもので、現実の自分はどこか他の場所いるんじゃないかって」
 僕たちの前には渡月橋が現れた。すると、後ろの山で、何かの獣の鳴く声がした。ホテルの部屋で聞いたのと同じ鳴き声だった。
「それとは逆に、おそろしく現実的な夢だってありますよ。たとえば私、予知夢みたいなものをよく見るんです。私、あれほど先輩に応援してもらったのに、結局小学校の教員試験を断念したでしょ。もちろん、いろんな要因が絡んでるんですけど、じつはあの頃見た夢の影響もあるです。子どもたちのためにと必死になって働いて、疲れ果てている私の姿がそこにあったんです。あぁ、この仕事は本当にやりがいがあるけど、私みたいな人間がすると、こんなにボロボロになるんだって、怖くなりました」

キラキラ 221

 奈月は荷物をフロントに預け、チェックアウトの手続きまで済ませてしまった。僕はというと、奈月が帰ってしまうのであれば、このホテルにいる意味もないとは思いながら、せっかく予約してある朝食を取らないで帰るというのも心残りな気もした。それで、一応チェックアウトをしておいて、その後からでも朝食のチケットを使うことができるように確認だけは取っておいた。
 まだ夜も明けない時刻である。ロビーに他の客の姿はない。昨日の夕方流れていたモダンにアレンジされた箏曲のBGMもない。大きく取られた窓の外は、こちらが明るいために、真っ暗だ。フロント係の若い男性も、僕たちが外へ出るのを待たずに、奥へと引っ込んでしまった。
 ホテルの外に出た途端、まず草木の香りが鼻についた。前回ここへ来たとき、僕は幸恵を思いながら1人で嵐山を歩いた。あの時の光景が全く思い出せないくらいに、辺りは静まりかえっている。
 僕と奈月は並んで渡月小橋に足をかけた。ビールを飲んでうとうとしていた時、大堰川のほとりに松林が並んでいると奈月が指さしたのを思い出す。待つ人のいる方向から吹いてくるという「松風」の話を奈月の口から聞いたはずなのに、僕がはっきりと目を覚ました後、奈月はそんなことを言った覚えがないと苦笑した。だったら、僕は夢でも見ていたのだろうか? それにしても、夢にしてはずいぶんとリアルな光景だ。しかも夢というものは、これは僕だけの感覚かもしれないが、目が覚めると途端に色褪せてゆくものだ。だのに、奈月がした松風の話は、かえって色濃くなるばかりだ。
 そんな違和感に囚われるうちに、橋を渡り、大堰川の中州である嵐山公園に足を踏み入れた。さっきは松の木に見えた桜の木が、ずらりと川縁に並んでいる。部屋の窓から見た時と同じく、何かを求める人々の手のように枝々は思い思いの方向に伸びている。地獄から天上を希求する人々のようでもある。
「空気がおいしいですね」と奈月は言った。「辺りが暗いと、風が何かを話しかけてくるみたいですね。前に東山君と来たときには、そんなこと感じなかったな」

キラキラ 220

「何か、俺、奈月の気に障ることでも言ったかな?」と僕は訊いた。すると奈月は「何もないですよ。何を心配されてるんですか?」と答えてきた。彼女の表情や言いぶりには、嘘偽りは全く感じられない。
「じゃあ、先に帰るとか言わないでくれよ」と懇願するように僕は言った。
「でも、そればっかりは仕方ないです。どうしても帰らなければならないんです」と奈月は答えた。どこか割り切っているように映る。
「かぐや姫みたいだな」と僕は瞬時に思い浮かんだことを言った。すると彼女は衣類をたたむ手をぴたりと止めて「かぐや姫、ですか?」とつぶやいた。
「じいさんとばあさんと貴公子たちが必死で引き留めるのに、それを振り切って月の世界に帰ってしまう」と僕は説明を付け加えた。奈月はそれについて考えているようだった。僕にしては意外な反応だった。
 そのうち奈月は何かを言いかけたが、途中で言葉を飲み込み、再び衣類を整理し始めた。
「奈月も、ほんとうは帰りたくはないんだな」と僕は彼女が今口に出しかけたことを想像して言った。「帰りたくない」という言葉を奈月の口から聞きたかったのだ。だが奈月は「すみません、どうしても帰らなきゃいけないんです」と一辺倒な答え方をして僕の思いをかき消した。
 それにしても、僕は、奈月が先に帰ると言い出した途端に胸が締め付けられるような寂しさに襲われることになったわけだ。それは全く予期せぬ心の痛手だった。2人で仲良く一緒に帰れば、こんな気持ちにはなっていなかったはずだ。僕はもう、ほとんど必死になっている。
 すると奈月は「先輩と一緒に嵐山を歩きたいっていうのは、東山君との思い出をたどりたいわけじゃないんですよ。東山君と歩いた時に感じたこととか、あの時叶わなかったことを、もう一度取り戻したいんです」とさっき洗面台の前でした話をここで持ち出した。そして、その後で急に真顔に戻り、「先輩は準備しなくていいんですか?」と言ってきた。そうえいば僕は、ヨレヨレのTシャツと短パンのままだ。

キラキラ 219

「東山との思い出をたどっておきたいんだな」と僕が返すと、奈月は「東山君とは、あんまり関係ないです」とあっさり答え、洗面台を照らしていた白熱灯をぱちりと消した。そうして軽く頭を下げてから僕の前を横切り、部屋へと入っていった。
 僕が部屋の間接照明のスイッチを入れると、ほのかな明かりがふわりと立ち上がった。奈月は部屋の隅で自分の荷物をまとめている。
「ほんとうに帰っちゃうのか?」と僕は聞いた。寂しさでいっぱいになった胸がずっしりと重い。
「どうしても帰らなきゃいけないんです」と奈月は後ろ向きで答えた。
 外はまだまだ闇に包まれている。夜はまだ明けそうにない。大堰川から吹き込んでくる風も冷たさを含んでいる。
「奈月が帰るのなら、俺もここを出るしかないな」と僕は立ったまま大堰川に架かる渡月橋を眺めながらつぶやいた。橋は幽玄の明かりでライトアップされている。車の通りは全くない。その光景は極楽浄土を連想させた。いや、三途の川かもしれない。 
「私が帰っても、先輩はゆっくりされてください。お風呂も入れますし、朝食も取ってあるわけですから。私に気を遣わないでください」と奈月は自分の衣類をたたみながらそう言った。
「奈月」と僕は彼女の名前を呼んだ。彼女は「はい」と小さく答えた。
「君はほんとうに、奈月、だよね?」
 すると彼女は「何おかしなこと言ってるんですか」と笑い、僕の方を見た。たしかにどこからどう見ても奈月にちがいない。だが、さっきまでの奈月とは何かがちがうのだ。何時間か前まで、僕たちは裸で抱き合っていたのだ。僕は彼女にキスをし、彼女の陰毛に手を入れた。そうして彼女は何度も僕に抱いてほしいとねだってきた。
 目の前に座っている女性は、いったい誰なのだろう?

キラキラ 218

「奈月がいったい何を言ってるのか、とにかく俺には分からない」と僕は首を振りながら言った。彼女は不思議な顔をしてこっちを見ている。まるで、おかしなことを言っているのは僕の方だといわんばかりだ。
「俺より先に、しかも黙って佐賀に帰るっていうのは、いくらなんでも、あんまりじゃないか?」
「でも、私、昨日、そう言いましたよね」と奈月は答えたが、僕にはそんな話を聞いた覚えが全くない。というより、さっきまでの奈月とはまるで別人格を宿らせたこの女性は、本当に奈月だろうか?
 すると彼女は冷淡さすら漂わせながら鏡の方を向き、髪のセットを再開した。僕はただ茫然とその姿を眺めるしかなかった。いったい、何がどうなっているというのだろう?
 やがて奈月は髪から手を放し、最後にヘアスプレーをさっと振りかけた。フローラル系の香りがふわっと広がり、まだ半分眠っている鼻の奥にも届いてきた。
「先輩」と奈月は鏡を見たまま話しかけてきた。僕は何も言わずに彼女の方を見た。「どうしても行きたいところがあるんです、先輩と」
「今から?」
「はい。できれば今からです。朝一の新幹線が出る前に、そこに行っときたいんです」と奈月は言った。
「もちろん構わないけど、あまりに早すぎないか? まだ夜も明けていない」
 僕がそう返すと、奈月は何の迷いもなく「できれば夜が明けないうちに行っときたいんです」と言った。僕には全く意味が分からなかった。
「で、どこへ行くの?」と聞くと、奈月は化粧ポーチに道具をしまいながら、「嵐山の町を歩きたいんです」と返した。ますます意味が分からなくなっているところに、「東山君と2人で歩いたところを、先輩と一緒に歩きたいんです。だめですか?」と奈月は言い、ガラス玉のような瞳を僕に向けた。

キラキラ 217

 さっきまで窓の外にあった月がいつの間にか見えなくなっている。その代わりに、山と空の境目はほんのわずかだけ金色がかってきている。どうやら記憶を追いかけているうちに深い眠りについてしまったようだ。部屋は深海のように静かだ。
「奈月」と僕は言った。海底にいる割には、声は乾いた感じで響いた。それでも返事はない。僕は布団から起き上がり、彼女を探した。その瞬間、僕はTシャツを着てショートパンツをはいていることに気付いた。僕たちは裸のまま抱き合って寝ていたはずだった。しかも僕の短パンを脱がすように促したのは奈月の方だった。だのになぜ僕は今服を着ているのだろう?
 頭の奥で何かがよじれたような気がした。それと同時に、さっきの奈月の言葉が聞こえた。
「今がいったい今であるのか、そして自分が誰なのか分からない」
 たちまち不安に襲われた僕は、もう一度奈月の名を呼んだ。声は悲痛の色を帯びて、部屋に響いた。すると、玄関の方で物音が聞こえた。戸を開けると、オレンジの白熱灯がやわらかく照らされて、洗面台の前に立った奈月が髪の毛を後ろにまとめるところだった。
「奈月」と僕は歩み寄りながら言った。安堵のあまり声が裏返った。奈月は両手を後ろ頭に回したまま僕の方を見て、「起きてこられたんですね」と小さく言った。
 彼女は花柄のワンピースを着ている。昨日着ていたマリンボーダーのワンピースと同じ丈だ。
「いったい、どうしたんだよ。まだ、夜も明けてないぞ」と言うと、彼女は「朝一の新幹線で帰らなければならないって、昨日言いませんでしたっけ?」と返してきた。頭の奥がよじれたままでは、奈月が昨日何を言っていたのかを思い出すことすらできない。
「先輩が起きる前に出るつもりでしたけど、やっぱり、そうはいきませんでしたね」と奈月は薄く笑った。まるでこの展開を予知していたかのようなゆとりのある笑みだった。

キラキラ 216

 ふと目が覚めた時、奈月は僕にぴたりと寄り添っていた。月明かりが、彼女のくびれた腰のあたりに陰影を与えている。いつの間にか、僕たちは揃って眠りについていたようだ。
 僕は、おぼろげな意識の中で、汗ばんだ彼女の乳房を手で包み、乳首を触った。眠っている奈月だったが、僕がそうすると、かすかに反応した。僕はさらに彼女を深く抱きしめた。
 次に目が覚めた時、今度はペニスが鉄のように固くなっていた。僕は無意識のうちに彼女のおしりの奥に手をやっていた。そこは十分に濡れていた。僕はペニスをあてがうと、奈月は一瞬受け容れてくれるかのような雰囲気でもあったが、すぐに両膝を伸ばしておしりを遠ざけ、静かに首を振った。
 僕はどうしても奈月がほしくなった。それは理性で制御できるようなものではなかった。僕は彼女の太ももの間に顔をうずめた。だが奈月はおしりをさらに遠ざけて拒否した。
 僕はたまらなくむなしい気持ちになった。胸の中がもみくちゃにされた紙屑のようになった。仕方なく元の体勢に戻り、さっきのように奈月を抱きしめた。すると彼女は赤ん坊みたいに力を抜き、安らかに僕の胸の中に落ち着いた。
 奈月のぬくもりは、なぜだか懐かしく思われた。以前、どこかで同じように抱き合ったような気がしてならなかった。それがいつだったか、今すぐにでも思い出せそうだった。だが、あとわずかで追いつかない。その記憶はいつでも手に届くところにぶら下がっていながら、いざ手に取ろうとすると、ほんの少しだけ遠ざかり、僕の両手の間を意地悪くすり抜けて行く。
 それでも僕は、なおも記憶を追いかけた。記憶の解明が奈月と僕との正しい関係を築き上げてくれると確信できた。何度も奈月の名前を呼ぶ。奈月はその声が聞こえているはずなのに、僕の手の届かないところを小走りで進んでいる。そのうち僕は、息切れがしだした。もう無理だと諦めはじめた・・・
 次に目を覚ました時、部屋はうっすらと明るくなっていた。隣に奈月はいなかった。

キラキラ 215

「どうせ、すべてのことは、過ぎ去ってゆくんだ」
 僕はこれまでの体験を振り返りながらそう言った。
すると奈月は、「太宰治みたいですね」と僕の胸元に言葉を当てた。
「太宰治?」
「はい。『人間失格』の最後の場面で、廃人同然にまで落ちぶれた主人公が、そうつぶやくんですよ。自分には幸福も不幸もない。ただ、一さいは過ぎて行きますって。彼が生きてきた地獄のような人間社会の中で、唯一真理らしく思われたのは、そのことだけだって」
「いきなり太宰治が出てくるとは、奈月もなかなか文学少女だな」と感心すると、「『人間失格』は中学生の時に初めて出会ってから、今まで何度も繰り返し読んでますから」と答えた。
「やっぱり中学生の頃なんだ」と僕は言った。
「私はどうしても昔のことが忘れられないたちなんですね」と奈月は自嘲気味に言い、「でも私も、いつか、物事を諦めて、受け入れながら生きて行く日が来るんですかね」としみじみとつぶやいた。
「今回の旅は、俺にとっても、ここ数年にないくらいに楽しかったよ。ひょっとしてこれまでで一番かもしれないくらいだ。繊細な奈月のことだから、俺以上に今日のことが懐かしくなって、自分で言うように死ぬほどさみしく思える日が来るかもしれないな。でも、もっと時間が経ったら、必ず思い出に変わるって。しかもとびっきりいい思い出にね。もしそれが、諦めて受け入れるということならば、それは決して悪いことじゃないよ」と僕は応えた。奈月は何も言わずにじっとしている。
 しばらくして彼女は「それにしても、こんな格好で抱き合ってるのに、不思議です。先輩とならすごく自然な感じがします」と小さく言った。驚くことに、僕もちょうど同じようなことを実感していたところだった。心がみるみる安らいでゆくようだった・・・

キラキラ 214

 僕がその陰毛のさらに奥にまで指を入れようとすると、彼女はぴたりと手を止めて、「だめです」と首を振った。それでもなお強行突破を試みると、奈月は僕の手首をぎゅっと抑えた。
「さっきも言ったじゃないですか。これ以上はだめです」と奈月はささやき、再び身体をするりと反転させて、今度は僕の方を向いた。すると、思い出したかのように、窓の外から草木のこすれる音が入り込んできた。わずかではあるが、風が涼しくなってきている。月はさっきとほぼ同じ位置に光っている。それにしても今夜はずいぶんと長く感じられる。おそらくこれが奈月との最後の夜になるだろう。
 奈月は僕の胸に顔を近づけて、ふっと温かい息を吐いた。
「このまま時間が止まればいいのになぁ」
 僕はそうつぶやいた彼女の背中をやさしく撫でた。背筋がしっかりと盛り上がったみずみずしい身体だ。それが、腰の辺りへと下りていくと、だんだんと柔らかく、女性的な肉感になってゆく。奈月は今、大人の女性に変わりつつあるのだなと僕は感じた。
「大丈夫だ、奈月は幸せになる」
 改めてそう言うと、奈月は「そんな哀しい言い方しないでくださいよ」と応えた。
「哀しくなんかないよ。奈月は今、結婚を目前に控えていて、いろいろと不安になってるだけなんだ。さっきは道に迷ってると言ってたけど、道は間違っちゃいない。そのうちちゃんとした所にたどり着けるよ」 
 僕はふと奈月と歩いた明石の光景を思い出し「ほら、地図にない道に入ってしまったけど、結局は明石の入道の邸宅にたどり着いたじゃないか。あれと同じだよ」と言った。
 すると奈月は肩の力を抜いて、「すごく楽しかったですね。あれが今日の出来事だなんて、信じられないです」と僕の論点をずらすかのようにそう言った。
「でも、きっと、すぐに何年か経って、あの瞬間が懐かしくて死にそうになる時が来るんですよね」と奈月は付け加えた。

キラキラ 213

「とにかく、さっきから言っている通り、奈月が六条御息所と重なるっていうのは、どうもピンと来ないね」と僕は言い、後ろから奈月の乳房に手をやった。仰向けになっていた時とはまた違ったやわらかさがあった。乳首を指で挟んでやると、彼女は顔だけ僕の方に向け、ふたたびキスをせがんできた。それで僕は彼女の唇の間に下を入れた。
 しばらくのあいだ僕たちはそのままの体勢でキスをした。僕は奈月の乳房を手に包んだり、筋肉質なお尻を撫でたりした。そういえば、記憶があるかないかの幼い頃に、浜辺で砂の団子をこしらえたことがあった。あの時僕は、磨けば磨くほど砂の玉は輝くことを知り、時間をかけて入念に磨いたことがあった。奈月のお尻も同じように、撫でれば撫でるほど時間とともに艶やかになってゆくような気がした。
 すると奈月は唇を離し、「触ってもいいですか?」と聞いてきた。僕が「もちろんだよ」と応えると、彼女は後ろ手に僕のペニスをつかんだ。それはきわめてうやうやしい手つきだった。そのうち手はゆっくりと上下に動き始めた。
「上手だ」と僕がささやくと、彼女はうれし恥ずかしそうに笑った。
 僕は心が満たされてゆくのを感じていた。手のぬくもりが、僕を新たな楽園へと連れ出してくれるかのようだった。今まで厚い雲で覆われていた心はたちまち晴れ渡り、温かい風が吹き込んできた。椰子の木には小鳥がさえずり、遠くで波の音も聞こえてくる。太陽は僕を照らし、青空は心を解放した。
 すると奈月は「先輩って、すごく声を出すんですね」と揶揄するように言ってきた。僕は「気持ちいいんだから、しかたないよ」と、どこかやるせない思いで言った。奈月は何も言わずに、僕のペニスを撫で続けた。僕は乳房を触っていた手を、少しずつ下の方へとずらした。筋肉質な腹があり、そのさらに下には彼女の陰毛があった。それは太陽の下の芝生のようにふかふかしていた。

キラキラ 212

 僕は、奈月の要求通り、そのまま彼女を抱きしめた。すると奈月は、僕に半パンを脱ぐように促してきた。それを脱ぎながら、あぁ、これでいよいよ元には戻れないなと実感した。
 かくして僕たちは完全に裸同士になって抱き合った。奈月は僕の胸の中にうずくまった途端に「すごい落ち着きます」と胸をなでおろすように言った。
「なんだかさ、信じられないよ」と僕は感想を漏らした。
「何がですか?」
「今がほんとうに今なのか、信じられない。俺の言ってること、わかる?」
「わかりますよ。さっきも言ったじゃないですか。私の場合は、今が今であることだけじゃなくって、私が私であることすら信じられないんですから」
「まだそんな感覚をもってるの?」
「ずっともってますよ。私って一体何なのだろうって、今この瞬間も揺れてます。さっき先輩が寝ていた間も、窓を開けて外の景色をぼーっと眺めてたんですけど、今は平安時代なんじゃないか、私は『源氏物語』の中に生きてたんじゃないか、本気でそう思った瞬間が何度もありましたよ」と奈月は言い、その後で体をするりと反転させ、窓の方を向いた。僕は彼女を後ろから抱きしめる格好になった。
「で、やっぱり奈月は六条御息所なの?」と問うと、少し間を置いて「ですね」と返ってきた。「でも、さっきよりはだいぶ薄れた気はしますね。心が落ち着いたからですよ」
「ということは、六条御息所と重なるのは、心が落ち着かない時なの?」と僕は問いかけた。
「それが、自分でもよく分からないです。とにかく、魂が勝手にさまよってしまって、普段考えないようなことを考えたりすることがあるんです。六条御息所はそうやって光源氏の妻に取り憑いたでしょ。あれと同じじゃないかと思うんです」
 奈月はよくわからない答え方をした。

突然ですが・・・

 昨日、思い切ってタブレットPCを購入しました!
 年々、仕事が増えていく一方で、『静かな散歩道』を続けるためのゆとりを失いつつあったので、いつでもどこでも物語が描けるようにという思いから、増税前に決断しました。

 というわけで、今日は朝からインストールしたりダウンロードしたり設定したりで、ほとんどの時間をこのメカと一緒に過ごすことになりました。(手伝ってくださった方々、ありがとうございました・・・)

 それにしても、Windows8の進化はめざましいですね!!
 タッチパネルのモデルをカスタマイズしたのですが、これが正解でした。マウスやカーソルキーでは、追いつけないレベルです。
 
 感じたのは、ほとんどすべてのアプリに「共有」の機能が備わっていることです。たとえばPower pointがTwitterと連携したりするわけです。
 それに、クラウドの管理も進んでいて、場所を選ばずに仕事ができるシステムになりつつあるということが実感されます。
 
 数年前まで万年筆にこだわって原稿用紙に小説を書いていた私が、こんなメカを使うだなんて信じがたいですが、与えられた時間の中で少しでも上質なものを作っていくために、いろいろとチャレンジしてゆくこともありかなって思いもします。

 今日はこのメカを使いこなすための時間をもう少しとらせていただくということで、『キラキラ 212』は明日、タッチパネルを駆使しながら掲載いたします!

 引き続きよろしくお願いします。
 

キラキラ 211

 僕は白く盛り上がった彼女のおしりに唇を付けた。高校時代に新体操で鍛えた、筋肉質なおしりだった。大学生の時、奈月はよく体のことを自慢していたものだ。筋肉だけではなく、彼女には並はずれた柔軟性もあった。サークルの仲間たちと体育館を借りてバドミントンをした時には、華麗なバック宙も披露した。あの東山でさえ、奈月の身体能力には舌を巻くほどだった。
 その奈月のおしりに僕は今キスしている。それを自覚した瞬間、頭の中でまた木の枝がへし折れる音がした。学生時代に僕の前を歩いていた、トレーナーを着た奈月の肖像画が遠くの風景の中に消えていくようだった。奈月の行く手には大学のキャンパスがあり、僕たちが下宿していた辺りの景色があり、皆でよく足を運んだ居酒屋やゲームセンターなどがあった。それらの光景は、すべてベルトコンベヤーに乗っているかのごとく僕から離れてゆく。そうして奈月も光景の中へと溶けてゆく。
 ふと我に返ると、目の前にいる裸の奈月は僕の動きに呼応して小刻みに震えている。もう、あの頃の僕たちには戻れない。そのことがすこぶる意外に感じられる。これまで僕は、いつでも気軽に過去に戻ることができるとたかをくくっていたかのようだ。
 僕は奈月を仰向けにしようとした。すると彼女は足を曲げてそれをさせないようにした。そうして、そのままの体勢で「先輩」と話しかけてきた。
 僕は手を止めて奈月の顔に目を遣った。
「最後までするのはやめしょう」と奈月は小声で言ってきた。「忘れられなくなっちゃいます」
「我慢できない」と僕が返すと、彼女はどこかうれしそうにしつつも、首を左右に振った。
「私もすごくしたいですけど、そうなっちゃうと、私、佐賀には帰れなくなります」
 僕は奈月のおしりをさわりながら、どうするべきかを考えた。すると彼女は「このまま抱きしめてください」と言った。やはり、僕の心の声が聞こえているかのようだった。 

キラキラ 210

 僕は、はだけた浴衣の間から奈月の両肩に手を回し、乳房に頬を押しあてた。見た目から想像していたよりも大きくて弾力のある乳房だった。出会ってから10年以上経って初めて知る奈月の身体だ。
 気が済むまでそれをした後で、次に唇で乳首を軽く噛んだ。月明かりに尖って見えた乳首は、さらに小さく、固くなっていった。奈月は熱い息を吐き出しながら、再び身体をくねらせた。
 そうしていると、初めて幸恵の裸に触れた瞬間の記憶が浮かび上がった。あれは彼女のBMWの車内だった。夕闇が辺りを覆い、今日と同じように草の匂いが遠くに感じられた。夕空にうっすらと照らされた幸恵の乳輪を無我夢中でなめた。彼女はひな鳥のような声を上げ、僕たちはそのまま車の中で密かに交わった。
 東京に出てから、僕はガールフレンドと呼べる女性と出会い、何度か一緒に寝た。だが、彼女との行為の中で、幸恵を抱く時のような恍惚を得ることはない。もちろんそれは、恋心に比例するものだと分かっている。だからこそ、彼女を抱くといつも、ある種の申し訳なさを覚えてしまう。
 だが、今こうして奈月の上にまたがっていると、こんなふうにも思う。別れを前提に抱き合うことが、熱くて特別な感情を呼び起こすのではないかと。
 すると、奈月が僕のシャツを脱がし始めた。知らぬ間に、シャツはぐっしょりと濡れ、汗の匂いが漂っている。風は窓から入ってきているが、心と体の火照りを冷ますことまではできない。
 僕の上半身を裸にした奈月は、手のひらで身体をさわりだした。まるで隅々まで確かめるような手の動きだった。
 僕はいったん乳首から唇を離し、今度は彼女の浴衣を完全に脱がした。奈月は白くて小さなパンティだけになった。僕は彼女をうつぶせにさせ、おしりの方からゆっくりとそれを下ろした。奈月の方も汗ばんでいた。

キラキラ 209

 奈月は僕の唇の間に舌を突っ込んだまま、上に乗りかかってきた。僕も彼女の腰に両手を回し、しっかりと受け止めた。奈月の腰は、思った以上にやわらかかった。
 僕がしばしの眠りにつく前にも、僕たちはキスをした。だが、今度はさっきとは全く違う体験のように思われた。決して抗うことのできない砂嵐に巻かれてしまったようだった。奈月は僕に抱かれることが前世からの願いだったと言った。それもあながち誇張表現ではないと思われるくらいに、僕たちは2人して深い場所に入り込んでしまった。
 月明かりに顔を濡らした奈月は、時折呼吸を激しくしながら、僕の口の中を貪欲になめ回した。これが奈月だとはとうてい信じられなかった。その時、こめかみの奥で、何かが壊れる音がした。それは、強風で木の枝がへし折れる音のようにも聞こえた。ああ、これまで妹のように慕ってきた奈月との関係に、何らかのピリオドが打たれるんだなと僕は悟った。
 すると、麻理子の影が再び現れ、「どうしようもないわね」とさっきと同じことを言ってきた。そうだ。どうすることもできないのだ。ここで深く抱きしめ合うというストーリーは、僕たちが出会った時からすでに用意されていたのだ。僕と奈月はこの瞬間に向かって大学生活を過ごしてきたのだ!
 心の中でそう唱えた途端、麻理子の影は煙のようになって、窓の外に流れていった。
 僕は、衝動のままに、目の前にある浴衣の襟元を大きく左右に開いた。浴衣の下は、薄手の白いシャツだけだった。シャツをまくし上げようとした瞬間、奈月は舌を離さずに自分の胸を僕の胸元にぴったりと付け、そのまま転がるようにして僕と奈月の位置は上下が逆になった。
 奈月の上にまたがった僕は、帯をほどいて浴衣を脱がし、下に着た薄手のシャツをゆっくりとまくし上げた。その下からは、月明かりに照らし出された乳房が現れ、小さく尖った乳首も露わになった。乳首ごと両手に包み込むと、奈月は背筋を大きく反らせて息を吐き出した。

キラキラ 208

 奈月は横たわっている僕のすぐそばにまで来た。背中に月明かりを受けた彼女の影が僕を見下ろしている。
「奈月はもうじき結婚するんだ」と僕は、彼女を見上げながらそう言った。奈月は何も返さずに、平然としている。窓からは草木の揺れる音がさらさらさらと聞こえてくる。
「奈月、お前は本当に奈月なのか?」
 そう問いかけると、「私は私だって教えてくれたのは先輩です。大丈夫だって、さっき言ってくれましたよね」と反駁してきた。その瞬間、奈月が六条御息所と重なるのだとつぶやいていたのを思い出した。月明かりに照らされた部屋、嵐山の地、木々を揺らす風。奈月は、今と平安時代は大して変わらないと言ったが、その感覚が僕にもはっきりと実感できるようになっている。
 僕はこれまで続いてきた奈月との関係が壊れることが怖かった。奈月は大切な妹だと言ってもよかった。
 人生の節々で苦境に立たされた時、僕を救ってくれたのは仲間の存在だった。僕にとって仲間と呼べる人間は、ごくごく限られている。女の子となると、奈月だけだ。彼女は花壇の隅に咲くタンポポのように、普段は目立たないところで僕の支えになっていた。そんな奈月を抱くことで、大切な支えを失うような気がしてならなかった。
 奈月はいつのまにか、浴衣の音すら立てぬままに、僕の隣に横たわっている。そうして彼女は、「私だって、怖いんです」とつぶやいた。まるで僕の心の声に感応しているようだった。
「でも、先輩にどうしても抱いてほしいんです。完全に道に迷ってしまった私を、正しい方向に連れて行ってもらいたいんです」と奈月は声を震わせた。奈月の顔は僕のすぐ近くにある。その上半分は月明かりに照らされている。
 次の瞬間、僕たちは再びキスをしていた。

キラキラ 207

 僕はもう一度、今度は瞳を凝らして奈月の背中を見た。何かの間違いじゃないかと思ったのだ。
 すると、奈月は少しだけ顔をこちらに傾けて、「だめですか?」と確認してきた。それを聞いて僕は、今の「ダイテモラエマセンカ」という言葉が決して聞き違いではないことを納得した。
「奈月は、いったい、何を言ってるのだろう?」と僕は返した。それが精一杯だった。
 奈月は身体を完全に僕の方に向けた。その瞬間、部屋に差し込む月明かりがわずかばかり揺らめいた。
「私、今日、先輩に抱いてもらうためにここへ来たんです」と彼女は言った。
「抱くのは簡単だよ」と僕は返した。「でも、奈月は、それでいいの?」
 月明かりを背に受けているために奈月の表情は濃紺に染め抜かれている。だが、彼女がずいぶんと落ち着いていることは全体から伝わってくる。
「だめですか?」
「何が何だか、よくわからないよ」と僕は思ったことをそのまま言葉にした。
「どうか、深く考えないでください。今も言いましたけど、私、先輩に抱いてもらいたいだけなんです。こう見えても、ずっと悩んでたんですよ。いつから悩んでたのか思い出せないくらい、ずっと悩んでたんです。で、思い切って先輩と旅行することになって、今日はずっと一緒にいれて、すっごく楽しくて、夢みたいで、それでも、その途中で何度も悩んでたんです」
「全く気づかなかった」と僕は漏らした。  
「そうやって、ずっと悩みましたけど、やっぱり私は先輩に抱いてもらいたいです。それって、たぶん、私が前世から願い続けてたことじゃないかと思うんです。だから、どうしても止めることができないんです」と奈月は声を大きくした。
 その声は恐ろしいほどまっすぐに僕の耳に届いた。
 それから彼女は、膝をついたまま僕の方にすり寄ってきた。

キラキラ 206

「奈月はもうじき結婚して、佐賀で幸せに暮らすんだ」と僕は答えた。そう言った後で、彼女がくれたうちわに描かれていたバルーン・フェスタの写真が思い出された。青空に向けて競うように浮かび上がる、色とりどりのバルーンたち。奈月の将来を象徴しているかのようだ。
 だが、その光景とは対照的に、月を見つめた奈月の背中は、依然として動こうとしない。
「子供を産んで、家を建てて、家族と一緒に暮らしていく。これまで奈月が大好きだった人たちに囲まれながら人生を送っていくんだ。諦めたり、切り捨てたりすることなんて何もない。奈月が思い浮かべていた通りの人生をこれから送ってゆくんだと思うよ」と僕は続けた。だが、その声もやはり乾いた感じで反響した。まるで頭蓋骨を棒で叩いているような響き方に聞こえた。
「思い通りにならないようで、じつは思い通りになっているのが人生、だよな」
 僕がそう言うと、奈月は「思い通りにならないようで、じつは思い通りになっているのが人生、ですかね」と確信を持てぬまま、言葉をなぞるように、声を出した。
「今は道に迷っているように思えるかもしれないけど、後できっと、今をなつかしく思い出す時が来るよ。その時になってはじめて、奈月の人生は間違ってなかったってことが分かるんだ」と僕は彼女の背中に向けて投げかけた。最初は奈月を励ますつもりで話していたが、そのうち僕の言葉にも力が与えられ、彼女は幸せに向かって着実に進んでいるのだという思いが強くなってきた。
 それから少しの間、僕たちの間には再び沈黙が横たわった。月の前には細い雲がゆっくりと通り過ぎてゆく。すると、突然、奈月が「先輩」と僕を呼び、それにより沈黙が破られた。
 僕は何も言わずに薄明かりに照らし出された奈月の背中を見た。すると彼女はこう言ってきた。
「抱いてもらえませんか?」

キラキラ 205

 どうやら僕はうとうとしていたらしい。二の腕の上には奈月はいない。
 慌てて上半身を起こすと、彼女は布団の上で、窓を向いたまま座り込んでいる。浴衣姿の影が月明かりによってくっきりと切り絵のように縁取られている。
「おい、奈月」と僕は声を出した。その声は不気味に響き渡った。まるで自分のものとは思えない。部屋の中には晩に飲んだビールの残り香がそこはかとなく立ちこめている。
「奈月」と僕は再び言った。さっきよりも低い声がもう一度響いた。それでも彼女は何も応えずにただ窓の外を見つめている。空には満月が居座っている。月明かりは部屋全体に降り注いでいる。思った以上に長い時間、僕は眠りについていたようだ。
 奈月の後ろ姿は、かぐや姫を想像させた。月の世界に帰る日が近づくにつれ物憂げになるかぐや姫。求婚した貴公子たちが必死に食い止めようとするが、抵抗むなしく彼女は使者たちに連れられて翁たちのもとを離れて行ってしまう。
 僕が胸を切なくさせていると、奈月は月の方を向いたままつぶやいた。
「先輩、私、道に迷ってしまったみたいです」
 さっきの声が僕のものだと思えなかったのと同様、この声も奈月のものとは思えない。プールの底から聞こえるかのような、不思議な響き方だ。
「私、間違った道に入り込んでしまったんじゃないでしょうか?」
 僕は唾をひとつ飲み込んで、「まだそんなことを言ってる」と返した。
「大丈夫だよ、奈月は幸せになるよ」
 僕がそう続けると、彼女は「私、いったい、どこへ行くんでしょう?」と追及するように問いかけてきた。その声は、宿命的と言えるほどに、哀しげに聞こえた。

キラキラ 204

 それからしばらくの間、部屋の中には濃紺の沈黙が座り込んだ。窓から漏れるかすかな月明かりは床の間を濡らし、風はさらさらさらと草木を揺さぶりながら大堰川の水の匂いを運んでくる。
 俺は奈月の心の深いところまでは分からない。そんなことを頭の中で何度もつぶやいているうちに、いつの間にか、心は静かになっていった。
 奈月は僕のすぐ近くでうつむいている。彼女は大学生の時のままだ。すると、麻理子の姿が浮かび上がってくる。彼女は奈月と僕を交互に見ている。かすれた色のタイトなブルージーンズをはき、ブロンズに染めたソバージュの髪を肩にかけている。そうして「どうしようもないわね」と吐き出し、うんざりした表情で首をかしげる。僕は何をどう言えばよいか分からない。本当は謝らなければいけないのだ。だが、こういう時の「ごめん」は、女の子を最も不快にする。それで、僕はただただ麻理子から目を離さずにいることしかできない。
 その時、幸恵が僕を迎えに来た。赤いBMWの左ハンドルを彼女は握っている。そうして窓を開け「行きましょうか」と、大人にしては可愛らしい声で笑いかけてきた。「でも、今日は、主人が一緒なの。悪いけど、後ろに乗ってもらえる?」と幸恵は言う。助手席には誰かが座っている。ガラスに反射する光の関係で顔までは確認できない。胸の張り裂ける音がする。安い布が手によって引きちぎられる音だ。
 それでも僕は後部座席に乗る。しかたない。そうするしかないのだ。
 すると再び麻理子の声がする。「どうしようもないわね」と。彼女は腕を組み、依然としてうんざりした顔をこっちに向けている。僕はたまらない気持ちになる。
 その時BMWはゆっくりと動き出す。奈月はうつむいたままじっとしている。僕は麻理子と奈月に向かって大きい声を出そうとする。だがそれは声にならない。BMWは徐々に加速をはじめる・・・
・・・目が覚めた時、金色の月明かりが部屋中を照らしていた。

キラキラ 203

「先輩の言うことは、頭では分かりますけど、実感はできないです。一般論っていうか、理想論っていうか、とにかくそんな感じがするんです。たしかに、世の中って、そうやってバランスが取られるものかもしれませんが、やっぱりずっと不幸な人はいますよ。心のもちようだけでは、どうすることもできない問題って、たくさんあると思いますよ」
 奈月はそう返してきた。もちろん彼女が言うことも1つの側面だ。世の中に立ち現れる諸相は、きわめて複雑なのだ。だが僕は、その複雑さの中にもバランスがあると思っている。極論を言えば、すべての問題は時間によって解決される。永遠に続く問題などありえない。
 とはいえ、そのことを口に出さない。これが奈月と話をする時の僕の流儀だ。今、極論を述べたところで、当事者として思い悩んでいる奈月の腹には落ちない。それで僕は、「大丈夫だよ、奈月」とだけ言った。すると、予想通り、彼女は何も返してこなかった。
 こういう時に、奈月の心に届くのはポジティヴなメッセージだ。どんなに苦しい出来事でも、それを客観的な事実として捉えることができれば前向きになれる。起こった現実に対してどう対処すればいいかを考えることで、悩みの部分は減る。特に奈月は、「苦しみを乗り越えるからこそやさしい人間になれる」と捉えることができる女性だ。
「きっと奈月は、今の彼氏と出会うべくして出会ったんだ」と僕は言った。「さっき奈月は『縁』がないと嘆いてたけど、俺は逆だと思う。朝、列車の中で、婚約者のことを誠実だと言ったじゃないか。東山と比較するのはナンセンスだ。でも、きっと、あいつと結婚するよりも幸せになれると思うね。奈月には、幸せになる権利がある。つまり、『縁』があったんだ」
 ところが、力を込めてそう言ったつもりだったのに、奈月は相変わらずげんなりしている。しかも「先輩には私の心の深いところまでは分かってもらえないんですよ」とさっきと同じため息までついた。

キラキラ 202

 いつのまにか奈月のつま先が僕のふくらはぎに軽く触れている。口の中に残っていた熱はだいぶ冷め、再び彼女を妹のように感じ始めている。この距離感こそが、僕たちの自然な関係なのだ。
「そうやって大学時代のことを振り返っていると、私は、私の人生を生きてこなかったんじゃないかって思えて仕方ないんですよね。やっぱり私、頭おかしいんですかね?」
「だけどさ、いい人に出会えてもうじき結婚するわけだから、それはそれでよかったじゃないか」
 僕がそう返した途端、彼女は動きをぴたりと止め、身体を硬直させた。それから「まぁ、そうですけど」と声をフェードアウトさせた。
「これまで人に尽くしてきた分、奈月は幸せになれる権利があると俺は思うね。人生って、そういうふうにバランスが取れているんだよ、きっと。完全に不幸な人はいないし、逆に完全に幸福な人もいない」
「そうですかね? 不幸のどん底を経験して死んでいく人って、たくさんいると思いますけど」
 奈月は再び目を覚ましたかのように、はっきりとした声を出した。
「不幸がどうかを計るものさしって、その人の感じ方だと思うんだ。たとえば、お金がなくても心が豊かな人はいる。結局は、心のもちようなんじゃないかな」
 それについて奈月は何も言わなかった。僕もなにやら見当違いのことを言ったような気になった。僕はただ、奈月を勇気づけようと思ってそんなことを言いだしたのだ。 
 経済的な豊かさは精神的な豊かさにつながる。過去に幸恵を見ていて、じつはそう思っていた。だが、こうも思う。幸恵はほんとうに幸福だったのかと。もし彼女が完全に満たされていたならば、リスクを背負ってまでも、僕と旅行に行っただろうか?  さらにこうも思う。僕は幸恵によって、どん底まで苦しんだ。彼女もいずれはそれ相応の苦しみを味わうに違いないと。
「一見、幸福に見える人こそ、何か闇を抱え込んでいるもんだよ」と僕は自信をもってそう言った。

キラキラ 201

 奈月の話を聞くうちに、さっき僕の胸に浮かんだ「自己犠牲」という言葉が、より濃くなってきた。
 苦しみから逃れるためには、悩みを自分から切り離すしかない。割り切って、捨てる。奈月にそれができれば、今頃彼女はこんな思いをせずに済んだはずだ。だが彼女は、自身で分析する通り、大切なものを切り捨てることができなかった。つまり、やさしい人間は、切ないのだ。
 僕はそんな奈月の髪をもう一度撫でた。今度はゆっくり、心を込めた。その時ちょうど、いったん止んでいた風が再び部屋の空気を揺らしはじめた。大堰川の水の匂いが感じられる。月はだいぶ高いところに上っているのだろう。夜空は染め物のようにじわじわと金色がかってきている。
「でも、先輩、今のは、ほんとうにたとえばの話なんですよ」と奈月は念を押した。
「何度も言いますけど、東山君と結婚したかったっていうわけじゃないんです。そうじゃなくって、人生の流れのことを私は言ってるんです。『縁』ですよ。さっき電車の中で話したじゃないですか。明石の君は光源氏と『縁』があった。逆に、六条御息所には『縁』がなかったって」
「奈月が六条御息所と重なるところがあるってさっきから主張するのは、そういうことなんだな」と僕がささやくと、彼女は「うん、まあ、それもありますかね」とどこか煮え切らない答え方をした。
「今になって、こんなことも思うんですよ。というのも、大学生の時には、『付き合う』ってことは友達とは違うんだって言い聞かせながら東山君に尽くしたでしょ。でも、そのこと自体が、じつは私の視野を狭くしてたんじゃないかなって」
 奈月はそう言い、今まで天井に向いていた顔をこちらに傾けた。
「あの頃、もう少しゆとりを持って東山君と付き合ってたら、もっと別の出会いがあったのかなぁ。そう考えると、やっぱり、中学生の時に大好きだった先生が人生に大きく影響してるんですよ。『人のため』という言葉に、私は縛られすぎてたんです」

キラキラ 200

 思い出すのは、夜風が運んでくる枯葉の匂いだ。奈月が大学4年生の秋。すでに卒業していた僕は、大学近くの学習塾で講師をしていた。それで、仕事が終わった後で奈月からよく電話がかかってきたものだ。アパートの窓を開け、ビールを飲みながら僕は奈月の話に耳を傾けた。
 あの時奈月は佐賀に帰って母を手助けするか、それとも就職を決めた東山についてゆくかという選択肢の間に挟まれていた。だが人生を左右するようなことに僕がアドバイスなどできるはずはなかった。僕はただ奈月の話をすべて受け止め、彼女がカタルシスを得られるように願うだけだった。それは、深刻度こそ違うものの、受験に悩む高校生の問題解決を支援するやり方と基本的に同じだった。
 奈月の悩みの本質は、じつは父や母のことではなく、東山との関係だった。今し方奈月は「付き合うということは友達の関係よりも高尚だ」と話したが、かといって結婚もしていない東山についてゆくということに踏み切れずにもいた。
「あの時、さんざん悩みましたけど、佐賀に帰ったのは間違いじゃなかったと思うんです」と奈月は話を続けた。
「教員試験の勉強もできたし、臨時採用で働けたわけですし。でも、今、冷静に振り返ってみると、それが本当に私自身のためだったのかなっていうことが分からなくなってるんですね。たとえば、ほんとに、たとえばの話ですよ、あの時東山君について大阪に行ってたら、今頃は絶対に違う人生があったわけじゃないですか。ひょっとして、上海に飛ばされてるかもしれないけど、子供ができて、それなりに家庭を築いていただろうって思うんです。
 もちろん、先輩が言ってくれたように、どのみち東山君とは結婚しなかったかもしれませんよ。だけど、実際には、東山君と連絡が途絶えた後もかなり引きずってましたし、あの人が結婚したことを聞いてからは夜も寝られなかったんです。しかもあの時はまだお父さんの状態が安定しなくて、身も心もボロボロだったんです。どうしてこんなに悪いことが重なるのか、本気で神様を恨みましたもん」 

キラキラ 199

 奈月の訴えを聞いているうちに、僕の中で言葉が消滅していった。そうしてただ1つ「自己犠牲」という言葉だけが残った。それは「犠牲」の2文字が入っているものの、決してけがれているわけではなく、美しい精神だ。にもかかわらず、この言葉にはどこか皮肉の色が漂う。奈月は自己犠牲のもとに生きてきたことを僕は痛いほどよく知っている。
「東山君と一緒にいた時も、ずっと先生の言葉を引きずってたんです」と奈月は話を進めた。
「彼に楽しい思いをさせたいとか、不自由な思いをさせないようにとか、そんなことばかり考えてましたもん。『付き合う』ってことは友達の関係よりも高尚なんだって、信じ切ってましたね。今振り返ってみると、ただの自己満足だったなあっていう気もしますが、あの時はそんな不自然でもなかったし、東山君にも変なプレッシャーを与えたっていうわけでもなかったと思うんですよ」
「奈月は、じつは尽くすタイプの女の子だからね。東山を喜ばせようとすることは、自然な心から出たものだったんだよ」と僕は言った。
 すると奈月は「そうですか? 私、尽くすタイプですかね?」と静かに言ってきた。どこかうれしそうだった。しかし次の瞬間、その言葉はため息に変わり、重い口調になった。
「そんな人生が急変しちゃったのは、やっぱりお父さんの病気だったんですよ。あれほど元気で、超合金みたいな人が突然倒れちゃったんですから。現実として受け止められなかったです。最初はお母さんが介護することになったんですが、あの時まだ高校生の弟がいたじゃないですか。家のことしなけりゃいけないし、仕事を辞めるわけにもいかない。それにおばあちゃんも特養に入ってたから、お母さん1人じゃ無理だったんです。1番上のお姉ちゃんはツアコンとして世界を飛び回る仕事を辞めなかったし、2番目のお姉ちゃんは結婚したばかりで横浜に住んでましたし。結局お母さんのお手伝いをするのは私しかいなかったんです」 
作者

Author:スリーアローズ
*** 
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