スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

キラキラ 334

 エスカレーターを上る奈月の右手には、しおりが握られている。彼女は上方に目を遣ったまま、静かに運ばれている。
 そんな奈月の動きを息を詰まらせながら見ていると、光源氏の和歌がまた聞こえてきた。

伊勢人の 波の上漕ぐ 小舟にも うきめは刈らで 乗らましものを 

 あの時あなたについて行ったならば、今頃はこんなにつらい思いをせずに済んだでしょうに・・・
 光源氏の物語は1000年以上も前に完結している。だが、僕と奈月の物語はまだ終わってはいない。
 僕は心の中で叫んだ。奈月、こっちを向いてくれ!
 彼女が僕の方を見るかどうかだなんて、きわめて些細なことだ。だいいち僕たちは、ほんの何時間か前に、深く抱きしめあったのだ。だが、今となっては、もはや死活問題となっている。
 正直、何が何だか、自分でもわからない。僕の心は小舟の上に乗っている。主体性のない小舟だ。波に揺られるまま、どこにたどり着くかわからない。すべては奈月に委ねられている。
 奈月はエスカレーターの後半にさしかかった。彼女はスーツケースを持ち、左側に立っている。小さな白いワンピースを急ぎ足のサラリーマンたちが次々と追い越していく。人々の中を、奈月は忘れられた木の葉のように漂っている。だが僕だけは、その白い葉を注視している。彼女が僕に振り向くのをひたすら待ちながら。
 頭の中には、光源氏の後悔を詠んだ和歌が何度も響いている。なぜ僕がしおりの中の和歌を完全に覚えているのか、不思議だった。僕はふと、奈月が野宮で六条御息所の言葉を立て板に水のごとくに再生したことを思い出した。ひょっとして、奈月と同じことが僕にも起こっているのかもしれない。
「大丈夫だ」と自分に言い聞かせる。「奈月のことだ、きっと振り向いてくれるに違いない!」
スポンサーサイト

キラキラ 333

 その源氏の和歌は、僕の心に強い影響をもたらした。源氏の抱いた後悔の念を、今から僕も味わうであろうことが、身に染みて予想されたからだ。その時僕は、ぞっとしたのだ。そして、まだ奈月の姿を見ることができるという「今」が、すこぶる貴重な瞬間のように思われた。
 今ならまだ間に合う、僕はそう思った。かといって、何をどうすればいいのか分からない。
 源氏との別れを決意して娘と一緒に伊勢へと下る六条御息所の姿と、今の奈月とが、僕の想像の中でぴたりと一致する。六条御息所は、伊勢に下ってからも光源氏のことを思い続けた。彼女は生涯にわたって源氏を愛したのだ。だから、須磨の源氏から和歌を受け取った時も、もちろんうれしかった。だが、伊勢に下ることを決意した彼女の心は、冷静でもあった。彼女は思ったはずだ。あなたのことは本当に好きだけど、今さらどうすることもできません、と。
 その御息所の思いは、奈月にも重なるだろう。僕の方も、もしこのまま何もせずに奈月を見送ったなら、光源氏と同じように、後で激しい後悔に駆られることは目に見えている。
 すると奈月は、こちらに振り向くことなく、ついにホームへと続くエスカレーターに足をかけた。
 彼女は今から佐賀に帰って、結婚するのだ。婚約に至るまでには、おそらくはさまざまな葛藤に悩まされたことだろう。にもかかわらず、奈月は、心を鬼にして決意した。今朝方彼女は、過去の苦悩をすべて僕に打ち明けたが、結婚を決断するに至った経緯には、そういえば、いっさい触れなかった。
 奈月は、夢ではなく現実を選んだのだ。これから始まるであろう新たな生活に向けて、ゆっくりとエスカレーターに運ばれて上昇している奈月を、僕は呆然と眺めた。
 その時だった。突然、稲妻のような思いが、足下から頭の先に向かって駆け上がった。もし、奈月が僕の方を振り向いたら、その時は改札を抜けて彼女を引き留めにかかろう! でないと、僕は一生後悔することになる。

キラキラ 331

 しおりは、おそらくは、奈月の手によって、新幹線のホームのゴミ箱に捨てられるのだ。そのことをしおり自身が最も悲しんでいるように見える。東山と奈月の手によって丹念に作り上げられ、旅行に同行し、長いこと奈月の懐に温められてきたしおりが、まさにこれから捨てられようとしているのだ。
 そのうち、しおりは、僕に何かを訴えかけているような気がしてきた。そんなことを思いながら奈月の手に握られたしおりを眺めていると、磯の香りの中から、和歌が浮かび上がってきた。

わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩垂れつつ わぶと答へよ

 僕はこの和歌を暗記していたわけではない。にもかかわらず、完全な形で心に再生された。
 それは在原行平が詠んだもので、「藻塩垂る」という須磨の情景を人々に定着させることになった和歌だ。私は海女たちが浜辺に引き揚げる海藻から藻塩が垂れるこの須磨の浦で1人寂しく生活しているのです、という孤独感が詠まれている。おそらく、東山のしおりの中に最も多く登場する和歌だろう。
 光源氏は、悲運の英雄である在原行平の後を追って、自らも須磨に退出した。僕たちの旅は、そんな光源氏を追いかけるところから始まったと言えるかもしれない。
 それにしてもどうして僕は、しおりの中の和歌をこうもきれいに暗記しているのだろう? 
 自分でも恐ろしくなっているところに、さらに次の和歌が心の中にこだました。

うきめ刈る 伊勢をの 海人を思ひやれ もしほたるてふ 須磨の浦にて

 それは、さっき奈月が野宮で情感を込めて口ずさんだ、六条御息所の和歌だ。

世界ランキング上位の実力

 仕事柄、今年は多くの外国の方とご一緒するようになりました。まったく、国際化はどんどん進んでいますよね。どちらかというとコンサバティブな傾向のある私からすると、地方都市にも国際色が入り込んでくることに多少の抵抗を抱いていましたが、ここ数年は、時代の趨勢として受け容れざるをえないと思うようにもなってきました。
 さて、交流するのはやはりアメリカの方が多いですが、カナダとか南アフリカ、それからタイやインドネシアの人と仕事をすることもあります。来週からは、「インスパイア・ジャパン」という文科省の事業のサポートをすることになっています。これは主にアジアやアフリカのボーイスカウトを招待して、彼らと一緒に各地を回るというプログラムです。英語が通じない方との仕事は、どこかドキドキです。
 先日は、中国の方を招いて卓球の交流会が開かれるということで、様子を見に行きました。講師は3人の女子大学生で、彼女たちは中国でもトップレベルの選手でした。
 そういえば、社会主義国家の方と交流することはないなぁと思いつつ、彼女たちのコーチングの様子を興味深く眺めていました。それが、彼女たちの教え方は実にうまい。小学生や中学生を集めて、ゲームの要素を取り入れながら、それでいて細かいところまできっちりと教えてくれるのです。特に印象的だったのは彼女たちの目。トップ選手だけあって、真剣そのものでした。日本では行き過ぎた勝利至上主義はもう卒業しようという風潮があるし、私もそういう考えには賛成なのですが、彼女たちのまなざしを見ると、卓球における中国選手の強さの秘密を学んだような気がします。
 日本の選手たちも、彼女たちにすっかり引きつけられていました。いい経験になったことでしょう。
 中国と言えば、床に落ちた鶏肉を食品に入れたり、外交上の強攻策で他国に脅威を与えているという報道が連日なされ、国際社会の心配事のようになっていますが、マスコミでは報道されないところもたくさんあるのだなと、彼女たちの姿を見て、反省させられました。国際交流とは、他国の方との心を通じたふれ合いなのだと思います。

キラキラ 330

 奈月は、その黒い瞳でもう1度僕を見た。瞳は、水平線に落ちてゆく夕日のようにゆらめいている。そうして、瞳の奥からは、涙がこぼれてくる。朝露のような涙だ。
 頬を伝う涙を、奈月はしおりを持つ手で拭った。
 スピーカーから鳴り響く電子音の中から、間もなく博多行きの新幹線がホームに入ってきますというアナウンスが聞こえる。僕の耳には十分すぎるほどに大きな音だ。やっとのことで電子音とアナウンスが消え去った後、僕の耳には奈月が涙をすする音が入ってきた。
 その音を聞いた時、磯の香りが広がった気がした。そうして、昨日奈月と歩いた須磨の松風が思い浮かんだ。会いたくてずっと待っている恋人がいる方角から吹くという風。古くから「海女」と「藻塩垂る」という情景が底に敷かれているというだけあって、須磨はどことなく寂しい土地だった。
 それから明石の風景も浮かび上がった。空は青く、陽光がふんだんに降り注ぐ町。明石の入道や光源氏の館があったとされる寺、クマゼミの声、太陽に灼かれた塩風。
 そんな心象風景を背景にぼんやり奈月を眺めていると、彼女は涙をもう1度拭き取り、「ほんとうに、ありがとうございました」と声を震わせた。そして、スローモーションのような動きできびすを返し、改札の方を向いた。
「奈月」と僕は呼んだが、白い背中は少しづつ遠ざかっていくばかりだった。
 僕は無意識のうちに、ホームまで駆け上がろうと思った。だが、もう1つの無意識が僕の動きを止めた。「来ちゃだめです」という奈月の言葉が耳元に残っている。これまで奈月は僕に対してそんなに強い言葉をかけたことはなかった。だからこそ、棘のように胸に刺さっている。
「奈月」と僕は声を大きくした。だが彼女は僕の方を振り向くことなく、すんなりと改札を抜けた。右手に握られたしわくちゃのしおりだけがこっちを見ているようだった。

キラキラ 329

 次の瞬間、彼女はゆっくりと手を離し、その後少し間を置いてから、改札口に向かってとぼとぼと歩き始めた。顔だけは半分僕の方に向けている。スーツケースのキャスターが、再び音を立てだした。
 僕は依然として石化したままだ。それでも、「せめて、ホームまで一緒に上がるよ」と、何とか口だけ動かした。だが奈月は、伏し目がちに首を振った。
 それから彼女は「来ちゃだめです」と断り、「きりがないですから」と声を弱くした。
 僕は、口すらも動かせなくなった。心の中で「あぁ、後になって間違いなく大きな心残りになるだろう」という声が響いた。それは、紛れもなく僕の声だった。ところが、まるで何かのアナウンスのように僕の中を通過しただけだった。僕は当事者のはずなのに、傍観者でもあった。
 すると奈月は、改札口と僕との真ん中あたりで足を止め、トートバッグにしまったばかりの新幹線の切符を取り出した。そしてもう1度、バッグの中に手を入れた。出てきたのは、東山が作ったしおりだった。
 奈月はしおりに向かって、今度は哀しそうな眼を向けた。この旅の中で何度も奈月の哀しそうな顔を見てきたが、その中でも最も哀しみが深いように感じられた。
「ホームのゴミ箱に捨てて帰りましょう」
 奈月はしおりを眺めたままそうつぶやいた。すると、その横顔に、涙が1つ、線を引いた。そのまま奈月は僕の顔を正視し、「では、さようなら」と言った。
 僕の中で、巨大ながけ崩れが起こった。だが痛みはない。体全体を震わせるほどの轟音が鳴り響いただけだった。さようなら、とは言ったものの、奈月は僕の方を見ている。手にはしおりを握ったままだ。
 その時、新幹線の発車を予告する電子音が流れ始めた。奈月はスピーカーの組み込まれた天井に、ちらりと目を遣った。

こんばんは

 熱い1日でしたね~。
 職場の温度計は朝9時の時点ですでに30℃を越えていました・・・
 しかも、節電ということで、エアコンは28℃設定。致し方ないとはいえ、窓を開けた方が涼しいくらいでした。あなたの町はいかがでしたか?
 梅雨が明けた途端にこの暑さとは、さすがにバテますね。
 
 列島はもうすぐ高校野球の熱がやってきますね。炎天下のグランドに立つ高校球児に、せめて気持ちで負けないように、何とか元気を出していかなければなりません。

 日本のみなさんと一緒に暑さを乗り切ろうとしていると思うと、なんとなくがんばれそうな気がします。
 しばらくはこういう日が続くようですが、夏ならではの風情を楽しみたいところですね!

キラキラ 328

 奈月は今手に入れたばかりの新幹線の切符をいったん白いトートバッグの内ポケットに収め、それから、黒い瞳を僕に向けた。
「奈月」と僕は彼女の名前を呼んだ。すると彼女は、僕が次の言葉を発するのを塞ぐかのように、すっと右手を差し出してきた。若竹のような彼女の白い手が僕の目の前にある。
「先輩」と奈月は言ってきた。それは懐かしい響きだった。大学生の頃から何百回も何千回も聞いてきた、奈月の声だった。
 僕は差し出した彼女の右手を、迷わず自分の右手で包んだ。すると彼女の5本の指は、僕の指の間にするりと入り込み、しっかりと握られた。奈月はもう1度、今度はさっきよりも力が抜けたような声で「先輩」と語尾を上げた。彼女の疲れ果てた顔は、少しずつほころびていった。まるで朝顔の花が朝日を受けて開いてゆくかのようだった。
「先輩、ほんとうに、ありがとうございました」
 奈月はくっきりとした笑みを浮かべた。その後で、左の目から朝露のような涙が1つ、こぼれ落ちて頬を伝った。僕の手を握る彼女の手は、ぬくもりにあふれている。さっきタクシーの中で手をつないだ時よりも、熱い。
 つい今まで一緒の新幹線に乗ることを考えていた僕だったが、その考えをそれ以上先に進めることはできないと思った。奈月にまじないをかけられて、心が石化してしまったかのようだ。
 気がつけば、涙は両方の目からこぼれ落ちている。窓から差し込む朝日が、涙をより光らせている。僕が強く手を握ると、彼女は反対に力をしだいに弱めた。
 

キラキラ 327

 奈月はけだるそうにきびすを返し、そのままゆっくりと「みどりの窓口」へと入っていった。スーツケースのキャスターの音が、飼い主に忠実な犬の足音のように彼女について行った。
 カウンターに立って切符を買う奈月の後ろ姿を、僕はなすすべもなく眺めた。白いワンピースに後ろで結んだ髪の毛。昨日は弾むような明るさがあったが、疲れのある今は、むしろしっとりとした大人の女性の雰囲気を身にまとっている。この1日で、僕も奈月も、何か1つの階段を上ってしまったような感覚がある。そうしてその階段は、もう2度と降りてゆくことができない・・・
 再び奈月が戻ってきた時、その表情はさらにやつれているように見えた。だが僕にとっては、それがせめてのもの救いでもあった。
 そんな奈月の顔をぼんやりと眺めていると、彼女は「ありがとうございました」とまた言ってきた。僕はそれに対して何も返さなかった。
 その時、僕は奈月と同じ新幹線に乗ってしまおうかと考えていたのだ。今日まで休暇を取っているので、スケジュール的には全く問題ない。佐賀に着くまで、奈月と話がしたい。そうして、これからも、もちろん、彼女は結婚するわけだから、これまで通りとはいかないまでも、それでも、気安く連絡が取り合えるような関係でいられるところまでもっていきたかった。
 光源氏と六条御息所は、野宮で再会を果たし契りを交わしあったからこそ、須磨と伊勢に離ればなれになっても文通をする間柄でいられた。
 もしこのまま奈月と別れてしまえば、僕たちは2度と連絡を交わすことがないように思える。少なくとも、彼女の方から電話をかけてきたりメールが送られたりすることは、ないだろう。
 だからこそ僕は、新幹線のチケットを買うかどうか、本気で悩んでいた。胸が詰まるような息苦しさから解放されるために残された道は、それしかなかったのだ。

キラキラ 326

 何かを訴えかけるかのような目で僕の顔を凝視していた奈月は、しばらくしてから、視線をわずかにずらした。それと同時に、震える唇は今にも泣いてしまいそうな形にゆがんだ。
 季節の変わり目の空のように、刻一刻と変化する奈月の表情には、言葉をかける隙間を見いだすことができない。彼女が何かを言うのを待つ僕の心も震えだした。
 奈月は何も言葉を口にすることなく、電光掲示板の下にたたずんでいる。野宮にいた時には、彼女の身体に様々な魂が入れ替わり立ち替わり宿っているかのように見えたが、今の奈月は、僕がよく知る奈月だ。彼女は自分という器の中で彼女自身の葛藤と格闘している。そんな奈月に、いったいどんな声をかけようというのか?
 その時、博多行きの始発列車が13番線から発車予定であるという男性駅員のアナウンスがホームに鳴り響いた。いかにも事務的な口調だった。このままタイムアウトに持ち込んで、始発をやり過ごすというのも1つの方法だと考えた時、奈月は長いため息をはき出して、ついに口を開いた。
「帰ります」
 予期せぬ言葉に、思わず彼女の唇を見た。それはたき火の残り火のように、まだかすかに震えている。
「ちょっと、待ってくれ」
 僕の喉の奥からそんな言葉が勝手に飛び出した。
 奈月は震える唇を強引に抑え込むように口を固く閉じた。それから、肩にたまっていた力をふっと抜き、改札口の方向を見た。そこで何かを考えた後で、再び僕の顔に視線を戻し、こう言った。
「きりがないです」

夏が来た!

 毎年のことではありますが、真夏はいきなりやってきますね。昨日は、家の近くの海で花火大会がありました。今年で60周年ということで、私も幼い頃からこの日を楽しみにしてきた記憶を思い返しながら、夜空に舞い上がる色とりどりの花火を、部屋の窓から眺めました。
 それにしても、花火って、独特の風情がありますよね。これは私だけかもしれませんが、花火に見とれているうちに、なぜかとても寂しくなるのです。もちろん、ぱあっと開いたかと思うと、すぐに消えてしまう、そんな儚さが関係しているのは言うまでもありません。桜の花が散るのを惜しむのに似た感じ方ですね。
 でも私は、どうも、それ以上の感慨を抱いてしまうようです。というのも、夏という季節自体にもの悲しさを感じるのです。そして、花火はその象徴のような気がするのです。
 清少納言も言ったように、夏は夜がいいですね。田舎で育った私の心に思い浮かぶのは、線香の香り。私の実家は漁村なのですが、路地を歩くとそこはかとなく香りが漂っていました。特にお盆が近づくと、なんとなくスピリチュアルな雰囲気に包まれていたような記憶が残っています。
 そういえば、平安時代の和泉式部という女性が、「物思いに悩んでいると、水辺を飛ぶ蛍の光も、私の身体から抜け出した魂のように見えてしまうわ」という意味の和歌を詠んでいます。つまり闇に光って飛ぶ蛍は、形の見えない恋心や、魂の姿にたとえられてきたのです。
 そう考えると、花火の美しさにも同じようなことが言えるような気がします。夏の闇夜に舞い上がる火の光は、自分の魂なのかもしれない。あるいは、会うことはできないけど心の中にいる大切な人の魂なのかもしれない。感傷を誘い、もの悲しさを連れてくるのは、そのせいではなかろうか。
 そんなことを思いながら、鮮やかな火の光を瞳に焼き付けました。

キラキラ 325

 そんな窓の外の光景を十分に眺めた後、奈月はふっと息を吐き出し、新幹線の改札へと上がるエスカレーターに足をかけた。それはとても短いエスカレーターだった。あっという間に僕たちは、上のフロアへと運ばれた。
 奈月はまず、電光掲示に目を遣った。そこには博多行きの始発があと20分足らずで出発することが記してある。その美しい明朝体のデジタル表示は、胸が塞がりそうだった僕の心をいよいよ追い詰めた。
「奈月、何も、この新幹線で帰ることはないじゃないか」と僕は声を荒げた。すると奈月は電光掲示板の下で足を止めて、それについて考えているようだった。
「博多行きの新幹線なら、何本も出ている。せめて、朝飯ぐらい食べてからでもいいじゃないか」
 これが最後のチャンスだった。このまま別れてしまえば、大きな心残りを引きずることになるのは目に見えている。まして彼女はもうじき結婚するのだ。これまでのようにたやすく連絡などできるはずがない。
 すると奈月は「先輩は、このまま東京に帰るんですか?」と聞いてきた。そんな簡単な質問に気楽に答えることすらできないほど、僕は言葉に詰まっていた。それでも「俺の方はどうにでもなる。有休休暇を取っているから」と答えた。奈月は「そうですか」とため息と言葉を同時に吐き出した。
 彼女は足を完全に止め、うつむいて下唇を噛んでいる。その姿に、僕は一縷の希望を感じた。さっきまであれほど頑なだった彼女の心が、少しずつ素直になっている。そう思ったのだ。
「なあ、いいだろう。朝飯を食べに、下に降りよう」と追い打ちをかけるつもりで僕は言った。
 すると奈月は、その黒い瞳をまっすぐに僕の方に向け、また何かを言おうとした。唇はけいれんするかのように震えている。僕は、唇の隙間から出てくる言葉を待った。

キラキラ 324

「でも」と奈月の方から口を開いた。「もう、来ない方がいいのかもしれませんね」
 奈月はガラス越しに広がる、京都駅八条口の朝の空を見上げた。外にいる時よりもやわらかな光が奈月の白い顔を照らし出す。厚みのあるドアのガラスがいくぶんか光を和らげているのかもしれない。そんな彼女の横顔を、なすすべもなく眺めていると、「大事なことは、想い出としてずっと取っておいた方がいいのかもしれませんね」と奈月はつぶやいた。
 僕には、「そんなことはない、これからも京都に足を運んで新しい想い出を作ればいい」とも言えなかったし「そうだな、過去の想い出を辿る旅に出ても、寂しさが募るだけだからな」とも言えなかった。本当のところは「俺と一緒にまた来よう」と堂々と言いたいのだ。だが、今その言葉を投げたところで、奈月の表情が晴れないことは、目に見えている。つまり、僕には今の奈月に対して発するべき言葉がなかった。
 言葉が見つからないとなると、今度は彼女に触れたくなる。夜明け前の奈月の身体が強烈に思い出される。完全に濡れた彼女の中に入りたい。そうすれば、もう一度分かち合えるはずだ。
 だがもちろん、そんなことができるわけがない。だからこそ、これまで経験したことのないくらいに胸を焦がすことになった。もしここが京都駅でなければ、すぐにでもひざまずき、奈月にすがりついたに違いない。
 奈月はそんな僕の前に立ったまま、八条口の風景を眺めている。僕たちが足を止めたほんのわずかの間に、レンタカーの店先では若い男女の店員が手際よく掃除を始めた。彼らにとっては日々のルーティンをこなしているだけのことだ。目の前のタクシーの運転手たちは、相変わらず雑談をしているが、あまり楽しそうな雰囲気でもない。  

キラキラ 323

 地下通路を最後まで歩き、階段を上がっていると、あふれんばかりの日差しが再び窓から差し込んできた。僕の少し前を歩く奈月の白いワンピースも、ぱっと照らされ、より白く映えた。
 野宮でこの服を脱がしたことが嘘のようだが、逆に、サブリミナル効果の画像のように、妙に鮮明に思い出される瞬間もある。
 階段を登り切った時「新幹線口」の標示が目に飛び込んできた。奈月は、改札へと続く短いエスカレーターに足をかける前に、ガラスドアの向こうに広がる京都駅八条口の光景に目を遣った。
「アバンティ」があり、大きなホテルもある。レンタカー店はまだ営業を始めていない。パチンコ屋の電飾も消えたままだ。目の前のタクシー乗り場には車両が連なっているが、動いてはいないようだ。運転手たちは外へ出て、缶コーヒーを飲んだり、たばこをくわえたりして、相場を語り合っている。
「烏丸口に比べると、こっちの八条口は、なんとなくもの寂しいですね」と奈月は言った。僕も同感だった。「でも、私としては、こっちの方が、京都らしい気もするんですよね」
 奈月はそうつぶやき、前髪をゆっくりと掻き上げた。
「いったい、何回来ただろう、京都に。帰る時にはいつもここの風景を見ては、何となく寂しい気分になってこのエスカレーターを上っていくんです」
 そういえば、前回東山たちと来た時にも、奈月は同じようなことを言っていたのを思い出す。どんなことを言ったのかははっきりとは思えていないが、寂しそうな表情を浮かべていたのはよく覚えている。
「これから先、あるのかな、京都へ来ること」と奈月はつぶやいた。
 僕は何かを言いたかった。何かを言わなければならなかった。だが、口に出すべき言葉の候補があまりにも多すぎて、かえって何も言えなかった。それに、何を言っても嘘っぽくなりそうなのが、言う前から分かった。

キラキラ 322

 駅前のターミナルに降り立ち、ドアを閉めた直後、タクシーはまるで海にリリースされた魚のように、何の未練もなく、瞬く間に走り去っていった。後には、不機嫌そうな排気音の残響と、ディーゼルエンジンの鼻をさすような匂いだけが残った。ターミナルにはバスはまだ入っておらず、アスファルトから立ちのぼる熱気が、そろそろゆらめきはじめている。
 まだ朝が早いが、京都駅にはすでに人の姿が多く見られる。とりわけ白いシャツを着たサラリーマンたちの姿が目立つ。と言っても、昨日ここに着いた時と比べると、往来はまばらだ。おびただしい人々が、砂嵐のように入り乱れる光景が昨日はあった。夜明け前の野宮では、昨日からの時間が1年にも感じられたが、こうして京都駅に来た途端、やはりあっという間だったようにも思えてくる。
 僕と奈月は、とりあえず、新幹線のホームに向かって歩いた。彼女のスーツケースのホイールがガラガラと音を立てる。昨日、西明石駅で再会を果たした時に聞いた音と同じはずなのに、今の僕の耳には未練がましく鳴り響く。
 やがて僕たちは地下通路へと入り、京都駅の南口へと進んだ。すると奈月が「先輩」と声をかけてきた。地下通路は全体的に薄暗くてがらんとしている。声は天井に当たって跳ね返ってきた。
「どうした?」と僕が返すと、彼女は「もう、ここでいいです」と言ってきた。
「何を言ってるんだよ、最後までちゃんと見送るよ」と僕は咄嗟に答えた。そう言った後で、見送ることを容認したような気がしてきて、「というより、ほんとうに帰っちゃうのか?」と聞いた。
 すると奈月は前を向いて歩いたまま「私は帰ります」と答えた。
「ちょっと、待ってくれないか」と僕はさっきから何度も言っていることをまた言った。このまま別れてしまえば、後になって大きな後悔だけが残るのは目に見えている。
 だが奈月は、スーツケースをがらがらと転がすだけで、振り向きすらしない。

キラキラ 321

 その時、窓の外には、朝日をふんだんに浴びた京都駅が現れた。駅舎は巨大なミラーボールのように、降り注ぐ朝の光をあらゆる方向にまき散らしている。
「まぶしいですね」と奈月はぽつりとこぼした。
 僕は反射的に、駅の向かいに立つ京都タワーを見上げた。嵐山の工事現場を過ぎた時には先端がかすかに垣間見られるだけだった古くからの京都のシンボルが、いつの間にか、目の前にそびえている。これまで何度か見上げてきた中で、最もまぶしく、そして最も哀しい京都タワーだ。
 タクシーは駅前の赤信号で停車した。運転手がハンドブレーキのレバーを引き上げた後、僕はもう一度奈月の手を握ろうとした。だが、僕が手に力を入れると同時に、奈月は右手をふっと移動させ、忘れたように膝元に置き去りになっていた旅のしおりを手にした。
「捨てるなんて、言わないでくれよ」と僕はしおりを見ながら訴えた。だが彼女は薄ら笑いを浮かべて、首を振るばかりだった。笑顔なのに、今にも泣き出しそうでもある。
「寂しいよ」と僕は、心の真ん中にある言葉をそのまま口にした。
 すると奈月は、窓の外を見ながら、「私だって、寂しいです」と応えた。
「だったら、そんなに急いで帰らなくてもいいじゃないか」
 僕がそう言った時、タクシーは動きだした。そうして、運転手は、素早くウインカーを点滅させた。そのカッチ、カッチ、カッチという無機質な音が、さらに無情の念を駆り立てた。
 奈月はしわくちゃになったしおりを右手に持ちつつ、京都駅の駅舎をまぶしそうに見上げている。その黒い瞳には陽光がちらついている。瞳に映る光は、彼女の過去であり、それから未来でもあるように思われた。もし彼女の未来の光の中に、僕が2度と登場しないのであれば、こんなにも哀しいことはない。生まれて初めて、胸が塞がりそうなほどの苦しさを感じた。

キラキラ 320

 それでも奈月は、僕の手を握り続けてくれている。思いやりに欠けた僕の手をだ。
 僕に染みついたけがれを打ち明けないと済まないような気持ちが、瞬間湯沸かし器のように一気にこみ上げてくる。奈月は僕のことを思ってくれていたというが、じつはそれに値する男なんかじゃないんだときちんと教えてやらないと、彼女のやさしさに傷がつくように思えた。
 すると奈月は、手を握ったまま「先輩」と声を出した。僕は、心につっかかりを残しながら、奈月のやつれた横顔を見た。
「これまで、ほんとうにありがとうございました」
 奈月は突然そう言い、前を向いたまま静かに目を閉じた。その言葉は、寂しかった。僕は喉の奥がたちまち石になってしまったかのような錯覚を感じた。
「ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました」と奈月は続けた。
「どうしたんだ、そんな、他人行儀な」と僕は返した。マイペースな人間がいよいよ窮地に立たされた、そんな軋むような声だった。
 奈月は、瞳を閉じたまま、ゆっくりと首を振った。そうして、唇をわなわなと震わせながら、何かを言おうとした。僕は彼女の唇の隙間からいったいどんな言葉が出てくるのか、固唾を飲んで見守った。
 だが彼女は、結局、何も言わずじまいだった。出てくるべき言葉を飲み込んでしまったのだ。
 僕は、彼女の手を握る力を強くした。すると奈月の方もたしかに握り返してきた。しかし、その力はある所をピークに、それからは、ゆっくり、ゆっくりと、弱くなってゆき、やがて、命を終える瞬間のように、完全に抜けてしまった。そうして最後は、もつれた糸を丁寧にほどくかのように、奈月は指を離した。
 空っぽになった僕の手の中には、奈月のぬくもりの余韻だけが残った。

364日野球のことを考えている監督

 昨日、夏の高校野球の地区予選の1回戦を観戦しました。特に、私のよく知っている監督の高校が出場するということで、心躍らせながら球場へと向かいました。その高校は、山間の小さな学校で、野球部員も13人。高校野球界では無名校です。それでも、監督は人生を賭けて日々指導されています。
 それが、今年はプロのスカウトも注目するような投手が育ちました。監督も自分の子供以上に(と言ったら怒られるかもしれませんが)、手塩にかけて指導されてきた成果が現れたのです。
 ところが、初戦ということもあって、その投手はあまり調子がよくありませんでした。おまけに対戦相手は1,000人規模の伝統校で、応援団の規模がまるで違い、マウンド上では大きな重圧になったはずです。調子が上がりかけた頃には、味方のエラーも目立ちはじめ、当初の予想とは大きくかけ離れるほどの大差がついてしまいました。それでも、最後までチームメイトへの配慮を忘れることなく9回を投げ終え、涙をこらえながら相手高校の校歌を聞く姿は、まぶしくさえ映りました。
 試合後、監督は、自らの采配を責めていらっしゃいました。3年生が3人しかいないチーム事情の中、最後まで腐らずに努力し成長し続けたその投手に、どうしても1勝させてやりたかったと、唇をかみしめられました。
 数年前、ラグビー部の監督をしていた時、私も似たような思いを味わいました。よく、「勝利の女神」といいますが、もしそんなものがいるとしたら、なんと残酷なのだろうと、何度も何度も嘆いたことがあります。どんなに努力しても、どんなドラマがあっても、勝てないこともあるのです。
 私は現在、そんな勝負の世界からは遠ざかっています。でも、だからこそ、監督に同情するところが大きかったのもまた事実です。今回の敗戦で、監督は「気が抜けた」といわれました。でも、彼には明日から、新チーム10人でのシーズンが始まるという現実が待っています。スポーツの指導は好きな人が楽しんでやっていると見られることもあるようですが、実際はそんな生やさしいものではありません。 
 生涯挑戦し続ける監督さんたちのことを、私は心から敬服します。

キラキラ 319

 これまで彼女が1人で抱え込んでいた苦悩の数々が、すべて溶け合い、1つの混沌となって、僕の手の中に染み込んでくるようだった。
 僕の心の中で「ごめんね」という言葉が漏れたのが聞こえた。その時、顔を上げたままの奈月が静かに微笑んだような気がした。
「お父さんの病気や東山との別れよりも他にも苦悩があっただなんて、俺には気づかなかったよ」と僕は心の中で弁明した。それは、弁明と言うよりは、紛れもない本音だった。今でも思う。僕はどこまでもマイペースで、鈍感な男なのだ。
「じつは、ちょうどその頃、俺にも苦悩があったんだ」と僕は、奈月の手を撫でながら、心の中でそう続けた。「あの時俺は危険な恋に落ちていた。もちろん、危険だということは百も承知だった。でも、時間が経つにつれて、危険であることが当たり前のことのようになってしまって、そうなってからは、転がるように墜ちていってしまった。その女性には、地位もお金もある夫がいて、優秀な一人息子もいた。にもかかわらず、そのことすら見えなくなってしまうほど、激しい恋だったんだ。恋をするということは、素敵なことだ。だから、その時の俺には、大きな充足感はあった。でも、今思えば、俺は決して幸せじゃなかった。だって、その人との記憶にはすべて影のベールがかかっているんだ。その人と過ごした時間はまぶしいくらいに甘かった。でも、そこにはすべて暗さがつきまとっている。でも、その時には、まぶしさに目が眩むあまり、暗さには気づかなかった。だから、なぜ俺は、恋をしながらもこんなに苦しいのか、その理由が分からなかったんだ。苦悩の理由が分からない苦悩。奈月が1人で苦しんでいた時、じつはそんな目に見えない壁に直面していたんだ。そのことは、奈月には、これからも秘密にしておく。なぜなら、麻理子にはすべてお見通しだったからだ」
 そんなことを心でつぶやきながら、つくづく自分はマイペースな男だと思い知った。

キラキラ 318

 僕は奈月の手の温かさに違和感を覚えた。なぜ、こんなにも温かいのだろうかと考えるほどだった。もちろん、手自体がぬくもりをもっている。だが、それ以上に、野宮での身体の冷たさとの対比なのだろうとすぐに僕は思った。
 ほんの1時間前、僕たちはまだ夜が明けていない野宮の境内で抱き合い、性交した。その時僕は後ろから彼女の裸をことごとく抱きしめた。汗ばんだ奈月の身体は、冷たく、こわばっていた。その時の感覚は僕の身体にまだはっきりと残っている。それゆえ、今の奈月の手がよけいに温かく感じられるのだ。
 そんなことを思っていると、奈月は握る手にぎゅっと力を入れたり、逆にふっと力を抜いたりしてきた。そのほんの微細な動作は、紛れもなく奈月なりの感情表現だった。それで僕も、彼女の手を包み込むようにして、上からやさしく撫でた。
 奈月は何食わぬ顔をして前を向いたままだ。僕も背筋を伸ばしながら、横目でそんな彼女の様子を気にしている。つまり僕たち2人は、はじめて隣の席になった小学生の男女のような風情で座っている。そうしながら、手だけはしっかりとつなぎ、そこでお互いの感情を交わしている。
 奈月の指は、細い若竹のようでもある。僕はそんな彼女の手に対して、自分の感情が伝わるようにと、心を込めて撫でた。奈月もそれに応えるかのように、僕の指を撫で返したりしてくる。
 その間、僕たちは何も言葉を交わさなかった。運転手がルームミラーを覗いて何度か様子をうかがってきた。おそらく彼は、いきなり黙り込んだ僕たちを怪訝に思ったはずだ。だが僕は、運転手の様子など、もうどうでもよかった。僕が手を握ったり、撫でたりすることに対して、奈月からかすかな、それでいて確かな反応が返ってくるだけで十分すぎるほどだった。
 そのうち、奈月の手のぬくもりからは、様々なものが感じられるようになった。

キラキラ 317

 タクシーは「七条堀川」と記してある交差点の赤信号で止まった。ここからは京都タワーの姿はうかがえない。目の前にある銀行のビルに隠れている。つまり、それほど京都駅に近い所にまで来たわけだ。
 エンジン音は老犬のうなり声のように車内にこもる。運転手は左手で冷房の温度を下げた。
 奈月は「やっぱり、嘘っぽいですね」と自己評価した。僕が彼女の方を見ると、彼女も僕の方を見た。無表情に近い顔だった。おそらく僕も同じような顔をしているだろう。
「本当に大切なことは、言葉では説明できないんです」と奈月はさっき言ったことを反復した。
「でも、言葉は、れっきとした力をもつこともある。でなければ、俺たちはあの大学のあの研究室には入っていないよ」と言った時、本の匂いのする、狭苦しい研究室が思い出された。そこにはジーンズにパーカを着た奈月がシャープペンシル片手に調べ物をしている。
「たしかに、そうですね」と奈月は苦笑いを浮かべた。「言葉の力を否定してしまったら、それは生きることを否定するのと同じことだって、先生はよくそんなことを言っていましたね」
「じつに風変わりな教授だったけどね」
 僕がそう言うと、奈月は目を細めて空間を眺めた。まるでそこに教授の姿が浮かんでいるようだ。その時、運転手がギアを入れて、タクシーは再び動き始めた。奈月は肩の力をふっと抜いて、こう言った。
「とにかく、言葉にするとすべてが嘘っぽくなることがあります。そして今、私が言った先輩への思いも、きっとそのパターンなんです」
 大丈夫だよ、奈月の思いはちゃんと伝わってるから、と僕は返そうとした。だが、その言葉を口から出す直前になって、どうもその言葉も、なんだか薄っぺらいもののような気がしてきた。少なくとも、今の奈月には届かないように思えた。それでも、ただ黙っているよりはましだろうと考えて、つばを飲み込んだ瞬間、奈月の方から、そっと僕の手を握ってきた。
 とても温かい手だった。

キラキラ 316

 ホントウニタイセツナコトッテ、コトバデハセツメイデキナイ・・・
 奈月のその言葉は、僕の心にまっすぐに入ってきた。
「野宮で先輩が質問してきた時、私も、きっちりと答えなきゃって思ってはいたんです。だって、その質問は、私にとってすごく大事なことだったから。でも、最短距離で説明することがなかなか難しくて、というよりは、最短距離で説明しようとすると、きっとうまく伝わらないだろうって自分でも分かったから、ああいう、回りくどい言い方になってしまったんです」
「なるほどね」と僕は言った。「思いがあふれたわけだ」
「分かってもらえましたか?」
 質問の答えのようなものとして僕の頭の中にあるのは、じつは言葉ではなく、抜け殻のようになった奈月のイメージと、彼女のぬくもりだけだ。奈月の身体はやるせないほどに濡れていた。そうして僕は、奈月と1つになったことによって、天国を味わった。僕の精液は、まだ奈月の体内にある。
「思いがあふれたというよりは、言葉があふれたわけだな」と僕は言い直した。奈月はそれについて少し考えた後で、「そうかもしれませんね」と応えた。
「いくら言葉を尽くしても、完全には理解できっこないんです。数学の証明問題みたいに、きれいに納得できないです、人の心って」と奈月は付け足した。
「でも、漠然となら共感することはできる」と僕は言った。
 すると奈月は僕の膝元辺りに視線を落として、「あれほどたくさん話したんですから、少しは分かってもらえたのかもしれません。でも、それも断片的なことだと思いますよ」と返した。
それから彼女は、自分の膝に視線を移して、こう言った。
「つまりは、それほど先輩のことを好きだったということなんです」

キラキラ 315

 彼女は、しおりを伸ばす手をふと止めて、横目でこちらを見た。僕は「もう少し、京都にいよう。まだ話したいことがあるんだ」と心の底から頼んだ。
 その時、ルームミラーに映るタクシーの運転手の目が、一瞬僕の方を見た。だが彼はすぐに視線をフロントガラスの方に戻した。
「野宮に行って、新しい想い出ができて、それで、いろんなことを考えたんだ」
 僕がそう言うと、奈月は「新しい想い出?」と小さく語尾を上げた。
 野宮での奈月のぬくもりが染みついている。もはや奈月は、昨日までの奈月ではなくなっている。このまま別れるなんて、麻酔なしで身を切り刻むのと同じようなことだ。
「これまで気づかなかったことに、たくさん気づいたんだ」と僕は婉曲的に続けた。運転手には僕の言葉が聞こえているに違いない。でも、もうそれはどうでもいいことだ。
「野宮に行って、良かったですか?」と奈月は聞いてきた。僕には、良かったのか、悪かったのか、その判別がすぐにはつかないところがある。それでも、「もちろんだ」と力強く答えた。
「野宮で先輩が質問したことに対して、答えになっていましたかね?」
「質問?」と思わず返した。僕はすぐに、野宮で奈月に投げた2つの質問のことを思い出した。奈月は野宮で僕に何を伝えようとしたのか、それから、どうして奈月は六条御息所の言葉を、あたかも自分の言葉のように語ることができたのか。
「少しでも分かってもらえましたか?」と奈月は再度聞いてきたが、僕にはまだ、分からない部分もある。
 すると奈月は、僕の心に寄り添うように、「たとえば、私が六条御息所の言葉を話した理由なんて、分かるはずもないですよね。だって、正直なところ、私にもうまく言えないんですから。私、思うんですけど、ほんとうに大事なことって、言葉では説明できないんですよ」と言ってきた。

キラキラ 314

 まもなく、窓の外には、朝日をたっぷりと浴びた西本願寺が現れた。絢爛豪華な造りの唐門の近くには、この時間にもかかわらず人の姿が見られる。本堂を見上げると、太陽を反射した屋根瓦が黒い鱗のように輝いている。伽藍全体が、まるで黒くて大きな蛇のような印象を与える。そういえば、昨日ここを通るバスの中で、東山が「京都には迫力がある」と言っていたという話を奈月の口から聞いた。
 あれから半日しか経っていないということが嘘のようだ。それから、隣に腰を埋めているこの女性と、もうすぐ会えなくなってしまうということも、信じられない。
 だが、タイムリミットは刻一刻と近づいている。奈月は本願寺とは反対の風景を眺めている。そこには古くからの商店街があるが、人通りはない。彼女の首筋は、か弱くやつれている。僕は今すぐにでも、彼女を抱きしめたいという衝動に駆られる。せめて、その手に触れたいと思う。だが、どうしてもできない。少し手を伸ばせば届くのに、まるで魔法にかけられたかのように、手が動かない。
 それで、しかたなく、僕はただ彼女の横顔を見た。振り向いて話しかけてくれるのを待ったのだ。だが、奈月の顔も動かない。
 左前方に見えていた京都タワーが、いつの間にか大きくなってきているのに気づいた時、奈月は再び手をトートバッグの中に伸ばした。そうして取り出したのは、ついさっきしわくちゃにしたしおりだった。彼女はしおりに対して申し訳なさそうな顔をして、それを手で優しく伸ばしはじめた。
「何も、捨てることはない」と僕は言った。
 すると奈月は、「これを持って帰るわけにはいかないです」と返した。「今捨てとかないと、一生捨てることができなくなります。それに、佐賀に帰って捨てるんじゃなくて、京都に捨てて帰りたいです」と奈月は続けた。
「奈月」と僕は呼びかけた。今度ばかりは、明確に伝えるべきことがあった。

アスパラガスのおいしさ

 今年から仕事が変わり、生活リズムも変わったために、去年まではできていたのに今年になってできなくなったことがけっこうあります。その中でも、最も大きく変化したのが、余暇の過ごし方です。
 基本的に田舎暮らしの私は、もちろん都市にも惹かれるのですが、やはりスローライフといいますか、自然とふれあうことによって癒されるようです。で、もっぱら休日には釣りをしたり、あるいは小さな家庭菜園で夏野菜を育てたりするのを楽しんでいました。特に野菜作りの方は、完全にオーガニックにこだわって、肥料まで自分で作るほど。といっても、生ゴミを堆肥にするだけの話なんですけどね。
 それが、今年に入り、休日に自由な時間をとるのが難しくなってきました。それでも、野菜の栽培を研究する知人から、今年も夏野菜の苗をたくさん購入したので、寸暇を惜しんで、トマト、キュウリ、パプリカ、オクラ、それに紫アスパラガスなんかを育てています。
 そうやって、自分で作った野菜を食べていると、いろんなことに気づきます。
 今栽培している夏野菜は、まさに今が旬。梅雨の雨をしっかりと吸い込んで、ぐんぐんと実っています。で、その野菜の研究家に聞いたところ、夏野菜には汗をかいて不足しがちなミネラル分が多く含まれていたり、体温を下げる効果もあるそうです。逆に、冬野菜、たとえば、大根や白菜などには、身体を温める効果があるそうです。
 よくよく考えると、魚もそうですね。たとえば、夏の魚の代表であるアジは、煮て食べるよりも新鮮なまま刺身にして食べる方が断然おいしい。逆に、冬の魚であるメバルやアンコウは、もちろん刺身にしてもおいしいですが、やっぱり鍋がいいですね。
 そう考えると、「旬」とは、人間の生活リズムにぴったりと対応していると言えそうですね。旬のものを食べることによって、そのエネルギーをもらって、日本の四季を生きるのに適した身体になってゆくわけです。なんだか、神秘的な話です。
 この世の命はすべてつながっているんじゃないかと、土をいじくりながらそんなことを考えるのです。

キラキラ 313

 すでにくたびれていたしおりは、さらに奈月の手によって、何の主体性も持たない雑巾のようになってしまった。東山がパソコンで作成した「『源氏物語』を巡る旅」という元気のいいゴシックの文字が無残にもゆがんでいる。それから、かなりの時間と労力をかけて制作したと見られる多くのページも無造作にめくれあがった。そういえば、奈月も制作を手伝ったということだった。
 危険な恋に落ちてしまい都にいることができなくなってしまった光源氏は、自ら須磨へと下った。そこは古くから、貴族たちにとっての流離の地だった。哀感を背負う海女たちが、海藻を浜辺に打ち上げ、焼き塩を作る。塩水が垂れ、投げ木がされた火はめらめらと燃え上がる。それが須磨の風景だ。
 だが、須磨を越えたところにある明石には、そのような哀情は感じられない。日差しが燦々と照りつけ、街は賑わっている。光源氏は、明石の君という女性と出会い、再び都へと戻る運気と活力を得ることができた。
 その一方で、流離によって、妻である紫の上は都で1人待ち続け、そして六条御息所は物語から退出させられることにもなった。新たな出会いは、古いものとの別れを必然的にもたらした。消滅と再生。東山はそんなことをこのしおりの中に書いていた。
 僕と奈月は、このしおりを頼りに、須磨と明石を歩いた。『源氏物語』の旋律に乗って、僕たちは2人だけの旅を続けた。
「なにも、捨てなくてもいい。もしよかったら、僕がもらっとくよ」と僕はしおりを見ながら言った。だが彼女は、「京都駅に、捨てて帰ります」と言い、それを白いトートバッグに収めた。
 奈月は目を閉じたたまま薄く微笑んでいる。
 それから僕たちには、沈黙が訪れた。タクシーは信号での停車と発車を繰り返しながらも、徐々に京都駅に近づいている。遠くを見ると、左手には、陽光を受けた京都タワーの先端が、ちらほらと見え隠れしている。

キラキラ 312

 工事中のエリアを過ぎると、道幅も徐々に広くなってきた。どうやら嵐山の街を抜けたらしい。陽光は風景をよりくっきりと照らし出している。長かった夜を抜けて、新しい1日が始まろうとしている。
 さっきまで不機嫌そうにこもっていたタクシーのエンジン音も、速度が上がるにつれて機嫌を取り戻していくようだ。そのことが、僕にとっては、つらかった。
 奈月は僕にだけ聞こえる声の大きさでこう言ってきた。
「旅って、なんだか、生きることに似てますね」
 依然として彼女は、ぼんやりとした視線を車内に投げている。
「始まりは、終わりなんです。もし始まりがなかったら、終わりもない。だから、悩んだり、心をかき乱されたりするようなことはない。でも、私の人生はとっくの昔に始まってる。だから、そのうち終わりが来るんです。たぶん、終わってしまったら、すべてが無になっちゃうんでしょうね。その時になれば、何も悩まずにすむ。でも、生きている今は、そうなることがすごく怖い。頭がおかしくなっちゃいそうなほど怖いです」
「だからこそ、今を精一杯生きるんだ」と僕は言った。
 だが奈月には、僕の言葉は聞こえていない。
「大好きな人たちに囲まれてずっと生きていきたいって思うのは、怖いからなんです」 
 タクシーは「四条通」と書いてある通にさしかかった。ここまで来ると交通量も増え、軒先には人の姿がちらほらと見られるようになっている。
「この旅も終わりです」と奈月はやさしく瞳を閉じてため息混じりにこぼした。「これから、がんばって生きていかないといけません」
 彼女はそう言い、手に持ったしおりをぎゅっと握りしめた。

キラキラ 311

 奈月は、薄っぺらなシートに深くもたれながら、車内の空間上における任意の1点のみをぼんやりと見つめている。そこに舞う微細な埃でも追いかけるように。
 僕も奈月に倣ってシートに深く腰かけると、この旅におけるさまざまな場面が、次々と浮かび上がってくる。僕は思わず、昨日奈月がくれたうちわに描かれたバルーンを連想した。色とりどりの熱気球が空に向かって次々と舞い上がってゆくように、昨日からの風景が思い浮かぶ。須磨、明石、そして京都。思えばずいぶんと長い旅だったように感じられる。
 それで僕は、足下のリュックからうちわを取り出そうとした。ところが、いくら探しても見つからない。ひょっとして、ホテルの部屋に忘れてしまったのかもしれない。
「奈月は、昨日、旅が始まったら寂しくなるって言ってたな」
 部屋に置き去りになったうちわがどんどん遠ざかってゆくように感じながら、僕はそう言った。あれを見つけた清掃係はどう思うだろう。何も考えずに無造作にゴミ袋に放り込むかもしれない。そう考えると、寂しいのは、僕の方かもしれなかった。
 すると奈月は、「始まりは、終わりでもありますからね」と抑揚なく返してきた。その後で、「完全に終わってしまったら、楽になるんですかね。諦めがついて、想い出に変わるんでしょうかね」と僕が昨日奈月に向けて話した経験則を、ここで僕に投げかけてきた。
「すべては、想い出に変わるんです。そうして、哀しみとか喜びとか、そんな心をかき乱すような感情が取れて、自然な落ち着いた気持ちになれるんです。でも、そこまでいくには、時間がかかる」
 奈月は自問自答するかのようにそうつぶやいた。「奈月」と僕はまた、次に言うべき言葉を持たぬまま彼女の名前を呼んだ。だが彼女は、そんな僕の声さえ聞こえないかのように、「でも、一生かけても想い出として、心に落ち着かないこともあるかもしれません」とつぶやいた。僕は、さらに寂しくなった。

キラキラ 310

 その後で奈月は、にわかに哀しげな表情を浮かべた。タクシーの車内には、エアコンの吹き出し口から出る冷房の音が断続的に響き、車外からは、不機嫌そうなディーゼルエンジンの音が聞こえる。
「先輩も、東京で頑張ってるだろうなって、何度も思いました。このしおりを見て」
 奈月がそう続けた後、彼女の表情はさらに哀しくなった。おそらく、タクシーの運転手がいなければ泣いていだたろう。とはいえ、運転手の方も、おし黙っている。後部座席の空気を読んでいるようだ。
「奈月」と僕は呼びかけた。すると彼女は、次に出てくる僕の言葉を塞ぐかのように、口を開いてきた。
「でも、もう、このしおりはいらないです。捨てて帰ります」
 僕は奈月の横顔を見た。そこからは、たとえば軽はずみでそんなことを言ったとは決して思えない深刻さがありありと見て取れた。
「そんなことを言わなくてもいい」と僕は、できるだけ感情を抑えながらも、思いをそのまま口にした。そのうえで「そのしおりには、大切な想い出がたくさん詰まっている」と続けた。
 すると奈月は意外にも「そうです。大切な想い出なんです」とあっさり返してきた。その勢いで次の言葉が出てくるかと待っていると、一転して何も言わない。僕たちはいつのまにかちぐはぐな関係になっている。もちろん僕は、奈月に何か言ってほしかった。サーブ権は、あくまで奈月の方にある。
 その時、運転手がギアを入れ、タクシーは工事中の道を、まるで眠りから覚めた老犬のようにがたがたと進み始めた。その振動が奈月を刺激したのか、彼女はここで「長い1日でしたね」と話の矛先をそらした。
 僕はまた彼女の横顔を見た。哀しげだったその顔は、少しさっぱりしているようだった。今のわずかな間に、過去を諦めたのかもしれない。そんな横顔を見ると、僕の方が哀しくなってきた。
「普通、楽しいことって、早いはずなのに、この1日は、ほんとうに長かった」
 奈月は、笑みさえ浮かべながらそう述懐した。

キラキラ 309

 その時、奈月は、ふと思い出したかのように、自分の白いトートバッグの中に手を入れた。彼女の細い手がいったい何を取り出すのだろうかと注視していると、出てきたのは、東山が作った旅行のしおりだった。それは、驚くほどにくたびれて、しわくちゃになってしまっていた。
「昨日はまだ新しい感じだったけどな」としおりを見ながら率直なところを述べると、奈月は「そうでしたかね」と、どこかとぼけたかのように返しつつ、まるで、自分で焼いた器でも眺めるかのような、いとおしげな視線をしおりに向けた。
「この旅で、何度も引っ張り出して読んだからな」と僕は言いながらも、たった1日でこんなにも古めかしくなるものだろうかと不思議に思いもした。
「これまで、つらいこととか、独りぼっちになった時には、このしおりを見て、いろんなことを思い出して、それで何とか頑張ってきたんです」と奈月はしみじみと回想した。「教員試験にチャレンジしている時も、これを見ると、やる気が出てきたものです。旅行に行ったみんなも頑張ってるんだから、私だけ弱音を吐くわけにはいかないって」
「奈月は、十分頑張ってきたよ」
 そう言った直後に、この旅の中で奈月が話してくれたことが思い出された。東山のこと、麻理子とのこと、お父さんの病気、それから、僕のこと。彼女はこれまで必死で生きてきた。弱音など吐かずに。
 だが奈月は僕からのねぎらいに応えることなく、やはり薄く笑いながら、しおりに目を落としている。
 すると、タクシーは車折神社の前で止まった。そういえば、ここは昨日バスで来る時に、工事中だった地点だ。今はまだ朝が早いということで、簡易式の信号機が建てられているだけだ。赤信号の下には待ち時間がデジタル表示されている。そこには赤い文字で「1:39」とあり、そこから1秒ずつ減っている。
「このしおりは、私が私らしくあるための、よりどころみたいなものでした」と奈月はつぶやいた。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

最新の文章
リンク
みなさまの声
カレンダー
06 | 2014/07 | 08
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
目次
月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。